2013年3月26日火曜日

失われた山田線を訪ねて

 
 陸中大橋のヘアピンカーブ


めがね橋にはSLが似合いそう
 宮沢賢治が活躍した花巻と新日鐵で有名な釜石を結ぶ釜石線は銀河鉄道を意識したキャンペーンを続けている。沿線には民話のふるさと遠野もあって、JRとしては観光客を誘致した路線であろう。しかし山岳鉄道ファンにとってはそれ以上に垂涎の場、陸中大橋のループがある。
 上越線湯檜曽ループのように完全に閉じたものではないが、Ω(オメガ)ループと呼ばれるように、ほとんど閉じかけたカーブなのである。特に陸中大橋はヘアピンカーブと言っても良い。
眼下にこれから走る線路が見えてくる。
陸中大橋駅は左、釜石は右手トンネル
の先である。               

 両側から迫り来る山間を利用して、出来るだけトンネルを掘らずに勾配を稼ごうとしたために、Ωというよりは音叉の形に近いヘアピンカーブとなっている。そのため、かなりの高低差のある線路同士が平行に走っている場所があって、まるで狭い空間を上手に活かした鉄道模型のジオラマを見ているような錯覚に陥るという。ぜひ、ここを訪ねてみたかった。
 
先程通った橋を見上げつつ進む。
標高差約40m。直線距離130
m。橋では左から右に下っている。
ところが、あの東日本大震災が起こって三陸の鉄道は壊滅的な打撃を受けてしまった。ただの鉄道愛好家が被災地を訪れるというのはいかにも気が引けることだ。随分長い間出掛けていくのがためらわれたが、一方で日本に住む同胞として見ておかなくて良いのかという思いもあった。震災から2年が経ち、被災地を観光することが支援になるという声声も聞かれるようになったこともあって、この地を訪ねることにした。



被災地へ


 釜石は釜石線のほかに山田線と三陸鉄道南リアス線が集まる交通の要衝だ。東日本大震災では、この山田線と南リアス線が甚大な被害を受けた。列車で来られるのはここまでである。 
前方左側に山田線の線路が見える
 お腹も空いてきたので、釜石で昼食をと思ったがどこも11時半からでやっていない。バスの時間が心配なため、釜石での昼食は諦めた。駅前はいきなり新日鐵の巨大な工場があるばかりで、行く当てもないのから近くのスーパーで時間を潰そうと思う。バス停が近いので助かる。無料休憩室でカフェオレを飲みながら、地元の人たちの様子を眺めるが、特段変った所はない。
 バス停「製鉄所前」から「道の駅やまだ」行きのバスに乗る。駅前からは大勢の人が乗って来て、バスは満員になる。津波想定区域の札が立っているが、工場ばかりでまだここが津波に襲われたことが実感できない。しかし、駅前の川を渡ると様子が変った。建物がまばらになのである。残った建物も1階部分が何もないか、シャッターがひしゃげられたりと、津波のエネルギーの大きさを目の当たりにする。バスは市街地を越えて坂を上り次の集落のある入り江に向かってトンネルを潜る。そこで景色は一変した。
 残った建物も何もない。虚しさが漂う。建物はなくてもバスにはたくさんの人が乗っている。彼らはみな被災者なのだ。とても写真など撮れる雰囲気ではない。後ろめたさが込み上げてくる。
 40年前、三陸を訪ねたことがあった。満足に舗装もされていなかった道が、等高線を辿りながら入江から入江へと結んでいた。リアス式海岸は山と山の間に入江があり、集落があるから、道は入江に差し掛かるたびに高度を下げ、次の入江に向かうために山道を登っていった。
 このバスも当時と同じように、入江ごとに山から下っていく。途中までの高台では見慣れた田舎の風景だ。遥か彼方の海は穏やかで綺麗だ。ところが津波浸水区間の札が出てくると、そこから先はなにもない。跡形もない。へし折れた鉄骨は撤去された建物の跡だ。コンクリートの基礎だけが、間取りの形に残っている。それ以外は何もない荒野を、復旧された道だけが、かつてあった街路通りに何キロも続いている。建物はなくても停留所ごとにバスは止まり、人々は少しずつ降りていく。ここからは見ることが出来ない、この先の高台に仮設住宅があるのかもしれない。虚しさと悲しみが押し寄せる。確かにガレキは片付けられたが、それだけに空疎で、復興の兆しはなにもない。
 バスは高台にのぼり、眼下に入り江が広がった。青空のもと、山田湾は実に美しかった。真新しい黄色の浮きが整然と並んでいる。ホタテの養殖だろうか。この海が多くの人の命を奪ったとはとても考えられないくらいだ。
 本来なら山田線でここを通るはずだった。しかし、道床ごと押し流された線路は跡形もないか、あるいはレールがぶらりと浮いて無惨な姿を曝していた。復旧には莫大な金がかかることだろう。JRはどうするのだろう。気仙沼線では鉄道による復旧は断念し、BRT( bus rapid transit=バス高速輸送システム)に移行している。もう二度と釜石・宮古間に鉄道は戻ってこないかもしれない。 
 宮古行バスへの乗り換え停留所は船越駅前である。乗り継ぎ時間の合間を利用して今は使われていない山田線を見に行くことにした。海から遠く高台に位置するこの辺りは、何の変哲もない田舎町である。津波が来るか来ないかで、世界は一変しているのだ。駅片隅にある踏切には「休止中」の札が掛かっている。どこも壊れていない鉄道施設を見ていると、津波など全くなかったかのように思えてくる。
荒れた船越駅
 しかし、列車の通るあてのないレールには錆が浮かんで、命が尽きようとしているかのようだ。早くここまで列車を走らせてやりたいと思うが、代行バスが走っている今、このままずうっと放置されてしまうのではないかという思いが否定できなくなる。
 被災地を訪れたことは、これからの生き方を考えるきっかけになったと思う。誰しもいつかは終える命であるが、それがある日突然訪れてしまったたくさんの人たちがいる。残されても、生活が一変してしまった人たちがいる。自分は運良く、殆ど影響も受けずに生きている。この世の中の不条理をどう受け止めていくのか。じっくりと考えていかなくてはならない。




宮古から盛岡へ

 生き残った山田線は川を辿りながら北上高地を越える景勝路線だ。雪解け水で水量は豊か。新緑や紅葉はさぞかし美しいだろうと思われる。谷は深く渓谷の趣である。宮古の風は冷たくても日差しは明るくやはり海洋性の穏やかな気分が漂っていたが、分水嶺の区界は標高が780メートルもあって一面の雪が積もっている。窓は息で真っ白に曇った。北上高地によって岩手は大きく分断されている。

宮古→盛岡 キハ110 136 単行。