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2022年7月9日土曜日

ちょっと寄り道 大糸線の巻

大糸線のこと

白馬三山と道祖神
 阿佐海岸鉄道を堪能し、高松から寝台特急サンライズ瀬戸で東京に戻ったあと、そのまま新宿から「8時ちょうどのあずさ♫」に乗り、私は信濃路を抜けて富山を目指した。梅雨のさなかとはいえ、驚くほど天気に恵まれた。甲斐駒から北アルプスの山々まで、息を呑むほどの絶景が続く。車窓大好き人間にとっても、これほど経験はなかなかできるものではない。あずさ号からの一枚を載せておく。
 以前にも記したように、大糸線車窓の最大の問題は電線が絶えず邪魔することだ。残念ながらこの一枚にもしっかり映っている。日本が観光立国を標榜するなら、電線の地中化は避けて通れないだろう。美しい仁科三湖も、車窓からカメラを向けると必ず電線が写り込んでしまう。一つ救われるのは、車窓を楽しむ我々の目には、あまり電線が見えないことである。心のフィルターは、大自然の美しさに目を奪われて、醜い人工物は取り除いてくれるようだ。夢中で写した写真を後から楽しみに見ると随分ガッカリするが。
 
 余談になるが、どうして信濃大町と富山を結ぶ観光列車を運行しないのだろう。翡翠で有名な姫川にちなんで、私はネフライト・エクスプレスと勝手に名付けて、その運行を空想している。ネフライトとは翡翠のことだ。

 立山黒部アルペンルートは国内屈指の人気ルートだが、マイカー族には途中で引き返すか、あるいは自動車回送サービスを利用するか悩ましいところだ。仮に富山(立山)・信濃大町間に別ルートの観光資源があれば、車を駐車場に停めて、ぐるっと一周することが可能となる。鉄道好きなら誰もが知っているルートがある。大糸線の北半分がそれで、大町からは珠玉の仁科三湖、後立山連峰の険峻な峰々、白馬三山を眺めた後は急流姫川の渓谷美が続く。

 特に姫川は両岸に山塊が迫り、古来塩の道と呼ばれる交通の要衝でありながら、道の確保に難儀した場所だ。今も国道148号線はスノーシェッドと呼ばれる落雪・落石・落ち葉や風水害から守る覆いに包まれて、とても姫川の景観を楽しむことなど出来ないが、考えようによってはスリリングな国道ともいえる。対岸の山塊を大糸線が走っている。糸魚川・静岡構造線と呼ばれる地質学上珍しい地形だからこそ、自然災害も多く、同時に景観も優れているのだ。今JR西日本は、収益性に悪さから廃線にしたがっている区間である。

 廃線は実にもったいない。今回私がJR西日本に支払った南小谷・糸魚川間の運賃は、わずか680円。1時間ほどのところを、小振りのディーゼルカーが1両編成で7往復するに過ぎない。これでは採算もとれないだろう。起死回生の秘策はあるのか。

 一つある、と私は思う。それも始めはお金を掛けずに。

 えちごトキめき鉄道に大人気観光列車「雪月花」がある。スイスの登山鉄道を彷彿とさせる真っ赤なボディーは、天井付近まで視界が開け、食事を楽しみながら走る列車で、糸魚川まで運行されている。なかなか予約の取れない列車だが、実は土曜と休日のみの運行なのだ。これを試験的に平日だけ運行してみればよい。富山・市振間はあいの風とやま鉄道、糸魚川まではえちごトキめき鉄道、南小谷まではJR西日本、信濃大町まではJR東日本が担当する。時刻表も考えてあるので紹介すると…

 7時30分富山5番線発車。7時55分魚津で宇奈月温泉方面からの客が乗ってきたところで朝食サービスが始まる。メニューは、日本海御前または白エビ海鮮サラダの洋定食からのチョイス。次第に大きくなっていく立山連峰を眺めながらの一時だ。途中親不知子不知の伝説を聞きながら8時46分、糸魚川2番線到着。ここで折り返し49分、大糸線に入る。ネフライト・エクスプレスの名前の由来となった翡翠やフォッサマグナの説明を受けながら姫川の景観を堪能する1時間だ。南小谷からはJR東日本が担当。ここからは白馬三山や仁科三湖を愛でながらのティータイム。10時39分信濃大町1番線に到着。
 信濃大町に車を停めて、すでにアルペンルートを楽しんだ観光客は、ここから家路に向かう。富山に車を停めた場合は、ここからアルペンルートを楽しみつつ富山に向かうことになる。
 一方早朝に首都圏や名古屋圏を車で出発した場合は、そろそろ大町に着いている頃だろう。ネフライト・エクスプレスの信濃大町出発は11時16分である。11時42分白馬を出発したところでランチタイム。メニューは、信州蕎麦会席または安曇野の山葵を利かせた飛騨牛ステーキランチ。ドリンクは安曇野ワインか日本酒大雪渓を始めとしてソフトドリンクも。長時間の運転、ご苦労様。糸魚川13時19分着。食後のティータイムを楽しみながら14時36分富山駅4番線ホームに到着。

 いかがだろう。車で移動する観光客に受けると思うのだが。4社合同というところが難しいかもしれないが、どこも損をしないはずだ。儲かるとわかればすぐ飛びつくのがJR東日本。資金力があるので、特別車両を作ってしまうかも知れない。商売下手な(と私は思うのだが)JR西日本も新幹線客目当てに、糸魚川からの区間乗車をあてこんだツアー列車を作ってしまうかも知れない。ただいずれにせよ、車社会と食文化を取り入れた豪華列車がポイントだろう。片道通行が原則のアルペンルートでは、多くの観光客が鉄道ではなく観光バスで立山か信濃大町まで行き、快走されてきたバスで反対側から抜けていってしまう。鉄道愛好家には、絶景の大糸線をいかしきれていないことが悔しくてしょうがないのだ。

(2022/6/29乗車)
 
 
 
 
 


2018年5月30日水曜日

高熱隧道を行く【序】黒部峡谷鉄道に乗って

発端

 黒部川の電源開発といえば、石原裕次郎・三船敏郎主演の映画『黒部の太陽』が有名だ。黒四ダム建設のために数多くの犠牲者を出したものの、不屈の努力によって北アルプスを掘り抜くという、戦後日本の高度経済成長を象徴する作品であり、そこには輝かしい将来に立ち向かう肯定的な人生観があった。
 一方で吉村昭の『高熱隧道』(新潮文庫)は、日中戦争が厳しさを増し太平洋に戦端が開かれつつあるきな臭い時代に、黒三ダム建設のために大自然と闘う男達の、健気だが無謀ともいえる執念が描かれる、そら恐ろしい記録文学である。どちらも、従事した人々がいてくれたからこそ、今日の我々の暮らしが支えられていることを教えてくれるのだが、吉村が描く世界は、否定的な要素を含めつつ、それだけでは済まされない複雑な問題を投げ掛ける。黒部の光と影。
 どうしても高熱隧道に行ってみたかった。

抽選

 現在、黒四ダムへは3つのルートがある。今更言うまでもないが、有名な立山黒部アルペンルートは、大町ルートと立山ルートを繋いだもので、長野県信濃大町から富山県富山市を結び、年間100万人の観光客が訪れる日本を代表する観光地である。三千㍍を越えるアルプスの絶景を堪能するために、二つのケーブルカー、二つのトロリーバス、高原バスやロープウェイなどを乗り継ぎ、そこに至るためにバスや電車まで含めると、総額で10,850円かかることでも有名だ。高額だと批判されることもあるけれど、スイスの登山鉄道の方がよほど高いと思うのだが、それはさておき、いつ訪れても人で溢れているので、乗り継ぎに時間が掛かることは覚悟した方がよい。
 さて、残りのもう一つがふつう観光客が立ち寄れない黒部ルートだ。ここに目指す高熱隧道がある。黒部川第三発電所・第四発電所のために造られたもので、関西電力関係者しか利用できないのだが、コネのない一般人でも方法が一つだけある。公募見学会に申し込むのである。
 見学会は、5月下旬から10月下旬にかけて34回実施され、黒四ダムと下流の欅平の2カ所から出発する。それぞれ定員30名だから、年間2000人余りの人が参加可能だ。自由に休暇の取れない会社勤めには厳しいかもしれない。ただし知る人ぞ知る(換言すれば、あまり知られていない)見学会なので、せっせと応募ハガキを出してみる価値はある。
 昨年は7月のとある回に当たった。あいにく集中豪雨で流れてしまったが。臥薪嘗胆の思いで、今年もハガキを出したところ、見事第2回に当選。梅雨の時期だが、トンネルに天気は無関係。心は舞い上がる。

集合

 当選通知と共に送られてきた〈見学会参加のしおり〉には、

   9時20分 黒部峡谷鉄道 欅平駅2階食堂集合

とある。その時間に間に合うためには、遅くとも富山地方鉄道・電鉄富山駅5時58分発普通宇奈月温泉行に乗り、黒部峡谷鉄道・宇奈月駅7時57分発の始発に乗り継ぐ必要があった。
 黒部峡谷鉄道に乗るのは、実に54年ぶり。その時は途中の鐘釣駅までの往復だった。まだ小学校の低学年だった私は、「命の保証はしません」という伝説のトロッコには、正直乗りたくないという不安な思いでいっぱいだったが、いったん乗ってしまえば、次々に現れる急流と巨大なダムに目を奪われ、今でも風景が頭に浮かぶほど夢中になった鉄道である。日本の鉄道にすべて乗り尽くそうという身にとっては、このアプローチも楽しみの一つだ。
 
電気機関車牽引であるからには、トロッコ列車と
呼ぶのがふさわしい。            

「トロッコ電車」の愛称で人気の高い黒部峡谷鉄道だが、鉄道愛好家としてはどうしてもこのネーミングに違和感を感じる。最近ではディーゼルカーのことも「このデンシャは○○行です」なんてアナウンスする鉄道員がいるくらいだから、電気で走るものを電車と呼ぶくらい我慢しなければいけないのかもしれない。だったらHVやEVも電車なんだなと突っ込みの一つでも入れたくなる。
 それはさておき、線路幅が762㎜しかないナローゲージのトロッコ列車は、遊園地の乗り物のような可愛らしさとは無縁の、実によい面構えの重厚な豆列車である。森林鉄道のような軽便鉄道とも異なり、英国のロムニー鉄道と同じ本格的なナローゲージといえる。電源開発という重厚長大なプロジェクトを支える鉄道だからである。今も定期の旅客列車が片道12本あるのに対し、関西電力専用列車は7本走っている。

 黒部ルート見学者には、公募見学委員会事務局の計らいによって、あらかじめリラックス車両が予約されている。客車は3等制で、壁も窓もないオープン型の普通客車、窓付きの特別客車、更に背もたれ付きのリラックス客車がある。トロッコというからには、オープン型がふさわしいだろうと、事前に連絡して、グレードダウンしておいた。ちなみに工事関係者は全員、リラックス客車に乗っていた。えっ?と一瞬思ったが、考えてみれば当たり前のことである。彼らは風景を楽しみに乗車しているわけではないのだから。
 指定された1号車に乗車したのは、私ひとりだった。ホームを歩く観光客は、皆もの珍しそうにニヤニヤ笑いながらオープン客車を眺め、後ろの方に繋がれたリラックス客車へと向かっていく。この季節、寒さに震えながら、雨が降ればずぶ濡れになる車両に、何を好き好んで乗るのだろうと思っているに違いない。少しばかり恥ずかしい。が、右も左もすべての風景独り占めだ!
 
ヨーロッパの古城を思わせる新柳河原発電所(黒一)
赤い綺麗な鉄橋が特徴の黒部川第二発電所、どちらに
も峡谷鉄道の引き込み線が繋がっている。             

 列車は定刻通り出発。最初のトンネルを抜けると緑深い谷に架かる真っ赤な新山彦橋をゆっくりと渡っていく。黒部の山は、思っていた以上に大きく険しい。このあたりは標高がそれほど高くなく樹木が鬱蒼と生い茂っているので、一見穏やかな風景に見えるが、見上げると覆い被さるように迫ってくる。橋を渡りきると、切り立った岩にくり抜かれたトンネルが待っている。
 宇奈月ダムや新柳河原発電所、うなづき湖の脇を列車は進む。対岸には宇奈月温泉へ温泉水を送る導水管が続いている。源泉は黒薙温泉なのだそうだ。人造湖が猿の生活圏を変えてしまわぬよう、猿専用の吊り橋まである。人間さま用と違って欄干がない。とても歩けるようなものには見えなかった。湖面はしだいに細くなって、黒部川らしい流れになってきた。水の色はコバルトブルーである。 
 宇奈月から25分、列車は黒部川からいったん離れ、支流の黒薙川に沿って進む。
 ところで黒部は渓谷ではなく峡谷である。それほど谷の両脇が切り立った壁となりV字谷を形作っているのだが、中でも黒薙川は最初に現れる峡谷といえる。この黒薙川に架かる橋が、ポスターでもお馴染みの後曳橋だ。高さ60㍍、長さ64㍍の水色の鉄橋が、一体どうやって掘りはじめたのかと思われるような足場のない岩壁に穿たれたトンネルへと続いている。
 黒薙川の上流には、秘境の一軒宿の黒薙温泉と黒薙発電所がある。発電所までは黒薙支線が続いているが、残念ながら旅客扱いはしていない。

絶壁に張り付いた黒薙駅(右)を出ると、列車は
すぐに後曳橋を渡り、トンネルに吸い込まれる。 

 トンネルを抜けると再び黒部川に戻り、川岸に大小様々な白く綺麗な岩が転がっているのが見える。川の水の色は、清流本来の色に加えて、太陽光が水中の岩に反射して混ざり合い、美しいコバルトブルーになるのだそうだ。
 宇奈月から黒部川右岸をずっと遡行してきたトロッコ列車の前方に、やがて寺の鐘のような巨大な山が二つ見えてくる。東鐘釣山と西鐘釣山である。渓流はその間を流れている。二つの山に穿たれたトンネルの間に鐘釣橋が架かり、ここからは左岸を遡って行く。辺り一帯は錦繍関と呼ばれ、紅葉の名所だという。高山に雪が降り、あたり一帯が紅葉に包まれる季節に再訪したいものだ。

鐘釣橋とスイッチバック式鐘釣駅

 鐘釣駅から先が未乗区間である。55年前の記憶があるのはここまでだ。新たに出来た新柳河原発電所は別にして、記憶に大きな違いがなかったのは驚きだった。思い出がごちゃ混ぜになっていたのは、二つの鐘釣山の間に後曳橋が架かっていると勘違いしていたこと。どちらも印象深い絶景ポイントなので、半世紀の間、トロッコ列車の象徴として記憶されていたのだろう。
 ただ一つ大きな変化があった。半世紀前は今ほど、雪除け・落石除けトンネルがなかったことだ。トンネルは、谷底側にH鋼で柱を建て上部を塞いだだけのもの。これがあるおかげで、冬期も落雪から線路を守り、架線や線路を取り外す区間を少なくすることが出来るようになったのだろう。それによって渓流の眺めが大きく損なわれるものではない。人の目が不思議なのは、隙間から眺める風景であっても、脳が上手に障害物を情報処理して、ちゃんと美しいと認識することだ。ただし、カメラはそうはいかず、いつまでも柱が写り込む。車窓からのシャッターチャンスは確実に難度が上がったと思う。

冬期歩道とその内部
黒部の冬は厳しく、深く積もる雪のために峡谷鉄道は
12月から4月までは運休となる。その間も電力関係者
は宇奈月・欅平間20.1㎞を通わなければならない。そ
のために用意されているのが冬期歩道。こんな狭い穴
蔵を6時間掛けて歩くのだという。        

 万年雪のある鐘釣から先、黒部川の川幅はますます狭まり、見上げれば首が痛くなるようなV字谷となる。第二発電所に送水するために造られた小屋平ダムの脇を通って、9時12分、終点欅平駅に着く。この先、峡谷は更に狭まり、うねるような急流となるため、もはや線路を敷くような場所はどこにもない。

黒部川第三発電所のすぐ上に造られた欅平駅。
土地が狭いため、二列車が縦に並ぶよう、長い
プラットフォームが設けられている。    
(2018/5/30乗車)



付録

54年前に乗車したトロッコ列車
平成6年まで使われていた。
(北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅前広場に展示)

黒部峡谷鉄道100周年記念レリーフ
新旧電気機関車・新柳河原発電所・後曳橋
(宇奈月駅改札口に展示)

高熱隧道を行く【破】センター・オブ・ジアース !?

準備

「リュックの中身が見えるよう、開いてそこに置き、その場に立って下さい」
と言って、やおら取り出したのは金属製の丸い輪っか、ハンディタイプの金属探知機である。なんだか物々しいぞ、と思う間もなく、あっという間にボディチェックにパスして、赤いシールと紙の帽子を手渡される。
「あなたは赤グループです。適当な所にお座り下さい」

 欅平駅二階のレストランに集まったのは、ほとんどが中高年で若者は数名しかいない。世の中、時間的富裕層は限られている。本人確認のために公的身分証明書を提示し、ボディーチェックを30名全員が終えるのに、さほど時間は要しなかった。
 物々しさとは裏腹に、人の良さそうな恰幅の良い男性が案内人である。彼による見学会の説明と注意が始まった。レストランの柱に飾ってあった欅平散策コースの美しい写真パネルが裏返される。現れたのは、これから訪れる黒部コースの解説図だ。随分と手回しが良い。見学コースのほぼすべてが地中であり、発電所関係者や作業員だけが行くところなので、見学者も紙の帽子を被ってヘルメット着用し、指示には従うよう念を押された。
「トンネルで一番怖いのは火災です。万が一発生した場合は、この防煙マスクを着用して下さい。使い方は、まずヘルメットを脱ぎ、このようにマスクを装着してベルトを締め、再びヘルメットを被って、身を低くして脱出します。乗車するトロッコやバスの座席の下に設置してあります」
 まるで離陸前の機内アナウンスのようだ。ところが大きく違っている点があった。
「このマスクで数分間呼吸が可能です。」
 はあ? 何㎞もあるトンネルなのに数分じゃ脱出できないじゃないかと不安が募る。ところが恰幅のよい案内人はニコニコと笑っている。
「もっとも今まで一度も使われたことがありません」
毎回こうやって脅かしているのだなと、見学者達も気づき、笑いが広がる。なかなか口の達者な人である。だんだんと期待が高まってくる。
 考えてみれば、これから見学する所は、社会インフラとして重要な発電所とその関連施設なのだ。主催者がテロを警戒するのも当然のことだった。

上昇

 トロッコ列車の終点から先は関西電力の専用軌道となる。トンネルを500㍍ほど進んだところで、列車はバックし始めた。竪坑エレベーターの乗り口はスイッチバックした所にあった。どうしてこんな厄介なことをするのか、その理由はトロッコだけを上に持ち上げるためだろう。スムーズに作業するためには、機関車が先頭でない方が良い。
下部駅は標高600㍍
宇奈月からの線路が続いている

 竪坑エレベーターと黒部上部専用鉄道(上部軌道)は、仙人谷ダム(黒部第三ダム)建設のために計画された。日中戦争が泥沼化した時代、化石燃料のいらない水力発電は、電力事情の逼迫する当時の日本に於いては国家要請であり、人跡未踏の山岳地帯にトンネルをぶち抜くという難工事が始まった。

 欅平から仙人谷までは距離にして6.1㎞、標高差が250㍍ある。欅平の黒部第三発電所にとっては都合の良い落差であっても、約41‰という勾配は作業用トロッコには厳しい。そこで竪坑で一気に200㍍昇り、残りの50㍍は6.1㎞かけてゆっくり登ろうと考えたのである。
上部駅ではゴミ積載トロッコ
がエレベータを待っていた 

 昭和12年に完成した竪坑エレベーターは、現在は二代目のものだ。箱の中もにも線路が設置され、トロッコがそのまま積み込めるようになっている。最大積載量は4.5トン、人なら36人まで乗れる大型のエレベーターだ。昇ったところに欅平上部駅がある。


展望

 上部駅に隣接する欅平竪穴展望台に立ち寄った。ここからは黒部の深い谷からは見ることの出来ない後立山連峰の山々を垣間見ることが出来る。あいにくの曇天だったが、ガスもかからず、緑の山の奥に雪を頂いたアルプスの山々が顔を覗かせている。
 穴蔵の中をぐるぐると巡ってきたので、一瞬方向感覚を失ったが、しばらくして自分が黒部川右岸にいて、東向き立っていることがわかってきた。見慣れた長野側の風景を逆に眺めているのだ。
一番奥の雪山、手前の緑の山
に隠れて分かりずらいが、左
から白馬鑓、やや高いのが天
狗の頭(クリックして拡大し
て下さい)        

 左(北)側から、白馬槍、天狗の頭。南に目を転ずると、鹿島槍と爺ヶ岳。いずれも後ろ姿である。黒部川は深い谷底でここからは見えないが、川底から700㍍ある絶壁、奥鐘山の大岸壁が見える。いまは国の天然記念物に指定されている景勝地も、仙人谷ダム建設時には悲劇が起こった場所だ。作業員宿舎が泡(ほう)雪崩と呼ばれる爆発的表層雪崩に吹き飛ばされ、一山越えて大岸壁に激突し、数十名の命が一瞬に奪われた。
中央下に奥鐘山の大岸壁。奥の雪
山は、左が鹿島槍、右が爺ヶ岳。

*竪穴展望台と更にその上のパノラマ展望台へは、富山県や地元市町村・関西電力などがタイアップして実施しているツアーで行くことが可能。6月から11月までの金〜月、宇奈月から往復する。料金6,000円

      http://kurobe-panorama.jp/ 

隧道

車両の床面は高いので、勢いを
つけ過ぎると頭をぶつける  

 展望台から戻って、いよいよ今回の旅のお目当て、黒部上部軌道に乗車する。黒部峡谷鉄道とは違って、こちらのトロッコは蓄電池駆動の機関車が牽引するミニ鉄道だ。電気ならいくらでも利用出来る黒部なのに、電気機関車を使わないのにはもちろんわけがある。温泉地帯を通過するために、硫黄で架線が腐食して使い物にならないからである。高熱のため、ディーゼル機関車も燃料が発火する危険性があった。
隧道は狭く、素掘り区間が多い
高熱区間はこの先約5㎞の地点
欅平上部駅から仙人谷駅までの間6.1㎞をおよそ30分掛けてゆっくりと進む。その間、すべてがトンネルであり、しかも車内は狭い。説明会で渡された赤いシールは、1号車に乗車する10名であることを示している。身を屈めないと車内に入ることも出来ず、ヘルメットを被った訳がよく分かる。立ち上がることも、身動きすることも出来ない30分だ。
 案内人が隧道建設の苦労を語ってくれる。ほぼ吉村昭の『高熱隧道』に沿った話だが、現場で聞くだけに、グッとこみ上げてくるものがある。ここで亡くなった人がたくさんいるのだ。

 軌道トンネルは三つの工区に分かれて建設が始まった。事件は仙人谷に近い第1工区で起こった。掘り進めるとすぐに、硫黄の匂いと岩肌からあつい湯気が湧き出したのである。担当の建設会社は工事放棄し、トンネル工事に定評のある第2工区の佐藤工業が引き継いだ。この時点で岩盤の温度は65度に達していた。火薬取締法によるダイナマイトの使用制限温度は40度、すでに限界を超えていた。
 黒部の冷たい水を掛けながら掘り進む。水を掛けても掛けてもたちどころに熱湯と化す中、遂に岩盤の表面温度は160度に達し、ダイナマイトの自然発火による暴発で数多くの人が命を落とした。それにしても、どうしてこうまでして掘り進むのか。ぜひ、一読をお勧めする。私がここを訪れたいと思ったのは、先にも述べたように、この小説に出会ったからだ。外が見えずとも、身動きできずとも、この30分が苦痛であるはずはなかった。
 乗車して20分、案内人の『高熱隧道』話は続く。

硫黄のにおいが
たちこめる
「そろそろかな」
と言って、案内人がドアを開ける。あっという間に眼鏡が曇った。カメラのレンズを拭きたいが、身動きできない。硫黄の匂いが立ちこめる。素掘りのトンネルはうっすらと黄色い。犠牲者のことが頭をよぎる。安らかに…と心の中で祈る。
「今でもこの付近は40度以上あります。今日はもう少し高いようですね。」
ドアを開けるまで熱気に気付かなかったのは、この車両が耐熱構造になっているからだった。
「今はこのトンネルに並行して導水管が走っているために、トンネル自体の温度も下がっています」
 黒部の水は一年を通してとても冷たい。この水のおかげで電気も生まれ、トンネルも冷やされている。

「いやあ、今日は良い話を聞きました。前回訪れた際は、案内の方があまりおはなしにならなかったので…」
と、一人の中年男性がいたく感心している。どうやら高熱隧道の話は知らないまま見学していたようである。釈然としないが、山が見たくて参加している人がほとんどのようだ。

ダム
上部軌道は定期列車が
毎日4往復運行


 高熱隧道区間はおよそ500㍍。そこを過ぎると、沿線唯一の地上区間である先人谷駅に到着し、休憩する。ここは黒部川に架かる鉄橋に頑丈な屋根を設けた駅だ。この屋根のおかげで、どんなに雪深くとも上部軌道は運行可能という。
1940年竣工の仙人谷
ダム(日本の近代土木
遺産に指定)    

 駅の目の前には、黒部峡谷に抱かれた仙人谷ダムが圧倒的な存在感で迫ってくる。残雪を頂いたガンドウ尾根の真下には雪渓があり、三段に分かれた滝となって水が流れ落ち、黒部川と合流している。この豊富な水を利用したくて、多くの犠牲を払いながらも、ダムを造りたかったのだなとしみじみ思う。

 ダムと反対側は、深くて白くなめらかな谷底と清流である。水の多くは導水管を通って欅平の発電所に送られているから水量は少ないが、それだけに川底が透けて、コバルトブルーが際立っている。ダムの脇の窪みからは、今もわずかながら湯煙が上がっていた。

 この上部軌道には、今も一般人が乗ることは出来ない。したがって黒部に魅せられた登山家達は、黒部川流域に造られた水平歩道を利用してここまでやってくる。軌道に乗れば6.1㎞の道のりも、絶壁に造られた幅数十センチの歩道は13.6㎞になるという。関電関係者を除けば、上級登山者だけが見ることの出来る風景を、この見学会は見させてくれるのだった。
(2018/5/30乗車)

高熱隧道を行く【急】地上に戻る

学習

 高熱隧道を体験するという私自身の目的は果たしたものの、見学会主催者の本来の目的はここからだ。仙人谷駅での見学を終えて再び上部軌道に戻り、数百㍍乗車して着いた所が、黒部川第四発電所である。当ブログの趣旨とは異なるが、発電事業の理解のため、かくまでも手厚く体験会を用意してくれていることに敬意を表して、レポートを続けることにする。

 黒部ダムで取水された水は、後立山連峰に掘られた約10㎞の導水管によって赤岩岳の地中、黒四発電所との標高差471.5㍍地点にやってくる。ここから傾斜角47度・延長641㍍の水圧鉄管内を水が落下し、4台の発電機を回して、33万5千㌗の電力を生み出している。黒部水系全体では12の発電所によって90万㌗というから、いかに黒四発電所の規模が大きいかが分かる。しかも施設すべてが、地下にあるから驚きである。中部山岳国立公園の自然景観を損ねることなく、社会インフラとして日本経済を支えていることは、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。だからこそ、関西電力もわざわざ体験会を実施しているのだ。
幅22㍍、高さ33㍍、奥行き117㍍
の発電所建屋        

 わざわざというのには理由がある。発電の制御はすべて遠隔操作であり、メンテナンスを除き、本来ここは無人の施設なのだそうだ。私のような暇人、しかも関電ユーザーでもない一個人相手に、決して安くないコストを掛けて案内してくれる…有り難いことである。このくらいのレポートを書かせて貰わないと罰が当たるというものだ。

 無人の発電所内は、整然として美しく巨大だった。4基の発電機の上には無駄とも思えるような天井の高い空間がある。発電機は大きな水車と発電装置から成り立っていおり、それらはすべて床下にあって、見えているのはほんの一部分に過ぎないのだという。この装置をつり上げるには大きな空間が必要であり、そのためのガントリークレーンが前後の壁に2台設置されていた。
部屋の上に発電機
下には水車がある

 発電所建屋を見た後、発電機の実態を体験するため、数階分階段を下る。分厚いガラス越しに発電機が見える。扉を開けると、回転する円筒形のシャフトから凄まじい轟音が聞こえてきた。一人一人、近くまで見学して良いという。こわごわと入室し、見上げると、発電コアが高速回転している。足下からは激しく水のぶつかる音がする。耳栓なしではあっという間に難聴になってしまう騒音レベルだ。

 かくも大がかりな発電施設だが、原発は1基で100万㌗というから、それに比べるといかにも効率の悪い感じもする。今では水力発電は日本全体でわずか9%を占めるに過ぎないのだ。しかし、今回学んだことで一番印象に残ったのは、この水力発電がクリーンエネルギーであるだけでなく、需要の増減に柔軟に対応できるシステムだということだ。急激な電力需要増加に対して、停止状態からフル発電まで、わずか3時間で可能なのだという。必要に応じて稼働できるという、実に資源を無駄にしない、まさにエコの原点のような水力発電は、これからも活躍が期待されることだろう。
 ということで、私を見学会に招待した関電の狙いは見事に達成できたのである。


歓声

左:インクラインとクレーン 右:傾斜角34度の軌道

 発電所を後に、再び地中の移動が開始される。発電所のある標高869㍍地点から1325㍍地点までをインクラインで一気に登る。この聞き慣れないインクラインとは、資材や作業員を運搬するための「ケーブルカー」もどきのことだ。昭和34年に造られたもので、黒部第四発電所の巨大施設はすべて、長野県側から関電トンネルと黒部トンネルを通り、このインクラインに載せられて下に降ろしたのだそうだ。だからこの昇降装置そのものも巨大だ。
 ふつうケーブルカーは傾斜にあわせて階段状に座席があるけれど、写真を見ても分かるように、軌道自体は34度の急斜面なのに、車体は水平になっている。直角三角形を逆さにした台車の上に客室が載っていると考えればわかりやすい。資材運搬の時は上のクレーンで客車を取り外せばよい。
 案内人はうまいことを言う。
「お客さんを乗せるのがケーブルカー、レールの上を走るので鉄道です。というわけで国土交通省の管轄。一方インクラインは、資材と作業員を運ぶ工事現場にあります。だからレールがあっても鉄道ではなく、厚生労働省の管轄」
 つまり厳密にはこのブログの守備範囲ではないということになるが、それは法律のはなしであって、これは紛れもないケーブルカーである。815㍍の距離を20分掛けて登っていく。時速3キロにも満たない超鈍足で進むうちに、中間地点で擦れ違った車両には、この日もう一組の黒部ルート見学会・黒部ダム集合グループが乗車していた。ゆっくりなので一人一人の顔まで見える。車内で一斉に歓声が上がり、あちらでも懸命に手を振ってくれている。見知らぬ同士とはいえ、こんな地底の世界で、希有な体験をしているという共通の思いが、心を揺すぶったのだろう。
 
帰還
黒部トンネルバスダイヤ
12:10発45着公募と記されている

 黒部ルート見学会もいよいよ大詰めを迎える。残るは黒部トンネル10.3㎞をバスで移動するだけである。途中、タル沢横坑で休憩があり外の景色が見られるという。ここは資材運搬のために掘られたトンネルのため、アルペンルートのような大量輸送が可能な施設はない。擦れ違えるところも限られているので、鉄道のようなダイアグラムが掲示されていた。鉄道の旅は終わったが、余韻を楽しませてもらっているかのようだ。ダンプカー1台が通れるような素掘りのトンネルが延々と続く。排ガスのための換気装置もなく、所々に掘られた横坑を利用しての自然換気だそうだ。
右奥の雪山が裏剱

 その横坑の一つに立ち寄る。バスを降りて50㍍ほど歩くと抗口に出る。柵越しに体を捻ると黒部の峡谷が見える。谷は深く川の流れは見えないが、十字峡のあたりだという。重なり合った山の一番奥に見える残雪の山が名峰、剱岳だ。こちらからの姿を裏剱と呼ぶのだそうだ。だいぶガスがかかってきた。雨が近いのだろう。
 再びバスに乗れば、ツアーも終わりに近づく。立山黒部アルペンルートの関電トンネルの下を潜り(と言っても見えるわけはないが)、大きくカーブを切ると右側から合流するトンネルがあった。天井に架線が張られているので、扇沢からのトロリーバスのものだと分かる。黒部ダムに到着したのだった。

 ヘルメットを返却してツアーは終了となった。関電の事務所脇の通路を出れば、そこは人でごった返すアルペンルートの真っ只中。ドアの外は黒部ダムである。雨脚が強く、立山連峰の山々が次第に雲に隠れていくような悪天候になっていた。
(2018/5/30)

2018年5月9日水曜日

日本一の絶景鉄道(ケーブル部門)

 これまでも何度となく触れたように、ケーブルカーは鉄道の仲間である。日本には一体どれほどのケーブルカーがあるのだろうと、思いつくままに北から順に数えてみたのが次のリストだ。厳密な名称ではなく、大雑把な場所で示したものもある。このほかにも旅館がエレベーター代わりに敷いた線路もあるのだが、ここでは一応鉄道法によって定められたものだけを取り上げてみた。

 青函トンネル記念館(青森)、黒部・立山(富山)、筑波山(茨城)、高尾山・御岳山(東京)、大山・箱根(神奈川)、十国峠(静岡)、坂本ケーブル(滋賀)、叡山ケーブル・鞍馬寺・天橋立(京都)、生駒山(奈良)、男山・信貴山(大阪)、高野山(和歌山)、妙見山・六甲山・摩耶山(兵庫)、八栗(香川)、皿倉山(福岡)、別府ラクテンチ(大分)

 このうち八栗と別府のケーブルには残念ながらまだ乗車したことがない。であるから、これから紹介するのはあくまでも中間報告、暫定レポートであることを言い訳のように記しておきたい。

「馬鹿と煙は高いところが好き」というのは、舞い上がって目立ちたがる者を揶揄した言い回しだが、目立ちたいとは思わないものの高いところは絶景がつきものだから是非訪れてみたいもの。ケーブルカーの魅力はそれに尽きると言っても良い。
妙見山のケーブルカー
乗車中の車両は左側を通ります。

 と記すと、青函トンネル記念館のケーブルカーは地下200㍍まで潜るためのものだと、突っ込みを入れられそうである。確かに…ほかにも黒部のケーブルも全線トンネルの中。
 まあ、例外はあるにせよ概ねケーブルカーは見晴らしが良いものだ…と記しておくが、実は周囲の樹木に遮られて、山頂の展望台まで少し歩かないと絶景にお目にかかれないというのが大半である。乗車している人達も、一番面白がっているのは、中間地点での擦れ違いであったりする。あの変なポイントはどうなっているのだろうか。どうして車両はぶつからずに左右に分かれるのだろうかと思いながら眺めているのは楽しいものだ。

 
 そのような中で、正真正銘の絶景鉄道といえば、間違いなくここだ。




 日本三景の中で、ケーブルカーから眺められるのはここ、天橋立だけ。お勧めです!
なお、山頂に着いたら是非有名な「天橋立、股除き」に挑戦しましょう。馬鹿にせず、恥ずかしがらずにやってみると、本当に感動します。不思議なことに、撮影した写真を逆さにしてもあの感動はないのです。お試しあれ!
(2018/5/9乗車)

鉄道会社はお寺さん

鞍馬寺本堂を目指す

 京都北山の鞍馬寺といえば、鞍馬天狗か牛若丸かというほどに、昔からヒーローとの関わりが深い。年配の方々ならば、ついでに「とん、とん、とんまの天狗さん♫」を思い出すかもしれないが、もちろんこれは鞍馬天狗のパロディ。オロナイン軟膏のお世話にもなりました。それはともかく、天狗から武芸を教わった牛若丸、もとい義経を含めて、鞍馬は天狗関係者の住み処である。だから鞍馬の駅を降りると、まずは真っ赤な天狗がお出迎えしてくれる。
叡山電鉄鞍馬駅前

 駅から山門までは歩いてすぐだが、そこから本堂までが実に遠い。清少納言が『枕草子』で記したように、「近うて遠きもの、くらまのつづらをりという道」というくらい、山登りを覚悟する必要がある。つづら折りとは鞍馬寺の参道のことで、途中には鞍馬の火祭で有名な由岐神社や義経ゆかりの場所がある。参拝しながら歩いて登り、本堂にお参りした後は奥の院を通って貴船神社までトレッキングするのが、鞍馬寺参拝のお約束みたいになっている。山歩きの苦手な、か弱い平安女性じゃあるまいし、だからこんなところにケーブルカーがあるなどとは、ちっとも知らなかった。
 しかし、今私は全国の鉄道すべてに乗らねばならないという修行の身である。そこに鉄道があるなんて知らなかったで済む話ではない。由岐神社も義経供養塔も吹っ飛ばし、平安女性よりも安直に、鞍馬寺本堂を目指さなければならなかったのだ。
普明殿

 こうして若葉の美しい季節の夕方、鞍馬寺の山門までやって来た。ケーブルの最終は16時半である。日没は19時だから少々早い気もするが、連休を終えて人もまばらだから仕方ない。受付で拝観料を払おうとすると、
「16時で本堂は閉まっています。ですからお金は頂きません。どうぞそのまま参拝して下さい。ケーブルの最終は16時半ですよ」と、再現不能の優しい京都なまりで説明してくれた。それにしても本堂が閉まった後にケーブルに乗る人なんているのだろうか。

 山門からすぐの所に普明殿という建物があった。過去には素通りしていたところだ。鉄筋コンクリート造りの、まるで休息所のような雰囲気だから、これからつづら折りを目指そうと張り切っている者には関心が沸くような場所ではないので、見落としていた。なんとここが駅だったのだ。建物入り口には「普明殿」とあるものの、正式名「山門駅」などとはどこにも記されていない。どこの観光地でも、ぜひお金を遣って貰おうと「ケーブル乗り場」とか「近道こちら」とか、うるさいほどの看板が立ててあるものだが、やはりここは聖域らしく金儲けの札はどこにもない。
 ふと入り口脇の掲示板を見てみると、様々な宗教行事のお知らせの下に、小さな札がぶら下がっていた。そこに「ケーブルのりば」と小さく書いてある。これに気づけという方が無理というもの。最初から知っている人以外は歩いて登らせたいのだろうか。

功徳を施す


 普明殿に入っても、そこにケーブルカーは見当たらなかった。ここでも控えめに、「ケーブルは二階から…」とあるだけだ。誰もいない階段を上ると、がらんとした空間に、誰も座っていないパイプ椅子だけが並んでいる。順に座ってお待ち下さいと貼り紙がある。慈悲深いことである。
 切符の自動販売機は片隅のテーブルの上に置かれてあった。百円玉2個入れると、レシートのような「切符」が出てきた。そこには「御寄進票 大人200円 鞍馬山鋼索鉄道 当日限り有効」と記され、18.5.9 16:19と日時が打ってある。「御寄進票かあ」と独り言つ。こちらが乗せて頂くのに、何か功徳を施したような気分になった。さすがお寺さんだと感心する。

 功徳票、もとい御寄進票に書かれているように「鞍馬山鋼索鉄道」というのが、このケーブルの正式名だ。日本で唯一、宗教法人が経営する鉄道である。だから社員(?)は鞍馬寺と刺繍の入った作務衣を着ている。16時31分、1分遅れで作務衣を身に纏った乗組員の案内で車内に入る。乗客は私と、発車直前に飛び込んできたもう一人の男性。3人を乗せた車両が警笛を鳴らして山門駅を後にする。

 それは全長191㍍、高低差89㍍、全線単線のケーブルカーだった。普通ケーブルカーといえば、2輌の車両同士が中間地点で擦れ違うはずだが、「鞍鉄」の場合、擦れ違う車両がない。1輌だけが上り下りしているのだ。終点が近いので見ればすぐわかる。多宝塔駅にはさぞかし強力なモーターがあって巻き上げているのだろうと思っていると、何やら上からレールの下を降りてきたものがある。重りである。なるほど、これなら強力なモーターでなくても運行できる。エレベーターと同じ原理だ! とするとケーブルカーではないのかも。現に、この形式の斜面エレベーター設備を備えたホテルを知っているぞ。
 
 法律のことはよくわからないから、これ以上の詮索はよそう。とにかく日本で最短の鉄道会社らしいので、それを尊重することにする。それの方が面白いし、功徳にもなる。エレベーターと違って、きちんと警笛も鳴らしていることだし(某ホテルでは警笛はなかった)。
多宝塔駅にて

 わずか2分ほどで多宝塔駅に到着する。そこには参拝を終えた10数人の人達が待っていた。ケーブルカーは彼らを乗せて、16時35分、慌ただしく下りていった。これが事実上の最終だったのである。
 私はこのあと扉を閉ざした、誰もいない本堂の前で手を合わせ、奥の院方面は夜間照明がなく天狗は出ないが熊が出ると注意書きがあったので、ひたすら急いでつづら折りを下った。
(2018/5/9乗車)

2017年8月23日水曜日

山岳鉄道の魅力あふれる肥薩線


絶景路線、誕生の秘話

 日本山岳鉄道の白眉といえば、肥薩線を措いて他にないだろう。熊本や宮崎・鹿児島に住む方々には申し訳ないが、あのような田舎だからこそ都会人にはあまり知られていないだけであって、仮に肥薩線が関東地方にあったとしたら、怒濤のように観光客が訪れて、あっという間に俗化されてしまっていたに違いない。レンゲは野に咲いていてこそ美しい。肥薩線もいつまでも南九州の山中で、ひっそりと息づいていて欲しいものだ。

 熊本から特急で1時間半、途中急流と焼酎で有名な球磨川を遡り、山塊を抜ければ「日本でもっとも豊かな隠れ里」人吉に着く。九州山地に囲まれた球磨盆地に位置する、温泉の湧き出る小さな城下町だ。ここに至るまでの蛇行した深い渓谷もなかなか見どころが多いけれど、そちらの方はSL人吉号でのんびりと楽しむのが良いだろう。今回の目的地はここより更に奥にある。

 それにしても、明治の人達はなにゆえこのような隠れ里に鉄道を敷いたのか。熊本・鹿児島間が鉄道で結ばれたのは、1909(明治42)年11月のことだ。この時、途中関門海峡を連絡船で乗り継いで、青森から鹿児島が鉄道で結ばれた。工事に着手した1905(明治38)年は日露戦争の真っ直中であり、その年の5月27日に日本海海戦が起こるという時代だったから、敵の艦砲射撃を怖れたのも当然のことだろう、国防上の理由から鉄道を山中に通すことにしたのである。現在肥薩線と呼ばれているこのローカル線は、かつての鹿児島本線そのものであり、当時は大動脈だったのである。
 坂の苦手な蒸気機関車の前に立ち塞がる山々、しかも行き来の多い動脈。いつの時代も壁にぶち当たれば、人は技術で乗り越えようとする。矢岳越えの始まりだ。

   注)2015(平成27)年、文化庁が日本遺産に認定。

大畑ループとスイッチバック


(C)Yahoo Japan,(C)ZENRIN

 人吉を後にした列車はディーゼルエンジンを唸らせながらぐいぐいと登っていく。あたりは鬱蒼とした緑で、坂に弱い蒸気機関車泣かせの1000分の25という急勾配だ。やがてループ線が始まるとすぐに現れる横平トンネルの先には、全国でもここにしかない、ループの中のスイッチバック駅、大畑駅がある。大畑は「おこば」と読む。「こば」とはこの地方では焼き畑のことを指すので、それが地名になったようだ。
大畑駅からスイッチバックを眺め
る。左側が人吉方面。画面中段、右
側に向かってループ線の勾配が続い
ていて、正面の山の窪んだところま
で登っていく。         

 それはさておき、誰も住んでいないような所に駅が作られたのは、ここで石炭を補給し、給水する必要があったためである。人吉から大畑まで登るのに約1トンもの石炭が消費されたのだという。
 重量のある蒸気機関車を安全に停車させるには、駅を水平な場所に作らなければならない。であるから、列車は勾配のあるループから一旦はずれ、水平なところに設置された大畑駅に滑り込む。
 石炭を積み給水を終えた蒸気機関車はループ線に戻るためにバックをする必要がある。しかし、そのまま下り勾配のループ線に戻るわけにはいかない。重たい機関車には坂道発進など不可能だからだ。そこでループ内側に水平に設けられた引き込み線に一旦入ってから、平らなところで加速しつつ、再びループ線を登るようになっていた。

 登坂能力に優れた現在のディーゼルカーならば、大畑駅に停車しなくても、そのままループを登れそうである。地図を見ても、ループは連続しているようだから、敢えて大畑駅に立ち寄る必要はなさそうに思えるかもしれない。ところが実際にはループは連続しておらず、大畑駅でジグザグと切り返しながら通過する必要がある。この何とも非効率なところが、肥薩線の魅力でもあるのだ。
大畑駅停車中の観光列車

 現在大畑駅を通過する列車は1日わずか5往復。そのうちの2往復は観光列車である。人吉・吉松間35㎞、普通列車では1時間のところを、途中休み休み20分ほど余計に時間をかけて結んでいる。大畑駅では、バックするために運転手が移動する間、乗客達はホームに出てレトロなローカル駅を見学して楽しむことができる。駅舎にはここを訪れた人達が記念に残した名刺やメモ用紙の数々が所狭しと貼られている。まるで千社札のようだ。駅構内の片隅には、給水塔が残っていて、SL時代を偲ばせる。

 大畑駅を出発した列車は、ループ内側の引き込み線に入ってから一旦停止し、運転手が車内を再び移動する。これが一大セレモニーとなっていて、キャビンアテンダントの女性が、実況中継をしてくれる。心なしか運転手も得意顔である。
 
 運転を再開すると、引き込み線内で加速し、そのまま半径300㍍のループ線へと進んでいく。車窓右側に大畑駅を見送り、短いトンネルを抜けると木立の間から球磨盆地と九州山地が見えてくる。中でも一番高い山が市房山(1721㍍)で、九州で3番目に高い山だ。ちなみに阿蘇や霧島は名山の誉れ高いものの、標高ではこれより低い。
中央が大畑駅、右下が引き込み線。
人吉からの線路は、引き込み線の  
向こう側に微かに見え、撮影地点の
下をトンネルで抜けていく。   

 ループをほぼ1周した地点で左側車窓の視界が大きく開ける。ここが肥薩線最初の絶景ポイントだ。眼下に先程立ち寄った大畑駅と引き込み線が見える。その向こう側に広がるのが球磨盆地と九州山地である。
 全国にはループ線がいくつか残されているが、景色のよさからすれば、ここが群を抜いている。スイッチバックの面白さもさることながら、その下に広がる球磨盆地が背景となって、山岳鉄道の趣がもっとも味わえるからである。観光列車の良いのは、このようなビューポイントできちんと停まってくれ、しかも解説してくれるところだ。37年前に訪れた時には、左右の車窓をキョロキョロしているうちに通過してしまい、不覚にも絶景を拝むことは叶わなかった。他の乗客の中で外の景色を眺めている人は殆どおらず、スイッチバックの記憶しか残っていない。「何事にも先達はあらまほしきものなり」であって、誰かに解説してもらうということはとても有り難いものだ。

   注)徒然草より。二度と訪れないかもしれない土地で、誰からの
        アドバイスも受けずに、大切なものを見はぐってしまうこと
                       ほど残念なことはない。なお原文はもっと意味が深い。
          
山縣伊三郎と後藤新平
 
 ループ線を抜けてから先も矢岳駅までの間は、1000分の30.3という蒸気機関車にとってはほぼ限界に近い区間が9㎞も続く。今回乗車している観光列車「いさぶろう号」は、キハ47という国鉄時代に普通列車用だった車両を、「ななつ星」を初めとするインダストリアルデザインで世界的にも有名な水戸岡鋭治氏によってリニューアルされた名車が使われている。ただエンジンは国鉄時代のレトロなもの。頑丈で重量のある車体を非力なエンジンで動かしている老兵のような車両だ。見かけはお洒落な若作りだが足腰が弱い。
 大きなうなりをあげつつ、ゆっくりとしか登坂できないこの列車が、かえって逆に難所を走る観光列車には相応しく思えてくる。都市の電車区間では1000分の30など至る所にあるが、産業遺産を体感するとは、こういうものなのだろう。
古い佇まいを残す矢岳駅

 肥薩線の標高最高地点は、矢岳駅の537㍍である。人吉が107㍍、大畑が294㍍だから随分と登って来たものだが、高度そのものはそれほど高いものではない。問題となるのはあくまでも標高差である。駅周辺には田畑と農家が点在している。昔ながらの駅舎に隣接した展示館では、往時貨物列車を始めとして多くの列車を牽引したD51型蒸気機関車を見ることができる。

 肥薩線の観光列車は、人吉から吉松方面の下りが「いさぶろう号」、逆の上りが「しんぺい号」という。あえて列車名を変えているのは、この先の矢岳第1トンネルの入口に掲げられた扁額に関わりがある。熊本県と宮崎県の境に位置するこのトンネルは、全長2096㍍の肥薩線最長のトンネルであり、難工事のすえ貫通し、鹿児島本線は全線で開通することができた。この慶事を祝して、熊本県側の入口に逓信大臣山縣伊三郎が「天険若夷」と、宮崎県側に鉄道院総裁後藤新平が「引重致遠」と揮毫したので、それにちなんで吉松行きは「いさぶろう号」、人吉行きは「しんぺい号」と命名したのだ。なんとも気の利いた列車名ではないか。こういうセンスがJR九州にはある。
 ところでこの難解な四字熟語の意味はというと、車内で配られたパンフレットによれば「天険若夷」が<天下の難所を平地のようにした>であり、「引重致遠」は<重いものを遠くに運べる>だそうだ。若夷は夷(い)の若(ごと)しと訓むのだろう。夷には、えびす(未開の異邦人)のほかに、平らげるの意味がある。鹿児島本線としての開通が、如何に当時の物流にとって重要で、人々の期待を担っていたかがわかるエピソードだ。

日本三大車窓 霧島連山の絶景

 土木工事がまだ未熟だった明治時代には、トンネルをどれだけ短くできるかが勝負所だった。現在ならば麓同士を長大トンネル一本で抜けてしまうようなところを、短いトンネルとスイッチバックとループ線で高度を稼ぎ、これ以上無理という所にトンネルを設けて山越えを果たした。それが矢岳越えだったわけだが、これはただ単に土木技術の問題だっただけではなく、蒸気機関車にとって長大トンネルは無理だったことも考え合わせねばならないだろう。昨今のSLは無煙炭や重油を燃やして極力煙害を防いでいるし、そもそも客車の気密性が高く、乗客が煙に悩まされることはまずない。
 電化以前の時代にあって、蒸気機関車がどれほどまでに嫌われていたかを知る人はすでにだいぶ少なくなった。汽車の旅は、それはもう難行苦行の連続であり、特にトンネルは最悪で、窓を閉めてもデッキから煙が流れ込んできて息苦しいこと限りなかった。夏、冷房もない頃に窓を全開にしておくと、煤や石炭殻が飛び込んでくる。私も幼い頃、車窓を眺めていると目の中に石炭殻が入ってしまい、涙では流れ落ちずに、目医者に洗い落として貰ったことがある。だから汚くて厄介な蒸気機関車などにはこれっぽっちも興味がなかった。蒸気機関車が再発見され、広く世間に人気が高まったのは、全国から姿を消した後になってからである。
 矢岳第1トンネルに入った時、当時の人がどんな思いで乗っていたか。ここは想像力を働かせれば、容易に察しがつくだろう。もう二度とこんな汽車には乗りたくないという人もいたに違いない。外は漆黒の闇、薄暗い車内に漂う煤煙。暖かい煙は車内の上ほど濃いが、次第に下に降りてきて、後方へと流れていく。匂いもきつく、窒息しそうな2㎞。
右が飯盛山(846m)、中央やや左が
韓国岳(1700m)、その左雲を被っ
た白鳥山(1363m)。高千穂の峰は
後方で見えていない。      

 トンネルを抜けた瞬間、あちらこちらで窓が開け放たれ、新鮮な外気を胸一杯に吸って人々は安堵する。そこに俄に視界が開けて、雄大な霧島連山が眼前に迫ってくるのだ。この風景は今見ても感動的だが、SL時代では尚更だったろう。目的地まではあと下るだけだ。
 標高1700㍍の韓国岳(からくにだけ)を主峰に、右に飯盛山、その後ろに周辺に黄緑色のえびの高原、左には白鳥山や夷盛山(ひなもりやま)が連なる。眼下は川内川流域に加久藤盆地(えびの盆地とも)が広がる胸のすくような景観だ。日本三大車窓を謳うのも頷ける。観光列車「いさぶろう号」はここでも数分停車し、キャビンアテンダントからはご丁寧にも窓を開けて外の空気を吸うよう薦められる。勿論高原の空気を満喫して欲しいという意図なのだろうが、過去を知る者には、汽車時代の苦労が偲ばれる小粋なアドバイスに思えて仕方なかった。
 日本三大車窓とは、ここ以外は信州姨捨と北海道狩勝峠だ。どこも素晴らしいが、信州の姨捨の前に広がる善光寺平は人々が多く住む開けた土地柄だし、北海道の狩勝峠は長い新トンネルが出来てからは標高が下がったこともあって、一番は昔と変わらないこの車窓であろう。ただどの車窓にせよ、蒸気機関車時代の苦労を想像しながら眺めると、感動もひとしおに違いない。なお、老婆心ながら、ここを訪れる際は「しんぺい号」ではなく、「いさぶろう号」をお薦めする。その理由はもうおわかりであろう。姨捨や狩勝峠の場合も同様である。
微かに見える桜島のシルエット

 パンフレットには天気がよければ桜島も見えると書いてある。確かに…うっすらとシルエットが浮かんでいる。キャビンアテンダントが「皆さんは幸運です」という。自分は雨男なので、ここで運を使い果たさなければよいのだがと思うが、これだけ綺麗だったのだから、まぁ、いいか。

鉄道遺産としての肥薩線 


承前 山岳鉄道の最高峰

 矢岳越えを終えた「いさぶろう号」は、軽やかなエンジン音を響かせながら加久藤盆地、別名えびの盆地へと下っていく。ここは日向の国、宮崎県だ。肥薩線はその名の通り肥後熊本と薩摩鹿児島を結ぶ路線なのだが、ほんの少しだけ日向の国の西端をかすり、そこに位置するのが真幸(まさき)である。勾配の途中にある真幸駅もまた、素通り不能のスイッチバック駅だ。ここでも列車は一旦車止め手前で停車し、運転手の移動後に、真幸駅へ向けて逆進する。
列車は真幸駅の脇を通過してから
バックしつつ駅に停車する。  

 なんとここに待ち受けていたのは、地元の人達の歓迎であった。十数人の人達が、幟をを持ち、手を振って出迎えてくれる。アテンダントの説明によれば、地元の特産品やお弁当なども販売しているとのこと。また、ホームには「真幸の鐘」があり、それを衝く幸せになれるという。あの手この手で町おこしなのだなと思うものの、ここまで多くの人が集まって歓迎してくれるのも珍しい。

 真幸から吉松は近い。盆地を囲む山々の斜面を滑り降りながら、日向と別れて薩摩に入るが、むろん景色が変わるわけではない。地図を見ながら列車に乗っているから分かるだけであって、ほかの乗客の人達は一瞬宮崎県に入ったことなど、知りもしないし関心もないだろう。オタクとは言われたくないが、言われても仕方ない。
『赤と黒』
スタンダールじゃないけれど…

 「いさぶろう号」は吉松が終点である。乗客の多くは、ホーム向かい側で待つシックな黒い特急「はやての風号」に乗り換えて、そのまま鹿児島へ向かう。こちらも水戸岡鋭治氏のデザインによるリニューアル車で、窓からはふんだんに木を用いた雰囲気のある車内が見える。思わず乗りたくなるが、ここは我慢。
都城からの吉都線列車
前方左が人吉方面

 吉松は吉都線の乗り換え駅で、都城を経由して宮崎に繋がる交通の要衝である。かつては熊本と宮崎を結ぶ急行「えびの」が走っていたが、今は需要がないため、吉都線は完全にローカル線化している。肥薩線からは見えなかった天孫降臨神話で名高い高千穂峰も、吉都線からはよくみえるので、霧島連山すべてを眺めるなら、この景勝路線がお薦めだ。そのためJR九州では、肥薩線と吉都線を併せて「えびの高原線」という愛称をつけているくらいだ。熊本県民にはピンと来ないだろうけれど。

遺産
近代化産業遺産【石倉】

 交通の要衝だっただけに、吉松駅には鉄道遺産が残されている。その一つが、2009(平成21)年に近代化産業遺産に認定された石倉だ。肥薩線(旧鹿児島本線)が全通する前の1903(明治36)年に作られた燃料庫で、石造りの鉄総施設としては珍しいという。たしかに全国各地に残るランプ小屋は煉瓦造りだ。電気のなかった時代、ランプの灯りだけが頼りだっただけに、当時を記憶に残す貴重な施設といえる。

 いまでこそ吉松は静かなローカル駅だが、最盛期には機関区・保線区が置かれ、鉄道の町として600人以上の鉄道員が所属するこの地域の拠点であった。その面影がそこかしこに残されていて、駅周辺には蒸気機関車C55なども静態保存されている。この機関車の動輪は、スポーク型の美しいタイプだ。

 肥薩線の旅を終えるに当たって、最後に触れておきたい駅がある。嘉例川である。テレビで紹介されることもあって、比較的多くの人に知れ渡るところとなった。
嘉例川駅舎

 木造平屋切妻造の駅舎は、吉松の石倉と同じ1903(明治36)年、国分(現隼人)から吉松まで旧鹿児島本線が開通した際に建てられたもので、ほぼ当時の原形を保ったまま残っている。お椀を伏せたような緑濃い小山の脇に、ちょこんと建った田舎の駅舎を見ていると、まるでタイムスリップしたかのように、時代を忘れ、刻む時を忘れてしまう。薄暗い待合室には三和土の上に木製のベンチ。その隣は駅員の居なくなった事務室。ホームとの間には木製の改札口。駅舎の脇には樹齢100年を越える大きく育った木。
嘉例川駅と都城行普通列車


 有名になったこともあって、観光客が少なからず訪れる。その多くはマイカーでやって来る。私を乗せた列車が嘉例川に着いた時には、すでに駅前に何台も車が停まって、見学者が数多くいた。静かな田舎駅を想像していただけに少し意外だったが、列車が行ってしまい、しばらくするうちに、さあっと水が引くように人がいなくなってしまった。一緒に降りた高校生達も家族の出迎えの車で行ってしまい、次の列車を待つ私一人だけが残された。

 2006(平成18)年、嘉例川駅舎は国によって登録有形文化財に指定された。「日本でもっとも豊かな隠れ里」という日本遺産に始まり、絶景と数多くの産業遺産に恵まれた肥薩線。地元では現在、世界遺産に登録しようと運動を始めている。
(2017/8/23乗車)

 




2016年8月25日木曜日

川奥ループと四万十川

川奥ループを楽しむ

眼下に中村方面への線路が見える

 四国の片隅にループ線がある。
 高知から特急で約1時間、距離にして70㎞離れた四万十川上流域の窪川、その一つ先に若井という駅がある。窪川を起点とする土佐くろしお鉄道中村線の駅であり、各駅停車しか停まらない。線路の脇に申し訳程度の屋根なしホームを設置しただけの無人駅なのだが、JR四国の予土線の終点にもなっている。ただ、予土線へは皆、窪川で乗り換えてしまうので誰も気づかない、山間の田圃に囲まれたつつましい駅である。
川奥信号場
ポイントは予土線側に開いている

 そんな駅だから、中村線と予土線との分岐もここでは行われない。更に3.6㎞も山奥に入った川奥信号場が分岐地点だ。どこで分かれるのだろうと思っていると、進行左下に一瞬見えるループ線の出口付近を見落としてしまう。というのも、その先に信号場があるからだ。
左が予土線 右が中村線

 ここにループを設置したのは、あとから完成した予土線との接続を考えたからであろう。標高160m台の信号場からループで一気に40m下ってしまえば、そのあと海岸の土佐佐賀までは直線距離で8㎞が緩やかな坂となり、中村へと向かえる。一方で予土線はほぼこの標高を保ったまま、この先四万十川の流れに沿って下っていくのである。
 ループ線を堪能するなら、土佐くろしお鉄道に乗る必要がある。信号場を通過したあと、すぐに右に高度を下げながらカーブが始まってトンネルに入る。隣の車両との角度を見ていると、小さな円を描いて走っているのが実感できる。トンネルを抜けるとループは終わり、列車は進路を左に変えて川の流れに沿って下りはじめる。電化区間ではないので、残念ながら下からは何もわからない。中村との間を特急しまんとが9往復、各停が8往復しているので、上越国境よりは乗りやすい。

しまんとグリーンライン(予土線)の旅

四万十川と沈下橋

 四万十川が最後の清流といわれるようになって久しい。美しい自然が残り、点在する沈下橋がロマンを引き立てる。そもそも四万十という名前からして日常性からはほど遠く、さまざまな旅情を掻き立ててくれる。ところがこの四万十川にも現実は忍び寄ってくる。
 清流にはダムがふさわしくない、のだそうだ。八ッ場ダムのことがあって以来、ダムも随分と地位が下がったものである。原子力発電が忌避され、火力発電が地球温暖化で悪玉と化し、クリーンだったはずの水力発電までもが自然破壊の元凶となった。その問題の「ダム」が四万十川にもある。
家地川駅を出てしばらくすると、
道路橋の向こうに佐賀堰堤が見え
てくる。下の流れが四万十川。 

 川奥信号場で左に分岐し、予土線に入って、そのまま真っ直ぐにトンネルを抜けると家地川駅に着く。この近くに佐賀堰堤、通称家地川ダムがある。
 堰堤とダムの違いはその高さにあるらしいが、呼び方が二種類あるように、推進派と環境保護派や豊富な水量を望む下流域の人々とでは、この施設の評価が異なる。
 そもそもどうしてここに堰堤があるのか。佐賀は中村線側の地名だったはずだ。実は四万十川の水が堰き止められ、山を越えることによって、佐賀にある発電所で電気を生み、下流の田畑を潤した。環境保護など無縁な80年前の話である。長い年月とともに、その水は生活する人々にとって欠くことの出来ないものなっている。
 別の見方もある。ここで取水しているから、四万十に流れ込む窪川の生活排水の量が減り、水質悪化を防いでいるという主張だ。実に目から鱗でである。一旦は水量が減っても四万十というほど支流の多い河川だから、豊富な水量で清流がもどってくるというのだ。
蛇行を繰り返す四万十川

 実際、下流に向かうに従って、両岸の山が狭まり、川は蛇行しはじめ、渓流の様相が深まってくる。豪雨になって濁流が押し寄せても、自然に逆らうことなく、嵐が過ぎ去るのを待つのが沈下橋だ。四万十川の名を広めたのは、この沈下橋がいたるところにあるためだ。
芽吹手沈下橋

 自然を超克しようとして発展した近代であるが、その限界を認識するところから新たな歩みが始まる。そんな時代的気分が人々を沈下橋へと誘うのだろう。数ある沈下橋の中でも、土佐大正と土佐昭和の間にある芽吹手沈下橋は、JRのポスターにも採り上げられた景勝地であり、予土線の車窓からもよく見える。それを窓越しではなく、風を感じながら体験できるのが、今乗っているしまんトロッコ号だ。
しまんトロッコ号
宇和島駅にて

 しまんトロッコ号は、まさに四万十の光と風を感じるために造られた車両だ。日本初の超豪華列車ななつ星を生んだ水戸岡鋭治のデザインである。リニューアルされたディーゼルカーが貨物車を改造したトロッコを引っ張る形式である。あざやかな黄色は、南国高知の太陽か、それとも宇和島みかんか。いずれにしても、しまんとグリーンラインという愛称を持つ予土線に、ワクワクするような旅を提供してくれるカラーコーディネートだ。
しまんトロッコ号
宇和島駅にて

 夏が終わりに近いこともあって、乗客はまばらだった。トロッコ営業区間(窪川〜江川崎)が終わりに近づき、トロッコ車両から4〜5人の外国人がワイワイがやがやと乗り移ってきた。それぞれ大きなトランクを引っ張っている。中国人のグループだった。あたり構わず騒ぐのには閉口だが、こんなところまでトランクを引っ張って旅する彼らには、心底敬服する。あんなバイタリティは私にはない。荷物はどこに預けるべきか考えてからでないと、海外旅行など出来ないだろうなと思いつつ、改めて「中国人、恐るべし!」と感じた次第。
ホビートレイン
宇和島駅にて

 この路線には近頃、「新幹線」も走るようになった。新幹線の生みの親である十河信二が生まれていながら、四島で唯一新幹線のない四国だが、改造車両とはいえ新幹線(もどき)が走っているのだ。それも四国の片隅で。
 ホビートレインと名付けられたこの列車の車内には、鉄道模型が展示されている。自然豊かな四万十川には似つかわしくないようにも思えるが、愛嬌のある団子っ鼻のディーゼルカーが、田舎路線をはしるのは何だか頬笑ましくもある。四国の悔しさをシャレで吹き飛ばしているような、ユーモアに満ちた一両編成だから、あえて目くじらを立てることもあるまい。

 さて、江川崎で四万十川と別れを告げた予土線は、そのあとゆるやかな登りとなって、間もなく国境を越えて伊予国愛媛県へと入っていく。しかし宇和島まではまだ30㎞も残っている。川の名前も広見川へと変わるが、実はこの川は四万十の支流だ。予土線が分水嶺を越えるのは務田(むでん)付近、宇和島からわずか8㎞の所である。だから予土線のほぼ全線が四万十水系を貫く鉄道なのである。
 宇和島の町は、リアス式海岸特有の三方を山が囲む谷底にある。列車は転げ落ちるように坂を下って、北宇和島で予讃線と合流し、終点宇和島に到着する。
赤い橋は国道346号線の四万十橋。
太平洋まであと少し。     
宿毛線 中村・具同間


 一方、江川崎で別れた四万十川は、高知県内を逆S字を描きながら、最後は四万十市・中村で太平洋へと流れ出る。街に近づいても、最後まで清流らしさを失わない魅力的な河川である。
(2016/8/25乗車)