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2022年7月7日木曜日

27292.3㎞の終着駅

後藤寺線で田川後藤寺へ

折り返し新飯塚行後藤寺線列車
 筑豊炭田の集積地、田川後藤寺のプラットホームに立つのは3度目だ。採炭が終わりを告げ、網の目のように張り巡らされた炭鉱鉄道の多くも廃線となり、ボタ山にも緑が生い茂って、かつての賑わいはどこにもない。残されているのは、今は使われなくなってしまった数多くの引き込み線と寂寥感あふれるだだっ広い構内、そして生まれ変わろうと呻吟する町の風情くらいだろう。花壇が置かれた駅構内は地元の人の優しさが感じられるが、それでもここが日本のラストベルト(Rust Belt:錆びた地帯)であることは否めない。駅舎も列車も至る所、錆が浮いている。

 昔から「乗り鉄」泣かせといわれた筑豊各線だが、ここ周辺ではJR日田彦山線と後藤寺線、それに平成筑豊鉄道だけとなってしまった。それでも接続の悪いローカル線を効率よく乗り尽くすのは結構難しく、結局後藤寺線と日田彦山線の南半分が未乗区間として残り、その接続駅である田川後藤寺駅へは3回目の訪問となった。

 駅は0番線と1番線が後藤寺線(一部日田彦山線)、跨線橋が伸びて中央2番線は平成筑豊鉄道糸田線、その先3番線と4番線が日田彦山線専用ホームという堂々とした設えだが、長大編成にも対応したホームの真ん中にちょこんと単編成のディーゼルカーが停車する、黄昏行くローカル線の風情そのものだ。鉄道愛好家にはたまらなく嬉しい風景だが、情緒だけでは鉄道は成り立たないと言った某JR社長のことばが胸に突き刺さる。

最後に選んだ日田彦山線

 


添田から先に鉄路はない
 日田彦山線は、2015年7月の九州北部豪雨で添田以南が不通となってしまい、代行バスが走るようになった。以後、復旧を待ったものの2020年、ついに不通路線のBRT(Bus Rapid Transit)化が決まってしまう。日田彦山線は、日田にも彦山にもディーゼルカーでは行けない路線になってしまったのである。乗車したディーゼルカーは添田まで。添田から先は次第に山が迫り峠越えとなる。だから、私にとって鉄道最後の終着駅は添田なのだが…制度上、代行バスは鉄道扱いなのだ。

 添田駅で停車した列車の先には、無情にも車止めが設置され、その先の線路はすでに剥がされて道床だけになっていた。

 日田彦山線の名前の由来となった彦山は、霊峰英彦山にちなんだものだ(英があってもなくても読み方は同じ)。英彦山神宮を模した駅舎のある彦山駅が沿線の主要駅であり、新幹線が博多に通じた1975(昭和50)年の時刻表3月号によれば、上下4本もの急行が停車する賑わいを見せていた。今では想像しがたいことだが、久大本線の鳥栖を通って日田や由布院へ向かうよりも1本多く、それほどこの地域の重要路線だったのである。

日田行代行バス

 しかし、今はその面影もなく、英彦山神宮へのアクセスはマイカーか添田町バスに限られる。そして日田を目指すものは、駅から100㍍ほど戻った所にあるバス停から、代行バスに乗り換えるのだ。乗客は2名だった。

 バスは30㎞ほどの距離を1時間ほどで駆け抜ける。ところどころで放置された日田彦山線の線路に沿いながら、途中つづら折りの峠越えを挟みつつ、列車の来ない駅に立ち寄っていく。彦山駅はすでに撤去され、小振りの瀟洒な停留所に生まれ変わっていた。BRT化の準備が進んでいるようだ。完成すれば峠越えも解消するだろう。

そしてゴールへ

 17年間の旅を終えるにあたり、最後に選んだのは久大本線と日田彦山線の接続駅「夜明」。コロナ禍にウクライナ侵攻、その上に老後の心配など、なにかと不穏な気配が漂う昨今、そんなときだからこそ希望をうしなってはいけないだろう。それを後押ししてくれるような素敵な駅名ではないか。
 代行バスを降り、階段を昇ると静かな無人駅舎があった。7月7日10時10分過ぎ、夜明駅のホームに立つ。ようやく乗り尽くしの旅の終着駅に到着した。しかし、旅の終わりは新たな旅の始まりでもある。次の駅は光岡(てるおか)、そしてその次は日田(ひた)。光は次第にあふれていく。前途洋々とした未来へ続いていく。


(2022/7/7乗車)

2019年7月19日金曜日

日本で唯一、鉄道の走る遊園地

線路を走れば鉄道…というわけではない

 東京ディズニーランドのウエスタン・リバー鉄道は、本格的な蒸気機関車が魅力だが、いわゆる鉄道事業法に基づく鉄道ではなく、遊戯施設の一部と見なされている。一方で、東京ディズニーリゾートの各施設を結ぶディズニーリゾートラインは、れっきとした鉄道という位置付けだ。リゾートラインで移動してからTDLなりTDSなりに入場するわけだから、まあこれは納得できる。施設の内部か外部かで分けるというのが鉄道事業法の考え方なのだろう。 
 だから、北海道・丸瀬布森林公園いこいの森を走る森林鉄道も、静岡県修善寺・虹の郷を走るロムニー鉄道も、愛知県犬山市・明治村を走る蒸気機関車や京都市電も、すべてかつては実際に活躍した鉄道そのものだが、今はみな遊戯施設なり保存鉄道の扱いである。すべて施設内にあるからだ。 

 しかしどんなものにも例外はつきものだ。施設内にあって、入場料を払わないと乗れない鉄道が、日本全国に三カ所ある、と私は思う。いずれもケーブルカーだ。

 本州の北端、青森県竜飛岬にある青函トンネル記念館。冬の間は雪に閉ざされて閉館となるその施設には、海面下140㍍にある旧竜飛海底駅まで、250‰の勾配をケーブルカーが結んでいる。正式名称は青函トンネル竜飛斜坑線。世紀の大工事といわれた青函トンネル建設のために造られたものだから、当初は工事用のインクラインだったものと思われる。完成後は海底駅と地上とを結ぶものとして、一般客を運ぶようになった。現在はトンネル記念館による「体験坑道」のアトラクションとして活躍している。入館料400円、体験坑道乗車券1000円。 

 二つめは、京都北山の鞍馬寺。足の弱い人・高齢者の参拝のために造られたケーブルカーがある。山門で愛山費(拝観料)を納めてから入山し、ケーブル寄進200円を納めて乗車させて頂く。これについては「鉄道会社はお寺さん」でも触れたので繰り返さない。 

 最後が、大分県別府の遊園地ラクテンチのケーブルカーだ。

おじさん、一人で遊園地へ

乗客を残し列車を去る運転手
 私が訪れた日はあいにくの荒天だった。阿蘇から大分までの豊肥本線では列車に遅れが出るばかりでなく、乗っていた列車が途中大雨のために突然止まり、運転手が聞き取りにくい言葉で何やら言うとそのまま列車を降りてしまった。列車無線が通じないのか、携帯電話を持ち合わせていないのか、運転手は最寄りの駅まで歩いて行ってしまった。車内に取り残されたのはわずか三人。人家も比較的近く、路盤が崩れそうでもなかったので、恐怖感こそなかったものの、事情も分からず、なかなか戻らない運転手を待つ身としては心細くもあった。しばらくしてずぶ濡れのまま戻ってきた運転手は、またブツブツ言いながら低速で列車を走らせ始めた。ことばが聞き取れないので、結局真相は不明のままだ。
 このままでは豊後竹田からの連絡列車にも、また大分からの列車にも乗り遅れて、ラクテンチが閉園時間を迎えてしまう。そもそもこんな雨の中、遊園地などやっているのだろうかという不安も募ってくる。 
 付近一帯のすべての列車が遅れていたため、なんとか別府まではたどり着くことが出来た。時間も惜しい上に雨も降っていたので、ラクテンチまではタクシーを奮発する。
 それにしても、こんな雨降りの日に、おじさん一人が遊園地まで行くというのは、なんとも気恥ずかしい。こちらの気持ちを察したのかどうか、運転手さんが 
「ビジネスですか?」 
と尋ねてくる。
 おいおい、どう見たってリュックを背負ってカメラぶら下げた私服男がビジネスマンに見えますか。とはいえ、まさか、
「日本全国の鉄道に乗るのが趣味で、そのためにはこの遊園地のケーブルカーに乗らなければならないのです」
などどいえようか。そんなことを言ったら最後、
「なるほど! すべての鉄道に乗るためには、日本中の遊園地にを訪ね、すべての線路を踏破し、従ってジェットコースターやら、おとぎの電車やらに乗りまくるのですね。デパートの屋上のもですか…」
と矢継ぎ早に質問されてしまうに違いない。そうでないことを納得させる自信はなかった。人の良さそうな運転手さんには申し訳ないが、咄嗟に出たことばはこうだった。 
「はい。こんな雨降りですから、仕事でもなければ誰も行かないですよね」 
よくもまあ、スラスラと嘘がつけるものだと、半ばあきれているうちにラクテンチ入り口に着いた。
 来場者は私以外誰もいないが、土産物ショップの灯りが付いているし、入場券窓口のお姉さんもこちらを見ている。やった! 開いている。 
 お金を支払い、タクシーを降りる。そのまま入場券窓口に進む私の背中を、タクシー運転手は不思議な思いで見つめているだろうなあと感じながらも、ここで怯んではいけないと心を強く持って、その視線を振り払う。ここで逃したら、次は一体いつ来られることだろうか。 
おとぎの国の
ケーブルカー

 ケーブルカーに乗車したのは私ひとりだった。ガイド役の女性乗務員と二人っきり。ほぼ空箱のような車両が動き始める。 
「残念ながら今は、ワンちゃん・ネコちゃん姿ではなくなってしまったのですが」 
と申し訳なさそうに乗務員が説明する。先月までは、生駒ケーブルのように運転台が動物の顔になっていたのだ。よかった! それでなくとも恥ずかしい思いで一杯だったのだ。中間地点で擦れ違った車両には、女性乗務員以外は誰も乗っていなかった。彼女は、こちらに向かって思い切りの笑顔で手を振ってくれる。私はただ一人の来園者なのかもしれない。ああ! 注目されている。早く終点に着いてくれ。到底、手を振り返す勇気などなかった。
 山頂に着くと、ラクテンチの制服を着た係員が笑顔で、 
「ようこそ、ラクテンチへ」 
と明るく声を掛けてくれる。ここはまさに遊園地なのだ。ふと見ると、親子二人連れが動いていない観覧車の辺りに所在なく佇んでいた。まだ雨が少し残っている。山は厚い雨雲に閉ざされていた。 
 晴れていれば別府湾の絶景が楽しめそうな、谷をまたぐ吊り橋も、悪天候のため鎖が下ろされ通行止め。昔懐かしい回転木馬も、高低差があまりなく小さな子どもが楽しめるジェットコースターも、すべてが止まっている。わずかにひとけが感じられるのは、レストランと売店で、そこには手持ち無沙汰の従業員が、閉園時間をひたすら待っているのだった。客のいない遊園地で、ただうろうろ歩いているおじさんは迷惑者以外のなにものでもない。そうはいっても入園料だけは払ったのだからと、小雨に濡れながら一通り園内を歩いたあと、ケーブルに戻った。最終の1本前まで、まだ10分ほどある。再び外に出ると、ベランダが展望台になっていた。 
どこまでも真っ直ぐな
「流川通」


 ケーブル駅から見下ろす別府の街は、思いの外見応えがあった。下からは折り返しが登ってくる。まっすぐ下界まで続くケーブル路線の先は、これまた真っ直ぐに海まで続く道だった。灰色に煙る別府湾は空と見分けがつかない。高い場所から眺めているのに、目の錯覚だろうか、天に昇る道に見えた。まさにここは楽天地だ。

 
(2019/7/19乗車) 

2017年8月23日水曜日

山岳鉄道の魅力あふれる肥薩線


絶景路線、誕生の秘話

 日本山岳鉄道の白眉といえば、肥薩線を措いて他にないだろう。熊本や宮崎・鹿児島に住む方々には申し訳ないが、あのような田舎だからこそ都会人にはあまり知られていないだけであって、仮に肥薩線が関東地方にあったとしたら、怒濤のように観光客が訪れて、あっという間に俗化されてしまっていたに違いない。レンゲは野に咲いていてこそ美しい。肥薩線もいつまでも南九州の山中で、ひっそりと息づいていて欲しいものだ。

 熊本から特急で1時間半、途中急流と焼酎で有名な球磨川を遡り、山塊を抜ければ「日本でもっとも豊かな隠れ里」人吉に着く。九州山地に囲まれた球磨盆地に位置する、温泉の湧き出る小さな城下町だ。ここに至るまでの蛇行した深い渓谷もなかなか見どころが多いけれど、そちらの方はSL人吉号でのんびりと楽しむのが良いだろう。今回の目的地はここより更に奥にある。

 それにしても、明治の人達はなにゆえこのような隠れ里に鉄道を敷いたのか。熊本・鹿児島間が鉄道で結ばれたのは、1909(明治42)年11月のことだ。この時、途中関門海峡を連絡船で乗り継いで、青森から鹿児島が鉄道で結ばれた。工事に着手した1905(明治38)年は日露戦争の真っ直中であり、その年の5月27日に日本海海戦が起こるという時代だったから、敵の艦砲射撃を怖れたのも当然のことだろう、国防上の理由から鉄道を山中に通すことにしたのである。現在肥薩線と呼ばれているこのローカル線は、かつての鹿児島本線そのものであり、当時は大動脈だったのである。
 坂の苦手な蒸気機関車の前に立ち塞がる山々、しかも行き来の多い動脈。いつの時代も壁にぶち当たれば、人は技術で乗り越えようとする。矢岳越えの始まりだ。

   注)2015(平成27)年、文化庁が日本遺産に認定。

大畑ループとスイッチバック


(C)Yahoo Japan,(C)ZENRIN

 人吉を後にした列車はディーゼルエンジンを唸らせながらぐいぐいと登っていく。あたりは鬱蒼とした緑で、坂に弱い蒸気機関車泣かせの1000分の25という急勾配だ。やがてループ線が始まるとすぐに現れる横平トンネルの先には、全国でもここにしかない、ループの中のスイッチバック駅、大畑駅がある。大畑は「おこば」と読む。「こば」とはこの地方では焼き畑のことを指すので、それが地名になったようだ。
大畑駅からスイッチバックを眺め
る。左側が人吉方面。画面中段、右
側に向かってループ線の勾配が続い
ていて、正面の山の窪んだところま
で登っていく。         

 それはさておき、誰も住んでいないような所に駅が作られたのは、ここで石炭を補給し、給水する必要があったためである。人吉から大畑まで登るのに約1トンもの石炭が消費されたのだという。
 重量のある蒸気機関車を安全に停車させるには、駅を水平な場所に作らなければならない。であるから、列車は勾配のあるループから一旦はずれ、水平なところに設置された大畑駅に滑り込む。
 石炭を積み給水を終えた蒸気機関車はループ線に戻るためにバックをする必要がある。しかし、そのまま下り勾配のループ線に戻るわけにはいかない。重たい機関車には坂道発進など不可能だからだ。そこでループ内側に水平に設けられた引き込み線に一旦入ってから、平らなところで加速しつつ、再びループ線を登るようになっていた。

 登坂能力に優れた現在のディーゼルカーならば、大畑駅に停車しなくても、そのままループを登れそうである。地図を見ても、ループは連続しているようだから、敢えて大畑駅に立ち寄る必要はなさそうに思えるかもしれない。ところが実際にはループは連続しておらず、大畑駅でジグザグと切り返しながら通過する必要がある。この何とも非効率なところが、肥薩線の魅力でもあるのだ。
大畑駅停車中の観光列車

 現在大畑駅を通過する列車は1日わずか5往復。そのうちの2往復は観光列車である。人吉・吉松間35㎞、普通列車では1時間のところを、途中休み休み20分ほど余計に時間をかけて結んでいる。大畑駅では、バックするために運転手が移動する間、乗客達はホームに出てレトロなローカル駅を見学して楽しむことができる。駅舎にはここを訪れた人達が記念に残した名刺やメモ用紙の数々が所狭しと貼られている。まるで千社札のようだ。駅構内の片隅には、給水塔が残っていて、SL時代を偲ばせる。

 大畑駅を出発した列車は、ループ内側の引き込み線に入ってから一旦停止し、運転手が車内を再び移動する。これが一大セレモニーとなっていて、キャビンアテンダントの女性が、実況中継をしてくれる。心なしか運転手も得意顔である。
 
 運転を再開すると、引き込み線内で加速し、そのまま半径300㍍のループ線へと進んでいく。車窓右側に大畑駅を見送り、短いトンネルを抜けると木立の間から球磨盆地と九州山地が見えてくる。中でも一番高い山が市房山(1721㍍)で、九州で3番目に高い山だ。ちなみに阿蘇や霧島は名山の誉れ高いものの、標高ではこれより低い。
中央が大畑駅、右下が引き込み線。
人吉からの線路は、引き込み線の  
向こう側に微かに見え、撮影地点の
下をトンネルで抜けていく。   

 ループをほぼ1周した地点で左側車窓の視界が大きく開ける。ここが肥薩線最初の絶景ポイントだ。眼下に先程立ち寄った大畑駅と引き込み線が見える。その向こう側に広がるのが球磨盆地と九州山地である。
 全国にはループ線がいくつか残されているが、景色のよさからすれば、ここが群を抜いている。スイッチバックの面白さもさることながら、その下に広がる球磨盆地が背景となって、山岳鉄道の趣がもっとも味わえるからである。観光列車の良いのは、このようなビューポイントできちんと停まってくれ、しかも解説してくれるところだ。37年前に訪れた時には、左右の車窓をキョロキョロしているうちに通過してしまい、不覚にも絶景を拝むことは叶わなかった。他の乗客の中で外の景色を眺めている人は殆どおらず、スイッチバックの記憶しか残っていない。「何事にも先達はあらまほしきものなり」であって、誰かに解説してもらうということはとても有り難いものだ。

   注)徒然草より。二度と訪れないかもしれない土地で、誰からの
        アドバイスも受けずに、大切なものを見はぐってしまうこと
                       ほど残念なことはない。なお原文はもっと意味が深い。
          
山縣伊三郎と後藤新平
 
 ループ線を抜けてから先も矢岳駅までの間は、1000分の30.3という蒸気機関車にとってはほぼ限界に近い区間が9㎞も続く。今回乗車している観光列車「いさぶろう号」は、キハ47という国鉄時代に普通列車用だった車両を、「ななつ星」を初めとするインダストリアルデザインで世界的にも有名な水戸岡鋭治氏によってリニューアルされた名車が使われている。ただエンジンは国鉄時代のレトロなもの。頑丈で重量のある車体を非力なエンジンで動かしている老兵のような車両だ。見かけはお洒落な若作りだが足腰が弱い。
 大きなうなりをあげつつ、ゆっくりとしか登坂できないこの列車が、かえって逆に難所を走る観光列車には相応しく思えてくる。都市の電車区間では1000分の30など至る所にあるが、産業遺産を体感するとは、こういうものなのだろう。
古い佇まいを残す矢岳駅

 肥薩線の標高最高地点は、矢岳駅の537㍍である。人吉が107㍍、大畑が294㍍だから随分と登って来たものだが、高度そのものはそれほど高いものではない。問題となるのはあくまでも標高差である。駅周辺には田畑と農家が点在している。昔ながらの駅舎に隣接した展示館では、往時貨物列車を始めとして多くの列車を牽引したD51型蒸気機関車を見ることができる。

 肥薩線の観光列車は、人吉から吉松方面の下りが「いさぶろう号」、逆の上りが「しんぺい号」という。あえて列車名を変えているのは、この先の矢岳第1トンネルの入口に掲げられた扁額に関わりがある。熊本県と宮崎県の境に位置するこのトンネルは、全長2096㍍の肥薩線最長のトンネルであり、難工事のすえ貫通し、鹿児島本線は全線で開通することができた。この慶事を祝して、熊本県側の入口に逓信大臣山縣伊三郎が「天険若夷」と、宮崎県側に鉄道院総裁後藤新平が「引重致遠」と揮毫したので、それにちなんで吉松行きは「いさぶろう号」、人吉行きは「しんぺい号」と命名したのだ。なんとも気の利いた列車名ではないか。こういうセンスがJR九州にはある。
 ところでこの難解な四字熟語の意味はというと、車内で配られたパンフレットによれば「天険若夷」が<天下の難所を平地のようにした>であり、「引重致遠」は<重いものを遠くに運べる>だそうだ。若夷は夷(い)の若(ごと)しと訓むのだろう。夷には、えびす(未開の異邦人)のほかに、平らげるの意味がある。鹿児島本線としての開通が、如何に当時の物流にとって重要で、人々の期待を担っていたかがわかるエピソードだ。

日本三大車窓 霧島連山の絶景

 土木工事がまだ未熟だった明治時代には、トンネルをどれだけ短くできるかが勝負所だった。現在ならば麓同士を長大トンネル一本で抜けてしまうようなところを、短いトンネルとスイッチバックとループ線で高度を稼ぎ、これ以上無理という所にトンネルを設けて山越えを果たした。それが矢岳越えだったわけだが、これはただ単に土木技術の問題だっただけではなく、蒸気機関車にとって長大トンネルは無理だったことも考え合わせねばならないだろう。昨今のSLは無煙炭や重油を燃やして極力煙害を防いでいるし、そもそも客車の気密性が高く、乗客が煙に悩まされることはまずない。
 電化以前の時代にあって、蒸気機関車がどれほどまでに嫌われていたかを知る人はすでにだいぶ少なくなった。汽車の旅は、それはもう難行苦行の連続であり、特にトンネルは最悪で、窓を閉めてもデッキから煙が流れ込んできて息苦しいこと限りなかった。夏、冷房もない頃に窓を全開にしておくと、煤や石炭殻が飛び込んでくる。私も幼い頃、車窓を眺めていると目の中に石炭殻が入ってしまい、涙では流れ落ちずに、目医者に洗い落として貰ったことがある。だから汚くて厄介な蒸気機関車などにはこれっぽっちも興味がなかった。蒸気機関車が再発見され、広く世間に人気が高まったのは、全国から姿を消した後になってからである。
 矢岳第1トンネルに入った時、当時の人がどんな思いで乗っていたか。ここは想像力を働かせれば、容易に察しがつくだろう。もう二度とこんな汽車には乗りたくないという人もいたに違いない。外は漆黒の闇、薄暗い車内に漂う煤煙。暖かい煙は車内の上ほど濃いが、次第に下に降りてきて、後方へと流れていく。匂いもきつく、窒息しそうな2㎞。
右が飯盛山(846m)、中央やや左が
韓国岳(1700m)、その左雲を被っ
た白鳥山(1363m)。高千穂の峰は
後方で見えていない。      

 トンネルを抜けた瞬間、あちらこちらで窓が開け放たれ、新鮮な外気を胸一杯に吸って人々は安堵する。そこに俄に視界が開けて、雄大な霧島連山が眼前に迫ってくるのだ。この風景は今見ても感動的だが、SL時代では尚更だったろう。目的地まではあと下るだけだ。
 標高1700㍍の韓国岳(からくにだけ)を主峰に、右に飯盛山、その後ろに周辺に黄緑色のえびの高原、左には白鳥山や夷盛山(ひなもりやま)が連なる。眼下は川内川流域に加久藤盆地(えびの盆地とも)が広がる胸のすくような景観だ。日本三大車窓を謳うのも頷ける。観光列車「いさぶろう号」はここでも数分停車し、キャビンアテンダントからはご丁寧にも窓を開けて外の空気を吸うよう薦められる。勿論高原の空気を満喫して欲しいという意図なのだろうが、過去を知る者には、汽車時代の苦労が偲ばれる小粋なアドバイスに思えて仕方なかった。
 日本三大車窓とは、ここ以外は信州姨捨と北海道狩勝峠だ。どこも素晴らしいが、信州の姨捨の前に広がる善光寺平は人々が多く住む開けた土地柄だし、北海道の狩勝峠は長い新トンネルが出来てからは標高が下がったこともあって、一番は昔と変わらないこの車窓であろう。ただどの車窓にせよ、蒸気機関車時代の苦労を想像しながら眺めると、感動もひとしおに違いない。なお、老婆心ながら、ここを訪れる際は「しんぺい号」ではなく、「いさぶろう号」をお薦めする。その理由はもうおわかりであろう。姨捨や狩勝峠の場合も同様である。
微かに見える桜島のシルエット

 パンフレットには天気がよければ桜島も見えると書いてある。確かに…うっすらとシルエットが浮かんでいる。キャビンアテンダントが「皆さんは幸運です」という。自分は雨男なので、ここで運を使い果たさなければよいのだがと思うが、これだけ綺麗だったのだから、まぁ、いいか。

鉄道遺産としての肥薩線 


承前 山岳鉄道の最高峰

 矢岳越えを終えた「いさぶろう号」は、軽やかなエンジン音を響かせながら加久藤盆地、別名えびの盆地へと下っていく。ここは日向の国、宮崎県だ。肥薩線はその名の通り肥後熊本と薩摩鹿児島を結ぶ路線なのだが、ほんの少しだけ日向の国の西端をかすり、そこに位置するのが真幸(まさき)である。勾配の途中にある真幸駅もまた、素通り不能のスイッチバック駅だ。ここでも列車は一旦車止め手前で停車し、運転手の移動後に、真幸駅へ向けて逆進する。
列車は真幸駅の脇を通過してから
バックしつつ駅に停車する。  

 なんとここに待ち受けていたのは、地元の人達の歓迎であった。十数人の人達が、幟をを持ち、手を振って出迎えてくれる。アテンダントの説明によれば、地元の特産品やお弁当なども販売しているとのこと。また、ホームには「真幸の鐘」があり、それを衝く幸せになれるという。あの手この手で町おこしなのだなと思うものの、ここまで多くの人が集まって歓迎してくれるのも珍しい。

 真幸から吉松は近い。盆地を囲む山々の斜面を滑り降りながら、日向と別れて薩摩に入るが、むろん景色が変わるわけではない。地図を見ながら列車に乗っているから分かるだけであって、ほかの乗客の人達は一瞬宮崎県に入ったことなど、知りもしないし関心もないだろう。オタクとは言われたくないが、言われても仕方ない。
『赤と黒』
スタンダールじゃないけれど…

 「いさぶろう号」は吉松が終点である。乗客の多くは、ホーム向かい側で待つシックな黒い特急「はやての風号」に乗り換えて、そのまま鹿児島へ向かう。こちらも水戸岡鋭治氏のデザインによるリニューアル車で、窓からはふんだんに木を用いた雰囲気のある車内が見える。思わず乗りたくなるが、ここは我慢。
都城からの吉都線列車
前方左が人吉方面

 吉松は吉都線の乗り換え駅で、都城を経由して宮崎に繋がる交通の要衝である。かつては熊本と宮崎を結ぶ急行「えびの」が走っていたが、今は需要がないため、吉都線は完全にローカル線化している。肥薩線からは見えなかった天孫降臨神話で名高い高千穂峰も、吉都線からはよくみえるので、霧島連山すべてを眺めるなら、この景勝路線がお薦めだ。そのためJR九州では、肥薩線と吉都線を併せて「えびの高原線」という愛称をつけているくらいだ。熊本県民にはピンと来ないだろうけれど。

遺産
近代化産業遺産【石倉】

 交通の要衝だっただけに、吉松駅には鉄道遺産が残されている。その一つが、2009(平成21)年に近代化産業遺産に認定された石倉だ。肥薩線(旧鹿児島本線)が全通する前の1903(明治36)年に作られた燃料庫で、石造りの鉄総施設としては珍しいという。たしかに全国各地に残るランプ小屋は煉瓦造りだ。電気のなかった時代、ランプの灯りだけが頼りだっただけに、当時を記憶に残す貴重な施設といえる。

 いまでこそ吉松は静かなローカル駅だが、最盛期には機関区・保線区が置かれ、鉄道の町として600人以上の鉄道員が所属するこの地域の拠点であった。その面影がそこかしこに残されていて、駅周辺には蒸気機関車C55なども静態保存されている。この機関車の動輪は、スポーク型の美しいタイプだ。

 肥薩線の旅を終えるに当たって、最後に触れておきたい駅がある。嘉例川である。テレビで紹介されることもあって、比較的多くの人に知れ渡るところとなった。
嘉例川駅舎

 木造平屋切妻造の駅舎は、吉松の石倉と同じ1903(明治36)年、国分(現隼人)から吉松まで旧鹿児島本線が開通した際に建てられたもので、ほぼ当時の原形を保ったまま残っている。お椀を伏せたような緑濃い小山の脇に、ちょこんと建った田舎の駅舎を見ていると、まるでタイムスリップしたかのように、時代を忘れ、刻む時を忘れてしまう。薄暗い待合室には三和土の上に木製のベンチ。その隣は駅員の居なくなった事務室。ホームとの間には木製の改札口。駅舎の脇には樹齢100年を越える大きく育った木。
嘉例川駅と都城行普通列車


 有名になったこともあって、観光客が少なからず訪れる。その多くはマイカーでやって来る。私を乗せた列車が嘉例川に着いた時には、すでに駅前に何台も車が停まって、見学者が数多くいた。静かな田舎駅を想像していただけに少し意外だったが、列車が行ってしまい、しばらくするうちに、さあっと水が引くように人がいなくなってしまった。一緒に降りた高校生達も家族の出迎えの車で行ってしまい、次の列車を待つ私一人だけが残された。

 2006(平成18)年、嘉例川駅舎は国によって登録有形文化財に指定された。「日本でもっとも豊かな隠れ里」という日本遺産に始まり、絶景と数多くの産業遺産に恵まれた肥薩線。地元では現在、世界遺産に登録しようと運動を始めている。
(2017/8/23乗車)

 




世界で一番すてきな通学列車


ローカル線と高校生

 全国のローカル線を最も利用しているのは高校生に違いない。各駅停車の旅を続けていると、朝夕はほぼ必ず通学や帰宅途中の高校生と一緒になる。社会人はマイカー通勤が多いのだろうか、高校生に比べると人数は少ない。高校生の場合は、仮に家から駅が遠い場合も、駅までは車で送ってもらい、その先は通学列車を利用する。
 ローカル線には昔ながらの古い車両が使われることが多く、ボックスシートと呼ばれる4人が向かい合わせに坐るタイプがほとんどだ。外の景色を楽しむ旅人には重宝な座席だが、4人席を一人で占めてしまう場合が多い。特に高校生は見知らぬ人と同席などしないので、仲間同士が出入り口近くに溜まることになる。中はスカスカ、両脇は大混雑という風景が繰り広げられる。こうしてみると、4人ボックスシートが次々に廃止され、景色を楽しめないロングシートが幅を利かせてきているのも分からなくはない。せめて、2人掛けのクロスシートにして欲しいが、安価なロングシートが採用されがちなのは誠に残念だ。
 鉄道が走るような地域は高校の数も複数あるから、制服ごとにどっと下車したり、また乗車してきたりと、賑やかな光景が繰り広げられる。見ていると、学校ごとにカラーが違って面白い。乗車すると同時にスマホに集中する高校生がほとんどだが、中には全員ノートと参考書を取り出して勉強し始めることもある。そんな場合、心なしか大人びた顔つきで、しかも身なりはきちんとしているように見えるが、こちらの先入観もあるかもしれない。テスト前のにわか勉強の可能性だってあるからだが、いずれにせよ、必死にノートを見ている高校生は可愛いものだ。
 大都市圏では新幹線通学する高校生もいるが、私が経験上一番驚いたのは始発の特急列車で宇和島から松山まで通う高校生が少なからずいたことだ。途中からもどんどん乗車してくる。おそらく県立の進学校は県庁所在地にあるからなのだろう。通学定期代も馬鹿にならないだろうから、親の苦労が偲ばれる。

高校生とサロンカー


 さて今回紹介するのは、それとは一線を画す、素敵な通学列車である。熊本県の人吉盆地を走る 「 くま川鉄道」は第3セクターのローカル線だ。国鉄湯前線として開業し、JRに移管後、平成元年に誕生した。沿線にはビックネームの観光地がなく、どちらかというと地味な田園路線だが、5校ほど高校があって通学路線としての需要がある。それにしても取り立てて特徴のない鉄道会社なのだが、大きく変貌を遂げたのは、水戸岡鋭治氏デザインの新型ディーゼルカーKT-500型が5台導入されたことによる。

 鉄道会社としては観光に力を入れて多くの客を招きたいところだが、やはり利用者の大半は高校生。素っ気ないロングシートが当たり前の路線に、特上のサロンが誕生したのだ。高校生達にとっても使い勝手の良いロングシートは、良くデザインされたソファー。

 また外の景色を楽しむことが出来るボックスシートも、お洒落な照明とテーブルを備えている。これなら会話も弾むはずだ。すべてのシートの柄は異なり、ロングシートとボックスシートの間には、パーティションとして肥後独楽などが飾られている。

 列車の交換で手の空いた運転手に「贅沢な列車ですね。素晴らしい」と語りかけると、「水戸岡さんのデザインです。大勢の高校生が乗るので、ちょっときついですが」と答える。どうやら席が足りないということらしいが、所詮どこでも高校生は立っていることが多いのだから問題ないだろう。それより、シートに座った者同士の会話が弾むところに設計者の狙いがあるのだろうから。

 人吉駅で乗車した際は、多くの女子高生で席は埋まっていた。車内に入った瞬間にその内装に驚いたのだが、まさか写真撮影をするわけにはいかない。しかし終点の湯前に着く時に乗車していたのは私だけだった。その際に車内の写真を心置きなく撮らせて貰った。

 こうしてみると、都会の学生は気の毒だなと思う。味気ない満員電車に揺られ、コンクリートジャングルの中の無個性な校舎で学ぶ生徒が大半だ。地方に行くと、学校の校舎が立派なことに驚かされる。そこに現れた水戸岡鋭治氏プロデュースのサロンカー。このような土地で成長すれば、感性も研ぎ澄まされるに違いない。この車両のテーマは「田園」だそうだ。勿論全線が田園地帯を走るからだが、そこにベートーベンが掛けてある。ヘッドマーク代わりに描かれたト音記号がその証拠である。
(2017/8/23乗車)



2017年8月22日火曜日

最果ての駅 九州編

南の果て


 北の最果て稚内から3068.4㎞、線路で結ばれた駅としては日本最南端の西大山にやって来た。開聞岳が間近に迫る風光明媚な無人駅だ。鹿児島中央から列車に乗った際は生憎の雨模様だったが、この駅に降り立つ頃には雨も止んで、開聞岳の裾野が姿をあらわしていた。駅の周辺はヒマワリ畑と一軒の土産物屋。朝が早いためか、店は閉まっているし、曇天のためか、ヒマワリはあちらこちらを向いて絵にならない。次の上りで一旦指宿まで戻ってみようと思う。

 ホームにはお約束通り、この駅の特徴を記したボードが設置されている。最北端の稚内と最東端の東根室は当然のこと、ここでは最西端として佐世保が示されていた。なるほど、西大山を本州最南端としてしまうと、最西端は松浦鉄道たびら平戸口としなければならなくなってしまう。JRとしては佐世保が西の端。だから西大山はJR最南端の駅なのだ。納得。

 指宿で砂蒸し風呂を楽しんだ後、4時間後にもう一度西大山に立ち寄る。だいぶ天気も回復し色鮮やかな風景になってきたが、太陽が移動して列車は逆光、恥ずかしがり屋の開聞岳は山頂が隠れたまま。わずかな停車時間の間に急いで写したのが左の一枚。日本最南端の駅の上にJRとあるのがミソである。

 再び車上の人となって終点を目指す。天気はどんどん回復したが、この先も開聞岳はついに山頂を見せてはくれなかった。残念だが、これでもう一度訪れる言い訳(誰への? 無論私の道楽を見て見ぬふりをしている人だが…)が出来た。

 揺られることおよそ50分、枕崎は真夏の太陽の真っ直中にあった。湿度はそれほどでもないが、とにかく日差しが強い。二ヶ月前に訪れた愁いに沈んむ稚内とは大違いだ。「さあ、昼食は鰹料理と生ビールだ!」と弾む思いで改札口を出ると、コジャレたプレートが下がっている。


「本土最南端の始発・終着駅」。稚内までは3099.5㎞。そういえば、枕崎と稚内は友好都市だった。稚内のホームにも同じような掲示があったなあと思い出す。二つの町は始発・終着駅で結ばれている。そのうち、青春18切符を使って両駅の間を旅してみたいと思う。どちらを始発駅にするにしても、ここに来るまでが大変で、終わった後が一苦労だなあと、愛好家としては嬉しい悲鳴をあげるばかりだった。
稚内駅の掲示(2017/6/28撮影)
(2017/8/22乗車)






もう一つの南の果て


 こんなところにも果てがあった。この視点で考えたことがなかったので、予想外のことに思わず笑ってしまい、嬉しくなった。鹿児島市電の谷山停留所である。洒落た駅舎の入口中央に、「日本最南端の電停」という立派な碑が建っている。

 なるほど、たしかにそうだよなと思うと同時に、それならば最北端は札幌だけれども、あの街は東西南北に碁盤の目のように広がっているから、該当する電停は一つではないぞ、いくつあるんだろうとワクワクしながらスマホでグーグルマップを開いてみる。


 そこで改めて知ったのだが、札幌の街はちょっと傾いているのだ。どうでもいいようなことだが、ざっと測ってみると10度ほど街全体が反時計回りに回転している。「へえっ、知らなかった!」と、知っていたからといってどうでもいいことに妙に感心しつつ、それならば最北端の電停はめでたく一つに決定! 最近環状運転が始まり終着駅ではなくなって風景が一変したが、大通に最も近く、十字路の角に三越のある繁華街、西四丁目こそが、栄誉ある日本最北端の電停である。
札幌市電 西四丁目電停
(2017/7/1撮影)

 地下鉄と接続する電停として、終日賑わう西四丁目だが、あそこを利用する人達に「日本最北端」だというプライド(?)はあるのだろうか。少なくともこの間訪れた際には谷山にあるような立派な碑は建っていなかったと思うけれども、充分に調べ歩いたわけではない。やはり確認に行かなければならないかなあと、愛好家としてはいくらお金があっても足りないなとため息が出るばかりだった。

(2017/8/23乗車)

2015年1月6日火曜日

関門海峡今昔物語


『今』 歩いて海峡を渡る

 言わずと知れたことだが、日本列島には四つの大きな島がある。そのうちの本州と九州とはほとんど接しているので、逆にどうしてこの二島は離れているのだろうという疑問が涌いてくる。北米大陸と南米大陸を繋ぐパナマ地峡のように、九州と本州とは「関門地峡」として地続きであってもおかしくはない注1と思う。
 しかし、関門海峡を前にして佇むと、潮の流れのあまりの速さに驚かされる。こんな大きな力で潮の流れにぶつかられたら、大地が裂けるのも当たり前だ。源平の合戦で、流れの下手になってしまった平家が源氏に大敗北を喫するのも納得がいく。この水路のことを早鞆の瀬戸(はやとものせと)と呼ぶのだそうだ。
 これほどまでに近接している関門海峡だから、対岸までは歩いてでも渡れる。比喩で言ってるのではないし、橋を渡るのでもない。この瀬戸の下に人や自転車専用の海底トンネルがある、ということをつい最近知った。自動車専用トンネルである関門国道トンネルの下に設置された人道である。壇ノ浦にある地上出口からエレベーターで降り、およそ780mの海底トンネルを歩くと対岸の門司側に着き、再びエレベーターで地上に戻ることができる。
 今回乗り尽くしの旅のついでに歩いてみようと思った。そうすれば、かつての九州の玄関口、門司港駅から列車に乗ることもできる。一石二鳥である。

 夜明け前から降り続けていた雨がようやく止んだものの、壇ノ浦上空には厚い雲が垂れ込めている。海峡が一番狭まっているここには、本州と九州を結ぶ大動脈が三つ通っていて、そのうちの二つ、新幹線と国道2号線は海底トンネルなので、直接目にすることができるのは、中国自動車道と九州自動車道を結ぶ頭上の関門橋だけである。目指す人道の入口は、巨大な橋桁の下の建物の中にある。
 無骨なステンレス製の扉が閉じて、エレベーターが降りていく。海底に着くと、扉の前に殺風景なフロアが現れ、その先の説明板の横にトンネルの入口があった。細長い空間は、少しでも閉塞感を感じさせないよう、明るい照明が青と白に塗られたトンネル全体を照らしている。トンネルは下り坂になっていて、中間点で上り坂にかわるよう設計されていた。だから向こう側は見えない。
門司側から振り返る。人道もまた
国道2号線。         


 歩いてみて感じたのは、予想以上に多くの人たちが本州と九州を歩いて行き来していることだ。中にはウォーキングしているシニア世代や家族連れもいる。頭上には車が通り、更にその上には船が行き来している様子を想像しながら、歩いて九州に行けることを皆楽しんでいるようだった。
関門橋方面にのびる線路は、
門司港レトロ観光線。   


 九州側出口から門司港駅までは2キロ半ほどの距離がある。ここには門司港レトロ観光線というトロッコ列車が走っているのだが、12月から3月中旬の冬季区間はあいにく運休となっている。雪が降るわけでもなく、東京に比べてそれほど寒くもないのだが、やはり吹きっ晒しのトロッコでは観光客が来ないのだろう。この鉄道乗り尽くしは諦めて、早鞆の瀬戸沿いを歩くことにした。天気も次第に回復したので、煉瓦造りのレトロな港湾施設を楽しみながら門司港駅を目指す。

『そして今』 鹿児島本線を乗り尽くす

門司港駅5番線

 鹿児島本線の大半は40年前に乗り終えていたが、枝線注2となっている門司港・門司間5.5㎞が残っていた。名駅舎で有名な門司港駅は現在大規模改修中であり、工事現場の見学コースもあるのだが、ネオ・ルネサンス風の名建築はその片鱗すらも窺い知れない。九州乗り尽くしの旅が始まればまた見る機会もあるとばかりにあっさりと諦めて列車に飛び乗る。九州鉄道記念館もパスしたほどだから、必ずもう一度門司港を訪れなければならないだろう。
門司港駅3番線

 赤い瀟洒なJR九州の813系通勤電車は、途中駅小森江に停まるだけで、あっという間に門司に到着した。降りたホームには嬉しいことに、立ち食いソバ処があって、乗降客はほとんどいないのに、暖かそうな湯気が立っている。「かしわ蕎麦」と書かれていたので、小倉の駅弁「かしわめし」が美味しかったこと思い出し、特にお腹が空いていたわけでもないのに、頼んでしまった。甘辛く煮た鳥そぼろの美味しい立ち食いソバである。


『昔』 鉄道で海峡を渡る
 
 歩いて渡れる関門トンネルに対して、誰もがふつうに思い描くのは、昭和17年に完成した鉄道の方の関門トンネルだろう。九州寝台特急が大活躍していた頃は、ここを通過するのが一大イベントだった。というのも、下関駅と門司駅の二か所で電気機関車の付け替えが行われたからだ。駅に到着するとファンは一斉にホームの端まで走って、機関車の切り離しと連結を見守ったのだった。短時間に2回の切り離しで、合計3台もの電気機関車が見られるのはここだけだった。

『昔々』 1980年代の海峡…

FE-65の切り離し 下関駅
          1981/8/18

 前日夕方18時ちょうどに東京駅を出発した寝台特急「富士」は、一晩かけて1000㎞を走り抜けて、翌日9時09分に下関に到着する。関西発の寝台特急はまだ暗いうちに海峡を抜けてしまうのに対して、東京発の寝台特急では食堂車で朝食を済ませた後に下関に着くので、機関車の付け替えを楽しむには持って来いの時間なのである。
EF-30の切り離し  門司駅
           1981/8/18

 ここまで牽引してきた直流電気機関車EF-65が切り離され、関門海峡用に塩害対策を施した銀色に輝く交直両用電気機関車EF-30が連結される。ステンレス製の電気機関車はここだけでしか見ることのできないレアものだ。連結が終了すればすぐに発車して、海峡トンネルに進入していく。海峡は狭いので、ほどなく九州側の出口がやってくる。鹿児島本線と合流すれば、走りながら交直切り替えが行われる。
ED-76の連結  門司駅
         1981/8/18

 門司駅に到着すると、再び機関車は切り離されて、赤い交流機関車ED-76が近づいてくる。ここでもファンに見守られながら、連結作業が行われるのだ。
 門司発9時26分。こうして17分間のドラマを終えて、富士はふたたび終点宮崎を目指して走り出す。毎日毎日、富士以外にも東京からは、さくら・はやぶさ・みずほ・あさかぜがやって来て、このシーンを繰り返していた。下関や門司の駅が最も輝いていた時代である。

『そして再び今』 2015年冬、海峡を鉄道で渡る

 移動手段としての夜行寝台列車はもはや絶滅危惧種。夜行高速バスが関門海峡大橋を渡ることはあっても、寝台列車が関門トンネルを通過することはない。現在は一部を除き、日中1時間に3~4本の電車が下関と門司の一つ先、小倉との間を往復しているに過ぎない。長距離輸送はコンテナ貨物に限られ、人は新幹線と航空機に移ってしまった。
小倉行き415系電車  下関駅

 門司駅にやってきた下関行きの電車は、415系と呼ばれる旧国鉄時代に製造された古い車両だ。しばらく走ると一瞬蛍光灯が消えて、交流から直流へと切り替えられることがわかる。再び灯りが点くとすぐに地中へと潜って関門トンネルに入った。3.6㎞ほどのトンネルだからすぐに地上に戻って、下関駅に到着する。ほんの6〜7分の小旅行だ。

そして将来

 それにしても、これから先の関門海峡はどうなるのだろう。いつまで415系電車を使い続けるのだろうか。というのも、下関・門司間にはちょっと複雑な事情があるのだ。山陽本線は神戸を起点とし終点は門司だが、国鉄分割の折に下関・門司間はJR九州の管轄となった。青函トンネルがJR北海道、本四連絡橋がJR四国というように、3島の会社はすべて本州にぶら下がっている。直流電化された山陽本線のうち、わずか4㎞に満たない一駅区間だけがJR九州の管轄なのである。そして、厄介なことに交流電化されたJR九州にとって、ここだけが直流区間となっている。だから門司を出発してすぐの所で交直切り替えが行われるのだ。わずか一駅区間のためだけに、EF-30のような交直両用の車両が必要になる。いまだに古い国鉄車両を使わざるを得ないのは、高価な交直両用車両を作るのは無駄だと思っているからだろう。
 この先も交直両用車両は新造されないのではないか。JR東日本から中古を購入するか、それが無理なら答えは一つしかない。えちごトキめき鉄道の直江津・泊間のようにディーゼルカーを走らせることである。どちらも貨物にとっては大動脈であっても、旅客にとってはローカル線に過ぎないという現実。壇ノ浦で滅びた平家のように、ここでも「盛者必衰の理」を思い知るのである。
(2015/1/6乗車)

  注1)6000~7000年前まで、本州と九州は繋がっていたという。八島邦夫『内海の海釜地形に関する研究』(H5.11)
  注2)本州・九州連絡が主流だった頃は確かに門司・門司港間が枝線のようだったが、今はほとんどの列車が門司港始発となり、本来の本線に戻ったと言える。