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2019年9月10日火曜日

これも鉄道です

今更ながら鉄道とは

 「電車好きなんですね」とよく言われるが、「いいえ」と答えると不思議な顔をされる。世間の人にとって鉄道=電車なのだから仕方ないとは思いつつも、それをさらっと受け流せないのは、 通勤電車を始めとして、いわゆる都市近郊の電車に心ときめかない鉄道愛好家としてのささやかなこだわりなのだろう。
 実際乗って楽しいのは、機関車に牽引される客車列車であったり、電化されてない路線を走るディーゼルカーであったりする。楽しみを求め、更に日本の鉄道全線を乗り尽くそうとすると、こんな鉄道もあるのかと、驚くことも多々ある。

 身近なところから言えばモノレール。首都圏で暮らす人なら羽田空港を利用する際に乗る人も多いだろう。駅では「間もなく電車が参ります」とアナウンスするくらい、歴とした電車。二本の鉄路でなくても電気で走るから電車なのだという理屈なのだろうが、よくよく考えると、そもそもモノレールの走る道は鉄道なのかと突っ込みたくなる。あれはどう見てもコンクリート道だし。

 鉄道はrailway,railroadを訳したものだ。そもそもrailに鉄の意味など全くない。牧場の柵などの横棒であったり、カーテンレールであったり、長いガイドウェイのことである。だから線路の方が正確な翻訳に近いが、そこを敢えて鉄道とした先人の語感の鋭さには舌を巻く。馬車すらなく、ろくな道の無かった日本に、鉄製の道さえ敷けば、大量輸送機関が完成したのだから、その感動を名前に生かしたのだろう。舗装道路よりも先に鉄道が発達したために、ローカル線が今に残るわけだが、それはまた別の話。

 とにかく、鉄道は鉄の道である必要はない。線路さえあれば良いという話だ。

乗り尽くしの旅で出会った Railway達 
<トロリーバス>

トロリーバス時代の扇沢 2016年
最近めっきりみかけなくなったトロリーバス。見掛けは自動車そのものだが、架線から離れては動けないので鉄道だ。写真は立山黒部アルペンルートの関電トンネルのものだが、今年からはバッテリー駆動の電気自動車になり、扇沢で急速充電する時以外は、架線から解放された結果、鉄道ではなくなってしまった。つまり、鉄道愛好家からすれば廃線。私の乗車記録も6.1キロ減ってしまったことになる。
 従って現存するトロリーバスは、立山黒部貫光無軌条電車の3.7㎞のみとなった。どちらも本格的な鉄道を敷くには資金が掛かりすぎ、国立公園内では排気ガスを出したくないという事情で導入されたものだ。
1968年東京池袋・六又ロータリー
ポールを下げたトロリーバス  
 戦後には大都市でも、路面電車よりも建設資金が少なくて済むという理由から、トロリーバスが走っていたところがある。東京では明治通り沿いに、品川〜池袋〜亀戸間で運行されていた。たしか池袋を起点に運行系統が分かれていたと記憶している。池袋六又ロータリー付近に明治通りと山手貨物線の交叉する踏切があったため、電圧の違いから架線が張れず、ディーゼルエンジンで走行する区間があったのだ。渋谷方面のトロリーバスにはエンジンはなく、浅草方面のトロリーバスは踏切を通過する際ポールを下げ、渡りきったところでポールを架線に戻す作業を行っていた。運転台脇には、ディーゼルエンジンを収めた大きなドームがあった様に記憶している。


<ガイドウェイバス>

バスそのものだが…軌道の中を
走っている         
 名古屋ゆとりーとラインの車両は、まさにバスそのものである。専用軌道を走る際には、バスの車輪脇から小さなガイド車輪が現れて、ガイド用レールに沿って走る。だからハンドル操作はいらない。多くの鉄道ファンはこのシステムを見ても「萌えない」だろうが、鉄道の乗り尽くしを目指す者にとっては、実に物珍しく楽しい旅となる。なお、大曽根・小幡緑地間の都市部が専用軌道区間であり、その先の高蔵寺までの郊外区間はガイド車輪を引き込み、県道を普通の路線バスとして走る。
小さなガイド車輪が付いている

 マイカー王国の名古屋が生んだ、渋滞のない奇抜で画期的な鉄道といえる。正式名はガイドウェイバス志段味線というから、運行会社としてはバスだと考えているのだろうが、法律上は鉄道扱いという特殊なケースである。


<スカイレール>

 ところでロープウェイには rail がないので、鉄道とは言わず索道という。そのロープウェイに瓜二つの鉄道がある。広島のスカイレールサービスだ。

JR瀬野駅を降りると、急峻な崖に
何やら不思議なものが…    
 広島は周囲を山に囲まれた都会である。広島市の郊外、山陽本線の瀬野駅から山腹・山頂に掛けてお洒落な住宅街が広がっているが、そこにあるのがスカイレールである。
 瀬野といえば、瀬野八と呼ばれる山陽本線最大の難所・急勾配区間がある区間として有名だ。八本松までの区間を、現在は高性能な電車が軽快に行き来しているが、長大な貨物列車は今でも、補機を編成の後ろに付けて、プシュプル運転が行われている。それくらいの土地柄だから、山腹に広がる住宅地に行くのは容易ではない。
 広島にはアストラムラインと呼ばれる新交通システムもあるが、こちらは車輪がゴムタイヤだから急坂に強い。広島には登山できる鉄道が必要なのだ。

見た目はロープウェイのゴンドラ
そのもの みどり中央駅にて  
 さてこのスカイレール、瀬野駅に隣接したみどり口駅を出るといきなり急勾配を登り始める。途中に一駅を挟み、終点みどり中央駅まで1.3㎞。標高差160㍍で最大勾配は263‰もある。それだけに展望は抜群で、特にみどり中央駅から下る時がスリリングで面白い。眼下に住宅街と瀬野駅までモノレールのような軌道が続き、この鉄道の全貌が見渡せる。ちなみに車両そのものは自走式ではなく、駅間は軌道内に収められたワイヤーロープで駆動し、駅構内はリニアモーターだというから、ケーブルカーのような、モノレールのような、ロープウェイのような、時にリニアモーターカーのような、他に類を見ない新感覚の鉄道と言える。
眼下に広がる住宅街を囲い込む
ように瀬野駅まで下っていく 

(2019/9/10記)

2017年12月20日水曜日

明治の鉄道遺産めぐり

日本初の市電に乗る

 鉄道好きにとって愛知県犬山の明治村は見逃すことのできないユニークな博物館だ。明治時代の鉄道建造物だけでなく、園内をめぐる乗り物そのものが動く鉄道遺産だからだ。
品川燈台駅にて

 名古屋大学の前身、旧第八高等学校から移築された正門を入って長い坂を下ると、そこは市電京都七条駅。タイミングが合えばチンチンと鐘を鳴らして路面電車が通り過ぎる。仮にここで出会えなくても気にせず先を急ごう。目指すは品川燈台、京都市電の始発駅である。

 明治村は日本の「ため池百選」に選ばれた入鹿池に面し、広大な園内には70近くの歴史的建造物が点在する。歩いて回るのも楽しいが、とにかく広いので乗り物を上手に利用するとなおさら面白みが増す。まずは見晴らしのよい南東の端にある品川燈台から鉄道を乗り継いで、北の外れのSL東京駅を目指すのがおすすめだ。

 京都市電(当時は京都電気鉄道)は日本で最初の営業用電気鉄道である。日本で初めて電車が走ったのは明治23年東京上野で開かれた第四回内国勧業博覧会の会場だったが、東京市内は馬車鉄道のままであり、営業用としては明治28年の京都市電に栄誉を譲る。日本で最初に水力発電を行った蹴上発電所から電力を受けていたことでも有名だ。明治村では明治43年製の電車が走っている。
ダブルルーフには明かり取りの窓
がよく似合う。すりガラスにはお
しゃれな模様が。       

 茶とクリームのツートンカラーに、時代を感じさせるダブルルーフ。その上にはポールと呼ばれる竿の先に滑車の付いた集電器が載り、運転台は吹きさらしだ。車体の前後には万が一横切る通行人がいた場合、命を守るための救助網がついている。車輪は2軸4輪が無骨な板バネに支えられている。4輪というとまるで自動車のようだが、鉄道好きには最近見かけなくなった貨車のように見える。ただしモーターが付いているので、詳しい話は省略するが、レールに接した車輪とモーターが密着しているので振動が激しく、うなるような大きな音をたてて、ゆっくりと進んでいく。速度が出ない上に、ブレーキの効きがよくないので止まるのも大変だ。警報のチンチンという鐘の音を鳴らしながら、シューシューと制動をかけながら減速する。金糸で装飾された威厳のある制服を着た運転手さんが、神経を集中させてマスコンとブレーキを操っている。熟練した技だ。動態保存だからこそ味わえる音と振動が、五感を通して昔の市電を感じさせてくれる。
市電京都七条駅にて

 品川燈台から京都七条までは入鹿池の湖畔をめぐるルートで眺めがよい。京都七条周辺は最も人通りの多いメインストリートを横切るため路面電車の趣が漂っている。実際の京都市電は発足当時事故が絶えなかったので、安全のために信号人や告知人と呼ばれる先走りの少年がいた。明治村では、踏切などない時代を模して、メインストリートに告知人の中年男性を配して安全を呼びかけている。
カーブを曲がれば終点は近い。

 京都七条から終点市電名古屋駅までは、谷間にある第四高等学校の武道場「無声堂」を見下ろすように山林の中を進んでいく。オメガカーブとも呼ばれる大きな迂回路だ。本来路面電車だったので、このような場所は通らなかったはずだが、明治の電車に雑木林は一幅の絵になるほど相性が良い。市電名古屋駅で下車し、少し登ったところにSL名古屋駅はある。


陸蒸気と明治村の繋がり
SL名古屋駅に到着する12号機関車

  新橋・横浜間に鉄道が開業したのは1872(明治5)年。日本にはまだ大学がなく、廃刀令や西南戦争もこの後のことで、碌な道路もない時代に産業革命の申し子だった汽車が走るというのも不思議に思えるかもしれないが、悪路だからこそ鉄のレールを敷けば走れたのだと考えれば、道路よりも鉄道が発達したことがうなずける。
 開業から2年目にイギリスから輸入された陸蒸気が、146年経った今も元気に明治村で走っている。シャープ・スチュアート社製の12号機関車は動輪が二軸で炭水車を牽引しないBタンクと呼ばれるタイプだ。後ろに繋がれている客車は、当時のものではなく、青梅や新宮から持ち運ばれたものだが、すっかり周囲に溶け込んで違和感がない。
向きを変えて機周り線をゆく。

 SL名古屋駅に到着すると、すぐに機関車は客車から切り離されて、ホームの先に設置された転車台へと向かう。そこで機関士と機関助手が力を合わせてターンテーブルを回し、向きの変わった機関車は機周り線を通って客車に繋がれるのである。この間の作業が面白く、乗客たちは食い入るように見つめている。
 汽笛の合図とともに出発。重い客車を牽引するため、ゆっくりとした加速で進んでいく光景は、蒸気機関車ならではの趣きだ。せっかちな現代人も、ゆったりとした時間の経過に酔いしれる。途中駅はなく、菊の世酒蔵の巨大な建物の脇を通り過ぎると、有名な帝国ホテル中央玄関が見えてくる。フランク・ロイド・ライト設計の建物は、明治村の一番奥でひときわ偉容を誇っている。赤い鉄橋を渡れば、そこはSL東京駅である。
SLは30分から1時間に1本運行され
ている。           

 東京駅に隣接して、転車台と機関庫が設置されている。東京駅のホームからは石炭庫や給水施設が見える。ここでも機関士による人力の転車シーンが楽しめる。走行距離こそ短いが、明治村の鉄道施設はすべて本格的なものだ。名古屋鉄道に関係深いだけのことはある。
 12号機関車は東海道線で働いたあと、明治の終わりには名古屋鉄道の前身の一つ尾西鉄道に払い下げられた。その際に国鉄時代は165号機関車だったのが現在の12号に改められたのだという。だから陸蒸気であっても、12号には特別な思い入れがあるのだろう。
尾西鉄道1号機関車と六郷川鉄橋

 明治村と尾西鉄道・陸蒸気の関わりは他にもあって、尾西の1号機関車が静態保存ながらも展示されている。しかも、それは1878(明治10)年に架けられた、陸蒸気が行き来する六郷川鉄橋の上になのだから、ますます凝った展示といえよう。この鉄橋は、六郷川での役目を終えた後、御殿場線に移設され、最後に明治村で余生を送っているものだ。
(2017/12/20乗車)

2017年4月5日水曜日

今も現役の軽便鉄道、三岐鉄道北勢線

 昭和30年代以降、日本中から次々と姿を消した軌間762㎜の軽便鉄道。三重県には今も二つの会社3路線が残っている。その一つが、三岐鉄道北勢線だ。
 近鉄・JRの桑名駅から少し歩くと、遊園地で見るようなかわいらしい線路に出会える。ここが西桑名駅だ。終点阿下喜まで20.4㎞、ローカル線の旅が始まる。

西桑名駅

 ホームに停まっていた黄色い電車は、近鉄時代に造られた270系と呼ばれるタイプ。車幅は狭いけれど、縦長の顔で、載ってみると意外に広い。というのも天井が高く、車長も15mあって、なかなか本格的な通勤電車だ。

阿下喜行
 それでもいったん走り出すと、車体は小刻みに激しく揺れ、モーターが豪快な音を響かせる。旧式な吊り掛け駆動だ。年配の人には懐かしい電車だろう。4両編成でありながら、ワンマン運転。乗り心地としては、都電の荒川線に似ている。保線の悪い(失礼!)専用軌道を突っ走る感じ。

東員駅にて

東員駅で、向こうからやって来たのは同じ270系。車体に比べてやたらとパンタグラフが大きい。改めてサイズが小さい軽便鉄道なのだなと痛感する。

大泉駅にて

 続いて大泉駅で擦れ違ったのは、200系電車。三重交通時代に造られた旧4400形だから旧タイプの電車である。湘南電車型の瀟洒なデザインで、かまぼこ形の270系とはひと味違う。

終点阿下喜

 北勢線は員弁川(いなべがわ)沿いの田園地帯を鈴鹿山脈に向かって進む路線で、比較的住宅が多いものの、沿線に大きな町はない。何度も経営母体が変わり、多くのローカル線を抱えた近鉄からも見放されて、今は地元自治体の援助の下に、三岐鉄道が経営している。この先、車両の交換時期が来たとき、存続できるかどうかの正念場となろう。中古の軽便鉄道用車両など、どこにもないからだ。 
 終点阿下喜は、駅前周辺も含めて綺麗に整備された駅だ。隣接して、軽便鉄道博物館があるが、平日のため閉館。かつて遣われたターンテーブルや近鉄時代の塗装を身に纏った220系電車があった。これはもともと戦前の車両で、整備復元されたもの。

モニ226の塗装は近鉄時代のもの

(2017/4/5乗車)

【付記】
 沿線風景で印象的なのは、次第に近づいてくる藤原岳。石灰岩の山だ。三岐鉄道三岐線は、ここの石灰岩輸送を目的とした貨物輸送のために建設された鉄道である。当初北勢線を延長して石灰を運ぼうという計画もあったようだが、間を流れる員弁川とその先の河岸段丘に阻まれて断念し、そのかわりに三岐線は建設されたという。今も石灰岩を載せた貨物列車が三岐線を走る。北勢線は、その三岐鉄道に吸収されたという歴史がある。

藤原岳の麓に広がる濃い緑が員弁川の河岸段丘。
その大地の上に、太平洋セメント藤原工場があり
その一角に三岐鉄道の東藤原駅がある。    
(阿下喜駅付近からの景観)

2016年12月28日水曜日

給水塔とタブレット

運転再開を果たした名松線

 今年の3月、およそ6年半ぶりに名松線が全面復旧した。旧国鉄の赤字ローカル線として第2次廃止対象路線に選ばれながら、代替道路が未整備だったために一旦は廃止を逃れたものの、2009年の台風18号によって数十箇所で土砂崩れや路盤流失が起こり、家城・伊勢奥津間が運行停止になっていた。地元住民や自治体の粘り強い努力が、JRを動かしたといえる。喜ばしい限りだ。ぜひとも乗らなければならない。一度乗ったからと言って、地元経済には雀の涙ほどにも利益を落とせないが、思いだけは伝えることができるだろう。

 紀勢本線の松阪を起点とする名松線。松が世界ブランド「松阪牛」の松阪であることは誰にでもわかるだろう。それでは名は? 名古屋のはずもなく、答えられる人は地元の方以外は少ないのではないか。正解は名張、近鉄大阪線の特急停車駅だ。近鉄が松阪と名張をすでに結んでしまっているので、名松線を完成させる意義は全くなくなってしまった。廃止対象となったのも仕方ないことだったのである。
 今回復旧した家城・伊勢奥津間は美杉町という名からもわかるように、杉の美林が自慢の土地だ。当然産業の中心は林業である。伊勢八知駅のそばには大きな貯木場があるが、それを鉄道が輸送することはない。手間の掛かる貨物輸送を鉄道がやめてしまった結果、地域の鉄道そのものも役目を終えてしまったのだ。
長いホームも今は無用となった

 山のあちこちには伐採され、植林前の禿げ山のように見えるところもある。急斜面だから豪雨の際は深刻な土砂崩れも多いことが伺える。雲出川の川原には、大きな石がゴロゴロしていて、穏やかな今日は景色を楽しむことができるが、一旦雨が降り出すと濁流となることが手に取るようにわかる。そうこうするうちに終点の伊勢奥津に到着する。最後まで乗車してきたのはわずか3名だった。
現在貯水タンクは
興津駅のシンボル

 終着駅の伊勢奥津には今でも蒸気機関車時代の貯水タンクが残っている。かつてはここで機関車の付け替えが行われ、多くの木材が運び出されたことだろう。住民センターと兼用の駅舎や隣接する観光案内施設は、杉をふんだんに使った瀟洒な建物だ。案内所を訪ねると、お茶でもてなしてくれた。1日の乗客が30人に満たない伊勢奥津だから、旅行者は大歓迎なのだろう。お返しに素朴な饅頭と名松線グッズのメモ帳を購入した。案内所内には、貯水タンクをモチーフとした水彩画が飾られていて、その絵葉書も売られていた。

 折り返しの松阪行に乗り込み、列車が出発をすると、先程お茶をご馳走してくれた人達が駅舎の窓から旗を振って見送ってくれている。「また来てね」と書かれているが、残念ながらまた来ることはないだろうなと思う。全国を廻ろうとしている鉄路の旅人は、その土地の経済には何の役にも立たない。申し訳ないと思う。

 家城まで戻ってきた。ここで列車は交換する。名松線は全線単線であり、本数も少ないことから自動信号機が使われているわけではない。今では全国でも珍しくなったタブレット(通票)の交換が行われる。
交換する下り列車が到着

 まず伊勢奥津からの上り列車が到着する。駅員はスタフの入ったキャリアを運転手から受け取る。家城・伊勢奥津間は1列車しか入ることができないので、その通行許可証がスタフとよばれるものである。これは当然1つしか存在せず、下り列車が到着すれば渡される。
駅員が通票の入ったキャリアを
運んでいる         

 下り列車が到着すると、通票を受け取る。家城・松阪間では、たとえば上り列車を待つことなく下り列車が2本続けて運転されることもある。その場合、一つしかないスタフでは対応できない。一区間には一つの通票しかないので、先行する列車に通券とよばれるものをまず持たせ、後続が通票を持つようにする。通券は通票がなければ開かない箱にしまっておくというように、厳重に管理される。なお、続行させない場合は通票をそのまま使えばよい。少々わかりにくいが、単線で列車を衝突させない前時代的な仕組みである。
通票を受け取って
出発進行    

 只見線が自動信号式になり、通票閉塞式の鉄道がだいぶ珍しくなった。この方式を採る限り、交換のために有人駅が必要となるので、設備投資か人件費節約かの選択が迫られることになる。列車本数が多くなれば自動信号機の設備投資するだろうし、乗客が減れば人件費負担が厳しくなる。いずれにせよ消えていく方式であることに間違いないが、鉄道愛好家にとっては実に興味深い単線鉄道の儀式なのである。
(2016/12/28乗車)

 

東海道線 もう一つの終着駅

大垣界隈

 鉄道ファンにとって大垣は聖地のひとつ。誰だって大垣夜行に一度は乗ったことがあるに違いない。それでも多くの人はドアが開いた瞬間にホームに飛び出し、乗り継ぎの西明石行きの席を取ろうと、一目散に階段を駆け上がるばかりで、大垣そのものを目的に旅した人は少ないに違いない。俳聖芭蕉が『奥の細道』で大垣を終着点としたあと、すぐに伊勢へ旅立ったように、旅の終わりは旅の始まりを地でいくような通過駅の一つなのだ。
 ところがどっこい、この駅に集まる鉄道にはなかなか趣深いものがある。国鉄旧樽見線から引き継がれた樽見鉄道、近鉄から分社化された養老鉄道という風に、過疎化の影響で廃線の憂き目にあいそうな、だからこそ味わい深い鉄道のターミナルになっている。
 東海道線を岐阜方面から大垣を目指すと、車窓右側には美しい伊吹山地の山々が次第に迫ってきて、揖斐川橋梁を渡る頃には景色が大きく開け、何連も連なる見事なトラス橋が見えてくる。樽見鉄道である。さすが旧国鉄路線だけのことはあり、堂々とした橋梁はとても廃線の危機にあるとは思えないほどだ。それもそのはず、この鉄橋は明治時代に造られた御殿場線で使われていたものを移築したものだそうだ。乗りたくなること請け合いである。
 もっとも今回の旅の目的はそこではない。もう一つの路線、といっても現在もJR東海に所属する路線がある。名前は…東海道線、通称「美濃赤坂線」という枝線である。乗り尽くしファンにとっては、ここはなかなか訪れ難く、東海道線完乗を果たせない原因となっている。漸くこの地を訪れる機会がやってきた。

 雪の多い関ヶ原に近いだけあって、早朝の大垣駅は底冷えがする。12月末の美濃地方は6時半近くになっても辺りは真っ暗だ。美濃赤坂線は駅の片隅にある切り欠き式の3番線から出発する。ホームを歩いていくと待合室の向こう側に、すでにJR東海の主力313系2両編成が停まっていた。1日20本に満たない閑散路線だが、優良鉄道会社だけに車両は立派だ。6時29分の始発電車には、地元の人とおそらく鉄道マニアの数名しか乗っていない。
 ワンマンカーの車内アナウンスが終わると電車は大垣駅を出発し、真っ暗闇の中を疾走する。広い車両区を突き抜けているはずだが、明るい車内の光に邪魔されて外がよく見えない。もう本線とは分岐したのだろうか。それにしても支線を走るのとは異なって揺れが少ないから、まだ本線なのだろうか、そんな筈はないのにと思ったところで、電車は徐行する。しばらくすると高速で貨物列車がすれ違っていった。走り出してすぐ、中間の荒尾駅に到着する。予想外に貨物列車が走るような支線だったのだと思った。場内直前にポイントがあり、単線となって荒尾駅に到着した。

石灰岩輸送で生き残った駅

 東の空が白んでいる。天気は良いようだ。こんな時間の下り電車からは、降りる人も乗ってくる人もいなかった。あと一駅。ここからは急に電車が揺れだした。支線ならではの、お馴染みの揺れだ。大垣を出てわずか6分で終点美濃赤坂に到着した。
古い駅舎に新しい312系電車

 夜明けは急速に訪れる。鉄道マニア達は、下車すると慌ただしく駅舎の写真撮影を終わらせて、再び車上の人となった。折り返し6時39分発大垣行き。わずか4分の滞在時間である。私は次の電車を待つ。木造の駅舎には改札もなく無人駅の筈なのだが、事務室には蛍光灯が灯っていて誰かいる気配だ。しかし誰も出ては来なかった。
 古くからある終着駅にはどこか哀愁が漂っている。このなんとも黄昏れた雰囲気が好きで、しばらくここにいたいと思うのである。駅舎をでて車止めのところまで歩いていき、折り返し電車を見送る。
停まっている貨物の向こうに 
屋根付きの貨物ホームが見える

 美濃赤坂駅は、巨大な廃墟のような、とても広い構内を持つ駅だった。何本もの、果たして使われているんだろうかと思わせるような引き込み線があり、貨物用と思われる建物付ホームや放置された貨物車がある。

 はたしてここはいったいどんなところなのか。駅舎の壁に石灰岩輸送の説明があり、ようやく納得がいった。資源小国日本にとって数少ない自給率100%を誇る石灰岩が、この先にある金生山で採れ、そこまで貨物専用の西濃鉄道の線路が続いているのだ。つまり美濃赤坂は、西濃鉄道とJR貨物の接点であり、線路はJR東海の管轄となっている。さらに駅はJR東海にとっては無人駅で、西濃鉄道が事務所として使っているという。これで無人駅に人がいる謎も氷解した。
東の外れに非電化の
西濃鉄道線が北に向
かって続いてる。 

 かつてはここから大垣夜行が出発・到着した時代もあったという。西濃鉄道も戦時中までは旅客扱いをしていたそうだ。しかし今は1日の乗降客が300人台のローカル駅となり、日に20本に満たない数の電車が大垣駅との間を往復するに過ぎない。

 7時01分発の2番電車が回送でやって来た。通勤通学で賑わう7時台には3本設定されている。いつの間にか通勤客が集まっていた。ドアが開き、全員クロスシートに収まり、大垣向けて出発する。
開扉を待つ通勤客

 電車はガタピシ揺れながら真っ直ぐなレールの上を走っていく。左にカーブし始めた途中に荒尾駅はあった。2両では持て余すような長いホームは、同じ曲率で綺麗に曲がっている。ここでも10人ほどの通勤客が乗ってきた。全員シートに座っても、まだ余裕は十分ある。立っているのは運転席後ろで車窓を楽しんでいる私だけだ。
 眩しく朝陽が降り注ぐ中を電車は複線線路に近づいて行った。その時初めてわかったことがある。荒尾駅は東海道本線のすぐ脇に設置されていたのだ。往路は真っ暗でわからなかったが、あのすれ違ったの貨物は、本線を行くコンテナ列車だった。こちらが徐行したのは、本線上りを通過する貨物列車を待つためであり、通過後に上り線路を横切って荒尾駅に進入したのだった。
 美濃赤坂線5.0㎞のうち、荒尾・美濃赤坂間はわずか1.6㎞に過ぎない。残り3.4㎞は東海道本線そのものだった。どうりで揺れも少なく爆走していたはずである。暗くて何もわからず、支線だと思い込んでいただけだった。それはともかく、これでようやく東海道線を乗り尽くした。
(2016/12/28乗車)

2016年9月25日日曜日

森の鉄道 リニモ


愛知高速交通 東部丘陵線


 先頭車窓から広がる風景は、まるで森の奥深くに沈み込んでいくジェットコースターのようだった。陶芸資料館南駅を出たリニモは緑豊かな丘陵地帯を右に大きく進路を変えながら高度をぐんぐんと下げていく。それがまるで絶叫マシンに乗っているかのような錯覚を与えてくれるのだ。愛・地球博記念公園に聳え立つ大観覧車を眺めてすぐの出来事だったことも影響していたかもしれない。架線も何もない不思議な乗り物リニモは、そんな不思議な体験をさせてくれる愉快な鉄道だ。


 名古屋市交通局1号線、東山線の終点藤が丘は高架駅となっていて、あたりは小振りな商業ビルが建て並んおり、お目当てのリニモらしきものはどこにも見当たらない。今回の旅は出張の仕事を片付けた後の、わずかな時間を利用したプチ旅行なので、何の予備知識もなくやってきたのだった。東山線が第三軌条方式の地下鉄だということも、乗り換え駅の名前もよくわからないまま、常温磁気浮上式リニアモーターカーに乗ってみたいという思いだけで、ここを訪れた。2005年に愛・地球博が開かれてからすでに10年以上が経っている。万博後にアクセス交通機関が廃止されてしまうことはよくあることだが、リニモは不思議と残っている。浮上式の鉄道はここだけなので、ぜひ乗車してみたかった。
 東山線を降りても見当たらないのは当たり前、リニモの藤が丘駅は地下にあった。手狭な階段を降りると地下一階は改札口のあるコンコース。わずか8.7キロの路線に370円という決して安くはない切符を買って地下二階まで降りると、安全のためにガラスで囲まれたホームが現れた。リニモは完全な無人運転を行うので、腰高のホームドアではなく、スクリーンドアが設置されている。東京のゆりかもめや舎人ライナーと同じだ。
 午後の閑散とした時間帯ということもあって、乗客はほとんどいないけれど、子供連れの親子が先頭の席にすわっているので、そのすぐ後ろのボックスシートに腰を下ろす。窓が大きく、しかも無人運転だから、前方の眺めはよい。列車のドアとスライドドアがわずかの時間差をおいて閉まると、滑るように走り始める。滑るようにとはまさに比喩でもなんでもなく、まったく上下動がないのだ。鉄輪の電車とも、ゴムタイヤの新交通システムとも全く異なる、新感覚の乗り物だ。ただし揺れないのかというとそうではなく、横揺れだけがある。これをなくせば完璧なのにと思いつつ、結構小刻みに揺れるものだから、超快適とまではいかないようだ。
 地下区間を1㎞ほど進んで地上に出れば、最初の駅「はなみずき通」である。沿線唯一の地上駅なのだそうだ。そこから先は高架式となり杁ヶ池公園に着く。難読駅だなあと思って駅名表示板をみると何ということはない。「いりがいけ」と読む。どうして木偏なのだろうか。どうやら日本で考案された漢字であるらしく、堤に設置する水量調節用の樋の意味なのだそうだ。愛知県の地名に多いというから、この地方には堤に突き刺した樋がいくつもあって、それを開け閉めして水量を調節したのかもしれない。
 続いて現れたのが長久手古戦場。秀吉と家康が激突した場所である。駅のすぐ脇に古戦場公園があるが、今は大学が集まりイオンモールがデンと控える街になっている。ここから先は丘陵地帯が連なり、緑が多くなってくる。そもそも愛知万博の際にリニモが導入されたのは、60‰の急勾配が続くために東山線の延長が難しかったことも関係している。勾配に強く、新交通システムより先端をいくリニアモーターカーが望まれたのだという。トヨタ博物館があったり大学が集まっていたりと、この辺りはアカデミックな地域である。それだけに人口はさほど多くなく、リニモの経営状態は決して良くはない。毎年累積赤字が膨らんでいるようだ。

 愛知万博の跡地は愛・地球博記念公園となってさまざまな施設が開放されているが、サブテーマが「循環型社会」という環境保全にかかわるものだったこともあって、遊園地型のテーマパークにはなっていない。丘陵地帯の自然を活かしたスポーツ施設が中心だから、乗客の大幅な増が期待できるようなところではないだろう。それだけに、私のようなお気軽なヨソ者にとっては、眺めの良い魅力あふれる風景が広がっているといえる。
 こうしていくつかの丘を巡り越えたところで、冒頭で触れた絶景駅に到着するのである。谷底には終点八草駅がある。リニモはここで折り返して、藤が丘へと戻っていく。わずか17分ほどの乗車だが、天気の良い日には快適な車窓が楽しめる鉄道である。

八草は愛知環状鉄道への乗り換え駅だ。こちらも乗り尽くしたいと思いつつ、本日中に東京に戻らなくてはならないので今回は諦めることにする。
(2016/9/25乗車)

2015年7月23日木曜日

餃子と試練と豊橋鉄道

出掛ける理由

 この夏には四国全線制覇という野望を抱いてたのに、急に仕事が入ってそれが流れてしまった。新幹線に比べてかなりお得な早割航空券はキャンセル料がバカにならないが、知り合いの旅行業者に言わせると、航空会社はキャンセル料で稼げるからこそ格安航空券を売ることが出来るのだそうだ。私のようなドタキャンを強いられる者は、格好なカモなのだろう。一方で予約したホテルのキャンセル料は免れたものの、ネット上で取り消す時の思いは実に切ないものだ。悔しくて、このままで済ますわけにはいかなかった。
 そこで、せめて一泊の急拵えの計画を立ててみた。こちらは別の日にもう一泊の旅行と併せて青春18切符を活用しようという作戦だ。乗り尽くしていない地域がだいぶ西国に偏ってきたために、日帰りでは難しくなってきたのである。
 ところがそれすらも前日になって仕事が飛び込んできた。日頃の行いが余程悪いのだろう。途方に暮れていた時、ふと浜松餃子が食べたくなった。年間餃子消費量が宇都宮を抜いて、ついに日本一の餃子消費地に昇格したと先日知ったのであるが、無類の餃子好きの私には、餃子がなかなか食べられない事情がある。細君が大のニンニク嫌いなのである。鋭い嗅覚を持つ彼女からは、外で餃子を食べないようきつく申し渡されている。その代わり家庭ではニンニク抜きの、それこそ絶品の餃子を作ってくれるのだが、やはり外で餃子を肴にビールが飲みたい。お昼に食べれば、多少は誤魔化せるに違いない。もはや浜松に行くしかなかった。
 浜松あたりは、各駅停車で往復するギリギリの地点である。ただし、浜松近郊で乗っていない鉄道は存在しない。もう少し足を伸ばして豊橋まで行けないだろうか。早朝4時台に家を出れば、豊橋鉄道に完乗できることがわかった。その分昼食が15時頃になってしまうが、帰宅時間も遅いので臭いの方も何とかなるだろう。ネット上には予約必須とあったので、すぐに目的の店に電話を掛けた。「その時間なら大丈夫です」と言われたとき、餃子ごときで本当に予約が必要なのかと高を括っていただけに、期待も大きく膨らんだ。

天が与えた試練?

 東京駅を5時46分に発てば、二度乗り換えで10時54分には豊橋に着く。東京駅で大人気の「駅弁屋祭」の開店が5時半だから、朝食も列車内で済ませられる。沼津まではグリーン車にも乗れるので快適な旅が始まるはずだった。雨が降っているのは我慢しよう。昨日まで晴天が続き、明日からも晴天が続いて、今日だけが雨模様と天気予報が告げても、所詮雨男の自分だから仕方がない。他の旅行者が「私は雨女じゃないのに」と恨めしそうに同行者に語っていたが、まさか「僕が筋金入りの雨男です」とも言えないので、心の中で「ゴメンね」と謝るだけにしておいた。それなのに、まさか乗っていた列車が熱海で運転打ち切りになるとは思わなかった。大磯を過ぎたあたりで車内放送が入り、「ただ今沼津駅構内の沿線で火災が発生し、東海道線は熱海・沼津間で運転を見合わせております」などとアナウンスしている。
 <天>は何故にこの私に対して、かくも辛く当たるのか。それとも厄災が待っているから、旅を思いとどめよという啓示なのだろうか。国府津では御殿場線の接続がいいが、豊橋到着が11時37分になってしまい、その先のスケジュールが回らなくなる。豊橋鉄道の路面電車を諦めるか、浜松餃子を諦めるか、どちらの決断も出来ない相談だ。それに御殿場線の終着駅は沼津だから、こちらも運転打ち切りの可能性がある。車内放送で「沼津より先にお越しの方は御殿場線をご利用下さい」などと言ってもくれないのは、情報がないのか、そもそも各駅停車ばかりを乗り継ぐ客などいないと思っているのか、JR東海のことなど関係がないとJR東日本の車掌が思っているのかの、いずれかか、すべてだろう。
 今日は諦めて帰ろうかと思った時、小田原を新幹線が通過していった。気が進まないけれど熱海から新幹線に乗ってみるか。ちょうど4分の接続で、こだまが来る。走らなければならないなあ。でも、どこまで? 出来るだけ節約したい! いくら掛かるのだろう。
 青春18切符の場合、一日あたり2,370円で乗り放題となる。乗れるのは快速までなので、新幹線に乗れば特急料金の他に運賃も必要となる。安くはないだろうから、チョイ乗りにしたい。しかしながら、次の三島は沼津の手前で論外、新富士は在来線の富士まで直線距離で1㌔半もある。路面電車と餃子のためには、選択肢は静岡しかなかった。
 熱海駅新幹線改札口脇の切符売り場には既に長蛇の列が出来ていた。途方に暮れている私に駅員が「自由席ならこの券を持って下車駅で清算して下さい」と告げて熱海駅乗車証明書をくれた。有り難い。ホームに駆け上がった時には既に新大阪行きの「こだま633号」はドアが開いて客がおりてくるところだった。車内は混雑したので、デッキで過ごすことにした。静岡までは38分も掛かる。三島駅で2本の「のぞみ」に抜かれ、新富士駅でも2本、合計4列車に抜かれるからである。「こだま」は割に合わないなあと改めて思う。それでいて静岡駅では3,050円も支払った。これは今日という日を無駄にしないための特別料金であると思うことにした。在来線で熱海から静岡までは1時間15分から20分掛かるが、わずかな時間短縮に特急料金1,730円は少々高すぎる。普段だったら決して選ばない選択肢だ。それでも多少の新幹線効果はあって、豊橋には予定より30分早い10時20分に到着した。

豊橋鉄道渥美線

 渥美線の終着駅、三河田原駅は安藤忠雄設計の洒落た駅舎だ。市制10周年を記念して建築されたという。駅前のロータリー、交番、公衆トイレすべてが楕円形をしていてトータルにデザインされている。周辺には住宅地だけが広がっていることもあって、すっきりとした素敵な環境だ。
 ここから渥美半島の突端、伊良湖岬まではバスが通じていて、フェリーに乗り継げば鳥羽に渡ることが出来る観光拠点なのだが、  ほとんどのバスは豊橋発なので、伊良湖観光のためにわざわざこの電車を利用する人はあまりいそうにない。もっぱら地元密着型の鉄道であって、新豊橋から乗車したたくさんの人もそのほとんどが途中の大清水までに降りてしまった。終点まで乗り通した人は5〜6人である。
 渥美線の歴史は、1924(大正13)年の渥美電鉄開業に遡る。渥美半島を縦断する鉄道として構想されたが、開業時は現在の高師から三河田原までの間で運行が始まった。その後、市街地の新豊橋まで進出したり、黒川原まで延長されたり、名古屋鉄道の傘下となったりした挙げ句、更に国鉄線になるはずでもあったが、結局戦争の悪化ですべてが泡と消え、三河田原・黒川原間は不要不急路線として休止となってしまった。そして1954(昭和29)年、新豊橋・三河田原間が豊橋鉄道に譲渡されて現在に至る。駅前広場の片隅には、歴史に翻弄された渥美線の様子が記されたプレートと当時の車止めが展示されている。土地の人達の渥美半島縦断鉄道への思いが伝わってくる。
 18㎞ほどの路線には16の駅があり、全線電化単線のために途中7箇所に交換設備がある。そのうちの5カ所で列車交換があったが、その列車がユニークなのだ。すべて異なるデザインが施され、違ったヘッドマークが備えられている。カラフルトレインと命名された可愛らしい車両は、もとは全て東急線で使われたものである。順に紹介しよう。

 まずは、「桜号」。この電車で新豊橋と三河田原を往復した。写真は三河田原駅にて。


 新豊橋に向けて出発すると最初の駅が神戸(かんべ)。ここでいきなり列車交換が行われる。「菊号」である。渥美半島は電照菊で有名なところであり、沿線にはは電照菊用と思われるハウスが沢山ある。電灯の光を当てて花の開花時期を遅らせる電照菊については、小学校の時社会科の時間に教育テレビの番組で教わった。ここはそのメッカなのだ。


 田原の市街地から遠ざかって、田畑が広がる郊外を進んでいくと杉山駅に着く。そこで待っていたのは「つつじ号」だ。豊橋市の花に指定されているのだそうだ。なお、ここの転轍機はスプリング式が採用されていて、「つつじ号」の方は無理矢理線路を押し開いてこちらにやって来る。


 大清水まででほぼ田園地帯は終わり、ここからは郊外住宅地となる。下り電車を待っているとやってきたのが「ばら号」である。田原町のバラ生産高は全国屈指なのだそうだ。


 芦原駅にやってきたのは「はまぼう号」。はまぼうは南国の花で、自生北限地が田原市堀切町にあることから、このカラフルトレインにも採用された。ちなみにこの自生地は愛知県天然記念物に指定されているそうだ。入り江に大群落をつくることが多いらしく、堀切町の自生地は、伊良湖岬の近くにある。
 

 正面に新幹線の高架が見える小池駅までやって来た。ここで交換するのが「菖蒲号」。豊橋市や田原市の公園にも梅雨の季節は菖蒲の花が咲く。


 新豊橋に到着するとそこで待っていたのは「菜の花号」である。田原市の花に指定されているそうだ。

 今回すれ違わなかった「しでこぶし号」「椿号」「ひまわり号」と併せて十色の花を身に纏った渥美線の電車を見ていると、払い下げられる前の東急電鉄に所属していた頃よりも、幸せに余生を送っている感じがする。社員の愛を感じる鉄道会社だ。

豊橋鉄道市内線

 最近では「ほっトラム」の愛称でLRV(超低床車両)が運行され、全国から注目を集めている路面電車が豊鉄市内線だ。路線は駅前から赤岩口への本線と井原・運動公園前の支線からなる。まずは電停の名称が豪快である。ズバリ「駅前」。この堂々たる普通名詞をなんのためらいもなく電停の名称にするところは他にはない。だからネットの路線探索で駅前と打てば、間違いなく豊鉄市内線の駅前が出てくる。これって、実に痛快ではないか。一方の「運動公園前」は青森県の弘南鉄道にも存在する。 
 豊橋の街は道幅が広く、路面電車と自動車が共存している。道の中央を車に邪魔されることなく走るので、時間も正確だ。日中は7分間隔で運行しているし一律150円という低運賃で頑張っている。町並みに溶け込む美しい電柱も必見だ。LRVが走るくらいだから、電停の嵩上げは出来ないかわりに、新しい車両にはすべて格納式のステップが付いていて、利用者に優しい構造となっている。
 市内線のほとんどは複線なのだが、終点に近い競輪場前からは単線となり、見どころが多くなる。電車が競輪場前に近づくと、一旦停止をして駅前行が発車するのを待つ。回りの車は動いていても、線路が合流する先の電停脇に表示された信号は、進入停止の×印が点灯している。よく見ると、合流した線路が電停の手前で左に分岐している。
 市内線の車庫は終点の赤岩口にあるのだが、実は競輪場脇にも2両分の引き込み線が敷かれているのである。ラッシュ時の増発用なのだそうだ。商店街の駐車場の脇に路面電車が車と並んで置かれている感じだ。
 競輪場前から一駅先の井原までの単線区間が、もっとも電車の混み合う場所である。井原から運動場前に支線が分かれるため、日中は14分間隔で交互にやって来る。しかも上下双方向だから3分30秒ごとに通過することになる。これだけで限界だからラッシュ時には引き込み線の2両が力を発揮するのも頷ける。
 さて、その井原であるが、ここがまた有名なスポットなのだ。日本の鉄道で最急カーブが存在する。なんと半径11㍍のカーブがあるのだ。「全日本鉄道路線ぐねぐねランキング」によれば、立山砂防工事専用軌道の半径7㍍が1番ということだが、普通に乗れる鉄道としてはここが一番である。路面電車は鉄道ではなく軌道だという議論はあるにしても。
 井原の交差点に立ってみると、まず余りの急カーブに驚かされる。そこを通過する電車はさぞや金属音を立てながら車輪を軋ませて進むのだろうな、と思いきや、最新式の台車を目一杯車体からはみ出させながら、難なく通過してしまった。拍子抜けするくらいスムースに。路面電車の技術は確実に高まっていると感じる一瞬だった。
 豊鉄はいいなあ、今日は無理してここまでやって来てよかったなあと思い始めたとき、ふとまだ肝心の電車に出会っていないことに気付いた。そろそろすれ違ってもいい頃ではないか。今話題のLVR「ほっトラム」である。ネーミングにも市民に親しまれたいと言う思いが感じられる。豊鉄では、納涼ビール電車や花電車はもちろんのこと、冬にうれしい「おでんしゃ」まである。暖まりそうだなとは思うが、今は心が温まる「ほっトラム」と出会いたい。しかしここまで出会うことはなかった。ということは終点の赤岩口にある車庫に停まっているはずである。
 井原から赤岩口まで歩き、そして車庫の奥底に停められている車両を恨めしく眺めることになった。ここからは全容を拝むことは出来ない。乗客の少ない日中は出番が少ないのだろう。結局、乗車はおろか対面すらもお預けとなった。しかし、嫌な気は全くしなかった。今日は十分に豊橋鉄道の魅力に触れることが出来たからだ。そのうち機会があったら、「おでんしゃ」にでも乗りに来よう。結局最後は食行動に走るのが私の最大の欠点であると苦笑せずにはいられなかった。

さて、餃子は…

 豊橋を後にして、新浜松から遠州鉄道に乗り継ぎ、目的地に着いたのは15時少し前。住宅地の真ん中に、長蛇の列もなく、何の飾り気もない店があった。ここが浜松餃子ランキング第2位を誇る「むつ菊」だった。のれんが掛かっていない! まずいなあと思って、引き戸を見ると「本日は予約の方以外の餃子は売り切れました」と書かれた紙が貼ってあった。良かった! このブログは鉄道の旅を記すためのものだから、餃子に関するコメントは控える。そのかわりに写真を掲載しておく。それを見るだけで、おそらく私が大満足でその店を後にしたことがおわかりになるに違いない。最後に情報を一つ、この店にはお酒以外には餃子しかありません。餃子だけを食べる店です。
(2015/7/23乗車)