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2017年7月24日月曜日

こちらにお座り下さい…東北新幹線篇


発車のベルが鳴り止む前に

 新幹線からの車窓など興味がないとお思いの方もいらっしゃるようで。
 わからなくはありません。目まぐるしく跳び去る景色など見ていたら目が疲れて仕方がない。ということで、席に着くやいなやブラインドを下ろしてスマホをいじり始める方々が最近とても多いようです。とても残念で仕方がありません。そこで少しばかり提案を。

東北新幹線は左側、E席をどうぞ!
終点新青森時代 (2014/2/12)

 東北新幹線で新青森方面を目指す方は、ぜひ進行左側に席を取って下さい。みどりの窓口で自分に順番が回ってきたら、「進行左窓側をお願いします」と言えば、最近は余程のことがない限り係の人は対応してくれます。新幹線のシートは太平洋側から見てABCの3列シート、DEの2列シートとなっていますから、E席が左窓側です。
 ついでに列車は車両の中央あたりが一番揺れも少なく乗り心地が良いことを覚えておくと良いでしょう。長いものはどうしても重心から一番遠い両端の揺れ幅が大きくなりますから当然ですね。通勤電車に乗るときも中央寄りのドアから乗車すれば、倒れて寄りかかってくる人が少ないはずです。
 さて、南北に走る東北新幹線は、午前中東側つまり進行右側から日の光を受けますので、ブラインドを下ろす人が大半です。一方、左側は順光で眺める景色が美しい。そして、奥羽山脈を眺めながらの旅が楽しめます。準備は整いました。出発進行!

宇都宮から仙台は見逃せない
 
 最高速度275㎞で疾走してきた新幹線が宇都宮に近づくと、まずはすり鉢を伏せたような男体山が見えてくる。山肌が浸食されて縦縞模様が特徴的、ほぼ独立峰なのですぐにわかるはず。宇都宮を過ぎるとかすかに甲高いモーター音が高まって320㎞区間に入る。田圃のなか東北自動車道が近づき、一瞬併走して丘陵地帯に突っ込んでいく。自動車は時速100㎞前後で走っているが、その3倍で走る新幹線の速さが実感できる所だ。トンネルが増えてくるが、できるだけ注意を逸らさないこと。ちょっと居眠りをしている間に、那須連山を見逃してしまう。
 今どこを走っているか分からない人は、駅が目に飛び込んできたら、デッキに通じる扉上のLED掲示をチェックしよう。「ただいま那須塩原駅付近を通過中です」等のテロップですぐ分かる。プラットホームの駅名表示を識別できる人は、よほどの動体視力に優れた人だろう。私はいつも挑戦し、玉砕をし続けている。首を振っても確認できたためしがない。
 那須連山の主役は、那須塩原からは進行方向斜め前方に見える那須岳(茶臼岳)。白い噴煙が立ち上る。ちなみに、車窓の風景は普通在来線の方が数等上だが、こと那須連山に関しては新幹線が勝っている。市街地以外は防音壁に邪魔されることもない。在来線からは新幹線高架の柱に邪魔されて、まったく見えない。
 那須連山にお別れし、トンネルの中で関東に別れを告げて「みちのく」最初の駅、白河へ。トンネルをいくつかやり過ごせば、郡山。ここからは安達太良山に注目だ。別名乳頭山とも呼ばれるように、二つの山頂があって、楚々として控えめな優しい乳房が美しい。
 すぐに列車は福島駅に近づく。ここでは吾妻連山が見えてくる。特に見つけたいのが、連山の中にある吾妻小富士。山塊の中に小さな富士山の姿を見つけよう。ついでに福島駅では、分割作業中の「つばさ」と「やまびこ」が停車中かもしれない。福島駅を過ぎると山形新幹線が左に大きくカーブして遠ざかっていく。吾妻連山の外れ、山が低くなっているところが板谷峠だ。冬であれば、そこは薄暗い雪雲に覆われているに違いない。その先は豪雪地帯、米沢盆地である。福島県の中通り地方も雪は降るが、奥羽山脈の向こうは日本海側の別世界である。
 福島盆地の外れで全長11㎞の蔵王トンネルに入り、県も宮城に変わる。トンネルを出るとすぐに下を東北自動車道が通っている。そのあと一瞬で通り抜ける館トンネルがある。新幹線の行く手にポツンと小山があり、本来なら崩されてしまうほどなのだが、遺跡保護のために数10㍍のトンネルが掘られたのだという。山頂には社が祀られているが、勿論見えない。東北道からはよく見えるので、機会があればそこを突き抜ける新幹線を眺めて欲しい。私は何回となく東北道を通り、一度だけたまたま見たことがある。その時の印象はまさに蛇の腹巻き。
 さて白石蔵王に近づくと左前方に見えるのが蔵王連山だ。スキーのゲレンデがあるからすぐわかる。ただ蔵王山という山はない。主峰熊野岳と刈田岳を中心とした総称だ。見えているのは俗に言う宮城蔵王。車ならエコーラインで山頂付近まで行ける。なだらかな尾根道が特徴だ。
 さすが仙台は大都市。市街地が広がっているので、新幹線とは言え、かなり手前から徐行し始める。小高い山の上には何本もテレビ塔が建ち並び、それを迂回するかのように大きなカーブで線路は続く。青葉山の麓を流れる広瀬川を渡れば、高層ビルの建ち並ぶ仙台駅に列車はゆっくりと滑り込む。
 東京からのビジネス客の大半はこちらで降りてしまう。そしてまたビジネスマンが乗り込んでくる。仙台が東北の中心だということを実感する瞬間だ。

仙台・盛岡の夕陽に輝く人工美

 仙台を出たらまず白い観音様を探そう。真言宗大観密寺の仙台大観音像だ。高さ100㍍は仙台市制100周年にちなんでのことだという。1990年に竣工。フッ素樹脂塗装が施されているのでとにかく白い。若干距離があるので、注意していないと見落としてしまう。
 仙台から盛岡までは穀倉地帯が続き、めぼしい山はない。眺めて楽しいのは広がる水田の風景だ。江刺金札米など、いかにも高級なブランド米の産地が続く。田植え後の新緑のシーズンもいいが、黄金に実った収穫前の季節、夕日に照らされたこの地方を時速320㎞で疾走するのは実に爽快だ。半径4000㍍のカーブを減速することなく、車体を大きく傾けて走る時、窓一杯に金色に輝く田圃が視界に入ってくる。夕日に向かって進みたいなら、夕方の東京方面行き、進行右側がお薦めだ。ただその先、あたりは薄暗くなり、奥羽山脈を楽しむことは出来ないけれど。
 ここまでが国鉄時代に造られた新幹線。バブル前の日本が元気だった頃の鉄道だ。

整備新幹線の残念なところ

終点八戸時代     (2010/8/19)

 さて、盛岡と言えば岩手山なのだが、ここからは先は整備新幹線区間。時速は260㎞に落とされ、トンネルだらけで少し味気ない。更に掘り割りと高い防音壁の高架線ということもあって、岩手山が楽しめるのもそれほど長い時間ではない。もう少しフェンスが低ければなあ、たまにはトンネルから抜け出さないかなあと思いつつ、恨めしく思いながらの旅となる。トンネルを出ると防音壁があってすぐに駅、駅を出ると防音壁で守られながらまた長いトンネルだ。七戸八甲田駅付近から八甲田は見えるのか? それがよく分からないほど、外の景色が見られるのは一瞬の出来事だ。新青森に近づいた時、右手後方に見えてくるので、さっさと下車の準備をして、デッキから眺めるのが正解だろう。ちなみに三内丸山古墳も右側、青森市のランドマークである青森ベイブリッジや三角形のアスパムも右側だ。

ご乗車ありがとうございました

 いかがでしたか。E席、なかなか魅力的でしょう? 次回は、北海道新幹線でお待ちしております。

2014年6月4日水曜日

気動車王国、常磐路①

アカデミック常磐線

 上野東京ラインの開業が迫っている。東北本線と東海道本線の直通運転は、上野・秋葉原間に代表される混雑解消や品川車両区の土地有効利用という、まさにJR東日本にとって夢のようなプロジェクトだ。もちろん沿線自治体も大きな期待を寄せている。なかでも上野周辺では、横浜方面からの客が望めることから、新宿や池袋における副都心線効果の再来を期待しているようである。
 心中穏やかでないのが常磐線沿線自治体だろう。当初の発表では、特急ひたちの東京駅乗り入れこそアナウンスされたものの、普通電車の乗り入れまでは触れられていなかった。黙っていないのは茨城県で、全列車を横浜まで直行させるよう要求していると、先日のニュースで流された。東北・高崎線方面と横浜とは既に湘南新宿ラインで結ばれているのだから、上野東京ラインは常磐線を優先すべきであるという主張は、実に理にも叶っている。
 しかしおそらく茨城県の主張は通らないだろう。それは常磐線が大切にされていないというような、優劣の問題では決してない。むしろ常磐線は首都圏の他の鉄道に比べて高価な車両を導入している特別な路線なのである(注)。利用者には何の恩恵もないが、製作費のかかる交直両用電車が導入されているために、常磐線電車は横浜へは行けるが、直流専用の東海道線電車は取手から先へは行くことができない。だから、横浜湘南方面に常磐線電車を直通させると茨城県に割ける電車の本数が減ってしまうために、JRは決して定期列車を東京駅より南には行かせないはずである。
 交直両用がどれほど高額かは、つくばエクスプレスの電車も2種類あり、安価な直流電車だけが秋葉原と守谷の間を往復していることからもわかる。

(注)首都圏で大切にされていないのは、むしろ意外にも中央線の方である。世間では中央線はオシャレでJR本社からも大切にされていると考えがちだが、必ずしもそうではない。三鷹・立川間の複々線化はおそらく永遠にないだろうし、未だに普通グリーン車はなく、逆に通勤電車のまま大月まで運転するありさまだ。駅周辺の施設が充実し華やかな反面、中央線で都心へ通う人たちの通勤地獄は解消されていない。今どき気軽にグリーン車が使えないのは首都圏五方面(東海道・中央・高崎宇都宮・常磐・総武)で中央線だけである。

 それにしても直流が中心の首都圏にどうして交流用の電車を走らせているのか。難しい話はわからないが、筑波山の麓に柿岡地磁気観測所があり、電流の流れが一方通行の直流大電流が近くを流れると観測に支障を来すからだそうだ。地磁気の観測? う~む、よくわからないが茨城県はアカデミックだなあ。研究学園都市もあるし、東海村の研究所もあるし(こちらは近年評判が悪いけれど)。とにもかくにも交流だと電気の流れが双方向なので影響がないのだという。だから、常磐線の取手以北、水戸線の小山以東、つくばエクスプレス線の守谷以北は交流電化になっている。オシャレで遊び上手な湘南ボーイのような向きには理解不能な土地、それが茨城県なのだ。

 長い前置きはそろそろ終わりにしよう。問題はJRやつくばエクスプレスのような資金力のある鉄道会社は高額な交流施設が持てるから良いが、ローカル私鉄はどうすればよいのか。御存じのように、地方のJRはほぼ交流で電化するものの、同じ地域を走っているローカル私鉄は大体が首都圏の大手私鉄電車のお古を使っている。ということは直流電車の中古品を使うのがローカル私鉄の大鉄則と言える。茨城県にもローカル私鉄はある。さて、どうする? 気象庁の施設のためなのだから国の補助金がたんまりと出て…などということは全くない。答えは電気を使わないことだった。ここに常磐路に気動車王国が誕生する最大の理由があった。


関東鉄道常総線

 常磐線は東京の日暮里を起点とし、江戸川を渡ると千葉県に、利根川を渡ると茨城県に入る。取手は利根川を渡った茨城県最初の町であり、常総線の起点となっている。常総線の名前の由来は、常陸と上総を結ぶ鉄道という意味である。取手が上総というのは少し違和感があるかもしれないが、そもそも利根川は江戸時代に開削された放水路なので、それ以前は更に北側を流れる小貝川あたりが国境になっていたようである。つまり、現在は茨城県でも当時は上総国だった。こんな歴史が線名に現れていて興味深い。
守谷・新守谷間
 ところで都会の鉄道を見慣れた人には、電化されていない複線の鉄道はなかなか想像できないかもしれない。朝晩のラッシュ時には2両編成で運行されて、最大4両編成で運転されることもある常総線は、実に堂々としたローカル私鉄である。鉄道発祥の国イギリスではごくごく当たり前で、目障りな架線がない分、すっきりとした風景が広がっている。日本では北海道の室蘭本線などで見られるが、なかなかいいものである。
 さて複線区間は取手から水海道までの17.5㎞区間であり、7時台には10本(往復で20本)もの列車が運行されている。つくばエクスプレスが開業してからは、取手から常磐線に乗り換える人が減り、乗降客が一番多いのは守谷駅に移った。日中は1時間あたり4本に減り、3本が水海道折り返し、1本だけが下館行となっていることが多い。守谷折り返しとなることもある。
水海道
 沿線は住宅と畑、雑木林が混在している。つくばエクスプレスが開通してからは、マンションも目立つようになったが、それ以前から新守谷駅付近には新しい住宅街が広がっていた。バブル期に土地の高い都心を嫌って、広々とした宅地を求めて移住してきた人も多い。かなり質の高い住宅街が広がっているのである。この辺りに住む人の中には、パークアンドライドの人や、奥さんに駅まで送り迎えして貰う人も多いと聞く。
水海道から先は単線
 水海道から先33.6㎞は単線となる。三妻では列車交換があり快速守谷行が通過していく。遠くに、宗教法人だろうか、立派な建物が見えるが、この先の石下には豪壮な天守閣があった。なんとも建物が個性的な土地柄である。筑波山が大きく見えるが、一向に近づかない。つまり遠巻きに走っているのだ。保線の具合が良く、空気バネの新型車両でもあるので、単線ながら快適な乗り心地だ。
筑波山
左のピークが男体山、右は女体山。
 下妻は大きな駅だ。いわゆる国鉄型のホーム配置となっていて、列車交換だけではなく、折り返しが出来るよう2面3線構造になっている。大宝を過ぎると起伏のある土地となり果樹園が広がってきた。難読駅の騰波ノ江(とばのえ)を過ぎると、男体山と女体山が重なってひとつとなり、妖艶な雰囲気が漂うと妄想しているのは自分だけかもしれない。黒子でまた交換。単線に単行の気動車が頻繁に走っているが、どれもガラガラである。
 筑波の左側に見えるのは加波山のようである。雑木林を越え、広々とした畑や植木屋が育てる芝の絨毯の脇を通って気動車はコスモスの花が中途半端に広がる大田郷に着いた。密集した農家の村である。余すところあと一駅、乗客4人、運転手1人、保線区員1人を乗せた列車は、右に大きくカーブを切りながらJR水戸線と併走し、終点下館に滑り込んだ。JRの向こう側には真岡鐵道のディーゼルカーが停まっている。このレポートはまたの機会に。
(2009/11/5乗車)


関東鉄道竜ヶ崎線

 常磐線取手を過ぎると藤代の手前で一瞬車内の灯りが消えたり空調が止まったりする。ここがデッドセクションと呼ばれる直流から交流に切り替わる所である。地磁気観測所が近づいたというわけだ。藤代を過ぎ、小貝川を渡ると佐貫に着く。佐貫はウナギで有名な牛久沼のほとりに開けた町である。
竜ヶ崎駅(左奥)

佐貫に向かって出発するキハ2000系
車庫内にキハ532も見える。在籍す
る列車の全てが写っている。    
 竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶわずか4.5㎞の非電化路線だ。途中駅はわずか入地駅のみ。しかも列車の交換施設はなく、1両が行ったり来たりしているだけのミニ路線となっている。佐貫駅も竜ヶ崎駅もすべてが1面1線の片側ホームであり、鉄道模型の入門セットのように素っ気ない。入地駅前後には田圃が広がっている。
 竜ヶ崎線の歴史は古く、明治33年には常磐線佐貫駅と共に開業している。龍ヶ崎の歴史は古く、江戸時代は仙台藩領として米の中継場所でもあり、江戸との繋がりも強かったようだ。竜ヶ崎線は常磐線と連絡することで、この町と東京を今でも結ぶ重要な生活路線となっている。
ジャッキ
 さて、本来なら電化されてもおかしくない路線だが、観測所があるために気動車が活躍している。しかもキハ2000系は1997年に新製されたもので、冷房装置も最初から完備されており、ローカル線らしさはどこにもない。駅改札口にはSuica対応の改札機もあって、常磐線からそのまま龍ヶ崎までやってくることが出来る。気動車が時代遅れだというのは全くの早計であり、学問に貢献するための対応なのだということが実感できる。
軽油スタンド
 竜ヶ崎駅に併設された車両基地には、少ない車両数ながらも整備に対応する様々な施設がある。その一つが、車両を持ち上げるジャッキだ。4つの大きな爪が車両を持ち上げて、床下機器を点検するためのものだ。ジャッキの一つには整備士たちのナッパ服が干してあり、ここが車両整備工場であることを実感する。
 また、気動車特有のものとしては、燃料関係施設がある。列車に燃料ホースとサービススタンドの取り合わせは、やはり珍しい。



(2009/11/5乗車)



気動車王国、常磐路②

今はなき筑波鉄道

筑波駅にて(1981.11.3撮影)

キハ811
 1987年4月1日に廃止された筑波鉄道は、その名の通りかつては筑波山には欠かせない鉄道だった。常磐線の土浦から筑波山麓を巡り、水戸線の岩瀬までの間40.1㎞を結ぶ単線非電化の路線で、全線のほぼ中間に位置する筑波駅から筑波神社前までのわずかな距離をバスが結んでいた。筑波神社の脇から山頂まではケーブルカーを使えば誰でも気軽に行けることもあって、全盛期には多くの観光客が上野からの直通列車でやって来た。手元にある時刻表1972年3月号によれば、快速列車「筑波」は休日のみの運行で上野を8時39分に出発し、途中、松戸・我孫子・取手・佐貫に停車し、土浦には9時55分に着いている。土浦から筑波までは非電化のため、「筑波」は客車列車で運行されていたから、おそらく土浦では機関車の付け替えがなされたのではないだろうか。終点筑波には10時49分着とある。筑波山を歩いて登山するには少々遅い時間のような気もするが、ケーブルを利用する一般の参拝者や観光客にはなかなか便利な列車であった。

DC202機関車(筑波駅にて)
 さて、筑波鉄道は関東鉄道常総線と同じように、常磐線と水戸線を結ぶローカル私鉄なのだが、常総線と比べて東京から遠いため通勤路線としての利用度が低く、また筑波観光自体にマイカーが利用されるようになって、利用客が大幅に減少してしまい、赤字経営が続いた。その結果、奇しくも国鉄解体と同じ日に廃線となってしまったのである。


キハ505
 私がここを訪れたのは廃線の6年前の文化の日、紅葉狩りをしようということでやって来た。東京の木々が色づくにはまだ早いが、同じ関東でも標高の高い筑波では紅葉が進んでいた。この頃すでに上野からの直通列車はなくなっていた。赤字が続いていたこともあって、鄙びたムード満載の鉄道であったという印象である。生憎の天候で、列車の写真写りはたいそう悪いが、無くなってしまった今にして思えば貴重な写真となった。現在廃線跡地はサイクリングロードになっているそうだ。
(1981/11/3乗車)


SLの里で活躍する緑の気動車

真岡駅

建物が蒸気機関車の形になっている。
SLに賭ける意気込みを感じさせる。  
 真岡鐡道に関するクイズを一つ。「真岡」は何とフリガナを振ったら良いのか。
  1)まおか
  2)もうか
  3)もおか
 結構迷われる方も多いのではないか。恥ずかしながら私などはワープロでかな漢字変換をする際に、一発で変換できたためしがない。

 答えは3の「もおか」である。「真」を「も」と読むのはなかなか難しい。しかも車内アナウンスは「もーか」に聞こえるので、ついつい「もうか」と打ってしまうのである。「大通」は「おおどうり」ではなく「おおどおり」。「胴体」は「どおたい」ではなく「どうたい」。「ー」を使わずに延ばす音を表記するのは難しい。なお「真」を「も」と読むのは、二重母音の関係だろう(注)
 (注)日本語は二重母音を嫌い、発音が変わる。アオはオーとなる。
    まおか maoka  → mooka もおか  
  なお、旧国鉄真岡線は「もうか」線と仮名を振った。ところが市名は
 「もおか」なので、それに合わせたという。地域密着型の鉄道会社なら
  ではの配慮である。

下館駅
 さて、真岡鐡道が正しく読み書きできるようになったところで本題に入ろう。今回の話題は人気のSLではなく、乗り尽くしである。水戸線経由でここまでやって来て、下館駅で真岡鐡道の気動車を初めて見た時は、正直びっくりした。なんとまあド派手なデザインなのだろう。一目で新造車両だとわかる列車の塗装は、他に類を見ない斬新なものだった。濃い緑と薄い緑の市松模様、こんな列車は世界中のどこにもない。さらに裾にはオレンジ色の帯が巻かれている。凄いとしか言いようがなかった。
 SLの運行で有名な真岡鐡道だが、普段はどのような列車が走っているかは不覚にも思いが及ばなかった。下館駅では複雑な思いでこの気動車に乗車したが、乗ってしまえば綺麗な車内は快適そのもの。この先の真岡・益子・茂木への旅が楽しみである。
 ところで真岡鐡道の起点下館は、いわゆる平成の大合併で誕生した筑西市の中心駅である。筑波山麓西側にあり、取手からの常総線と水戸線が合流する交通の要衝で、常磐路の西の外れに位置する。しかし真岡線沿線の大半(真岡・益子・茂木)はいずれも栃木県に属していて、厳密には常磐路の鉄道とは言い難いのだが、歴史的にはどうやら宇都宮との繋がりよりも筑西との繋がりが強かった土地のようである。旧国鉄時代に走っていた急行「つくばね」は、その名の通り、上野から常磐線・水戸線を通って下館から茂木へと結んでいた。真岡沿線と宇都宮の間には鬼怒川が流れ、鬼怒川は常総線に沿って南下し、守谷付近で利根川と合流している。つまり常総線と真岡鉄道は、常磐線と東北線ともに、放射状に首都圏と結んでいるのである。
下館行と交換
 列車が久下田に着いたとき、この列車の印象がガラッと変わった。すでに交換列車が待っていたのだが、その車両が周囲の風景にすっかり溶け込んでいるのである。緑豊かな木々の中にこの気動車を置いてみると、まるで迷彩色をまとったかのように、周囲と一体化する。緑のグラデーションの中に、「木々の葉」のような市松模様が散らされているのだから、何の不自然さもなかった。ただ車両が余りに風景に溶け込んでしまうと、接近しても見えづらく危険である。オレンジの帯は、遠くから視認でき、安全に役立っていた。つまり計算され尽くした車両だったのである。
 遠くに里山が低く連なり、田圃の中を列車は走っていく。益子では陶器を求める人々が数多く降りて行った。まばらになった車内では、携帯電話会社の調査員がしきりに電波状態を測定している。時々電波の途絶える場所があるようだ。自分の携帯を見てみると、電波は良好である。ここでも電話会社同士の熾烈な戦いがあるのだなと感じる。
茂木駅

左側に転車台が見える。蒸気機関車
はここで反転し、機回り線を使って、
これまで最後尾だった客車と連結す
る。見ているだけで楽しい場面だ。 
 小高い丘を越えて、一目で道の駅とわかる建物の脇を下ると、終点茂木である。観光で成り立つような町ではない。普通の、ごく普通の、田舎町。暮らしやすそうな町だなと思うと同時に、ここを去れば忘れてしまいそうな町でもある。ホンダのカーレース場「ツインリンクもてぎ」はここから4キロ程先だという。周囲にはゴルフ場もあるらしい。だからと言って、一般客が散策を楽しむような場所ではなく、ここは生活をする場所なのだ。
 ここでの用事はない。このまま帰ろうと思う。昼食は真岡で食べよう。再び真岡鐡道の乗客となって、益子を通り、真岡に着く。ここは鉄道の町である。駅舎だけでなく、真岡鐡道を有名にしているSLや今は使われなくなったディーゼルカーが展示されている。なかでもガラス越しに見える蒸気機関車は、ロッドや車輪が磨き上げられていて、この鉄道会社の心意気が窺えて快い。
C12は展示室を兼ねた車庫の中で
ピカピカに磨き上げられていた。 
 展示に満足しつつ、良い気分で町を少し歩く。お昼は何にしようかと適当な店を探していると、駅から程近いところに「みんみん」の看板が現れた。宇都宮餃子の有名店がここに進出している。餃子でビールも悪くないと思うと同時に、改めてここが栃木県であることと、地域の繋がりが鉄道から自動車に移っていることを実感した瞬間でもあった。
(2010/6/17乗車)



気動車王国 常磐路③

Mythical 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線
 
JR鹿島神宮駅で出発を待つ水戸行
 JR鹿島線の正式な終点は鹿島サッカースタジアムだが、同駅は試合開催日だけ営業する臨時駅のため、すべてのJR列車は一つ手前の鹿島神宮で運転が打ち切られる。そこを埋め合わせているのが鹿島サッカースタジアムと水戸を結ぶ鹿島臨海鉄道であり、2両編成のディーゼルカーが鹿島神宮まで足を延ばしてやってくる。試合のない日はスタジアム駅を通過してしまうので、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線はふだんは起点の駅が営業されていない一風変わった鉄道だ。
 臨海鉄道という名前が示すように、この鉄道はもともとは貨物輸送専用として建設された。大洗鹿島線以外に鹿島臨海線があり、こちらは現在でも貨物専用路線として臨海工業地帯の重要な輸送を担っている。ただ輸送の主役が鉄道からトラックに移った(注1)ために経営は決して楽ではないようだが、旅客の乗れない鉄道には残念ながら協力のしようがない。

 大洗鹿島線はもともと国鉄鹿島線として水戸と鹿島を結ぶ鉄道として計画され、鉄建公団によって建設された。深刻な赤字財政に喘いでいた国鉄は鹿島線の延長を拒んだため、行き場を失いかけたこの路線は第3セクターとして開業し、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線となった。霞ヶ浦の一部(注2)である北浦と鹿島灘の間を北上し、那珂川河口に位置する大洗で西に進路を変え水戸に至る、延長53キロの非電化単線路線である。

 さて厳かな雰囲気が漂う鹿島神宮の杜から少し下ったところにJR鹿島神宮駅がある。『常陸国風土記』にもみえる由緒ある神宮には武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ)が祭られ、古くから武神として尊崇を集めていた。参道にある駅前の広場には剣豪塚原卜伝の碑が建っていて、戦う人々の聖地といった感がある。
 この地に関係する戦いでも物騒でないのが、生き死にに関係のないサッカーJリーグの戦いであろう。鹿島アントラーズの本拠地、茨城県立カシマサッカースタジアムは、鹿島神宮から2~3キロのところにある。普段は列車の停まらない駅には、何本もの側線があって、サポーター達の輸送用に列車を留置しておく所と思いきや、実は臨海工業地帯からのコンテナ列車の留置線だそうだ。ホームとは比べものにならないほどの長い待避線が、貨物用であることを示している。
水田の向こうに見える北浦

丘陵地帯の麓に横に広がる水の帯が
北浦。南北に20数キロにわたって
細長く横たわる、ほぼ北限の風景。
 さて、大洗鹿島線は北浦と鹿島灘の間を通るといっても、残念ながら海や湖水が堪能できるわけではない。ハマナスの自生南限地に近い、その名も鹿島灘駅ですら海岸から1キロ以上隔たっている。海岸線をのんびりと行く普通のローカル線とは異なった雰囲気が漂っている。そもそもコンテナ貨物の輸送が可能なように鉄建公団が建設した路線だけあって、列車はひたすら真っ直ぐに林や畑の中を北に向けて走る。起伏に乏しい土地なので高架や盛り土区間はほとんどないが、それなのに踏切はなく、あまり車の通らないような道路までもが高架橋となっていて、まさに近代的なローカル線なのだ。

 集落の集まっている鉾田に近づいたところで、わずかに北浦が見える。湖畔に沿って走ってくれればいいのにとは思うが、産業効率優先の路線は旅の情趣には無頓着である。
涸沼(ひぬま)
 その後、どこで分水嶺を越えたか分からないうちに那珂川水系の涸沼がちらりと見える。こちらも北浦と同様に汽水湖なのだが、どんな湖かわかるほど近くには寄ってくれない。そうこうしているうちに、沿線最大の町大洗に着いた。側線には二両編成のディーゼルカーが停まっている。大洗・水戸間は列車本数がほぼ倍になり、日中は1時間に二本程度運転されているのだ。
単線高架
 那珂川流域は水田が広がり、人口も増えてくる。大洗を過ぎると列車は高架線の上を走るようになる。途中進行左側の丘の上に大仏が見えて来た。森の中に鎮座している。後に知ったことだが、それはホトケではなくヒトだった。『常陸国風土記』に出てくる伝説の巨人、ダイダラボウの像だったのである。丘の上に居ながら海岸に手が届いてハマグリをさらうことが出来、片足の痕跡はなんと偕楽園脇の千波湖となったという伝承が残っている。前者はこの地にある貝塚の由来を説明し、後者は湖の形の由来を解き明かしてくれる、伝承はまさに古代人の知恵であった訳だ。
大仏?
 列車は緩いカーブを切りながらトラス橋を渡って常磐線に寄り添いながら水戸に到着する。国鉄の路線として計画されただけあって、事実上の起点である鹿島神宮もこの水戸駅もJRと完全に一体化していて、一見地方鉄道であるようには見えない。水戸と鹿島臨海工業地帯を結ぶ貨物線に間借りするような旅客鉄道とでもいったらよいだろうか。ただ、この路線に乗って振り返ってみれば、常陸の国は紛れもない神話の国であるということだった。武甕槌大神に始まり巨人の足跡で終わるこの鉄道は、『古事記』や『風土記』という日本を代表する神話を身近に感じることが出来る、歴史探訪鉄道でもあった。
水戸駅で出発を待つ鹿島神宮行

(注1)近頃また風向きが変わってきた。人口の減少によって、トラック運転手不足が懸念されているそうである。味の素は2016年から500キロ以上の輸送をトラックから船舶・鉄道に切り替えると発表した(2014/5/28日経)。人口減少は鉄道会社にとっても頭の痛い問題だろうが、長距離鉄道貨物の回復が思わぬ救世主となるかもしれない。

(注2)霞ヶ浦は、西浦・北浦・外浪逆浦(そとなさかうら)・北利根川・鰐川・常陸川の各水域からなる総称だという。大きく二股に分かれた湖を指しているものだと不覚にも思っていたが、それは正式には西浦と呼ぶ。私のように思い込んでいる人も多いようで、西浦を狭義の霞ヶ浦と考える向きもあるらしい。


(2010/5/13乗車)



郷愁のひたちなか海浜鉄道湊線

阿字ケ浦
 終点の阿字ヶ浦は常磐線勝田から旧型気動車にゴトゴト揺られて8駅目、距離にして14.3キロの地点にある。駅から5〜6分歩けば阿字ケ浦海水浴場があり、花々が楽しめる国営ひたちなか海浜公園もさほど遠くない。しかしまず楽しめるのが終点阿字ケ浦駅そのものだ。味わいある終着駅としてはまさに一級品で、そのまま鉄道模型のジオラマにでもしたくなるような風景がある。町はずれの広い空、清潔だが古びた駅舎とレトロな気動車。長い年月、大切にされていたものが今も息づいている。
 
前照灯を挟む二つのタイフォン
 停車中の気動車は一見国鉄車両に見えるが、前照灯周りを見ると一風変わっていることに気づく。両側にタイフォン(警笛)が付いているこの車両は、1969年まで北海道の留萌鉄道で活躍していたキハ2005である。国鉄の普通列車キハ22と似た車両だが、タイフォンの位置と形状が個性的で、その上に国鉄の急行塗装を施すなど湊鉄道線はなかなか憎い演出をしている。
那珂湊駅にて
注目は車庫に停車中のキハ2004
国鉄準急色。手前は海浜鉄道に
よる新造車両キハ3710形。  
 留萌鉄道から移って来た同系気動車はもう一台あって、こちらは国鉄の準急塗装を施したキハ2004である。どちらも車歴がだいぶ古くなって来たので、いつまで運用されるか心配だが、昨今の地方鉄道が歴史的記念物として車両を大切に保存してくれるのは大変嬉しいことだ。鉄道会社の努力と沿線の牧歌的な風景が相俟って、私たちの心に郷愁を感じさせるのだが、ようやくこの日本にも英国の保存鉄道のような試みが始まっているのかもしれない。古いものを大切にしつつ実用に供する。そのために敢えて国鉄時代を彷彿とさせるようなカラーリングを施す。ひたちなか海浜鉄道の試みを今後も見守りたい。
那珂湊駅にて
キハ2005の後ろにキハ222
 ところで沿線で乗降客が一番多いのはもちろん那珂湊である。那珂川をはさんで大洗の対岸に位置する那珂湊には関東でも有数の漁港があり、駅から15分ほど歩いたところの那珂湊おさかな市場はいつも観光客で賑わっている。休日の駐車場は混雑するし、新鮮な魚を楽しみながら一杯やるのも悪くない。そんな時、やはり頼りになるのは湊鉄道線ではないだろうか。勝田までスーパーひたちでやって来て、海浜鉄道に乗り換え、おさかな市場で軽く一杯…こういう観光客が増えれば少しはローカル私鉄の赤字も解消するのだが。

那珂湊駅にて
改札口のある上りホームから下り
ホームまでは線路を横切っていく
必要がある。引っ切りなしに走る
都会の鉄道では見かけなくなった
 那珂湊の駅で帰りの列車を待っていると、キハ2005に連れられて、これまた珍しいキハ222がやって来た。この車両は1970年に北海道の羽幌炭礦鉄道から払い下げられたものである。羽幌は留萌よりも更に北にある最果ての地だ。この二両は炭鉱の閉山とともにこの地に移り、第二の人生を歩んでいる。
旋回窓の向こうには
田植えの終った水田
が広がっている。
 
 キハ222は極寒の地の鉄道らしく、ワイパーではなく旋回窓が使われている唯一の旅客車両だそうだ。冬の羽幌を訪れたことはないが、真夏にこの地方をドライブした際、日本海に沿ったオロロンラインに点在するシェルターには驚いた。本州では地吹雪を避けるために道路沿いにフェンスを張る地方があるが、最果て天塩地方ではもっと徹底して、かまぼこ型のドームで道を覆っているのだ。風が静まるのを待って次のシェルターまで車を走らせるのだろう。この旋回窓を見ていると、この車両がかつて厳しい北国にいたことを思い知らされる。

 さて、そろそろ気動車を乗り尽くす常磐路の旅も終わりが近づいた。常磐とは常陸と磐城の合成語だから、本来は福島県の気動車にも触れなければならないところだ。ただ、今回はローカル私鉄ばかりを取り上げているので、私鉄はすべて電車の福島県については触れないことにする。
 関東地方では茨城県以外に千葉県でも気動車が活躍している。こちらはそのうち房総横断鉄道として紹介してみたい。いつのことになるかはわからないけれど。
(2010/5/13乗車)
 




2013年7月22日月曜日

スカイライナー VS 成田エクスプレス

 千葉にあって神奈川にないもの、それは「東京××」。東京ディズニーリゾートと新東京国際空港、ちょっとマイナーだが東京ドイツ村もある。千葉にとっては、なんとも微妙なネーミングではある。千葉国際空港や千葉ディズニーリゾートだとお客さんが集まらないだろう。「神奈川××」がないのは神奈川がブランドなのではなく、そもそも神奈川県民は自分が神奈川に住んでいるとは言わないのだそうだ。横浜・鎌倉・湘南等々を名乗るのだという。なるほどね。
 それにしても千葉国際空港ならぬ新東京国際空港がある成田までは、遠いなあと思っている人は多いに違いない。羽田がもっと利用できればいいのに。あちらは5本の滑走路、こちらは1.5本の滑走路しかない。しかし、やはり国際線のメインは成田だ。だから、成田までどう行こうということになる。リムジンバスは安いし、いろいろなところから出ていて便利だが、渋滞が厄介。近年、鉄道がとても便利になった。ということで、京成・JR対決!

京成高砂駅通過 成田空港行
 日暮里から高砂までは曲線も多いために100㌔を超えることはない。特に高砂ではきつい分岐をするので、40㌔程度に減速してゆったりと走る。新柴又を通過したところから120㌔を超えた軽快な走りとなる。北総線はどの駅も減速する必要のない構造になっている。特に千葉ニュータウンを突っ切るあたりは、両側の一般道も含めて直線が続く。それにしても、スカイライナーの160キロは実に素晴らしい。印旛沼の脇を滑るように通り過ぎ、成田湯川では減速することなく通過、その先の複線から単線に移る箇所も国内最大の38番分岐器で160キロ走行が可能だ。成田湯川から空港側は直線の為300キロ走行も可能という優れものだ。これと同じ分岐器が高崎駅安中榛名側にもある。京成車両は標準軌だが、車両はミニ新幹線と同じ。前回乗車の際は座席が車端だったため振動が気になったが、今回は中央のため安定した走行感だった。そしていくつかのトンネルを抜けて第1ターミナルへ。この時の減速がかなりきつめで、無駄のない高速からの停車という感じがして興味深い。
長野電鉄で活躍する旧N'EX
スノーモンキー
横浜駅停車中 大船行
 帰りは新宿までN'EXに乗ってみることにした。旧N'EXはリクライニングしない固定シートで如何にも力の入っていない特急車両だった。金儲けの上手なJR東日本は、やる気のない時には徹底して手を抜くが、一旦商機を見い出すと徹底して客獲得に乗り出す企業だ。そういうところが、鉄道愛好家からすれば実に気に入らないのだが、横浜や新宿・渋谷の客が期待できると見て、力を入れた。乗車すると新建材的な臭いが鼻につくが、見た目が綺麗な列車である。フォルムや色彩も都会的でいい。驚いたのは、空港を出るとノンストップで東京なのである。スカイライナーに比べ足は遅く、成田駅や千葉駅では分岐器通過の際に最徐行するものの、このノンストップ効果は大きい。1時間ほどで東京に着くから、スカイライナー利用より早い。この先、渋谷停車のみ。ただ渋谷も新宿も遣り繰りして造ったホームだから、お馴染みの渋谷駅や新宿駅までは結構歩くことを覚悟しなければならない。

2008年12月27日土曜日

昭和が漂う烏山線

宝積寺から始まる単線の旅

 烏山線は東北本線宝積寺から烏山までの間わずか20.4㎞、全線単線のローカル線だが、その旅は宝積寺から二駅上野寄りの宇都宮から始まる。1時間に一本程度の閑散とした路線であっても、朝晩を中心に日に5本の列車が宇都宮までやって来るからだ。新幹線ホームの反対側に何本もの留置線があり、その片隅に昔懐かしい2両編成の気動車がちょこんと止まっている。車両は近頃だいぶ少なくなってきた旧国鉄時代に造られたキハ40型である。今回の旅では時間の制約があるので、宇都宮からは普通電車に乗り換え宝積寺駅からディーゼルカーに乗り換えることにした。

 個性に乏しい駅が多くなっている中で、この宝積寺駅は一見の価値がある。著名な建築家隈研吾設計の駅舎は、特に橋上駅に通じる階段の天上に驚かされる。薄い板を幾何学的に組み合わせたそれは荘厳な感じさえするし、ガラス張りの駅舎も地方駅とは思えないほどの意匠だ。しかも蔵をシンボルと考えているこの町にふさわしい駅前広場の設計と言い、実に個性的な駅なのである。その真新しい宝積寺を出発した気動車は、東北本線の線路に別れを告げるとすぐに台地を抜けて広々とした田園地帯へと出る。風は冷たいが抜けるように晴れ上がった冬空の下に、刈り取ったあとのブラウン色の田圃が広がっている。あたり一帯の高根町では「ちょっ蔵の町」というキャッチフレーズで町おこしを図っているだけあって、あちらこちらに蔵が点在している。ここの蔵造りは石組みのものが多く、漆喰で塗り固めたものは見当たらない。栃木名産の大谷石で組まれた蔵も数多くある。

 時折車窓に流れる看板を見るとどうやらコシヒカリの産地らしく、豊かな土地柄のようである。門構えがしっかりした農家も多い。そんな風景の中をのんびりと気動車が走ってゆく。畦道、というか舗装されているので狭い農道というべきだろうが、そこに老人が腰を下ろしている。手にした杖からして天気に誘われて散歩に出た風情だが、それにしてもこんなだだっ広い田圃の中、ちょっと遠出しすぎじゃないですかと心配になるくらい、あたりには何もない。

メタボなキハ40

 キハ40型は旧国鉄が造った気動車だけに、転覆しても壊れないのではないかと思えるほど頑丈で重厚に造られているが、その図体の割にはエンジンが非力なので、豪快なエンジン音を撒き散らしながらも、それほど加速するわけでもなく、ちょっとした坂にとりかかるとまるでジョギングでもしているかのようなゆっくりしたペースでしか走れない。途中の鴻野山駅付近にサミットがあり、わずか10人にも満たない程のがら空きなのに、気動車は喘ぎながら登っていく。風景と同じように時間がゆったりと流れていく。下り坂になれば軽やかな走りになるだろうと思いきや、今度は重たい車体が転がり落ちるのを食い止めようと必死のブレーキングが始まって、ロングシートに腰掛けた身体が何度も揺すぶられる。何ともメタボなキハ40ではある。


 車窓には立派な門構えの農家が続き、ここに住む人たちはこんな時代遅れの烏山線には乗らないだろうなという思いが募るばかりだ。「電化のためにみんなで烏山線に乗りましょう」という看板がこのローカル線の苦境を裏付けている。さらに丘陵地帯の上にはゴルフ場が広がっていて、この烏山線だけが昭和の遺産なのであった。

通票閉塞式が残っていた!!

 大金という実に景気の良い名前の駅で上りと下りの列車が交換する。沿線のほとんどの駅は無人駅であるが、ここでは赤い帯の帽子を被った駅長さんが赤と緑の旗を持って運転席にやって来て、乗務員に何か手渡しをしている。何とタブレットであった。大金から終点の烏山までの間に列車は1編成しか入ることを許されていないので、このタブレットはそれを許可するスタフというタイプの通行許可証なのである。だから駅の外れにある二灯式信号は昔の腕子木式と同じような転轍機と連動したポイント通行の可不可を示すものに過ぎないのだ。ここでも昭和が続いている。


駅の名は、「滝」

 小塙を過ぎると再び登りとなり、トンネル内でサミットを越えて、坂を下りながら右にカーブを切ると滝駅に着く。この無人駅がまた何ともいい風情だった。 駅名は「滝」。自然の景物そのものをそのまま駅名にするなどという大胆な例を私は知らない。列車から降りるとそれこそホームと日本海しかないことで有名な信越線の青海川駅だって海や川という普通名詞に対して形容詞的に「青」が付いているし、山の上に寺がある仙山線の山寺だって確かにそのものずばりの命名だが、そもそも地名の語源は素朴なものが多いものだ。近くに龍門の滝があるから「滝」というのだろうが、実に大胆不敵な命名である。まさか名前倒れじゃあるまいなと思いつつ駅から5分歩いて合点がいった。実に名瀑なのである。逆にやるなあと妙に感心してしまった。滝口に一軒の茶屋があり、付近は観瀑台を擁した公園になってはいるものの、俗化されていないところがいい。しかも鉄路の旅人にとってうれしいことに、滝の後ろを烏山線が走っているのである。先ほど乗ってきた列車が折り返しの上りとなって40分後にやって来るので待つことにした。
 真冬のこの時期、だれ一人訪れる人はいない。窪地のため冷たい北風も幾分和らいでいる。することもなく待ちくたびれた頃になって、列車はやって来た。ゆっくり走る列車のことだから例の轟音を合図にカメラを構えればいいと油断していると、思いの外音も立てずにスコスコと走る気動車が視界に飛び込んできた。ちょうど下り坂に差し掛かっていたのである。ここを逃すとあとがないとばかりにシャッターを切った。 


終着駅 烏山

 滝から終点の烏山まではたった1駅。川の流れに沿って山を迂回し、大きくΩループを描きながら城下町烏山に向かう。里山に囲まれた静かな町である。廃藩置県で一度は烏山県となったこともあるというのが信じられないほど、あたりは閑散としている。それにしても終着駅はどこも寂しげな風情が漂うが、それが何とも言えずいいものだ。烏山駅もその先に行き場のないどん詰まりの駅として、どこか悲哀が漂っている。単線が分岐し相対式のホームが2面あって、ホームの先でまた単線に戻っている。2両編成の気動車がもて余すほどのホームの長さである。今から30年ほど前、末期の国鉄がイベント列車として行き先不明のミステリー列車「銀河鉄道999」を企画したとき、その目的地がここ烏山だったことはあまりにも有名だ。9両の客車を機関車牽引で運転したという。機関車を付け替えることが可能なほどの規模があるということだ。しかも、現在は大金~烏山間に2編成以上の列車が入ることはなく、1線は使われることがない過剰施設ということになる。線路表面に浮いた赤錆が、終着駅のもの悲しさをより一層強めている感じがする。身勝手な旅人は、そこに懐かしい昭和の面影を感じ取り、いつまでもこのままであって欲しいと願うばかりなのである。 (2008/12/27乗車)

2008年12月25日木曜日

二つの顔を持つ水郡線


電車のようなディーゼルカー

 8時17分発の水郡線・常陸太田行が入ってきたとき、一瞬通勤電車がやって来たのかと思った。何の予備知識もなく、時刻表だけを頼りに早朝東京を発って水戸まで来たので、近年水郡線用に導入されたキハE130系ディーゼルカーの存在を迂闊にも知らなかったのである。裾を絞った幅広車体に強化プラスティックとステンレスの組み合わせは、首都圏の最新式通勤電車と変わるところがない。黒地に鮮やかな黄色と青が組み合わされたカラーリングは、うら寂れたローカル線のイメージを完全に払拭している。ついにノスタルジーとは切り離された地方新時代の波が鉄道にもやって来たのだなと感じる。

水戸⇔常陸大宮・常陸太田は近郊路線

 水戸を出るとすぐに那珂川を渡る。橋梁が川面に近く、素人目に見てもいかにも水害に弱そうだ。現在新しい橋に架け替え工事を行っている最中である。水戸は関東平野の外れに近く丘陵地帯の間に平地が広がっているために、比較的多くの人々が暮らしていて、水郡線沿線には人家と田圃、畑が混在している。だからローカル線とは言いながらもこの周辺では通勤通学の大切な足となっているのである。4両編成の幅広車体を持つ列車が、朝は1時間に3本運転されている。常陸太田への支線が別れる上菅谷までは駅間も短く、単線で非電化のすっきりした線路であることを除けば、新型ディーゼルカーが走る風景はまさに郊外電車が走る姿そのものである。
 ところで 、常陸太田から水戸までの間には朝晩だけ1時間に1本だが直通列車がある。水戸までの距離は19.6㎞、わずか34分だからもっと利用客が多くても不思議はないが、おそらく多くはマイカー出勤で、ここでも殆どが高校生の通学用なのだろう。常陸太田には2005年まで日立電鉄が来ていた。常磐線の大甕(おおみか)を通り、日立に近い鮎川までを結んでいたが、残念なことに廃線となってしまった。従って地元の人にとってはJR水郡線が大切な足に違いないものの、車社会となった今、子供と老人以外は利用者も少ないのだろう。ローカル線はどこへ行っても観光資源がない限り、常に廃線の危機に晒されていると言える。この斜陽の社会インフラを支えているのは高校生である。高校生のいない日中、上菅谷・常陸太田間を折り返し運転しているこの支線の将来は、一体どうなるのだろう。

 久慈川の流れに沿ったローカル路線

 上菅谷に戻り、1日8本あるうちの9時40分発郡山行を待つ。やって来た列車は満席だった。これで運転台の後ろから風景を楽しんでも恥ずかしくない。山方宿を過ぎると山がぐっと迫ってローカル線らしくなる。外観は通勤電車風の気動車だけれども、2人掛けと1人掛けのクロスシートなので旅にはとても快適だ。中舟生(なかふにゅう)からは久慈川に寄り添って走り、運転席の後ろから見る景色は素晴らしく、柵のないガーター橋で久慈川を渡る所などは今にも落ちそうでスリル満点である。観光で乗車している人が殆どで、おそらく袋田の滝を目指すのだろう、途中駅で降りる人はいない。列車はほぼ満席状態のまま、渓流をくねくねと遡っていく。西金には採石場があり、近頃のローカル線ではすっかり珍しくなった貨物列車のヤードがある。両側から迫る渓谷美を堪能しながら常陸大子まで列車は走る。予想通り途中の袋田で大部分の人は下車し、残った人たちも大方常陸大子で降りてしまった。茨城県最後の町である。
 特に渓流を楽しめる風光明媚な車窓はここまでで、この先は列車本数も半減する。駅には何本もの留置線があって、折り返して水戸に向かう二両編成の気動車が止まっている。矢祭山で久慈川の流れは福島県に入り、緩やかな流れは棚倉まで続く。これ以後、列車はなだらかな阿武隈高地に四方を囲まれた盆地をトコトコと走るのである。田圃が広がるこの地方を南北に久慈川が流れ、水郡線は申し訳なさそうに山裾を慎ましやかに大回りして北上する。鉄道が控えめに敷設されているのに、新参者の道路は盆地のど真ん中を突っ切っているのを見ていると、いい加減にしなさいよと小言を言いたくなる。
 そもそも平らな土地に分水嶺があるのだから、サミットをいつ越えたのかは全くわからない。奥久慈の渓流から下ってきたのではなく、遡ってきたというのも妙な感じである。磐城浅川のホームには「水郡線で一番高い駅 306m」の表示が出ていた。決して高いわけではない。
 外の空気は冷たいようだが、福島県中通りの天候はすこぶる良い。日差しが強いので、乗客の一人が車掌にブラインドかカーテンはないのかと尋ねていた。キハE130系には、最近の通勤電車と同じようにカーテン類の装備がない。紫外線カットの特殊ガラスだから必要なしということだろうが、実際には眩しく感じることも多いし、緑の色ガラス越しに見る風景はちょっと不自然な色合いだ。経営上手なJR東日本だから、経費削減、メンテナンスフリーのためであることは間違いない。せっかくいい気分で車窓を楽しんでいる旅行者には、ちょっと興ざめである。やはりキハ110系に装備されているような、アコーデオン式のカーテンこそがローカル線にはふさわしい。
 車窓左側遠くに雪を被った山脈が見えてくる。高度が下がり景色が広々として来て、終点が近いことを感じさせる。進路を西に変えて阿武隈川を渡り、新幹線高架橋をくぐると東北本線の線路が寄り添ってきた。スピードが増し、三線区間をしばらく進むと水郡線の終点安積永盛に到着。午前授業を終えて帰宅する女子高校生がたくさん乗車してきて、ガラガラだった車内は立ち客であふれた。再び近郊線に戻ったのである。もっともこの辺りは東北線の普通列車が多く通るところであり、乗客の大半はたまたま水郡線からの気動車に乗ったに過ぎない。12時33分、上菅谷から3時間をほんの少し切るくらいのちょっとした長旅であった。郡山駅には会津若松行の赤べこ模様の快速電車が止まっていた。磐越西線の会津若松まではまだ未乗車区間である。そのまま乗って行ってしまいたいと思いつつ、次の目的である磐越東線に向かった。 (2008/12/25乗車)

2008年12月11日木曜日

西関東の里山めぐる八高線


ロングシートでも旅気分

 箱根ヶ崎を過ぎ金子に近づくとそこはもう埼玉県である。川があるわけでもなく、畑が続いているだけなのでいったいどこで県境を越えたかはわからない。それにしてもこのあたりの風景はいい。里山を背景に丘陵地帯が続き、綺麗に刈り込まれ縞模様に植えられた茶畑が広がっている。霜よけの扇風機も据え付けられていて、ここ金子はまさに狭山茶の産地なのである。畑が尽きて電車は登りに差し掛かり、雑木林を越えていくと視界が開けて突然大きな建物が見えてきた。それは飯能市郊外にある大学の校舎だった。緑豊かな素晴らしい自然環境の中にあるキャンパスだが、学生もここまで通うのはさぞ大変なことだろう。少子高齢化が進み、一方で都心回帰の傾向が著しい昨今、この大学の経営も大変だろうなと思ってしまう。

 205系通勤電車は景色を楽しむには不向きなロングシートである。確かに八王子を出るときには、通勤客でほぼ定員乗車程度であったが、一つ目の北八王子で大部分の人が降りてしまったあとは、殆ど誰も乗ってこない。閑散とした車内で、からだを捻って車窓の風景を堪能する。八高線は飯能市の中心部を避けて緩やかにカーブを描きながら東飯能に向かって下っていく。市街地の向こうには奥武蔵の山々が続いている。

 9時38分、東飯能到着。上り電車との交換のため6分停車である。私の乗ったクハ205-3001は、4両編成の通勤電車であることを忘れたかのようにボケッとしている。八王子付近と川越付近では通勤客も多いのだろうが、それ以外はローカル線そのものなのである。八高線と川越線を無理やり結びつけなくても良かったのにと思う。沿線を電化し、効率的な車両運用のためにはそれしかなかったのだろうか。せめてセミクロスシート車に改造してもらいたいものだ。薄曇りの中、扉は閉まっているのにどこからか寒さが忍び込んでくる。窓の向こうには西武線のホームが見えるが、何とホームも線路も1つしかないローカル仕様だ。
 八高線の電化は高麗川まである。従って、八王子発の電車はそのまま川越線に向かっていく。電化されていない高麗川こそが八高線の事実上の始発駅である。


気動車登場、里山めぐり


 八高線には、関東平野を囲む秩父山系の山裾を等高線に沿って走るローカル線というイメージが強い。実際トンネルは一つもなく、丘陵は迂回し、雑木林を抜けては次の集落へと列車は進んでいく。キハ110系は強力な気動車だ。電車並みの加速性能を持つという謳い文句通りに旧式のディーゼルカーとは比較にならない力強さでぐんぐん加速し、速度も速いので惰性で進む時間も長いため、騒音も気にならない。ドア付近はロングシートだが、通路を挟んで2人掛けと1人掛けのクロスシートを向かい合わせに配置したアイディアは、近郊運用も可能なローカル車両としてなかなか良いアイディアだったと思う。製造されてすでに 年も経っているが、時代の進歩を感じさせる気動車である。
 毛呂には医科大学がある。山里に巨大な病院だけが目立つ、医師不足とは無縁な田舎である。普通は自然と引き替えに便利さを放棄するわけだが、老後を過ごすにふさわしい土地の様に思えてくる。次の越生には、東京で見慣れた東武線がやって来る。その先の小川町にも東武東上線の駅がある。電化されていない線路は如何にも古びていて旅の情趣をかき立ててくれるが、併走する東武線はいつもの見飽きた風景で、ここでは現実と夢が同居している。里山に囲まれた小川町は和紙の里としても有名だ。東武東上線も池袋からの直通電車はここまでで、この先の寄居までは編成の短いワンマン運転に変わる。いよいよこの旅も佳境に入ってきた感じである。
 八高線沿線のハイライトは、寄居へのアプローチである。秩父山塊のはずれに位置する寄居周辺は、秩父を源流とする荒川が関東平野に流れ出すところで、いくつかの里山に阻まれて蛇行を繰り返している。南から寄居町に近づいてきた八高線は、荒川に阻まれ手前で進路を北から西に大きく変える。雑木林の向こうに荒川と寄居の町が見えてくるが、列車はしばらく上流に向かいながら次第に高度を下げるのである。川面が近づいたところで再び進路を北に向けてトラス橋を渡河、下には暴れ川特有の大岩がごろごろとした河川敷が見える。渡りきったところで、再び進路を東に大きく振り、たくさんの線路が輻輳する寄居駅に到着するのだ。
 寄居は八高線以外にも東武鉄道や秩父鉄道が集まる交通の要衝である。もっとも町はそれほど発展している様にも見えないし、八高線は非電化のローカル線だから、ムードたっぷりの田舎駅である。もっともここでの主役は、今も石灰石運搬で貨物輸送が盛んな秩父鉄道であり、寄居駅も同社が管理している。だから八高線も東武線も地方鉄道に間借りする脇役に過ぎない訳で、それだからこそ、何とも言えない風情が出てくるというものだ。


八高線、ラストラン


 八高線はここから山と離れ、関東平野へと入っていく。群馬藤岡を過ぎれば新幹線や上信越道と交差して、何やら見慣れた風景が広がる。上信越道・藤岡のハイウェイオアシスの近くを通るのである。車では何度も通ったことのある場所だが、新幹線の高架橋ばかりに目を奪われて、その下に線路が通っていることには全く気が付かなかった。単線の鉄道は本当に控えめである。北藤岡の駅は高崎線のすぐ脇にあるがあくまでも八高線だけの駅で、高崎線との接続駅倉賀野まではかなりの距離がある。列車は北藤岡のホームを出るとすぐに高崎線の線路を走り出した。従って実質的には北藤岡~倉賀野に八高線の線路は存在しないといって良い。強力なエンジンを擁するキハ110は快調に高崎を目指す。このスピードなら本線上で後続電車に迷惑をかける恐れもない。上りの八高線列車と擦れ違い、右にカーブを切りながら新幹線高架下を通れば、高崎駅は近い。旧型客車が5,6両止まっているが、SL運転の際に運用されるものであろう。こんどはあれに乗りたいなと思っているうちに、駅片隅の切り欠きになった2番線ホームに滑り込む。いかにもローカル支線ふさわしいホームである。(2008/12/11乗車)

2008年11月30日日曜日

日暮里・舎人ライナーの楽しみ方


日暮里ターミナル

 かつては駄菓子屋問屋が立ち並ぶ下町風情たっぷりの日暮里だったが、今や日暮里・舎人ライナーの完成をきっかけにだいぶその姿が変ってきた。高層マンションが聳え立ち、京成電鉄もスカイライナーの160㎞運転を前に駅を大改造し、完成すれば東京国際空港の正面玄関口として、それまでの薄暗いイメージを払拭し、一大ターミナル駅として変貌を遂げるはずである。と言うわけで、鉄路の旅人にとっても日暮里は見逃せない場所の一つなのだ。
 さて、その日暮里・舎人ライナーは東京都交通局が建設した東京でもっとも新しい鉄道の一つだ。陸の孤島と呼ばれた足立区の舎人地域と山手線を結ぶ動脈として計画された。人口は少なくないものの、ニュータウンがあるわけではなく、高規格の鉄道を建設してもその資金を回収することが難しい地域である。新交通システムは、莫大な建設費用を必要とする地下鉄と違い、既存の道路上の空間を有効活用し、タイヤ走行の軽量車両を無人自動運転をさせることで建設費と運行費を大幅に節約する鉄道だ。だからといって安かろう悪かろうではなく、ところどころに工夫があって新交通システムなりの楽しみ方がある。無人運転だからこそ味わえる先頭車両かぶりつきからの風景もその一つであるし、線路のシステムも見逃せない。

ポイントの仕組み

 普通の鉄道は車輪のフランジによってレールに沿った走行をするが、新交通システムの場合は軌道全体が車両を挟み込む形になっていて、喩えは悪いが模型のミニ四駆のような仕組みであり、コースの中を車両がタイヤ走行していると言っても良い。
 注意深く見ていないと気がつかないのだが、分岐部分に緑と赤に塗り分けられた小さな分岐器がある。直進側の時は緑が開き、分岐側の時は赤が開いて車両をガイドする。それに連動して、分岐側の信号が緑色に変わるという仕組みである。舎人ライナーは無人運転だから本来軌道上に信号など必要ないのだろうが、小さく控えめなLED発光の信号機が付いているのは保守要員の便を図ってのことだろう。ホームドアが閉まり、静かにライナーは日暮里駅を出発する。ポイントを過ぎると、いきなり90度進路を変えて次の西日暮里を目指す。新交通システムは道路上を走るので、まるで路面電車のように小回りが利かないと役に立たない。こんなに半径の短いカーブの場合、鉄製の車輪ならキイキイと耳障りな軋み音を立てるものだが、タイヤを履いたライナーは実にスムーズに曲がっていく。当然勾配にもめっぽう強いので、モノレールと同じ様にアップダウンに富んだ場所でも問題ない。普通の鉄道と比べて地形の制約を受けにくい優れた特性を持っている。地下鉄と違って高い位置から町並みを見下ろせるのも、実に爽快な気分にさせてくれる乗り物だと思う。一番の見せ場は、足立小台から扇大橋にかけて隅田川・荒川を越えるところで、荒川に沿った首都高速道路の上を通過するために驚くほどの高所をライナーは通過するので、広々とした河川敷の眺めは勿論のこと、秩父や丹沢の山々や新宿の高層ビル群も一望のもとだ。

沿線

 舎人ライナーは、尾久橋通りに沿って西日暮里からほぼ真っ直ぐに北上し、埼玉県草加市の西、鳩ヶ谷市の南、川口市の東に位置する足立区舎人と結ぶ9.7キロの路線である。京浜東北線と東武伊勢崎線に挟まれたこの地域は、都内でも珍しいほど鉄道に恵まれない地域であったが、地下鉄南北線に直通する埼玉高速鉄道と舎人ライナーの開通で、少しずつ改善されてきた。都心回帰が著しい今、沿線開発はさほど進まないと思われるが、もともと競合する交通機関がないだけに固定客は着実に伸びているとという。無人運転のために増便もたやすく、朝7時台には13本、日中でも8本の列車があって、近郊型鉄道としては★★★級である。住宅地域としてブランドイメージの低い地域だが、着実に発展する可能性を秘めている。

絶景ポイントを発見

 東京に住む人なら誰も一度は車窓から見える富士山の姿にうっとりしたことがあるだろう。東京の東に住む人ならそれに筑波山が加わる筈だ。女体山と男体山という二つの山頂からなる特徴的なシルエットは、周囲に高い山がないだけに単調な関東平野の風景の中で一つのアクセントになっている。もちろん舎人ラーナーからも堪能できる。沿線に高い建物がないだけに、走るライナーからもじっくりとスカイラインが観察できるので、じっと目をこらして見たところ、特徴ある有名な山を発見した。富士山ほどは角が立っていない、すり鉢を伏せたような形の山、こちらは日光の方の男体山である。距離が遠くその姿はとても小さいが、薄く筋状に積もった雪の景色は紛れもなく崩落が激しい男体山の筋模様である。ビルの少ない舎人ならではの日暮里・舎人ライナー随一の絶景ポイントである。

終点 見沼代親水公園

 日暮里から20分で着く終点の見沼代親水公園は、東京の北の外れである。少し歩けばそこは埼玉県。東京都交通局の鉄道がそこに延びることはあるのだろうか。都営新宿線が、一駅伸ばして千葉県の本八幡まで開通したのは、総武線各停や京成線からの乗り換え客を新宿まで速達する戦略があったからであろう。そう考えると、沿線開発がこれからのライナーにとっては遠い先の話になるのではないか。ただ、ライナーの各駅ホームは、車両増結に備えて伸長可能となっている。あせらずゆっくりと今後の発展を見守りたいと思う。(2008/11/30乗車)