2017年6月30日金曜日

湿原をゆく列車


釧路湿原

 本来このような場所に線路が敷かれていること自体が驚くべきことだ。
 湿原を走る鉄道。重たい車両が軟弱な地盤の上を走る困難さについて言いたいのではない。ここはラムサール条約で保護された区域、釧路湿原国立公園の真っ直中。そこに釧網本線は通っている。敢えて喩えてみれば、尾瀬の中に線路があるようなもので、奇跡としか言いようがない。
シラルトル湖とコッタロ原野
(茅沼・塘路間)

 それを可能としたのは、それこそ時代といえる。ここに線路が敷かれたのは1927(昭和2)年のこと。北海道では鉄道の多くが網走に流された囚人達(多くは政治犯だったという)による過酷な労働によって造られた。それが今に残る貴重な路線となっている。
 世の中が豊かになって自然保護運動が盛んになり、ラムサール条約が発行されるのが1975(昭和50)年、国立公園となるのが1987(昭和62)年。どちらもずうっと後のことなのである。今という時代には決して造られることのない鉄道といえる。

 私が初めてここを訪れたのは1972(昭和47)年のことだ。無知をさらけだすようで恥ずかしいが釧路湿原のことなど何も知らなかった高校二年生の私は、C58蒸気機関車に牽かれた列車の中で、ウトウトと碌に景色も見ずに居眠りをしていた。ガクンと機関車に引っ張られる衝撃で目を覚ました時に目に飛び込んできたのが、夕陽に照らされた大湿原だった。なんで尾瀬のようなところを汽車が走っているのだろうと一瞬目を疑った。あちらこちらに湿原特有の沼沢が広がる風景は今も変わらない。
釧路川に沿って(塘路・細岡間)

 単線非電化が素晴らしいのは、線路が周囲の風景の中に完全に溶け込んでいるところだ。時の移り変わりとともに赤茶けた路盤は、自動車道のようにずかずかと自然を侵襲することもなく、言うなれば登山道に敷かれた木道のようなものだ。道幅は狭く、控えめで、違和感がない。同じ鉄道であっても、電化路線は見苦しい架線があっていただけない。
 釧路湿原を車で訪れるために砂利道なども整備されているが、たとえ未舗装であっても灰色の砂利は色彩的に浮いているし、自動車道は思いの外道幅が広いものだ。かつて宮脇俊三は『夢の山岳鉄道』の中で、自然保護の観点から上高地や富士山五合目などへは自動車道を廃止して、すべて登山鉄道にすべきだと述べた。これを単なる鉄道ファンの思い付きとしてではなく、自然保護の観点から見直すための良い例がここにある。
 日本最大の湿原を一望に見渡すなら、釧路湿原駅で下車し、細岡展望台まで20分ほど歩いて行くことをお薦めする。眼下に蛇行する釧路川の眺めと遙か地平線まで続く釧路大湿原を満喫することが出来る。それでも、間近に眺めるならカヌーか釧網本線だろう。釧路から釧路湿原ノロッコ号で出掛けて、カヌーで下り、再びノロッコ号で戻ってくるというツアーもあるようだ。この奇跡の車窓を多くの人々に知って貰いたいと思う。なお、釧路湿原を有名にした丹頂鶴にも、車窓を注意して見ていれば出会うことができる。

別寒辺牛湿原

 釧路湿原のように有名ではないが、奇観ともいうべき美しい風景が、牡蠣で有名な厚岸にある。クリーミーで滋味あふれる厚岸牡蠣のことはさておき、釧路から花咲線(根室本線釧路・根室間の愛称)に乗って50分もすると、列車は太平洋に出る。そこは厚岸湾で、ここまで来ると工場地帯もなく海は青々と広がっている。湾の奥まったところに厚岸の町があり、そこから対岸の小高い丘に向かって架けられた赤いトラス橋が、北海道で最初の海上橋、厚岸大橋である。ここを渡ると霧多布に行ける。
別寒辺牛川河口付近
(厚岸・糸魚沢間)

 列車は厚岸大橋を右に見ながら再び水辺に出るが、ここはすでに厚岸湾ではなく、厚岸湖である。塩分濃度が高く、波も穏やかなため、牡蠣の生育にもってこいの場所だ。まるで海のように広い湖が、車窓一杯に広がる。線路の脇がすぐ湖岸なので、まるで海の上を列車が走っているかのような錯覚に陥る。
 そのうちに奇妙な風景になってくる。水面に小さな平たい、草で覆われた島がいくつも現れてくるのだ。島というにはあまりにも小さいものだが、ヨシやスゲが生えた低層湿原なのだそうだ。何だろうと見とれているうちに、いつの間にか対岸が近づき、間に川が現れてくる。つまり別寒辺牛川の河口にある低層湿原の中を列車は走っていたのだった。
 別寒辺牛は「べかんべうし」とよむ。有名でないのも当たり前で、この湿原は1993(平成5)年にラムサール条約に登録される際に命名されたものだという。それまでは名もなく、ただ荒涼とした土地として誰からも注目されることなく、ひっそりと佇んでいたに過ぎない。近年は価値を認められて、すこしずつ知れ渡るようになった。
やや上流地点(厚岸・糸魚沢間)

 この地を訪れるのは3回目となるが、40年前に訪れた際は霧に覆われて何も見えなかった。5年前に訪れた際は、車で霧多布に直行してしまった。今回初めて好天に恵まれた中、この奇観に出会えたのである。

 古い鉄路は、護岸工事も一切なされずに、自然のままの湿原の上に敷かれている。そこを行き来するのは、1日わずか6往復の1両編成ディーゼルカーのみ。鉄道写真家の人々は、ここの風景の素晴らしさをかなり前から知っていたようで、確かにこの地を走る列車の傑作写真を目にしたことはしばしばあった。ただ、如何せん名もない土地であったために、長い間私が気付かなかっただけのこと。今回の旅では、まさに衝撃の風景であった。

 鉄道愛好家が述べれば贔屓の引き倒しになりかねないが、やはり敢えて触れておきたい。環境保護と鉄道は相性がいいのだと。この先たとえ自動車がEVになっても、アスファルト道路はいただけない。もっとも自動制御で道幅も狭くというなら、それはすでにレールを走る鉄道と同じだろう。でも、護岸工事はいけませんよ。
(2017/6/30乗車)

2017年6月28日水曜日

最果ての駅 北海道編

 「最果て」ということばにはメランコリックな響きがある。どうして自分はこんな憂鬱な響きに心を奪われてしまうのだろう。たとえ人からは根暗と思われようが、憧れにも似た思いで心が騒ぐのはとめようがない。それこそなんの用もないが、ただそれを確かめるためだけに出掛けてしまうのだ。

北の果て

稚内駅は函館駅同様に大きな
ガラス越しに到着した列車を
眺めることが出来る。   

 北の最果て、稚内を訪れるのは4度目になる。今回は宗谷岬にもノシャップ岬にも礼文利尻にも足を伸ばすつもりはない。ただ車止めが新しくなったのを確認するためだけに、夕方着いて翌朝早くここを立つ。
 特急サロベツを降り、1番線しかなくなってしまったホームを歩いていくと、真新しくなった4代目の駅舎が迎えてくれる。改札を抜ければ、最果てとは思えないほどの綺麗なロビーからは日本最北端の線路を見渡すことが出来るようになっていた。列車から降りた観光客が一斉にカメラを向ける。「ついにここまでやってきたのだなあ」という思いを多くの人が実感した瞬間だろう。
 宗谷本線(と言っても今では支線ひとつないが、宗谷線では気分が出ないのか、時刻表にもそう記されている)は、旭川・稚内間259.4㎞、特急で約3時間40分の距離。平成27年にJR北海道が発表した「当社単独では維持することが困難な線区について」では、名寄以北がそれに該当すると指摘され、将来が危ぶまれる線区であり、まさにメランコリックな鉄道なのだが、それだけに旅人には趣深い素晴らしい路線だ。特に音威子府(おといねっぷ)以北の130㎞区間は、悠久の時を刻みながら流れる天塩川に寄り添って進み、その先は寒々としたサロベツ原野を突っ切り、最後は天気に恵まれれば日本海に浮かぶ利尻富士が堪能できるという絶景路線だ。今日は生憎の天候で利尻富士は拝めず、稚内手前の、背の高い木すら生えていない荒涼とした北の大地は寒々としていた。
 一つしかないホームの柱には、主だったところへの営業キロが掲げてある。札幌駅より396.2㎞、函館駅より703.3㎞、東京駅より1,547.9㎞、西大山駅より3,068.4㎞、枕崎駅より3,099.5㎞。道内だけでも700㎞、これは東京駅から岡山県の和気駅にほぼ相当する。西大山駅とは鉄道好きなら誰もが知る「JRで最南端」に位置する鹿児島県の駅である。沖縄にゆいレールが開業してからJRという条件付きの最南端となった。ゆいレール開業当初、「日本最南端」という表記を返上しなかったため、「沖縄は日本ではないのか」と険悪な雰囲気が流れた。ゆいレールはモノレールなので、鹿児島県では気にしなかったのかもしれない。勿論この乗り尽くしの旅でもモノレールは歴とした鉄道であるから「JR最南端」が正しい。それでも同じJRとしてこだわりがあるのだろう、「最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。」と西大山駅を持ち上げた掲示が車止めにあり、またホームには「北と南の始発・終着駅」として稚内と枕崎が友好都市締結をおこなったことが記されていた。最果て同士の友好で、少しでも盛り上がりたいということだろうか。
車止めが粋なモニュメント。
それにしても道の駅は駅だった!
建物左の横断幕にも注目。   

 稚内にはここ以外にも最果てのシンボル、車止めがある。平成23年に現在の位置に新駅舎が移った際、駅前広場を整備するために若干南に移動した。そこでかつての終着点にモニュメントとして車止めを市が設置したのである。それは現在の線路を真っ直ぐ延長したところにあり、ご丁寧にもロビーの床にもかつて線路があった部分が分かるようになっている。昔を知るものにとっては、市の粋な計らいが嬉しくなる。ただ、こちらまで見学に来る人はだれもいなかった。
土木遺産・北海道遺産に選定
されている北防波堤ドーム 

 樺太が日本領だった戦前までは、稚泊航路という鉄道連絡船が就航したために線路は更に北数百㍍に位置する北防波堤ドームまで延びていた。そこには車止めが残されているわけではないが、古代ギリシャのエンタシスを彷彿とさせる柱に支えられた見事な防波堤が残っていて、稚内の観光スポットの一つとして人気がある。
(2017/6/28)

東の果て

 日本最東端の駅は、終点根室の一つ手前の無人駅「東根室」である。ぜひここに降りてみたかったので、通過してしまう快速ノサップで一旦終点の根室まで行き、折り返しの各駅停車で戻ってくることにした。
釧路方面は上り6本すべてが
停車する。       

 通過の際、列車の後方窓から見てみると、鉄道ファンが一人ホームで写真を撮っている。10数分後に戻ったときは私と入れ違いに釧路に向かうのかなと思ったが、いざ降りてみるとその姿はなかった。そのかわりにヘルメットを被ったライダーがカメラを向けて去って行った。
 「みんな好きだなあ」と自分のことは棚に上げて思う。常に自分だけは例外なのだから我ながら勝手である。列車から降りるとすぐにホームの端に寄り、写真を撮る。カーブの途中にある駅なので、列車は内側に傾いていて、ホームも弓なりになっている。あたりは閑散としているが根室市郊外の住宅地である。
草の向こうに  
住宅街(?)がある。

 根室市中心街は太平洋側ではなく北側の根室湾沿いに位置している。ひたすら東を目指す根室本線は、根室市の南側から台地の上を地形に逆らうことなく回り込んで終点根室に到着するため、路線が東側に膨らんでおり、そのちょうど東のピークに位置するためにここが最東端の駅となった。ものの本によってはアジア最東端の駅と記したものすらある。なるほど、我が日ノ本は日出づる国であるから当然のことのことだ。
 それにしてもタイトルがなければだれも注目することのない無人駅だ。終点までわずか1.5㎞。列車本数は上りが6本、下りが5本。地元の人だって利用しているかどうか怪しい。ホームには質素な表示が立っているが、駅前には結構立派な碑が立っている。記念撮影に車で訪れる人のためと思われる。
この掲示は修正されることが
望ましい。        
ここからは徒歩で根室駅に戻る。

日本最東端のタイトルを奪われている根室駅にも意地があるのだろう。ホーム外れにある表示板に「日本最東端有人の駅」と書かれているのを見たときは、思わず笑ってしまった。右下に小さく最西端は佐世保駅と記されているが、これはJRに限ってのことで、いまだに国鉄時代の役人根性が抜けていないと思われる。ゆいレールの沖縄空港駅に対して失礼だし、旧国鉄の松浦線、現在の松浦鉄道たびら平戸口が本州最西端であり、なおかつ有人駅だ。
晴れた根室は初めてで、爽やかな
初夏の風が吹いていた。    

 根室駅としては、余程悔しいのだろう。駅入口には「朝日に一番近い街!」というコピーもあった。きちんと整備された綺麗で小さな駅舎は、昔ながらの北海道らしさを宿していて好感が持てる。
 それにしても終着駅である根室駅が最果ての駅であることには変わりはない。ホームの先100㍍の程のところには車止めが見える。機関車が客車を付け替えるための機回り線が延びているのだ。今では1両の気動車しかやって来ない根室駅だが、昔の賑わいが偲ばれる風景だ。
この看板に巡り会えて良かった。

その車止めまで行ってみる。
 こちらの看板に偽りはなかった。「根室本線終点」左へ行けばオホーツク海、右は太平洋。滝川駅から444k339m。1行あけて、札幌駅まで484k076m。東京駅まで1,607k576m。やたらと細かい数字はともかくも、ここでの「から」と「まで」は重要だ。根室本線は滝川を起点として終点が根室であるということ。1行あけてあるのは次の数字が参考の数値だからで、ここを起点とした札幌や東京までのものである。根室の人が抱く辺境の思いが伝わってくる。それにしても1,607㎞は、稚内よりもほぼ60㎞程東京が遠いということだ。まさに北の大地の最果ての駅は根室であった。コロボックルが棲むという蕗の葉っぱに囲まれて、正直な看板はひっそりと立っていた。
(2017/6/30)