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2015年1月5日月曜日

懐かしの山陰本線 前編

偉大なるローカル線

 京都から下関の一つ手前の幡生まで総延長673.8㌔の堂々たるローカル線、それが山陰本線である。鉄道紀行作家宮脇俊三は名作『にっぽん最長ローカル列車の旅』の中で、同行の編集者藍孝夫氏の「幹線なんでしょう」という質問に対して「名目上は幹線でも、まあローカル線を長くしたようなもので、いわば偉大なるローカル線ってところですな」と実にうまいことをいう。だから京都から下関を通しで走る列車はひとつもなく、そもそも全線の66%が非電化単線という、都会人にとってはまさに想定外の路線と言っていい。通しで走らせたくても(まあJRはそんな効率の悪いサービスは嫌がるだろうけれど)、都会人にとって鉄道に乗るといえば電車に乗るというくらい電車が当たり前の世の中にあって、電気が来ていない線路が合わせて444.6㌔もあるために、通し運転は所詮夢のまた夢なのである。
 非電化単線にはそこだけでしか味わえない風情がある。もともと鉄道は自動車道と違って環境負荷が低く、道幅を狭くすることが出来る。それが単線ともなれば、走行中擦れ違うこともなく、深山幽谷であろうと海蝕崖上であろうと、自然に溶け込みながら線路を敷くことが出来る。近年は長大トンネルで景色の楽しめない路線が増えたが、山陰本線はまさに時代遅れの非電化単線ある。文部省唱歌の『汽車』にある「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと」そのままの風景が楽しめる。できるだけトンネルを短くしたい時代に造られた山陰本線は、丁寧に等高線を辿りながら、ひとけのない入り江をめぐり、断崖をかすめ、漁で生計をたてる人々の集落を繋ぎながら日本海を堪能できる、いまどき珍しい日本の原風景を楽しめる鉄道なのだ。

    注)門司5時22分発、福知山23時51分着、824列車。1984年2月廃止。

どうやって出雲市へ行く?

「済みません。やはり取れませんでした」
出入りの旅行社にサンライズ出雲の個室寝台を依頼してあったのだが、近年の出雲大社人気で指定券が取りづらくなっていることはわかっていたものの、1月5日ともなれば世間では仕事始めだから、まさか取れないとは思いも寄らなかった。
 出雲市を10時過ぎの列車で発ち、乗り継ぎながら夕方までに下関まで行こうと計画を立て、宿泊先も押さえてあったものだから、今さら中止にも出来ず、いささか途方に暮れた。夜行高速バスは事故が怖いのでまっぴら御免だし、新幹線乗り継ぎだと13時過ぎに漸く到着で話にならない。どうして世間の人は昼に長距離移動などするのだろう、だから鉄道が嫌いになってしまうんじゃないかなどと思ってみても仕方ない。こうしてしょんぼりしていると、同僚で旅好きのAさんが、
「飛行機はないの? どうせお金持ちなんだから」
とヒントをくれた。お金持ちは実に余計で、私の趣味に対する無駄遣いをからかっているのだが、鉄道車窓愛好家として飛行機という選択肢は最初から考えもしなかったので、それは目から鱗だった。調べてみれば、始発便だと8時台には出雲空港に着くではないか。松本清張『点と線』の謎解きのようだなと思いつつネットで調べてみると、更にサプライズだったのが一般の人の移動が少ないこの時期、早割で何と12,000円でJクラスシートにも乗れるということがわかった。これは高速バスとほとんど変わらない。あり得ない!と思いつつ、計画が思い通りに遂行できることに安堵した。

快速マリンライナー

出雲市駅
空港連絡バスで出雲市駅まで向かったのはわずか5人。松江や出雲大社行きも同じようなもので、地方消滅が話題に上る昨今、早割でもこの時間帯に乗る人は少ないようだ。大社造りを模した立派な出雲市駅の駅前広場にもひとけはほとんどなかった。9時半前には駅に到着し、昨晩22時ちょうどに東京を出発したサンライズ出雲が到着するまでにまだ30分ほどのゆとりがあった。ホームで出迎えるのも一興である。個室を利用すれば21,710円〜28,960円もかかる憧れの豪華列車である。こっちは半値以下で先に着いたんだからねと、乗れなかった憂さ晴らしをしてみたい気もあった。鉄道愛好家の風上にも置けない奴だと反省する。
 改札口にある行き先表示を見ると、予定していた列車の前に快速が先発することに気付く。計画を立てていた際、サンライズが到着する15分前に出発してしまうこの快速が恨めしくてならなかった。仕方なく、サンライズ到着の18分後に出る各駅停車に乗るしかないとあきらめ、その後飛行機騒動のドタバタですっかりこの快速のことを忘れていた。
「そうかあ、乗れるんだ」と、もう出迎えなどどうでもいいと思い始めてしまうところが現金なものだ。
出雲市駅に進入する
快速マリンライナー
やって来たのは新型の2両編成ディーゼルカーだった。快速マリンライナーは、米子・益田間191.5㌔を結んでいるが、米子は鳥取県の西の外れに位置し文化圏としてはほとんど島根のような場所だから、ほぼ島根県の東西を貫く列車なのである。出雲市・浜田間が快速運転となり、1時間35分で結んでいる。これはかなりの俊足ぶりで、40分前に出発するスーパーまつかぜ1号の1時間6分には及ばないものの、当初乗る予定だった普通浜田行きだと2時間24分もかかってしまうのだから、乗り得感満載と言える。これならさぞ人気があるだろうと思いきや、混んでいた車内からぞろぞろと人は降りて行き、ガラガラとなって出雲市を出発した。ボックスシートを独り占めにして車窓を眺める。あいにく窓は汚い。老朽化した車両にありがちな、こびりついた鉄錆で窓が赤茶けているのではない。水滴が流れた跡が幾筋もあるから、塩分をたっぷり含んだ波の飛沫や雨だれの痕跡なのだろう。普通列車だからそれほど頻繁に車両洗浄を行うはずもなく、このあたりが普通列車の旅の辛いところだ。
 出雲市駅からしばらくは高架橋が続き、出雲大社に続く山並みが青空のもと、冬の日差しに照らされている。神戸川を渡った先に最初の駅西出雲がある。伯備線に続く伯耆大山からここまでが電化区間となっていて、寝台特急サンライズ出雲やスーパーやくもが回送される車両基地がある。西出雲は電化はされていても回送される優等列車のためだから、旅客が利用するのはディーゼルカーばかりだ。広々とした車両基地からは特急列車は出払い、まだサンライズがやって来ていないので閑散としている。車両洗浄機もあるので、少しあそこに寄ってから出発したいと思うが、所詮叶わぬことだ。
山陰本線は出雲市以西では
海岸沿いをひた走りに走る
車窓には窓の汚れがもったいないような風景が広がっている。鮮やかな赤褐色の石州瓦を戴いた農家が里山の麓に点在している。山陰地方は字面からなんとなく暗いイメージがつきまとうが、確かに人口が少なく賑やかさには欠けるものの、釉薬が効いて照り輝く赤い屋根の家並みがとても美しいところだ。山あいの農家も入り江の漁村も、鉛色の空を跳ね返すような美しい赤褐色が乱舞している。
 それにしてもどうしてこの快速にマリンライナーなどという、国籍不明の軽率な名前をつけているのだろう。この土地にふさわしい名前はなかったのだろうかと思うが、乗っているうちに合点がいった。延々と海岸風景が楽しめる路線なのである。ここまで海に寄り添って敷かれた鉄路は他にない。それも偉大なるローカル線だからこそ、大正時代に造られたままの場所を走っている。線路やバラストと呼ばれる砂利石などは幹線並のもの(そもそも幹線なのだから当たり前か)を使っているので、列車はかなりのスピードで快走する。ただ海岸に沿っているだけにカーブはきつく、その分眺めが抜群なので、右に左に揺られながら旅人は目を楽しませて貰えるというわけだ。
海辺の風力発電所群は
今や日本の定番風景だ
だからこそ、余計に窓の汚れが悔しくてたまらなくなった。何枚も写真を撮ったが、出来る限りの修正を加えても鑑賞に堪えられるものは一枚もなかったのが残念だ。汚い窓の確認と雰囲気だけでもと2枚だけ掲載しておくことにする。

クルージングトレインのこと

 JR九州の豪華寝台列車「ななつ星」の大成功で、JR各社はクルージングトレインの導入に力を入れ始めた。どうせ倍率が高すぎて、余暇を満喫できる富裕層か高齢者しか利用できないのだろうなと私自身は冷めた思いで見ているが、山陰本線の絶景は、美しく磨かれたクルージングトレインならさぞかし満喫できることだろうとも思う。JR西日本では2017年春から運行開始だそうだ。期待できるのは、架線集電式ではなくディーゼル発電とバッテリーアシストのハイブリッド方式を採用した点である。これならどこへでも行ける。その点JR東日本が導入する列車はイラストを見る限りパンタグラフが付いているので、五能線にも下北にも三陸にも北上線にも陸羽東西線にも男鹿にも磐越東西線にも水郡線にも烏山線にも飯山線にも小海線にも行けない、まさに絶景路線を避けたとしか思えない列車になる恐れがある。超豪華な走るホテルを造って夜に幹線を走らせ、観光は豪華なバスでも仕立ててと考えているのだろう。もしもそうなら、はなはだ残念なことである。
キハ126系はJR西日本の20㍍級の
普通列車用気動車。江津駅にて。
その点JR西日本のクルージングトレインはこの山陰の美しい海岸風景を意識し、電車方式を採らなかった点で大いに期待が持てるだろう。ぜひ早く実現して欲しいものだが、先にも記したように時間とお金の両方にゆとりのある人しか乗れないのが実に残念だ。私のような旅行者のために、せめて在来の列車の窓をもう少し綺麗にして貰えないだろうか。そうでないとあまりにももったいない風景なのだ。

浜田という響き

 ブルートレインが全盛だった70年代から年代にかけては、毎夕東京駅から九州・山陽・山陰に向けて何本もの寝台列車が発車して行った。1978年10月の時刻表には、9本の輝けるスター列車が掲載されている。

 16時30分  列車番号1   さくら    長崎・佐世保行
 16時45分  列車番号3   はやぶさ   西鹿児島行
 17時00分  列車番号5   みずほ    熊本・長崎行
 18時00分  列車番号7   富士     西鹿児島行
 18時20分  列車番号2001   出雲1号     浜田行
 18時25分  列車番号9   あさかぜ1号   博多行
 19時00分  列車番号13    あさかぜ3号   下関行
 19時25分  列車番号15    瀬戸     宇野行
 20時40分  列車番号2003   出雲3号・紀伊 出雲市・紀伊勝浦行

 ブルーの車体側面にある行き先表示を見ていると、行ったことのない町の名前が手招きをして「早くここまで乗っておいで」とささやいていたいるかのようだった。とにかく、「遠くへ行ってみたかったし、知らない町を歩いてみたかった」
廃止直前の寝台特急出雲
2006年2月7日 出雲市駅
そのなかでも異彩を放っていたのは、出雲1号浜田行だった。そこがどこにあるのか、どんなところなのか皆目わからない。山陰の出雲ではなく、浜田って? もともと出雲号は出発時間が切りの悪い20分、列車番号が4桁という、まさに格落ちのブルートレインだったのだが、貧乏だった学生時代に奮発して初めて乗車したのが米子発東京行の寝台特急「いなば」(のちの出雲3号)だったこともあり、山陰地方と出雲号にはとても親しみを感じていた。その後浜田行はなくなり出雲市どまりとなったが、それも2006年3月に廃止されてしまった。
 今回の乗り尽くしの旅では、浜田行きの各駅停車に乗り、浜田に着くや否や大急ぎで駅弁「乃どくろ御飯」を手に入れてから特急に乗り継ぎ、益田から再び各駅停車の旅を続ける予定だった。ところが快速マリンライナーのおかげで予定より1時間20分早く浜田に着くことになった。懐かしい響きの浜田の町を散策する時間が生まれた。
浜田駅
高級魚ノドクロは全国でとれるが、浜田産のものは脂がよくのっていて最高峰といわれている。その駅弁はぜひ食してみたいと思っていた。ところがホームでは駅弁の販売所がなく、ああ時間が浮いて良かったなと改札口をでてもどこにも駅弁を売っている気配がない。駅の構内にはノドクロのイラストが描かれているのだが、肝心の駅弁がないのだ。駅の売店にも隣接する観光物産館にも置かれていなかった。駅弁そのものがこの駅では販売されていないのである。需要がないということなのだろう。鉄道の旅の楽しみがここでも失われていこうとしていた。残念ではあったが、普通のお弁当として売られている鯖寿司で我慢することにした。お酒はないかと探してみると手頃なところで「石陽日本海ワンカップ」があった。蔵元の住所が記されていないが、口には入れさえすれば良いという心境になっていた。
 気を取り直して、町へ繰り出す。駅前広場には大きなからくり時計が置かれていた。日中のひとけのない商店街を歩き、高台に登って町を見下ろしているうちに、ここが石見神楽で有名な所だとわかってきた。神楽といえば古事記や日本書紀の神話がもとになっているものだが、石見神楽は弁慶や加藤清正のような歴史上の武勇伝を演目にした創作神楽もあって、伝統を受け継ぐ民間の人達が古代の衣装や面を身に纏い、八岐大蛇や天の岩戸の物語を演じたりする人気の祭りだそうだ。大人から子供までが参加する賑やかなもので、子供神楽はその音色から「どんちっち祭り」と呼ばれているらしい。
からくり時計
駅前に戻ってくると、ちょうど時刻は12時を回るところだった。「どんちっち」のお囃子が響き渡り、からくり時計が動き始めた。屋根が浮き上がり、舞台がせり上がって、三段に分かれた空間で、人形達が笛や太鼓を奏で、神楽を舞い始める。最上段は大蛇がくねくねと動いている。普段は観ることの出来ない石見神楽の片鱗を垣間見ることが出来た。石見といえば銀山が世界遺産に登録されて有名だが、この地方に根付いた文化は、赤褐色の瓦と同じように照り輝いている。東京で人波に押し流されている自分にとっては、寝台特急出雲の終着駅は、期待通りの異次元空間であった。

スーパーおき3号

 浜田の駅がその立派な駅舎とは裏腹に閑散としているのは、日本海側の都市同士に強力なネットワークがないからだろう。おそらく浜田と強力に結びついているのは広島ではないか。距離にしておよそ100㌔を中国道から延びる浜田道が結んでいて、1日16往復もの高速バスが走っている。
キハ187系特急型気動車
益田駅にて
一方のJRといえば、スーパーまつかぜ(鳥取⇔益田)4往復、スーパーおき(鳥取・米子⇔新山口)3往復が頑張っているものの、全国でも有数の過疎地帯のため、指定席車両と自由席車両のわずか2両編成でグリーン車の設定はない。使用されている187系特急型気動車は、一見通勤電車のように飾り気のない顔をしている。しかしその風貌とは裏腹に秘めた実力の持ち主で、カーブの多い山陰本線を高速で走り抜けられるよう、車体が内側に傾く制御付自然振り子式車両なのだ。
 乗るのは二度目だが、いつも混んでいる感じがする。今回も自由席が満員でデッキまで人で溢れていた。海側の席を確保するために予め指定券を取っておいて正解だった。優等列車だけに窓も汚いというほどではなく、これなら心置きなく楽しめそうだ。益田までわずか32分の旅だが、買っておいた鯖寿司と日本酒「石陽日本海」で車窓を眺めながら昼食を楽しむ。酢で締めた鯖とほんのりと甘い酢飯が美味しい。風景がいいと酒も旨い。後でわかったことだが、鯖寿司は「乃どくろ御飯」と並ぶ浜田のもう一つの名物だったし、「石陽日本海」も浜田の地酒だった。JRも売店も、もう少し観光客相手にアピールするなど、商売っ気をだしても良さそうなものが、おそらくそれほど需要がないのだろう。
中国電力三隅発電所
全国津々浦々、車窓を楽しむ旅をしていると、風光明媚なところに突然巨大な発電所が現れれてびっくりすることがある。発電所は規模の大きな施設だけに、余計人里離れた所に造られるものだから、結局景色の良いところにあるケースが多いのだろう。電気エネルギーに縋って生きている自分としては、ここで自然保護を主張することは厳に慎む。ご都合主義という批判があれば、その責めは甘んじて受ける。そんなアホなことを考えるのも、少し酔いが回ってきたのだろう。
岡見・鎌手間
益田に近づいてくると、穏やかな入り江が多くなってきた。鉄道の絶景路線として紹介されることはないが、何とも心和む風景が続く。人を寄せ付けない厳しい自然とも違う、かといって人が傍若無人に歩き回る自然とも違う、いわば人と自然が共存しているような、なんの変哲もない風景なのだ。
鎌手・石見津田間
かつて賑わっていた地域が過疎化すると、そこには多くの廃屋が放置されたままとなって、風景は人の心を荒ます凶器となる。日本各地には産業の空洞化に伴って、そんな悲しい風景がいくつもある。一方で、沖縄の西表島や北海道の釧路湿原の一部のように、人がその地を離れたあと、自然がもとに戻っていくようなところもある。ここがどのような経緯をもつ土地なのかはわからないが、長い間かわらぬ風景を保ってきたことだけは間違いない。言ってみれば、日本の原風景なのではないだろうかなどど考えながら益田を目指した。
(2015/1/5乗車)

懐かしの山陰本線 中編

各駅停車しか走らない「本線」

 益田まではスーパーおきが走っているが、この先、幡生(下関市)まで山陰本線を乗り尽くすためには乗り換えが必要となる。ここからは特急などの優等列車が全く走らない、まさにローカル線になってしまうのだ。スーパーおきは、山陰本線を離れて山口線に入り、有名観光地が連なる津和野や山口・湯田温泉などを通って、山陽新幹線との乗り換え駅の新山口に向かう。
 一方、この先の山陰本線には萩や長門市がある。明治維新で活躍した数々の人材を生んだ萩や、天才童謡詩人金子みすゞの郷里仙﨑(長門市)は、観光地としてもすこぶる有名だが、鉄道で旅をする人は極めて少ない。特に萩観光はほとんどがバス利用のため、この辺りの山陰本線は極めつけのローカル線になってしまうのだ。
 益田から下関まで直通する列車は一日わずかに1本、最も利用客の少ない益田と東萩の間は一日8本の普通列車があるに過ぎない。そのうち朝が4本、夕方以降が3本設定されているので、日中はわずかに1本しかなく、観光客に見向きもされないのは当たり前だ。今回の旅ではこの1本、益田13時27分発の長門市行以外に選択肢はなかった。この1本に乗るために、飛行機に乗り、快速と特急を乗り継いで益田までやって来たのだ。
 待っていた列車は、国鉄時代からお馴染みの気動車キハ40だった。古い車両だが、思いの外窓は綺麗で、これなら何とか車窓の旅は楽しめそうだ。ただこういう曰わく付きの列車には、同好の士も乗っていることが多い。我が儘のようだが、一人でゆっくりと楽しみたい私としては、できるだけ同じ趣味の人とは出会いたくない。勝手な言い分とはわかっているが、同じような趣味人が乗っていると、実に落ち着かないのである。児戯に等しい振る舞いは伏せておきたい。同類の人を見てしまうと、いきなり天から冷静な自分が降りてきて、羞恥心が目覚めてしまう。
萩は近い
案の定、すぐにそれとわかる人がひとり乗っていた。しかも海側のボックスシートはすでにあらかた埋まっていて、一人で占有しているその人物の向かい側しかすわる席はなかった。山側にはまだ空いている席もあったが、海を見にここまで来たのだから仕方あるまい。<マニア>もなんでわざわざ向かい側にすわるんだよ、という顔で見ている。あーあ、心理戦が始まってしまった。
 益田を出るとすぐに山口線が左に分かれて行き、向かい側の席からの視線も消えていく線路を追っている。エンジン音を轟かせて旧型気動車が軽快に浜辺を走り始めれば、それに釘付けになる。さっきから<マニア>もこちらも向ける視線の方向が同じだ。見ているものが同じだから、時々「お前もか」という感じで目が合ってしまう。我慢・我慢! 外の景色に集中しろ! せっかくここまでやって来たんじゃないか。
 いくつかの入り江を越え、いくつかの無人駅に停まるたびに乗客の何人かが降りていった。益田・萩間には路線バスすら通っていないので、ここに住むお年寄りや高校生など免許を持たない人達にとってはこの列車だけが頼りなのである。ようやく席を移ることが出来た。<マニア>もほっとしたに違いない。
中央が益田発長門市行。左は長門市
発小串行。この列車は小串で下関行
に接続している。        
萩に立ち寄りたいが、列車の関係から先を急ぐ。今回の旅では長門の国を乗り尽くすつもりなので、明後日再び萩を訪れることになる。今日はひとまず長門市に直行する。長門市のホームや跨線橋、停まっているキハ40型気動車を見ていると、40年ほどタイムスリップしたような気がしてくる。ここには国鉄末期からまったく変わっていない懐かしい風景が残っている。今時、このような場所がほかにあるだろうか。


山陰本線踏破の難所、仙﨑支線

 長門市からたった一駅区間だが、もうひとつの山陰本線が走っている。仙﨑支線だ。定期列車としては厚狭線に乗り入れるものが数本あるため、時刻表では厚狭線のページに掲載されている。ローカル線からローカル線への乗り継ぎは、朝晩以外はまず連絡していないと言ってよい。この時も連絡列車を待っていたら、仙﨑ですぐ折り返しとなってしまうところだった。仙﨑までは距離にして約2㌔、歩いて行けないこともないが、仙﨑の町を歩いてみたかったので、タクシーを利用することにした。
「タマゴ公園までお願いします」
運転手の反応がない!
「あのう、玉子公園に行きたいのですが」
「ああ、オウジ公園ね」
やってしまった! まさか王子公園ではないよねと、何度も注意して地名を見返したはずなのだ。絶対に点が付いていると確信してから言った積もりだったからショックだった。年々老眼が進んでいる。耳は聞こえないし、目は見えない。寄る年波には逆らえないから、乗り尽くしの旅も急がなければならないと強く思う。
「お客さん、東京から? 王子公園って何もないよ」
「仙﨑の町が一望できますよね。そこからぶらぶらと町を歩きたいんです」
「なるほどねえ。今は冬だから木も生い茂っていないので見えると思うよ。でも景色の良いところなら、青海島の中の浦とか。そっちへ行く?」
左側中央の港近くに仙﨑駅がある
まさか列車に乗るのが目的で来たなどとは言えない。そんなことを口走れば、興味津々、根掘り葉掘り聞かれた挙げ句に「好きだねぇ」という顔をされるだけだ。
「金子みすゞに関心があるんですよ」
これに嘘はない。郷里の誇り金子みすゞの名前が出たので、運転手の話題は仙﨑の方に移っていった。


 青海島の外れにある王子公園から眺める仙﨑の町は、午後の傾いた日差しの中で静謐に包まれていた。みすゞの故郷を見下ろしながら、しばらくそこに佇んだ。
 それにしても、みすゞの代表作のひとつ『わたしと小鳥とすずと』は、彼女の薄幸の生涯とは裏腹に、なんと自己肯定感の高い、エネルギーを貰える詩だろうか。


  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。


 傷つきやすい現代人を癒してくれるのは、わずか26歳で自ら命を絶った若き童謡詩人であることに、今さらながら驚きを禁じ得ない。

 右に深川湾、左に仙﨑湾を眺めながら青海大橋を歩いて渡りながら、仙﨑の町に入っていく。金子みすゞの菩提寺である遍照寺で墓参をしたあと、記念館に立ち寄った。この町のあちこちには、詩が記されたプレートがかかっている。すべてをゆっくりと鑑賞していると列車に遅れそうだ。 こうして40分ほど仙﨑の町を散策しながら仙﨑駅までやって来た。ここは山陰本線で唯一の行き止まりの駅、大好きな終着駅だ。京都も幡生も終着駅ではない。
 しばらくすると、長門市方面からちっぽけな気動車が1両でやって来た。JR西日本が所有する特に乗客の少ないローカル線用の小型気動車キハ120系だ。普通車両よりも2割ほど短い16㍍しかない可愛らしい車両だ。降りてきた数名の乗客の中に、なんとあの<マニア>の方もいらっしゃった。おそらく長門市で1時間ほどこの列車を待っていたに違いない。なんとなく視線を感じる。向こうもばつが悪いに違いない。そう思うと、ちょっぴり気の毒な感じもする。僕がここにいてごめんなさい。

 ラッピングされた気動車は厚狭線経由の厚狭行である。今日はこれに乗って厚狭線を乗り尽くし、厚狭からは山陽本線で下関に出る。山陰本線の残り、長門市・幡生間は明日乗るつもりであり、そこで漸く山陰本線完乗となる。偉大なるローカル線の乗り尽くしは実に手強いが、最大の難所である仙﨑支線を無事踏破し山陰本線未乗もあと74.2㌔となった。明日は下関周辺の鉄道を楽しんだ後に山陰本線に戻ってくるつもりである。

2015/1/5乗車)

  注)観光シーズンには、みすゞ潮彩号が新下関・下関と仙﨑を山陰本線経由で結んでいる。





 

懐かしの山陰本線 後編

下関・幡生間は山陽本線

客車列車用に造られた低いホームは
山陽本線の電車が停まる箇所だけ
上げされている。左側が9番線山
本線ホーム。            

 京都を起点とする山陰本線の線路名称上の終点は下関の一駅手前3.5㎞地点にある幡生だが、すべての列車は山陽本線に入って下関までやってくるので実質的な終点は下関である。かつては寝台特急の機関車付け替えで賑わっていた下関駅も、今では長距離優等列車が全廃されてしまい、歴史ある長大で立派なホームはその役割を終えて、少しばかり寂しげな雰囲気が漂っている。山陰本線の列車が発着するのは、その更に片隅の9番線である。
 古びたホームに佇むと、起点の京都駅ホームがかつては人々から忘れられたように片隅にあったことを思い出す。華やかな東海道線から外れた、端に張り出すような形で設置されたホームには、蒸気機関車が引退したあともディーゼルカーの排煙が漂っていたものだ。今でこそ京都のホームは造り替えられたが、ここ下関9番ホームには、いかにも偉大なローカル線にふさわしい終着駅の風格がある。
 下関・益田間には有名な観光地である萩や長門市があるにも関わらず、鉄道だけは極め付けのローカル線であって、優等列車は一本も走っていない。特別列車は仙﨑の金子みすゞにちなんだみすゞ潮彩号ただ一本に過ぎず、これとてもシーズン中の土曜・休日だけに運転される季節列車でしかない。普段この区間には、錆止めのような国鉄色をまとったディーゼルカーがのんびりと走っているのである。
 昼下がりのホームに、留置線に停められていたキハ47の2両編成がディーゼルエンジンを唸らせて滑り込んできた。乗客の数は少ないが、通勤通学対応で改造された室内にはボックスシートの数が少なく、海側進行方向の席は確保できなかったが、しばらくすれば席も空くだろうと鷹揚に構える。遠出をする人は少ないのがローカル線のいいところでもある。

幡生・長門市間 ラストラン 

 幡生を出発するやいなや単線となった山陰本線は、複線の山陽本線に挟まれるようにして進み、次第に沈み込んで山陽本線の上り線の下を潜るようにして分かれていく。何度も言うようだが本線とは名ばかりのローカル線なのだが、それだけに出発して20分もすると日本海・響灘(ひびきなだ)が見えてくる。小串までは通勤通学圏のようで、その先は列車の本数もぐっと減ってしまい、それとは裏腹に景色が輝いてくる。列車は阿川までほぼ北を目指して進んでいくため、海側に席を取ると午後の日差しがまともに降り注いで、冬とはいえまぶしいくらいだ。天気は悪くないが風が強いため、響灘は三角波が立っている。乗客は少なく、ボックス席を一人で占有できるほどになった。
点在する牧草牧草ロール
阿川駅にて

 長門二見からは一旦海と別れて内陸を行き、難読駅名横綱級の特牛に着く。「こっとい」と読むのだそうだが、語源に諸説あって定説はないくらいなので、読めないのが当たり前と言える。ただ漢字が示すように辺りは放牧が盛んなようである。次の阿川駅前には牧草地が広がっていて、あちこちに白いビニールに包まれた牧草ロールが散らばっていた。
その名も何とムカツク半島

 列車は阿川を出ると次第に進路を東に変えて、再び海辺を走り始める。響灘とは別れを告げて、ここからは油谷湾へと入っていく。対岸に見えるのが向津具半島で、これも難読地名だが、傑作なのは「むかつく」半島と読むことだ。「いったい何で?」と言いたくなるほど、むかつきとは無縁な、ほっとするような良い景色が続く。
 油谷湾が尽きて再び内陸に入り、しばらくすると人丸に着く。これは柿本人麻呂にちなむ駅名なのだろうか。全国各地に人丸神社があるが、その多く祭神は柿本人麻呂であるし、ここから人麻呂の誕生と終焉の地石見国はそう遠くはない。このあたりは駅名・地名が楽しい土地だ。
只の浜の向かいには青海島

 下関を出て70㎞ほどの距離を走り、約2時間が経過した。列車は只の浜に沿って、ゴールの長門市に近づいていく。目の前の海は青海島と本州に囲まれた深川湾である。その一番ふところ奥に位置しするのが仙崎の町で、青海島とは橋一本で繋がっている。橋の向こうは仙﨑湾が広がり、日本海側では屈指の漁港となっている。この仙﨑までは長門市から一駅だけ山陰本線の支線が繋がっていることは、すでに中編で触れた。
 ということで、私の山陰本線乗り尽くしの旅も漸く終わりに近づいた。初めて山陰本線を旅したのは高校生の時だから、40年越しの「快挙」となる。そのゴールが長門市という昭和が取り残されたような場所であったのは、偉大なるローカル線の旅のフィナーレに実にふさわしいと思う。
懐かしい国鉄色のディーゼルカー
長門駅にて

 40年の間には、景勝地の保津峡がトンネルの完成で楽しめなくなったり、列車の落下事故で有名となった餘部鉄橋が付け変わったりしているので、まだ厳密には完乗ではないけれど、車窓を楽しむという点では、乗り切ったなという思いが沸いてくる。
 それにしても海の風景がこれほどまでに楽しめる路線がほかにあるだろうか。絶景路線は全国各地にあるものの、日本の美しい海岸線を辿りながら走る路線としては、偉大なるローカル線山陰本線こそが筆頭と言うべきだろう。
(2015/1/6乗車)

2014年4月1日火曜日

スイッチバック讃歌

篠ノ井線 姨捨(おばすて)駅

特急 しなの6号 名古屋行

善光寺平を見下ろしながら、

特急は姨捨駅(左)の脇を通
過してしまう       
 駅に降り立った時、焚き火の香ばしい薫りがした。更科の里では、農作業を間近に控え、ところどころで枯れ草を燃やしている。春は確実にやって来ていた。
 姨捨駅は日本三大車窓の一つに数え上げられ、善光寺平(長野盆地)を見下ろす冠着山の中腹に位置しているだけあって、素晴らしい眺望が楽しめる。ホームのベンチはすべて線路側ではなく外を向いている位だ。松尾芭蕉が「田毎の月」と詠った棚田もすぐ向かいの斜面に広がっている。
 この三大車窓は一体誰が言い出したのかはわからないが、九州・肥薩線で矢岳を越える際に見える霧島連山の眺めと、北海道・根室本線の狩勝峠越え(ただし廃止された旧線に限る)で見える十勝平野の眺めということになっている。それにしても雄大な風景はほかにもあるはずで、どうしてこの三つなのか。
しなの6号遠望

篠ノ井からおよそ70mほ
ど登って来たところ。姨
捨まではあと120m上らな
くてはならない。後方、
白銀に輝くのは戸隠山。
(姨捨から撮影)
 共通するのはいずれも峠を越えて突然ひらける雄大な眺めという点であろう。ということは蒸気機関車時代の人々の思いが関係していそうである。峠を登る機関車は凄まじいほどの煤煙を吐き出す。更にその先に待ち構えているのはトンネルだ。窓を閉めても通路を煙が漂い、ハンカチで鼻と口を塞いでも煙の匂いと酸欠で息苦しい。もう勘弁してくれと思った時、トンネルを抜け出した列車は雄大な景色の中を、下り坂で煙を出さなくなった機関車に引っ張られながら軽快に走っていく。爽やかな風はこの景色に酔った人々にさぞ快かったに違いない。

 在来線の多くは蒸気機関車時代に敷設されたため、とびきり勾配に弱い機関車のために様々な工夫が凝らされている。その一つにスイッチバックがある。姨捨は姨捨伝説や松尾芭蕉の「田毎の月」だけでなく、スイッチバックでも有名な駅である。
桑ノ原信号場

本線は坂になっているが、左右
の引き込み線は水平に設置され
蒸気機関車でも動き出せるよう
工夫されている。      
 篠ノ井線は善光寺平が尽きる稲荷山駅から先には25パーミルの勾配が続く。パーミルとは千分率のことで、1000mにつき25m登る勾配であり、人や車にはさほどでもないが、蒸気機関車や貨物列車にはとても手強い坂となる。また篠ノ井線は特急も頻繁に通る重要幹線でありながら、複線化は見送られているため、駅間が長いと列車交換に困るので、その対策として信号場を設置し列車同士が行き違えるようになっている。
 ところが馬力の弱い蒸気機関車は坂道発進が出来ないので交換施設は水平に設置する必要がある。そこで本線は坂のままとし、信号所は水平を確保して、蒸気機関車は平らなところで勢いをつけてから登攀できるようにしたのが、桑ノ原信号場のようなスイッチバックなのである。稲荷山から登ってきた列車は、桑ノ原信号場で一旦左側の引き込み線に入る。ここでスイッチバックして本線を横切り右側の引き込み線で待機し、下ってくる列車の通過を待つ。列車が通過したら、助走をつけて本線を再び登って行く。蒸気機関車が廃止された後も、重量のある貨物列車にとっては必要な施設である。
 桑ノ原信号場をノンストップで通過すると電車は次第に高度を稼ぎ、あたりの家が次第に小さくなっていき善光寺平が広がっていく。脇には長野自動車道が通っているが、あちらは既により高所を走っている。やがて前方に姨捨駅が見えてくる。

右上に姨捨駅見えてくる。中継信号機が斜めとなっ
ているのは、この先の側線用信号機が<黄=注意>
となっているため。本線側は<赤=停止>    


姨捨駅へは一旦左側の側線に入り、バックして右手
前に進んでいく                

運転手は移動せず、窓から身を乗り出して安全確認
をしながらバックする             

逆推進運転中に下り普通電車が近づいてくる


乗車してきた上りが冠着に向かって出発したあと
今度は下り長野行が先程の側線に向かってバック
していく                  
バックを終えて、姨捨駅脇を長野に向けて下って行
く普通電車。向こう側斜面に棚田が広がる    

 この日、姨捨駅から見る戸隠や飯縄の山々は残雪で白く輝いていた。眼下には善光寺平すべてが見渡せる。手前の棚田に水が湛えられるまでにはまだ日があるようだ。秋の実りの季節には黄金色の稲穂がそよぎ、さぞ美しいことだろう。再び違う季節にここを訪れたいと思いつつ、次の下りを待った。
(2014/4/1乗車)

信越線 関山駅・二本木駅

関山駅

かつては左側に伸びる先に関山
駅があった。本線は横断歩道橋
のところで右にカーブしている
 鉄道の近代化とともにスピードアップの妨げになるスイッチバックが次々と消えていった中で、信越線にたったひとつだけ取り残されたスイッチバック駅がある。
 妙高高原駅から高田平野の外れにある新井駅までは21km、標高差は約450m。25パーミルほどの勾配で下って行く。間には関山と二本木の二駅があり、どちらもスイッチバックの駅だった。昭和60年(1985年)、すべての列車が電車化されるのに伴って、関山は通常の駅に変更され、線路自体は今も敷設されているものの、スイッチバックは廃止された。今も残るのは二本木のスイッチバックである。
 二本木駅がスイッチバック駅として残ったのは、駅の隣にある日本曹達二本木工場の専用線が併設されていたためであり、貨物輸送そのものが平成19年(2007年)になくなってしまったので、保線の面倒なスイッチバックは早晩廃止の憂き目に会うことだろう。
前方に二本木駅

本線は信号機の所で右に消えている。
※ 運転台後ろからの撮影のためガラ
スの文字が写り込んで見にくくなっ
  ている              

 姨捨駅が観光的価値もあってこれからも生き延びるであろうことに比べて、信越線の方は風前の灯である。信越線自体は横川・軽井沢区間が廃線となった段階で、都市間輸送の役割を終えて、もともと人口の少ない地域のローカル線として分断されてしまった。来年春の北陸新幹線開業によって更にそれは推し進められることになる。優等列車もなくなり本線を通過するだけの定期列車が全くなく、すべての列車が二本木駅に立ち寄るにも関わらず、構内の線路が雑草に埋もれているのは、ここがすでに役目を終えつつあることを示している。
 鉄道愛好家はノスタルジーに浸りたいものだが、現実は甘くない。信越線の車窓の素晴らしさはまた別のところで触れたいが、ここの鉄道が活気を取り戻すのはなかなか一筋縄ではいきそうもない。
(2014/4/1乗車)


登攀するためのスイッチバック


木次線三段式スイッチバック

左が一段目、右が二段目。少しずつ
高度を稼いでいることがわかる。 
 スイッチバックは英語でZIGZAGとも言うそうで、本来は急斜面をジグザグに登って行くためにある。姨捨や二本木のように、勾配ではあるものの登攀そのものは直線的で機関車が再発進するために停車場を折り返しにしているスイッチバックは、蒸気機関車全盛時代には日本各地に見受けられた。今はそれが希少価値となっているのだ。
延命水で有名な出雲坂根駅

右が一段目、左が二段目。左線路を
手前方向に登っていけば、やがて次
のシェルター付分岐に辿り着く。 
 さて、本来の登攀するために造られたスイッチバックとしては、箱根登山鉄道の四段式スイッチバック、木次線の出雲坂根や豊肥本線の立野の三段式スイッチバックが有名である。それぞれ行ったり来たりしながら高度を稼いで行く。視界が開けていくと同時に、今さっき通過した線路が見えるというのも、なんとも不思議な感覚である。いかにも登って行く(あるいは降りていく)ということが実感できる点で、スイッチバックはとても楽しい鉄道イベントである。
左が二段目、右が三段目

雪の多い地方のため、人里から離れ
た分岐器は雪囲いのシェルターで守
られている。三段目手前方向に登っ
ていくと、この峠のサミットに至る
 箱根登山鉄道や木次線の場合、運転手が運転台を移るというセレモニーまでついている。ここではスピードアップ・時間短縮などどこ吹く風、実にのんびりとしたものだ。効率優先の今の世の中にとって、なんと無駄多き世界の贅沢なことよと思わないではいられない。特に木次線の場合、そこに辿り着くまでがまた一苦労で、新幹線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えた後、新見でローカル線の芸備線に再び乗り換えて備後落合まで行けば、ようやく一日三往復しかない木次線に乗ることができるという、なんともまあ極めつけの秘境にそのスイッチバックはある。何かのついでに立ち寄ることなど所詮無理。スイッチバックのために一日を使うという、実に贅沢な時間を使った旅が楽しめる。
(2011/1/6乗車)
  
驚きのスイッチバック 立山砂防工事専用軌道

 さて、登攀するためのスイッチバックとして前代未聞の、驚きのスイッチバックが富山県にある。YAHOO地図にもグーグルマップにも記載されていないし、勿論時刻表や旅行ガイドブックにも掲載されていない。鉄道紀行作家の宮脇俊三が『夢の山岳鉄道』の中でこう記している。
 
「起点の千寿ヶ原まで一八・二キロ、スイッチバック四二カ所のこの破格の砂防工事専用軌道の乗車体験について、くわしく書くのはやめる。書けば書くほど鉄道ファンの嫉妬羨望の的になりそうだし、うまく書けそうにない。わりあい正確な路線図を一所懸命に書いて挿入したので、黒岩さんの絵を参照しながら乗り心地を想像していただきたい。」
(宮脇俊三『夢の山岳鉄道』より)

 これでは馬に人参ではないか。この御馳走お預け的文章には正直困った。見てみたい! 乗ってみたい!
 宮脇俊三が書けなかったのは、特別な許可を得て乗車したからであり、鉄道愛好家としてフェアでないと考えたからであろう。しかし現在では唯一乗るチャンスがある。立山砂防体験学習会に参加することだ。ただし回数が限られており、抽選に当たらなければならない。何とそれに当たったのである。
 
白岩砂防堰堤
8つの砂防ダムで
落差108m分の土砂
をくい止めている
 立山砂防工事専用軌道は立山カルデラという聞き慣れない地域にある。有名な黒部立山アルペンルートのすぐ脇にあるのだが、一般人立ち入り禁止区域のため、地元民以外にはほとんど知られていない。東西6.5キロ、南北5.0キロの巨大なスリ鉢状の地形の中にあった鳶山が、安政年間に起こった大地震で完全崩落し、その大量の土砂が放っておくと急流常願寺川によって富山平野に流れてくる。全て流出すれば富山平野が1〜2m埋まってしまうほどの気の遠くなるような量の土砂が立山カルデラにはあるのだという。カルデラはその形状から普通出口は1カ所である。そこで塞き止めれば流出は防げる。治山治水は国の要。人が住めるような場所ではないから国としては立ち入り禁止とせねばならない。しかし、莫大な資金を投じて努力している姿は是非国民に知って貰わなければならない。観光の為ではなく、国が如何に努力しているかという理解者が必要で、だから学ぼうとする限られた人にだけ門戸が開かれる。それが体験学習会なのだ。つまり以上のことを学んだ人だけが、砂防工事用につくられたトロッコに乗ることができるということなのである。
 
デーゼル機関車が3両の 
人員輸送用トロッコを牽引
 起点の千寿ヶ原は、人でごった返す立山ケーブル駅の目と鼻の先にある。ただ堅苦しい感じの漂う砂防博物館の裏手にあるため、多くの観光客は気付かず素通りしてしまう博物館の下に車両基地があるが、これも外からは見えない。博物館内で学習したあと、ふと二階の窓から外をみるとトロッコ基地があることに気付いた。まるで遊園地の豆列車のようだ。ただ違うのは、敷かれた軌道の数。その数が半端ではなく、大規模な施設なのだということが実感される。運転訓練用の軌道まであるのだ。
屋上にヘリポートがついた
事業所・博物館。停留所名
は千寿ヶ原       
 この日の体験乗車に使用されたトロッコ列車は、「平成」号と「薬師」号の二編成。夏休みということもあって、通常の倍の人数である。多少倍率が低かったと見える。我々は第一便となった平成号に乗り組む。トロッコはしばらく常願寺川沿いを遡り、最初のスイッチバックでもと来た方に戻り高度を上げていく。下を逆方向に薬師号が走っていく。これはいい! 薬師号がいい被写体になりそうである。やがて千寿ヶ原まで戻って来た。もちろん高度が上がっているから、博物館が下に見える。屋上は災害時用のヘリポートが設置されていた。トロッコはそのまま進み、観光客で満員の立山ケーブルと擦れ違う。先ほど乗って来たものだが、そのときはトロッコが走っていなかったので気がつかなかった。
バラスト貨物とモーターカー
通過した箇所を下に見つつ 
スイッチバックしながら進む
(7.9キロ地点 鬼ヶ城連絡所)
 専用軌道は軌間610ミリ、全長18.2キロからなる。千寿ヶ原から水谷の間には5カ所の連絡所が設置されていて、ここで列車の交換がなされている。連絡所という名前からして、閉塞確認を連絡し合っている信号所という位置づけなのだろう。擦れ違う列車には乗っている人員輸送用もあれば、バラスト運搬用貨物列車、モーターカーも見かけられた。
薬師号は前進から停止、
更に後進していくところ
 千寿ヶ原の標高は476m、左の写真の鬼ヶ城は713mで、すでに237m登って来たわけだが、距離は7.9キロだから、平均勾配は30‰ということになる。多くはスイッチバックで稼いでいるので、それ以外は平坦な感じだ。


身を乗り出してバック運転
 ところで終点水谷は、白岩砂防堰堤よりも高い位置にある。そして堰堤より低い位置にある最後の連絡所が樺平だ。水谷が標高1116m、樺平が883m。標高差233m。ここに驚きの18段連続スイッチバックがある。何回も往復運動しながら、200mの山肌を登っていく。まさに、スイッチバックの頂点に立つ見事な景観だ。最初は見上げていた向かいの山の岩壁が、次第に同じレベルになり、眼下に移っていく。鬱蒼とした緑の中のスイッチバックだから、残念ながら全貌が見渡せる箇所はないが、途中で何段目か数えるのを忘れてしまうほど、いつまでもいつまでも続く至福のスイッチバックであった。
鉄道模型のレイアウトのような
配線            
 最初に載せた白岩砂防堰堤の遠望写真は、18段スイッチバックが終わった近くの展望台で撮影したものだ。見えている部分の標高差は100m余り、この倍の高さを18段で登って来たかと思うと、いかにスケールの大きなスイッチバックであるかが実感としてわかってくる。
 およそ1時間40分の旅が終わる。水谷から先はバスで砂防ダムを見て回る。あくまでもトロッコは、国の治山治水の最先端を学ぶための移動手段なのである。帰りは、最初にバス見学した人たちの帰路用であるから、残念ながらここでトロッコとはお別れだ。終わってみれば、まさに夢のような体験であった。
(2011/8/17学習)
立山砂防の図







2011年1月6日木曜日

おろちループとスイッチバック


山岳鉄道の聖地 木次線を訪ねる
 山岳鉄道愛好家なら誰でも一度は訪ねてみたいと思う路線がある。島根県の宍道から広島県の東北部、備後落合に抜ける木次線だ。八岐大蛇で有名な斐伊川を遡り、松本清張の『砂の器』で複雑な謎解きの発端となる亀嵩(かめだけ)や日本を代表するソロバン生産地、雲州算盤の出雲横田を通って、奥出雲地方の最もはずれに位置する出雲坂根で、ついに立ち塞がる中国山地に行く手を阻まれるローカル線である。 出雲坂根から標高727㍍の分水嶺に近い三井野原までの間には161㍍の標高差がある。直線でわずか1.3㌔程の距離だからそのまままっすぐに結べば124‰(12.4%)の坂道になる。自動車道路でもふつうだったら造らない急坂であろう。ましてや坂に滅法弱い鉄道だから長いトンネルを遙か先の油木辺りまで掘り抜けばよいはずである。そうすれば終点備後落合も目前となる。ところが出雲横田から備後落合の間は一日にわずか3本、上下併せても6本の列車しか走らない超閑散路線ということもあって、採った方法は行きつ戻りつよじ登る三段式スイッチバックと6.4㌔に及ぶ大迂回路だったのである。山岳鉄道好きならば一度は訪れなければならない聖地と言える。

 余談ながらこのような超赤字路線が廃止の憂き目を免れたのは、ここに満足な自動車道路がなかったからである。そもそもこんな僻地だから多額の資金を投入するほどの需要もない。「どうだ、鉄道の有難味がわかったか」と自慢したくなるところだが、平成4年に「奥出雲おろちループ橋」が完成したのは地元の方々には慶賀なこととお喜び申し上げるものの、一介の愛好家としては実に無念ではある。しかも名前にもあるように山岳鉄道の華、ループで山を駆け上るとは実に怪しからん限りである。

 さて長年夢見ていたこの聖地を訪れるチャンスがついにやって来た。寝台列車愛好家でもある私にとって、東京駅からブルートレインが全滅したのは寂しさの極みだが、唯一残るサンライズ瀬戸・出雲号に乗って、新幹線では味わえない豪華でプライベートな旅をしてみようということになったのである。仕事の都合から現地で宿泊する時間はない。どうせなら瀬戸号で高松、あるいは出雲号で出雲市まで完全乗車するのが望ましく、両方利用して東京から往復すれば、出雲市・高松間に木次線も含められそうである。

 ということで時刻表を調べることとなった。一日3本の超ローカル線なので、接続にはかなりの制約がある。本来なら宍道から備後落合に向かって山を登りたいところだったが、サンライズ出雲を宍道で降りてしまうと宍道・出雲市間のわずか一駅間が未乗車区間になってしまう。宍道発は1121分なのでそのまま出雲市に958分に着いたあと折り返しも可能だったが、朝食はどうしようかと考えているうちに妙案が浮かんだ。

 サンライズ瀬戸で728分に高松に着き、1855分出雲市発のサンライズ出雲で東京に戻る。朝は高松で讃岐うどんに舌鼓を打ち、夜は出雲で割り子蕎麦をたぐりながら酒を飲む。我ながらいい企画だと思っているうちに、肝心の木次線は二の次になった。であるからに、木次線の旅は備後落合から中国山地の分水嶺に向かい、更に山を下って宍道へ行く行程となったのである。



芸備線で備後落合へ
 備中神代で電化された大動脈、伯備線に別れを告げた芸備線の気動車は、保守の行き届いていないレールの上を大きく車体を揺らせながらも快調に走っていく。中国山地と並行して走る中国自動車道と付かず離れず進む備後落合行は、キハ120型の新型ワンマンカーである。新見からは午前中で学校を終えた女子高生が多く乗り込み、各駅に停車するごとにすこしずつ降りていった。最初は女子高生ばかりかと思ってよく見ると同じ数ほど男子学生も混じっている。ここでも元気なのは女子高生ばかりだなとつい笑ってしまう。そろそろ元気のないダメな日本は、その改革を元気な女性に任せた方が良いのではないかと真剣に考えてしまう。一方で元気なのは高齢者である。私が座っているロングシートの対面では先ほどから70歳前後の男性が連れ人に大きな声で話をしている。「姥捨」だとか「立野」とかいう言葉が耳に飛び込んでくる。どうやら同好の士であるようだ。山岳鉄道の風光明媚な場所に行ったことがあるという自慢話なのだが、ああいう周囲の目を憚らぬ態度は鉄道愛好家としては失格である。その点私などは実に慎ましく外の風景を楽しんでいる。本当は運転台の横からカメラで前方に伸びる線路を狙いたかったのだが、高齢愛好家とはまったく別の男性が先程から運転台脇にかぶりついてビデオを回している。実に嫌な予感がしてきた。ひょっとしてみんな考えることは同じ? 真冬の木次線に乗りに来たのではないか。
 鉄道愛好家であることに気恥ずかしさが全くないかと問われれば、ないとは決して言い切れない。勿論好きなことをしてどこが悪いなどと居直る無骨な神経もない。人目を気にするシャイな愛好家だからこそ、鉄道の旅は一人旅と決めているのだ。
 ところでローカル線の列車が遅いのは何も馬力不足のためだけではないようである。中国自動車道と別れを告げて、中国山地の山懐に入っていくにつれて次第に線路は渓流の流れに沿って蛇行するようになる。いかにも落石の恐れや路盤の危なげな箇所を列車は進んでいる。線路脇の標識を見ると、30㌔制限の標識が至るところにある。中には制限15㌔の箇所まであるし、なんと「雨の日は更に5㌔マイナス」となっている。風で減速は聞いたことがあるが、雨で減速などというのは初めてである。それほど危うい路盤の上をそろそろと列車は進んでいく。それでも私が乗車しているキハ120型は軽量車両なので制限が緩いのだそうだ。標識にそう書いてある。一般企業JR西日本にしてみれば、金ばかりかかって儲けの少ないローカル線は一刻も早くなくしたいに違いない。おそらく最低限の保守に切り替えて経費を切り詰めているのだろう。
 その様なわけで、列車は恐々と悪路を徐行しながら進んでいく。雪も深くなってきた。なかなか進まない列車に油断したのか、先ほどから先頭でビデオを回していた愛好家が席に座ってしまった。チャンス到来という思いはおくびにも出さずに、シャイな私は少し間を置いてからゆっくりとカメラ片手に運転台脇の特等席に立つ。そして間もなく、雪間から備後落合が見えてきた。真っ白な世界に、雪で埋もれながらもかろうじて前に進んでいく2本のレール、その先に場内信号とホームと乗り継ぎの気動車が1台見えてくる。他はなにもない。わずかに人家があるはずだが、白い世界に埋もれてしまって、そこには備後落合駅だけがあった。いい駅だ。
 備後落合は芸備線の途中駅であると同時に木次線の終着駅でもある。途中駅といっても全線を直通する列車はなく、備後落合で乗り換えて次の乗換駅三次に向かうことになる。だから、一度に3列車がここに集結し、人を入れ替えて、また3方向に散っていく場所なのである。多くの同乗者はホーム向かい側に停車していた三次行に乗り換えた。鉄道愛好家達は雪に覆われた駅と気動車を物珍しげにカメラに納めている。先ほどの高齢愛好家は三次に向かうのだという。乗り合わせた乗客が皆、木次線に向かうのではと言う危惧は無用だった。こんな寒い時期に更に僻地へ向かう物好きなどそう多くはない。出雲横田行の気動車に乗車したのはわずか5名だった。

天孫降臨
 1425分、この日の2番列車が軽快なエンジン音を響かせながら備後落合を後にした。次は1750分の最終である。しばらく三次方面に続く芸備線と併行して走り、その後すぐ
に進路を北に向ける。いよいよ中国山地越えだ。備後落合は標高480㍍ほどだから、これから距離にして10数㌔を250㍍ほど上っていくことになる。人家のない谷間を往来もまれな道路と寄り添いながら進んでいく。この道を東城往来と呼ぶのだそうだ。備後と周辺諸国とを結ぶ四通八達した街道が昔からあり、ここはその一つ出雲と結ぶ道である。時折車も通るが、その数はきわめて少ない。雪が更に深くなる。
橋の向こうに雪よけトンネル
 分水嶺のある三井野原からがいよいよ木次線最大の見せ場、山岳鉄道愛好家の聖地である。ここは日本神話八岐大蛇の舞台でもある。ここから下った地が出雲であるから、三井野原は高天原に準えられる。これから天孫降臨のように豊葦原中つ国に降っていくかと思うとワクワクする。まず目の前に飛び込んでくるのが真っ赤なアーチ橋三井野大橋で、奥出雲おろちループ橋と一体になって東城往来を天上界から地上界へと結びつけている。我らがキハ120型は上空からゆっくりと見下ろしながら進んでいく。辺り一面は雪で埋まったモノトーンの世界である。吹き上げる寒風のため車窓が白く曇る。やがて奥出雲おろちループ橋の雄大な円弧が見えてくる。豊葦原中つ国へはつむじ風のようにして降りていかねばならないあちらと違って、我々はこれから大きく東に進路をとり、いくつかの隧道を抜けて再び進路を西に変えループ橋の向こう側まで行くことになるが、雪に埋もれて行く手は見えない。しばらく時間が経過し冬枯れの木立を抜けると目の前にコンクリートの柱、ループ橋の橋脚が見えてきた。だいぶ中つ国に近づいたようである。ループ橋の向こうには先程通過してきた高天原の雪よけトンネルが見える。鉄道愛好家は自分が通ってきた線路が見えるとなぜか心が熱くなるものである。そしてしばらく進むと今度は左側の眼下に線路が見えてどんどん迫ってくる。いよいよ三段スイッチバックの始まりだ。こみ上げる感動は更に頂点へと高まっていく。
 前方スイッチバックの分岐点は、ポイント凍結防止のために切妻屋根のついた木造小屋で覆われていた。雪の風情にぴったりである。小屋を抜けて列車はゆっくりと停車した。一段目が終わると、急ぐわけでもなく運転士はマスコンハンドルを抜き、後ろの運転台へと向かう。車内にいた他の乗客は午後の気怠い時間を朦朧と過ごしているが、私だけは興奮の中にあった。ここからわずかの間、列車は逆方向に進んで降りていく。さあ、また先頭で見るぞと思って愕然とした。運転台の前を除き、雪が付着した窓から前はよく見えなかったのである。ぼやけた小屋、うっすらとしか見えない分岐、いい写真が撮れないなと少し残念だったが、これが真冬の鉄路の旅なのである。
後ろにアーチ橋
 ゆるゆると進む列車の右側下から線路が近づき、ポイントどうしが交差して出雲坂根に到着した。これで二段目終了。ここには有名な延命水があるが、寒いし誰も降りないのでまたの時にしようと思う。一歩だけ外に出て駅の行き止まり前方を見上げると、先程見下ろしてきた三井野大橋の真っ赤なアーチが小さく見えた。161㍍の標高差を実感した瞬間であった。
宍道にて
 この先列車は再び反転して三段目の坂をゆっくりと豊葦原中つ国出雲へと向かっていく。宍道まではまだ遠いけれど、出雲に着けば蕎麦と酒が待っている。次第に暮れていく風景を見ながら、もう一度ここに来ようと思うのだった。(2011/1/6乗車)