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2022年7月8日金曜日

あと3路線、0.1㎞延びた富山港線の巻

 鉄軌道王国富山の本気度

旧富山駅北(停)付近
 富山地方鉄道富山港線は、JR西日本が手放したローカル線だった。鉄道紀行作家宮脇俊三が『時刻表二万キロ』の旅で最終列車を乗り逃し、再度訪問し直すような鄙びた線区だったのだが、地元財界と富山市が協力して第三セクターを設立、富山ライトレールと名称を改め、路線を開発途上の富山駅北口に新設し、車両もモダンなLRT(低床路面電車)にして大幅に運転本数を増やした優等生だ。

新幹線の下に新設された停留所
 それが2年前、最後の総仕上げとして0.1㎞ほど延長された。たかだか100㍍と思うなかれ。富山市を南北に分断する北陸新幹線富山駅の真下で、富山地方鉄道軌道線(市内電車)と結ばれたのである。富山ライトレールは、富山地方鉄道に発展吸収され、南北の相互乗り入れが始まった。つまり、南北の移動を活性化するという都市計画の一環として実現されたわけで、鉄道と言えば廃線ばかりが話題なる昨今、まさに快挙と言って良い。

 富山に続けとばかりに宇都宮でも来年LRTが開業する。広島でも広電がJR広島駅の構内に入るようだ。鉄道間のアクセス向上は、利用者にとって計り知れないほどの恩恵を与えてくれる。大都市での乗り換えによる時間と労力のロスは、ストレス以外の何物でもない。それが富山のような中規模の都市で、劇的に変わっているのは、驚きでもある。ヨーロッパ的な雰囲気の漂う富山市内電車の将来が楽しみだ。

洗練された富山駅
 富山駅を間に挟み、東西を数回乗車して行き来してみる。多くの人は富山で下車するが、乗り続ける人も決して少なくない。都市計画者のねらい通り、確実に南北の人流が生まれているのだろう。

 富山県は、鉄軌道王国を標榜している。鉄道王国とすれば良いところを敢えて鉄軌道という奇妙な言い回しにしたあたり、路面電車をはじめ観光資源としてのトロッコ電車など、軌道に期待を寄せる富山県の本気度が感じられる100㍍だった。これで残るのは九州の2路線、52.0㎞。新幹線でとんぼ返りする。

(2022/6/29乗車)

2019年9月10日火曜日

これも鉄道です

今更ながら鉄道とは

 「電車好きなんですね」とよく言われるが、「いいえ」と答えると不思議な顔をされる。世間の人にとって鉄道=電車なのだから仕方ないとは思いつつも、それをさらっと受け流せないのは、 通勤電車を始めとして、いわゆる都市近郊の電車に心ときめかない鉄道愛好家としてのささやかなこだわりなのだろう。
 実際乗って楽しいのは、機関車に牽引される客車列車であったり、電化されてない路線を走るディーゼルカーであったりする。楽しみを求め、更に日本の鉄道全線を乗り尽くそうとすると、こんな鉄道もあるのかと、驚くことも多々ある。

 身近なところから言えばモノレール。首都圏で暮らす人なら羽田空港を利用する際に乗る人も多いだろう。駅では「間もなく電車が参ります」とアナウンスするくらい、歴とした電車。二本の鉄路でなくても電気で走るから電車なのだという理屈なのだろうが、よくよく考えると、そもそもモノレールの走る道は鉄道なのかと突っ込みたくなる。あれはどう見てもコンクリート道だし。

 鉄道はrailway,railroadを訳したものだ。そもそもrailに鉄の意味など全くない。牧場の柵などの横棒であったり、カーテンレールであったり、長いガイドウェイのことである。だから線路の方が正確な翻訳に近いが、そこを敢えて鉄道とした先人の語感の鋭さには舌を巻く。馬車すらなく、ろくな道の無かった日本に、鉄製の道さえ敷けば、大量輸送機関が完成したのだから、その感動を名前に生かしたのだろう。舗装道路よりも先に鉄道が発達したために、ローカル線が今に残るわけだが、それはまた別の話。

 とにかく、鉄道は鉄の道である必要はない。線路さえあれば良いという話だ。

乗り尽くしの旅で出会った Railway達 
<トロリーバス>

トロリーバス時代の扇沢 2016年
最近めっきりみかけなくなったトロリーバス。見掛けは自動車そのものだが、架線から離れては動けないので鉄道だ。写真は立山黒部アルペンルートの関電トンネルのものだが、今年からはバッテリー駆動の電気自動車になり、扇沢で急速充電する時以外は、架線から解放された結果、鉄道ではなくなってしまった。つまり、鉄道愛好家からすれば廃線。私の乗車記録も6.1キロ減ってしまったことになる。
 従って現存するトロリーバスは、立山黒部貫光無軌条電車の3.7㎞のみとなった。どちらも本格的な鉄道を敷くには資金が掛かりすぎ、国立公園内では排気ガスを出したくないという事情で導入されたものだ。
1968年東京池袋・六又ロータリー
ポールを下げたトロリーバス  
 戦後には大都市でも、路面電車よりも建設資金が少なくて済むという理由から、トロリーバスが走っていたところがある。東京では明治通り沿いに、品川〜池袋〜亀戸間で運行されていた。たしか池袋を起点に運行系統が分かれていたと記憶している。池袋六又ロータリー付近に明治通りと山手貨物線の交叉する踏切があったため、電圧の違いから架線が張れず、ディーゼルエンジンで走行する区間があったのだ。渋谷方面のトロリーバスにはエンジンはなく、浅草方面のトロリーバスは踏切を通過する際ポールを下げ、渡りきったところでポールを架線に戻す作業を行っていた。運転台脇には、ディーゼルエンジンを収めた大きなドームがあった様に記憶している。


<ガイドウェイバス>

バスそのものだが…軌道の中を
走っている         
 名古屋ゆとりーとラインの車両は、まさにバスそのものである。専用軌道を走る際には、バスの車輪脇から小さなガイド車輪が現れて、ガイド用レールに沿って走る。だからハンドル操作はいらない。多くの鉄道ファンはこのシステムを見ても「萌えない」だろうが、鉄道の乗り尽くしを目指す者にとっては、実に物珍しく楽しい旅となる。なお、大曽根・小幡緑地間の都市部が専用軌道区間であり、その先の高蔵寺までの郊外区間はガイド車輪を引き込み、県道を普通の路線バスとして走る。
小さなガイド車輪が付いている

 マイカー王国の名古屋が生んだ、渋滞のない奇抜で画期的な鉄道といえる。正式名はガイドウェイバス志段味線というから、運行会社としてはバスだと考えているのだろうが、法律上は鉄道扱いという特殊なケースである。


<スカイレール>

 ところでロープウェイには rail がないので、鉄道とは言わず索道という。そのロープウェイに瓜二つの鉄道がある。広島のスカイレールサービスだ。

JR瀬野駅を降りると、急峻な崖に
何やら不思議なものが…    
 広島は周囲を山に囲まれた都会である。広島市の郊外、山陽本線の瀬野駅から山腹・山頂に掛けてお洒落な住宅街が広がっているが、そこにあるのがスカイレールである。
 瀬野といえば、瀬野八と呼ばれる山陽本線最大の難所・急勾配区間がある区間として有名だ。八本松までの区間を、現在は高性能な電車が軽快に行き来しているが、長大な貨物列車は今でも、補機を編成の後ろに付けて、プシュプル運転が行われている。それくらいの土地柄だから、山腹に広がる住宅地に行くのは容易ではない。
 広島にはアストラムラインと呼ばれる新交通システムもあるが、こちらは車輪がゴムタイヤだから急坂に強い。広島には登山できる鉄道が必要なのだ。

見た目はロープウェイのゴンドラ
そのもの みどり中央駅にて  
 さてこのスカイレール、瀬野駅に隣接したみどり口駅を出るといきなり急勾配を登り始める。途中に一駅を挟み、終点みどり中央駅まで1.3㎞。標高差160㍍で最大勾配は263‰もある。それだけに展望は抜群で、特にみどり中央駅から下る時がスリリングで面白い。眼下に住宅街と瀬野駅までモノレールのような軌道が続き、この鉄道の全貌が見渡せる。ちなみに車両そのものは自走式ではなく、駅間は軌道内に収められたワイヤーロープで駆動し、駅構内はリニアモーターだというから、ケーブルカーのような、モノレールのような、ロープウェイのような、時にリニアモーターカーのような、他に類を見ない新感覚の鉄道と言える。
眼下に広がる住宅街を囲い込む
ように瀬野駅まで下っていく 

(2019/9/10記)

2018年5月30日水曜日

高熱隧道を行く【序】黒部峡谷鉄道に乗って

発端

 黒部川の電源開発といえば、石原裕次郎・三船敏郎主演の映画『黒部の太陽』が有名だ。黒四ダム建設のために数多くの犠牲者を出したものの、不屈の努力によって北アルプスを掘り抜くという、戦後日本の高度経済成長を象徴する作品であり、そこには輝かしい将来に立ち向かう肯定的な人生観があった。
 一方で吉村昭の『高熱隧道』(新潮文庫)は、日中戦争が厳しさを増し太平洋に戦端が開かれつつあるきな臭い時代に、黒三ダム建設のために大自然と闘う男達の、健気だが無謀ともいえる執念が描かれる、そら恐ろしい記録文学である。どちらも、従事した人々がいてくれたからこそ、今日の我々の暮らしが支えられていることを教えてくれるのだが、吉村が描く世界は、否定的な要素を含めつつ、それだけでは済まされない複雑な問題を投げ掛ける。黒部の光と影。
 どうしても高熱隧道に行ってみたかった。

抽選

 現在、黒四ダムへは3つのルートがある。今更言うまでもないが、有名な立山黒部アルペンルートは、大町ルートと立山ルートを繋いだもので、長野県信濃大町から富山県富山市を結び、年間100万人の観光客が訪れる日本を代表する観光地である。三千㍍を越えるアルプスの絶景を堪能するために、二つのケーブルカー、二つのトロリーバス、高原バスやロープウェイなどを乗り継ぎ、そこに至るためにバスや電車まで含めると、総額で10,850円かかることでも有名だ。高額だと批判されることもあるけれど、スイスの登山鉄道の方がよほど高いと思うのだが、それはさておき、いつ訪れても人で溢れているので、乗り継ぎに時間が掛かることは覚悟した方がよい。
 さて、残りのもう一つがふつう観光客が立ち寄れない黒部ルートだ。ここに目指す高熱隧道がある。黒部川第三発電所・第四発電所のために造られたもので、関西電力関係者しか利用できないのだが、コネのない一般人でも方法が一つだけある。公募見学会に申し込むのである。
 見学会は、5月下旬から10月下旬にかけて34回実施され、黒四ダムと下流の欅平の2カ所から出発する。それぞれ定員30名だから、年間2000人余りの人が参加可能だ。自由に休暇の取れない会社勤めには厳しいかもしれない。ただし知る人ぞ知る(換言すれば、あまり知られていない)見学会なので、せっせと応募ハガキを出してみる価値はある。
 昨年は7月のとある回に当たった。あいにく集中豪雨で流れてしまったが。臥薪嘗胆の思いで、今年もハガキを出したところ、見事第2回に当選。梅雨の時期だが、トンネルに天気は無関係。心は舞い上がる。

集合

 当選通知と共に送られてきた〈見学会参加のしおり〉には、

   9時20分 黒部峡谷鉄道 欅平駅2階食堂集合

とある。その時間に間に合うためには、遅くとも富山地方鉄道・電鉄富山駅5時58分発普通宇奈月温泉行に乗り、黒部峡谷鉄道・宇奈月駅7時57分発の始発に乗り継ぐ必要があった。
 黒部峡谷鉄道に乗るのは、実に54年ぶり。その時は途中の鐘釣駅までの往復だった。まだ小学校の低学年だった私は、「命の保証はしません」という伝説のトロッコには、正直乗りたくないという不安な思いでいっぱいだったが、いったん乗ってしまえば、次々に現れる急流と巨大なダムに目を奪われ、今でも風景が頭に浮かぶほど夢中になった鉄道である。日本の鉄道にすべて乗り尽くそうという身にとっては、このアプローチも楽しみの一つだ。
 
電気機関車牽引であるからには、トロッコ列車と
呼ぶのがふさわしい。            

「トロッコ電車」の愛称で人気の高い黒部峡谷鉄道だが、鉄道愛好家としてはどうしてもこのネーミングに違和感を感じる。最近ではディーゼルカーのことも「このデンシャは○○行です」なんてアナウンスする鉄道員がいるくらいだから、電気で走るものを電車と呼ぶくらい我慢しなければいけないのかもしれない。だったらHVやEVも電車なんだなと突っ込みの一つでも入れたくなる。
 それはさておき、線路幅が762㎜しかないナローゲージのトロッコ列車は、遊園地の乗り物のような可愛らしさとは無縁の、実によい面構えの重厚な豆列車である。森林鉄道のような軽便鉄道とも異なり、英国のロムニー鉄道と同じ本格的なナローゲージといえる。電源開発という重厚長大なプロジェクトを支える鉄道だからである。今も定期の旅客列車が片道12本あるのに対し、関西電力専用列車は7本走っている。

 黒部ルート見学者には、公募見学委員会事務局の計らいによって、あらかじめリラックス車両が予約されている。客車は3等制で、壁も窓もないオープン型の普通客車、窓付きの特別客車、更に背もたれ付きのリラックス客車がある。トロッコというからには、オープン型がふさわしいだろうと、事前に連絡して、グレードダウンしておいた。ちなみに工事関係者は全員、リラックス客車に乗っていた。えっ?と一瞬思ったが、考えてみれば当たり前のことである。彼らは風景を楽しみに乗車しているわけではないのだから。
 指定された1号車に乗車したのは、私ひとりだった。ホームを歩く観光客は、皆もの珍しそうにニヤニヤ笑いながらオープン客車を眺め、後ろの方に繋がれたリラックス客車へと向かっていく。この季節、寒さに震えながら、雨が降ればずぶ濡れになる車両に、何を好き好んで乗るのだろうと思っているに違いない。少しばかり恥ずかしい。が、右も左もすべての風景独り占めだ!
 
ヨーロッパの古城を思わせる新柳河原発電所(黒一)
赤い綺麗な鉄橋が特徴の黒部川第二発電所、どちらに
も峡谷鉄道の引き込み線が繋がっている。             

 列車は定刻通り出発。最初のトンネルを抜けると緑深い谷に架かる真っ赤な新山彦橋をゆっくりと渡っていく。黒部の山は、思っていた以上に大きく険しい。このあたりは標高がそれほど高くなく樹木が鬱蒼と生い茂っているので、一見穏やかな風景に見えるが、見上げると覆い被さるように迫ってくる。橋を渡りきると、切り立った岩にくり抜かれたトンネルが待っている。
 宇奈月ダムや新柳河原発電所、うなづき湖の脇を列車は進む。対岸には宇奈月温泉へ温泉水を送る導水管が続いている。源泉は黒薙温泉なのだそうだ。人造湖が猿の生活圏を変えてしまわぬよう、猿専用の吊り橋まである。人間さま用と違って欄干がない。とても歩けるようなものには見えなかった。湖面はしだいに細くなって、黒部川らしい流れになってきた。水の色はコバルトブルーである。 
 宇奈月から25分、列車は黒部川からいったん離れ、支流の黒薙川に沿って進む。
 ところで黒部は渓谷ではなく峡谷である。それほど谷の両脇が切り立った壁となりV字谷を形作っているのだが、中でも黒薙川は最初に現れる峡谷といえる。この黒薙川に架かる橋が、ポスターでもお馴染みの後曳橋だ。高さ60㍍、長さ64㍍の水色の鉄橋が、一体どうやって掘りはじめたのかと思われるような足場のない岩壁に穿たれたトンネルへと続いている。
 黒薙川の上流には、秘境の一軒宿の黒薙温泉と黒薙発電所がある。発電所までは黒薙支線が続いているが、残念ながら旅客扱いはしていない。

絶壁に張り付いた黒薙駅(右)を出ると、列車は
すぐに後曳橋を渡り、トンネルに吸い込まれる。 

 トンネルを抜けると再び黒部川に戻り、川岸に大小様々な白く綺麗な岩が転がっているのが見える。川の水の色は、清流本来の色に加えて、太陽光が水中の岩に反射して混ざり合い、美しいコバルトブルーになるのだそうだ。
 宇奈月から黒部川右岸をずっと遡行してきたトロッコ列車の前方に、やがて寺の鐘のような巨大な山が二つ見えてくる。東鐘釣山と西鐘釣山である。渓流はその間を流れている。二つの山に穿たれたトンネルの間に鐘釣橋が架かり、ここからは左岸を遡って行く。辺り一帯は錦繍関と呼ばれ、紅葉の名所だという。高山に雪が降り、あたり一帯が紅葉に包まれる季節に再訪したいものだ。

鐘釣橋とスイッチバック式鐘釣駅

 鐘釣駅から先が未乗区間である。55年前の記憶があるのはここまでだ。新たに出来た新柳河原発電所は別にして、記憶に大きな違いがなかったのは驚きだった。思い出がごちゃ混ぜになっていたのは、二つの鐘釣山の間に後曳橋が架かっていると勘違いしていたこと。どちらも印象深い絶景ポイントなので、半世紀の間、トロッコ列車の象徴として記憶されていたのだろう。
 ただ一つ大きな変化があった。半世紀前は今ほど、雪除け・落石除けトンネルがなかったことだ。トンネルは、谷底側にH鋼で柱を建て上部を塞いだだけのもの。これがあるおかげで、冬期も落雪から線路を守り、架線や線路を取り外す区間を少なくすることが出来るようになったのだろう。それによって渓流の眺めが大きく損なわれるものではない。人の目が不思議なのは、隙間から眺める風景であっても、脳が上手に障害物を情報処理して、ちゃんと美しいと認識することだ。ただし、カメラはそうはいかず、いつまでも柱が写り込む。車窓からのシャッターチャンスは確実に難度が上がったと思う。

冬期歩道とその内部
黒部の冬は厳しく、深く積もる雪のために峡谷鉄道は
12月から4月までは運休となる。その間も電力関係者
は宇奈月・欅平間20.1㎞を通わなければならない。そ
のために用意されているのが冬期歩道。こんな狭い穴
蔵を6時間掛けて歩くのだという。        

 万年雪のある鐘釣から先、黒部川の川幅はますます狭まり、見上げれば首が痛くなるようなV字谷となる。第二発電所に送水するために造られた小屋平ダムの脇を通って、9時12分、終点欅平駅に着く。この先、峡谷は更に狭まり、うねるような急流となるため、もはや線路を敷くような場所はどこにもない。

黒部川第三発電所のすぐ上に造られた欅平駅。
土地が狭いため、二列車が縦に並ぶよう、長い
プラットフォームが設けられている。    
(2018/5/30乗車)



付録

54年前に乗車したトロッコ列車
平成6年まで使われていた。
(北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅前広場に展示)

黒部峡谷鉄道100周年記念レリーフ
新旧電気機関車・新柳河原発電所・後曳橋
(宇奈月駅改札口に展示)

高熱隧道を行く【破】センター・オブ・ジアース !?

準備

「リュックの中身が見えるよう、開いてそこに置き、その場に立って下さい」
と言って、やおら取り出したのは金属製の丸い輪っか、ハンディタイプの金属探知機である。なんだか物々しいぞ、と思う間もなく、あっという間にボディチェックにパスして、赤いシールと紙の帽子を手渡される。
「あなたは赤グループです。適当な所にお座り下さい」

 欅平駅二階のレストランに集まったのは、ほとんどが中高年で若者は数名しかいない。世の中、時間的富裕層は限られている。本人確認のために公的身分証明書を提示し、ボディーチェックを30名全員が終えるのに、さほど時間は要しなかった。
 物々しさとは裏腹に、人の良さそうな恰幅の良い男性が案内人である。彼による見学会の説明と注意が始まった。レストランの柱に飾ってあった欅平散策コースの美しい写真パネルが裏返される。現れたのは、これから訪れる黒部コースの解説図だ。随分と手回しが良い。見学コースのほぼすべてが地中であり、発電所関係者や作業員だけが行くところなので、見学者も紙の帽子を被ってヘルメット着用し、指示には従うよう念を押された。
「トンネルで一番怖いのは火災です。万が一発生した場合は、この防煙マスクを着用して下さい。使い方は、まずヘルメットを脱ぎ、このようにマスクを装着してベルトを締め、再びヘルメットを被って、身を低くして脱出します。乗車するトロッコやバスの座席の下に設置してあります」
 まるで離陸前の機内アナウンスのようだ。ところが大きく違っている点があった。
「このマスクで数分間呼吸が可能です。」
 はあ? 何㎞もあるトンネルなのに数分じゃ脱出できないじゃないかと不安が募る。ところが恰幅のよい案内人はニコニコと笑っている。
「もっとも今まで一度も使われたことがありません」
毎回こうやって脅かしているのだなと、見学者達も気づき、笑いが広がる。なかなか口の達者な人である。だんだんと期待が高まってくる。
 考えてみれば、これから見学する所は、社会インフラとして重要な発電所とその関連施設なのだ。主催者がテロを警戒するのも当然のことだった。

上昇

 トロッコ列車の終点から先は関西電力の専用軌道となる。トンネルを500㍍ほど進んだところで、列車はバックし始めた。竪坑エレベーターの乗り口はスイッチバックした所にあった。どうしてこんな厄介なことをするのか、その理由はトロッコだけを上に持ち上げるためだろう。スムーズに作業するためには、機関車が先頭でない方が良い。
下部駅は標高600㍍
宇奈月からの線路が続いている

 竪坑エレベーターと黒部上部専用鉄道(上部軌道)は、仙人谷ダム(黒部第三ダム)建設のために計画された。日中戦争が泥沼化した時代、化石燃料のいらない水力発電は、電力事情の逼迫する当時の日本に於いては国家要請であり、人跡未踏の山岳地帯にトンネルをぶち抜くという難工事が始まった。

 欅平から仙人谷までは距離にして6.1㎞、標高差が250㍍ある。欅平の黒部第三発電所にとっては都合の良い落差であっても、約41‰という勾配は作業用トロッコには厳しい。そこで竪坑で一気に200㍍昇り、残りの50㍍は6.1㎞かけてゆっくり登ろうと考えたのである。
上部駅ではゴミ積載トロッコ
がエレベータを待っていた 

 昭和12年に完成した竪坑エレベーターは、現在は二代目のものだ。箱の中もにも線路が設置され、トロッコがそのまま積み込めるようになっている。最大積載量は4.5トン、人なら36人まで乗れる大型のエレベーターだ。昇ったところに欅平上部駅がある。


展望

 上部駅に隣接する欅平竪穴展望台に立ち寄った。ここからは黒部の深い谷からは見ることの出来ない後立山連峰の山々を垣間見ることが出来る。あいにくの曇天だったが、ガスもかからず、緑の山の奥に雪を頂いたアルプスの山々が顔を覗かせている。
 穴蔵の中をぐるぐると巡ってきたので、一瞬方向感覚を失ったが、しばらくして自分が黒部川右岸にいて、東向き立っていることがわかってきた。見慣れた長野側の風景を逆に眺めているのだ。
一番奥の雪山、手前の緑の山
に隠れて分かりずらいが、左
から白馬鑓、やや高いのが天
狗の頭(クリックして拡大し
て下さい)        

 左(北)側から、白馬槍、天狗の頭。南に目を転ずると、鹿島槍と爺ヶ岳。いずれも後ろ姿である。黒部川は深い谷底でここからは見えないが、川底から700㍍ある絶壁、奥鐘山の大岸壁が見える。いまは国の天然記念物に指定されている景勝地も、仙人谷ダム建設時には悲劇が起こった場所だ。作業員宿舎が泡(ほう)雪崩と呼ばれる爆発的表層雪崩に吹き飛ばされ、一山越えて大岸壁に激突し、数十名の命が一瞬に奪われた。
中央下に奥鐘山の大岸壁。奥の雪
山は、左が鹿島槍、右が爺ヶ岳。

*竪穴展望台と更にその上のパノラマ展望台へは、富山県や地元市町村・関西電力などがタイアップして実施しているツアーで行くことが可能。6月から11月までの金〜月、宇奈月から往復する。料金6,000円

      http://kurobe-panorama.jp/ 

隧道

車両の床面は高いので、勢いを
つけ過ぎると頭をぶつける  

 展望台から戻って、いよいよ今回の旅のお目当て、黒部上部軌道に乗車する。黒部峡谷鉄道とは違って、こちらのトロッコは蓄電池駆動の機関車が牽引するミニ鉄道だ。電気ならいくらでも利用出来る黒部なのに、電気機関車を使わないのにはもちろんわけがある。温泉地帯を通過するために、硫黄で架線が腐食して使い物にならないからである。高熱のため、ディーゼル機関車も燃料が発火する危険性があった。
隧道は狭く、素掘り区間が多い
高熱区間はこの先約5㎞の地点
欅平上部駅から仙人谷駅までの間6.1㎞をおよそ30分掛けてゆっくりと進む。その間、すべてがトンネルであり、しかも車内は狭い。説明会で渡された赤いシールは、1号車に乗車する10名であることを示している。身を屈めないと車内に入ることも出来ず、ヘルメットを被った訳がよく分かる。立ち上がることも、身動きすることも出来ない30分だ。
 案内人が隧道建設の苦労を語ってくれる。ほぼ吉村昭の『高熱隧道』に沿った話だが、現場で聞くだけに、グッとこみ上げてくるものがある。ここで亡くなった人がたくさんいるのだ。

 軌道トンネルは三つの工区に分かれて建設が始まった。事件は仙人谷に近い第1工区で起こった。掘り進めるとすぐに、硫黄の匂いと岩肌からあつい湯気が湧き出したのである。担当の建設会社は工事放棄し、トンネル工事に定評のある第2工区の佐藤工業が引き継いだ。この時点で岩盤の温度は65度に達していた。火薬取締法によるダイナマイトの使用制限温度は40度、すでに限界を超えていた。
 黒部の冷たい水を掛けながら掘り進む。水を掛けても掛けてもたちどころに熱湯と化す中、遂に岩盤の表面温度は160度に達し、ダイナマイトの自然発火による暴発で数多くの人が命を落とした。それにしても、どうしてこうまでして掘り進むのか。ぜひ、一読をお勧めする。私がここを訪れたいと思ったのは、先にも述べたように、この小説に出会ったからだ。外が見えずとも、身動きできずとも、この30分が苦痛であるはずはなかった。
 乗車して20分、案内人の『高熱隧道』話は続く。

硫黄のにおいが
たちこめる
「そろそろかな」
と言って、案内人がドアを開ける。あっという間に眼鏡が曇った。カメラのレンズを拭きたいが、身動きできない。硫黄の匂いが立ちこめる。素掘りのトンネルはうっすらと黄色い。犠牲者のことが頭をよぎる。安らかに…と心の中で祈る。
「今でもこの付近は40度以上あります。今日はもう少し高いようですね。」
ドアを開けるまで熱気に気付かなかったのは、この車両が耐熱構造になっているからだった。
「今はこのトンネルに並行して導水管が走っているために、トンネル自体の温度も下がっています」
 黒部の水は一年を通してとても冷たい。この水のおかげで電気も生まれ、トンネルも冷やされている。

「いやあ、今日は良い話を聞きました。前回訪れた際は、案内の方があまりおはなしにならなかったので…」
と、一人の中年男性がいたく感心している。どうやら高熱隧道の話は知らないまま見学していたようである。釈然としないが、山が見たくて参加している人がほとんどのようだ。

ダム
上部軌道は定期列車が
毎日4往復運行


 高熱隧道区間はおよそ500㍍。そこを過ぎると、沿線唯一の地上区間である先人谷駅に到着し、休憩する。ここは黒部川に架かる鉄橋に頑丈な屋根を設けた駅だ。この屋根のおかげで、どんなに雪深くとも上部軌道は運行可能という。
1940年竣工の仙人谷
ダム(日本の近代土木
遺産に指定)    

 駅の目の前には、黒部峡谷に抱かれた仙人谷ダムが圧倒的な存在感で迫ってくる。残雪を頂いたガンドウ尾根の真下には雪渓があり、三段に分かれた滝となって水が流れ落ち、黒部川と合流している。この豊富な水を利用したくて、多くの犠牲を払いながらも、ダムを造りたかったのだなとしみじみ思う。

 ダムと反対側は、深くて白くなめらかな谷底と清流である。水の多くは導水管を通って欅平の発電所に送られているから水量は少ないが、それだけに川底が透けて、コバルトブルーが際立っている。ダムの脇の窪みからは、今もわずかながら湯煙が上がっていた。

 この上部軌道には、今も一般人が乗ることは出来ない。したがって黒部に魅せられた登山家達は、黒部川流域に造られた水平歩道を利用してここまでやってくる。軌道に乗れば6.1㎞の道のりも、絶壁に造られた幅数十センチの歩道は13.6㎞になるという。関電関係者を除けば、上級登山者だけが見ることの出来る風景を、この見学会は見させてくれるのだった。
(2018/5/30乗車)

高熱隧道を行く【急】地上に戻る

学習

 高熱隧道を体験するという私自身の目的は果たしたものの、見学会主催者の本来の目的はここからだ。仙人谷駅での見学を終えて再び上部軌道に戻り、数百㍍乗車して着いた所が、黒部川第四発電所である。当ブログの趣旨とは異なるが、発電事業の理解のため、かくまでも手厚く体験会を用意してくれていることに敬意を表して、レポートを続けることにする。

 黒部ダムで取水された水は、後立山連峰に掘られた約10㎞の導水管によって赤岩岳の地中、黒四発電所との標高差471.5㍍地点にやってくる。ここから傾斜角47度・延長641㍍の水圧鉄管内を水が落下し、4台の発電機を回して、33万5千㌗の電力を生み出している。黒部水系全体では12の発電所によって90万㌗というから、いかに黒四発電所の規模が大きいかが分かる。しかも施設すべてが、地下にあるから驚きである。中部山岳国立公園の自然景観を損ねることなく、社会インフラとして日本経済を支えていることは、いくら強調してもし過ぎることはないだろう。だからこそ、関西電力もわざわざ体験会を実施しているのだ。
幅22㍍、高さ33㍍、奥行き117㍍
の発電所建屋        

 わざわざというのには理由がある。発電の制御はすべて遠隔操作であり、メンテナンスを除き、本来ここは無人の施設なのだそうだ。私のような暇人、しかも関電ユーザーでもない一個人相手に、決して安くないコストを掛けて案内してくれる…有り難いことである。このくらいのレポートを書かせて貰わないと罰が当たるというものだ。

 無人の発電所内は、整然として美しく巨大だった。4基の発電機の上には無駄とも思えるような天井の高い空間がある。発電機は大きな水車と発電装置から成り立っていおり、それらはすべて床下にあって、見えているのはほんの一部分に過ぎないのだという。この装置をつり上げるには大きな空間が必要であり、そのためのガントリークレーンが前後の壁に2台設置されていた。
部屋の上に発電機
下には水車がある

 発電所建屋を見た後、発電機の実態を体験するため、数階分階段を下る。分厚いガラス越しに発電機が見える。扉を開けると、回転する円筒形のシャフトから凄まじい轟音が聞こえてきた。一人一人、近くまで見学して良いという。こわごわと入室し、見上げると、発電コアが高速回転している。足下からは激しく水のぶつかる音がする。耳栓なしではあっという間に難聴になってしまう騒音レベルだ。

 かくも大がかりな発電施設だが、原発は1基で100万㌗というから、それに比べるといかにも効率の悪い感じもする。今では水力発電は日本全体でわずか9%を占めるに過ぎないのだ。しかし、今回学んだことで一番印象に残ったのは、この水力発電がクリーンエネルギーであるだけでなく、需要の増減に柔軟に対応できるシステムだということだ。急激な電力需要増加に対して、停止状態からフル発電まで、わずか3時間で可能なのだという。必要に応じて稼働できるという、実に資源を無駄にしない、まさにエコの原点のような水力発電は、これからも活躍が期待されることだろう。
 ということで、私を見学会に招待した関電の狙いは見事に達成できたのである。


歓声

左:インクラインとクレーン 右:傾斜角34度の軌道

 発電所を後に、再び地中の移動が開始される。発電所のある標高869㍍地点から1325㍍地点までをインクラインで一気に登る。この聞き慣れないインクラインとは、資材や作業員を運搬するための「ケーブルカー」もどきのことだ。昭和34年に造られたもので、黒部第四発電所の巨大施設はすべて、長野県側から関電トンネルと黒部トンネルを通り、このインクラインに載せられて下に降ろしたのだそうだ。だからこの昇降装置そのものも巨大だ。
 ふつうケーブルカーは傾斜にあわせて階段状に座席があるけれど、写真を見ても分かるように、軌道自体は34度の急斜面なのに、車体は水平になっている。直角三角形を逆さにした台車の上に客室が載っていると考えればわかりやすい。資材運搬の時は上のクレーンで客車を取り外せばよい。
 案内人はうまいことを言う。
「お客さんを乗せるのがケーブルカー、レールの上を走るので鉄道です。というわけで国土交通省の管轄。一方インクラインは、資材と作業員を運ぶ工事現場にあります。だからレールがあっても鉄道ではなく、厚生労働省の管轄」
 つまり厳密にはこのブログの守備範囲ではないということになるが、それは法律のはなしであって、これは紛れもないケーブルカーである。815㍍の距離を20分掛けて登っていく。時速3キロにも満たない超鈍足で進むうちに、中間地点で擦れ違った車両には、この日もう一組の黒部ルート見学会・黒部ダム集合グループが乗車していた。ゆっくりなので一人一人の顔まで見える。車内で一斉に歓声が上がり、あちらでも懸命に手を振ってくれている。見知らぬ同士とはいえ、こんな地底の世界で、希有な体験をしているという共通の思いが、心を揺すぶったのだろう。
 
帰還
黒部トンネルバスダイヤ
12:10発45着公募と記されている

 黒部ルート見学会もいよいよ大詰めを迎える。残るは黒部トンネル10.3㎞をバスで移動するだけである。途中、タル沢横坑で休憩があり外の景色が見られるという。ここは資材運搬のために掘られたトンネルのため、アルペンルートのような大量輸送が可能な施設はない。擦れ違えるところも限られているので、鉄道のようなダイアグラムが掲示されていた。鉄道の旅は終わったが、余韻を楽しませてもらっているかのようだ。ダンプカー1台が通れるような素掘りのトンネルが延々と続く。排ガスのための換気装置もなく、所々に掘られた横坑を利用しての自然換気だそうだ。
右奥の雪山が裏剱

 その横坑の一つに立ち寄る。バスを降りて50㍍ほど歩くと抗口に出る。柵越しに体を捻ると黒部の峡谷が見える。谷は深く川の流れは見えないが、十字峡のあたりだという。重なり合った山の一番奥に見える残雪の山が名峰、剱岳だ。こちらからの姿を裏剱と呼ぶのだそうだ。だいぶガスがかかってきた。雨が近いのだろう。
 再びバスに乗れば、ツアーも終わりに近づく。立山黒部アルペンルートの関電トンネルの下を潜り(と言っても見えるわけはないが)、大きくカーブを切ると右側から合流するトンネルがあった。天井に架線が張られているので、扇沢からのトロリーバスのものだと分かる。黒部ダムに到着したのだった。

 ヘルメットを返却してツアーは終了となった。関電の事務所脇の通路を出れば、そこは人でごった返すアルペンルートの真っ只中。ドアの外は黒部ダムである。雨脚が強く、立山連峰の山々が次第に雲に隠れていくような悪天候になっていた。
(2018/5/30)

2015年8月5日水曜日

福井の鉄道 これぞ日本の Stadtbahn だ!

 無節操で影響を受けやすい筆者は、この夏のドイツ旅行以来、すっかりあの国の鉄道にかぶれてしまった。なかでもドイツ語で Stadtbahn と呼ばれる LRT は、路面電車と近郊鉄道線を融合させた、経済的にも技術的にも優れたもので、その上地下鉄までもカバーする変幻自在の鉄道だった。
 そのドイツ旅行の2週間前に訪れた福井鉄道も、近年フクラムの愛称で親しまれる新型車両を51年ぶりに導入して話題となっている。地下鉄区間こそないものの、福井鉄道は Stadtbahn として見た場合、きわめて多くの共通点を持っている。富山の LRT とはひと味もふた味も違う、福井鉄道の魅力を紹介する。

越前武生駅 沿線随一の本格的
な駅舎とホームを備えている。
右は現在主力の一つ770形。左は
かつての花形急行用200形。  

 福井鉄道福武線は、越前武生と福井市を結ぶ全長21.4㎞の鉄道である。武生といえばかつて越前国の国府があった歴史ある町で、『源氏物語』の作者紫式部も受領の父親に連れられてここで少女時代を過ごしたことでも有名な土地だ。昭和20年に福武電気鉄道と鯖浦電気鉄道が合併して福井鉄道となったことから、本社は現在でも武生にある。つまり、武生から福井市に進出した鉄道なのである。一方の福井は一乗谷の朝倉氏が滅亡した後、柴田勝家が領有して以来の土地柄であり、幕末に俊才の誉れ高い松平春嶽を輩出したとはいえ、歴史では武生の後塵を拝するところと言える。
福井駅前から市役所前に進入する
急行越前武生行。この後一旦通り
過ぎてからスイッチバックして、
こちら側の線路に転線し、乗客を
乗せてから、左手前方に向かって
進んでいく。         

 それが影響しているわけでもないだろうが、面白いことに越前武生から赤十字前・木田四ツ辻間にある鉄軌道分界点までの18.1㎞は鉄道区間、その先の福井市街地区間3.3㎞は軌道区間つまり路面電車扱いとなっている。ここがまさに日本の Stadtbahn というべきところなのである。都市間を結ぶ近郊型の鉄道と市街地に適した路面電車との融合である。
 路面電車区間は市役所前で福井駅前方面と田原町方面に分岐するが、その分岐の仕方が若奇妙なのだ。常識的に考えると、福井駅前から武生を結び、途中から田原町方面に支線で分岐させるほうが運行しやすい筈だ。ところがここでは、そうなっていない。福井駅前を出た電車は市役所前で一旦停車し、一旦通り過ぎてスイッチバックしてから武生に向かうのである。いったいどうしてこんな面倒な配線にしたのだろうか。それは市役所前が福井駅前以上に重要であり、スイッチバックさせても経由する必要があったからだろう。電停レベルのホームでありながら、地下道で通じている位の主要駅である。
FUKURAMはFUKUIとTRAMの
合成語。福井駅前にて。左後方
に改築中のJR福井駅が見える。
将来はここまで延長される。 

 それに対して福井駅前は簡素なものだ。道幅が狭いこともあって、市役所前で分岐するとすぐに単線になってしまう。現在、JR福井駅が大改修中で、その完成にあわせて福井駅前も乗り換えやすいように移動することになっている。おそらく新駅には2本の電車が停まれるようになるだろうから、田原町でのえちぜん鉄道への乗り入れ工事が進んでいることも考え合わせると、今後はもっと賑やかな駅前となることだろう。そしてそこで大活躍するのはFUKURAMことF1000形超低床車であろう。現在2編成が活躍している。新しい車両は街並みにすっかり溶け込んでいる。3両編成で、全ての車両に台車が付いているので、間に吊られる形の付随車両を挟めばもっと定員が増えるはずだが、そこまでの需要はなかったのだろう。

普通の電車が道路との併用軌道を走
る。これが人気の秘密。     
市役所前にて。

 ところで福井鉄道が多くの人を惹きつけたのは、FUKURAM 同様に編成の長い本格的な電車が、51年も前から路面電車区間を走っていたからである。
 昭和35年に福武線の急行車両として登場した200形は、2両編成ながら本格的な電車列車であり、当時流行だった湘南電車と同じ風貌を身につけた格好良い電車であるばかりでなく、車輪に直接モーターを取り付けるのではなく、振動が伝わりにくいカルダン式という新しい技術で造られた電車であったことも人気の秘訣だった。しかも、小田急のロマンスカーにも採用された連接式車体といって、車体と車体の連結部に台車を配するという最先端の電車だった。この方式は、車体と車体が一体化しているので、振動が抑えられて乗り心地がよいという特徴がある。
連接車両の台車。コイルに挟まれ
たオイルダンパが揺れを更に低減
させる。地方私鉄とは思えない最
先端の技術が導入されていた。 

 鉄道部門は赤字を抱えて苦戦している福井鉄道だが、常に時代の最先端を導入するという点において、実に腹の据わった鉄道会社だということができよう。51年も走り続けて、もはや引退目前の200形だ。今回、福井に来てこの電車の走る姿に出会えたのは誠に幸福だった。
 現在数多く在籍する路面電車型の2両連結車両は、名古屋鉄道からのお下がりで、廃止となった岐阜市内線から回ってきたものだ。出入り口部分にステップがついた770形は、200形と同じように連接車である。製造後20年程度の比較的新しく状態の良い車両といえる。
 福井鉄道に限らず、豪雪地帯のこの地方では、単線区間から複線区間になる所、特に交換施設のある駅の両側の分岐器には、スノーシェッドが設置されている。分岐器は雪に弱いからだが、出来るだけ除雪に人の手を掛けたくないという、地方鉄道固有の事情もあるのだろう。JR北海道の閑散地域ではよく見掛けるが、本州では珍しいのではないだろうか。
 LRTが普及する北陸地方にあっても、その先見性という点で異彩を放つ福井鉄道。営業成績が良くない中で、奮闘する姿を見ていると、ぜひ応援したくなる。
(2015/8/5 乗車)

 【注】ドイツから帰国後にまとめたため、その経験が反映された内容となっている。


 

2015年8月4日火曜日

福井の鉄道 恐竜王国篇

Kingdom of the Dinosaurs FUKUI
えちぜん鉄道勝山行き車窓左手
5㎞遠方に、巨大な卵の形をし
た福井県立恐竜博物館がある。

 恐竜に特別な興味はないけれど、福井の鉄道には前から乗ってみたかった。そこで乗りに行ってみたら、行く先々で恐竜が待っていた。なんと福井駅のベンチには恐竜が座っていたりする。昔映画で観た(こちらは怪獣だが)モスラの卵のような巨大な建造物まである。福井の情熱は、同地が日本最大の恐竜化石の産出量を誇るところからくるらしい。日本の恐竜化石の8割は福井県で見つかるという。フクイサウルスという草食恐竜や映画『ジュラシックパーク』にも登場する肉食恐竜のラプトルの仲間、フクイラプトルなどと命名された怖ろしい恐竜も発見された。そんな王国の鉄道を紹介する。

えちぜん鉄道勝山永平寺線

 古くからの鉄道愛好家であれば京福電鉄越前本線と言った方がなじみがあるかもしれない。京福電鉄の名前は、今では京都嵐山や比叡山のケーブルカーなどでしか見ることができないが、出町柳と鞍馬や八瀬を結ぶ叡山電鉄もかつては京福電鉄だった。そもそも京都の鉄道会社と思われがちだが、その名前の通り京都と福井に鉄道を持つ会社だったのである。それが今では京都の片隅(いずれも名観光地だが)で細々と中小私鉄として営んでいるのは、この会社が悲劇に見舞われているからである。なかでも今回訪れた勝山永平寺線(当時の越前本線)で2000年と2001年のわずか半年間に二度起こった正面衝突事故では、国土交通省から運行停止命令を受けるという鉄道会社にとっては屈辱的な結果となってしまった。その結果、経営の危機となった京福電鉄は福井地区と叡山地区の路線を手放すことにしたのである。
 地域の足を確保するために、福井県では第三セクター方式の鉄道会社として存続させることを決め、福井市や勝山市が出資するえちぜん鉄道が2003年に開業した。ということで、えちぜん鉄道は古くて新しい鉄道である。どことなく都会的な外観の電車が、地域の足を支えている。京福電鉄時代には叶えられなかった車両の更新や保安施設の整備に相当資金が必要だったのだろう、運賃は決して安くはない。福井・勝山間のわずか27.8㌔で770円という運賃はJRの約1.5倍。このあとで乗車した福井・三国港間も同額だったため、この日の合計は3,080円の支出となった。
 お金のことなど無粋な話はすべきではないが、もしも今日が土日だったらフリー切符がなんと900円で買えたのである。これはいくら何でも安い! また切符売り場には夏休み親子企画として、大人一人と子ども一人のフリー切符が1,200円で販売されていた。「親子フリー切符は大人だけでも使えますか」と尋ねると、気の毒そうな顔をされて「使えません」という返答が返ってきた。それはそうだろう、乗りたくてやって来た客に割り引く必要はないし、二度と乗らない客に過剰なサービスは不要だ。ということで、図らずも今日の私は地域振興のために役立った筈である。
 電車は小高い山に囲まれた九頭竜川沿いの田園地帯をトコトコと進んでいく。途中永平寺口ではバスを利用して永平寺へ向かう人がかなり下車した。もともとはここから永平寺まで線路が敷かれていたが、これも衝突事故の後に廃線となってしまった。
 
 終点の勝山駅は国の登録有形文化財に指定されている由緒正しき駅である。そもそもこの鉄道が施設されたのは1914年のことで、当時は越前電気鉄道と呼ばれた。この時に造られた駅舎が今でも利用されている。勝山市の鉄道玄関口として大切に保存・修復がされていて、さながら生きた博物館のようだ。おしゃれなコーヒーショップも営業されていて、ここから恐竜博物館へ向かう人達の休み処にもなっているのだろう。
 勝山駅前
さすがに当時の車両は残っていないが、開業6年後に導入された電気機関車テキ6形が、構内の片隅に大切に保存されている。まるでちっぽけな豆電車のような形だが、この電気機関車の導入によって大幅に輸送力が向上したのだという。貨物輸送専用の電気機関車として活躍し、昭和55年までの60年間、地域の織物製品や木材を運び続けたのだそうだ。えちぜん鉄道から勝山市に寄贈されたもので、産業遺産として大切に保管されているのである。

越美北線(九頭竜湖線)


 一旦福井に戻って、次はJR線だ。岐阜県の美濃太田から北濃までを結ぶ国鉄越美南線が第3セクター化し長良川鉄道となった今でも、越美北線は旧国鉄を引き継いだJR西日本のローカル線として生き残っている。並行して走るえちぜん鉄道とは異なり、ここで使用されている車両は、通常よりも車長が2割ほど短いローカル線専用のワンマンディーゼルカーだ。このキハ120系はJR西日本の標準的なローカル車両である。

スタフは鉄道の通行手形。
信号機が発達した現在では
とても珍しい存在である。
改装された立派な福井駅の片隅の切り欠きホームから出発する。全線単線非電化。事実上越美南線がなくなり、北線だけとなってしまった越美線は九頭竜湖線という愛称で地域の足としての役割を担っている。福井平野をしばらく走り、山が両側から迫ってくると戦国の武将朝倉氏で有名な一乗谷に着く。国の特別史跡となっている一乗谷朝倉氏遺跡までは駅から1㎞半ほどだが、無人駅に史跡の地図が掲示してあるだけで、ここから歩く観光客は少なそうだ。里山の谷間をしばらく進めば、越前大野である。ここは列車交換できる最後の駅だ。
 この先九頭竜湖までの間に、信号機は一切なくなる。その代わりとして通行手形とも言えるスタフが手渡され、終点までは7駅あるものの、スタフを持つ1車両だけが往復できるという1日5往復の閑散路線となる。柿ヶ島の手前で九頭竜川を渡り、水力発電所があるような山の深い谷川となり、その先越美北線はトンネルが連続して、それほど景観を楽しめるわけではない。将来、長良鉄道越美南線と結ばれることは決してないだろうが、仮に結ばれたにしろ、あたりの深い山の様子から見て、トンネルだらけの路線となったはずである。いくら自分が鉄道好きだからといって、夏休み期間の旅行シーズンにも関わらず、これほどまでに乗客がまばらなこの路線を更に延長せよなどとは決して言えない。
終点の九頭竜湖駅からダムまでは直線距離でも3㎞ほどあって、残念ながら駅前から湖を眺めることは出来なかった。そのかわりここでも出迎えてくれるのは恐竜たちだった。マイカーで訪れる観光客の人々が、電動で動く恐竜たちを見て興じていた。


えちぜん鉄道三国芦原線

 越美北線を往復し、福井駅に戻ってくる頃には午後の日差しもだいぶ傾いて来た。次に目指すは三国港である。三国と言えばカニのブランド越前ガニのメッカだ。一匹一匹ごとに黄色いタグがつけられた越前ガニだが、なかでも三国港で水揚げされたものは皇室にも献上される最高峰の高級ガニで、三国出身の知人に言わせると、地元民も口にすることがないのだそうだ。地元民が口にするのは雌のセイコガニだそうだが、近年こちらの方も人気が急上昇している。いずれにせよ冬の味覚だから今回は食べられないものの、それはかえって良かったかもしれない。なまじシーズンにやって来たとしても、高級過ぎて鉄道のひとり旅のついでに食べるような御品ではない。
 ただしせっかく夕暮れ時に三国港まで行こうというのだから、早めの夕食に海鮮丼のようなものが食べたいなあと思いつつ、三国芦原線に乗車する。午前中に乗車した勝山永平寺線と同じデザインだが、こちらは利用者が多いのだろう、2両編成の電車である。福井口で勝山永平寺線と分かれると、えちぜん鉄道の車両基地を左に眺めつつ北陸線をまたぎ、福井鉄道との乗り換え駅田原町に着く。帰りはここから福井鉄道に乗り換えて福井駅に行く予定である。
 芦原温泉の最寄り駅、あわら湯のまち駅までは広い田園地帯をほぼ真っ直ぐに北上する。駅周辺にはホテルや旅館がたくさん集まっていて、美人の駅員さんが改札口でにこやかに迎えるこの鉄道の主要駅なのだが、芦原温泉駅を名乗らないのは、ここから4㌔も離れた所にJRの同名駅があるからだ。ただしJRで訪れる人はバスに乗り換えてここまでやって来なければならない。あくまでも本家はこちらである。
 さて、ここから終点の三国港は近い。進路を90度変え真西に向かい、九頭竜川の河口で日本海にぶつかる所に著名な港がある。私が訪れた時は夕方ということもあって、市場に人けはなく、ひっそりと静まりかえっていた。こうして、えちぜん鉄道全線を乗り終えることができたわけだが、祝杯をあげるべく下調べしていた店は臨時休業だった。夏の期間だけは昼ばかりでなく夕方も開店しているとネットには記されていたのに、残念である。これだけ閑散としているのだから、やはり臨時休業にしてしまったのだろう。少し歩き回って別の店を見つけ、そこで祝杯をあげた。

再び福井駅に戻って

福井駅に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。現在駅前は改良工事中で、一足先に出来上がっているのが恐竜コーナーである。暗闇の中でライトアップされた恐竜が、鳴き声をあげながら口を開け、首を動かしている。道行く人達が興味深げに集まってくる。福井は本気で恐竜王国になろうとしているようだ。
(2015/8/4乗車)