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2019年9月10日火曜日

これも鉄道です

今更ながら鉄道とは

 「電車好きなんですね」とよく言われるが、「いいえ」と答えると不思議な顔をされる。世間の人にとって鉄道=電車なのだから仕方ないとは思いつつも、それをさらっと受け流せないのは、 通勤電車を始めとして、いわゆる都市近郊の電車に心ときめかない鉄道愛好家としてのささやかなこだわりなのだろう。
 実際乗って楽しいのは、機関車に牽引される客車列車であったり、電化されてない路線を走るディーゼルカーであったりする。楽しみを求め、更に日本の鉄道全線を乗り尽くそうとすると、こんな鉄道もあるのかと、驚くことも多々ある。

 身近なところから言えばモノレール。首都圏で暮らす人なら羽田空港を利用する際に乗る人も多いだろう。駅では「間もなく電車が参ります」とアナウンスするくらい、歴とした電車。二本の鉄路でなくても電気で走るから電車なのだという理屈なのだろうが、よくよく考えると、そもそもモノレールの走る道は鉄道なのかと突っ込みたくなる。あれはどう見てもコンクリート道だし。

 鉄道はrailway,railroadを訳したものだ。そもそもrailに鉄の意味など全くない。牧場の柵などの横棒であったり、カーテンレールであったり、長いガイドウェイのことである。だから線路の方が正確な翻訳に近いが、そこを敢えて鉄道とした先人の語感の鋭さには舌を巻く。馬車すらなく、ろくな道の無かった日本に、鉄製の道さえ敷けば、大量輸送機関が完成したのだから、その感動を名前に生かしたのだろう。舗装道路よりも先に鉄道が発達したために、ローカル線が今に残るわけだが、それはまた別の話。

 とにかく、鉄道は鉄の道である必要はない。線路さえあれば良いという話だ。

乗り尽くしの旅で出会った Railway達 
<トロリーバス>

トロリーバス時代の扇沢 2016年
最近めっきりみかけなくなったトロリーバス。見掛けは自動車そのものだが、架線から離れては動けないので鉄道だ。写真は立山黒部アルペンルートの関電トンネルのものだが、今年からはバッテリー駆動の電気自動車になり、扇沢で急速充電する時以外は、架線から解放された結果、鉄道ではなくなってしまった。つまり、鉄道愛好家からすれば廃線。私の乗車記録も6.1キロ減ってしまったことになる。
 従って現存するトロリーバスは、立山黒部貫光無軌条電車の3.7㎞のみとなった。どちらも本格的な鉄道を敷くには資金が掛かりすぎ、国立公園内では排気ガスを出したくないという事情で導入されたものだ。
1968年東京池袋・六又ロータリー
ポールを下げたトロリーバス  
 戦後には大都市でも、路面電車よりも建設資金が少なくて済むという理由から、トロリーバスが走っていたところがある。東京では明治通り沿いに、品川〜池袋〜亀戸間で運行されていた。たしか池袋を起点に運行系統が分かれていたと記憶している。池袋六又ロータリー付近に明治通りと山手貨物線の交叉する踏切があったため、電圧の違いから架線が張れず、ディーゼルエンジンで走行する区間があったのだ。渋谷方面のトロリーバスにはエンジンはなく、浅草方面のトロリーバスは踏切を通過する際ポールを下げ、渡りきったところでポールを架線に戻す作業を行っていた。運転台脇には、ディーゼルエンジンを収めた大きなドームがあった様に記憶している。


<ガイドウェイバス>

バスそのものだが…軌道の中を
走っている         
 名古屋ゆとりーとラインの車両は、まさにバスそのものである。専用軌道を走る際には、バスの車輪脇から小さなガイド車輪が現れて、ガイド用レールに沿って走る。だからハンドル操作はいらない。多くの鉄道ファンはこのシステムを見ても「萌えない」だろうが、鉄道の乗り尽くしを目指す者にとっては、実に物珍しく楽しい旅となる。なお、大曽根・小幡緑地間の都市部が専用軌道区間であり、その先の高蔵寺までの郊外区間はガイド車輪を引き込み、県道を普通の路線バスとして走る。
小さなガイド車輪が付いている

 マイカー王国の名古屋が生んだ、渋滞のない奇抜で画期的な鉄道といえる。正式名はガイドウェイバス志段味線というから、運行会社としてはバスだと考えているのだろうが、法律上は鉄道扱いという特殊なケースである。


<スカイレール>

 ところでロープウェイには rail がないので、鉄道とは言わず索道という。そのロープウェイに瓜二つの鉄道がある。広島のスカイレールサービスだ。

JR瀬野駅を降りると、急峻な崖に
何やら不思議なものが…    
 広島は周囲を山に囲まれた都会である。広島市の郊外、山陽本線の瀬野駅から山腹・山頂に掛けてお洒落な住宅街が広がっているが、そこにあるのがスカイレールである。
 瀬野といえば、瀬野八と呼ばれる山陽本線最大の難所・急勾配区間がある区間として有名だ。八本松までの区間を、現在は高性能な電車が軽快に行き来しているが、長大な貨物列車は今でも、補機を編成の後ろに付けて、プシュプル運転が行われている。それくらいの土地柄だから、山腹に広がる住宅地に行くのは容易ではない。
 広島にはアストラムラインと呼ばれる新交通システムもあるが、こちらは車輪がゴムタイヤだから急坂に強い。広島には登山できる鉄道が必要なのだ。

見た目はロープウェイのゴンドラ
そのもの みどり中央駅にて  
 さてこのスカイレール、瀬野駅に隣接したみどり口駅を出るといきなり急勾配を登り始める。途中に一駅を挟み、終点みどり中央駅まで1.3㎞。標高差160㍍で最大勾配は263‰もある。それだけに展望は抜群で、特にみどり中央駅から下る時がスリリングで面白い。眼下に住宅街と瀬野駅までモノレールのような軌道が続き、この鉄道の全貌が見渡せる。ちなみに車両そのものは自走式ではなく、駅間は軌道内に収められたワイヤーロープで駆動し、駅構内はリニアモーターだというから、ケーブルカーのような、モノレールのような、ロープウェイのような、時にリニアモーターカーのような、他に類を見ない新感覚の鉄道と言える。
眼下に広がる住宅街を囲い込む
ように瀬野駅まで下っていく 

(2019/9/10記)

2016年1月6日水曜日

100万都市の路面電車

 路面電車は自動車社会の嫌われものだ。加速はのろいし、急には止まれない。障害物を避けることもできない。おまけに乗り心地もけっして良くはない。車のドライバーからすれば、道路を右折する際、線路上に停まるわけにもいかず、対向車が見えづらくて厄介極まりないばかりか危険ですらある。
 だから断固廃止すべきである、ということで全国各地で活躍していた路面電車が、次々に廃止された。それはそれで理に叶ったことであろう。しかし…である。今なお元気に走り回っている路面電車がある。それが広島電鉄だ。
路線図
日本に12ある100万都市で、路面電車が走っているのは、今や札幌・東京・大阪・広島の4都市に限られる。しかも、市内を縦横無尽に走り回っているのは広島だけであり、他の都市は一部の地域に細々と残るにすぎない。最近、札幌の路面電車がすすきのの歓楽街で環状運転を開始したことで話題になっているが、市内交通の中心は地下鉄とバスであることに変わりない。そう考えると、広島の路面電車は格がまったく違うのである。ここでは市街地の主役と言ってよい。

格の違い①・・待たずに乗れる
グリーン・ムーバ-・マックス
広島電鉄・広島駅

 JR広島駅前の広場にある路面電車の広島駅には、新旧さまざまな電車が出入りして見飽きない。わずか3線分しかない手狭なホームに、平日の8時台には4方面に向かう34本もの電車がひしめき合う。路面電車の宿命として、ダイヤ通りには決して運行できないだろうから、折り返し作業を行いながら方面別に電車を捌くのは神業ではないかと思うのだが、そこには良くできた工夫あって、混乱することはない。

続行運転 猿猴橋停留所
手前は3000形連接車。後方は5100形
グリーン・ムーバー・マックス
【注】4系統ある路線のうち、1号線(紙屋町・市役所経由)広島港行・2号線宮島口行・6号線江波行の3系統は、いずれも市の中心街を通る利用客の多い路線で一括りにしてよい路線である。残る5号線(比治山経由)広島港行は四国へのフェリーが出る宇品港へ行く際に便利な路線だ。だから手狭な乗り場は、市中心部方面と宇品港方面の2つにまとめられている。
 広島駅に入ってきた電車は、一番奥の3線ある行き止まりまで行って乗客を降ろす。5号線の電車はJR側の行き止まりで乗客を降ろしたら、乗客を乗せて発車を待つ。それ以外の電車は道路側の2線のいずれかで乗客を降ろしたら、5号線の前に移動して乗客を乗せる。つまり、5号線とそれ以外を直列に並べて、手狭な場所だが方面別乗車を可能にしているのだ。徹底したフリークエント・サービスをによって、待たずに乗れる路面電車の運行が保たれている。

格の違い②・・不易流行
京都市電 横川線

 広島電鉄では現在も被爆電車が運行されているが、それ以外にも懐かしい電車がはしっている。大阪市電と京都市電だ。いずれも昔のままの塗装なので、さながら動態保存博物館のようだ。
 今から40年以上前のことになるが、高校の修学旅行で京都を訪れた際、七条大橋で撮った写真の片隅に京都市電が写っている。新幹線には興奮しても時代遅れの路面電車には全く興味がなかったので、乗ってみようなどとは思わなかった。残念なことをしたと思う。
大阪市電 横川停留所にて

 路面電車に関心を示さなかったのは、中学校時代に都電で通っていたということもある。余りにも日常的なことだからその大切さには気付かないものだ。大阪には行ったことがなかったので、大阪市電の記憶はない。

【注】後悔しているのは当時の定期券を処分してしまったことだ。定期券には路線図が記され、乗車区間を線で示すようになっていた。1968年〜1970年は廃止のピークを迎えた時で、毎月定期券からは路線が消えて、次第にまばらになっていた。残しておけば、貴重な資料となったはずである。当時の私には古いものが滅びていくことには全く関心がなかった。未来がバラ色に見えた頃の記憶である。

 鉄道遺産を大切にする一方で、積極的に先進的なLRVを数多く導入するのも、広電の大きな魅力の一つだ。
3900形は平成2年にデビューした
連接車。           
人口の多い広島市だけに、市民の足としての路面電車は、一度に大量の人を運ぶ必要がある。古くは昭和50年代に西鉄福岡市内線から譲渡された3000形が、3両編成で今も活躍している。その後も宮島線と市内線の直通運転のために導入された3900形など車種は数多くある。
 ヨーロッパで発達したLRVは、超低床構造で市内電車としてうってつけであるばかりでなく、高出力の電動機を搭載しているために郊外電車としても通用する優れもので、路面電車と宮島線を併せ持つ広島電鉄にぴったりの電車である。平成11年ドイツから空輸されたのが、グリーン・ムーバこと5000形電車である。シーメンス
5車体連接車の5000形
グリーン・ムーバー
が造った超低床車であり、路面電車開発では日本はヨーロッパに大きく遅れをとっていることを目の当たりにした出来事であった。
 その後、純国産LRVを目指して開発されたのが、5100形グリーン・ムーバー・マックスである。近畿車輛・三菱重工業・東洋電機製造の3社と広島電鉄が共同して開発し、平成17年にデビューした。現在広島電鉄では5000形が12編成、5100形が10編成運行されている。
国産の5100形
グリーン・ムーバー・マックス
マックスと謳っているのは、シートをロングシート主体とし、グリーン・マックスよりも定員を増やしているからである。ドイツ製の5100形は、クロスシート中心のため観光客の多い宮島線に投入され、マックスは市内線で活躍することが多い。いずれにせよ、広島電鉄ほど路面電車の可能性をつぶさに魅せてくれる鉄道は日本ではここを置いて他にない。

格の違い③・・二つの世界遺産を結んでいる
写真左側すぐの所に電停がある

 被爆地広島には日本人ばかりでなく数多くの外国人観光客が訪れる。ことばに不自由な彼らも、一日乗車券を購入すれば、路面電車を使って気軽に移動ができる。私が訪れた1月6日は、平和資料館の来館者のほとんどは海外からの訪問者であった。
 市内から安芸の宮島へは、広島電鉄圧倒的に便利である。スピードこそJRには叶わないが、繁華街や原爆ドームから乗ることができる利便性、そして本数の多さ、どれをとってもこちらを利用したくなる。
JRのフェリーから

 通勤通学客だけでなく観光客を取り込めるというのは、鉄道会社にとっては圧倒的な強みとなる。宮島口に着いた観光客は、そのままグループ会社の宮島松大汽船で厳島神社に渡っていく。実は並行して運行されるJR西日本のフェリーの方が、大鳥居の前を通るなどの演出があって面白いのだが、そのようなことは知らない観光客は一日乗車券を利用して松大汽船の乗客となる。
 
格の違い④・・マニアックな面白さ
架線に注目!
手前は例外的に直接吊架式だが、
そこ以外はすべてシンプルカテナ
リー方式。          

 通常、速度の遅い路面電車の架線は1本で済ませることが多い。費用も比較的安価で済むからである。これを直接吊架線方式(ちょくせつちょうかほうしき)という。法律上簡易鉄道の扱いの「軌道」では、どこもこの方式を採用している。JRでも新潟の弥彦線のようなローカル線でも採用されている。
 ところが広島電鉄の架線はシンプルカテナリー方式という本格的な架線方式をとっている。こちらは高速にも耐える構造だ。電鉄を名乗るだけあって鉄道会社の矜持を感じる。

 複雑な路線を持つだけあって、分岐や合流が多いのが広電の特徴である。果たしてポイントの制御はどうなっているのだろうか。そう思いつつ土橋停留所であたりを見回しているうちに、懐かしいものを見つけた。かつて東京にもたくさんあった路面電車のポイント切り替え施設である。交差点の片隅の高い位置から、やって来る電車の行き先を見ながらポイント操作をしていたものだ。今はカーテンが降ろされている。今時人件費のかかる係員など配置できる余裕はない。
 とすれば、ICT全盛の時代。フルオートのコンピュータ制御かと思えば、もっと手軽で安価な方法だった。これが面白いほど、単純で効率の良いシステム、否、仕組みだった。

 土橋停留所からは二方向に分かれ、江波行きは直進し、西広島・宮島口方面は右に分岐する。電停の路面には、手前に「江」、その先には「己」と記され、それぞれに白いラインが引かれている。ポイントはその先にある。これは行き先別に停車位置を変えているのだ。西広島は別名己斐(こい)という。

 架線に注目すると、パンタグラフが通過するとそれを感知するスイッチがいくつか付いている。つまり停車位置によって一定時間に叩くスイッチの数が異なり、1個だったら江波、2個だったら己斐と判定し、ポイントを切り替えているのである。なんとシンプルな、そして確実な運行制御だろう。アナログもまだまだ捨てたもんじゃない。

格の違い⑤・・おまけ

横川線横川駅

 路面電車の駅がお洒落になれば、街はもっと元気になれる。それを実現しているのが広電だ。JR横川駅は山陽本線と可部線の分岐駅であり、そこと直結している広電横川駅は市中心部へ向かうターミナル駅なのだが、そこが実に良い駅なのだ。若いカップルの待ち合わせにだって利用できる空間になっている。そこにレトロな市電がやって来る。
 松山と結ぶフェリー乗り場、宇品港にある広島港駅も瀟洒な雰囲気の路面電車離れした素敵なターミナルだ。ここもレトロな市電とのミスマッチがとても楽しい。
広島港駅で出発を待つ旧京都市電

 広島電鉄は、他の追随を許さない偉大な路面電車と言っても過言ではない。実に面白いのである。

(2016/1/6乗車) 

 

2016年1月5日火曜日

中国山地の「癒され列車」

中国縦断鉄道に乗りに行く

 姫路から広島まで行くには、瀬戸内海に沿って山陽本線や山陽新幹線を利用するルート以外にもう一つの方法がある。姫新線と芸備線を乗り継いで山懐深く入り、中国山地に沿って縦断するルートである。距離にして323.6㎞、海沿いコースよりも70㎞ほど遠回りの、のんびりしたローカル線の旅となる。以前からこの「中国縦貫鉄道」に乗りたいと思っていたが、ようやくその機会がおとづれた。
最後の定期寝台特急列車、サンライ
ズ瀬戸・サンライズ出雲。    

 今年は1月4日が月曜日ということもあって、正月を故郷で過ごした人々による帰京ラッシュが例年より早めに終わり、世間もだいぶ落ち着きを取り戻しつつあった。姫路からは優等列車など走っていないので、一日がかりの旅となる。暗くなる前に広島に着くためには、姫路6時55分発の列車に乗る必要があった。このような場合に重宝なのが寝台列車だ。新幹線や飛行機はどんなに速くてもこの時間に東京から姫路に着くことは不可能である。旅の初日を朝早くから動こうとする時、夜行列車は実に便利な移動手段だったのだが、今は絶滅危惧種となってしまった。が、姫路までは奇跡的にうってつけの列車がある。
シングルの部屋。左は扉側から見た
様子。右は扉側を見た様子。   

 4日の晩、私は東京駅9番線ホームに立った。夜汽車(蒸気機関車が引っ張る夜行列車)はもちろんのこと夜行列車ということばが死語となり、夜中の長距離移動の中心が高速バスに移ってしまって久しい。この日の東京駅からの夜行列車は22時発のサンライズ瀬戸・サンライズ出雲の二本だが、岡山までは連結されて運転されるので、実質一本に過ぎない。岡山までなら20時30分発のぞみ133号に乗ればその日のうちに到着するし、姫路にいたっては20時50分発のぞみ135号があって、サンライズ号よりわずか1時間15分前に出発すればその日のうちに目的地についてしまうのだから、確かに夜行寝台特急の役割は終わっているといえるのだが、よく考えればそれはその土地に住んでいる人が利用する場合のことではないか。旅行客にとって見れば、深夜に現地に着いても仕方がないだろう。しかもサンライズには個室が揃っている。国際線のファーストクラスだって及ばない快適な移動が楽しめる。
 とはいえ、その夜私は一晩中大地震に逃げ惑う夢を見続けた。揺れる列車で見るものとしては、実にわかりやすい夢といえるが、夜行列車愛好家の私とっては実に不本意極まりない。どうやらこのところ続いている仕事上のトラブルが影響しているらしい。なんとも夢見心地の悪い旅立ちとなってしまった。

姫新線を乗り継ぐ
佐用まではキハ127系が運行。通勤通
学用だが、片側一人の3列のクロスシ
ートで快適に車窓が楽しめる。     
播磨新宮駅にて

 5時25分、真っ暗で底冷えのする姫路駅に降り立つ。駅前通りの先には微かに白鷺城の黒いシルエットが見える。ここから158.1㎞先の新見までを結ぶのが姫新線である。全線単線非電化のローカル線で、直通列車は運転されていない。乗り通す酔狂な人などいないに違いない。3回乗り換えてまずは新見を目指すつもりである。
佐用からは過疎路線用キハ120系。
左は智頭急行普通列車。

 播磨新宮までは姫路への通勤通学路線であり、日中でも2~3本運転されているが、その先はぐっと減ってしまい2時間に1本程度の過疎路線となってしまう。しかし沿線の人口は少なすぎるわけではなく、人里をコトコトと走るような風景が続き、特別風光明媚な訳でもないので次第に眠くなってくる。この地方の人はもっぱら自家用車を利用しているのだろう。乗り降りするのはお年寄りばかりである。智頭急行との接続駅佐用で2回目の乗り継ぎをする。佐用の次、上月の先で岡山県に入る。列車は中国自動車道と並行して走り続けるが、到底自動車に太刀打ちできるはずもない。取り立てて目を瞠る風景もなから、地元民からも観光客からも見放されているようで、この姫新線が段々可愛そうになってきた。およそ2時間半が経過して津山に着いた。ここで3回目の乗り継ぎとなる。

金髪の少年
昭和の風情が残る津山駅

「おじちゃぁん! カメラのキャップ、落ちたで」
良い席を取ろうとそればかりを気にして新見行列車に乗り込もうとした私に、後ろから声を掛けてきたのは、ジャージ姿の金髪高校生だった。カメラがドアにぶつかり、その拍子にキャップを落としたらしい。教えてくれたのは有り難いが、どうも苦手なタイプの若者だ。「あっ、どうも」とまともなお礼も述べずに、取り敢えず席を確保してからキャップを探すためにホームに降りたが見つからない。するとその金髪ジャージも降りてきた。
「ほら、あそこに落ちてるやろ」
と言って、線路を指さす。レンズキャップはホームと列車の間に落ちていた。運転室の下だから手が届きそうだが、線路に降りるわけにもいかない。
「ん〜む。困ったなあ。どうもありがとう。諦めるかなあ」
困るには困るものの、それほど高価なものではないし、人目が気になることもあって、さっさとお仕舞いにしたかった私に対して、その少年は思ってもみなかったことを口にした。
「駅員に言ってやろうか。ちょっと待ってて」
金髪少年はそのままホームの反対側で車両の分割作業をしていた鉄道員に駆け寄り、何やら話し掛けている。緑と赤の旗を持った鉄道員は、分割された二本の列車を発車させ終わると、こちらにやってきた。
「列車を移動させるわけにはいかないなあ。駅員を呼んでくるわ」
そう言って掛けていく頃には、列車の運転手を始め、あたりにいた鉄道員が3〜4名集まってきた。発車まで5分ほどしかなく、車内の乗客も何事かと見ている。段々大事になってきた。たかが数百円のキャップで列車が遅れたらどうしようと、気の小さい私は居ても立ってもいられなくなってきた。こういうときに限って、事態はなかなか進展しない。
 駅員はいつ来るのだろう。しかし、運転手を始めとして鉄道員達はのんびりした顔つきである。冷や汗かきつつ顔が赤くなっているのは私一人だ。
 発車間際になって、ようやく駅員がマジックハンドを持って駆けつけてくれた。呆気ないほど簡単にレンズキャップが戻ってくる。列車の発車にも間に合い、ほっとした私は、そこに居合わせた鉄道マン達に鄭重にお礼を述べ、更にその少年に向かって言った。
「有難うございます。とても助かりました」
思いがけない親切な行為に対して、いつの間にか少年に対しても丁寧な言葉遣いになっていた。
「よかったな。それがないとレンズ、傷ついちゃうもんな」
金髪少年はちょっと笑いながら言った。まさかそんな優しい言葉を掛けてくれるとは思ってもみなかった。
 列車が発車すると、通路を挟んだ反対側の座席に少年は行儀悪く足を投げ出して坐っている。いつもならやれやれと思う私だが、この時ばかりは違っていた。人は本当に見かけに依らないものだし、見かけだけで判断した自分が実に詰まらない人間だと思えてくる。ただ嬉しかった。その先、中国縦断鉄道の車窓に広がる風景は、どこにでもあるあるような取り留めもない田舎の景色だったが、人の親切に触れたあとだっただけに、なんとも心温まる列車の旅となった。新見を越えて芸備線を乗り継ぎ、広島まで辿り着いた時、あたりはすっかり暗くなっていた。
(2016/1/5乗車)

 


 

2015年1月6日火曜日

改造電車が走る町

小野田線の珍電車

 1月6日早朝、雨脚が次第に強くなってきた。下関の日の出は、東京よりも30分遅く、まだ1時間半程先のことだ。そのような冷たい雨と闇に閉ざされた中を駅まで急ぐのには訳があった。僻地でもないのに、一日わずか3本しか電車が停まらない駅に行ってみたかったのである。
長門本山駅の時刻表
6時00分下関発、普通電車岩国行が40分ほどかけて小野田駅に着いた時も、雨脚は一向に衰える様子がなく、真っ暗闇の中で駅の蛍光灯だけが冷たい光を放っていた。向かい側の下関方面ホームには、数十人の通勤客が寒さで体を振るわせながら下り電車を待っている。その人影の向こうに見慣れない電車が一両停まっていた。小野田線である。
 乗り換え時間が短いので急ぎ足で跨線橋を渡る。ホームに屋根は付いているのだが、小野田線側はホーム幅に比べて屋根が寸足らずなため、足下で雨が撥ねている。一見して傘が必要なほどだとわかるが、傘を差して乗るまでもないと高を括ってそのまま飛び乗ったら、だいぶ濡れてしまった。JRにとっては、できれば廃線にしたいくらいの路線だろうから、設備は貧弱だ。だから逆に味わい深い路線ともいえる。
車内全景 左が新設されたトイレ
ここで活躍している電車が珍品中の珍品で、両端に運転台がついているワンマンカーなのだ。ディーゼルカーの一両編成は珍しくないが、路面電車は別として、通常の電車ではおそらくここだけだろう。おまけにトイレまでついている。小野田線は距離も短く、ローカル線とは言いながら通勤通学用だろうから、都会の感覚からすればトイレは不要なはずだが、地方の列車だけにトイレがあるのは当たり前なのかもしれない。わざわざ近年改造して設置したのだという。
 小野田線は地方交通線に指定されているローカル線で、小野田から宇部線との接続駅居能までの11.6㌔区間を一日10往復している。沿線には小野田を全国に知らしめたセメント工場やコンビナート、住宅に畑という感じの、風光明媚とはほど遠い路線である。しかしながら、西国の夜明けがこんなに遅いとは予想外で、小野田から雀田までは真っ暗なため、どのようなところを走っているのか、雨で濡れた窓から外の様子は窺い知れなかった。
 15分ほど電車に揺られて雀田に着いた。ここが本日のハイライト、小野田線・本山支線のへの乗り換え駅である。駅のホームがデルタ状になっていて、鶴見線の浅野駅を彷彿とさせる。小野田と浅野、思えば共にかつてのセメント会社だが、今は合併して太平洋セメントになった。
 日本の道路事情が劣悪だった頃、内陸の貨物輸送は鉄道が担っていた。奥多摩の石灰石は青梅線・南武線・鶴見線で東京湾まで運ばれ、そこに浅野駅がある。カルスト地形の秋吉台があるほど山口には豊富な石灰石があるが、秋芳洞近くの美祢から石灰石が小野田や宇部に運ばれ、そこに雀田駅がある。乗り換え駅がデルタ状になっているのは、工場への枝分かれ部分に旅客駅を後付けしたからだろう。
 デルタのもう一辺に同じ形の電車が待っていた。私以外誰も乗る人はいない。これが一日3本のうちの始発電車、長門本山行だ。地元のおばさんが一人乗ってきて、発車の合図もなく電車は動き出した。ほかに人はいないから、安全確認さえしっかりすれば合図もアナウンスもいらないのだろう。
2番電車が到着する長門本山駅
ようやく辺りが薄明るくなってきた。工場地帯かと思っていたら田畑もある郊外風景だった。少し離れた雑木林の向こうにコンビナートらしきものが垣間見える。終点長門本山にはあっという間に着いてしまった。駅、といってもバスの待合室のような駅舎がポツンと一つ、周囲には店一軒・自販機一台なく、冬枯れの田圃とまばらな民家が点在するだけである。待っていた人はたった一人だった。
 運転手は私を見て乗らないようだと判断すると、そのまま運転台に戻ってしまった。しばらくすると始発電車は乗客一人を乗せ、パンタグラフをスパークさせながら雀田に向かって発車して行った。長門本山駅には私一人が取り残され、雨音だけしか聞こえなくなる。
 一日3本のうち2本は朝7時台に集中している。先程の電車が雀田で折り返して20分後に戻ってくるのだ。それが本日2本目となって、その後は18時37分の最終電車となる。朝と晩とで輸送力が違えば、帰る人は困らないのだろうか。困らない程度の乗客数なら、朝の1本はいらないのではないか。そもそもどうして廃線にならないのだろうか。いろいろと疑問が生じるが、一つわかったことは車止めの先の道路には路線バスが1時間に1本走っているのだ。1㌔先にある本山岬から小野田まで乗り換えなしに行くことが出来るから、地元の人にとって鉄道は普段は不要な保険のようなものなのだろう。
 2番電車の乗客は、そのまま折り返す鉄道ファンが1名、女子高生2名、おばさん1名、そして私の合計5名だ。新学期が始まると高校生で混雑するのだろうか。雀田に山口東京理科大があるが、大学生の電車通学はすくないだろうななどと考える。この電車はワンマンのくせに車掌も1名乗っている。途中の浜河内でおばさん2名が乗車し、総勢9名を乗せた電車はガタンゴトンと時速30キロ位でゆっくり走る。
デルタ地帯の向こう側は小野田行
雀田では小野田行に接続している。それなりによくできたダイヤである。5名が下車し、2名乗り込んできた。電車は小野田線の終点居能から一つ先の宇部線・宇部新川行である。引き続き田畑が散在する郊外をのんびりと走る。急ぐことは必要ないとでも思っているのか、慌ただしいはずの通勤時間帯なのに、のんびりとしたものだ。
長門本山発宇部新川行 居能にて
電車は少し坂を上り、視界が広がって、河川敷のない大きな川に出た。秋芳洞から周防灘に流れる厚東川である。電車は橋桁の上に線路をちょこんと載せただけのガーター橋の上を減速して渡っていく。窓からは水しか見えない。鉛色の世界の中、川に落ちやしないかと、正直ヒヤヒヤする。早く渡りきって欲しいと思うのは、私だけではないようだ。乗客は何で減速する必要があるのだろうとキョロキョロと外を見ている。安全のための徐行だろうけれど、却って徐行しないといけない施設に不安を覚える。渡りきった所は荒涼とした工場・コンビナート群だ。この辺りは宇部興産の本拠地である。左から宇部線が合流して居能に着く。
 小野田線や宇部線で活躍しているクモハ123系は、国鉄時代に活躍した荷物電車を旅客用に改造した電車である。かつて棚があったところは窓がないので、左右で窓の数が全く違う。手荷物や郵便輸送に用いられたが、道路交通網の発達によって不要となったので、ローカル線で用いる旅客用に改造した。そもそもローカル線は非電化が大半だから電車の需要は少ない。貨物の需要は多くて旅客は少なく、電化されているがローカル線という条件を満たしていたのが、小野田・宇部線だったのだろう。
 今でこそ貨物は小野田線からは撤退し、宇部線も激減したが、この地域の貨物がなくなったわけではない。すぐ南側には、宇部興産が造った日本最大の私道・宇部興産専用道路があって、総延長は31.94㌔に及ぶ。それほど貨物輸送が賑わう土地柄なのだ。貨物が撤退した今となっては、小野田線は産業遺産化する鉄道と言えなくもない。何とも可愛らしい路面電車のようなこの鉄道が、いつまでも廃止されずに頑張って欲しいと祈らずにはいられない。

宇部線の印象

 宇部新川からやってきた宇部行は黄色い三両編成だった。何の変哲もない通勤電車だが、路面電車(?)に乗った後だったので、先程よりも上流で厚東川を渡る際、同じガーター橋だったけれども、何とも頼もしい感じがした。
宇部駅に停車中のキハ123系
宇部で折り返し、宇部新川に向かう。沿線途中にアメリカンスクールでもあるのか、外国人高校生の集団が乗り込んでくる。足を投げ出し、大きな声で話すなど、ちょっぴり行儀が悪い。
 ガーター橋を渡り直し、先程小野田線から乗り換えた居能を通過し、宇部新川に着く。ここで乗り換えて新山口まで行くのだが、待っていた新山口行は、何と先程まで世話になった路面電車(?)クモハ123-6だった。態度不良の外国人高校生も乗って来て、車内は満員になる。やれやれだ。
 高校生はすぐに降りたのでホッとしたが、それも束の間、今度は辺り構わず話し掛ける男性が乗ってきた。乗り合わせている人達はみな関わらないよう知らんぷりをしている。私も面倒なので寝たふりをする。せっかく車窓を楽しみに来たのに、これでは意味がない。天気が今ひとつだったこともあって、宇部線の印象はとても薄いものになってしまった。
 山口宇部空港の滑走路の外れがちらりと見え、住宅地がまばらになって田圃が広がり、小高い山を迂回したら山陽線と合流し、新幹線の巨大な高架橋が近づいたら新山口に到着したとしか、書きようがない。
 新山口はかつて小郡と呼ばれた交通の要衝である。シーズンには遠くから新幹線でSLやまぐち号を目当てに観光客がやってくる駅だ。冬枯れの今日、構内は閑散としていた。
(2015/1/6乗車)