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2017年7月24日月曜日

こちらにお座り下さい…東北新幹線篇


発車のベルが鳴り止む前に

 新幹線からの車窓など興味がないとお思いの方もいらっしゃるようで。
 わからなくはありません。目まぐるしく跳び去る景色など見ていたら目が疲れて仕方がない。ということで、席に着くやいなやブラインドを下ろしてスマホをいじり始める方々が最近とても多いようです。とても残念で仕方がありません。そこで少しばかり提案を。

東北新幹線は左側、E席をどうぞ!
終点新青森時代 (2014/2/12)

 東北新幹線で新青森方面を目指す方は、ぜひ進行左側に席を取って下さい。みどりの窓口で自分に順番が回ってきたら、「進行左窓側をお願いします」と言えば、最近は余程のことがない限り係の人は対応してくれます。新幹線のシートは太平洋側から見てABCの3列シート、DEの2列シートとなっていますから、E席が左窓側です。
 ついでに列車は車両の中央あたりが一番揺れも少なく乗り心地が良いことを覚えておくと良いでしょう。長いものはどうしても重心から一番遠い両端の揺れ幅が大きくなりますから当然ですね。通勤電車に乗るときも中央寄りのドアから乗車すれば、倒れて寄りかかってくる人が少ないはずです。
 さて、南北に走る東北新幹線は、午前中東側つまり進行右側から日の光を受けますので、ブラインドを下ろす人が大半です。一方、左側は順光で眺める景色が美しい。そして、奥羽山脈を眺めながらの旅が楽しめます。準備は整いました。出発進行!

宇都宮から仙台は見逃せない
 
 最高速度275㎞で疾走してきた新幹線が宇都宮に近づくと、まずはすり鉢を伏せたような男体山が見えてくる。山肌が浸食されて縦縞模様が特徴的、ほぼ独立峰なのですぐにわかるはず。宇都宮を過ぎるとかすかに甲高いモーター音が高まって320㎞区間に入る。田圃のなか東北自動車道が近づき、一瞬併走して丘陵地帯に突っ込んでいく。自動車は時速100㎞前後で走っているが、その3倍で走る新幹線の速さが実感できる所だ。トンネルが増えてくるが、できるだけ注意を逸らさないこと。ちょっと居眠りをしている間に、那須連山を見逃してしまう。
 今どこを走っているか分からない人は、駅が目に飛び込んできたら、デッキに通じる扉上のLED掲示をチェックしよう。「ただいま那須塩原駅付近を通過中です」等のテロップですぐ分かる。プラットホームの駅名表示を識別できる人は、よほどの動体視力に優れた人だろう。私はいつも挑戦し、玉砕をし続けている。首を振っても確認できたためしがない。
 那須連山の主役は、那須塩原からは進行方向斜め前方に見える那須岳(茶臼岳)。白い噴煙が立ち上る。ちなみに、車窓の風景は普通在来線の方が数等上だが、こと那須連山に関しては新幹線が勝っている。市街地以外は防音壁に邪魔されることもない。在来線からは新幹線高架の柱に邪魔されて、まったく見えない。
 那須連山にお別れし、トンネルの中で関東に別れを告げて「みちのく」最初の駅、白河へ。トンネルをいくつかやり過ごせば、郡山。ここからは安達太良山に注目だ。別名乳頭山とも呼ばれるように、二つの山頂があって、楚々として控えめな優しい乳房が美しい。
 すぐに列車は福島駅に近づく。ここでは吾妻連山が見えてくる。特に見つけたいのが、連山の中にある吾妻小富士。山塊の中に小さな富士山の姿を見つけよう。ついでに福島駅では、分割作業中の「つばさ」と「やまびこ」が停車中かもしれない。福島駅を過ぎると山形新幹線が左に大きくカーブして遠ざかっていく。吾妻連山の外れ、山が低くなっているところが板谷峠だ。冬であれば、そこは薄暗い雪雲に覆われているに違いない。その先は豪雪地帯、米沢盆地である。福島県の中通り地方も雪は降るが、奥羽山脈の向こうは日本海側の別世界である。
 福島盆地の外れで全長11㎞の蔵王トンネルに入り、県も宮城に変わる。トンネルを出るとすぐに下を東北自動車道が通っている。そのあと一瞬で通り抜ける館トンネルがある。新幹線の行く手にポツンと小山があり、本来なら崩されてしまうほどなのだが、遺跡保護のために数10㍍のトンネルが掘られたのだという。山頂には社が祀られているが、勿論見えない。東北道からはよく見えるので、機会があればそこを突き抜ける新幹線を眺めて欲しい。私は何回となく東北道を通り、一度だけたまたま見たことがある。その時の印象はまさに蛇の腹巻き。
 さて白石蔵王に近づくと左前方に見えるのが蔵王連山だ。スキーのゲレンデがあるからすぐわかる。ただ蔵王山という山はない。主峰熊野岳と刈田岳を中心とした総称だ。見えているのは俗に言う宮城蔵王。車ならエコーラインで山頂付近まで行ける。なだらかな尾根道が特徴だ。
 さすが仙台は大都市。市街地が広がっているので、新幹線とは言え、かなり手前から徐行し始める。小高い山の上には何本もテレビ塔が建ち並び、それを迂回するかのように大きなカーブで線路は続く。青葉山の麓を流れる広瀬川を渡れば、高層ビルの建ち並ぶ仙台駅に列車はゆっくりと滑り込む。
 東京からのビジネス客の大半はこちらで降りてしまう。そしてまたビジネスマンが乗り込んでくる。仙台が東北の中心だということを実感する瞬間だ。

仙台・盛岡の夕陽に輝く人工美

 仙台を出たらまず白い観音様を探そう。真言宗大観密寺の仙台大観音像だ。高さ100㍍は仙台市制100周年にちなんでのことだという。1990年に竣工。フッ素樹脂塗装が施されているのでとにかく白い。若干距離があるので、注意していないと見落としてしまう。
 仙台から盛岡までは穀倉地帯が続き、めぼしい山はない。眺めて楽しいのは広がる水田の風景だ。江刺金札米など、いかにも高級なブランド米の産地が続く。田植え後の新緑のシーズンもいいが、黄金に実った収穫前の季節、夕日に照らされたこの地方を時速320㎞で疾走するのは実に爽快だ。半径4000㍍のカーブを減速することなく、車体を大きく傾けて走る時、窓一杯に金色に輝く田圃が視界に入ってくる。夕日に向かって進みたいなら、夕方の東京方面行き、進行右側がお薦めだ。ただその先、あたりは薄暗くなり、奥羽山脈を楽しむことは出来ないけれど。
 ここまでが国鉄時代に造られた新幹線。バブル前の日本が元気だった頃の鉄道だ。

整備新幹線の残念なところ

終点八戸時代     (2010/8/19)

 さて、盛岡と言えば岩手山なのだが、ここからは先は整備新幹線区間。時速は260㎞に落とされ、トンネルだらけで少し味気ない。更に掘り割りと高い防音壁の高架線ということもあって、岩手山が楽しめるのもそれほど長い時間ではない。もう少しフェンスが低ければなあ、たまにはトンネルから抜け出さないかなあと思いつつ、恨めしく思いながらの旅となる。トンネルを出ると防音壁があってすぐに駅、駅を出ると防音壁で守られながらまた長いトンネルだ。七戸八甲田駅付近から八甲田は見えるのか? それがよく分からないほど、外の景色が見られるのは一瞬の出来事だ。新青森に近づいた時、右手後方に見えてくるので、さっさと下車の準備をして、デッキから眺めるのが正解だろう。ちなみに三内丸山古墳も右側、青森市のランドマークである青森ベイブリッジや三角形のアスパムも右側だ。

ご乗車ありがとうございました

 いかがでしたか。E席、なかなか魅力的でしょう? 次回は、北海道新幹線でお待ちしております。

2015年7月1日水曜日

被災地気仙沼線を訪ねて

仙石東北ラインで石巻へ

 今日から7月だというのに冷たい小糠雨が降る仙台駅4番線ホーム。そこに静かに滑り込んできた列車は、ふつうの新型電車となんら変わるところはなかった。しかし屋根にはパンタグラフが付いていない。最新型のハイブリッドトレインだ。
パンタグラフのない「電車」
 ディーゼル発電機で電気を生み出し、モーターを回して推進するばかりでなく、制動時にはモーターを発電機に変えて電気を蓄電池に溜めることのできる優れものだ。今回の旅の目的は、この列車で復旧された仙石線を通って石巻まで行き、南三陸の気仙沼線を見に行くことだ。
 ハイブリッドトレインHB-E210系は、全く音も立てず滑らかに走り出した。その感覚は電車そのものだが、しばらくするとお馴染みのディーゼルエンジンが唸り出し、ぐいぐいと速度を増していく。このあたりは自動車のハイブリッドカーと同じ感覚だ。しかし自動車と違って、鉄道は一定速度に達すると動力を切っても惰性で走り続けることができる。これを惰行というが、その間ディーゼルエンジンはアイドリングすらしないので、走行音だけが響く電車の静寂に戻り、なかなか快適な乗り心地だ。
 仙石東北ラインは塩釜までは東北本線を走り、その先で仙石線に乗り入れ、宮城県第二の都市石巻までを短時間で結ぶ、この5月に誕生したばかりの災害復興路線である。東北本線も仙石線も共に電化されているのに、それを結ぶ仙石東北ラインがハイブリッドを採用したのにはもちろん訳がある。交流電化された東北本線と直流電化の仙石線とを、そのまま繋げることはできない。長い間仙石線は孤立していたのである。そこで、東北本線と仙石線が併走する松島海岸付近に非電化の渡り線を新たに造り、そこを通過させるために、最新のディーゼルカーを導入したということだ。
 ここを通過するのを一目見ようと多くの人が運転台後ろの特等席に集まってきた。最近は女性の鉄道ファンも大分多くなった。ビデオ撮影する人や写真撮影する人など、皆思い思いに楽しんでいる。私は心に焼き付けるように、じっと運転台の向こうを眺め続ける。列車は速度を落として下り線から一旦上り線に移り、更に分岐して仙石線に近づいていく。東北本線を離れた所で一旦停止する。松島海岸・石巻間の仙石線は単線なので、高城町からやってくるあおば通行普通電車の通過を待つ。信号が青に変わって、仙石線への転線が完了する。渡り線を過ぎればすぐのところに高城町がある。
009・003・001
が出迎える石巻
 2013年に訪れた時はここが終点で、その先陸前小野までが震災による不通区間だった。この5月に完全復旧した。復旧にあたっては、津波の影響を受けにくい松島湾内の海岸線沿いは盛り土をして海面よりも高い所を走り、太平洋とそのまま繋がって津波に晒されやすい仙台湾に面した野蒜付近は、ルートそのものを高台に移すという大工事をしたのである。盛り土区間は奥松島がよりよく見渡せる景勝区間となったはずだが、本日はあいにくの雨模様で、あたりは出来の悪い水墨画の世界だ。海岸から離れて、丘陵地帯に入ると真新しい野蒜駅があった。駅周辺は造成だけが終わった未成の町で、今後多くの人が戻ってくるのを期待するばかりだ。そこを越えると、陸前小野までは長い高架区間となる。ここもガランとしている。特別快速列車は仙台からの途中、塩釜・高城町・矢本の3駅だけに停まって、あっという間にサイボーグ達が出迎える石巻に着いた。

復旧した石巻線・別の道を歩む気仙沼線

復旧した女川駅
 石巻から女川までの石巻線16.8㎞もこの5月に復旧している。ここで従来のディーゼルカーに乗り換える。雨は止みそうになく景色は期待できない。石巻を出るとすぐに旧北上川を渡り、更に進むとまるで湖のような万石浦を右に見つつ、トンネルを抜けれと終点の女川に着いてしまった。真新しいホームと駅舎、新しく山を削って造成された高台の区画。綺麗だけれど、生活感の乏しい風景なのは、この土地に戻って来た人が少ないからだろう。しかし、鉄道という生活基盤が復元され、石巻を通して仙台との繋がりも密になったのだから、今後の発展に期待したところだ。
気仙沼線0㌔ポスト 前谷地駅にて
 乗ってきた列車でそのまま戻り、石巻を越えて、その先の前谷地から気仙沼線に乗り継いだ。前谷地は気仙沼線の起点である。
 仙石線や石巻線と異なり、気仙沼線の将来は微妙だ。前谷地・気仙沼間72.8㎞のうち、鉄道が走っているのは柳津までのわずか17.5㎞に過ぎない。その先はBRT(Bus Rapid Transit)が気仙沼までを結んでいる。前谷地を出た列車(と言っても1両編成だが)は、三つ四つの無人駅に停車した後、素晴らしく立派な鉄橋で大河を渡る。北上川である。この地点で北上川は旧北上川と分かれて進路を東に変え、太平洋に直接流れていく。一方の旧北上川は先程通ってきた石巻に向かうのである。東北地方を代表する大河であるだけに、気仙沼線の鉄橋は実に堂々としている。そこを1両編成のディーゼルカーがトコトコと渡っていく。渡りきるとすぐ終点の柳津に着いた。
草に覆われた線路
 柳津駅の跨線橋からは、いつまでも赤く点灯したままの信号機と雑草に覆われて行き来のなくなった線路が見える。到着した列車は、すぐに前谷地に向けて出発してしまった。
 ここからはバスに乗り換えるのだが、このBRTは4日前の6月27日から前谷地を起点とするようになった。微妙だというのはまさにこのことで、おそらくJR東日本は将来、前谷地・柳津の列車運行を取りやめる積もりなのだろう。
専用道入口に設置され
た信号機。     
気仙沼駅にて
 ここのBRTの特徴は、出来るだけ気仙沼線の線路跡地を利用して、渋滞や信号待ちのないスピーディなバス運行を可能にしたことだ。ただ、まだ多くの場所では一般道を通行している。防災庁舎を残すことで決着した南三陸町のように、津波の被害が甚大だった地域は、線路そのものが押し流されて跡形もなくなってしまったからだ。山がちで津波の影響がなかった地域では、かつての単線鉄道区間が舗装道路にかわって、渋滞のない専用道をバスはスピーディに進んでいく。
BRTが接近すると感知
中のサインが表示され
る。この先BRTが走行
していなければ、信号
は青に変わる。   
 トンネル区間では、車体を擦るのではないかと心配になるほど、ハンドルさばきが難しそうだ。一般道に出入りするところには、遮断機とセンサー付きの信号機が設置されていて、これによって閉塞区間の制御をしていることがわかる。バスは鉄道と違ってすぐに停車することが可能だから、正面衝突の危険性は極めて少ないが、単線を利用した専用道だけに行き違いが出来ないので、閉塞区間をつくって区切り、バスの進入をコントロールする必要がある。そこで活躍するのが車両感応式信号機なのである。
保存が決まった防災庁舎

 さて、あの痛々しい姿の防災庁舎は、かつては多くの人々が暮らした志津川地区にあるが、周辺は現在急ピッチに復興工事が進んでいた。その一画にある「南三陸さんさん商店街」は出来て3年ほど経つ仮設商店街だ。現在32軒の事業者が店を営んでいるという。そこに併設されるようにBRTの志津川駅があって、何人かの人々が乗り降りした。地域の拠点であることがよくわかる。
破壊された橋梁の脇を通る
 バスは一般道と専用道を出たり入ったりとせわしない。それは多くの箇所で線路の基盤となる道床そのものが流されてしまったからだ。また橋脚そのものが破壊されてしまったところも多い。このような箇所は、再建はおろか撤去そのものが大変で後回しにされているのだろう。
単線区間でバスが交換する。
 2010年の時刻表によれば、柳津から気仙沼までは1時間22分掛かっていたが、震災後BRTに変わってからは同区間が1時間56分掛かるようになった。30分余計にかかるようにはなったものの、バスとしては十分健闘しているといえるだろう。今後も専用道区間の整備は進みそうなので、その差はより縮まると思われる。
ユニバーサルデザイン例。
鉄道とBRTが一体化している。
 震災直後は鉄道の復旧に拘っていた人達も、最近ではBRTに理解を示すようになってきたという。正確な運行、本数の増大、GPS等を利用した接近表示システム、地域に暮らす人々への説明努力等々がその大きな要因になっていると思われる。気仙沼駅などはホームの両側にBRTと鉄道を区別せず配置して、ユニバーサルな駅として新しい駅のあり方を提示している。こうしてみると、トロリーバスが鉄道扱いなのとそれほど違わない感じもしてくる。BRTに対する認識が大いに深まった旅となった。
(2015/7/1乗車)

2014年10月2日木曜日

東北本線完乗記

どこまでが東北本線か

 東北本線の起点が東京で、終点は盛岡であることは多くの人が御存じのことと思う。「えっ?終点は青森ではなかったの?」とおっしゃる方もいると思うけれど、青森まで新幹線が開通するのと引き替えに、在来線が第3セクター化されたので、終点はあくまでも盛岡である。短くなったとはいえ、全長535.3㎞という堂々とした大幹線である。東北本線くらいの大物になると、本線にへばり付いた枝線と呼ばれる路線がある。それらを合わせると全長は36.4㎞も増えて571.7㎞にもなる。
 そのなかでも一番長い枝線は赤羽から大宮までの18.0㎞、埼京線である。何となくぴんと来ないが埼京線も正式には東北本線の一部だ。次に長いのが日暮里から尾久を通って赤羽までの部分。7.6㎞のこの部分こそが東北本線そのもののように思えるが、正式には京浜東北線が通る田端経由が本線であり、尾久経由は枝線扱いだ。これなどは実際の運行とは別であり、路線が造られた歴史と関連がある。田端駅の開業は1896(明治29)年4月1日、尾久駅は33年後の1929(昭和4)年6月20日開業と聞けば、線路の戸籍上田端経由が本線となるのも納得がいく。
 さてその次に長いのが6.6キロの長町・宮城野・東仙台間である。ただこちらは貨物専用路線のため乗車することはできない。貨物列車が仙台駅を避けるために敷かれた路線であり、これは諦めるしかない。東北新幹線の工事が佳境となった昭和50年代前半、夜行列車の一部が仙台を通らずに、長町から宮城野経由で運転された時があった。長町・仙台間に連絡バスが運行されたのだが、残念ながらその列車には乗っていない。私が乗った急行八甲田は仙台を0時38分に出発し、青森に向かっている。工事中の仙台駅から乗車した記憶が残っている。今では新幹線の高架橋と周辺の高層ビルで薄暗い仙台駅だが、当時は地上ホームから空を遮るものは何もなかった。たとえ宮城野経由に乗ったところで深夜のため何も見えなかっただろうが、今にして思うとちょっと残念に思うところが、乗り尽くしファンの心情というものだろう。
岩切14時31発利府行
残りは4.2㎞、これに乗っていないために長い間東北本線を乗り尽くすことが出来ないでいた。岩切・利府間である。岩切は仙台からわずか2駅め。しかし岩切にも利府にも何の用もないからチャンスが訪れなかった。これは乗りに行くしかない。

利府へ

 仙台に近いので通勤通学路線と思われるが、運行本数は余り多くない。朝晩は1時間に2本程度が仙台・利府間を結び、日中は1時間に1本となって岩切・利府間を往復している。
 14時06分、岩切に到着した電車は折り返し14時31分発利府行となる。ロングシートに2〜3人の人が所在なさそうにただ発車を待っている。そのうちに仙台からの電車が到着し、乗り換える人もやってくるが、相変わらず空席が目立つままに発車時間となった。もちろんワンマンカーである。
 本線の方が右に大きくカーブを切って分かれて行き、枝線の方は新幹線の高架下をくぐったあとは新幹線と一定の距離を保ったまま並行して走る。新幹線と枝線の間にはレールセンターが広がって、事業用の車両が多く停まっている。在来線の工事用基地がしばらく続き、それが尽きると新幹線基地に変わり、カラフルな様々な新幹線電車が停まっていて見た目にも楽しい。はやぶさ用のE5系、こまち用のE6系、先日引退した旧こまち用のE3系も停まっている。そしてなんと、北陸新幹線用のE7系まである。やまびこ用のE2系も含めて、初代のMaxとき以外はすべてが揃っていて、さながら新幹線博覧会状態だ。
 留置線が尽きた所に新利府駅がある。ここからは新幹線工場ゾーンだ。ホームの注意書きに「一般のお客様は岩切側の出口をご利用下さい」とある。利府側には工場直結、JR社員専用の出入り口があるのだ。つまりJR社員のためにこの駅は存在する。周囲に住宅は全く見えない。線路を挟んで工場の反対側は田圃だけが広がっている。果たして、この駅を利用する一般客はいるのだろうか。
利府駅
岩切を出て6分、新幹線工場が尽きれば、終点利府に到着する。駅前には住宅地が広がっている。いかにも仙台へ通う人達の住宅地である。ここで暮らす方々には申し訳ないが、朝晩の通勤以外にはほとんど利用されない路線なんだなあと改めて思う。
 ところで終着駅という言い方は利府には馴染まない。「終」には「ついに」の意味があり、それは長い旅の終着点という意味だからである。近郊電車が走る利府はあくまでも終点だろう。しかし、それでも私にとって利府には特別な意味がある。ここはようやく東北本線を乗り尽くした私にとっての終着駅なのである。
(2014/10/2乗車)

被災地仙石線を訪ねて

あの日の仙石線

 2011年3月11日午後10時過ぎ、地震発生からおよそ7時間が経過した頃、仙石線野蒜駅付近で4両編成の電車が2両ずつ中間から折れ曲がりL字型になった状態で発見された。石巻発あおば通行普通1426Sは野蒜駅を発車して数百メートルの地点で被災したのだが、この時点では乗員乗客の安否はわからなかった。L字型になった無残な車両の映像は、日本中の人々に改めて津波の恐ろしさを伝えていた。
 後日明らかになったことは、その時20名から50名の乗客がいて、そのほとんどは1キロほど離れた野蒜小学校に避難していたということだ。避難場所の体育館にもどす黒い津波が押し寄せたという。
 あれから3年以上が経つが、仙石線の高城町・陸前小野間の11.7キロは現在も不通のままだ。以前から一度そこを訪ねてみたいと思っていた。

快速高城行

 あおば通11時6分発の快速高城町行は、平日の日中ということもあって乗客はまばらだった。仙台駅から乗車する人もさほど多くなく、ロングシートには空席が目立って、座ったままキョロキョロと車窓からの景色を楽しみたい自分のようなものには都合が良かった。昼食のために購入した牛タン弁当からは良い匂いが漂ってくるが、それも人目を気にしなくて済む。
 仙石線は宮城電気鉄道として開通した経緯もあって、沿線風景はどことなく私鉄沿線の感じがする。仙台の市街地を抜けると田園地帯が広がり線路は真っ直ぐに敷かれているが、多賀城に近づくあたりから入り組んだ丘陵地帯になり、塩竃市内までは線路が右へ左へと曲がりくねった地域密着型の鉄道なのである。ひたすら脇目も振らずに北東北を目指す東北本線とは趣が違う。しかも眺めがよい。東北本線は塩竃の街外れを通過し絶景の誉れ高い松島湾の横を掠めるだけだが、仙石線は街なかをゆっくりと塩竃港に向かい松島湾を巡るルートをとる。本塩釜から先は高架線から港が眺められ、横浜の金沢シーサイドラインにでも乗っているような感じである。その後港から少し離れ東塩釜から先は単線になって、今度は山間をトンネルで抜けていく。東北本線と併走したり、風光明媚な松島の島々が眺められたりと、沿線のハイライトはこの辺りに集中している。
 仙台から松島観光を目的に鉄道を利用するなら、東北本線ではなく、仙石線が断然便利だし楽しめる。下車駅は松島海岸である。海に浮かぶ五大堂、瑞巌寺、松島観光船はすべて駅前近くに集まっている。トンネルと接するように松島海岸駅があり、そこでは上り電車が交換待ちをしていた。電車が停まると、観光客ばかりでなく、ほとんどの乗客が下車してしまった。それはこの電車が一つ先の高城町までしか行かず、現在不通となっている高城町・陸前小野間を結ぶ代行バスを利用するなら、幹線道路に近い松島海岸で乗り換えるのが便利だからである。私は鉄道で行けるところまで行くのが目的なので、「代行バスにお乗り換えの方はこちらでお降り下さい」というアナウンスを無視して乗り続ける。もちろん代行バスは次の高城町も通るはずだし、乗り換え時間が9分あるので、降りた人たちとは高城町で合流するつもりである。
 松島海岸駅を出発しトンネルを抜けると、東北本線と並んで走る箇所がある。しばらく併走後に仙石線は右に分かれて行くのだが、その箇所だけバラスト(石)が真新しくなっている。2015年に仙石線が完全復旧する際、東北本線と仙石線の間に連絡線ができ、石巻と仙台の間が短時間で結ばれるようになる。現在その工事中というわけだ。
 ところが仙石・東北ラインという愛称で運行されるその直通列車は、何と時代に逆行するかのように気動車が投入される。もちろんそれには理由がある。東北本線は交流電化区間、仙石線は直流電化区間なので、そこに連絡線がつくられても架線を張る訳にはいかない。そこで最新の気動車・ハイブリッド車両HB-210系を8編成(16両)新造し投入することにしたのだ。利便性と話題性を高めつつもコストは抑える、いかにもJR東日本らしい対応だ。
 電車は丘陵地帯を抜けて盛り土区間を下り、暫定終点となっている高城駅に到着する。あたりは雑草がボウボウと生えて、荒れ放題。ホームから先に伸びる線路は錆びて痛々しく、信号機は赤に灯ったままだ。
 電車から降りた乗客はわずか二人だけだった。駅舎の改札口では、写真撮影でもたもたしている私を駅員がじっと眺めて待っている。待たれるのはどうも苦手なので、いい加減にシャッターを切って改札へ走った。

代行バスが行く


 改札口には代行バス停留所の案内図が貼ってあった。少しわかりにくかったので、先程の駅員に尋ねてみた。
「代行バスの停留所は遠いのですか」
「えっ? 代行バスに乗るの? どうして松島海岸で降りなかったの?」
そんなに責めなくたっていいのにと思ったが、これも親切心の裏返しなのだろうと良い方に解釈して、
「11時46分発ですよね。走っていきますから」
と冷静を装って話をすると
「この前の道をまっすぐ行くとバス通りにぶつかるから、そのT字路を左に行くと壮観というホテルがあるんだけど、その入り口の前が停留所になってるから、急いで」
と教えてくれた。
 日頃走ることなどないようなだらけた生活をしている上に、重いカメラ装備を抱えながらの時間との戦いはかなりしんどかった。T字路といっても、実際は人の歩ける道が向こう側に繋がっていて一見それとは見えなかったし、バス通りと行っても今バスが走っている訳ではないし、ほとんど勘を頼りに息を切らせながらホテルを探すと、ついに時間ギリギリのところで、ホテル入り口を発見した。ところが肝心の停留所がない。フェンスにピンクのリボンがぶら下がっているから、これが目印かなあと思案していると、先程通り過ぎた交差点の所に、脇道から出て来たバスが右折してこちらに向かって来ようとしている。「良かった!」と胸を撫で下ろしたところで信号が変わり、「代行バス」と表示されたバスがやって来る。
 しかし、そのバスは私のところで減速もせずに通り過ぎてしまった。ホテルの入り口にぽつんと立った私を置いてきぼりにして。やはりここは停留所ではなかったのだ。とすれば、ホテルの入り口はどこにあるのだろう。バスが現れた交差点の所まで戻ると、脇道の先に大きな立て看板があり、先程の入り口よりももっと立派なエントランスが見えた。あっちが正門か!と気付いたときはもう後の祭りだ。このままだと今日の予定はガタガタになる。こうなれば出費は覚悟でタクシーに頼るしかなかった。

タクシーで行く

 運転手さんは気さくな人だった。早速震災のことを尋ねてみる。というのも、意外なことに高城町周辺の民家は震災の影響をまったく受けていないように見えたからだ。
「このあたりは大丈夫だったのですか」
「松島の島々が守ってくれたんですよ。太平洋を津波は押し寄せたのですが、島々で勢いは弱まっていたんですね。ただこの先の地区はだいぶやられて、仙石線も被害を受けました。今急ピッチで工事をしているので、来年には復旧します。新しい仙石線は今までよりも嵩上げして線路が作られるから見晴らしが良くなりますよ。湾が一望できるようになります」
 明るい、前向きな運転手さんだった。有難い。苦しい話をする人には、どう慰めればよいのかわからないし、そもそも触れてはいけない話題なのかもしれないからだ。
 車窓からは仙石線の復旧の様子がよくわかる。陸前富山から陸前大塚のあたりは海岸沿いに線路が敷かれているために、堤防と路盤を嵩上げして、その上に線路を敷き直してある。復旧後は観光の目玉になりそうな所である。
「ところで運転手さんは震災時どこにいたのですか」
「家にいました。2階に逃げたんですよ」と笑顔で答える。
「庭にいたら、家の前の川にヘドロの様な水が逆流して来たんです。まさかここまでは来ないだろうと高を括っていたら、あっという間に隣の塀を越えて、腰の高さまで水がやって来たんです。家の中に逃げようにも水圧で窓は開かないので、上の小窓から家に潜り込み、2階に登って見ていたんです。津波は11回押し寄せたんですよ」と、恐怖の体験を笑顔で語る。きっとこの話をもう何百回と繰り返してきたのだろうなと、同情する。
「怖かったでしょう」
「そりゃ、生きた心地がしませんでした」
と話す間も笑顔を絶やさない。
「今この道路は高い所を通っているでしょう。これが堤防となって、右側はぜんぶやられたんです。左はなんともなかった」
 その話の通り、左側には年季の入った家が点在し、右側は新築ばかりだった。
「堤防は嵩上げされたのですか」
「いや、まだこれからです。じきに取りかかります」
ということは、今はまだ津波には無防備なままなのだ。にもかかわらず、生活のために家を建てている。そこには仮設住宅もある。
「震災後1〜2年目は、被災地見学の人も多かったのですがねえ。今は寂れる一方ですわ」
 仙石線は来年初夏に復旧する予定である。被災地見学も地元経済に貢献できるならまた訪れようと思う。

陸前小野から石巻へ


 陸前小野駅は新しく建て替えられた小さな駅だ。建物の中にはちゃんと売店もある。ただお酒は扱っていなかった。用意した牛タン弁当にはビールが合うと思っていただけに残念だ。気を取り直して駅のベンチに腰を下ろし、包み紙を解き、牛タンを頬張る。専門店で購入しテイクアウトしたものだけに、冷めても実に美味しい。
 予定の列車が来るまでにはには間があった。高城町同様この駅も代行バスの停留所からは遠く、乗り換え客は見当たらない。タクシーを利用したからこそ貴重な話も聞くことが出来て、かえって良かったと思いながら、列車の到着を待つ。ホームから高城町方面を見ると新しく敷き直された線路が続いている。今は錆びたレールも列車が走り始めれば再び光り輝くようになるだろう。あともうすぐだ。
 しばらくしてやって来たのは、電車ではなく気動車だった。陸羽東線・陸羽西線で使われているキハ110だ。奥の細道湯けむりラインとロゴのある車両である。震災で電車を失い、また電化施設も被害を受けただろうから、気動車が今までこの地域を支えてきたのだ。脳天気な旅人にとっても、クロスシートの列車が来て、かえって嬉しいくらいだ。その列車に乗車したのはたった二人だけだった。
 最初の駅である鹿妻の駅前にはブルーインパルスのジェット機が飾られている。ここには航空自衛隊の松島基地があり、自衛隊から東松島市に寄贈されたものだそうだ。その展示はちょうどプラモデルの戦闘機のように、まさに大空を飛翔し上昇する姿で台座に固定されているので、模型ではないかと思えてしまうくらいだが、実際にかつて練習機として活躍した本物のジェット機なのだという。確かに教官が同乗できる複座機であった。
 次の矢本からはたくさんの人が乗車してきた。先程松島海岸で降りた人達が混じっている。彼らはここまでただ乗り継いで来ただけだろうが、こちらは貴重な体験をしてきたのだぞと、ちょっぴり心の中で自慢をしてみる。
 石巻に着く。宮城県第二の人口を擁する都市なのに、仙台と直接結ぶ鉄路は閉ざされたままである。来年以降仙石線が復旧し、仙石・東北ラインが走り出したら必ず再訪しようと思う。しかし今日は小牛田経由で遠回りしつつ仙台に戻ろう。そのために古い気動車が待つ石巻線ホームに向かった。
(2014/10/2乗車)

2014年8月28日木曜日

おばこはキャビンアテンダント

まごころ列車
 羽後本荘10時47分発の矢島行は、おばこアテンダントが案内してくれる 「まごころ列車」だった。一日14本(上下28本)運転されている鳥海山ろく線の中で、たった1本だけ往復している列車に巡り会えたのは、偶然としか言いようがない。世の中悪いことばかりじゃない! 
2000形 まごころ列車
羽後本荘にて
 由利高原鉄道<ゆりてつ>は国鉄旧矢島線を譲り受けた第3セクターの鉄道会社だ。従業員は30名。どうしてそのようなことがわかるかと言えば、アテンダントの佐々木さんがくれたチラシに全員の名前と顔写真、役職が記されていたからだ。個人情報がうるさい昨今、顔の見える会社経営には頭が下がる。それほどに皆さん、一所懸命だし親切なのである。
子吉・鮎川間の田園風景
 羽後本荘を出て羽越線と分かれるとすぐに田園地帯を走る。冬には地吹雪が襲うため、線路脇には風雪よけのフェンスが続くが、嬉しいことにシーズン以外は折り畳んであり、鳥海山を眺められるようになっている。今日はあいにく雲が厚く垂れ込めて、鳥海山は裾野さえ姿を見せていない。おばこ姿のアテンダントはこのような日のために用意した写真を見せながら説明をしてくれる。田圃の稲はだいぶ黄色く色づいているが、穂が大きく垂れる程ではないから収穫まではまだ間がありそうだ。
子吉川に沿って走る
 まごころ列車は丘陵地帯を登っていく。ただ<ゆりてつ>は登山鉄道でも山岳鉄道でもない。高原鉄道と名乗ってはいるものの、最も高い所でも標高100mに満たない。雪深い北国であること、鳥海山の山麓であることによるイメージとして命名されたのだろう。全線23㎞の、子吉川の緩やかな流れに沿って走るローカル線である。
旧鮎川小学校
 この地方にも過疎化の波は押し寄せ、廃校となった旧鮎川小学校の脇を通過する。地元の人たちの協力によって秋田杉を活用した木造校舎が綺麗に維持管理されているのだという。おばこアテンダントの解説がなければ、見落としてしまうような風景だ。注意してみると、ぬくもりのある校舎がひっそりと建っている。味気ない都会の小学校校舎で学ぶ子供達と比べて、田舎の子供達は恵まれているなと思うが、今では子供自体がいない。何とももったいない。地方はいつ復活するのだろう。

タブレット交換


先に到着した羽後本荘行から
タブレットを受け取る駅員 
(黄色いレインコート着用) 
列車は3000形
 
 過疎化ばかりでなく、モータリゼーションの普及によって地元民の鉄道利用が大幅に減っているのは、ここ由利高原鉄道も例外ではない。そのため<ゆりてつ>では毎月様々なイベント列車を走らせて乗客の獲得に努めているのだそうだ。たとえば2月には酒蔵開放無料列車、4月は雪室解禁生酒列車、8月には納涼ビール列車が運行される。秋田は酒好きが多いのだろうなあ、ぜひ乗ってみたいと思う。鉄道はお酒と相性がよいのだ。車ならこうはいかない。ただ、秋田の酒豪に囲まれたら大変なことになるのでやめておいた方が無難だと思い直す。
 <ゆりてつ>は、決して呑兵衛ばかり相手にしているわけではなく、季節の風物詩を載せた七夕列車やハロウィン列車もあるし、沿線B級グルメ列車なるものもあって、アイディアの限りを尽くしている。イベント列車ばかりでなく、鉄道好きに対してもいろいろな配慮がある。おばこアテンダントによる鉄道グッズ販売はもちろん、駅で販売する硬券など、ファンの喜びそうな工夫がある。
タブレットを肩に  
掛け、矢島行ホームへ
(帰路撮影)
 しかしそれ以上に興味深く嬉しかったのは、ここではいまだにタブレット交換が行われ、しかも駅員や運転士がそれを乗客にじっくりと見せてくれることである。カメラを向けられると嫌がる鉄道員が多い中、<ゆりてつ>はそんなファンの姿を楽しんでいるとすら思える。
 タブレット交換を見ることが出来るのは、ほぼ中間に位置する前郷駅だ。鳥海山ろく線で列車交換施設があるのはここだけである。羽後本荘や矢島も含めて、前郷以外はすべて片側1線のホームのため、2列車が同時にホームにつけるのはこの駅だけだ。だから全線で同時に運行できるのは2列車で、ケーブルカーのように途中で交換すると考えればよい。
 
矢島行に渡される 
大きめのタブレット
車両基地は矢島駅にあるので、営業時間外はすべての車両が矢島駅に戻ってくるようなダイヤになっている。従って、矢島・前郷間に1列車、前郷・羽後本荘間に1列車だけ入れるようにし、前郷ですれ違うようにすれば衝突は避けられる。そこで、それぞれの区間に入る許可証として二つの通行手形があるのだ。矢島・前郷間のタブレットは肩から掛けられる大きめのものを、前郷・羽後本荘間は手で握る感じの小さめのタブレットが使われていた。これなら間違うこともない。
とても原始的な方法だが、電子機器などの特別な施設がいらない絶対確実な方法で安全が保たれている。
羽後本荘行が受け取る
小さめのタブレット 
 ところで、<ゆりてつ>では通票閉塞器は使われているのだろうか。赤い箱のタブレット発行機である。この点は確かめる時間がなかった。
 先に触れたように、ここの鉄道員の方々は、このタブレット交換を鳥海山ろく線の魅力の一つだということをよく自覚していて、一連の作業を興味深い見せ物としても乗客たちに紹介していた。これも観光路線として集客しようとする企業努力の一つだ。帰りのことになるが、羽後本荘行の運転士が受け取るタブレットをカメラに収めようとすると、にこっと微笑みながら「はい、撮って!」とばかりに受け取ったタブレットを見せてくれた。そのサービス精神旺盛な姿には感服した。この会社は一丸となって観光客を歓迎してくれている。

終点矢島駅て・・秋田完乗!


秋田杉の美林
 おばこアテンダントがワゴンを押して<ゆりてつ>グッズを販売に来た。出来るだけ協力したいが、駅名のキーホルダーや携帯ストラップには興味がない。ちょうど手頃なものに、絵葉書があった。「旅情画集 鳥海山麓線おばこ号物語」と題した絵葉書集は、四季折々の自然の中を1500形の走る様子が描かれていた。良い記念になるし、このハガキで便りを書こう、大学時代の友人の郷里がここ矢島なので、久し振りに便りを出そうと思う。
矢島駅にて
 羽後本荘を出てちょうど40分、まごころ列車は終点矢島駅に到着した。おばこアテンダントがドア前で見送ってくれる。せっかくだからと記念撮影をお願いすると快く笑顔で引き受けてくれた。おもてなしの心を忘れない鉄道だ。
 改札を出ると、今度は売店でお茶のもてなしを受けた。品の良い白髪の女性が、いろいろ世話を焼いてくれる。その奥がおそらく本社なのだろう。「地元の人が好むようなお酒はありますか」と尋ねると、「ここには置いてないんですよ。駅前の広場を突っ切ると蔵元があって、そこで販売しています。美味しいお酒ですから」と教えてくれる。友人はまさに酒豪で、彼が好んで呑んだようなガツン系の日本酒を試してみたかった。
矢島駅全景
 駅から一番近い天寿酒造はすぐに見つかった。残念ながら地元の人が好むタイプは一升瓶しかなく、さすがにそれは断念して、持ち帰りやすい小瓶の吟醸酒を購入して駅に戻った。酒蔵は他にもあるが、次の列車の時刻が迫っている。
1500形
 旧矢島駅は3年ほど前に解体され、現在はお洒落な駅舎に生まれ変わっている。駅前は広々としていて、ちいさな町ながらも整っている。地方が衰退していく中で、おそらくここも苦労が絶えないに違いない。経済効率優先の中にあって、東京への一極集中に拍車がかかっているが、いつまでもこの国がこんなことで良いわけはない。秋田県は子ども人口の減少が最も激しいところだが、レベルの高い教育で見直されている県でもある。この町にも頑張ってもらいたいなとつくづく思う。
 駅の片隅に最古参の1500系が停まっていた。絵葉書の中の<ゆりてつ>を代表する列車である。更に帰りの列車は赤い2000形だった。在籍するすべての種類の車両に出会うことができた。これで思い残すことはない。
 秋田県を走る鉄道にはこれですべて乗り尽くすことができたが、鳥海山が綺麗な時期にもう一度訪れたいものだ。それがいつになるかはわからないけれど、由利高原鉄道鳥海山ろく線は、また忘れられない鉄道のひとつになった。
(2014/8/28乗車)

注)観光客を呼び寄せるための企画列車「まごころ列車」に乗るには、秋田9:42発の普通列車か酒田9:40発の普通列車に乗らなくてはならず、観光客が利用しそうな特急いなほには接続していない。東京からは新幹線こまちに乗っても間に合わない。たまたま青森を早朝に発ち、普通電車を乗り継いで来たら、ちょうど良い時間になったのである。観光客誘致のためなら、運行時間の見直しが必要だろう。


 

2014年2月12日水曜日

惜別 寝台特急「あけぼの」の旅

サヨナラするため青森へ

 寝台特急「あけぼの」に初めて乗車したのは1975年9月2日のことだった。北海道からの帰り道、乗りたかった寝台特急「ゆうづる」は満席で、駅窓口の係員に勧められるままに、仕方なく奥羽本線経由のローカル寝台特急の寝台券を手に入れたのだった。
 連絡船との接続は悪く、客車は古い20系の3段式ベッド。青森を18:29に出発し、秋田からは内陸に入り、山形を通って福島から東北本線を南下して、上野到着は6:52。こんなに時間をかけて遠回りしながらも、当時の特急には当たり前だった食堂車の連結はなく、あろうことか車内販売すらないという超格落ちローカル寝台特急だった。当然印象はすこぶる悪い。20系は昭和30年代の設計で寝台幅が52㎝しかなく、寝返りすら打てない窮屈な思いをしながら、せっかくの北海道旅行の最後が台無しだなあと思ったものだった。
 あれから39年、国鉄がJRに変り、山形新幹線の開通によって奥羽本線が福島と新庄で分断され、「あけぼの」は北上線経由となり、更に寝台特急「鳥海」に取って代わって上越・羽越線経由となってからも、上野と秋田・青森を結ぶ寝台特急として生きながらえてきた。そして東北新幹線開業にともなって東北地方から在来線特急が次々と姿を消す中にあって、「あけぼの」は上野と北東北を結ぶ大切な列車となっていった。私自身、「鳥海」時代を含めれば7回ほどお世話になり、いつの間にかお気に入りの寝台特急になっていたのである。五能線や津軽地方を訪れるには最適の列車であるばかりでなく、個室寝台が手軽に利用できるというのも魅力の一つだった。
 それが2014年3月14日、ついに幕を下ろしてしまう。日本から夜行列車が次々と姿を消しつつある今、ブルートレインとして生き残るのは、「北斗星」と「はまなす」しかない。<目が覚めれば異郷の地>を味わえる鉄道の旅は、終焉を迎えつつある。実に寂しい限りだ。
新青森駅
残すところあと1ヶ月となった2月12日水曜日、続けては休暇の取れない平日ではあるけれど、「あけぼの」に別れを告げるために、青森を目指すことにした。翌朝は上野から直接職場に出勤するのでスーツ姿で旅立たねばならないが、それはそれで面白い。いっそエリートビジネスマンをまねて新幹線グリーン車に乗ってみようということになった。グランクラスも考えたが、グリーンすら乗ったことがないのだから時期尚早、楽しみは次回に回すことにする。列車限定の早割を利用すれば、お得な料金で最新型E5系のグリーン車が利用できる。実に格好いい! と自己満足に浸る。
 グリーンに乗る以上、新青森までの3時間34分は特別な時間だ。ケチケチなどしてはいられない。東京駅エキナカGRANSTA DININGにある高級スーパーマーケット・紀ノ国屋で、冷えたシャルドネと気の利いたオードブルと屋久島の水を手に入れて、流れる車窓を眺めながら贅沢な時間を過ごそうと洒落てみる。席は進行右側、奥羽山脈を楽しめない窓側は今まで出来るだけ避けてきたため、どうもこちら側の風景は記憶にない。車窓ファンとしては是非とも記憶にとどめたいところなので、今回は右側の席を選んだ。有名な山は筑波山くらいしかなく、宇都宮や郡山、仙台の繁華街はすべて左側に位置し、右側に街が広がるのは福島や盛岡くらいのものであるが、東北自動車道と交差するたびに、見覚えのある標識や周りの風景が確認できて、結構面白い。ほろ酔い加減であっという間の3時間半だった。
  新青森に近づくと、右側の車窓には前方に青い陸奥湾、後方には雪に覆われた八甲田山が広がっている。ここまで乗り通す客はまばらで、それなりにグランドツアーに出た心境になってくるものだ。本日のお目当ては青森ではなく、このあとすぐに12時間かけて上野に戻っていく。実に酔狂な旅である。現地滞在時間は1時間余り、そのほとんどは<晩餐会>の準備に費やすだけだ。
青森駅
新青森と青森の間は、特定区間となっていて特急自由席に乗車券だけで乗ることが出来る。今日の連絡列車はJR北海道のスーパー白鳥だ。わずか一駅の旅だが何となく得した感じがするのは自分が鉄道愛好家だからであり、一般の人はきっと面倒だろうなと思う。青函連絡船がなくなり、東北新幹線が八戸まで開通してから本州と北海道を結んできた趣のある特急だが、これも来年の3月に新幹線が函館まで繋がると廃止になってしまう。この列車でまた函館湾をぐるっと廻っておかないといけないなあと思うものの、今回はお預けだ。

青森駅は雪の中

青森駅東口改札口
石川さゆりの名曲「津軽海峡冬景色」の中で唄われている青森駅は寂しい終着駅だが、旅人が目指す北の町は更にその先の厳冬の中にある。

 上野発の夜行列車降りた時から青森駅は雪の中
 北へ帰る人の群れは誰も無口で海鳴りだけを聞いていた

長岡まではEF81が牽引
「あけぼの」の廃止によって、上野発の夜行列車で青森駅に降り立つことはもう出来なくなることに気付いた。「北斗星」や「カシオペア」は青森通過であるし、「はまなす」は札幌発である。今回ここを訪れてたのは昭和に別れを告げるためであったように思えてくる。青函連絡船が運航していた頃はヒトヒトヒトでごった返していた青森駅も、今は閑散としている。持て余し気味に何本も並ぶプラットホームには、編成の短い列車がまばらに停車しているだけで、長大な屋根の下に寸足らずの電車が妙に寒々しい。普段人がそこまで来ることはないホーム半ばから海に向かって端まで続く屋根は、老朽化からだろうか、無骨な支柱に加えられていて、そこが滅多に使われることのない忘れられた空間であることを示している。かつてはそこを連絡船に向かう旅人がせわしげに走ったところである。栄枯盛衰の世の中を感じさせる風景だ。
 しかし、3番線ホームだけは活気があった。何処からやってきたのか、「あけぼの」廃止を惜しむファンが集まっている。ファンに混じって、長岡まで牽引するEF81のヘッドマークを背景に記念写真を撮る老夫婦もいる。みんな惜別の思いからここにやってきているのだ。それにしても、もったいないなあとつくづく思う。なんとかならないものか。日本から夜汽車がなくなってしまうのは、文化的損失ではないのかとすら思うが、経営的に超優良企業であるJR東日本がそのような考えになることは絶対にあり得ないし、無くなるからこそ悲壮感が多くの人の心を打つのだろう。編成の端から端までゆっくり歩いて、見納めの寝台列車を堪能する。
「あけぼの」は青森を18:23に発車し、上野に6:58に到着する。12時間35分の長旅は39年前と殆ど変わらない。乗車すると「食堂車・車内販売はございません。予めご了承ください」と車内放送が入った。これも変わらない。ここでは時間が止まっている感じだが、車内設備だけは大きく様変わりしている。

オハネ24-552 B寝台ソロ8上
入口から撮影

 今からちょうど一ヶ月前、自宅最寄り駅のみどりの窓口で10時ちょうどにA寝台・シングルデラックスを取ろうとして、結局瞬時に売り切れてしまったのだったが、幸いB寝台ソロの上の個室が空いていて、そこを押さえることができた。「あけぼの」のソロには、かつて下段の個室には乗車したことがあった。印象としてはとても狭い穴蔵で、スーツの着替えが厄介だなあと不安はあったが、上段の個室は入り口部分がちょうど階段になっていて、そこにかろうじて立つことが出来、これなら着替えは可能とほっとした。ラフな格好なら一層申し分のない空間だ。
晩餐会
12時間をどう過ごすかは、今回の計画を立てた時からの楽しみであった。個室寝台の利点は部屋を真っ暗にして車窓が楽しめることだが、それと同時にプライベート空間だからこそ、青森の地元料理を食べながら一人で宴会することも可能だ。今晩は大いに飲み明かそうと思う。
「つがる総菜」謹製の駅弁「たまご箱」は、おとなの休日倶楽部ミドルの2月号で紹介されたものである。青森県立五所川原農業高校(五農)の生徒が朝採りした卵を使って、寿司屋『助六』が焼き上げた玉子焼きを主菜とした駅弁だ。前日に電話予約をして、新青森駅の販売店で手に入れておいた。この玉子焼きを肴に青森黒石の地酒『亀吉』を呑もうという魂胆である。寝台個室ソロの壁にはほど良いテーブルがあり、そこに並べて酒宴を始める。チェイサーは奥入瀬渓流の水、つまみに鶏串も手に入れておいた。弘前から大鰐温泉を通過する頃には、雪もだいぶ深くなり、時々室内灯を消して外を眺めると雪明かりで景色が浮かび上がる。ここは一ヶ月ほど前に早朝の特急「つがる」で通った所なので、おおよその風景は記憶に残っている。客車列車はモーター音がないので、空調を切ると(これも自分で操作できるのが個室の良さだ)聞こえてくるのは、車輪がレールを刻む音だけである。奥羽本線はロングレールが殆どないため、規則正しいタタッタタという音の繰り返しが心地良い。
東能代 五能線の気動車
碇ヶ関を越えれば津軽地方とはお別れで秋田県へと入っていく。闇の中、大館から分かれていく花輪線の線路もはっきりと見える。二本目の冷酒を呑み終える頃には、津軽地方は遥か後方に過ぎていき、やがて世界一の大太鼓で有名な鷹ノ巣に到着する。ここからは秋田内陸縦貫線が分岐するが、駅構内に展示されている太鼓も内陸線も進行左側のために見ることはできない。そのかわり暗闇の中でうっすらと浮かび上がる山並みがぐっと穏やかになって、秋田の米どころが近いことを知らせてくれている。昼であれば遠くに白神山地の見えるあたりだが、さすがに夜は見えない。横を流れる米代川に沿って寝台特急「あけぼの」は東能代に向かって真西へと進んでいく…

4時15分水上通過
目が覚めたとき、列車は越後中里を通過し清水トンネルの最初のループに差し掛かるところだった。雪が深い。入り組んだ山懐を昇っていくために、下り本線と分かれていく。関越自動車道は真っ直ぐに三国山脈を目指してぐんぐんと高度を上げていくが、勾配に弱い鉄道はぐるりと高度を稼ぎながらでないと土樽の駅を目指せない。土樽駅のすぐ上には自動車道のネオンランプが輝いていて、雪がかなり降っていることがわかる。ここは川端康成の『雪国』で有名な国境の駅である。今日は小説とは逆の道を辿って雪のない上州を目指していく。石積みで作られた歴史ある清水トンネルを抜け、ガーター橋で渓流を越えると踏切があって、土合の駅に着く。勿論ここは通過。そのあと二つほど短いトンネルを越えると、眼下に湯檜曽の温泉街が見えてくる。二つ目のループまではもう少しだ。谷川に沿った温泉街の外れの少し開けたところに湯檜曽の駅が見える。向かい側の山腹にある湯檜曽駅まで、今「あけぼの」が走っている真下を、直角に線路が通っている。これからこの列車はそこまで、ぐるりと左にカーブを切りながらゆっくりと高度を下げていくのだ。そのほとんどはトンネルの中である。川端は清水トンネルを抜けたところで「夜の底が白くなった」と、あたかも三国山脈の関東側になかった雪が、土樽駅には降り積もっているかのように書いているが、実際はここから水上までは雪の中であり、ここもまた雪国である。
上越線牽引はEF64
しかし、列車は確実に関東平野に近づいている。上野まではまだ2時間近く走らなければならないが、「あけぼの」の旅は大きな山場を過ぎている。夜が明ければ、いつもの都会の喧噪が始まり、また日常が戻ってくる。「あけぼの」はその名の通り、夜明けを目指してひた走りに走る。ヘッドマークが表しているような「やうやうたなびくやまぎは」をこの列車は上野を目指しているのだ。
目に見えるゴール
6時58分、列車は上野駅13番線の寝台列車専用の地上ホームに静かに到着する。この先はどこへも行けない終着駅。いったいあと何回このホームを利用できるのだろう。来年の今頃は最後の定期ブルートレインがここから旅立っていく筈である。日本の夜汽車の終焉がまた一歩近づいてきた。


後日談

 「あけぼの」廃止まであと2週間となった。毎日乗り換えで利用している西日暮里駅の3番線ホーム。時計の針はもうすぐ6時50分を過ぎようとしている。1本だけ山手線を見送れば、通過を見送れるなと、見晴らしの良いホーム端まで歩いていこうとすると、ブーンというディーゼルエンジンの重低音を響かせて、青い列車が上野に向かって走っていく。灰色の蒲鉾のような屋根の所どころには赤茶けた錆が浮いていて痛々しい。ふと『老兵は死なず。消えゆくのみ』のことばが思い浮かぶ。でも、また会えて良かった。さすがにもう乗ることはできないけれど。
 同日夜8時55分、外回りの山手線が駒込駅に着く。このまま上野まで乗って行けば、朝見た「あけぼの」にまた会えるな、青森行を見送ろうと思う。

上野駅13番線ホームにはすでに多くのファンが集まっていた。近年ファンの層が厚くなっている。一眼レフをビシッと構える「鉄子さん」の姿もよく見かけるようになった。反対に、携帯片手の軽装ファンも少なくない。かく言う自分も急に思い立って来たために持っているのはスマホしかない。でも、動画が撮れる…と思いつつ、一両一両眺めながらEF64に向かって歩いていく。
 最後尾は女性専用ごろんとシート車だ。ただこれはちょっといただけない対応だと感じる。昔から日本の客車列車の最後尾は特別なところだったはずだ。「はと」や「つばめ」の最後尾は展望車であり、紳士淑女が乗る車両だった。後方に去りゆくレールを眺めながら旅を楽しむ特別な場所だ。そこが男子禁制の女性専用車だと、男性はどうすればよいのか。女性専用車は電源車の次に配置し、最後尾は誰もが楽しめる場所であって欲しいものだ。すべての乗客が後方に流れていく車窓を楽しむことができれば、こんな列車に乗ってみたいという人も増えるのではないだろうか。
 ゴロンとシート自体はとても気の利いたサービスである。乗客の減少で空いた寝台を格安で提供すれば、利用者は喜ぶからだ。そもそも夜行列車が人気ないからと言って、日本人が夜に移動しなくなった訳ではあるまい。運賃の安い豪華夜行高速バスの人気は高いと聞く。鉄道から人が離れていく最大の原因は割高な運賃設定にある。夜行高速バスの事故は後を絶たないのだから、もう一度夜行列車の魅力を再発見できればいいのだが、残念ながらその望みはなさそうである。多くの人に支えられた安全な乗り物はそれだけに経費もかかり、効率優先の安価な乗り物には到底太刀打ちができない。 
 ★★★B寝台が輝いていた昭和は遠ざかっていく。今日、寝台特急が支持されないのは、高速道路の四通八達と航空運賃の相対的な低額化が原因である。つまり国の政策が鉄道から自動車・航空機重視にスライドしたためであるから、当然のこと勝ち目はない。豪華列車カシオペアやトワイライト・エクスプレスですら廃止が囁かれている今、ななつ星のような例外的な超豪華列車を除いて、夜汽車の終焉はもうそこまでやって来ている。

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