2005年8月10日水曜日

上越線湯檜曽ループを眺める

  
 勾配緩和を目的としたループ線は、今ではトンネル掘削技術が飛躍的に向上したために原則として必要がなくなってしまったが、車窓風景を楽しもうとする私のような者にとっては少々残念なことである。
 鉄道を愛好する者の多くは新技術に少なからず憧憬の念を持つものであり、世界一の青函トンネル完成などという歴史的事件には舞い上がるほどの興奮を覚えるものだが、実際にトンネル通過が楽しいという人はあまりいないのではないか。心の底では、青函連絡船で津軽海峡の眺めを堪能しながら北海道上陸を果たしていた頃を懐かしく思っているものである。
 湯桧曽と土合間の清水トンネルが出来た1931年から4年後、川端康成が上越線を使って越後湯沢を訪れ、温泉旅館「高半」に滞在しながら「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」と書き始めたときのトンネルとは、大清水でもなく、新清水でもなく、今回訪れている清水トンネルだった。湯桧曽側と土合側に二つのループトンネルを穿ち、徐々に高度を稼いで出来るだけ国境のトンネルを短くしたのである。清水トンネルを抜けるとまだ高度の高い人里離れた土合の信号所では「夜の底が白」かった。そこから少しずつ高度を下げて湯沢の町に向かったということだろう。現在新幹線が行き来する大清水トンネルだったら、「国境のトンネルを抜けると越後湯沢駅であった」と少々味気ない。
 景色を楽しみたい旅人には、大清水ではなく清水トンネルを通って雪国に向かいたいところであるが、残念ながら現在は上り線群馬方面に使われているだけである。しかも、かつては関東と新潟を結ぶ大動脈だった上越線も、新幹線開業以来めっきり寂しくなってしまい、L特急ときや急行佐渡が行き来したこのループ線から昼間の優等列車は姿を消し、日中の定期列車はわずか5本の普通列車を残すのみとなった。ただ、考えようによっては昔の風情を取り戻したと言えなくもない。(2005/8乗車)