ラベル 13甲信越乗り尽くし の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 13甲信越乗り尽くし の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年7月9日土曜日

ちょっと寄り道 大糸線の巻

大糸線のこと

白馬三山と道祖神
 阿佐海岸鉄道を堪能し、高松から寝台特急サンライズ瀬戸で東京に戻ったあと、そのまま新宿から「8時ちょうどのあずさ♫」に乗り、私は信濃路を抜けて富山を目指した。梅雨のさなかとはいえ、驚くほど天気に恵まれた。甲斐駒から北アルプスの山々まで、息を呑むほどの絶景が続く。車窓大好き人間にとっても、これほど経験はなかなかできるものではない。あずさ号からの一枚を載せておく。
 以前にも記したように、大糸線車窓の最大の問題は電線が絶えず邪魔することだ。残念ながらこの一枚にもしっかり映っている。日本が観光立国を標榜するなら、電線の地中化は避けて通れないだろう。美しい仁科三湖も、車窓からカメラを向けると必ず電線が写り込んでしまう。一つ救われるのは、車窓を楽しむ我々の目には、あまり電線が見えないことである。心のフィルターは、大自然の美しさに目を奪われて、醜い人工物は取り除いてくれるようだ。夢中で写した写真を後から楽しみに見ると随分ガッカリするが。
 
 余談になるが、どうして信濃大町と富山を結ぶ観光列車を運行しないのだろう。翡翠で有名な姫川にちなんで、私はネフライト・エクスプレスと勝手に名付けて、その運行を空想している。ネフライトとは翡翠のことだ。

 立山黒部アルペンルートは国内屈指の人気ルートだが、マイカー族には途中で引き返すか、あるいは自動車回送サービスを利用するか悩ましいところだ。仮に富山(立山)・信濃大町間に別ルートの観光資源があれば、車を駐車場に停めて、ぐるっと一周することが可能となる。鉄道好きなら誰もが知っているルートがある。大糸線の北半分がそれで、大町からは珠玉の仁科三湖、後立山連峰の険峻な峰々、白馬三山を眺めた後は急流姫川の渓谷美が続く。

 特に姫川は両岸に山塊が迫り、古来塩の道と呼ばれる交通の要衝でありながら、道の確保に難儀した場所だ。今も国道148号線はスノーシェッドと呼ばれる落雪・落石・落ち葉や風水害から守る覆いに包まれて、とても姫川の景観を楽しむことなど出来ないが、考えようによってはスリリングな国道ともいえる。対岸の山塊を大糸線が走っている。糸魚川・静岡構造線と呼ばれる地質学上珍しい地形だからこそ、自然災害も多く、同時に景観も優れているのだ。今JR西日本は、収益性に悪さから廃線にしたがっている区間である。

 廃線は実にもったいない。今回私がJR西日本に支払った南小谷・糸魚川間の運賃は、わずか680円。1時間ほどのところを、小振りのディーゼルカーが1両編成で7往復するに過ぎない。これでは採算もとれないだろう。起死回生の秘策はあるのか。

 一つある、と私は思う。それも始めはお金を掛けずに。

 えちごトキめき鉄道に大人気観光列車「雪月花」がある。スイスの登山鉄道を彷彿とさせる真っ赤なボディーは、天井付近まで視界が開け、食事を楽しみながら走る列車で、糸魚川まで運行されている。なかなか予約の取れない列車だが、実は土曜と休日のみの運行なのだ。これを試験的に平日だけ運行してみればよい。富山・市振間はあいの風とやま鉄道、糸魚川まではえちごトキめき鉄道、南小谷まではJR西日本、信濃大町まではJR東日本が担当する。時刻表も考えてあるので紹介すると…

 7時30分富山5番線発車。7時55分魚津で宇奈月温泉方面からの客が乗ってきたところで朝食サービスが始まる。メニューは、日本海御前または白エビ海鮮サラダの洋定食からのチョイス。次第に大きくなっていく立山連峰を眺めながらの一時だ。途中親不知子不知の伝説を聞きながら8時46分、糸魚川2番線到着。ここで折り返し49分、大糸線に入る。ネフライト・エクスプレスの名前の由来となった翡翠やフォッサマグナの説明を受けながら姫川の景観を堪能する1時間だ。南小谷からはJR東日本が担当。ここからは白馬三山や仁科三湖を愛でながらのティータイム。10時39分信濃大町1番線に到着。
 信濃大町に車を停めて、すでにアルペンルートを楽しんだ観光客は、ここから家路に向かう。富山に車を停めた場合は、ここからアルペンルートを楽しみつつ富山に向かうことになる。
 一方早朝に首都圏や名古屋圏を車で出発した場合は、そろそろ大町に着いている頃だろう。ネフライト・エクスプレスの信濃大町出発は11時16分である。11時42分白馬を出発したところでランチタイム。メニューは、信州蕎麦会席または安曇野の山葵を利かせた飛騨牛ステーキランチ。ドリンクは安曇野ワインか日本酒大雪渓を始めとしてソフトドリンクも。長時間の運転、ご苦労様。糸魚川13時19分着。食後のティータイムを楽しみながら14時36分富山駅4番線ホームに到着。

 いかがだろう。車で移動する観光客に受けると思うのだが。4社合同というところが難しいかもしれないが、どこも損をしないはずだ。儲かるとわかればすぐ飛びつくのがJR東日本。資金力があるので、特別車両を作ってしまうかも知れない。商売下手な(と私は思うのだが)JR西日本も新幹線客目当てに、糸魚川からの区間乗車をあてこんだツアー列車を作ってしまうかも知れない。ただいずれにせよ、車社会と食文化を取り入れた豪華列車がポイントだろう。片道通行が原則のアルペンルートでは、多くの観光客が鉄道ではなく観光バスで立山か信濃大町まで行き、快走されてきたバスで反対側から抜けていってしまう。鉄道愛好家には、絶景の大糸線をいかしきれていないことが悔しくてしょうがないのだ。

(2022/6/29乗車)
 
 
 
 
 


2017年9月8日金曜日

木曽谷の森林鉄道


森林浴鉄道

 木曽の檜(ヒノキ)は、青森ヒバ・秋田スギと共に日本三大美林のひとつに数えられる。そしてここ赤沢自然休養林は、日本の森林浴発祥の地でもある。美林の中を散策すると、樹木が発散するフォトンチッドによって免疫力が向上するし、その香りによって心はリラックスする。ストレスに痛めつけられた現代人にとって、ここは癒しの場そのものだ。
アメリカ製蒸気機関車
ボールドウイン号(1916年〜1960年)
残念ながら静態保存

 高度経済成長期、伐採された樹木を運搬するための森林鉄道が日本中に造られ、木曽地方だけでも総延長500㎞に及ぶレールが敷かれた。線路幅がわずか762㎜しかない簡易鉄道である。それが今でもわずか1.1㎞だけ残されている。というよりも、1975(昭和57)年に一旦は全廃されたものの、1987(昭和62)年に自然休養林内の施設として復活した。であるから、赤沢森林鉄道は東京ディズニーリゾートのウェスタン鉄道と同じように正式な鉄道ではなのだが、だからといって作り物ではなく、日本遺産にも指定された歴史的建造物なのだ。
檜の大木の下、
赤沢の渓流を行く
森林鉄道

 森林鉄道記念館が併設された乗り場から、丸山渡(まるやまと)停車場まで、列車は赤沢の渓流に沿ってコトコトと走る。わずか7〜8分で着いてしまう短い旅だが、あたりには樹齢300年に及ぶ檜の自然木や、伊勢神宮の式年遷宮のために植林された檜などが生い茂り、途中には沢に架けられた二つの木製の橋を渡るなど、変化に富んだ風景が広がる。屋根だけが付いた吹きさらしのトロッコ客車に揺られているだけで、森林アロマセラピーができてしまうという贅沢な乗り物だ。
 渓流の沿って整備された「ふれあいの道」を散策する人達も、1時間に1本の森林鉄道が通るのが楽しみのようで、笑顔で手を振ってくれる。つられてこちらも年甲斐もなく手を振ってしまう頃には、すでに心も癒されている。
機回し線を戻ってくる機関車。
環境に配慮して煙の出ない
ディーゼル機関車を新造した

 丸山渡停車場で降りて、そこからはいくつもある散策コースを歩いて出発地点まで戻る人も多い。機関車を付け替える5分ほどの間、森林鉄道の前で記念撮影したり、せせらぎまで下りて一息入れるだけの人もいる。中には復路も森林鉄道を利用し、列車に乗ったまま森林浴を済ませてしまう人もいる。

 森林鉄道は麓に木材を運ぶことが目的だから、上流に向かう際は機関車はバック運転、荷を満載して下流に向かう際は前進運転となる。バック運転の場合、機関士は身体を捩って後ろを振り返るような格好で運転操作を行う。長時間運転の際は、さぞや苦しいことだろうと思う。

オープンな客車に坐っていると、
アロマの風が頬を流れて快い  

 この地はもともとは皇室の御料林だったこともあって、ひときわ大切に保護されてきた。森林鉄道記念館には、今上天皇が皇太子時代に訪れた際に乗車された貴賓車が残っている。小さな客車の中には、白いカバーの掛かった椅子が置かれていたが、決して豪華なものではない。
あすなろ橋を渡れば終点は近い

 また理髪車と呼ばれる特殊車両が展示されていて、山間で不自由な生活する人々のために、散髪のための施設が各所を回ったと説明がある。森林鉄道はそこで暮らす人々には欠かすことの出来ないものだったことが窺い知れる。しかしながら、あくまでも木材運搬が目的であって、人間様は二の次だ。1961(昭和36)年に上松運輸営林署が布告した掲示には「便乗中万一災害が発生した場合に於いても営林署は民法及国家賠償法に基づく損害賠償の責任は負いません」とあり、あくまでも自己責任で乗車せよと、今では考えられないようなことが書かれている。昨今の消費者(乗客)に過保護な姿勢も如何なものかと思うが、これはこれでまた凄い。日本人は真面目で、どこまでも極端なんだなあと思ってしまう。
(2017/9/8乗車)

 注)駅や車内で繰り返される録音放送は、列車の接近に始まり、行き先や停車駅、更には接近すれば注意を促す。時には録音を遮って、駅員が生で語りかけて来ることもある。実にうるさいし、そもそも客を弱者扱いし過ぎだ。事故が起これば、鉄道会社の安全配慮義務を問われるから、その対策なのだろうけれど。

【赤沢自然休養林への行き方】
中央線上松(あげまつ)あるいは木曽福島までは、名古屋から特急しなので1時間25分。そこから先は専用バス(1日3〜5往復)で、上松からは30分、木曽福島からは45分。

2014年8月7日木曜日

越後平野行ったり来たり

米どころ酒どころ

 新潟といえば米どころ酒どころ、豊かな土地だと長年思っていた。上越新幹線が長岡を過ぎると一面に田園がひらけ、その後ろには弥彦がデンと鎮座ましましている。夏の新潟は限りなく光溢れて熱く、広々とした穀倉地帯は北海道にも引けを取らない。稲はもともと熱帯性の植物だから、とてつもなく熱い夏の新潟こそ米作りに最適な土地だというのも納得がいく。どんなに冬が雪深くとも。
 会津から只見線で小出に抜ける際にも、福島側がいかにも寒村風景なのに対して、新潟側は雪深い冬対策がしっかりなされた屋敷に変わり、豊かな新潟を実感できる。ブランド米は宝の山、農家の人が聞けば苦労を知らない都会人の戯言に聞こえるだろうが、これが車窓愛好家の素直な思いだった。しかし、今回の旅をとおして、それは上っ面しか見ていない狭い了見であることを痛感した。

新潟駅をめぐって

 弥彦線と越後線に乗れば、新潟乗り尽くしの旅は終わる。八月上旬の昼下がり、新潟駅に下り立った私は、今までとはひどく違った印象を抱いていた。最初のキッカケは越後線吉田行の列車の窓が余りにも汚いことだった。長年使い回した115系電車の窓には、赤茶けた鉄錆がビッシリと付着して、快適な車窓など望むべくもなかった。
 やれやれと思いつつも、電車が出発すれば車窓に釘付けになり、西に向けてしばらくの間新幹線と併走する。ところで新潟駅の構造は少し込み入っていて、なんと東京へ向かう新幹線と東京方面へ向かう在来線は正反対の方向に進んでいくのである。これは実にわかりにくい。さらに秋田・青森方面と在来線の東京方面が同じ方向だというのもわかりにくい。もともとは日本海と平行に配置された東西に伸びるのスイッチバックの駅だったと言えば、少しイメージできるだろうか。大河信濃川を避けて在来線は敷設されたので、東北方面からの列車も東京からの列車も大きく迂回しつつ新潟駅に進入するのに対して、長大鉄橋を厭わない新幹線は真っ直ぐ西側から進んできて新潟駅で鉢合わせすることになったのである。
  信濃川を渡る。なお写真はイメージ処
理を施し、鉄錆の影響をかなり軽減し
てある。                        
 さて、今乗っている越後線は越後線は越後平野を縦断するからどうしても信濃川を渡らなければならない。ただ新幹線とは違って控えめに渡河するので、橋梁は出来るだけ短く、工費を節約するコースとなっている。そのためすぐに新幹線とは別れ、川と直交するルートを取る。それでも単線ながら堂々とした長大橋である。渡りきったところが白山駅で、かつて新潟交通電電車線の始発駅があった県庁前に近く、いまでも県の施設が数多く集まっている。
 この先越後線はひたすら住宅街を走り、通勤用の郊外電車という風情である。単線ながら各駅に列車交換施設があるので結構列車本数は多く、関屋駅では新型のE127系電車とすれ違った。ただあちらは実用一点張りのロングシート車である。
 どうもJR東日本は、仙台と比べて新潟を軽んじている感じがする。田中角栄元首相の威光によって新幹線を通したところまでは良いが、多くの在来線は古いものを使い回している。新幹線も古い車両が使われ、先程通ってきた新潟駅だって、ようやく高架工事が始まったばかりで、完成まで一体何年かかるのだろう。新潟始発の在来線特急「いなほ」や「北越」は20世紀の花形485系だし。

吉田に集まる電車群

 新潟大学前駅は、交換施設なしの初めての駅だ。大学は一体どこにあるのだろう。レンガ色の大きな建物が見えるが、それはだいがくではなさそうだ。それにしても、このあたりは踏切が少ない。かといって道が立体化されているわけではなく、鉄道が街を分断してしまっている。地元の人はさぞ不便だろうなと思う。
 内野駅で列車交換、また古い115系だ。この辺りは新しい住宅が目立つが、空き地も多くなってくる。そろそろ市街地が終わろうとしている。内野西が丘で田園地帯になった。弥彦も見えてくるが、雲行きが怪しい。山頂には厚い雨雲が乗っかっている。越後曽根駅でまた115系と交換。この先とうとう新型車両と出会うことは一度もなかった。
 巻は鯛車の町だ。郷土玩具の鯛車は各地にあるようだが、今ここでは町おこしに活用されている。それにしてもどうして魚に車などをつけるのだろうか? 鳩車同様、郷土玩具は謎だらけだが、巻の場合は張り子の鯛の中にロウソクが灯されて美しいらしい。まちが真っ赤に染まる情景を復活させるのだというが、それならさぞかし美しいことだろう。
すべて115系 吉田にて
 そうこうするうちに吉田に到着する。ここはこの地区の交通の要衝であり、越後線と弥彦線が交差するところだ。駅構内にはいろいろなカラーリングの115系が集結している。いかにも寄せ集めなのだが、それはそれで見ていて楽しい。セミクロスシートの115系は、寒冷地・急勾配路線対応車両として旧国鉄が開発したもので、普通列車でありながら旅を楽しめる車両である。
115系 吉田にて
 湘南色の越後線からイエローと黄緑の帯の弥彦線に乗り換える。車内はガラガラでボックスシートを独り占めする。外は酷暑だが車内は人もまばらで冷房がよく効いていて快適だ。二両編成でワンマン運転。嬉しいことに窓が綺麗だ。弥彦神社参拝は気持ちよく出来そうだ。

弥彦神社

  吉田を出ると電車は大きく右にカーブして一路弥彦山麓を目指す。午前中までの晴天と打って変わって、雷雨にでもなりそうな雲行きである。終点弥彦に着いたらすぐに参拝して、できれば弥彦山にロープウェイで昇るつもりだ。
弥彦神社をイメージした弥彦駅舎
 さてこの弥彦駅、昨年リニューアルされたばかりの綺麗な駅舎だ。弥彦神社の本殿を模した木造の入母屋造だそうで、さすが越後 一の宮の玄関にふさわしい建物なのだが、折角のこの駅舎も毎日利用する乗降客は300人にも満たないのだという。鉄道が過去の遺物となってしまっている所は、特に地方に多い。モータリゼーションの波の前で鉄道の存在意義は、高校生と高齢者のためだけになってしまっている。
 駅が町の中心地から遠いのはよくあることだが、弥彦は山麓の町で、奥まった弥彦神社にいたる斜面に広がる町のため、平地にある駅から歩くのは一苦労である。これでは鉄道で訪れる人は少ないだろうなと改めて思う。夏休みとはいえ平日の午後4時過ぎ、駅前に人影はまったくない。むせ返るような湿気と熱気の上、今にも降り出しそうな曇天の中、道路を補修する作業員と時折通る車ぐらいしかいない寂しい町の坂道をひたすら歩く。弥彦温泉に浸かって夕食もここでと思って来たが、旅館はどこもそれ程大きくはなく、立ち寄り湯歓迎の看板も入りたくなるような食べ物屋も見つからないので、とにかくまずは参拝ということで弥彦神社に向かった。
神韻縹渺とした境内
 一の鳥居をくぐると、杜に囲まれた参道は静寂に包まれ、むせ返るようだった空気も急に冷えてきた。長い歴史に刻まれた越後国一の宮だけのことはある。低く垂れ込めたそらから神鳴りが落ちるのではないかと思えた。日頃の悪行の数々が思い起こされる。人影もまばらな日常の神の社には、初詣の賑わいでは決して味わうことの出来ない、凡人を神妙な気分にさせる何かがあると思う。これは出雲大社を訪れたときも、鹿島神宮を訪れたときも感じたことだ。きちんとお参りしようと思い、参道の端を歩く。手水舎でまず左手を清める。本殿では二礼二拍手一礼を心を込めて行う。正式な参拝にはなっていないが、自分としてはいつも以上にしっかりと行った。
 弥彦神社の御神体は後ろにどっしりと控える弥彦山そのものである。山頂は厚い雲に覆われて見えないが、雲の切れ目からは豆粒のようなロープウェイが降りてくる。まだ間に合うだろうか。境内の裏手に乗り場行きの無料バスが出ていることを知り、バス停に行くとちょうど森の中から無舗装の道をバスがやってくるところだった。乗っている人は誰もいない。年取った運転手が声をかけてくれた。
「今から行くの?ロープウェイの最終が17時だから山頂で20分位しかないよ」
「でも20分あるんですよね」
「それでいいならね。今日は雲が厚くてなにも見えないよ」
この運転手はロープウェイ関係者なのに、まるで商売っ気がない。こちらは鉄道乗り尽くしが第一の目的だから、こういうときは景色は二の次なのであるが、先方はそんなこちらの事情は勿論わかっていない。ロープウェイを鉄道に含めるか否かにはいろいろ議論はあるわけだが、その時は念のために乗っておこう位の曖昧な気持ちだった。
「ああ、だめだ。雨が降ってきちゃったよ。やめた方が良いよ」
そこまで言われればこちらとしては撤退せざるを得ない。もともと曖昧な決意しかないのだから。
「そうですよね。弥彦からの景色が見えなければ意味がないですね。今度また来ます」
「それがいいよ」
 バスは私を残したまま定刻通りロープウェイ乗り場に向けて発車していった。いい人だ。弥彦は俗人の心を清めてくれる有り難く気高い町である。

直流電化のローカル線


架線に注目!
 一時間に一本しか走らない弥彦線だが、それでも立派に電化されているのには何か訳でもあるのだろうか。八高線の高麗川・高崎間よりも少ない運転本数にしては厚遇されている。有力な政治家がいた場所は随分と扱いが違うのだなあということくらいしか思い浮かばないが、人気のない車内の運転席から前方車窓を眺めていて気付いたことがある。なんと架線がトロリー線一本しか張られていないのだ。これではまるで路面電車ではないか。
 多くの鉄道はパンタグラフに電気を供給するために、まず一本の吊架線(ちょうかせん)と呼ばれ電線を吊(つ)る。電柱と電柱の間をつるので、電線は垂れ下がる。このままでは走行中パンタグラフが上下してしまうので具合が悪い。そこで吊架線からハンガー線と呼ばれる電線を垂らし、その長さを調整することでトロリー線を地面と平行に保つ。これをシンプルカテナリー方式と呼ぶ。ところがここの架線には吊架線もハンガー線もないのだ。これを直接吊架式という。かつて同じものを銚子電鉄でも見たことがあるが、国有鉄道が敷設した鉄道で見るのは初めてである。そうかあ、やはりちゃんと節約しているのだなあと感じ入る。

吉田駅に進入する場面
右から合流するのは柏崎からの越後
線。吉田駅にはホームが3本あり、
5番線まで擁する堂々とした駅だが
弥彦線と越後線がクロスする際、一
瞬だが単線となる。それがネックに
ならない程度の閑散路線なのだ。 
 架線構造は鉄道にとって高速化のカギである。東北新幹線の八戸以北や北陸新幹線は、在来線と同じ新幹線としては節約型のシンプルカテナリー方式を採るために最高時速は260キロ止まりとなっている。弥彦線は85キロ制限なのだという。越後線にも一部この直接吊架式が使われているというが、交通の要衝である吉田駅付近はどこもシンプルカテナリー式になったいた。
 弥彦線のほとんどは弥彦・吉田間、吉田・東三条間で折り返し運転をしている。終点東三条を目指すために吉田からはまた窓の汚い115系のお世話になった。
 電車が吉田の町を抜け、再び田園風景が戻ってくると架線も直接吊架線の戻っていた。沿線で有名な町は燕だ。燕と言えば洋食器、洋食器と言えば燕というくらいに世界中で有名な町だと思っていたら、車窓からはその賑わいは少しも感じ取ることが出来なかった。洋食器に限らず金属加工製品を得意とする中小企業が集まっている燕では、新興国との価格競争に喘いでいるのだという。おまけに人口減少や商店街の衰退というように、厳しい現実がこの地方を襲っている。3キロ先には新幹線の燕三条駅があるのだが、その効果はいかがなものなのだろうか。
 賑わいを感じさせないのは、終点の東三条も同様であった。信濃川の鉄橋を渡ると、電車はそのまま高架線のまま東三条に向かうのだが、高い位置から町並みを俯瞰すると、こちらもあまり元気がない。それならば新幹線の燕三条はどうか。駅前は地方の新幹線停車駅と変らない無個性な風景が広がっている。歩いて5分くらいのところに大手のショッピングモールが進出し、いくつかのビジネスホテルが建っている。そのうちの一つは、昔からある建物の隣に新しい建物が並んで建っていた。ほんの少し離れれば田圃が広がっている。
 上越新幹線が出来て32年、人でいえば一世代の年月が過ぎた。その間にバブルが弾け、リーマンショックが日本を襲い、地方都市は世界経済のうねりの中で翻弄され続けたといえる。30年といえば、建物のリニューアル・建て替えも考えなければならない年月である。新幹線があってもそれだけで活性化されるわけではないことを教えてくれているような気がする。頑張れ、燕。頑張れ、三条。
(2014/8/6乗車)

三度目の吉田通過

燕三条付近は通常の
架線が張られている
 翌早朝、燕三条から乗り尽くしの旅を再開する。弥彦線ホームは巨大な新幹線駅舎の片隅にひっそりと設けられている。地方ローカル線と新幹線が接続する駅は、本当にその落差が大きいのだ。釜石線と東北新幹線の接続駅、新花巻もそうだった。改札口を出て在来線のホームに続く歩廊の途中に改札はない。在来線は無人駅なのである。味気ない高架下に単線片側ホームだけがあるのを想像して見て欲しい。長野新幹線佐久平の小海線ホームは、単線ながら新幹線の上を跨いでいるので開放的で明るいが、高架下はじめじめと薄暗く陰気で悲しくなる。
 無人のホームに、録音された女性の声で「弥彦行電車が参ります」とアナウンスがある。いつもの聞き慣れた声なのだが、妙に人工的な響きに感じるのはどうしてか。東京では慣れてしまって気にならないことが、どうしてここでは気になるのか。その時思ったのは、誰もいなくてもこの録音は流れるのだろうなと想像したからに違いない。都会のホームに人の絶えることはない。その人々に危険を知らせ、乗車の準備を促すアナウンスは必要なことだから疑問にも思わなかった。しかしここはどうだろう。今このホームには私しかいないのである。その私は明日はいない。人がいようがいまいが繰り返されるアナウンスが人工的でなくて何であろう。
 電車は窓の綺麗な501、昨日弥彦から乗車したのと同じ車両だった。燕では朝早くから高校生が十数人乗車してきた。全国のローカル線は高齢者と高校生に支えられている、というか彼らが居てくれるので廃止できないというべきか。徐々に雲が薄くなり、うっすらと弥彦山が見えてくる。田園の中をひたすら弥彦目指して走るのは気持ちよい。吉田に近づくと進路を90度西に変え、架線もにわかにシンプルカテナリーになる。

越後線で柏崎へ

 燕三条ばかりか、駅舎がしっかりしている吉田にもこの時間駅員はいなかった。改札はフリー状態だ。今回の旅は青春18切符を利用しているので、利用開始時には日付の入った改札印を押してもらう必要があるのだが、押印は柏崎までお預けとなる。無賃乗車防止よりも人件費抑制というところに、この鉄道経営の難しさが感じ取れる。
柏崎行が新潟方面からやってくる
 新潟発柏崎行がぐらぐらと車体を大きく揺らしてポイントを通過してやってきた。綺麗な窓の115系だった。吉田を出るとすぐに見事な穀倉地帯となる。一面のグリーンだが、稲穂はほんの少し黄色味がかっている。晴れ上がった空のもと、弥彦の山が綺麗に横たわっている。今から行けば、あのバス運転手さんも歓迎してくれるだろうけれど、時間がない。
さらば弥彦
晴れ渡った空の下、穀倉地帯が
広がる           
 電車は寺泊、出雲崎と良寛さんで有名な所を通るのだが、ここでも駅が町から離れているために、何の変哲もない田舎駅にしか見えないのが残念だ。越後線は海から離れた内陸を走っている。それにしてもよく揺れる。あまりの乗り心地の悪さに胃の中のものが出てきそうだ。
 思えばこれがかつての客車列車の旅は皆こうだった。夜汽車のボックスシートで寝て、起きると頭はガンガン痛く、首も寝違えて痛く、駅売りの飲み物は限られていて、いつも缶コーヒーの飲み過ぎで胃は荒れて散々だった。長い間日本では水はタダと思われており、売られていないものは買えない道理というものだ。今は水が買えるようになって、皮肉なことに大変便利になった。なんだかそう考えるとこの酷い乗り心地も懐かしい。
 西山で5分停車し、がら空きの2両、吉田行きと交換する。その次は刈羽である。巨大な赤白の高圧鉄塔が現れ、電線が森の向こうに消えていく。柏崎刈羽原発が近いのだろう。整然とした人工林による森の深さが、よけいその先に普段隠された世界があることを暗示している。それはいつまでも隔絶されたもののままであるはずだったのに、東日本大震災が根底から覆した。森に近い刈羽駅からも高校生が多数乗車してくる。一様に明るい表情の彼ら達が辛い思いをしないで済む時代がくると良いのだが。
 次の荒浜からは何もなかったように普通の田舎の景色に戻る。いざとなればここも帰宅困難地域となるだろう。特別な区域に指定されている地区はあまりにも狭いのである。車窓に清掃工場が見えてくる。都会では清掃工場ひとつ作るのにも大騒ぎだが、こうしてみると実にかわいいものだ。ここでの炎は人が制御できる普通の炎だ。しかし原子の火は神の炎と同じで人智を超える。あの場所は近寄りがたい神域と同じではないか。
 東柏崎で高校生はみな下車してしまった。左側から信越本線が迫り、巨大な文化会館を右に見ながら電車は終点柏崎に到着した。ようやく有人駅に着いたので、改札印を押してもらえる。事情を話して押してもらおう。それからは無賃乗車ではなくなるのだ。
 (2014/8/7乗車)

2014年4月1日火曜日

松本電気鉄道上高地線



3000系電車

JR松本車両センターの脇をかすめるようにして
ゆっくりと京王電鉄払い下げの電車がやってきた

松本駅7番線ホーム 新島々行

このホームの先6番線は、大糸線各駅停車専用ホーム
となっている。大糸線利用者は松本電鉄の前を通って
乗車する。JRとの間に改札はない。       

終点新島々まではおよそ30分

上高地の玄関口である。駅前にバスターミナルがあり
ここから上高地や乗鞍へはバスが接続している。乗車
した日は夕暮れ時で、西日に照らされた乗鞍岳が真っ
白に輝いていたが、逆光のため残念ながら撮影出来な
かった。                    
 
今はなき島々への鉄路

1983年台風で土砂崩れがあり、1.3キロが廃止
となってしまった。              

新島々から松本方面を眺める

渕東駅

新島々から一つ目の駅。エンドウと読む。ローカル
私鉄らしいいい雰囲気の駅だ。難読駅といえる。ち
なみに上高地線にはアニメのイメージキャラクター
がいて、その美少女の名前を渕東なぎさという。姓
も名もどちらも駅名である。ちなみに当管理人はそ
の方面には関心はないが参考までに。      


新村駅

全線ではやや松本よりにあるが、おおよそ中間点
で、列車交換が行われる。また、左側に上高地線
の車両基地が併設されている。        

交換列車 なぎさTRAIN


松本平と美ヶ原(正面の山)

なだらかな傾斜の中、ゆっくりと松本市街に向かって
下っていく。野麦街道に沿ってコトコト走るローカル
私鉄は、観光用というより沿線住民の足という性格が
強い。                     

(2014/4/1乗車)
















大糸線昼景色

変貌する糸魚川

 手元に二枚の古い写真がある。一枚はピンボケでブレた列車の写真、もう一枚は煤けた感じの煉瓦車庫の写真で、どちらも昭和38年(1963年)夏に北陸本線を写したものだ。
赤煉瓦車庫とC56(1963年撮影)

屋根上の煙突は蒸気機関車廃止後は
撤去された。C56は大糸線で活躍。
 ピンボケ列車の方は、糸魚川駅の隣にある梶屋敷駅ホームを、当時珍しかったデーゼル特急白鳥が通過するシーンである。目にも止まらぬようなスピードで疾走していく最新式の特急列車は実に格好良かった。まだ電化されていなかった北陸本線は蒸気機関車牽引の薄汚い客車列車が中心で、綺麗なデーゼル特急は皆の憧れであった。その軽快で優雅な走行は「白鳥」という名前にぴったりであり、終生このシーンは忘れられそうにない。
赤煉瓦車庫とキハ52(2010年撮影)

取り壊し直前の赤煉瓦車庫。北陸新
幹線の橋脚は直前まで迫っていた。
またキハ52も3ヶ月後に大糸線から
消えていった。         
 赤煉瓦車庫の方は糸魚川駅構内にあったものだが、こちらは記憶に全く残っていない。古いものがありふれていた時代にあっては、この赤煉瓦車庫がまさか存続運動まで起こるほどの貴重なものだとは誰も思わなかった。
 あれから半世紀が過ぎ、ディーゼル特急よりも蒸気機関車牽引の客車や煉瓦車庫の方が格段に注目を集めるようになった。時はものの価値を変えていく。かつて単線で海岸沿いを走っていた北陸本線直江津・糸魚川間が、複線電化と長大トンネルでスピードアップし、優雅な「白鳥」は今では青森よりも南下することもなくなった。そして煉瓦機関庫は北陸新幹線工事によって、惜しまれつつも3億円の移築費が捻出できず、永久に消え去ってしまったである。


大糸線の思い出


姫川
 糸魚川は翡翠の町だ。翡翠はフォッサマグナの激しい造山運動によって生み出された宝玉であり、活断層の巣である糸魚川静岡構造線に沿って流れる姫川流域に眠っている。翡翠を生み出すほどの激しい自然を流れる姫川だが、古くから交通の要衝でもあった。上杉謙信が宿敵武田信玄に塩を送り、「敵に塩を送る」の言葉となって今も有名な塩の道、千国街道は、この急流姫川に沿って松本やはるかかなたの甲府まで続いている。大糸線はこの姫川を遡り、北アルプスや仁科三湖などの景勝地を結んで松本に至るが、現在は残念ながら全線走破する列車がない。すべては途中の南小谷で折り返している。それはJR西日本管轄の南小谷以北が非電化だからだが、そもそも国鉄時代も直通列車は稀だった。
 その珍しかった直通列車に乗ったことがある。昭和44年(1969年)夏のことだ。糸魚川発新宿行の急行アルプス5号は列車番号が1414D、末尾にDが付くディーゼル急行だった。当時既に南小谷までは電化されていたので、新宿発着のアルプスはこの列車以外はすべて電車だったから当時としても珍しい存在である。糸魚川を8時12分に出発、新宿には15時49分に着くという7時間半のロングランだった。記憶に残っているのは、仁科三湖と荻窪付近の高架化工事くらいだが、今にして思うと日本列島を横断した貴重な経験と言える。北アルプスの記憶が残っていないのは、水蒸気が多い夏場は山が見えにくいという事情があったのだろう。大糸線にはこの時以外にも乗る機会があったが、どうも車窓風景の記憶が曖昧である。一度じっくり味わいたいと思っていた。 


糸魚川・南小谷間


大糸線切欠き4番ホーム

左ホームが1番線。通過列車用の

線路を挟んで大糸線列車の左側線
路の先に2番線ホームがある。列
車の右側が3番線。そして大糸線
は4番線となる。ホーム中程で下
車した人には4番線が見えない。
 大糸線の列車は、糸魚川駅の片隅から出発する。特急列車の停まる糸魚川駅には普通列車を追い越せるような堂々としたホームがあるが、その端は、線路方向にホームを半分切り取って線路を敷き、編成の短い列車が停車出来るようにしてある。これを切欠きホームと呼ぶが、この形式は、需要の少ないローカル線のために新たにホームを増設する必要がないところから時々目にすることがある。
 片隅にひっそりと列車が待つところが、いかにもローカル色豊かで良い雰囲気なのだが、問題もなくはない。初めて訪れる旅人には、ホームが見つけにくいのである。列車が遅れて乗り換えを急がなくてはならないような場合、ホームは番号順にあるものだと思い込んでいるととんでもないことになる。おまけのホームだから、番号が飛んでいるのだ。本数が少ないローカル線だけに、駅の放送にしっかり耳を傾けて、間違いなく乗り換えを急がなくてはならない。
 さて北陸新幹線の開業を前にして大きく様変わりした糸魚川駅であるが、大糸線の列車も随分と新しく可愛らしい車両となった。鈍重な印象のキハ52に替わって、軽快なキハ120となり、さらに御当地ゆるキャラのラッピングカーまで投入された。地域の活性化に役立つことだろう。
 もっともこの日に乗車したのはラッピングされていない列車で、出発ホームも本線2番ホームからだった。知ったかぶりをして大糸線ホームで待っていたら、乗車口に行くまでに少々出遅れてしまった。キハ120は通常の車両より短い16m車だから乗車定員が少ない。進行右側の座席をどうしても確保したかったが、結構多くの人が乗り込み始めていた。これはまずいなと思っていると、幸いなことに左側から埋まっていく。日差しが強かったこの日、地元の人は日陰側の席を求めていたのだった。この先列車は姫川を右手に見ながら進んでいくのでありがたい。


小滝・平岩駅間

国道の上には崩落した土砂と残雪
がある。 
 糸魚川から南小谷までの35.3㎞は糸魚川ジオパークの旅でもある。世界で100カ所ほど認定されているジオパークの定義は少々わかりにくいが、世界自然遺産とは異なり、地質学的に珍しいばかりでなく、その自然が生態系や人間の営みと密接に絡み合った地域が認定されるようだ。日本ジオパークネットワークによれば「ジオ(地球)に親しみ、ジオを学ぶ旅、ジオツーリズムを楽しむ場所がジオパーク」であるという。親しんで、学び、楽しむ所と言われても… まあ、余り難しいことは考えないようにしよう。少なくともこれから大糸線を楽しむのだから。
 この姫川沿いの大糸線の景色は半端ではない。糸魚川から海抜516mの南小谷まで、姫川の急流は大地を深く刻み込み、険しい渓谷を形作っていて、人が住めるようなところはほとんどなく、冬は豪雪が見舞うような厳しい場所でもある。
小滝・平岩駅間

国道は護岸された堤防からはみ出す
ように設置され、大糸線は頑丈な鉄
骨で守られている。
 そのような場所でありながら昔から塩の道として人々の生活を支える道が通っていた。現在は国道148号線となって、主に川の西側を通っている。落雪の危険を避けるために、全線ほとんどがスノーシェッドで覆われた無骨な国道である。頑丈なコンクリート製の雪除けトンネルが延々と続くのである。眼下を雪解け水の濁流が流れている。護岸のために無骨なコンクリート壁が川岸を固めてあり、自然から生活を守るための奮闘の跡が見て取れる。
もともと土地のないところだから、鉄道路線と道路は併走できず対岸に建設せざるを得ない。険しい渓谷の、限られた川岸に線路を敷き、どうしても敷けない場所は山岳トンネルをぶち抜いたため、大糸線はスノーシェッドとトンネルの連続である。鉄骨で守られた雪除けトンネルから眺める姫川と国道の景色が、この路線の最大の見せ場である。こんなところに国道や鉄道を造っているのだという驚きは、まさに自然と人の営みをテーマとしたジオパークの楽しみ方そのものを体現しているではなかろうか。
南小谷駅

後ろの白銀、左側は大渚
山か。        



 鉄道愛好家としては自動車道路には余り触れたくないのだが、この148号線のドライブについては少し触れておきたい。外からは窺い知れないが、このスノーシェッドの中をトラックやタンクローリーを始めとする大型車が爆走しているのだ。松本から富山方面を目指す際、高速道路を利用すると長野や妙高・上越市と大きく迂回しなければならない。だから多くの車はこの国道148号線に流れてくるので、昼夜を問わず人々の生活を支える重要路線として機能している。交通量が多く閉鎖的な空間だから、ドライブを気楽に楽しめるような場所ではないのだが、外は見所ある渓谷が広がっている。おちおち景色など楽しんでいられないが、一度通ると忘れられない不思議な道なのである。
 ということで、ここはやはり鉄道の旅が一番だなあと思っているうちに、あっという間に1時間が過ぎて南小谷に到着する。ここで乗り換えだ。





南小谷・松本間

 大糸線の名称は信濃大町と糸魚川を結ぶことに由来する。全線開通前の昭和12年には、信濃大町・松本間の信濃鉄道が国有化されて組み込まれたために、松本・糸魚川間となった歴史を持つ。鉄道の近代化として松本から伸びてきた鉄道の電化はここ南小谷までとなっていて、この先糸魚川までは伸びなかった。これは松本平から続く平坦な土地が、南小谷のすぐ上にある栂池高原・コルチナスキー場で尽きるのと同じで、ここまでが人々の多く集まる地域であり、この先は先程通ってきた渓谷となる。ここから大糸線は人里を走ることになる。
南小谷駅

左からE257系、キハ120、E127系
南小谷に現れる定期列車の揃い踏
みとなった。         
 新宿行あずさ26号に乗り換える。昼景色を楽しむ旅としては各駅停車に拘りたいところだが、スケジュールの都合上どうしても松本まではこの列車に乗らなくてはならなかった。車窓の旅記録も駆け足でいこう。





 晴天に恵まれ北アルプスの山々を堪能できる日和だった。ただ午後の日差しは逆光のためにどうも写真写りが悪い。それでも雨男の私にとっては滅多に見ることの出来ない北アルプスではあった。

白馬駅付近から眺める白馬三山

左から白馬鑓ヶ岳、山頂が平らな杓子岳、右が白馬岳

 白馬には何度も訪れているが、いつも厚い水蒸気の幕に阻まれてなかなか山容を拝めることが出来なかった。今回は久々のヒットだが、惜しむらくは順光の午前中に訪れられなかったことである。また来ようといつものように思う。

神城駅付近から八方尾根を振り返る

なだらかで雄大な斜面は白馬のシンボルとも言える。
後方中央に白馬岳が控えている。         
 
 白馬の山々が後ろに遠離っていく。そろそろ分水嶺が近づき、神城辺りは姫川の源流のある場所だ。その昔、姫川は青木湖を源流としていたらしいが、土石の崩落によって分水嶺が変わったという。現在の分水嶺、佐野坂峠を越えると白馬とはお別れで、風光明媚な仁科三湖に辿り着く。こちらは信濃川水系で、まずは青木湖。以前にオートキャンプで訪れたこともあるが、水の綺麗な静かな湖だ。

青木湖

対岸の閑静な山腹にホテルやキャンプ場のリゾート地
がある。                    

 青木湖を過ぎるとすぐに中綱湖が現れる。三湖のなかでは一番小さく、地味で、集落にも近く生活感のある湖だ。

中綱湖

小さな湖の回りには田圃や集落が広がる。


 そして最後が木崎湖。写真からは窺い知れないが、夏にはレジャーボートもたくさん浮かぶ行楽の湖である。

木崎湖

三湖の中でもっとも拓けたリゾート地だが、たまたま
写真に収まった木崎湖はもっとも神秘な佇まいを見せ
ている。                    

 ところで、駆け足で車窓を紹介してきたが、実は最後に苦労話を書かなくてはならない。こんなに素晴らしい景色が続く大糸線であるが、車窓から写真に収められる場所がほとんどないのだ。その原因は電線である。電線に慣れっ子の日本人には、普通に車窓を眺めている分にはさほど気にならないものだが、いざ写真を撮ろうとなるとそうはいかない。気がついてみると、南小谷から信濃大町までの間、私は殆どカメラのファインダーを通して景色を眺めていた。電線が途切れる瞬間を待つためである。それでも中綱湖の場合、電線が途切れることはついになかった。
 車窓から写真を撮るなどいうのは本来邪道であるに違いない。しかし、私は車窓ファン、しかも全国全線走破のために途中下車するゆとりはあまりない。観光立国を標榜し、しかもこれだけの絶景路線なのだから、電線の地下埋設に対してもっと積極的になっても良いのではないかと思う。
(2014/4/1乗車)



スイッチバック讃歌

篠ノ井線 姨捨(おばすて)駅

特急 しなの6号 名古屋行

善光寺平を見下ろしながら、

特急は姨捨駅(左)の脇を通
過してしまう       
 駅に降り立った時、焚き火の香ばしい薫りがした。更科の里では、農作業を間近に控え、ところどころで枯れ草を燃やしている。春は確実にやって来ていた。
 姨捨駅は日本三大車窓の一つに数え上げられ、善光寺平(長野盆地)を見下ろす冠着山の中腹に位置しているだけあって、素晴らしい眺望が楽しめる。ホームのベンチはすべて線路側ではなく外を向いている位だ。松尾芭蕉が「田毎の月」と詠った棚田もすぐ向かいの斜面に広がっている。
 この三大車窓は一体誰が言い出したのかはわからないが、九州・肥薩線で矢岳を越える際に見える霧島連山の眺めと、北海道・根室本線の狩勝峠越え(ただし廃止された旧線に限る)で見える十勝平野の眺めということになっている。それにしても雄大な風景はほかにもあるはずで、どうしてこの三つなのか。
しなの6号遠望

篠ノ井からおよそ70mほ
ど登って来たところ。姨
捨まではあと120m上らな
くてはならない。後方、
白銀に輝くのは戸隠山。
(姨捨から撮影)
 共通するのはいずれも峠を越えて突然ひらける雄大な眺めという点であろう。ということは蒸気機関車時代の人々の思いが関係していそうである。峠を登る機関車は凄まじいほどの煤煙を吐き出す。更にその先に待ち構えているのはトンネルだ。窓を閉めても通路を煙が漂い、ハンカチで鼻と口を塞いでも煙の匂いと酸欠で息苦しい。もう勘弁してくれと思った時、トンネルを抜け出した列車は雄大な景色の中を、下り坂で煙を出さなくなった機関車に引っ張られながら軽快に走っていく。爽やかな風はこの景色に酔った人々にさぞ快かったに違いない。

 在来線の多くは蒸気機関車時代に敷設されたため、とびきり勾配に弱い機関車のために様々な工夫が凝らされている。その一つにスイッチバックがある。姨捨は姨捨伝説や松尾芭蕉の「田毎の月」だけでなく、スイッチバックでも有名な駅である。
桑ノ原信号場

本線は坂になっているが、左右
の引き込み線は水平に設置され
蒸気機関車でも動き出せるよう
工夫されている。      
 篠ノ井線は善光寺平が尽きる稲荷山駅から先には25パーミルの勾配が続く。パーミルとは千分率のことで、1000mにつき25m登る勾配であり、人や車にはさほどでもないが、蒸気機関車や貨物列車にはとても手強い坂となる。また篠ノ井線は特急も頻繁に通る重要幹線でありながら、複線化は見送られているため、駅間が長いと列車交換に困るので、その対策として信号場を設置し列車同士が行き違えるようになっている。
 ところが馬力の弱い蒸気機関車は坂道発進が出来ないので交換施設は水平に設置する必要がある。そこで本線は坂のままとし、信号所は水平を確保して、蒸気機関車は平らなところで勢いをつけてから登攀できるようにしたのが、桑ノ原信号場のようなスイッチバックなのである。稲荷山から登ってきた列車は、桑ノ原信号場で一旦左側の引き込み線に入る。ここでスイッチバックして本線を横切り右側の引き込み線で待機し、下ってくる列車の通過を待つ。列車が通過したら、助走をつけて本線を再び登って行く。蒸気機関車が廃止された後も、重量のある貨物列車にとっては必要な施設である。
 桑ノ原信号場をノンストップで通過すると電車は次第に高度を稼ぎ、あたりの家が次第に小さくなっていき善光寺平が広がっていく。脇には長野自動車道が通っているが、あちらは既により高所を走っている。やがて前方に姨捨駅が見えてくる。

右上に姨捨駅見えてくる。中継信号機が斜めとなっ
ているのは、この先の側線用信号機が<黄=注意>
となっているため。本線側は<赤=停止>    


姨捨駅へは一旦左側の側線に入り、バックして右手
前に進んでいく                

運転手は移動せず、窓から身を乗り出して安全確認
をしながらバックする             

逆推進運転中に下り普通電車が近づいてくる


乗車してきた上りが冠着に向かって出発したあと
今度は下り長野行が先程の側線に向かってバック
していく                  
バックを終えて、姨捨駅脇を長野に向けて下って行
く普通電車。向こう側斜面に棚田が広がる    

 この日、姨捨駅から見る戸隠や飯縄の山々は残雪で白く輝いていた。眼下には善光寺平すべてが見渡せる。手前の棚田に水が湛えられるまでにはまだ日があるようだ。秋の実りの季節には黄金色の稲穂がそよぎ、さぞ美しいことだろう。再び違う季節にここを訪れたいと思いつつ、次の下りを待った。
(2014/4/1乗車)

信越線 関山駅・二本木駅

関山駅

かつては左側に伸びる先に関山
駅があった。本線は横断歩道橋
のところで右にカーブしている
 鉄道の近代化とともにスピードアップの妨げになるスイッチバックが次々と消えていった中で、信越線にたったひとつだけ取り残されたスイッチバック駅がある。
 妙高高原駅から高田平野の外れにある新井駅までは21km、標高差は約450m。25パーミルほどの勾配で下って行く。間には関山と二本木の二駅があり、どちらもスイッチバックの駅だった。昭和60年(1985年)、すべての列車が電車化されるのに伴って、関山は通常の駅に変更され、線路自体は今も敷設されているものの、スイッチバックは廃止された。今も残るのは二本木のスイッチバックである。
 二本木駅がスイッチバック駅として残ったのは、駅の隣にある日本曹達二本木工場の専用線が併設されていたためであり、貨物輸送そのものが平成19年(2007年)になくなってしまったので、保線の面倒なスイッチバックは早晩廃止の憂き目に会うことだろう。
前方に二本木駅

本線は信号機の所で右に消えている。
※ 運転台後ろからの撮影のためガラ
スの文字が写り込んで見にくくなっ
  ている              

 姨捨駅が観光的価値もあってこれからも生き延びるであろうことに比べて、信越線の方は風前の灯である。信越線自体は横川・軽井沢区間が廃線となった段階で、都市間輸送の役割を終えて、もともと人口の少ない地域のローカル線として分断されてしまった。来年春の北陸新幹線開業によって更にそれは推し進められることになる。優等列車もなくなり本線を通過するだけの定期列車が全くなく、すべての列車が二本木駅に立ち寄るにも関わらず、構内の線路が雑草に埋もれているのは、ここがすでに役目を終えつつあることを示している。
 鉄道愛好家はノスタルジーに浸りたいものだが、現実は甘くない。信越線の車窓の素晴らしさはまた別のところで触れたいが、ここの鉄道が活気を取り戻すのはなかなか一筋縄ではいきそうもない。
(2014/4/1乗車)


登攀するためのスイッチバック


木次線三段式スイッチバック

左が一段目、右が二段目。少しずつ
高度を稼いでいることがわかる。 
 スイッチバックは英語でZIGZAGとも言うそうで、本来は急斜面をジグザグに登って行くためにある。姨捨や二本木のように、勾配ではあるものの登攀そのものは直線的で機関車が再発進するために停車場を折り返しにしているスイッチバックは、蒸気機関車全盛時代には日本各地に見受けられた。今はそれが希少価値となっているのだ。
延命水で有名な出雲坂根駅

右が一段目、左が二段目。左線路を
手前方向に登っていけば、やがて次
のシェルター付分岐に辿り着く。 
 さて、本来の登攀するために造られたスイッチバックとしては、箱根登山鉄道の四段式スイッチバック、木次線の出雲坂根や豊肥本線の立野の三段式スイッチバックが有名である。それぞれ行ったり来たりしながら高度を稼いで行く。視界が開けていくと同時に、今さっき通過した線路が見えるというのも、なんとも不思議な感覚である。いかにも登って行く(あるいは降りていく)ということが実感できる点で、スイッチバックはとても楽しい鉄道イベントである。
左が二段目、右が三段目

雪の多い地方のため、人里から離れ
た分岐器は雪囲いのシェルターで守
られている。三段目手前方向に登っ
ていくと、この峠のサミットに至る
 箱根登山鉄道や木次線の場合、運転手が運転台を移るというセレモニーまでついている。ここではスピードアップ・時間短縮などどこ吹く風、実にのんびりとしたものだ。効率優先の今の世の中にとって、なんと無駄多き世界の贅沢なことよと思わないではいられない。特に木次線の場合、そこに辿り着くまでがまた一苦労で、新幹線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えた後、新見でローカル線の芸備線に再び乗り換えて備後落合まで行けば、ようやく一日三往復しかない木次線に乗ることができるという、なんともまあ極めつけの秘境にそのスイッチバックはある。何かのついでに立ち寄ることなど所詮無理。スイッチバックのために一日を使うという、実に贅沢な時間を使った旅が楽しめる。
(2011/1/6乗車)
  
驚きのスイッチバック 立山砂防工事専用軌道

 さて、登攀するためのスイッチバックとして前代未聞の、驚きのスイッチバックが富山県にある。YAHOO地図にもグーグルマップにも記載されていないし、勿論時刻表や旅行ガイドブックにも掲載されていない。鉄道紀行作家の宮脇俊三が『夢の山岳鉄道』の中でこう記している。
 
「起点の千寿ヶ原まで一八・二キロ、スイッチバック四二カ所のこの破格の砂防工事専用軌道の乗車体験について、くわしく書くのはやめる。書けば書くほど鉄道ファンの嫉妬羨望の的になりそうだし、うまく書けそうにない。わりあい正確な路線図を一所懸命に書いて挿入したので、黒岩さんの絵を参照しながら乗り心地を想像していただきたい。」
(宮脇俊三『夢の山岳鉄道』より)

 これでは馬に人参ではないか。この御馳走お預け的文章には正直困った。見てみたい! 乗ってみたい!
 宮脇俊三が書けなかったのは、特別な許可を得て乗車したからであり、鉄道愛好家としてフェアでないと考えたからであろう。しかし現在では唯一乗るチャンスがある。立山砂防体験学習会に参加することだ。ただし回数が限られており、抽選に当たらなければならない。何とそれに当たったのである。
 
白岩砂防堰堤
8つの砂防ダムで
落差108m分の土砂
をくい止めている
 立山砂防工事専用軌道は立山カルデラという聞き慣れない地域にある。有名な黒部立山アルペンルートのすぐ脇にあるのだが、一般人立ち入り禁止区域のため、地元民以外にはほとんど知られていない。東西6.5キロ、南北5.0キロの巨大なスリ鉢状の地形の中にあった鳶山が、安政年間に起こった大地震で完全崩落し、その大量の土砂が放っておくと急流常願寺川によって富山平野に流れてくる。全て流出すれば富山平野が1〜2m埋まってしまうほどの気の遠くなるような量の土砂が立山カルデラにはあるのだという。カルデラはその形状から普通出口は1カ所である。そこで塞き止めれば流出は防げる。治山治水は国の要。人が住めるような場所ではないから国としては立ち入り禁止とせねばならない。しかし、莫大な資金を投じて努力している姿は是非国民に知って貰わなければならない。観光の為ではなく、国が如何に努力しているかという理解者が必要で、だから学ぼうとする限られた人にだけ門戸が開かれる。それが体験学習会なのだ。つまり以上のことを学んだ人だけが、砂防工事用につくられたトロッコに乗ることができるということなのである。
 
デーゼル機関車が3両の 
人員輸送用トロッコを牽引
 起点の千寿ヶ原は、人でごった返す立山ケーブル駅の目と鼻の先にある。ただ堅苦しい感じの漂う砂防博物館の裏手にあるため、多くの観光客は気付かず素通りしてしまう博物館の下に車両基地があるが、これも外からは見えない。博物館内で学習したあと、ふと二階の窓から外をみるとトロッコ基地があることに気付いた。まるで遊園地の豆列車のようだ。ただ違うのは、敷かれた軌道の数。その数が半端ではなく、大規模な施設なのだということが実感される。運転訓練用の軌道まであるのだ。
屋上にヘリポートがついた
事業所・博物館。停留所名
は千寿ヶ原       
 この日の体験乗車に使用されたトロッコ列車は、「平成」号と「薬師」号の二編成。夏休みということもあって、通常の倍の人数である。多少倍率が低かったと見える。我々は第一便となった平成号に乗り組む。トロッコはしばらく常願寺川沿いを遡り、最初のスイッチバックでもと来た方に戻り高度を上げていく。下を逆方向に薬師号が走っていく。これはいい! 薬師号がいい被写体になりそうである。やがて千寿ヶ原まで戻って来た。もちろん高度が上がっているから、博物館が下に見える。屋上は災害時用のヘリポートが設置されていた。トロッコはそのまま進み、観光客で満員の立山ケーブルと擦れ違う。先ほど乗って来たものだが、そのときはトロッコが走っていなかったので気がつかなかった。
バラスト貨物とモーターカー
通過した箇所を下に見つつ 
スイッチバックしながら進む
(7.9キロ地点 鬼ヶ城連絡所)
 専用軌道は軌間610ミリ、全長18.2キロからなる。千寿ヶ原から水谷の間には5カ所の連絡所が設置されていて、ここで列車の交換がなされている。連絡所という名前からして、閉塞確認を連絡し合っている信号所という位置づけなのだろう。擦れ違う列車には乗っている人員輸送用もあれば、バラスト運搬用貨物列車、モーターカーも見かけられた。
薬師号は前進から停止、
更に後進していくところ
 千寿ヶ原の標高は476m、左の写真の鬼ヶ城は713mで、すでに237m登って来たわけだが、距離は7.9キロだから、平均勾配は30‰ということになる。多くはスイッチバックで稼いでいるので、それ以外は平坦な感じだ。


身を乗り出してバック運転
 ところで終点水谷は、白岩砂防堰堤よりも高い位置にある。そして堰堤より低い位置にある最後の連絡所が樺平だ。水谷が標高1116m、樺平が883m。標高差233m。ここに驚きの18段連続スイッチバックがある。何回も往復運動しながら、200mの山肌を登っていく。まさに、スイッチバックの頂点に立つ見事な景観だ。最初は見上げていた向かいの山の岩壁が、次第に同じレベルになり、眼下に移っていく。鬱蒼とした緑の中のスイッチバックだから、残念ながら全貌が見渡せる箇所はないが、途中で何段目か数えるのを忘れてしまうほど、いつまでもいつまでも続く至福のスイッチバックであった。
鉄道模型のレイアウトのような
配線            
 最初に載せた白岩砂防堰堤の遠望写真は、18段スイッチバックが終わった近くの展望台で撮影したものだ。見えている部分の標高差は100m余り、この倍の高さを18段で登って来たかと思うと、いかにスケールの大きなスイッチバックであるかが実感としてわかってくる。
 およそ1時間40分の旅が終わる。水谷から先はバスで砂防ダムを見て回る。あくまでもトロッコは、国の治山治水の最先端を学ぶための移動手段なのである。帰りは、最初にバス見学した人たちの帰路用であるから、残念ながらここでトロッコとはお別れだ。終わってみれば、まさに夢のような体験であった。
(2011/8/17学習)
立山砂防の図