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2017年8月22日火曜日

最果ての駅 九州編

南の果て


 北の最果て稚内から3068.4㎞、線路で結ばれた駅としては日本最南端の西大山にやって来た。開聞岳が間近に迫る風光明媚な無人駅だ。鹿児島中央から列車に乗った際は生憎の雨模様だったが、この駅に降り立つ頃には雨も止んで、開聞岳の裾野が姿をあらわしていた。駅の周辺はヒマワリ畑と一軒の土産物屋。朝が早いためか、店は閉まっているし、曇天のためか、ヒマワリはあちらこちらを向いて絵にならない。次の上りで一旦指宿まで戻ってみようと思う。

 ホームにはお約束通り、この駅の特徴を記したボードが設置されている。最北端の稚内と最東端の東根室は当然のこと、ここでは最西端として佐世保が示されていた。なるほど、西大山を本州最南端としてしまうと、最西端は松浦鉄道たびら平戸口としなければならなくなってしまう。JRとしては佐世保が西の端。だから西大山はJR最南端の駅なのだ。納得。

 指宿で砂蒸し風呂を楽しんだ後、4時間後にもう一度西大山に立ち寄る。だいぶ天気も回復し色鮮やかな風景になってきたが、太陽が移動して列車は逆光、恥ずかしがり屋の開聞岳は山頂が隠れたまま。わずかな停車時間の間に急いで写したのが左の一枚。日本最南端の駅の上にJRとあるのがミソである。

 再び車上の人となって終点を目指す。天気はどんどん回復したが、この先も開聞岳はついに山頂を見せてはくれなかった。残念だが、これでもう一度訪れる言い訳(誰への? 無論私の道楽を見て見ぬふりをしている人だが…)が出来た。

 揺られることおよそ50分、枕崎は真夏の太陽の真っ直中にあった。湿度はそれほどでもないが、とにかく日差しが強い。二ヶ月前に訪れた愁いに沈んむ稚内とは大違いだ。「さあ、昼食は鰹料理と生ビールだ!」と弾む思いで改札口を出ると、コジャレたプレートが下がっている。


「本土最南端の始発・終着駅」。稚内までは3099.5㎞。そういえば、枕崎と稚内は友好都市だった。稚内のホームにも同じような掲示があったなあと思い出す。二つの町は始発・終着駅で結ばれている。そのうち、青春18切符を使って両駅の間を旅してみたいと思う。どちらを始発駅にするにしても、ここに来るまでが大変で、終わった後が一苦労だなあと、愛好家としては嬉しい悲鳴をあげるばかりだった。
稚内駅の掲示(2017/6/28撮影)
(2017/8/22乗車)






もう一つの南の果て


 こんなところにも果てがあった。この視点で考えたことがなかったので、予想外のことに思わず笑ってしまい、嬉しくなった。鹿児島市電の谷山停留所である。洒落た駅舎の入口中央に、「日本最南端の電停」という立派な碑が建っている。

 なるほど、たしかにそうだよなと思うと同時に、それならば最北端は札幌だけれども、あの街は東西南北に碁盤の目のように広がっているから、該当する電停は一つではないぞ、いくつあるんだろうとワクワクしながらスマホでグーグルマップを開いてみる。


 そこで改めて知ったのだが、札幌の街はちょっと傾いているのだ。どうでもいいようなことだが、ざっと測ってみると10度ほど街全体が反時計回りに回転している。「へえっ、知らなかった!」と、知っていたからといってどうでもいいことに妙に感心しつつ、それならば最北端の電停はめでたく一つに決定! 最近環状運転が始まり終着駅ではなくなって風景が一変したが、大通に最も近く、十字路の角に三越のある繁華街、西四丁目こそが、栄誉ある日本最北端の電停である。
札幌市電 西四丁目電停
(2017/7/1撮影)

 地下鉄と接続する電停として、終日賑わう西四丁目だが、あそこを利用する人達に「日本最北端」だというプライド(?)はあるのだろうか。少なくともこの間訪れた際には谷山にあるような立派な碑は建っていなかったと思うけれども、充分に調べ歩いたわけではない。やはり確認に行かなければならないかなあと、愛好家としてはいくらお金があっても足りないなとため息が出るばかりだった。

(2017/8/23乗車)

2017年6月28日水曜日

最果ての駅 北海道編

 「最果て」ということばにはメランコリックな響きがある。どうして自分はこんな憂鬱な響きに心を奪われてしまうのだろう。たとえ人からは根暗と思われようが、憧れにも似た思いで心が騒ぐのはとめようがない。それこそなんの用もないが、ただそれを確かめるためだけに出掛けてしまうのだ。

北の果て

稚内駅は函館駅同様に大きな
ガラス越しに到着した列車を
眺めることが出来る。   

 北の最果て、稚内を訪れるのは4度目になる。今回は宗谷岬にもノシャップ岬にも礼文利尻にも足を伸ばすつもりはない。ただ車止めが新しくなったのを確認するためだけに、夕方着いて翌朝早くここを立つ。
 特急サロベツを降り、1番線しかなくなってしまったホームを歩いていくと、真新しくなった4代目の駅舎が迎えてくれる。改札を抜ければ、最果てとは思えないほどの綺麗なロビーからは日本最北端の線路を見渡すことが出来るようになっていた。列車から降りた観光客が一斉にカメラを向ける。「ついにここまでやってきたのだなあ」という思いを多くの人が実感した瞬間だろう。
 宗谷本線(と言っても今では支線ひとつないが、宗谷線では気分が出ないのか、時刻表にもそう記されている)は、旭川・稚内間259.4㎞、特急で約3時間40分の距離。平成27年にJR北海道が発表した「当社単独では維持することが困難な線区について」では、名寄以北がそれに該当すると指摘され、将来が危ぶまれる線区であり、まさにメランコリックな鉄道なのだが、それだけに旅人には趣深い素晴らしい路線だ。特に音威子府(おといねっぷ)以北の130㎞区間は、悠久の時を刻みながら流れる天塩川に寄り添って進み、その先は寒々としたサロベツ原野を突っ切り、最後は天気に恵まれれば日本海に浮かぶ利尻富士が堪能できるという絶景路線だ。今日は生憎の天候で利尻富士は拝めず、稚内手前の、背の高い木すら生えていない荒涼とした北の大地は寒々としていた。
 一つしかないホームの柱には、主だったところへの営業キロが掲げてある。札幌駅より396.2㎞、函館駅より703.3㎞、東京駅より1,547.9㎞、西大山駅より3,068.4㎞、枕崎駅より3,099.5㎞。道内だけでも700㎞、これは東京駅から岡山県の和気駅にほぼ相当する。西大山駅とは鉄道好きなら誰もが知る「JRで最南端」に位置する鹿児島県の駅である。沖縄にゆいレールが開業してからJRという条件付きの最南端となった。ゆいレール開業当初、「日本最南端」という表記を返上しなかったため、「沖縄は日本ではないのか」と険悪な雰囲気が流れた。ゆいレールはモノレールなので、鹿児島県では気にしなかったのかもしれない。勿論この乗り尽くしの旅でもモノレールは歴とした鉄道であるから「JR最南端」が正しい。それでも同じJRとしてこだわりがあるのだろう、「最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。」と西大山駅を持ち上げた掲示が車止めにあり、またホームには「北と南の始発・終着駅」として稚内と枕崎が友好都市締結をおこなったことが記されていた。最果て同士の友好で、少しでも盛り上がりたいということだろうか。
車止めが粋なモニュメント。
それにしても道の駅は駅だった!
建物左の横断幕にも注目。   

 稚内にはここ以外にも最果てのシンボル、車止めがある。平成23年に現在の位置に新駅舎が移った際、駅前広場を整備するために若干南に移動した。そこでかつての終着点にモニュメントとして車止めを市が設置したのである。それは現在の線路を真っ直ぐ延長したところにあり、ご丁寧にもロビーの床にもかつて線路があった部分が分かるようになっている。昔を知るものにとっては、市の粋な計らいが嬉しくなる。ただ、こちらまで見学に来る人はだれもいなかった。
土木遺産・北海道遺産に選定
されている北防波堤ドーム 

 樺太が日本領だった戦前までは、稚泊航路という鉄道連絡船が就航したために線路は更に北数百㍍に位置する北防波堤ドームまで延びていた。そこには車止めが残されているわけではないが、古代ギリシャのエンタシスを彷彿とさせる柱に支えられた見事な防波堤が残っていて、稚内の観光スポットの一つとして人気がある。
(2017/6/28)

東の果て

 日本最東端の駅は、終点根室の一つ手前の無人駅「東根室」である。ぜひここに降りてみたかったので、通過してしまう快速ノサップで一旦終点の根室まで行き、折り返しの各駅停車で戻ってくることにした。
釧路方面は上り6本すべてが
停車する。       

 通過の際、列車の後方窓から見てみると、鉄道ファンが一人ホームで写真を撮っている。10数分後に戻ったときは私と入れ違いに釧路に向かうのかなと思ったが、いざ降りてみるとその姿はなかった。そのかわりにヘルメットを被ったライダーがカメラを向けて去って行った。
 「みんな好きだなあ」と自分のことは棚に上げて思う。常に自分だけは例外なのだから我ながら勝手である。列車から降りるとすぐにホームの端に寄り、写真を撮る。カーブの途中にある駅なので、列車は内側に傾いていて、ホームも弓なりになっている。あたりは閑散としているが根室市郊外の住宅地である。
草の向こうに  
住宅街(?)がある。

 根室市中心街は太平洋側ではなく北側の根室湾沿いに位置している。ひたすら東を目指す根室本線は、根室市の南側から台地の上を地形に逆らうことなく回り込んで終点根室に到着するため、路線が東側に膨らんでおり、そのちょうど東のピークに位置するためにここが最東端の駅となった。ものの本によってはアジア最東端の駅と記したものすらある。なるほど、我が日ノ本は日出づる国であるから当然のことのことだ。
 それにしてもタイトルがなければだれも注目することのない無人駅だ。終点までわずか1.5㎞。列車本数は上りが6本、下りが5本。地元の人だって利用しているかどうか怪しい。ホームには質素な表示が立っているが、駅前には結構立派な碑が立っている。記念撮影に車で訪れる人のためと思われる。
この掲示は修正されることが
望ましい。        
ここからは徒歩で根室駅に戻る。

日本最東端のタイトルを奪われている根室駅にも意地があるのだろう。ホーム外れにある表示板に「日本最東端有人の駅」と書かれているのを見たときは、思わず笑ってしまった。右下に小さく最西端は佐世保駅と記されているが、これはJRに限ってのことで、いまだに国鉄時代の役人根性が抜けていないと思われる。ゆいレールの沖縄空港駅に対して失礼だし、旧国鉄の松浦線、現在の松浦鉄道たびら平戸口が本州最西端であり、なおかつ有人駅だ。
晴れた根室は初めてで、爽やかな
初夏の風が吹いていた。    

 根室駅としては、余程悔しいのだろう。駅入口には「朝日に一番近い街!」というコピーもあった。きちんと整備された綺麗で小さな駅舎は、昔ながらの北海道らしさを宿していて好感が持てる。
 それにしても終着駅である根室駅が最果ての駅であることには変わりはない。ホームの先100㍍の程のところには車止めが見える。機関車が客車を付け替えるための機回り線が延びているのだ。今では1両の気動車しかやって来ない根室駅だが、昔の賑わいが偲ばれる風景だ。
この看板に巡り会えて良かった。

その車止めまで行ってみる。
 こちらの看板に偽りはなかった。「根室本線終点」左へ行けばオホーツク海、右は太平洋。滝川駅から444k339m。1行あけて、札幌駅まで484k076m。東京駅まで1,607k576m。やたらと細かい数字はともかくも、ここでの「から」と「まで」は重要だ。根室本線は滝川を起点として終点が根室であるということ。1行あけてあるのは次の数字が参考の数値だからで、ここを起点とした札幌や東京までのものである。根室の人が抱く辺境の思いが伝わってくる。それにしても1,607㎞は、稚内よりもほぼ60㎞程東京が遠いということだ。まさに北の大地の最果ての駅は根室であった。コロボックルが棲むという蕗の葉っぱに囲まれて、正直な看板はひっそりと立っていた。
(2017/6/30)

 

2016年12月28日水曜日

給水塔とタブレット

運転再開を果たした名松線

 今年の3月、およそ6年半ぶりに名松線が全面復旧した。旧国鉄の赤字ローカル線として第2次廃止対象路線に選ばれながら、代替道路が未整備だったために一旦は廃止を逃れたものの、2009年の台風18号によって数十箇所で土砂崩れや路盤流失が起こり、家城・伊勢奥津間が運行停止になっていた。地元住民や自治体の粘り強い努力が、JRを動かしたといえる。喜ばしい限りだ。ぜひとも乗らなければならない。一度乗ったからと言って、地元経済には雀の涙ほどにも利益を落とせないが、思いだけは伝えることができるだろう。

 紀勢本線の松阪を起点とする名松線。松が世界ブランド「松阪牛」の松阪であることは誰にでもわかるだろう。それでは名は? 名古屋のはずもなく、答えられる人は地元の方以外は少ないのではないか。正解は名張、近鉄大阪線の特急停車駅だ。近鉄が松阪と名張をすでに結んでしまっているので、名松線を完成させる意義は全くなくなってしまった。廃止対象となったのも仕方ないことだったのである。
 今回復旧した家城・伊勢奥津間は美杉町という名からもわかるように、杉の美林が自慢の土地だ。当然産業の中心は林業である。伊勢八知駅のそばには大きな貯木場があるが、それを鉄道が輸送することはない。手間の掛かる貨物輸送を鉄道がやめてしまった結果、地域の鉄道そのものも役目を終えてしまったのだ。
長いホームも今は無用となった

 山のあちこちには伐採され、植林前の禿げ山のように見えるところもある。急斜面だから豪雨の際は深刻な土砂崩れも多いことが伺える。雲出川の川原には、大きな石がゴロゴロしていて、穏やかな今日は景色を楽しむことができるが、一旦雨が降り出すと濁流となることが手に取るようにわかる。そうこうするうちに終点の伊勢奥津に到着する。最後まで乗車してきたのはわずか3名だった。
現在貯水タンクは
興津駅のシンボル

 終着駅の伊勢奥津には今でも蒸気機関車時代の貯水タンクが残っている。かつてはここで機関車の付け替えが行われ、多くの木材が運び出されたことだろう。住民センターと兼用の駅舎や隣接する観光案内施設は、杉をふんだんに使った瀟洒な建物だ。案内所を訪ねると、お茶でもてなしてくれた。1日の乗客が30人に満たない伊勢奥津だから、旅行者は大歓迎なのだろう。お返しに素朴な饅頭と名松線グッズのメモ帳を購入した。案内所内には、貯水タンクをモチーフとした水彩画が飾られていて、その絵葉書も売られていた。

 折り返しの松阪行に乗り込み、列車が出発をすると、先程お茶をご馳走してくれた人達が駅舎の窓から旗を振って見送ってくれている。「また来てね」と書かれているが、残念ながらまた来ることはないだろうなと思う。全国を廻ろうとしている鉄路の旅人は、その土地の経済には何の役にも立たない。申し訳ないと思う。

 家城まで戻ってきた。ここで列車は交換する。名松線は全線単線であり、本数も少ないことから自動信号機が使われているわけではない。今では全国でも珍しくなったタブレット(通票)の交換が行われる。
交換する下り列車が到着

 まず伊勢奥津からの上り列車が到着する。駅員はスタフの入ったキャリアを運転手から受け取る。家城・伊勢奥津間は1列車しか入ることができないので、その通行許可証がスタフとよばれるものである。これは当然1つしか存在せず、下り列車が到着すれば渡される。
駅員が通票の入ったキャリアを
運んでいる         

 下り列車が到着すると、通票を受け取る。家城・松阪間では、たとえば上り列車を待つことなく下り列車が2本続けて運転されることもある。その場合、一つしかないスタフでは対応できない。一区間には一つの通票しかないので、先行する列車に通券とよばれるものをまず持たせ、後続が通票を持つようにする。通券は通票がなければ開かない箱にしまっておくというように、厳重に管理される。なお、続行させない場合は通票をそのまま使えばよい。少々わかりにくいが、単線で列車を衝突させない前時代的な仕組みである。
通票を受け取って
出発進行    

 只見線が自動信号式になり、通票閉塞式の鉄道がだいぶ珍しくなった。この方式を採る限り、交換のために有人駅が必要となるので、設備投資か人件費節約かの選択が迫られることになる。列車本数が多くなれば自動信号機の設備投資するだろうし、乗客が減れば人件費負担が厳しくなる。いずれにせよ消えていく方式であることに間違いないが、鉄道愛好家にとっては実に興味深い単線鉄道の儀式なのである。
(2016/12/28乗車)

 

東海道線 もう一つの終着駅

大垣界隈

 鉄道ファンにとって大垣は聖地のひとつ。誰だって大垣夜行に一度は乗ったことがあるに違いない。それでも多くの人はドアが開いた瞬間にホームに飛び出し、乗り継ぎの西明石行きの席を取ろうと、一目散に階段を駆け上がるばかりで、大垣そのものを目的に旅した人は少ないに違いない。俳聖芭蕉が『奥の細道』で大垣を終着点としたあと、すぐに伊勢へ旅立ったように、旅の終わりは旅の始まりを地でいくような通過駅の一つなのだ。
 ところがどっこい、この駅に集まる鉄道にはなかなか趣深いものがある。国鉄旧樽見線から引き継がれた樽見鉄道、近鉄から分社化された養老鉄道という風に、過疎化の影響で廃線の憂き目にあいそうな、だからこそ味わい深い鉄道のターミナルになっている。
 東海道線を岐阜方面から大垣を目指すと、車窓右側には美しい伊吹山地の山々が次第に迫ってきて、揖斐川橋梁を渡る頃には景色が大きく開け、何連も連なる見事なトラス橋が見えてくる。樽見鉄道である。さすが旧国鉄路線だけのことはあり、堂々とした橋梁はとても廃線の危機にあるとは思えないほどだ。それもそのはず、この鉄橋は明治時代に造られた御殿場線で使われていたものを移築したものだそうだ。乗りたくなること請け合いである。
 もっとも今回の旅の目的はそこではない。もう一つの路線、といっても現在もJR東海に所属する路線がある。名前は…東海道線、通称「美濃赤坂線」という枝線である。乗り尽くしファンにとっては、ここはなかなか訪れ難く、東海道線完乗を果たせない原因となっている。漸くこの地を訪れる機会がやってきた。

 雪の多い関ヶ原に近いだけあって、早朝の大垣駅は底冷えがする。12月末の美濃地方は6時半近くになっても辺りは真っ暗だ。美濃赤坂線は駅の片隅にある切り欠き式の3番線から出発する。ホームを歩いていくと待合室の向こう側に、すでにJR東海の主力313系2両編成が停まっていた。1日20本に満たない閑散路線だが、優良鉄道会社だけに車両は立派だ。6時29分の始発電車には、地元の人とおそらく鉄道マニアの数名しか乗っていない。
 ワンマンカーの車内アナウンスが終わると電車は大垣駅を出発し、真っ暗闇の中を疾走する。広い車両区を突き抜けているはずだが、明るい車内の光に邪魔されて外がよく見えない。もう本線とは分岐したのだろうか。それにしても支線を走るのとは異なって揺れが少ないから、まだ本線なのだろうか、そんな筈はないのにと思ったところで、電車は徐行する。しばらくすると高速で貨物列車がすれ違っていった。走り出してすぐ、中間の荒尾駅に到着する。予想外に貨物列車が走るような支線だったのだと思った。場内直前にポイントがあり、単線となって荒尾駅に到着した。

石灰岩輸送で生き残った駅

 東の空が白んでいる。天気は良いようだ。こんな時間の下り電車からは、降りる人も乗ってくる人もいなかった。あと一駅。ここからは急に電車が揺れだした。支線ならではの、お馴染みの揺れだ。大垣を出てわずか6分で終点美濃赤坂に到着した。
古い駅舎に新しい312系電車

 夜明けは急速に訪れる。鉄道マニア達は、下車すると慌ただしく駅舎の写真撮影を終わらせて、再び車上の人となった。折り返し6時39分発大垣行き。わずか4分の滞在時間である。私は次の電車を待つ。木造の駅舎には改札もなく無人駅の筈なのだが、事務室には蛍光灯が灯っていて誰かいる気配だ。しかし誰も出ては来なかった。
 古くからある終着駅にはどこか哀愁が漂っている。このなんとも黄昏れた雰囲気が好きで、しばらくここにいたいと思うのである。駅舎をでて車止めのところまで歩いていき、折り返し電車を見送る。
停まっている貨物の向こうに 
屋根付きの貨物ホームが見える

 美濃赤坂駅は、巨大な廃墟のような、とても広い構内を持つ駅だった。何本もの、果たして使われているんだろうかと思わせるような引き込み線があり、貨物用と思われる建物付ホームや放置された貨物車がある。

 はたしてここはいったいどんなところなのか。駅舎の壁に石灰岩輸送の説明があり、ようやく納得がいった。資源小国日本にとって数少ない自給率100%を誇る石灰岩が、この先にある金生山で採れ、そこまで貨物専用の西濃鉄道の線路が続いているのだ。つまり美濃赤坂は、西濃鉄道とJR貨物の接点であり、線路はJR東海の管轄となっている。さらに駅はJR東海にとっては無人駅で、西濃鉄道が事務所として使っているという。これで無人駅に人がいる謎も氷解した。
東の外れに非電化の
西濃鉄道線が北に向
かって続いてる。 

 かつてはここから大垣夜行が出発・到着した時代もあったという。西濃鉄道も戦時中までは旅客扱いをしていたそうだ。しかし今は1日の乗降客が300人台のローカル駅となり、日に20本に満たない数の電車が大垣駅との間を往復するに過ぎない。

 7時01分発の2番電車が回送でやって来た。通勤通学で賑わう7時台には3本設定されている。いつの間にか通勤客が集まっていた。ドアが開き、全員クロスシートに収まり、大垣向けて出発する。
開扉を待つ通勤客

 電車はガタピシ揺れながら真っ直ぐなレールの上を走っていく。左にカーブし始めた途中に荒尾駅はあった。2両では持て余すような長いホームは、同じ曲率で綺麗に曲がっている。ここでも10人ほどの通勤客が乗ってきた。全員シートに座っても、まだ余裕は十分ある。立っているのは運転席後ろで車窓を楽しんでいる私だけだ。
 眩しく朝陽が降り注ぐ中を電車は複線線路に近づいて行った。その時初めてわかったことがある。荒尾駅は東海道本線のすぐ脇に設置されていたのだ。往路は真っ暗でわからなかったが、あのすれ違ったの貨物は、本線を行くコンテナ列車だった。こちらが徐行したのは、本線上りを通過する貨物列車を待つためであり、通過後に上り線路を横切って荒尾駅に進入したのだった。
 美濃赤坂線5.0㎞のうち、荒尾・美濃赤坂間はわずか1.6㎞に過ぎない。残り3.4㎞は東海道本線そのものだった。どうりで揺れも少なく爆走していたはずである。暗くて何もわからず、支線だと思い込んでいただけだった。それはともかく、これでようやく東海道線を乗り尽くした。
(2016/12/28乗車)

2015年8月4日火曜日

福井の鉄道 恐竜王国篇

Kingdom of the Dinosaurs FUKUI
えちぜん鉄道勝山行き車窓左手
5㎞遠方に、巨大な卵の形をし
た福井県立恐竜博物館がある。

 恐竜に特別な興味はないけれど、福井の鉄道には前から乗ってみたかった。そこで乗りに行ってみたら、行く先々で恐竜が待っていた。なんと福井駅のベンチには恐竜が座っていたりする。昔映画で観た(こちらは怪獣だが)モスラの卵のような巨大な建造物まである。福井の情熱は、同地が日本最大の恐竜化石の産出量を誇るところからくるらしい。日本の恐竜化石の8割は福井県で見つかるという。フクイサウルスという草食恐竜や映画『ジュラシックパーク』にも登場する肉食恐竜のラプトルの仲間、フクイラプトルなどと命名された怖ろしい恐竜も発見された。そんな王国の鉄道を紹介する。

えちぜん鉄道勝山永平寺線

 古くからの鉄道愛好家であれば京福電鉄越前本線と言った方がなじみがあるかもしれない。京福電鉄の名前は、今では京都嵐山や比叡山のケーブルカーなどでしか見ることができないが、出町柳と鞍馬や八瀬を結ぶ叡山電鉄もかつては京福電鉄だった。そもそも京都の鉄道会社と思われがちだが、その名前の通り京都と福井に鉄道を持つ会社だったのである。それが今では京都の片隅(いずれも名観光地だが)で細々と中小私鉄として営んでいるのは、この会社が悲劇に見舞われているからである。なかでも今回訪れた勝山永平寺線(当時の越前本線)で2000年と2001年のわずか半年間に二度起こった正面衝突事故では、国土交通省から運行停止命令を受けるという鉄道会社にとっては屈辱的な結果となってしまった。その結果、経営の危機となった京福電鉄は福井地区と叡山地区の路線を手放すことにしたのである。
 地域の足を確保するために、福井県では第三セクター方式の鉄道会社として存続させることを決め、福井市や勝山市が出資するえちぜん鉄道が2003年に開業した。ということで、えちぜん鉄道は古くて新しい鉄道である。どことなく都会的な外観の電車が、地域の足を支えている。京福電鉄時代には叶えられなかった車両の更新や保安施設の整備に相当資金が必要だったのだろう、運賃は決して安くはない。福井・勝山間のわずか27.8㌔で770円という運賃はJRの約1.5倍。このあとで乗車した福井・三国港間も同額だったため、この日の合計は3,080円の支出となった。
 お金のことなど無粋な話はすべきではないが、もしも今日が土日だったらフリー切符がなんと900円で買えたのである。これはいくら何でも安い! また切符売り場には夏休み親子企画として、大人一人と子ども一人のフリー切符が1,200円で販売されていた。「親子フリー切符は大人だけでも使えますか」と尋ねると、気の毒そうな顔をされて「使えません」という返答が返ってきた。それはそうだろう、乗りたくてやって来た客に割り引く必要はないし、二度と乗らない客に過剰なサービスは不要だ。ということで、図らずも今日の私は地域振興のために役立った筈である。
 電車は小高い山に囲まれた九頭竜川沿いの田園地帯をトコトコと進んでいく。途中永平寺口ではバスを利用して永平寺へ向かう人がかなり下車した。もともとはここから永平寺まで線路が敷かれていたが、これも衝突事故の後に廃線となってしまった。
 
 終点の勝山駅は国の登録有形文化財に指定されている由緒正しき駅である。そもそもこの鉄道が施設されたのは1914年のことで、当時は越前電気鉄道と呼ばれた。この時に造られた駅舎が今でも利用されている。勝山市の鉄道玄関口として大切に保存・修復がされていて、さながら生きた博物館のようだ。おしゃれなコーヒーショップも営業されていて、ここから恐竜博物館へ向かう人達の休み処にもなっているのだろう。
 勝山駅前
さすがに当時の車両は残っていないが、開業6年後に導入された電気機関車テキ6形が、構内の片隅に大切に保存されている。まるでちっぽけな豆電車のような形だが、この電気機関車の導入によって大幅に輸送力が向上したのだという。貨物輸送専用の電気機関車として活躍し、昭和55年までの60年間、地域の織物製品や木材を運び続けたのだそうだ。えちぜん鉄道から勝山市に寄贈されたもので、産業遺産として大切に保管されているのである。

越美北線(九頭竜湖線)


 一旦福井に戻って、次はJR線だ。岐阜県の美濃太田から北濃までを結ぶ国鉄越美南線が第3セクター化し長良川鉄道となった今でも、越美北線は旧国鉄を引き継いだJR西日本のローカル線として生き残っている。並行して走るえちぜん鉄道とは異なり、ここで使用されている車両は、通常よりも車長が2割ほど短いローカル線専用のワンマンディーゼルカーだ。このキハ120系はJR西日本の標準的なローカル車両である。

スタフは鉄道の通行手形。
信号機が発達した現在では
とても珍しい存在である。
改装された立派な福井駅の片隅の切り欠きホームから出発する。全線単線非電化。事実上越美南線がなくなり、北線だけとなってしまった越美線は九頭竜湖線という愛称で地域の足としての役割を担っている。福井平野をしばらく走り、山が両側から迫ってくると戦国の武将朝倉氏で有名な一乗谷に着く。国の特別史跡となっている一乗谷朝倉氏遺跡までは駅から1㎞半ほどだが、無人駅に史跡の地図が掲示してあるだけで、ここから歩く観光客は少なそうだ。里山の谷間をしばらく進めば、越前大野である。ここは列車交換できる最後の駅だ。
 この先九頭竜湖までの間に、信号機は一切なくなる。その代わりとして通行手形とも言えるスタフが手渡され、終点までは7駅あるものの、スタフを持つ1車両だけが往復できるという1日5往復の閑散路線となる。柿ヶ島の手前で九頭竜川を渡り、水力発電所があるような山の深い谷川となり、その先越美北線はトンネルが連続して、それほど景観を楽しめるわけではない。将来、長良鉄道越美南線と結ばれることは決してないだろうが、仮に結ばれたにしろ、あたりの深い山の様子から見て、トンネルだらけの路線となったはずである。いくら自分が鉄道好きだからといって、夏休み期間の旅行シーズンにも関わらず、これほどまでに乗客がまばらなこの路線を更に延長せよなどとは決して言えない。
終点の九頭竜湖駅からダムまでは直線距離でも3㎞ほどあって、残念ながら駅前から湖を眺めることは出来なかった。そのかわりここでも出迎えてくれるのは恐竜たちだった。マイカーで訪れる観光客の人々が、電動で動く恐竜たちを見て興じていた。


えちぜん鉄道三国芦原線

 越美北線を往復し、福井駅に戻ってくる頃には午後の日差しもだいぶ傾いて来た。次に目指すは三国港である。三国と言えばカニのブランド越前ガニのメッカだ。一匹一匹ごとに黄色いタグがつけられた越前ガニだが、なかでも三国港で水揚げされたものは皇室にも献上される最高峰の高級ガニで、三国出身の知人に言わせると、地元民も口にすることがないのだそうだ。地元民が口にするのは雌のセイコガニだそうだが、近年こちらの方も人気が急上昇している。いずれにせよ冬の味覚だから今回は食べられないものの、それはかえって良かったかもしれない。なまじシーズンにやって来たとしても、高級過ぎて鉄道のひとり旅のついでに食べるような御品ではない。
 ただしせっかく夕暮れ時に三国港まで行こうというのだから、早めの夕食に海鮮丼のようなものが食べたいなあと思いつつ、三国芦原線に乗車する。午前中に乗車した勝山永平寺線と同じデザインだが、こちらは利用者が多いのだろう、2両編成の電車である。福井口で勝山永平寺線と分かれると、えちぜん鉄道の車両基地を左に眺めつつ北陸線をまたぎ、福井鉄道との乗り換え駅田原町に着く。帰りはここから福井鉄道に乗り換えて福井駅に行く予定である。
 芦原温泉の最寄り駅、あわら湯のまち駅までは広い田園地帯をほぼ真っ直ぐに北上する。駅周辺にはホテルや旅館がたくさん集まっていて、美人の駅員さんが改札口でにこやかに迎えるこの鉄道の主要駅なのだが、芦原温泉駅を名乗らないのは、ここから4㌔も離れた所にJRの同名駅があるからだ。ただしJRで訪れる人はバスに乗り換えてここまでやって来なければならない。あくまでも本家はこちらである。
 さて、ここから終点の三国港は近い。進路を90度変え真西に向かい、九頭竜川の河口で日本海にぶつかる所に著名な港がある。私が訪れた時は夕方ということもあって、市場に人けはなく、ひっそりと静まりかえっていた。こうして、えちぜん鉄道全線を乗り終えることができたわけだが、祝杯をあげるべく下調べしていた店は臨時休業だった。夏の期間だけは昼ばかりでなく夕方も開店しているとネットには記されていたのに、残念である。これだけ閑散としているのだから、やはり臨時休業にしてしまったのだろう。少し歩き回って別の店を見つけ、そこで祝杯をあげた。

再び福井駅に戻って

福井駅に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。現在駅前は改良工事中で、一足先に出来上がっているのが恐竜コーナーである。暗闇の中でライトアップされた恐竜が、鳴き声をあげながら口を開け、首を動かしている。道行く人達が興味深げに集まってくる。福井は本気で恐竜王国になろうとしているようだ。
(2015/8/4乗車)

2015年1月6日火曜日

改造電車が走る町

小野田線の珍電車

 1月6日早朝、雨脚が次第に強くなってきた。下関の日の出は、東京よりも30分遅く、まだ1時間半程先のことだ。そのような冷たい雨と闇に閉ざされた中を駅まで急ぐのには訳があった。僻地でもないのに、一日わずか3本しか電車が停まらない駅に行ってみたかったのである。
長門本山駅の時刻表
6時00分下関発、普通電車岩国行が40分ほどかけて小野田駅に着いた時も、雨脚は一向に衰える様子がなく、真っ暗闇の中で駅の蛍光灯だけが冷たい光を放っていた。向かい側の下関方面ホームには、数十人の通勤客が寒さで体を振るわせながら下り電車を待っている。その人影の向こうに見慣れない電車が一両停まっていた。小野田線である。
 乗り換え時間が短いので急ぎ足で跨線橋を渡る。ホームに屋根は付いているのだが、小野田線側はホーム幅に比べて屋根が寸足らずなため、足下で雨が撥ねている。一見して傘が必要なほどだとわかるが、傘を差して乗るまでもないと高を括ってそのまま飛び乗ったら、だいぶ濡れてしまった。JRにとっては、できれば廃線にしたいくらいの路線だろうから、設備は貧弱だ。だから逆に味わい深い路線ともいえる。
車内全景 左が新設されたトイレ
ここで活躍している電車が珍品中の珍品で、両端に運転台がついているワンマンカーなのだ。ディーゼルカーの一両編成は珍しくないが、路面電車は別として、通常の電車ではおそらくここだけだろう。おまけにトイレまでついている。小野田線は距離も短く、ローカル線とは言いながら通勤通学用だろうから、都会の感覚からすればトイレは不要なはずだが、地方の列車だけにトイレがあるのは当たり前なのかもしれない。わざわざ近年改造して設置したのだという。
 小野田線は地方交通線に指定されているローカル線で、小野田から宇部線との接続駅居能までの11.6㌔区間を一日10往復している。沿線には小野田を全国に知らしめたセメント工場やコンビナート、住宅に畑という感じの、風光明媚とはほど遠い路線である。しかしながら、西国の夜明けがこんなに遅いとは予想外で、小野田から雀田までは真っ暗なため、どのようなところを走っているのか、雨で濡れた窓から外の様子は窺い知れなかった。
 15分ほど電車に揺られて雀田に着いた。ここが本日のハイライト、小野田線・本山支線のへの乗り換え駅である。駅のホームがデルタ状になっていて、鶴見線の浅野駅を彷彿とさせる。小野田と浅野、思えば共にかつてのセメント会社だが、今は合併して太平洋セメントになった。
 日本の道路事情が劣悪だった頃、内陸の貨物輸送は鉄道が担っていた。奥多摩の石灰石は青梅線・南武線・鶴見線で東京湾まで運ばれ、そこに浅野駅がある。カルスト地形の秋吉台があるほど山口には豊富な石灰石があるが、秋芳洞近くの美祢から石灰石が小野田や宇部に運ばれ、そこに雀田駅がある。乗り換え駅がデルタ状になっているのは、工場への枝分かれ部分に旅客駅を後付けしたからだろう。
 デルタのもう一辺に同じ形の電車が待っていた。私以外誰も乗る人はいない。これが一日3本のうちの始発電車、長門本山行だ。地元のおばさんが一人乗ってきて、発車の合図もなく電車は動き出した。ほかに人はいないから、安全確認さえしっかりすれば合図もアナウンスもいらないのだろう。
2番電車が到着する長門本山駅
ようやく辺りが薄明るくなってきた。工場地帯かと思っていたら田畑もある郊外風景だった。少し離れた雑木林の向こうにコンビナートらしきものが垣間見える。終点長門本山にはあっという間に着いてしまった。駅、といってもバスの待合室のような駅舎がポツンと一つ、周囲には店一軒・自販機一台なく、冬枯れの田圃とまばらな民家が点在するだけである。待っていた人はたった一人だった。
 運転手は私を見て乗らないようだと判断すると、そのまま運転台に戻ってしまった。しばらくすると始発電車は乗客一人を乗せ、パンタグラフをスパークさせながら雀田に向かって発車して行った。長門本山駅には私一人が取り残され、雨音だけしか聞こえなくなる。
 一日3本のうち2本は朝7時台に集中している。先程の電車が雀田で折り返して20分後に戻ってくるのだ。それが本日2本目となって、その後は18時37分の最終電車となる。朝と晩とで輸送力が違えば、帰る人は困らないのだろうか。困らない程度の乗客数なら、朝の1本はいらないのではないか。そもそもどうして廃線にならないのだろうか。いろいろと疑問が生じるが、一つわかったことは車止めの先の道路には路線バスが1時間に1本走っているのだ。1㌔先にある本山岬から小野田まで乗り換えなしに行くことが出来るから、地元の人にとって鉄道は普段は不要な保険のようなものなのだろう。
 2番電車の乗客は、そのまま折り返す鉄道ファンが1名、女子高生2名、おばさん1名、そして私の合計5名だ。新学期が始まると高校生で混雑するのだろうか。雀田に山口東京理科大があるが、大学生の電車通学はすくないだろうななどと考える。この電車はワンマンのくせに車掌も1名乗っている。途中の浜河内でおばさん2名が乗車し、総勢9名を乗せた電車はガタンゴトンと時速30キロ位でゆっくり走る。
デルタ地帯の向こう側は小野田行
雀田では小野田行に接続している。それなりによくできたダイヤである。5名が下車し、2名乗り込んできた。電車は小野田線の終点居能から一つ先の宇部線・宇部新川行である。引き続き田畑が散在する郊外をのんびりと走る。急ぐことは必要ないとでも思っているのか、慌ただしいはずの通勤時間帯なのに、のんびりとしたものだ。
長門本山発宇部新川行 居能にて
電車は少し坂を上り、視界が広がって、河川敷のない大きな川に出た。秋芳洞から周防灘に流れる厚東川である。電車は橋桁の上に線路をちょこんと載せただけのガーター橋の上を減速して渡っていく。窓からは水しか見えない。鉛色の世界の中、川に落ちやしないかと、正直ヒヤヒヤする。早く渡りきって欲しいと思うのは、私だけではないようだ。乗客は何で減速する必要があるのだろうとキョロキョロと外を見ている。安全のための徐行だろうけれど、却って徐行しないといけない施設に不安を覚える。渡りきった所は荒涼とした工場・コンビナート群だ。この辺りは宇部興産の本拠地である。左から宇部線が合流して居能に着く。
 小野田線や宇部線で活躍しているクモハ123系は、国鉄時代に活躍した荷物電車を旅客用に改造した電車である。かつて棚があったところは窓がないので、左右で窓の数が全く違う。手荷物や郵便輸送に用いられたが、道路交通網の発達によって不要となったので、ローカル線で用いる旅客用に改造した。そもそもローカル線は非電化が大半だから電車の需要は少ない。貨物の需要は多くて旅客は少なく、電化されているがローカル線という条件を満たしていたのが、小野田・宇部線だったのだろう。
 今でこそ貨物は小野田線からは撤退し、宇部線も激減したが、この地域の貨物がなくなったわけではない。すぐ南側には、宇部興産が造った日本最大の私道・宇部興産専用道路があって、総延長は31.94㌔に及ぶ。それほど貨物輸送が賑わう土地柄なのだ。貨物が撤退した今となっては、小野田線は産業遺産化する鉄道と言えなくもない。何とも可愛らしい路面電車のようなこの鉄道が、いつまでも廃止されずに頑張って欲しいと祈らずにはいられない。

宇部線の印象

 宇部新川からやってきた宇部行は黄色い三両編成だった。何の変哲もない通勤電車だが、路面電車(?)に乗った後だったので、先程よりも上流で厚東川を渡る際、同じガーター橋だったけれども、何とも頼もしい感じがした。
宇部駅に停車中のキハ123系
宇部で折り返し、宇部新川に向かう。沿線途中にアメリカンスクールでもあるのか、外国人高校生の集団が乗り込んでくる。足を投げ出し、大きな声で話すなど、ちょっぴり行儀が悪い。
 ガーター橋を渡り直し、先程小野田線から乗り換えた居能を通過し、宇部新川に着く。ここで乗り換えて新山口まで行くのだが、待っていた新山口行は、何と先程まで世話になった路面電車(?)クモハ123-6だった。態度不良の外国人高校生も乗って来て、車内は満員になる。やれやれだ。
 高校生はすぐに降りたのでホッとしたが、それも束の間、今度は辺り構わず話し掛ける男性が乗ってきた。乗り合わせている人達はみな関わらないよう知らんぷりをしている。私も面倒なので寝たふりをする。せっかく車窓を楽しみに来たのに、これでは意味がない。天気が今ひとつだったこともあって、宇部線の印象はとても薄いものになってしまった。
 山口宇部空港の滑走路の外れがちらりと見え、住宅地がまばらになって田圃が広がり、小高い山を迂回したら山陽線と合流し、新幹線の巨大な高架橋が近づいたら新山口に到着したとしか、書きようがない。
 新山口はかつて小郡と呼ばれた交通の要衝である。シーズンには遠くから新幹線でSLやまぐち号を目当てに観光客がやってくる駅だ。冬枯れの今日、構内は閑散としていた。
(2015/1/6乗車)

 

2015年1月5日月曜日

懐かしの山陰本線 中編

各駅停車しか走らない「本線」

 益田まではスーパーおきが走っているが、この先、幡生(下関市)まで山陰本線を乗り尽くすためには乗り換えが必要となる。ここからは特急などの優等列車が全く走らない、まさにローカル線になってしまうのだ。スーパーおきは、山陰本線を離れて山口線に入り、有名観光地が連なる津和野や山口・湯田温泉などを通って、山陽新幹線との乗り換え駅の新山口に向かう。
 一方、この先の山陰本線には萩や長門市がある。明治維新で活躍した数々の人材を生んだ萩や、天才童謡詩人金子みすゞの郷里仙﨑(長門市)は、観光地としてもすこぶる有名だが、鉄道で旅をする人は極めて少ない。特に萩観光はほとんどがバス利用のため、この辺りの山陰本線は極めつけのローカル線になってしまうのだ。
 益田から下関まで直通する列車は一日わずかに1本、最も利用客の少ない益田と東萩の間は一日8本の普通列車があるに過ぎない。そのうち朝が4本、夕方以降が3本設定されているので、日中はわずかに1本しかなく、観光客に見向きもされないのは当たり前だ。今回の旅ではこの1本、益田13時27分発の長門市行以外に選択肢はなかった。この1本に乗るために、飛行機に乗り、快速と特急を乗り継いで益田までやって来たのだ。
 待っていた列車は、国鉄時代からお馴染みの気動車キハ40だった。古い車両だが、思いの外窓は綺麗で、これなら何とか車窓の旅は楽しめそうだ。ただこういう曰わく付きの列車には、同好の士も乗っていることが多い。我が儘のようだが、一人でゆっくりと楽しみたい私としては、できるだけ同じ趣味の人とは出会いたくない。勝手な言い分とはわかっているが、同じような趣味人が乗っていると、実に落ち着かないのである。児戯に等しい振る舞いは伏せておきたい。同類の人を見てしまうと、いきなり天から冷静な自分が降りてきて、羞恥心が目覚めてしまう。
萩は近い
案の定、すぐにそれとわかる人がひとり乗っていた。しかも海側のボックスシートはすでにあらかた埋まっていて、一人で占有しているその人物の向かい側しかすわる席はなかった。山側にはまだ空いている席もあったが、海を見にここまで来たのだから仕方あるまい。<マニア>もなんでわざわざ向かい側にすわるんだよ、という顔で見ている。あーあ、心理戦が始まってしまった。
 益田を出るとすぐに山口線が左に分かれて行き、向かい側の席からの視線も消えていく線路を追っている。エンジン音を轟かせて旧型気動車が軽快に浜辺を走り始めれば、それに釘付けになる。さっきから<マニア>もこちらも向ける視線の方向が同じだ。見ているものが同じだから、時々「お前もか」という感じで目が合ってしまう。我慢・我慢! 外の景色に集中しろ! せっかくここまでやって来たんじゃないか。
 いくつかの入り江を越え、いくつかの無人駅に停まるたびに乗客の何人かが降りていった。益田・萩間には路線バスすら通っていないので、ここに住むお年寄りや高校生など免許を持たない人達にとってはこの列車だけが頼りなのである。ようやく席を移ることが出来た。<マニア>もほっとしたに違いない。
中央が益田発長門市行。左は長門市
発小串行。この列車は小串で下関行
に接続している。        
萩に立ち寄りたいが、列車の関係から先を急ぐ。今回の旅では長門の国を乗り尽くすつもりなので、明後日再び萩を訪れることになる。今日はひとまず長門市に直行する。長門市のホームや跨線橋、停まっているキハ40型気動車を見ていると、40年ほどタイムスリップしたような気がしてくる。ここには国鉄末期からまったく変わっていない懐かしい風景が残っている。今時、このような場所がほかにあるだろうか。


山陰本線踏破の難所、仙﨑支線

 長門市からたった一駅区間だが、もうひとつの山陰本線が走っている。仙﨑支線だ。定期列車としては厚狭線に乗り入れるものが数本あるため、時刻表では厚狭線のページに掲載されている。ローカル線からローカル線への乗り継ぎは、朝晩以外はまず連絡していないと言ってよい。この時も連絡列車を待っていたら、仙﨑ですぐ折り返しとなってしまうところだった。仙﨑までは距離にして約2㌔、歩いて行けないこともないが、仙﨑の町を歩いてみたかったので、タクシーを利用することにした。
「タマゴ公園までお願いします」
運転手の反応がない!
「あのう、玉子公園に行きたいのですが」
「ああ、オウジ公園ね」
やってしまった! まさか王子公園ではないよねと、何度も注意して地名を見返したはずなのだ。絶対に点が付いていると確信してから言った積もりだったからショックだった。年々老眼が進んでいる。耳は聞こえないし、目は見えない。寄る年波には逆らえないから、乗り尽くしの旅も急がなければならないと強く思う。
「お客さん、東京から? 王子公園って何もないよ」
「仙﨑の町が一望できますよね。そこからぶらぶらと町を歩きたいんです」
「なるほどねえ。今は冬だから木も生い茂っていないので見えると思うよ。でも景色の良いところなら、青海島の中の浦とか。そっちへ行く?」
左側中央の港近くに仙﨑駅がある
まさか列車に乗るのが目的で来たなどとは言えない。そんなことを口走れば、興味津々、根掘り葉掘り聞かれた挙げ句に「好きだねぇ」という顔をされるだけだ。
「金子みすゞに関心があるんですよ」
これに嘘はない。郷里の誇り金子みすゞの名前が出たので、運転手の話題は仙﨑の方に移っていった。


 青海島の外れにある王子公園から眺める仙﨑の町は、午後の傾いた日差しの中で静謐に包まれていた。みすゞの故郷を見下ろしながら、しばらくそこに佇んだ。
 それにしても、みすゞの代表作のひとつ『わたしと小鳥とすずと』は、彼女の薄幸の生涯とは裏腹に、なんと自己肯定感の高い、エネルギーを貰える詩だろうか。


  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。


 傷つきやすい現代人を癒してくれるのは、わずか26歳で自ら命を絶った若き童謡詩人であることに、今さらながら驚きを禁じ得ない。

 右に深川湾、左に仙﨑湾を眺めながら青海大橋を歩いて渡りながら、仙﨑の町に入っていく。金子みすゞの菩提寺である遍照寺で墓参をしたあと、記念館に立ち寄った。この町のあちこちには、詩が記されたプレートがかかっている。すべてをゆっくりと鑑賞していると列車に遅れそうだ。 こうして40分ほど仙﨑の町を散策しながら仙﨑駅までやって来た。ここは山陰本線で唯一の行き止まりの駅、大好きな終着駅だ。京都も幡生も終着駅ではない。
 しばらくすると、長門市方面からちっぽけな気動車が1両でやって来た。JR西日本が所有する特に乗客の少ないローカル線用の小型気動車キハ120系だ。普通車両よりも2割ほど短い16㍍しかない可愛らしい車両だ。降りてきた数名の乗客の中に、なんとあの<マニア>の方もいらっしゃった。おそらく長門市で1時間ほどこの列車を待っていたに違いない。なんとなく視線を感じる。向こうもばつが悪いに違いない。そう思うと、ちょっぴり気の毒な感じもする。僕がここにいてごめんなさい。

 ラッピングされた気動車は厚狭線経由の厚狭行である。今日はこれに乗って厚狭線を乗り尽くし、厚狭からは山陽本線で下関に出る。山陰本線の残り、長門市・幡生間は明日乗るつもりであり、そこで漸く山陰本線完乗となる。偉大なるローカル線の乗り尽くしは実に手強いが、最大の難所である仙﨑支線を無事踏破し山陰本線未乗もあと74.2㌔となった。明日は下関周辺の鉄道を楽しんだ後に山陰本線に戻ってくるつもりである。

2015/1/5乗車)

  注)観光シーズンには、みすゞ潮彩号が新下関・下関と仙﨑を山陰本線経由で結んでいる。





 

2014年10月2日木曜日

東北本線完乗記

どこまでが東北本線か

 東北本線の起点が東京で、終点は盛岡であることは多くの人が御存じのことと思う。「えっ?終点は青森ではなかったの?」とおっしゃる方もいると思うけれど、青森まで新幹線が開通するのと引き替えに、在来線が第3セクター化されたので、終点はあくまでも盛岡である。短くなったとはいえ、全長535.3㎞という堂々とした大幹線である。東北本線くらいの大物になると、本線にへばり付いた枝線と呼ばれる路線がある。それらを合わせると全長は36.4㎞も増えて571.7㎞にもなる。
 そのなかでも一番長い枝線は赤羽から大宮までの18.0㎞、埼京線である。何となくぴんと来ないが埼京線も正式には東北本線の一部だ。次に長いのが日暮里から尾久を通って赤羽までの部分。7.6㎞のこの部分こそが東北本線そのもののように思えるが、正式には京浜東北線が通る田端経由が本線であり、尾久経由は枝線扱いだ。これなどは実際の運行とは別であり、路線が造られた歴史と関連がある。田端駅の開業は1896(明治29)年4月1日、尾久駅は33年後の1929(昭和4)年6月20日開業と聞けば、線路の戸籍上田端経由が本線となるのも納得がいく。
 さてその次に長いのが6.6キロの長町・宮城野・東仙台間である。ただこちらは貨物専用路線のため乗車することはできない。貨物列車が仙台駅を避けるために敷かれた路線であり、これは諦めるしかない。東北新幹線の工事が佳境となった昭和50年代前半、夜行列車の一部が仙台を通らずに、長町から宮城野経由で運転された時があった。長町・仙台間に連絡バスが運行されたのだが、残念ながらその列車には乗っていない。私が乗った急行八甲田は仙台を0時38分に出発し、青森に向かっている。工事中の仙台駅から乗車した記憶が残っている。今では新幹線の高架橋と周辺の高層ビルで薄暗い仙台駅だが、当時は地上ホームから空を遮るものは何もなかった。たとえ宮城野経由に乗ったところで深夜のため何も見えなかっただろうが、今にして思うとちょっと残念に思うところが、乗り尽くしファンの心情というものだろう。
岩切14時31発利府行
残りは4.2㎞、これに乗っていないために長い間東北本線を乗り尽くすことが出来ないでいた。岩切・利府間である。岩切は仙台からわずか2駅め。しかし岩切にも利府にも何の用もないからチャンスが訪れなかった。これは乗りに行くしかない。

利府へ

 仙台に近いので通勤通学路線と思われるが、運行本数は余り多くない。朝晩は1時間に2本程度が仙台・利府間を結び、日中は1時間に1本となって岩切・利府間を往復している。
 14時06分、岩切に到着した電車は折り返し14時31分発利府行となる。ロングシートに2〜3人の人が所在なさそうにただ発車を待っている。そのうちに仙台からの電車が到着し、乗り換える人もやってくるが、相変わらず空席が目立つままに発車時間となった。もちろんワンマンカーである。
 本線の方が右に大きくカーブを切って分かれて行き、枝線の方は新幹線の高架下をくぐったあとは新幹線と一定の距離を保ったまま並行して走る。新幹線と枝線の間にはレールセンターが広がって、事業用の車両が多く停まっている。在来線の工事用基地がしばらく続き、それが尽きると新幹線基地に変わり、カラフルな様々な新幹線電車が停まっていて見た目にも楽しい。はやぶさ用のE5系、こまち用のE6系、先日引退した旧こまち用のE3系も停まっている。そしてなんと、北陸新幹線用のE7系まである。やまびこ用のE2系も含めて、初代のMaxとき以外はすべてが揃っていて、さながら新幹線博覧会状態だ。
 留置線が尽きた所に新利府駅がある。ここからは新幹線工場ゾーンだ。ホームの注意書きに「一般のお客様は岩切側の出口をご利用下さい」とある。利府側には工場直結、JR社員専用の出入り口があるのだ。つまりJR社員のためにこの駅は存在する。周囲に住宅は全く見えない。線路を挟んで工場の反対側は田圃だけが広がっている。果たして、この駅を利用する一般客はいるのだろうか。
利府駅
岩切を出て6分、新幹線工場が尽きれば、終点利府に到着する。駅前には住宅地が広がっている。いかにも仙台へ通う人達の住宅地である。ここで暮らす方々には申し訳ないが、朝晩の通勤以外にはほとんど利用されない路線なんだなあと改めて思う。
 ところで終着駅という言い方は利府には馴染まない。「終」には「ついに」の意味があり、それは長い旅の終着点という意味だからである。近郊電車が走る利府はあくまでも終点だろう。しかし、それでも私にとって利府には特別な意味がある。ここはようやく東北本線を乗り尽くした私にとっての終着駅なのである。
(2014/10/2乗車)