2013年11月6日水曜日

飯山線湯けむり紀行

長野新幹線の旅

 秋も深まり肌寒さを感じる頃となった。日頃の疲れを癒そうと温泉も楽しめる飯山線完乗の旅に出ることにした。長野から入り、帰りは越後湯沢に立ち寄って利き酒を楽しむのも一興だ。車窓の旅に新幹線は無粋とは思ったが、のんびりと出発時間を遅らせたいという欲望に負けて、東京駅から新幹線に乗ることにする。11月最初の水曜日、席は楽勝に取れると高を括っていたら、窓側は全て売り切れていた。東京7:24発、長野8:49着の速達タイプのあさま505号はビジネスマンに人気の列車だった。上野は通過する。曇り空のなか、上中里あたりの木々は少しだけ色づいてきている。
 大宮からは大勢のビジネスマンが乗車してきて、あっという間に車内は満席となった。どこか東海道新幹線の新横浜を彷彿とさせる光景だ。人口のドーナッツ化、分散化が進んでいるのだろう。ただ上越新幹線開通時に作られた新幹線ホームは、陰気くさい雰囲気の漂っているところが多く、大宮駅も例外ではない。施設そのものがだいぶ古くなってきた上に、屋根付きで日が差し込まず、しかも節電が徹底しているからだ。更に、3面6線の大掛かりな駅でもある。新幹線が暫定開業だった頃、始発駅として3面必要とされたかららしいが、今は真ん中の1面はあまり使われていないので、余計暗い雰囲気が漂っているわけだ。
 さて通路側から車窓ばかり眺めていると隣の人の気が散るだろうから出来るだけ遠慮する。高崎に近づくと速度は160キロに減速し、そのまま通過となる。この減速は、日本最大の38番分岐器を分岐側に通過する際の制限速度だからである。上越新幹線と長野新幹線は高崎駅の先、3.3キロ地点で別れていくが、上越方面は直進側のため速度制限はなく、長野方面は分岐側のため160キロに制限速度が定められている。38番分岐器とは、38m進む間に1m離れ、レールが交差するクロッシングまでは134m以上ある大変大掛かりなしかけだが、通過時はそれなりのショックがある。ほとんどの人は気にも留めないが。
 再び加速して山が近づきトンネルを抜けると、安中榛名。軽井沢までは連続勾配のためスピードが落ちる。トンネルの出入りが激しくなるので「耳ツン現象」が起こるが、安中榛名から軽井沢まで一気に700mも駆け上るのだから、それも当たり前といえば当たり前のことだ。横軽の苦労は過去の記憶となり、そのうち忘れ去られていくことだろう。
 トンネルを抜けて紅葉の軽井沢を時速50キロほどのゆるゆるとしたペースで通過する。長野新幹線は随所に速度制限の場所があるようで、新幹線らしくないよなあと思う。右側の車窓にちらりと浅間山が見える。中腹の森林限界までは紅葉しているが、色合いはシックな感じで、鮮やかさはない。雪が降った形跡はなかった。
 佐久平を過ぎると台地の上を疾走するが、防音壁が続いているために見晴らしは悪い。ここがちょっと興醒めで、「詰まらないなあ。やはり新幹線は日本の移動を詰まらないものにしている」と思わざるを得ない。ようやく首都圏を離れて最初の停車駅上田に着く。多くのビジネスマンがここで降りていった。新幹線を使うと、東京まで1時間、上田から長野はわずかに10分。定期券代の問題さえ解決できれば、どちらも十分通勤圏である。
 新幹線の開通で時代に取り残された町として小諸がある。かつては文豪島崎藤村や全国でも珍しい穴城の懐古園で有名な土地であり、情緒豊かな宿場町であるが、今は見る影も無い。上田が東京に近づき、小諸が遠ざかって忘れられていく。新幹線の破壊的な影響力を感じる。もしも長野新幹線が軽井沢か先をミニ新幹線にしたらどうなっていたのか。山形新幹線によって、米沢・高畠・赤湯・かみのやま温泉は文化圏・生活圏を破壊されることなく、山形県は山形県のまま東京との距離を縮めたのではないか。この点に関してはJR東日本の英断は賞賛に値する。一方長野新幹線は本来北陸新幹線の一部であるからそれは所詮叶わないことなのかもしれず、であるなら小諸の再生は中央から見放された小諸自身の努力の推移を見守るしかない。
 昭和の時代、長野は夜行列車で行くのも選択肢の一つとなるような土地だった。初めて信越本線で越後の高田まで行った時は、上野で何時間も並び、満席の夜行列車で首を痛くしながら一晩過ごして、夏の早い夜明けを長野盆地のリンゴ畑で迎えた。今ではまるで嘘のように首都圏と信州の距離は狭まっている。速達タイプはわずか1時間25分で東京と長野を結んでいるが、新幹線の速度もさることながら、やはり横川・軽井沢間の碓氷峠越えが如何に大変であったかを物語っている。
 屋代付近でトンネルを抜ければいきなり長野盆地が広がり、千曲川と犀川を渡れば呆気ないほどの早さで長野駅に滑り込む。

飯山線にゆられて <Part Ⅰ>

 飯山線は長野県豊野から越後川口まで全長96.7キロの全線単線のローカル線だ。全線ほぼ千曲川(信濃川は新潟での名称)に沿って走り、世界有数の豪雪地帯を走る鉄道として有名である。長野盆地から日本海に抜ける大河とともに新潟を目指し、2000m級の山が控えた妙高高原や菅平高原に挟まれたのどかな盆地をゆったりと走っている。
 長野からは2両編成十日町行に乗車する。乗車したのはキハ110-229、JR東日本の標準的な気動車で馬力があり加速も優れているが、何よりも嬉しいのは2・1の3列シートとなっていて、一人客でも気兼ねすることなく旅が楽しめることだ。しかも1列側は進行右側で千曲川が堪能できる車窓である、日差しの強さが玉に傷であるが。
 住宅街を抜け、北長野を過ぎるとリンゴ畑が広がり、真っ赤にかわいらしく実ったリンゴが鈴なりになっている。それにしても長野盆地にはリンゴがよく似合う。所々に柿も実っていて、このオレンジ色も青空に映えてとても綺麗だ。時々北アルプスの山々が雪化粧した姿を見せてくれる。スキーリゾートが盛んな菅平方面にはまだ雪の降った痕跡はない。実に秋は色彩豊かで旅が楽しめる。
 豊野で信越本線が左側に離れていく。飯山線は長野盆地の地形に逆らわず真っ直ぐ進むので、こちらがまるで本線のようだ。そう思ったのも束の間、程なく脇に流れる風景がぐっと迫って、生活色がローカル色に染まり、線路も蛇行を始める。手が届きそうな風景はローカル線ならではのものだ。建設中の北陸新幹線の高架橋もよく見え、あと1年半ほどの迫った開業を前に、あらかた完成しているようだ。
 千曲川は1300m級の高社山と斑尾山に挟まれた山腹を、千曲の名に恥じることなくくねくねと流れ、並行する飯山線も蛇行を繰り返している。対岸の深い山間に広がる扇状地は木島平あたりだろうか。町並みが広がって新幹線の高架橋が近づきけば、そこは飯山である。巨大な新幹線駅舎はまだこの町にはとけ込んでいない感じがする。新幹線をくぐり抜けて200mほど先に飯山駅は昔ながらの佇まいでひっそりと終わりを待っている。ここでも生活圏が移動するのだなと思う。飯山駅には蒸気機関車C56と転車台が残っているのだが、今後どうなっていくのだろう。
 さて列車はこの先の戸狩野沢温泉で1両切り離し、単行となる。ローカル色が一層深まる。次の停車駅は今回の目的地である上境だ。






いいやま湯滝温泉

 飯山線で旅をするなら、駅から近いここを訪ねようと思っていた。時刻もちょうど昼時、温泉につかってお酒を嗜むのも悪くない。2時間ほどノンビリできる。日帰り立ち寄り湯は駅からほんの200mほど、千曲川が蛇行する川に突き出た見晴らしの良い所にあった。
 空は快晴、紅葉もほど良く色づき、空気は澄み切っていた。温泉は内湯と露天風呂が離れていて、木塀で隠された通路で内庭を迂回していく。この木塀はどう見ても、歩く人を隠すためのものではなく、女湯の目隠しであろう(現に帰りがけに撮った写真を見ると、近くの橋からは通路が丸見えだ)。
 この時期でも濡れた素肌には結構寒い移動だが、日差しがあるので気持ちよい。平日の真昼だから客も少なく、ほぼ独り占め状態であった。お湯に浸かって、ぼうっとしていると、日頃の疲れが肩から抜けていくのが実感できる。人が仕事している時に、こうして極楽気分を味わうことは何と快感であることか。更にこの先には、一献が待っている!
 地元の紫米でつくった皮が特色の紫米餃子を摘みに、生ビールで喉を潤す。ほろ酔い気分で休憩所に寝転ぶ。まさに至福の時。
 
冬支度

 上境でみつけた豪雪地帯の冬支度をいくつか紹介しよう。

融雪道路
雪国では良く見かける施設。
人口がそれほどない地域にも
インフラの充実は欠かせない
のだからたいへんだ。

豪雪地帯の消火栓
夏と冬とで使用する高さが
異なっている。これは面白い。


綺麗に並べられている。
几帳面な人なのだなあと感心する。

駅前には火の見櫓と
1軒の店屋があるだけの
のどかな田舎だ。

飯山線にゆられて <Part Ⅱ>

 薄の穂が揺れる中を定刻通り越後川口行がやって来た。ここからは更に豪雪地帯となる。
 上境からは山が次第になだらかになり、ほろ酔い気分と午睡の時間も迫って、うたた寝が始まる。
 その時ふと目に飛び込んで来たのが、「日本最高積雪地点」記念碑である。7.85mとは凄まじい。碑の一番上に横線が引かれているが、ここまで積もったのである。戦争末期のことだ。ここには豪雪の時期にもう一度訪れたいものだ。ただ、以前ほど鉄道は雪に強い乗り物ではなくなったので、それなりの覚悟は必要かもしれない。ローカル線が軽視されているのか、安全志向が強まり確認がより慎重になったのか、その理由はわからないが、無理をしてまで走らせないようにしている感じがする。森宮野原のこの碑を過ぎると長野県は終わり、新潟県へと入っていく。
 津南を過ぎ越後鹿渡の先で、飯山線は千曲川から名前を変えた信濃川を渡る。この辺りまで来ると里に出た感じで、風景は取り留めもなくなって、くっきりとした印象にとして残りにくい。十日町では20分も停車し1両増結する。ほくほく線の単線高架上をはくたかが猛スピードで通過していく。高校生がたくさん乗り込んで来た。ローカル線の旅には定番の風景だ。女子高校生が、「この電車に書いてあるワンマンって、なに?」と話しているところをみると、ワンマンを知らないくらいだから通学生ではなさそうだ。
 それにしても電車かあ! 気動車はもはや死語だろうなあ。1両編成で列車も実態に合わないし。呼び名とは難しいものである。でも、電車は勘弁してほしい。これが電車なら、ガソリンとモーターで動くハイブリットカーの方がよっぽど電車である。
 日もだいぶ傾いて来た。この先で信濃川と合流する魚野川を渡れば上越線が近づいてくる。”電車”はここまで。越後川口からは、電気で走る本当の電車に乗って越後湯沢に向かうつもりである。













2013年7月22日月曜日

スカイライナー VS 成田エクスプレス

 千葉にあって神奈川にないもの、それは「東京××」。東京ディズニーリゾートと新東京国際空港、ちょっとマイナーだが東京ドイツ村もある。千葉にとっては、なんとも微妙なネーミングではある。千葉国際空港や千葉ディズニーリゾートだとお客さんが集まらないだろう。「神奈川××」がないのは神奈川がブランドなのではなく、そもそも神奈川県民は自分が神奈川に住んでいるとは言わないのだそうだ。横浜・鎌倉・湘南等々を名乗るのだという。なるほどね。
 それにしても千葉国際空港ならぬ新東京国際空港がある成田までは、遠いなあと思っている人は多いに違いない。羽田がもっと利用できればいいのに。あちらは5本の滑走路、こちらは1.5本の滑走路しかない。しかし、やはり国際線のメインは成田だ。だから、成田までどう行こうということになる。リムジンバスは安いし、いろいろなところから出ていて便利だが、渋滞が厄介。近年、鉄道がとても便利になった。ということで、京成・JR対決!

京成高砂駅通過 成田空港行
 日暮里から高砂までは曲線も多いために100㌔を超えることはない。特に高砂ではきつい分岐をするので、40㌔程度に減速してゆったりと走る。新柴又を通過したところから120㌔を超えた軽快な走りとなる。北総線はどの駅も減速する必要のない構造になっている。特に千葉ニュータウンを突っ切るあたりは、両側の一般道も含めて直線が続く。それにしても、スカイライナーの160キロは実に素晴らしい。印旛沼の脇を滑るように通り過ぎ、成田湯川では減速することなく通過、その先の複線から単線に移る箇所も国内最大の38番分岐器で160キロ走行が可能だ。成田湯川から空港側は直線の為300キロ走行も可能という優れものだ。これと同じ分岐器が高崎駅安中榛名側にもある。京成車両は標準軌だが、車両はミニ新幹線と同じ。前回乗車の際は座席が車端だったため振動が気になったが、今回は中央のため安定した走行感だった。そしていくつかのトンネルを抜けて第1ターミナルへ。この時の減速がかなりきつめで、無駄のない高速からの停車という感じがして興味深い。
長野電鉄で活躍する旧N'EX
スノーモンキー
横浜駅停車中 大船行
 帰りは新宿までN'EXに乗ってみることにした。旧N'EXはリクライニングしない固定シートで如何にも力の入っていない特急車両だった。金儲けの上手なJR東日本は、やる気のない時には徹底して手を抜くが、一旦商機を見い出すと徹底して客獲得に乗り出す企業だ。そういうところが、鉄道愛好家からすれば実に気に入らないのだが、横浜や新宿・渋谷の客が期待できると見て、力を入れた。乗車すると新建材的な臭いが鼻につくが、見た目が綺麗な列車である。フォルムや色彩も都会的でいい。驚いたのは、空港を出るとノンストップで東京なのである。スカイライナーに比べ足は遅く、成田駅や千葉駅では分岐器通過の際に最徐行するものの、このノンストップ効果は大きい。1時間ほどで東京に着くから、スカイライナー利用より早い。この先、渋谷停車のみ。ただ渋谷も新宿も遣り繰りして造ったホームだから、お馴染みの渋谷駅や新宿駅までは結構歩くことを覚悟しなければならない。

2013年3月26日火曜日

失われた山田線を訪ねて

 
 陸中大橋のヘアピンカーブ


めがね橋にはSLが似合いそう
 宮沢賢治が活躍した花巻と新日鐵で有名な釜石を結ぶ釜石線は銀河鉄道を意識したキャンペーンを続けている。沿線には民話のふるさと遠野もあって、JRとしては観光客を誘致した路線であろう。しかし山岳鉄道ファンにとってはそれ以上に垂涎の場、陸中大橋のループがある。
 上越線湯檜曽ループのように完全に閉じたものではないが、Ω(オメガ)ループと呼ばれるように、ほとんど閉じかけたカーブなのである。特に陸中大橋はヘアピンカーブと言っても良い。
眼下にこれから走る線路が見えてくる。
陸中大橋駅は左、釜石は右手トンネル
の先である。               

 両側から迫り来る山間を利用して、出来るだけトンネルを掘らずに勾配を稼ごうとしたために、Ωというよりは音叉の形に近いヘアピンカーブとなっている。そのため、かなりの高低差のある線路同士が平行に走っている場所があって、まるで狭い空間を上手に活かした鉄道模型のジオラマを見ているような錯覚に陥るという。ぜひ、ここを訪ねてみたかった。
 
先程通った橋を見上げつつ進む。
標高差約40m。直線距離130
m。橋では左から右に下っている。
ところが、あの東日本大震災が起こって三陸の鉄道は壊滅的な打撃を受けてしまった。ただの鉄道愛好家が被災地を訪れるというのはいかにも気が引けることだ。随分長い間出掛けていくのがためらわれたが、一方で日本に住む同胞として見ておかなくて良いのかという思いもあった。震災から2年が経ち、被災地を観光することが支援になるという声声も聞かれるようになったこともあって、この地を訪ねることにした。



被災地へ


 釜石は釜石線のほかに山田線と三陸鉄道南リアス線が集まる交通の要衝だ。東日本大震災では、この山田線と南リアス線が甚大な被害を受けた。列車で来られるのはここまでである。 
前方左側に山田線の線路が見える
 お腹も空いてきたので、釜石で昼食をと思ったがどこも11時半からでやっていない。バスの時間が心配なため、釜石での昼食は諦めた。駅前はいきなり新日鐵の巨大な工場があるばかりで、行く当てもないのから近くのスーパーで時間を潰そうと思う。バス停が近いので助かる。無料休憩室でカフェオレを飲みながら、地元の人たちの様子を眺めるが、特段変った所はない。
 バス停「製鉄所前」から「道の駅やまだ」行きのバスに乗る。駅前からは大勢の人が乗って来て、バスは満員になる。津波想定区域の札が立っているが、工場ばかりでまだここが津波に襲われたことが実感できない。しかし、駅前の川を渡ると様子が変った。建物がまばらになのである。残った建物も1階部分が何もないか、シャッターがひしゃげられたりと、津波のエネルギーの大きさを目の当たりにする。バスは市街地を越えて坂を上り次の集落のある入り江に向かってトンネルを潜る。そこで景色は一変した。
 残った建物も何もない。虚しさが漂う。建物はなくてもバスにはたくさんの人が乗っている。彼らはみな被災者なのだ。とても写真など撮れる雰囲気ではない。後ろめたさが込み上げてくる。
 40年前、三陸を訪ねたことがあった。満足に舗装もされていなかった道が、等高線を辿りながら入江から入江へと結んでいた。リアス式海岸は山と山の間に入江があり、集落があるから、道は入江に差し掛かるたびに高度を下げ、次の入江に向かうために山道を登っていった。
 このバスも当時と同じように、入江ごとに山から下っていく。途中までの高台では見慣れた田舎の風景だ。遥か彼方の海は穏やかで綺麗だ。ところが津波浸水区間の札が出てくると、そこから先はなにもない。跡形もない。へし折れた鉄骨は撤去された建物の跡だ。コンクリートの基礎だけが、間取りの形に残っている。それ以外は何もない荒野を、復旧された道だけが、かつてあった街路通りに何キロも続いている。建物はなくても停留所ごとにバスは止まり、人々は少しずつ降りていく。ここからは見ることが出来ない、この先の高台に仮設住宅があるのかもしれない。虚しさと悲しみが押し寄せる。確かにガレキは片付けられたが、それだけに空疎で、復興の兆しはなにもない。
 バスは高台にのぼり、眼下に入り江が広がった。青空のもと、山田湾は実に美しかった。真新しい黄色の浮きが整然と並んでいる。ホタテの養殖だろうか。この海が多くの人の命を奪ったとはとても考えられないくらいだ。
 本来なら山田線でここを通るはずだった。しかし、道床ごと押し流された線路は跡形もないか、あるいはレールがぶらりと浮いて無惨な姿を曝していた。復旧には莫大な金がかかることだろう。JRはどうするのだろう。気仙沼線では鉄道による復旧は断念し、BRT( bus rapid transit=バス高速輸送システム)に移行している。もう二度と釜石・宮古間に鉄道は戻ってこないかもしれない。 
 宮古行バスへの乗り換え停留所は船越駅前である。乗り継ぎ時間の合間を利用して今は使われていない山田線を見に行くことにした。海から遠く高台に位置するこの辺りは、何の変哲もない田舎町である。津波が来るか来ないかで、世界は一変しているのだ。駅片隅にある踏切には「休止中」の札が掛かっている。どこも壊れていない鉄道施設を見ていると、津波など全くなかったかのように思えてくる。
荒れた船越駅
 しかし、列車の通るあてのないレールには錆が浮かんで、命が尽きようとしているかのようだ。早くここまで列車を走らせてやりたいと思うが、代行バスが走っている今、このままずうっと放置されてしまうのではないかという思いが否定できなくなる。
 被災地を訪れたことは、これからの生き方を考えるきっかけになったと思う。誰しもいつかは終える命であるが、それがある日突然訪れてしまったたくさんの人たちがいる。残されても、生活が一変してしまった人たちがいる。自分は運良く、殆ど影響も受けずに生きている。この世の中の不条理をどう受け止めていくのか。じっくりと考えていかなくてはならない。




宮古から盛岡へ

 生き残った山田線は川を辿りながら北上高地を越える景勝路線だ。雪解け水で水量は豊か。新緑や紅葉はさぞかし美しいだろうと思われる。谷は深く渓谷の趣である。宮古の風は冷たくても日差しは明るくやはり海洋性の穏やかな気分が漂っていたが、分水嶺の区界は標高が780メートルもあって一面の雪が積もっている。窓は息で真っ白に曇った。北上高地によって岩手は大きく分断されている。

宮古→盛岡 キハ110 136 単行。