2008年12月27日土曜日

昭和が漂う烏山線

宝積寺から始まる単線の旅

 烏山線は東北本線宝積寺から烏山までの間わずか20.4㎞、全線単線のローカル線だが、その旅は宝積寺から二駅上野寄りの宇都宮から始まる。1時間に一本程度の閑散とした路線であっても、朝晩を中心に日に5本の列車が宇都宮までやって来るからだ。新幹線ホームの反対側に何本もの留置線があり、その片隅に昔懐かしい2両編成の気動車がちょこんと止まっている。車両は近頃だいぶ少なくなってきた旧国鉄時代に造られたキハ40型である。今回の旅では時間の制約があるので、宇都宮からは普通電車に乗り換え宝積寺駅からディーゼルカーに乗り換えることにした。

 個性に乏しい駅が多くなっている中で、この宝積寺駅は一見の価値がある。著名な建築家隈研吾設計の駅舎は、特に橋上駅に通じる階段の天上に驚かされる。薄い板を幾何学的に組み合わせたそれは荘厳な感じさえするし、ガラス張りの駅舎も地方駅とは思えないほどの意匠だ。しかも蔵をシンボルと考えているこの町にふさわしい駅前広場の設計と言い、実に個性的な駅なのである。その真新しい宝積寺を出発した気動車は、東北本線の線路に別れを告げるとすぐに台地を抜けて広々とした田園地帯へと出る。風は冷たいが抜けるように晴れ上がった冬空の下に、刈り取ったあとのブラウン色の田圃が広がっている。あたり一帯の高根町では「ちょっ蔵の町」というキャッチフレーズで町おこしを図っているだけあって、あちらこちらに蔵が点在している。ここの蔵造りは石組みのものが多く、漆喰で塗り固めたものは見当たらない。栃木名産の大谷石で組まれた蔵も数多くある。

 時折車窓に流れる看板を見るとどうやらコシヒカリの産地らしく、豊かな土地柄のようである。門構えがしっかりした農家も多い。そんな風景の中をのんびりと気動車が走ってゆく。畦道、というか舗装されているので狭い農道というべきだろうが、そこに老人が腰を下ろしている。手にした杖からして天気に誘われて散歩に出た風情だが、それにしてもこんなだだっ広い田圃の中、ちょっと遠出しすぎじゃないですかと心配になるくらい、あたりには何もない。

メタボなキハ40

 キハ40型は旧国鉄が造った気動車だけに、転覆しても壊れないのではないかと思えるほど頑丈で重厚に造られているが、その図体の割にはエンジンが非力なので、豪快なエンジン音を撒き散らしながらも、それほど加速するわけでもなく、ちょっとした坂にとりかかるとまるでジョギングでもしているかのようなゆっくりしたペースでしか走れない。途中の鴻野山駅付近にサミットがあり、わずか10人にも満たない程のがら空きなのに、気動車は喘ぎながら登っていく。風景と同じように時間がゆったりと流れていく。下り坂になれば軽やかな走りになるだろうと思いきや、今度は重たい車体が転がり落ちるのを食い止めようと必死のブレーキングが始まって、ロングシートに腰掛けた身体が何度も揺すぶられる。何ともメタボなキハ40ではある。


 車窓には立派な門構えの農家が続き、ここに住む人たちはこんな時代遅れの烏山線には乗らないだろうなという思いが募るばかりだ。「電化のためにみんなで烏山線に乗りましょう」という看板がこのローカル線の苦境を裏付けている。さらに丘陵地帯の上にはゴルフ場が広がっていて、この烏山線だけが昭和の遺産なのであった。

通票閉塞式が残っていた!!

 大金という実に景気の良い名前の駅で上りと下りの列車が交換する。沿線のほとんどの駅は無人駅であるが、ここでは赤い帯の帽子を被った駅長さんが赤と緑の旗を持って運転席にやって来て、乗務員に何か手渡しをしている。何とタブレットであった。大金から終点の烏山までの間に列車は1編成しか入ることを許されていないので、このタブレットはそれを許可するスタフというタイプの通行許可証なのである。だから駅の外れにある二灯式信号は昔の腕子木式と同じような転轍機と連動したポイント通行の可不可を示すものに過ぎないのだ。ここでも昭和が続いている。


駅の名は、「滝」

 小塙を過ぎると再び登りとなり、トンネル内でサミットを越えて、坂を下りながら右にカーブを切ると滝駅に着く。この無人駅がまた何ともいい風情だった。 駅名は「滝」。自然の景物そのものをそのまま駅名にするなどという大胆な例を私は知らない。列車から降りるとそれこそホームと日本海しかないことで有名な信越線の青海川駅だって海や川という普通名詞に対して形容詞的に「青」が付いているし、山の上に寺がある仙山線の山寺だって確かにそのものずばりの命名だが、そもそも地名の語源は素朴なものが多いものだ。近くに龍門の滝があるから「滝」というのだろうが、実に大胆不敵な命名である。まさか名前倒れじゃあるまいなと思いつつ駅から5分歩いて合点がいった。実に名瀑なのである。逆にやるなあと妙に感心してしまった。滝口に一軒の茶屋があり、付近は観瀑台を擁した公園になってはいるものの、俗化されていないところがいい。しかも鉄路の旅人にとってうれしいことに、滝の後ろを烏山線が走っているのである。先ほど乗ってきた列車が折り返しの上りとなって40分後にやって来るので待つことにした。
 真冬のこの時期、だれ一人訪れる人はいない。窪地のため冷たい北風も幾分和らいでいる。することもなく待ちくたびれた頃になって、列車はやって来た。ゆっくり走る列車のことだから例の轟音を合図にカメラを構えればいいと油断していると、思いの外音も立てずにスコスコと走る気動車が視界に飛び込んできた。ちょうど下り坂に差し掛かっていたのである。ここを逃すとあとがないとばかりにシャッターを切った。 


終着駅 烏山

 滝から終点の烏山まではたった1駅。川の流れに沿って山を迂回し、大きくΩループを描きながら城下町烏山に向かう。里山に囲まれた静かな町である。廃藩置県で一度は烏山県となったこともあるというのが信じられないほど、あたりは閑散としている。それにしても終着駅はどこも寂しげな風情が漂うが、それが何とも言えずいいものだ。烏山駅もその先に行き場のないどん詰まりの駅として、どこか悲哀が漂っている。単線が分岐し相対式のホームが2面あって、ホームの先でまた単線に戻っている。2両編成の気動車がもて余すほどのホームの長さである。今から30年ほど前、末期の国鉄がイベント列車として行き先不明のミステリー列車「銀河鉄道999」を企画したとき、その目的地がここ烏山だったことはあまりにも有名だ。9両の客車を機関車牽引で運転したという。機関車を付け替えることが可能なほどの規模があるということだ。しかも、現在は大金~烏山間に2編成以上の列車が入ることはなく、1線は使われることがない過剰施設ということになる。線路表面に浮いた赤錆が、終着駅のもの悲しさをより一層強めている感じがする。身勝手な旅人は、そこに懐かしい昭和の面影を感じ取り、いつまでもこのままであって欲しいと願うばかりなのである。 (2008/12/27乗車)

2008年12月25日木曜日

二つの顔を持つ水郡線


電車のようなディーゼルカー

 8時17分発の水郡線・常陸太田行が入ってきたとき、一瞬通勤電車がやって来たのかと思った。何の予備知識もなく、時刻表だけを頼りに早朝東京を発って水戸まで来たので、近年水郡線用に導入されたキハE130系ディーゼルカーの存在を迂闊にも知らなかったのである。裾を絞った幅広車体に強化プラスティックとステンレスの組み合わせは、首都圏の最新式通勤電車と変わるところがない。黒地に鮮やかな黄色と青が組み合わされたカラーリングは、うら寂れたローカル線のイメージを完全に払拭している。ついにノスタルジーとは切り離された地方新時代の波が鉄道にもやって来たのだなと感じる。

水戸⇔常陸大宮・常陸太田は近郊路線

 水戸を出るとすぐに那珂川を渡る。橋梁が川面に近く、素人目に見てもいかにも水害に弱そうだ。現在新しい橋に架け替え工事を行っている最中である。水戸は関東平野の外れに近く丘陵地帯の間に平地が広がっているために、比較的多くの人々が暮らしていて、水郡線沿線には人家と田圃、畑が混在している。だからローカル線とは言いながらもこの周辺では通勤通学の大切な足となっているのである。4両編成の幅広車体を持つ列車が、朝は1時間に3本運転されている。常陸太田への支線が別れる上菅谷までは駅間も短く、単線で非電化のすっきりした線路であることを除けば、新型ディーゼルカーが走る風景はまさに郊外電車が走る姿そのものである。
 ところで 、常陸太田から水戸までの間には朝晩だけ1時間に1本だが直通列車がある。水戸までの距離は19.6㎞、わずか34分だからもっと利用客が多くても不思議はないが、おそらく多くはマイカー出勤で、ここでも殆どが高校生の通学用なのだろう。常陸太田には2005年まで日立電鉄が来ていた。常磐線の大甕(おおみか)を通り、日立に近い鮎川までを結んでいたが、残念なことに廃線となってしまった。従って地元の人にとってはJR水郡線が大切な足に違いないものの、車社会となった今、子供と老人以外は利用者も少ないのだろう。ローカル線はどこへ行っても観光資源がない限り、常に廃線の危機に晒されていると言える。この斜陽の社会インフラを支えているのは高校生である。高校生のいない日中、上菅谷・常陸太田間を折り返し運転しているこの支線の将来は、一体どうなるのだろう。

 久慈川の流れに沿ったローカル路線

 上菅谷に戻り、1日8本あるうちの9時40分発郡山行を待つ。やって来た列車は満席だった。これで運転台の後ろから風景を楽しんでも恥ずかしくない。山方宿を過ぎると山がぐっと迫ってローカル線らしくなる。外観は通勤電車風の気動車だけれども、2人掛けと1人掛けのクロスシートなので旅にはとても快適だ。中舟生(なかふにゅう)からは久慈川に寄り添って走り、運転席の後ろから見る景色は素晴らしく、柵のないガーター橋で久慈川を渡る所などは今にも落ちそうでスリル満点である。観光で乗車している人が殆どで、おそらく袋田の滝を目指すのだろう、途中駅で降りる人はいない。列車はほぼ満席状態のまま、渓流をくねくねと遡っていく。西金には採石場があり、近頃のローカル線ではすっかり珍しくなった貨物列車のヤードがある。両側から迫る渓谷美を堪能しながら常陸大子まで列車は走る。予想通り途中の袋田で大部分の人は下車し、残った人たちも大方常陸大子で降りてしまった。茨城県最後の町である。
 特に渓流を楽しめる風光明媚な車窓はここまでで、この先は列車本数も半減する。駅には何本もの留置線があって、折り返して水戸に向かう二両編成の気動車が止まっている。矢祭山で久慈川の流れは福島県に入り、緩やかな流れは棚倉まで続く。これ以後、列車はなだらかな阿武隈高地に四方を囲まれた盆地をトコトコと走るのである。田圃が広がるこの地方を南北に久慈川が流れ、水郡線は申し訳なさそうに山裾を慎ましやかに大回りして北上する。鉄道が控えめに敷設されているのに、新参者の道路は盆地のど真ん中を突っ切っているのを見ていると、いい加減にしなさいよと小言を言いたくなる。
 そもそも平らな土地に分水嶺があるのだから、サミットをいつ越えたのかは全くわからない。奥久慈の渓流から下ってきたのではなく、遡ってきたというのも妙な感じである。磐城浅川のホームには「水郡線で一番高い駅 306m」の表示が出ていた。決して高いわけではない。
 外の空気は冷たいようだが、福島県中通りの天候はすこぶる良い。日差しが強いので、乗客の一人が車掌にブラインドかカーテンはないのかと尋ねていた。キハE130系には、最近の通勤電車と同じようにカーテン類の装備がない。紫外線カットの特殊ガラスだから必要なしということだろうが、実際には眩しく感じることも多いし、緑の色ガラス越しに見る風景はちょっと不自然な色合いだ。経営上手なJR東日本だから、経費削減、メンテナンスフリーのためであることは間違いない。せっかくいい気分で車窓を楽しんでいる旅行者には、ちょっと興ざめである。やはりキハ110系に装備されているような、アコーデオン式のカーテンこそがローカル線にはふさわしい。
 車窓左側遠くに雪を被った山脈が見えてくる。高度が下がり景色が広々として来て、終点が近いことを感じさせる。進路を西に変えて阿武隈川を渡り、新幹線高架橋をくぐると東北本線の線路が寄り添ってきた。スピードが増し、三線区間をしばらく進むと水郡線の終点安積永盛に到着。午前授業を終えて帰宅する女子高校生がたくさん乗車してきて、ガラガラだった車内は立ち客であふれた。再び近郊線に戻ったのである。もっともこの辺りは東北線の普通列車が多く通るところであり、乗客の大半はたまたま水郡線からの気動車に乗ったに過ぎない。12時33分、上菅谷から3時間をほんの少し切るくらいのちょっとした長旅であった。郡山駅には会津若松行の赤べこ模様の快速電車が止まっていた。磐越西線の会津若松まではまだ未乗車区間である。そのまま乗って行ってしまいたいと思いつつ、次の目的である磐越東線に向かった。 (2008/12/25乗車)

2008年12月11日木曜日

西関東の里山めぐる八高線


ロングシートでも旅気分

 箱根ヶ崎を過ぎ金子に近づくとそこはもう埼玉県である。川があるわけでもなく、畑が続いているだけなのでいったいどこで県境を越えたかはわからない。それにしてもこのあたりの風景はいい。里山を背景に丘陵地帯が続き、綺麗に刈り込まれ縞模様に植えられた茶畑が広がっている。霜よけの扇風機も据え付けられていて、ここ金子はまさに狭山茶の産地なのである。畑が尽きて電車は登りに差し掛かり、雑木林を越えていくと視界が開けて突然大きな建物が見えてきた。それは飯能市郊外にある大学の校舎だった。緑豊かな素晴らしい自然環境の中にあるキャンパスだが、学生もここまで通うのはさぞ大変なことだろう。少子高齢化が進み、一方で都心回帰の傾向が著しい昨今、この大学の経営も大変だろうなと思ってしまう。

 205系通勤電車は景色を楽しむには不向きなロングシートである。確かに八王子を出るときには、通勤客でほぼ定員乗車程度であったが、一つ目の北八王子で大部分の人が降りてしまったあとは、殆ど誰も乗ってこない。閑散とした車内で、からだを捻って車窓の風景を堪能する。八高線は飯能市の中心部を避けて緩やかにカーブを描きながら東飯能に向かって下っていく。市街地の向こうには奥武蔵の山々が続いている。

 9時38分、東飯能到着。上り電車との交換のため6分停車である。私の乗ったクハ205-3001は、4両編成の通勤電車であることを忘れたかのようにボケッとしている。八王子付近と川越付近では通勤客も多いのだろうが、それ以外はローカル線そのものなのである。八高線と川越線を無理やり結びつけなくても良かったのにと思う。沿線を電化し、効率的な車両運用のためにはそれしかなかったのだろうか。せめてセミクロスシート車に改造してもらいたいものだ。薄曇りの中、扉は閉まっているのにどこからか寒さが忍び込んでくる。窓の向こうには西武線のホームが見えるが、何とホームも線路も1つしかないローカル仕様だ。
 八高線の電化は高麗川まである。従って、八王子発の電車はそのまま川越線に向かっていく。電化されていない高麗川こそが八高線の事実上の始発駅である。


気動車登場、里山めぐり


 八高線には、関東平野を囲む秩父山系の山裾を等高線に沿って走るローカル線というイメージが強い。実際トンネルは一つもなく、丘陵は迂回し、雑木林を抜けては次の集落へと列車は進んでいく。キハ110系は強力な気動車だ。電車並みの加速性能を持つという謳い文句通りに旧式のディーゼルカーとは比較にならない力強さでぐんぐん加速し、速度も速いので惰性で進む時間も長いため、騒音も気にならない。ドア付近はロングシートだが、通路を挟んで2人掛けと1人掛けのクロスシートを向かい合わせに配置したアイディアは、近郊運用も可能なローカル車両としてなかなか良いアイディアだったと思う。製造されてすでに 年も経っているが、時代の進歩を感じさせる気動車である。
 毛呂には医科大学がある。山里に巨大な病院だけが目立つ、医師不足とは無縁な田舎である。普通は自然と引き替えに便利さを放棄するわけだが、老後を過ごすにふさわしい土地の様に思えてくる。次の越生には、東京で見慣れた東武線がやって来る。その先の小川町にも東武東上線の駅がある。電化されていない線路は如何にも古びていて旅の情趣をかき立ててくれるが、併走する東武線はいつもの見飽きた風景で、ここでは現実と夢が同居している。里山に囲まれた小川町は和紙の里としても有名だ。東武東上線も池袋からの直通電車はここまでで、この先の寄居までは編成の短いワンマン運転に変わる。いよいよこの旅も佳境に入ってきた感じである。
 八高線沿線のハイライトは、寄居へのアプローチである。秩父山塊のはずれに位置する寄居周辺は、秩父を源流とする荒川が関東平野に流れ出すところで、いくつかの里山に阻まれて蛇行を繰り返している。南から寄居町に近づいてきた八高線は、荒川に阻まれ手前で進路を北から西に大きく変える。雑木林の向こうに荒川と寄居の町が見えてくるが、列車はしばらく上流に向かいながら次第に高度を下げるのである。川面が近づいたところで再び進路を北に向けてトラス橋を渡河、下には暴れ川特有の大岩がごろごろとした河川敷が見える。渡りきったところで、再び進路を東に大きく振り、たくさんの線路が輻輳する寄居駅に到着するのだ。
 寄居は八高線以外にも東武鉄道や秩父鉄道が集まる交通の要衝である。もっとも町はそれほど発展している様にも見えないし、八高線は非電化のローカル線だから、ムードたっぷりの田舎駅である。もっともここでの主役は、今も石灰石運搬で貨物輸送が盛んな秩父鉄道であり、寄居駅も同社が管理している。だから八高線も東武線も地方鉄道に間借りする脇役に過ぎない訳で、それだからこそ、何とも言えない風情が出てくるというものだ。


八高線、ラストラン


 八高線はここから山と離れ、関東平野へと入っていく。群馬藤岡を過ぎれば新幹線や上信越道と交差して、何やら見慣れた風景が広がる。上信越道・藤岡のハイウェイオアシスの近くを通るのである。車では何度も通ったことのある場所だが、新幹線の高架橋ばかりに目を奪われて、その下に線路が通っていることには全く気が付かなかった。単線の鉄道は本当に控えめである。北藤岡の駅は高崎線のすぐ脇にあるがあくまでも八高線だけの駅で、高崎線との接続駅倉賀野まではかなりの距離がある。列車は北藤岡のホームを出るとすぐに高崎線の線路を走り出した。従って実質的には北藤岡~倉賀野に八高線の線路は存在しないといって良い。強力なエンジンを擁するキハ110は快調に高崎を目指す。このスピードなら本線上で後続電車に迷惑をかける恐れもない。上りの八高線列車と擦れ違い、右にカーブを切りながら新幹線高架下を通れば、高崎駅は近い。旧型客車が5,6両止まっているが、SL運転の際に運用されるものであろう。こんどはあれに乗りたいなと思っているうちに、駅片隅の切り欠きになった2番線ホームに滑り込む。いかにもローカル支線ふさわしいホームである。(2008/12/11乗車)