『今』 歩いて海峡を渡る
言わずと知れたことだが、日本列島には四つの大きな島がある。そのうちの本州と九州とはほとんど接しているので、逆にどうしてこの二島は離れているのだろうという疑問が涌いてくる。北米大陸と南米大陸を繋ぐパナマ地峡のように、九州と本州とは「関門地峡」として地続きであってもおかしくはない
注1と思う。
しかし、関門海峡を前にして佇むと、潮の流れのあまりの速さに驚かされる。こんな大きな力で潮の流れにぶつかられたら、大地が裂けるのも当たり前だ。源平の合戦で、流れの下手になってしまった平家が源氏に大敗北を喫するのも納得がいく。この水路のことを早鞆の瀬戸(はやとものせと)と呼ぶのだそうだ。
これほどまでに近接している関門海峡だから、対岸までは歩いてでも渡れる。比喩で言ってるのではないし、橋を渡るのでもない。この瀬戸の下に人や自転車専用の海底トンネルがある、ということをつい最近知った。自動車専用トンネルである関門国道トンネルの下に設置された人道である。壇ノ浦にある地上出口からエレベーターで降り、およそ780mの海底トンネルを歩くと対岸の門司側に着き、再びエレベーターで地上に戻ることができる。
今回乗り尽くしの旅のついでに歩いてみようと思った。そうすれば、かつての九州の玄関口、門司港駅から列車に乗ることもできる。一石二鳥である。
夜明け前から降り続けていた雨がようやく止んだものの、壇ノ浦上空には厚い雲が垂れ込めている。海峡が一番狭まっているここには、本州と九州を結ぶ大動脈が三つ通っていて、そのうちの二つ、新幹線と国道2号線は海底トンネルなので、直接目にすることができるのは、中国自動車道と九州自動車道を結ぶ頭上の関門橋だけである。目指す人道の入口は、巨大な橋桁の下の建物の中にある。
無骨なステンレス製の扉が閉じて、エレベーターが降りていく。海底に着くと、扉の前に殺風景なフロアが現れ、その先の説明板の横にトンネルの入口があった。細長い空間は、少しでも閉塞感を感じさせないよう、明るい照明が青と白に塗られたトンネル全体を照らしている。トンネルは下り坂になっていて、中間点で上り坂にかわるよう設計されていた。だから向こう側は見えない。
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門司側から振り返る。人道もまた
国道2号線。 |
歩いてみて感じたのは、予想以上に多くの人たちが本州と九州を歩いて行き来していることだ。中にはウォーキングしているシニア世代や家族連れもいる。頭上には車が通り、更にその上には船が行き来している様子を想像しながら、歩いて九州に行けることを皆楽しんでいるようだった。
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関門橋方面にのびる線路は、
門司港レトロ観光線。 |
九州側出口から門司港駅までは2キロ半ほどの距離がある。ここには門司港レトロ観光線というトロッコ列車が走っているのだが、12月から3月中旬の冬季区間はあいにく運休となっている。雪が降るわけでもなく、東京に比べてそれほど寒くもないのだが、やはり吹きっ晒しのトロッコでは観光客が来ないのだろう。この鉄道乗り尽くしは諦めて、早鞆の瀬戸沿いを歩くことにした。天気も次第に回復したので、煉瓦造りのレトロな港湾施設を楽しみながら門司港駅を目指す。
『そして今』 鹿児島本線を乗り尽くす
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門司港駅5番線 |
鹿児島本線の大半は40年前に乗り終えていたが、枝線
注2となっている門司港・門司間5.5㎞が残っていた。名駅舎で有名な門司港駅は現在大規模改修中であり、工事現場の見学コースもあるのだが、ネオ・ルネサンス風の名建築はその片鱗すらも窺い知れない。九州乗り尽くしの旅が始まればまた見る機会もあるとばかりにあっさりと諦めて列車に飛び乗る。九州鉄道記念館もパスしたほどだから、必ずもう一度門司港を訪れなければならないだろう。
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門司港駅3番線 |
赤い瀟洒なJR九州の813系通勤電車は、途中駅小森江に停まるだけで、あっという間に門司に到着した。降りたホームには嬉しいことに、立ち食いソバ処があって、乗降客はほとんどいないのに、暖かそうな湯気が立っている。「かしわ蕎麦」と書かれていたので、小倉の駅弁「かしわめし」が美味しかったこと思い出し、特にお腹が空いていたわけでもないのに、頼んでしまった。甘辛く煮た鳥そぼろの美味しい立ち食いソバである。
『昔』 鉄道で海峡を渡る
歩いて渡れる関門トンネルに対して、誰もがふつうに思い描くのは、昭和17年に完成した鉄道の方の関門トンネルだろう。九州寝台特急が大活躍していた頃は、ここを通過するのが一大イベントだった。というのも、下関駅と門司駅の二か所で電気機関車の付け替えが行われたからだ。駅に到着するとファンは一斉にホームの端まで走って、機関車の切り離しと連結を見守ったのだった。短時間に2回の切り離しで、合計3台もの電気機関車が見られるのはここだけだった。
『昔々』 1980年代の海峡…
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FE-65の切り離し 下関駅
1981/8/18 |
前日夕方18時ちょうどに東京駅を出発した寝台特急「富士」は、一晩かけて1000㎞を走り抜けて、翌日9時09分に下関に到着する。関西発の寝台特急はまだ暗いうちに海峡を抜けてしまうのに対して、東京発の寝台特急では食堂車で朝食を済ませた後に下関に着くので、機関車の付け替えを楽しむには持って来いの時間なのである。
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EF-30の切り離し 門司駅
1981/8/18 |
ここまで牽引してきた直流電気機関車EF-65が切り離され、関門海峡用に塩害対策を施した銀色に輝く交直両用電気機関車EF-30が連結される。ステンレス製の電気機関車はここだけでしか見ることのできないレアものだ。連結が終了すればすぐに発車して、海峡トンネルに進入していく。海峡は狭いので、ほどなく九州側の出口がやってくる。鹿児島本線と合流すれば、走りながら交直切り替えが行われる。
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ED-76の連結 門司駅
1981/8/18 |
門司駅に到着すると、再び機関車は切り離されて、赤い交流機関車ED-76が近づいてくる。ここでもファンに見守られながら、連結作業が行われるのだ。
門司発9時26分。こうして17分間のドラマを終えて、富士はふたたび終点宮崎を目指して走り出す。毎日毎日、富士以外にも東京からは、さくら・はやぶさ・みずほ・あさかぜがやって来て、このシーンを繰り返していた。下関や門司の駅が最も輝いていた時代である。
『そして再び今』 2015年冬、海峡を鉄道で渡る
移動手段としての夜行寝台列車はもはや絶滅危惧種。夜行高速バスが関門海峡大橋を渡ることはあっても、寝台列車が関門トンネルを通過することはない。現在は一部を除き、日中1時間に3~4本の電車が下関と門司の一つ先、小倉との間を往復しているに過ぎない。長距離輸送はコンテナ貨物に限られ、人は新幹線と航空機に移ってしまった。
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小倉行き415系電車 下関駅 |
門司駅にやってきた下関行きの電車は、415系と呼ばれる旧国鉄時代に製造された古い車両だ。しばらく走ると一瞬蛍光灯が消えて、交流から直流へと切り替えられることがわかる。再び灯りが点くとすぐに地中へと潜って関門トンネルに入った。3.6㎞ほどのトンネルだからすぐに地上に戻って、下関駅に到着する。ほんの6〜7分の小旅行だ。
そして将来
それにしても、これから先の関門海峡はどうなるのだろう。いつまで415系電車を使い続けるのだろうか。というのも、下関・門司間にはちょっと複雑な事情があるのだ。山陽本線は神戸を起点とし終点は門司だが、国鉄分割の折に下関・門司間はJR九州の管轄となった。青函トンネルがJR北海道、本四連絡橋がJR四国というように、3島の会社はすべて本州にぶら下がっている。直流電化された山陽本線のうち、わずか4㎞に満たない一駅区間だけがJR九州の管轄なのである。そして、厄介なことに交流電化されたJR九州にとって、ここだけが直流区間となっている。だから門司を出発してすぐの所で交直切り替えが行われるのだ。わずか一駅区間のためだけに、EF-30のような交直両用の車両が必要になる。いまだに古い国鉄車両を使わざるを得ないのは、高価な交直両用車両を作るのは無駄だと思っているからだろう。
この先も交直両用車両は新造されないのではないか。JR東日本から中古を購入するか、それが無理なら答えは一つしかない。えちごトキめき鉄道の直江津・泊間のようにディーゼルカーを走らせることである。どちらも貨物にとっては大動脈であっても、旅客にとってはローカル線に過ぎないという現実。壇ノ浦で滅びた平家のように、ここでも「盛者必衰の理」を思い知るのである。
(2015/1/6乗車)
注1)6000~7000年前まで、本州と九州は繋がっていたという。八島邦夫『内海の海釜地形に関する研究』(H5.11)
注2)本州・九州連絡が主流だった頃は確かに門司・門司港間が枝線のようだったが、今はほとんどの列車が門司港始発となり、本来の本線に戻ったと言える。