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2017年7月1日土曜日

北海道の産業遺産①


冬の救世主キマロキ

 北海道の鉄道が輝いていた頃を偲べる博物館がふたつある。
 その一つめは名寄駅から徒歩20分ほどの小高い丘にある北国博物館だ。その見どころはキマロキと呼ばれる重厚長大な除雪のための蒸気機関で、宗谷本線の車窓からも眺めることができる。


 先頭から順に、9600型蒸気機関車(かんしゃ)・ックレー車・ータリー車・D51型蒸気機関車()。更に写真の編成は、最後尾に除雪にあたる監督員や作業補助員が添乗する緩急車(車掌車)が連結された全長75㍍の堂々としたものだ。
 鉄道の除雪と言えばラッセル車がなじみ深いが、この編成には連結されていない。そもそも雪深い鉄路をラッセル車なしにどうやって蒸気機関車が前進できるのか、私は長い間疑問に思っていた。
 もちろん北海道では数多くのラッセル車が活躍していた。ただ極寒の北海道ではラッセル車だけでは太刀打ちできない事態がやって来る、ということをこの博物館にやって来て知った。
 ラッセルによって確かに線路上の雪は取り除くことが出来る。ところが繰り返し線路脇に押しのけているうちに、やがて雪の壁が出来上がり、力では押しのけられない時がやってくる。ラッセル車が身動きできない時がやってくるのだ。そこに救世主として現れるのがキマロキというわけだ。キマロキの要はマックレー車とロータリー車のペアである。

 マックレー車とは、かき寄せ式雪かき車のこと。線路脇の雪の壁を崩す役割がある。カナダ人マックレーが考案したものを国鉄苗穂工場が製作した。進行方向に向けて「ハの字」型に羽根が開く構造となっており、うずたかく溜まった雪を再び線路上にかき寄せる働きを持つ。車室の下に大きなタンクが見えるが、ここに圧縮空気をためてそれを動力として羽根の開閉を行ったものと思われる。自走能力がないために、先頭の機関車で牽引した。

 その後ろに控えるのは赤い羽根が特徴的なロータリー車である。大きな羽根で雪を遠くまで吹き飛ばす。マックレー車が幅広く掻き集めた雪を効率良く飛ばすことができた。ロータリー車の後ろには炭水車が連結されている。というのも、ロータリーは蒸気機関で回転しているからである。しかし、自走能力はない。そのため後ろから蒸気機関車に押して貰う必要があった。こうして長大なキマロキ編成が誕生した。

 まだ道路が完備されていない時代、鉄道は1年を通して人と物資を安全に運ぶことの出来る唯一の交通機関だった。極寒の北海道にあっては、人がいる限り、鉄道が長期にわたって不通になることは許されなかった。鉄道は生命線。だからキマロキは最強の救世主であり、人々を守る鉄道員の誇りでもあった。

 鉄道車両の野外展示の多くは、長い間の風雪に痛めつけられ、見るも無惨に錆び朽ち果てているものが多い。しかし名寄のキマロキは保存会の人々によって定期的に塗装され、冬には雪囲いされて守られてきたため、とても美しい状態で展示されている。訪れた日もちょうど2年に1度の塗装作業の真っ最中だった。頭の下がる思いがした。
(2017/6/28訪問)
*キマロキは廃線となった旧名寄本線上に展示されている。

北海道の産業遺産②


蒸気機関車を支えた技術

 北海道の鉄道が輝いていた頃を偲べる博物館、その二つめは小樽市総合博物館だ。総合博物館とはいうもののほぼ鉄道博物館であり、しかも日本有数の施設だろう。それもそのはず、ここはかつて北海道開拓の要となった幌内鉄道の起点、旧手宮駅の鉄道施設なのだ。それがそのまま博物館となったもので、機関車庫三号(明治18年竣工)のように重要文化財まである。
 
 さて、ここではあまり他に類を見ない展示施設を紹介しよう。それは蒸気機関車資料館だ。

 蒸気機関車は数千点の鉄・銅・鉛の金属部品などからできていて、日本を代表するD51型蒸気機関車の場合、約123トンの重さがあり、同程度の大きさの電気機関車の1.4倍もの重量がある金属の塊だ。その塊を動かすためには、部品一つ一つが高熱高圧蒸気の力によって機械的動作を繰り返すしかない。そのため部品は摩耗し、腐食するので、その整備の苦労は計り知れなかった。

 ねじやボルトなどの小物から動輪や主連棒などの大型部品に至るまで、分解、補修、組み立ての繰り返し。その際に必要になるのが、様々なゲージだった。例えば車輪の摩耗や軸のゆがみはそのまま大事故に繋がる。それを防ぎ、効率の良い整備をするために、現場では様々なゲージや工具が開発されていた。それらが資料館には所狭しと展示されている。

これらの展示を見ていると、当時の技術者が如何に創造的な仕事をしていたかということを思い知る。東海道新幹線を作ることに尽力した島秀夫は、もともとは蒸気機関車の設計を行っていた。コンピュータもない時代、製図板と向き合いながら、効率の良い蒸気機関を追究し、自分の頭の中で空間的なイメージを二次元に落とし込んでいく。蒸気機関車は現代人にとってはノスタルジックな鉄道遺産に過ぎないが、当時の人々にとっては、時代の最先端を行く交通機関であり、それに従事する鉄道員は最高の頭脳の持ち主だったということだ。ここにあるもの、それを生み出した技術者がどれほど優れていたかを改めて思い知る場として、ぜひ注目したい展示だと感じる。

 今日、日本各地で蒸気機関車の復活運転が行われているが、その準備と維持には莫大な時間と労力が払われていると聞く。もの作りが得意だと言われている日本にとって、蒸気機関車の再生・維持は、それを証明する必要条件のように思える。
(2017/7/1訪問)

北海道の産業遺産③


小樽市総合博物館の特徴ある展示物

1980(明治13〜)年代
しづか号【鉄道記念物】
米国ポーター社製

官営幌内鉄道6番目の蒸気機関車。1号の義経号は現在京都鉄道博物館に、2号の辨慶号は大宮の鉄道博物館に所蔵されている。牽引する客車は幌内鉄道の貴賓車い1号。特徴は、最前部に障害排除のための木製カウキャッチャー、大型の前照灯、火の粉を軽減する煙突ダイアモンドスタック、ボイラー上の鐘など、西部劇に登場するアメリカンテイスト満載の外観。



1895(明治28)年
大勝号【鉄道記念物】
現存する国産最古の蒸気機関車 手宮工場製

1889(明治22)年幌内鉄道は財政基盤が脆弱なままに、北海道炭礦鉄道に譲渡された私鉄。1905(明治38)年に鉄道国有法により国鉄となる。1895年3月の日清戦争勝利にちなんで命名された。国産蒸気機関車としては、2例目となる。ポーター社製の蒸気機関車のほぼコピーだが、設計図から製作に至るまで、すべて日本人が行ったという点で極めて意義深い。











1909(明治42)年
アイアンホース号
ポーター社製

1993年に米国から購入された機関車で、日本鉄道史とは直接関係ないものの、幌内鉄道で用いられた蒸気機関車と同じポーター社製であり、今も園内で訪れた人々を運ぶ動態保存機。燃料は重油を用いていて、煙突もダイアモンドスタックとはなっていない。
小樽市総合博物館は、蒸気機関車に関する膨大な史料と同時に実際に機関車を整備し運転するノウハウを持っている点で、他を寄せ付けない施設と言える。









1944(昭和19)年
キ270
ラッセル車 苗穂工場製



基本形のラッセル車。前面で線路上の雪をかき分け、更に屋根上のタンクに詰められた圧搾空気の力によって両翼が開いて、線路脇に雪を押しやる。雪を両側に掻き分ける単線用のタイプ。自走能力はなく、蒸気機関車が後押しした。





1944(昭和19)年
キ718
ジョルダン車 苗穂工場製


圧搾空気の力で両脇に広く広がる羽根を持つ。ラッセル車で押しのけられた雪を更に外側に掻き出すことができたが、雪の抵抗が大きいところでは使えず、主に駅構内・操車場で利用された。






1944(昭和19)年
キ752
ジョルダン車 苗穂工場製


キ718と同時期に作製され、後年圧搾空気から油圧に変更されたタイプ。











1956(昭和31)年
キハ031【準鉄道記念物】
レールバス 東急車輌製

稚内で10年間活躍したもの。利用客の少ない地方にはどのような車両を走らせたらよいかという問題は、いつの世も難しかったようだ。寒冷地用に運転台下にはスノープラウが付き、客室の窓は二重窓となっている。全長10㍍、車輪は二軸。バス用のディーゼルエンジン搭載。乗り心地に難があり、2両連結の場合運転手も二人必要だった。


1976(昭和51)年
DD14 323
ディーゼル機関車 川崎重工製

キマロキ(産業遺産①参照)の能力を1台に集約した除雪車。つまり雪を掻き寄せ、遠くに飛ばしながら自走することができた。除雪装置を取り外すことが出来たので、冬以外にも構内作業に利用できるはずだったが、片運転台としたため、後方視界が悪く、ほぼ除雪用として用いられた。




その他


木製の除雪機。詳細未調査。











冷房はグリーン車だけ。

 広々とした敷地内には、昭和に北海道で活躍した急行車両などが展示されている。屋外展示のため保存には相当苦労しているようで、痛みも激しいのが気がかりだ。訪れた日も修復作業が行われていたが、数が多いだけになかなか手が回らないようである。
 もともと国鉄の施設だったものが、今は小樽市が管理運営することになった。JR各社の中で、JR北海道とJR四国がなかなか本格的な鉄道博物館を持てないでいる。それを補う小樽総合博物館の努力は賞賛されて良い。


左の建物は、旧日本郵船(株)
小樽支店(裏手)。     
 小樽市がこの鉄道施設に力を入れるのには訳がある。小樽観光で欠かすことが出来ないものに小樽運河があるが、それと並ぶ観光スポットが、小樽市総合博物館から歴史建造物が多く残る寿司屋通りまでのおよそ1.5㎞続く、旧国鉄手宮線の遊歩道である。旧色内駅から旧手宮駅の一区間が、そのまま残されている。幌内鉄道に始まる北海道の開拓史の中で、小樽が果たした役割は大きい。それを感じさせてくれる鉄道関連施設であるだけに、大切に保存されているのだ。
(2017/7/1訪問)

2017年6月30日金曜日

湿原をゆく列車


釧路湿原

 本来このような場所に線路が敷かれていること自体が驚くべきことだ。
 湿原を走る鉄道。重たい車両が軟弱な地盤の上を走る困難さについて言いたいのではない。ここはラムサール条約で保護された区域、釧路湿原国立公園の真っ直中。そこに釧網本線は通っている。敢えて喩えてみれば、尾瀬の中に線路があるようなもので、奇跡としか言いようがない。
シラルトル湖とコッタロ原野
(茅沼・塘路間)

 それを可能としたのは、それこそ時代といえる。ここに線路が敷かれたのは1927(昭和2)年のこと。北海道では鉄道の多くが網走に流された囚人達(多くは政治犯だったという)による過酷な労働によって造られた。それが今に残る貴重な路線となっている。
 世の中が豊かになって自然保護運動が盛んになり、ラムサール条約が発行されるのが1975(昭和50)年、国立公園となるのが1987(昭和62)年。どちらもずうっと後のことなのである。今という時代には決して造られることのない鉄道といえる。

 私が初めてここを訪れたのは1972(昭和47)年のことだ。無知をさらけだすようで恥ずかしいが釧路湿原のことなど何も知らなかった高校二年生の私は、C58蒸気機関車に牽かれた列車の中で、ウトウトと碌に景色も見ずに居眠りをしていた。ガクンと機関車に引っ張られる衝撃で目を覚ました時に目に飛び込んできたのが、夕陽に照らされた大湿原だった。なんで尾瀬のようなところを汽車が走っているのだろうと一瞬目を疑った。あちらこちらに湿原特有の沼沢が広がる風景は今も変わらない。
釧路川に沿って(塘路・細岡間)

 単線非電化が素晴らしいのは、線路が周囲の風景の中に完全に溶け込んでいるところだ。時の移り変わりとともに赤茶けた路盤は、自動車道のようにずかずかと自然を侵襲することもなく、言うなれば登山道に敷かれた木道のようなものだ。道幅は狭く、控えめで、違和感がない。同じ鉄道であっても、電化路線は見苦しい架線があっていただけない。
 釧路湿原を車で訪れるために砂利道なども整備されているが、たとえ未舗装であっても灰色の砂利は色彩的に浮いているし、自動車道は思いの外道幅が広いものだ。かつて宮脇俊三は『夢の山岳鉄道』の中で、自然保護の観点から上高地や富士山五合目などへは自動車道を廃止して、すべて登山鉄道にすべきだと述べた。これを単なる鉄道ファンの思い付きとしてではなく、自然保護の観点から見直すための良い例がここにある。
 日本最大の湿原を一望に見渡すなら、釧路湿原駅で下車し、細岡展望台まで20分ほど歩いて行くことをお薦めする。眼下に蛇行する釧路川の眺めと遙か地平線まで続く釧路大湿原を満喫することが出来る。それでも、間近に眺めるならカヌーか釧網本線だろう。釧路から釧路湿原ノロッコ号で出掛けて、カヌーで下り、再びノロッコ号で戻ってくるというツアーもあるようだ。この奇跡の車窓を多くの人々に知って貰いたいと思う。なお、釧路湿原を有名にした丹頂鶴にも、車窓を注意して見ていれば出会うことができる。

別寒辺牛湿原

 釧路湿原のように有名ではないが、奇観ともいうべき美しい風景が、牡蠣で有名な厚岸にある。クリーミーで滋味あふれる厚岸牡蠣のことはさておき、釧路から花咲線(根室本線釧路・根室間の愛称)に乗って50分もすると、列車は太平洋に出る。そこは厚岸湾で、ここまで来ると工場地帯もなく海は青々と広がっている。湾の奥まったところに厚岸の町があり、そこから対岸の小高い丘に向かって架けられた赤いトラス橋が、北海道で最初の海上橋、厚岸大橋である。ここを渡ると霧多布に行ける。
別寒辺牛川河口付近
(厚岸・糸魚沢間)

 列車は厚岸大橋を右に見ながら再び水辺に出るが、ここはすでに厚岸湾ではなく、厚岸湖である。塩分濃度が高く、波も穏やかなため、牡蠣の生育にもってこいの場所だ。まるで海のように広い湖が、車窓一杯に広がる。線路の脇がすぐ湖岸なので、まるで海の上を列車が走っているかのような錯覚に陥る。
 そのうちに奇妙な風景になってくる。水面に小さな平たい、草で覆われた島がいくつも現れてくるのだ。島というにはあまりにも小さいものだが、ヨシやスゲが生えた低層湿原なのだそうだ。何だろうと見とれているうちに、いつの間にか対岸が近づき、間に川が現れてくる。つまり別寒辺牛川の河口にある低層湿原の中を列車は走っていたのだった。
 別寒辺牛は「べかんべうし」とよむ。有名でないのも当たり前で、この湿原は1993(平成5)年にラムサール条約に登録される際に命名されたものだという。それまでは名もなく、ただ荒涼とした土地として誰からも注目されることなく、ひっそりと佇んでいたに過ぎない。近年は価値を認められて、すこしずつ知れ渡るようになった。
やや上流地点(厚岸・糸魚沢間)

 この地を訪れるのは3回目となるが、40年前に訪れた際は霧に覆われて何も見えなかった。5年前に訪れた際は、車で霧多布に直行してしまった。今回初めて好天に恵まれた中、この奇観に出会えたのである。

 古い鉄路は、護岸工事も一切なされずに、自然のままの湿原の上に敷かれている。そこを行き来するのは、1日わずか6往復の1両編成ディーゼルカーのみ。鉄道写真家の人々は、ここの風景の素晴らしさをかなり前から知っていたようで、確かにこの地を走る列車の傑作写真を目にしたことはしばしばあった。ただ、如何せん名もない土地であったために、長い間私が気付かなかっただけのこと。今回の旅では、まさに衝撃の風景であった。

 鉄道愛好家が述べれば贔屓の引き倒しになりかねないが、やはり敢えて触れておきたい。環境保護と鉄道は相性がいいのだと。この先たとえ自動車がEVになっても、アスファルト道路はいただけない。もっとも自動制御で道幅も狭くというなら、それはすでにレールを走る鉄道と同じだろう。でも、護岸工事はいけませんよ。
(2017/6/30乗車)

2017年6月28日水曜日

最果ての駅 北海道編

 「最果て」ということばにはメランコリックな響きがある。どうして自分はこんな憂鬱な響きに心を奪われてしまうのだろう。たとえ人からは根暗と思われようが、憧れにも似た思いで心が騒ぐのはとめようがない。それこそなんの用もないが、ただそれを確かめるためだけに出掛けてしまうのだ。

北の果て

稚内駅は函館駅同様に大きな
ガラス越しに到着した列車を
眺めることが出来る。   

 北の最果て、稚内を訪れるのは4度目になる。今回は宗谷岬にもノシャップ岬にも礼文利尻にも足を伸ばすつもりはない。ただ車止めが新しくなったのを確認するためだけに、夕方着いて翌朝早くここを立つ。
 特急サロベツを降り、1番線しかなくなってしまったホームを歩いていくと、真新しくなった4代目の駅舎が迎えてくれる。改札を抜ければ、最果てとは思えないほどの綺麗なロビーからは日本最北端の線路を見渡すことが出来るようになっていた。列車から降りた観光客が一斉にカメラを向ける。「ついにここまでやってきたのだなあ」という思いを多くの人が実感した瞬間だろう。
 宗谷本線(と言っても今では支線ひとつないが、宗谷線では気分が出ないのか、時刻表にもそう記されている)は、旭川・稚内間259.4㎞、特急で約3時間40分の距離。平成27年にJR北海道が発表した「当社単独では維持することが困難な線区について」では、名寄以北がそれに該当すると指摘され、将来が危ぶまれる線区であり、まさにメランコリックな鉄道なのだが、それだけに旅人には趣深い素晴らしい路線だ。特に音威子府(おといねっぷ)以北の130㎞区間は、悠久の時を刻みながら流れる天塩川に寄り添って進み、その先は寒々としたサロベツ原野を突っ切り、最後は天気に恵まれれば日本海に浮かぶ利尻富士が堪能できるという絶景路線だ。今日は生憎の天候で利尻富士は拝めず、稚内手前の、背の高い木すら生えていない荒涼とした北の大地は寒々としていた。
 一つしかないホームの柱には、主だったところへの営業キロが掲げてある。札幌駅より396.2㎞、函館駅より703.3㎞、東京駅より1,547.9㎞、西大山駅より3,068.4㎞、枕崎駅より3,099.5㎞。道内だけでも700㎞、これは東京駅から岡山県の和気駅にほぼ相当する。西大山駅とは鉄道好きなら誰もが知る「JRで最南端」に位置する鹿児島県の駅である。沖縄にゆいレールが開業してからJRという条件付きの最南端となった。ゆいレール開業当初、「日本最南端」という表記を返上しなかったため、「沖縄は日本ではないのか」と険悪な雰囲気が流れた。ゆいレールはモノレールなので、鹿児島県では気にしなかったのかもしれない。勿論この乗り尽くしの旅でもモノレールは歴とした鉄道であるから「JR最南端」が正しい。それでも同じJRとしてこだわりがあるのだろう、「最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。」と西大山駅を持ち上げた掲示が車止めにあり、またホームには「北と南の始発・終着駅」として稚内と枕崎が友好都市締結をおこなったことが記されていた。最果て同士の友好で、少しでも盛り上がりたいということだろうか。
車止めが粋なモニュメント。
それにしても道の駅は駅だった!
建物左の横断幕にも注目。   

 稚内にはここ以外にも最果てのシンボル、車止めがある。平成23年に現在の位置に新駅舎が移った際、駅前広場を整備するために若干南に移動した。そこでかつての終着点にモニュメントとして車止めを市が設置したのである。それは現在の線路を真っ直ぐ延長したところにあり、ご丁寧にもロビーの床にもかつて線路があった部分が分かるようになっている。昔を知るものにとっては、市の粋な計らいが嬉しくなる。ただ、こちらまで見学に来る人はだれもいなかった。
土木遺産・北海道遺産に選定
されている北防波堤ドーム 

 樺太が日本領だった戦前までは、稚泊航路という鉄道連絡船が就航したために線路は更に北数百㍍に位置する北防波堤ドームまで延びていた。そこには車止めが残されているわけではないが、古代ギリシャのエンタシスを彷彿とさせる柱に支えられた見事な防波堤が残っていて、稚内の観光スポットの一つとして人気がある。
(2017/6/28)

東の果て

 日本最東端の駅は、終点根室の一つ手前の無人駅「東根室」である。ぜひここに降りてみたかったので、通過してしまう快速ノサップで一旦終点の根室まで行き、折り返しの各駅停車で戻ってくることにした。
釧路方面は上り6本すべてが
停車する。       

 通過の際、列車の後方窓から見てみると、鉄道ファンが一人ホームで写真を撮っている。10数分後に戻ったときは私と入れ違いに釧路に向かうのかなと思ったが、いざ降りてみるとその姿はなかった。そのかわりにヘルメットを被ったライダーがカメラを向けて去って行った。
 「みんな好きだなあ」と自分のことは棚に上げて思う。常に自分だけは例外なのだから我ながら勝手である。列車から降りるとすぐにホームの端に寄り、写真を撮る。カーブの途中にある駅なので、列車は内側に傾いていて、ホームも弓なりになっている。あたりは閑散としているが根室市郊外の住宅地である。
草の向こうに  
住宅街(?)がある。

 根室市中心街は太平洋側ではなく北側の根室湾沿いに位置している。ひたすら東を目指す根室本線は、根室市の南側から台地の上を地形に逆らうことなく回り込んで終点根室に到着するため、路線が東側に膨らんでおり、そのちょうど東のピークに位置するためにここが最東端の駅となった。ものの本によってはアジア最東端の駅と記したものすらある。なるほど、我が日ノ本は日出づる国であるから当然のことのことだ。
 それにしてもタイトルがなければだれも注目することのない無人駅だ。終点までわずか1.5㎞。列車本数は上りが6本、下りが5本。地元の人だって利用しているかどうか怪しい。ホームには質素な表示が立っているが、駅前には結構立派な碑が立っている。記念撮影に車で訪れる人のためと思われる。
この掲示は修正されることが
望ましい。        
ここからは徒歩で根室駅に戻る。

日本最東端のタイトルを奪われている根室駅にも意地があるのだろう。ホーム外れにある表示板に「日本最東端有人の駅」と書かれているのを見たときは、思わず笑ってしまった。右下に小さく最西端は佐世保駅と記されているが、これはJRに限ってのことで、いまだに国鉄時代の役人根性が抜けていないと思われる。ゆいレールの沖縄空港駅に対して失礼だし、旧国鉄の松浦線、現在の松浦鉄道たびら平戸口が本州最西端であり、なおかつ有人駅だ。
晴れた根室は初めてで、爽やかな
初夏の風が吹いていた。    

 根室駅としては、余程悔しいのだろう。駅入口には「朝日に一番近い街!」というコピーもあった。きちんと整備された綺麗で小さな駅舎は、昔ながらの北海道らしさを宿していて好感が持てる。
 それにしても終着駅である根室駅が最果ての駅であることには変わりはない。ホームの先100㍍の程のところには車止めが見える。機関車が客車を付け替えるための機回り線が延びているのだ。今では1両の気動車しかやって来ない根室駅だが、昔の賑わいが偲ばれる風景だ。
この看板に巡り会えて良かった。

その車止めまで行ってみる。
 こちらの看板に偽りはなかった。「根室本線終点」左へ行けばオホーツク海、右は太平洋。滝川駅から444k339m。1行あけて、札幌駅まで484k076m。東京駅まで1,607k576m。やたらと細かい数字はともかくも、ここでの「から」と「まで」は重要だ。根室本線は滝川を起点として終点が根室であるということ。1行あけてあるのは次の数字が参考の数値だからで、ここを起点とした札幌や東京までのものである。根室の人が抱く辺境の思いが伝わってくる。それにしても1,607㎞は、稚内よりもほぼ60㎞程東京が遠いということだ。まさに北の大地の最果ての駅は根室であった。コロボックルが棲むという蕗の葉っぱに囲まれて、正直な看板はひっそりと立っていた。
(2017/6/30)

 

2014年8月26日火曜日

北海道乗り尽くしの旅・・序章

新幹線開業の前に

 このところ北海道の鉄道は暗いニュースばかりが続いている。車両火災、貨物列車の脱線と保線の手抜き、保線データの改竄、運転手による車両破壊、度重なる発煙トラブル・・・ひとつの鉄道会社が立て続けに社会信用を失墜させるような事態を生むというのは、国鉄末期の組合闘争以来のことだ。この会社で働く人たちの中に、どこかで道を誤ってしまった人がいるのではないだろうか。
 北海道に心を寄せ、鉄道による旅をこよなく愛する自分にとって、近年のJR北海道の動向はとても見過ごせないことだった。来年度末には新幹線が函館北斗まで開通し、本来なら青函トンネル開通以来の慶事であるはずなのに、果たして安全は確保できるのかといった新幹線の脱線を臭わすような物騒な報道までが飛び出すまでになっている。悲しいことである。
 こんな時だからこそ、応援もしたい。旅立つ自分を周囲の者は「脱線しない?大丈夫?」と気遣うが、大雨でも降った際には怖いなあと正直思わないでもない。ただ旅の後半は天候も回復という予想だから何とかなるだろう。それよりも新幹線が開通したら、おそらく津軽海峡線も無事ではあるまい。函館湾をめぐりながら北海道に渡るという、あの素晴らしい景色とワクワク感は二度と味わえなくなるのだという焦りが、旅心に火を灯したのだった。今一度函館湾や噴火湾を右手に見ながら、北海道乗り尽くし旅に出掛けよう。

準備
たかが指定券
されど指定券

 東京から東室蘭までの座席指定をネット上で行うためには、JR東日本とJR北海道それぞれのWebで行う必要がある。するとJR東日本のWebで購入可能な新青森・函館間は新幹線乗り継ぎ割引が適用され特急券が半額になるが、JR北海道Webで購入する函館・東室蘭間には割引が適用されず割高になる。それを避けるためには駅の緑の窓口で購入する方法もあるが、いちいち進行右窓側を指定すると、駅係員は汗をかきかき時刻表と格闘するはめにおちいる。特に本州から北海道に渡る際には、列車は一度スイッチバックして進行方向が変わるのだから、駅係員の頭の中は混乱するし、それに気付いて貰えない場合は、海の景色が見えなくなる。気の小さい自分は、駅員に申し訳ないと思うし、ましてや後ろで並ぶ人の冷たい視線にも耐え難い。それなら誰にも迷惑をかけないWeb購入が一番だし、JR北海道には正規料金で乗車するので、多少なりとも応援になる。ということで、面倒な函館までは自己責任で座席指定をし、函館・東室蘭だけは窓口で購入することにした。趣味を貫くには、手間とお金がかかるものだ。

函館へ

 というわけで、朝6時32分一番の東北新幹線はやぶさ1号で東京を発ち、10時17分には函館行きスーパー白鳥に乗り継いで、11時36分青函トンネルを抜けて北海道の大地の上に出た。
 青函トンネルは新幹線と在来線の共用区間のため、木古内駅の手前で新幹線から在来線が分かれていく。その後すぐに廃線となった江差線の錆びた線路が合流する。江差線の踏切には線路を塞ぐように立ち入り禁止のフェンスが張られていて、痛々しい。人も列車も立ち入り禁止なのである。
 新幹線停車駅の木古内駅前は、ツルハドラッグの看板が一番目立っている。ここに新幹線が停まるのかと俄に信じられないほど、あたりには人家がまばらでだ。それでも奥津軽いまべつ駅よりも遙かに人口は多いと思われる。江差や松前の人たちが車でやって来て旅立つ駅なのだろう。
 安定した共用区間の軌道と違って、ここからは在来線的な揺れとなる。今日の函館湾は霧に煙っている。細かい雨が降っている。新幹線は風雪よけのフェンスが高く張り巡らされているので、車高の低い新幹線からはたぶん車窓風景は楽しめないのではと思われる。やはり景色は在来線が一番だ。並行する松前国道の道路標示には函館まで33キロ、30分とある。この辺りの海峡線(正式には江差線。江差には行けない江差線である)は単線のため、泉沢駅で旧国鉄時代からの古い車両を使った485系白鳥と交換する。リニューアルされたとはいえ古参の列車だ。
 今日は津軽半島が微かにしか見えないが、それでも下北半島もなんとか確認できる。その間が陸奥湾で、雲に覆われたもっとも奥に青森の町がある。モノトーンの世界に広がる津軽海峡は波も穏やかで、トンビが優雅に風に乗っている。函館山が見えてくるが、あいにく山頂は雲の中だ。列車は等高線に沿って、方向を変えながら函館を目指す。 渡島当別駅を通過する。ここは男爵いもとトラピスト修道院で有名な所だ。
函館市電
 この辺りからは車窓真横に海を挟んで函館山が見えてくる。これから函館湾に沿って、180度進路を変えながら函館を目指すのだ。かつての北海道の玄関、函館へのこの最終アプローチがたまらなく好きだ。到着まであと10分、コンビナートのある上磯からは町の風景に変わる。全国チェーンのパチンコ屋を過ぎ、進路を右に右にと変えれば函館は近い。


室蘭へ

 北海道新幹線は函館には停まらない。15㎞弱離れた渡島大野を新函館北斗駅として開業することになっていて、現在駅舎の建設と五稜郭・渡島大野間の電化工事が行われている。開業時には札幌行スーパー北斗が新函館北斗に停車し、函館方面へは電車が運行されるようになるのだそうだ。とすると、ここでも在来線の車窓が大きく変わることになりそうだ。
 というのも新幹線開通後は札幌方面へのコースが一部変わるからだ。現在函館を出発した列車は市街地を抜けると松並木が続く大沼国道と併走しながら七飯(難読駅:ななえ)に着く。ここから下りの優等列車はすべて渡島大野がある本線と分かれて、大沼公園までの標高差を緩和するために造られた通称藤代線を通るのだが、上り線を跨いで右に大きくカーブを切りように造られた高架線からの風景は、北海道に来たなあということを実感させてくれるスケールの大きな風景なのである。上りは上りで、大沼から高度を下げてくる仁山・渡島大野間の風景もなかなかの見ものなのだが、それぞれ味わいが異なる。新幹線開業後は下りの貨物以外は藤代線を使うことはなくなってしまうのだろう。少し残念な気がする。
 高度を上げてトンネルをいくつか抜けると、左側に小沼の岸が迫ってくる。いつもなら小沼越しに駒ヶ岳の優美な姿が見えてくるのだが、あいにくの小雨模様で全く対岸すらも霧に煙っている。北海道有数の車窓風景が今日はお預け、少々退屈になってきた。またちょうど交感神経と副交感神経が切り替わる居眠りタイムとなったばかりでなく、昼食で訪れた手打ち蕎麦屋で呑んだ日本酒が利いてきたのか、うつらうつらと恍惚状態になってきた。ふと目が覚めたときは、森駅に進入する時で、目の前には噴火湾が広がっていた。
 雲は厚いが、何とか対岸は見える。八雲まではほぼ対岸の室蘭方面と並行して走るので、これから目指す室蘭は次第に後方に退いていく感じ、八雲から長万部へは方向を90度変えて室蘭を目指すので、この辺りは円弧を描くというよりは、正方形の三辺を走る感じだ。天気さえ良ければ有珠山や昭和新山のような火山が見えるはずなのだが、残念である。ただ、函館本線は当分健在だから、また次のチャンスがあるだろうと慰める。
 かに飯の看板が見えれば長万部は近い。函館本線が左に分かれていき、室蘭本線に入る。荒涼とした風景が続くが、次第に山が海岸に迫ってくる。静狩からは線路を敷けるような土地はなく、トンネルが連続する。近年、秘境駅として有名になった小幌駅は、トンネルとトンネルの間にホームを設えたような無人駅だ。あたりに集落は全くなく、熊笹に覆われた獣道を少し歩くと崖と崖に囲まれた入り江があるという。酔狂な釣り人くらいしか降り立つことのない小幌駅を、北斗9号はあっという間に通過した。列車は猛スピードで驀進している。揺れも少なくない。大丈夫かなという思いが一瞬よぎる。保線の不安は鉄道の安全神話を根底から揺さぶっている。
 室蘭は大規模な工業地帯だ。複雑に入り組むパイプと巨大なタンク、建物から漏れ出すような白い煙等々がコンビナート特有の雰囲気を作り出している。湾を結ぶ釣り橋が室蘭の玄関口で出迎えてくれる。
(2014/8/25乗車)

北海道乗り尽くしの旅①

室蘭本線(東室蘭→室蘭7.0㎞)・・残りあと5路線


洒落た駅舎の室蘭駅
地球岬にちなんだモニュメント
 室蘭本線の起点は長万部、終点は岩見沢、残念ながら 全線を走破する列車はない。一方で本線の途中駅東室蘭から室蘭までは支線的な扱いだが、札幌を中心に列車の運行形態が整備されている現在では、同区間は早くから電化されていて、L特急が結ぶ重要区間となっている。ただ函館方面から直通する列車はないため、本州方面からの観光客はちょっと行きにくい場所となっている。そのようなわけで、何度も北海道を旅していながら、この区間が未乗車となっていた。地球岬にも行ってみたいし。
 室蘭本線の歴史は古く、明治25年北海道炭礦鉄道によって岩見沢・室蘭(現東室蘭)間が開業された時に遡る。豊富な北海道の石炭を本州各地に積み出す港として室蘭は栄えた。明治42年には室蘭製鉄所も創業して、今日の工業都市の基礎が築き上げられた。東室蘭と長万部の間には山が海まで迫り出す難所があるため、室蘭本線が長万部と結ばれるのは昭和6年になってからだ。全線開通してからは、函館・札幌間の連絡が山越えのある函館本線から平坦な室蘭本線に移っていった。戦前は国策として樺太経営が重視されていたこともあって、函館・稚内間を札幌を経由せずに長万部から岩見沢に抜ける急行列車注1も設定されていたようだ。まさに室蘭本線の面目躍如たる列車だけに、乗ってみたかったものである。
 さて、北海道のすべての鉄道を乗り尽くす今回の旅であるが、まずこの東室蘭から始めようと思う。早朝に東京を発ち、新幹線と2本の特急を乗り継いで東室蘭のホームにたったのは、午後4時11分、函館発の特急北斗9号から降りる乗客はそれほど多くはなかった。途中1時間半ほど、函館で昼食のために下車したとはいえ、ほぼ一日中列車に揺られていたことになる。鉄道好きの自分には随分と近くなったなという印象だ。新幹線もなく、青函トンネルもない時代だったら、今頃ようやく青森に着いた頃だろう。東室蘭に着くのは明日未明・・ふうぅ。
 雨模様の肌寒い中、跨線橋を渡り室蘭行の普通列車が待つホームへと向かう。待っていたのはキハ40の二両編成だった。電化されてはいても、この区間の普通列車はほとんどが気動車で、札幌行特急は電車が使われている。古い車両を使いまわすJR北海道の倹約ぶりが窺える。
支線内をキハ40が往復している
 16:23発室蘭行は学校帰りの高校生の「専用列車」だった。東室蘭を出発するとしばらく直進し、本線の方が右手に分かれていく。本線と支線に挟まれた土地に製鉄工場がある。巨大なプラントは、その桁外れの大きさで見るものを圧倒する。進行左手は住宅地で、決して新しくはない14階建ての巨大アパートが、昔の賑わいぶり注2を彷彿とさせる。今は使われていないJR貨物駅や伸び放題の雑草を横目で見ながら、すぐに最初の停車駅輪西(わにし)駅に到着する。数名の高校生が下車するが、駅の柱は錆びだらけで、長い間手入れをしないままの駅舎に、この地域の経済状況が透けて見えてくる。工業地帯だけあって沿線には大型重機の基地があったり、さまざまなタンク・プラント・工場建物が途切れることなく続いている。日常離れしたこのシュールな光景は京浜工業地帯を走る鶴見線の風景に似ている。国道を挟んだ山側には住宅地が広がっている。辺り一面はかつて海だったところで、埋め立て地に新日鐵住友金属の大工場が造られた。狭い土地に鉄道と 国道、さらにバイパスが走っている。御崎(みさき)駅でも数人の高校生が下車し、その次の母恋(ぼこい)駅ではほとんどの高校生が降りてしまった。ここから見える山の向こうおよそ3キロの所に地球岬注3がある。
 わずか5〜6名の乗客を乗せたキハ40は、短いトンネルを抜けてすぐに終点室蘭に到着した。電化されているとはいえ、趣は鉄鋼の町のローカル線だった。
(2014/8/25乗車)


 注1)函館・稚内を結ぶ有名な列車といえば、1961年(昭和36年)運行が始まった急行宗谷だろう。1972年、函館・倶知安間に乗車したことがある。急行型気動車キハ56に乗って3時間の旅だった。森駅で駅弁の立ち売りがあり、いかめしが飛ぶように売れていた。函館11:50発、函館本線経由、札幌16:25着、終点稚内には22:42着。当時の多くの列車は函館を中心に各都市に向けて運行されていた。
 注2)これだけの大工場があるのだから働く人も多いのではないかと、タクシーの運転手さんに尋ねると、工場は無人化が進み、今では人がいらなくなったので、工業都市は寂れる一方だという。北海道で賑やかなの札幌だけだそうだ。
 注3)室蘭は山一つ隔てて工業地帯と自然が並ぶ不思議な都市である。地球岬やそれに続く断崖は絶景で有名だが、後ろを振り返ると工場地帯と住宅街がすぐ近くまで迫っている。近年はそれを逆手にとって観光PRがなされている。室蘭名物で忘れてはならないのが、「焼き鳥」。東室蘭の中島地区には、有名な焼き鳥屋がある。民芸調のクラシカルな店にはジャズが流れ、予約なしでは入れないほどの人気だ。地方都市は道を歩く人があまりいないのに、どこから人が集まるのだろうという活気ある店が必ずある。それを見つけるのも旅の面白さの一つだろう。

翌朝、苫小牧へ

 6時28分東室蘭発の苫小牧行に乗る。電化路線だが普通列車のため昨日と同じ気動車キハ40だ。ワンマン列車なのに3両もつながっている。乗客はまばらだ。それにしても思うのは、近頃は都会人の方が早起きだなあということ。通勤時間がかかるからあたりまえだけれど。今は人が少ないからいいものの、この先運転手一人で対応できるのかなあと心配になるが、所詮乗客のほとんどは目的地が同じだから下車駅が有人であれば何の問題もないのだろう。しかも乗客のほとんどは高校生、定期券利用者だから車内改札をする必要もないし、私のような一見さんのために無駄な人件費をかける必要もないのだろう。
 ということで、駅に停まるたびに高校生がたくさん乗ってきた。途中に3校くらいはありそうだ。時々高校生が入れ替わる。
 今日は山側に席をとる。本線だけに線路状態も良く、快適な走りだ。登別に近づくと、カルデラ状の山のお釜の中だけに雲がたまっている。幻想的な朝の風景である。駅舎は有名観光地にふさわしい重厚な作りで、駅近くには遊園地があって古風な観覧車が行楽地を演出している。その先はやはり北海道、放牧地が続く。昨日と打って変わって青空が広がり、北海道らしい牧歌的な風景が広がってくる。そこに突然、巨大な製紙工場が出現する。駅名は北吉原だ。そういえば、静岡県の田子の浦には製紙工場が集まっているが、駅名は吉原だった。とすれば、これって北海道の吉原の意ではないか。真偽のほどはあきらかではないものの、ひとりそう思って大発見をしたような気になる。興が覚めるのでネットで確認するのはやめておく。
吹き出しそうな樽前山の形
 白老あたりからは樽前山が独特な美しい姿を現す。今にも噴火しそうな火山の形だなと思う。アイヌコタンがあるこの辺りは、日本の鉄道の中で最も直線距離の長いところとして有名だが、実際はポイントや駅付近には当然曲線区間がある。これはあくまでも地図上の話で、それは中央線の中野・立川間と同じである。
 列車が苫小牧に着く。下車すると、好天の空のもと爽やかすぎる寒さだ。よく見れば半袖は自分だけ。高校生もサラリーマンもみんな長袖姿であった。上着着用も少なくない。今年の北海道は秋が早いようだ。

日高本線(苫小牧→様似146.5㎞)・・残りあと4路線

工業地帯の中にある苫小牧駅
刷毛で掃いたような雲が秋の
訪れを感じさせる。    
 さあ、いよいよ日高本線に乗るときが来た。朝の8時少し前、苫小牧駅には高校生たちを乗せた通勤通学列車が、室蘭・岩見沢・静内・札幌から集結してくる。キハ40に乗った生徒達は、ここで下車する人もいるが多くはまた乗り換えて近隣の学校へと散っていく。跨線橋の上はホームを移動する高校生でごった返していた。1番ホームに降り立つと、そこには秋めいた青空の下に、静内からの3両連結キハ40が日高本線塗装で待ち構えていた。「優駿浪漫」と描かれたサラブレッド仕様の気動車である。無骨なJRにしては旅心をそそる心憎い演出だ。サラブレッドがデザインされたロゴにも力が入っている。車体側面の行き先表示には本来なら琺瑯引きのサボがはめ込まれているはずだが、心ないファンが取り去るからだろうか、黒いペンキで「日高本線」と描かれていた。すでに支線のない日高線だが、本線と描かれているのがいい。150㎞近くある堂々としたローカル線なのだから。
日高仕様 運転台下と側面中央(右)
 折り返しの様似行は、2両を切り離して1両のワンマンとなった。先程までの喧噪はどこへやら、車内は各ボックスに人が埋まっても、立ち客はいない。この列車は終点様似でJRバスに接続し、襟裳岬観光をした上で、バスを乗り継ぎその日のうちに帯広まで行ける唯一の列車なのだが、今時そのような利用者はいないのだろう。強い日差しは覚悟の上、海の景色が楽しめる進行右側に席を取る。
 8:00ちょうど、苫小牧をあとに様似に向けて出発する。電化された複線の室蘭本線と並んで3線仲良く7キロ近く直進する途中には苫小牧貨物駅があって、大量のコンテナを仕分けしている。ここからは本州各地(その多くは隅田川駅)に何本もの高速貨物列車が運行されていて、今も貨物輸送は鉄道を支えていると実感する。工場群が続き、上空には車輪を出して着陸態勢を整えた航空機が千歳空港に向かって飛行している。猛スピードで疾走しているにもかからわず、室蘭本線と分かれて最初の停車駅勇払に着くまで12分が経過していた。ここは工場通勤者のために作られた駅のようである。そこから先は緑の大地と青い太平洋とコンテナ埠頭が広がっている。
 高い煙突が見えてきた。北電の苫東厚真(とまとうあつま)発電所である。昨日は製鉄所が大きいと感じたが、発電所の巨大さは並大抵ではない。ここは石炭火力発電なのだろう、巨大なあずまやがあって、その下にはきらきら輝いた石炭がうずたかく積まれていた。それをすくうためのブルドーザーが、とんでもない大きさの重機なのだ。石炭の量も半端ではない。埠頭には外国からの石炭運搬船が係留されるのだろう。周囲は緑に囲まれ人が暮らす様子はまったくない。
鵡川駅にて
鵡川(むかわ)に着き、ビジネスマン風の人が降りていった。ここでは様似から来る上りの始発と交換の為、運転調整で7分停車する。のんびりとホームに出て、爽やかな風を受けながら伸びをする。気動車のアイドリングの音以外、物音ひとつないホームを歩くと、ローカル線の旅の良さがじわっと心に沁みてくる。ゆるやかな時間の流れと、このままずっと身を託しておきたくなるような光と風に包まれているからだ。贅沢な時間を過ごしていると思う。
茶色い太平洋
日高本線は海沿いに南下していくが、時々集落を求めて海から離れる。遠くに日高山脈が連なり、富川でまた人が降り、連日の雨で泥水となった沙流川を渡る。沖の海が青いのに海岸近くの海が濁っていたのはこのためだ。海は汚れているのではなく、川が運ぶ大地の栄養で豊かな海が保たれているのだろう。
日高昆布の天日干し
ところどころで日高昆布の天日干しが行われている。幅広の高級品はあるのだろうかと目を凝らすが、判別できるほどゆっくり走ってはくれない。苫小牧を出発してちょうど1時間が経過し、日高門別に着いた。辺り一面につがいとなったトンボの群れが乱舞している。短い夏が終わろうとしているのだ。
静内駅にて 苫小牧行(右)
静内は沿線随一の町だ。日高本線では苫小牧・様似を結ぶ列車は1日5本運転されているが、静内を境にして、苫小牧・静内間に3本、静内・様似間に2本の区間列車が設定されている。機関区もあるほどの拠点駅で、ここでまた列車交換があり、運転調整のため10数分停車する。先程から苫小牧行はどれもが2両編成で、単行なのはこの列車ばかり。つまり午前中は苫小牧への利用客が多いわけで、襟裳岬観光に鉄道がまったく使われていないことがわかる。「優駿浪漫」といっても利用者は地元民ばかりなのだろう。下車する客が多く各ボックスは原則1名で、空いたボックス席も現れた。
馬の放牧
 東静内からは海岸と別れ内陸を走る。馬の放牧地が広がるが、思いの外馬の数は少ない。この時期はどこかへいってるのだろうか。日高地方は全国のサラブレッドの8割を生産する世界第5位の馬産地なのだそうだ。沿線には至る所に放牧場があり、乗馬クラブもたくさんあって体験乗馬も可能なサラブレッド観光が盛んな土地だとパンフレットに記されている。浦河にはJRAの日高育成総合施設があり強い競走馬を調教する世界一流の施設なのだという。浦河駅は片側1線の小さな駅だが、町自体はこの辺りでは比較的大きく、民家の多くが真新しく建て替えられているのは、おそらく馬で潤っているからなのだろう。
終点様似
 浦河から再び海岸を走り、終点近くで海岸と分かれ、いくつかの丘陵をトンネルで抜けると終点様似に到着する。11時19分、苫小牧からは3時間19分の旅であった。前方、車止めの先には日高山脈の最南端、名峰アポイ岳が恥ずかしいのか、山頂を隠して横たわっていた。
(2014/8/26乗車)


北海道乗り尽くしの旅②

襟裳岬


岬突端付近から振り返る
 バスが岬に近い丘陵地帯を登り詰めると、右手にも左手にも真っ青な海が広がってきた。およそ周囲300度近い角度、後ろまで海が広がっている壮大な絶景がそこにあった。手持ちのカメラレンズではとても捉えきれないスケールだ。魚眼レンズを使うか、あるいは高い所まで昇って鳥瞰写真でも撮らない限り収まらない風景だ。何とか両側の海が写せないかとようやく探したポイントで撮影したのが右の写真だ。18㎜の広角で、ちっぽけながら二つの海岸が何とか入った。
襟裳岬灯台
 広尾行のバスが来るまで2時間半もある。岬の隅々まで散策するのには十分な時間だ。まずは灯台を目指す。岬の駐車場には3分の2程度車が止まっているので、8月も終わりが近づいているものの、観光客はまだ結構いるのだ。香川ナンバーや福岡ナンバーの車が混じっているが、大方は札幌や帯広から来ている。バイクのツーリング族も少なくない。50CCバイクに荷物を括り付けて旅している人がいる。とにかく例外中の例外は、鉄道とバスを乗り継いでやって来る旅行客なのである。中国人観光客も多い。彼らはツアーバスでやって来る。この日、クラブツーリズムで日本の中高年も大挙訪れていた。
記念写真ポイント
 青い海と青い空には白亜の灯台がよく似合う。それを通り過ぎれば太平洋が目の前に広がって、沖まで点々と岩が続く襟裳岬に辿り着く。襟裳岬は風の岬として、またゼニガタアザラシの生息地として有名だ。残念ながら肉眼で見えるのは海鵜ばかりだが、広がる水平線をみていると地球の丸さを感じることが出来る。丸く見えるのは知識がそうさせる錯覚なのだそうだが、この際そんなことはどうでもよい。ずうっとここにいれば視力は確実に回復するのではなかろうかと思えるほど、目にも心地よい。遠くを見ると水晶体が平べったくなるために眼球の筋肉がゆるむんじゃないかなあ、などと考える。
アポイ岳の向こうに様似がある
 様似の駅では雲に隠れていたアポイ岳も姿を現してきた。岬の地下に建設された風の館に行ってみる。ここからは単眼鏡でゼニガタアザラシが観察できる。親切な案内嬢が、岩の上で寝転がっている群れと、海で泳いでいる群れに望遠鏡を向けてくれた。いるいる! かなり遠い岩場なので見つけられなかった筈だ。先を急ぐ観光客の多くはこの施設をパスしていたが、ゼニガタアザラシを見ないで帰るのは勿体ない。ここはのんびり公共交通機関派の勝利である。風の館には風速25㍍の強風が体験できる風洞実験施設もあって、なかなか興味深い。

黄金道路
覆道が続く黄金道路

 様似からやって来た本日最後の広尾行JRバスからは数名の乗客全員が下車し、かわって数名の客が乗るだけのスカスカの状態で出発した。襟裳の集落を過ぎ、山が近づくと、その先は有名な黄金道路である。昭和9年竣工のこの道は、当時黄金を敷き詰められるほどの莫大な建設費がかかった道ということで名付けられ、全国的に有名になった。以前から通ってみたい道の一つだった。落石防止のため、至る所に覆道(ふくどう、ロックシェッド)があって、柱の間から海が眺められる。小樽から積丹に向かう途中にも同じようなところがあって、かつて訪れた際に路線バスから眺めた、息を呑むような波に洗われる奇岩の絶景が忘れられない。

 ところが技術の進歩と経済発展はここ襟裳にも押し寄せていて、今は次々と長大トンネルがくり貫かれ、安全と利便性が優先された道になっているのだった。地元の人には朗報だろうが、身勝手な旅人にはとってはガッカリだ。路線バスはひたすら暗闇の中を突っ走る。今でも海岸沿いの道は残っているようだから、この次は車で来なければいけないなと、鉄道の旅をしているのも忘れて、決意するのだった。

旧広尾線跡を訪ねて


旧広尾駅
 襟裳岬から広尾までは1時間、JRバスの運行はここまでだ。広尾のバス停留所は、旧広尾線の広尾駅をそのまま利用したところだった。駅は町の顔だから、おいそれとは取り壊せないのだろう。
 広尾線が1987年に廃止されたあと、引き継いだのは十勝バスである。旧線にほぼ沿った広尾国道を通って帯広までを2時間20分ほどで結んでいる。距離にして80㎞以上あるので時間がかかる。その出発まで30分以上ある。なんとも接続の悪いことよと思うが、もともと利用者が少ない上に、それはそれで戦略があったのである。
バス待合室に記念館併設
 この旧広尾駅は現在鉄道記念館になっていて、観光客の訪れを待っていた。バスの切符販売窓口のおじさんは、「バス発車までまだ時間があるので、どうぞ見ていって下さい」という。廃線跡に残った鉄道記念物を駅に展示するのは、音威子府にも天北線資料室があるが、当時を懐かしむ地元の人たちのメモリアルとして大切にされているのである。
通票閉塞機
 広尾線のジオラマ、ランプや鶴嘴、鉄道員が着た服、記念切符等々、とにかく関係あるものならなんでも寄せ集めたような展示だが、それはそれなりに面白い。通票閉塞機が一台置いてあったが、これは広尾駅が終点で隣駅が一つしかないからだ。一つの区間に1編成しか列車を入れさせない通行手形の発行機だから、その操作をするには人手が必要だった。つまり列車交換が可能な駅や終着駅にはすべて駅員が配置されている必要があった。無人駅だらけの今とは大違いだ。機械化される前は人々が安全を守っていた。近代化は人々から仕事を奪い、地方は衰退に向かうのである。
C11動輪
 駅の外にかつてレールが敷かれていた痕跡はどこにもない。ホームの前は駐車場になっていて、隣の公園にパットゴルフを楽しみに来た人の車が置かれていた。この公園は鉄道記念公園と名付けられ、片隅には腕木式信号機や蒸気機関車の動輪がモニュメントとなっていた。
 これらを見て回るうちにあっという間に30分は過ぎてしまった。バス停に戻ると、3〜4人の乗客が待っており、しばらくすると派手な黄色にカラーリングされた十勝バスがやって来た。おお、綺麗だなと思ったのもつかの間、乗車してみて愕然とする。窓がすこぶる汚いのだ。海水の飛沫を浴びてそのまま乾いてしまったのか、夥しい水滴の跡が連なっていて、これでは美しい北海道の景色が堪能できないではないか。しかも帯広までは2時間以上乗っていなければならないのだ。最悪!
 窓が綺麗だったらなあと、ため息が出るほど、外は広大な農園が広がっている。ここは十勝平野の南側に位置する畑地帯なのだ。真っ直ぐな国道と直角に交わる農道、隣の農園との境界に植えられた樹木が彼方まで続いている。更別村に着いたときは、ここは日本の村という概念では捉えられないなと感じた。国道から側道に入ったバスは、広々とした役所や野球場が点在する所を走っていく。あたりは芝生が敷き詰められ、樹木も多いが、どこも手入れが行き届いている。車内放送が「○○団地」というので外を見ると、バス停から団地とおぼしき平屋の建物までは芝生が敷き詰められ、あたかもアメリカの民家を見ているかのようだ。冬は厳しいのだろうなと思いつつも、この日本離れした景観が忘れられない。
駅舎は気動車の間か?
 広尾線が日本中に名を轟かせたのは、愛国と幸福という駅が人気を呼んだからだ。どうやら今でも観光地となっているらしく、快走するバスからも幸福駅とおぼしき所が垣間見られた。残念ながら激しく汚れた窓を通してシャッターを切ったので見苦しい点は許していただきたい。
 殆ど乗り降りのないまま、バスは帯広市内に入る。高等学校、イトーヨーカ堂、イオン、長崎屋等々、少しでも人がいそうな場所に停まりながらバスは進むのだが、一向に乗客は乗ってこない。あたりは薄暗くなってくる。初めて訪れる町への到着は出来れば明るいうちが望ましい。帯広の第一印象は、整然と綺麗なビルが建ち並ぶ、それでいて人通りのまばらな、ちょっと寒々とした街である。これは決して帯広が悪いわけではない。こんな時間に着くような旅を計画した自分に責任があるのだ。でも、苫小牧から襟裳を抜けて帯広に至るには、これしかないのも事実だった。公共交通機関による旅が時代遅れになってしまったのである。
(2014/8/26乗車)