2016年12月29日木曜日

副業が鉄道会社!?

「日本一最短のローカル線」

 和歌山県の御坊市を走る紀州鉄道の本社は東京にある。それだけでも珍しいが、会社のルーツは福島だという。この会社の実態は「上質なる余暇を通じて、共生の未来を創造する」ことをポリシーとするレジャー産業なのだ。経営するホテルの多くは紀州鉄道の名前を冠していて、鉄道会社であることが信用をもとになっているのだという。だからこのローカル線は、レジャー産業の鉄道事業部門という位置づけになる。何となく奇妙な感じもするが、日本民営鉄道協会に所属する歴とした鉄道会社でもある。日本一最短の鉄道というキャッチコピーも気になるところだ。和歌山から更に紀勢本線で1時間掛かる御坊を訪ねてみた。

 乗ってみて、まず運賃がとても安いことに驚いた。わずか2.7㎞しかないとはいえ、今どき180円というのはきわめて良心的ではないか。ほとんど誰も乗っていないのに、まるで儲ける気がないのでは、とすら思えてくる。
 その代償として、車両はお世辞にも綺麗とは言えない。スピードも遅く、御坊駅を出たすぐのカーブで、いきなり15㎞/h規制がかかる。踏切をノロノロと通過するので、待っている自動車の運転手はさぞイライラしていることだろう。
波打つ線路と歩く人
(中央、線路脇の日陰
を歩いている) 

 直線区間に入って若干スピードをあげるが、20㎞/h規制区間が随所にある。それでもディーゼルエンジンのうなる音は相当なもので、それ以上に縦横の揺れが激しい。運転台越しに見える前方の線路を見れば納得もいく。草に覆われ枕木の見えない線路が波打っているのである。その線路道を人が歩いている。ここまで野趣に富んだ鉄道も珍しい。
 沿線最大の駅は紀州御坊駅である。ここには車庫があって数両のディーゼルカーが停まっているが、途中に列車の交換施設は一切ないから、全線で走る列車は常に1編成に限られる。従って、踏切遮断の表示灯以外、信号に関わる設備はまったくなかった。
西御坊駅入り口側

 終点の西御坊は実に凄いとしかいいようのない駅だった。踏切に接したきわめて狭い土地に、古風なといえば聞こえはいいが、真っ黒な、まるで小屋のような駅舎に、申し訳程度の狭いホームが付いている。幅50㎝もないくらいだろうか。待合室からいきなり列車に乗るという感じだ。
西御坊駅裏側

 さらに反対側がまた凄い。車止めと列車が接しているばかりでなく、駅構内に立ち入ることを禁止するゼブラに塗られた横板までもが列車に接している。停車には相当神経を使うだろうと思うものの、通常の運転自体が徐行しているようなものだから問題ないのかもしれない。要するに、人家に列車が飛び込んでいるかのような、庶民の生活感あふれる鉄道なのである。

 紀州鉄道の前身、御坊臨海鉄道時代にはさらに700m先まで線路が延びていた。平成元年に廃止された後も線路は放置されたまま残っているので、今でも走らせられそうだが、よく見ると、車止めから10m先の小さな川の部分だけは線路が撤去されていた。
 どう見ても超赤字ローカル線だが、不思議と廃線の噂はない。親会社が紀州鉄道という名前を手放したくないからだというが、如何なものだろう。ただできうる限りお金を掛けず、切り詰めた経営で存続を図っていることだけは間違いない。今後ますます速度規制区間が広がるかもしれないが、できる限りの延命を願うばかりである。
(2016/12/29乗車)

  注)芝山鉄道は2.2㎞で紀州鉄道より500m短い。ただし全列車が京成乗り入れで自社車両もない。

2016年12月28日水曜日

給水塔とタブレット

運転再開を果たした名松線

 今年の3月、およそ6年半ぶりに名松線が全面復旧した。旧国鉄の赤字ローカル線として第2次廃止対象路線に選ばれながら、代替道路が未整備だったために一旦は廃止を逃れたものの、2009年の台風18号によって数十箇所で土砂崩れや路盤流失が起こり、家城・伊勢奥津間が運行停止になっていた。地元住民や自治体の粘り強い努力が、JRを動かしたといえる。喜ばしい限りだ。ぜひとも乗らなければならない。一度乗ったからと言って、地元経済には雀の涙ほどにも利益を落とせないが、思いだけは伝えることができるだろう。

 紀勢本線の松阪を起点とする名松線。松が世界ブランド「松阪牛」の松阪であることは誰にでもわかるだろう。それでは名は? 名古屋のはずもなく、答えられる人は地元の方以外は少ないのではないか。正解は名張、近鉄大阪線の特急停車駅だ。近鉄が松阪と名張をすでに結んでしまっているので、名松線を完成させる意義は全くなくなってしまった。廃止対象となったのも仕方ないことだったのである。
 今回復旧した家城・伊勢奥津間は美杉町という名からもわかるように、杉の美林が自慢の土地だ。当然産業の中心は林業である。伊勢八知駅のそばには大きな貯木場があるが、それを鉄道が輸送することはない。手間の掛かる貨物輸送を鉄道がやめてしまった結果、地域の鉄道そのものも役目を終えてしまったのだ。
長いホームも今は無用となった

 山のあちこちには伐採され、植林前の禿げ山のように見えるところもある。急斜面だから豪雨の際は深刻な土砂崩れも多いことが伺える。雲出川の川原には、大きな石がゴロゴロしていて、穏やかな今日は景色を楽しむことができるが、一旦雨が降り出すと濁流となることが手に取るようにわかる。そうこうするうちに終点の伊勢奥津に到着する。最後まで乗車してきたのはわずか3名だった。
現在貯水タンクは
興津駅のシンボル

 終着駅の伊勢奥津には今でも蒸気機関車時代の貯水タンクが残っている。かつてはここで機関車の付け替えが行われ、多くの木材が運び出されたことだろう。住民センターと兼用の駅舎や隣接する観光案内施設は、杉をふんだんに使った瀟洒な建物だ。案内所を訪ねると、お茶でもてなしてくれた。1日の乗客が30人に満たない伊勢奥津だから、旅行者は大歓迎なのだろう。お返しに素朴な饅頭と名松線グッズのメモ帳を購入した。案内所内には、貯水タンクをモチーフとした水彩画が飾られていて、その絵葉書も売られていた。

 折り返しの松阪行に乗り込み、列車が出発をすると、先程お茶をご馳走してくれた人達が駅舎の窓から旗を振って見送ってくれている。「また来てね」と書かれているが、残念ながらまた来ることはないだろうなと思う。全国を廻ろうとしている鉄路の旅人は、その土地の経済には何の役にも立たない。申し訳ないと思う。

 家城まで戻ってきた。ここで列車は交換する。名松線は全線単線であり、本数も少ないことから自動信号機が使われているわけではない。今では全国でも珍しくなったタブレット(通票)の交換が行われる。
交換する下り列車が到着

 まず伊勢奥津からの上り列車が到着する。駅員はスタフの入ったキャリアを運転手から受け取る。家城・伊勢奥津間は1列車しか入ることができないので、その通行許可証がスタフとよばれるものである。これは当然1つしか存在せず、下り列車が到着すれば渡される。
駅員が通票の入ったキャリアを
運んでいる         

 下り列車が到着すると、通票を受け取る。家城・松阪間では、たとえば上り列車を待つことなく下り列車が2本続けて運転されることもある。その場合、一つしかないスタフでは対応できない。一区間には一つの通票しかないので、先行する列車に通券とよばれるものをまず持たせ、後続が通票を持つようにする。通券は通票がなければ開かない箱にしまっておくというように、厳重に管理される。なお、続行させない場合は通票をそのまま使えばよい。少々わかりにくいが、単線で列車を衝突させない前時代的な仕組みである。
通票を受け取って
出発進行    

 只見線が自動信号式になり、通票閉塞式の鉄道がだいぶ珍しくなった。この方式を採る限り、交換のために有人駅が必要となるので、設備投資か人件費節約かの選択が迫られることになる。列車本数が多くなれば自動信号機の設備投資するだろうし、乗客が減れば人件費負担が厳しくなる。いずれにせよ消えていく方式であることに間違いないが、鉄道愛好家にとっては実に興味深い単線鉄道の儀式なのである。
(2016/12/28乗車)

 

東海道線 もう一つの終着駅

大垣界隈

 鉄道ファンにとって大垣は聖地のひとつ。誰だって大垣夜行に一度は乗ったことがあるに違いない。それでも多くの人はドアが開いた瞬間にホームに飛び出し、乗り継ぎの西明石行きの席を取ろうと、一目散に階段を駆け上がるばかりで、大垣そのものを目的に旅した人は少ないに違いない。俳聖芭蕉が『奥の細道』で大垣を終着点としたあと、すぐに伊勢へ旅立ったように、旅の終わりは旅の始まりを地でいくような通過駅の一つなのだ。
 ところがどっこい、この駅に集まる鉄道にはなかなか趣深いものがある。国鉄旧樽見線から引き継がれた樽見鉄道、近鉄から分社化された養老鉄道という風に、過疎化の影響で廃線の憂き目にあいそうな、だからこそ味わい深い鉄道のターミナルになっている。
 東海道線を岐阜方面から大垣を目指すと、車窓右側には美しい伊吹山地の山々が次第に迫ってきて、揖斐川橋梁を渡る頃には景色が大きく開け、何連も連なる見事なトラス橋が見えてくる。樽見鉄道である。さすが旧国鉄路線だけのことはあり、堂々とした橋梁はとても廃線の危機にあるとは思えないほどだ。それもそのはず、この鉄橋は明治時代に造られた御殿場線で使われていたものを移築したものだそうだ。乗りたくなること請け合いである。
 もっとも今回の旅の目的はそこではない。もう一つの路線、といっても現在もJR東海に所属する路線がある。名前は…東海道線、通称「美濃赤坂線」という枝線である。乗り尽くしファンにとっては、ここはなかなか訪れ難く、東海道線完乗を果たせない原因となっている。漸くこの地を訪れる機会がやってきた。

 雪の多い関ヶ原に近いだけあって、早朝の大垣駅は底冷えがする。12月末の美濃地方は6時半近くになっても辺りは真っ暗だ。美濃赤坂線は駅の片隅にある切り欠き式の3番線から出発する。ホームを歩いていくと待合室の向こう側に、すでにJR東海の主力313系2両編成が停まっていた。1日20本に満たない閑散路線だが、優良鉄道会社だけに車両は立派だ。6時29分の始発電車には、地元の人とおそらく鉄道マニアの数名しか乗っていない。
 ワンマンカーの車内アナウンスが終わると電車は大垣駅を出発し、真っ暗闇の中を疾走する。広い車両区を突き抜けているはずだが、明るい車内の光に邪魔されて外がよく見えない。もう本線とは分岐したのだろうか。それにしても支線を走るのとは異なって揺れが少ないから、まだ本線なのだろうか、そんな筈はないのにと思ったところで、電車は徐行する。しばらくすると高速で貨物列車がすれ違っていった。走り出してすぐ、中間の荒尾駅に到着する。予想外に貨物列車が走るような支線だったのだと思った。場内直前にポイントがあり、単線となって荒尾駅に到着した。

石灰岩輸送で生き残った駅

 東の空が白んでいる。天気は良いようだ。こんな時間の下り電車からは、降りる人も乗ってくる人もいなかった。あと一駅。ここからは急に電車が揺れだした。支線ならではの、お馴染みの揺れだ。大垣を出てわずか6分で終点美濃赤坂に到着した。
古い駅舎に新しい312系電車

 夜明けは急速に訪れる。鉄道マニア達は、下車すると慌ただしく駅舎の写真撮影を終わらせて、再び車上の人となった。折り返し6時39分発大垣行き。わずか4分の滞在時間である。私は次の電車を待つ。木造の駅舎には改札もなく無人駅の筈なのだが、事務室には蛍光灯が灯っていて誰かいる気配だ。しかし誰も出ては来なかった。
 古くからある終着駅にはどこか哀愁が漂っている。このなんとも黄昏れた雰囲気が好きで、しばらくここにいたいと思うのである。駅舎をでて車止めのところまで歩いていき、折り返し電車を見送る。
停まっている貨物の向こうに 
屋根付きの貨物ホームが見える

 美濃赤坂駅は、巨大な廃墟のような、とても広い構内を持つ駅だった。何本もの、果たして使われているんだろうかと思わせるような引き込み線があり、貨物用と思われる建物付ホームや放置された貨物車がある。

 はたしてここはいったいどんなところなのか。駅舎の壁に石灰岩輸送の説明があり、ようやく納得がいった。資源小国日本にとって数少ない自給率100%を誇る石灰岩が、この先にある金生山で採れ、そこまで貨物専用の西濃鉄道の線路が続いているのだ。つまり美濃赤坂は、西濃鉄道とJR貨物の接点であり、線路はJR東海の管轄となっている。さらに駅はJR東海にとっては無人駅で、西濃鉄道が事務所として使っているという。これで無人駅に人がいる謎も氷解した。
東の外れに非電化の
西濃鉄道線が北に向
かって続いてる。 

 かつてはここから大垣夜行が出発・到着した時代もあったという。西濃鉄道も戦時中までは旅客扱いをしていたそうだ。しかし今は1日の乗降客が300人台のローカル駅となり、日に20本に満たない数の電車が大垣駅との間を往復するに過ぎない。

 7時01分発の2番電車が回送でやって来た。通勤通学で賑わう7時台には3本設定されている。いつの間にか通勤客が集まっていた。ドアが開き、全員クロスシートに収まり、大垣向けて出発する。
開扉を待つ通勤客

 電車はガタピシ揺れながら真っ直ぐなレールの上を走っていく。左にカーブし始めた途中に荒尾駅はあった。2両では持て余すような長いホームは、同じ曲率で綺麗に曲がっている。ここでも10人ほどの通勤客が乗ってきた。全員シートに座っても、まだ余裕は十分ある。立っているのは運転席後ろで車窓を楽しんでいる私だけだ。
 眩しく朝陽が降り注ぐ中を電車は複線線路に近づいて行った。その時初めてわかったことがある。荒尾駅は東海道本線のすぐ脇に設置されていたのだ。往路は真っ暗でわからなかったが、あのすれ違ったの貨物は、本線を行くコンテナ列車だった。こちらが徐行したのは、本線上りを通過する貨物列車を待つためであり、通過後に上り線路を横切って荒尾駅に進入したのだった。
 美濃赤坂線5.0㎞のうち、荒尾・美濃赤坂間はわずか1.6㎞に過ぎない。残り3.4㎞は東海道本線そのものだった。どうりで揺れも少なく爆走していたはずである。暗くて何もわからず、支線だと思い込んでいただけだった。それはともかく、これでようやく東海道線を乗り尽くした。
(2016/12/28乗車)