2014年1月6日月曜日

雪の弘南鉄道

うら寂れた跨線橋


大鰐温泉 2010年8月撮影

気がついてからあわててシャッ
ーを切ったので、弘南鉄道の文字
が少し読みづらい。クリックする
と写真が拡大。        
 たといお気に入りの列車に乗っている時であっても、どうしても途中下車したくなるようなことがある。大鰐温泉から中央弘前を結ぶ弘南鉄道を見た時がまさにそうだった。
 前の晩に上野を発ち、寝台特急「あけぼの」の個室の中で、鳥海山に昇る日の出の時からずうっと車窓を楽しんでいた。碇ヶ関を越え、ようやく津軽までやって来たなと思いながら、弘前の奥座敷と呼ばれる大鰐温泉に列車が到着すると、まず目に飛び込んできたのが、少し痛んだ跨線橋に記された弘南鉄道の文字だった。日本中の鉄道に一度は乗りたいと思っていたので、そのうちここにも立ち寄りたいと考えながら、今回は終点までこの個室の旅を楽しむことが目的だったと、改めて再訪を期したのだった。
大鰐温泉駅 2010年8月撮影
 さて、弘南鉄道と言えば、冬のラッセル車が思い浮かぶ。冬を満喫するためには、できれば地吹雪の季節に訪れたいとも思う。7〜8年ほど前、真冬の津軽を訪れようと二度ほど試みたことがあった。1度目は出発直前に、羽越本線で突風のため特急が脱線転覆し何人かの方が亡くなられた。その日の寝台列車は運休となり、私のような物見遊山の人間がとやかく言えるような状況ではなかった。その翌年、再度挑戦した際は、例年にない暖冬で、津軽は地吹雪どころではなく、大雨の中で津軽三味線を聴きに行ったようなものだった。どうも自分は冬の津軽には見放されているらしいと、長年思っていた。
 しかしチャンスは訪れた。廃線が決定した江差線に乗るために北海道を往復することにして、帰路弘前に立ち寄る機会ができたからだ。冬の津軽を旅し、黒石の駅に到着すれば、青森の鉄道は全て乗り尽くすことにもなる。なかなか魅力的な冬の旅となりそうであった。


大鰐温泉から中央弘前へ
7031と7032の2両編成

 弘南鉄道には弘南線と大鰐線の2路線がある。国鉄から引き継いだ黒石線は残念ながら6年前に廃止されている。二つの路線は繋がっておらず、JR弘前駅に隣接する弘南線弘前駅と大鰐線中央弘前とは直線距離で1㎞ほど離れているので、どう回るかは思案のしどころだが、ここはやはり大鰐温泉から始めることにした。
7039と7040の2両編成
 雪に包まれいっそう寂寥感が増した跨線橋を渡ると、JRからそのまま大鰐線のホームに繋がっていた。中央弘前までの乗車券を購入しようと、北口から一旦外に出る。出札係から乗車券を改められることもなく、実にのんびりしたものだ。停まっている電車は東急7000系のお下がりだが、嬉しいことにヘッドマークが付いている。しかも綺麗な塗装までが施されていて、大切に使われているなあと感じる。また運転台下に雪を弾き飛ばすスノープラウが装着されていて、いかにも雪国の鉄道らしい風情がある。ホームの先に電気機関車が見えるが、ちょうど真正面なので、どのような形式なのかはよくわからない。
ED22
 それにしても今大鰐線は廃線の危機にあるという。確かに誰もいないホームに佇むと現実味を帯びてくる。青い帯を巻いた2両編成の電車に乗ったのは、私以外にたったの一人しかおらず、1両に一人ずつ座った。しばらくして空気ばかりを乗せた電車が発車する。もちろんワンマンカーである。
 大鰐温泉から中央弘前まではわずか13.9キロ、並行するJR奥羽本線とは異なり地域密着型の地方私鉄なので、14もの駅を擁している。およそ1キロに一駅の割合で設置されていることになる。この先いったいどのような人が乗ってくるのだろう。
黒いラッセル
 電車が電気機関車の横を通り過ぎると、そこには黒いラッセル車が停まっていた。あわててカメラのシャッターを切る。誰も乗っていないので真冬でも窓は開けられたのだが、心の準備が出来ていなかった。写真には反対側の窓が写り込んでしまっていた。それでも名物の黒いラッセル車と出会えたのは嬉しい。鉄道の除雪車といえば今は赤が相場だが、蒸気機関車の時代はすべて真っ黒だった。汚れの目立たない実用一点張りの昭和を感じさせる色彩である。真白な雪原を疾走するにはふさわしいが、夜の運用は危険だろうなとも思う。
 大鰐温泉を囲む山々が尽きて、電車はリンゴ畑の中を走る。宿河原、鯖石、石川プール前という味のある駅名ごとに停まるが、一向に客は乗ってこない。石川を過ぎたところで盛り土区間となり、そのままJRを跨いで、義塾高校前に着く。甲子園にも出場経験のある東奥義塾高校の最寄駅である。ここで高校生が大勢乗車してきた。まだ冬休み期間中なので全員部活帰りと見える。やはり地方ローカル線は高校生に支えられているのである。にわかに車内が活気づく。
津軽大沢駅

交換列車は東急でお馴染みの
赤い帯          


 津軽大沢では列車交換があった。ふつう鉄道は左側通行だが、地方のワンマン運転ではしばしばホームの右側につけることがある。これは運転台が左側にあるため、この方がドアの開閉確認がしやすいからだ。理に叶ってはいるが、何となく妙な気分がする。
 一駅停まるごとに生徒たちが降りていく。当然と言えば当然だが、地元の生徒だけでスポーツ強豪校にはなれないだろうから、この子たちは楽しみで部活をやっているタイプなのかなと、とりとめのないことを考える。その後は、聖愛中高前、弘前学院大前と学校名のオンパレードだ。まさに学生が支える鉄道だから、登下校時以外は閑散としているのも当たり前だろう。

中央弘前駅

弘前中央ではない。この名前には
何かいわれがあるのだろうか。弘
前城からもJR弘前駅からも距離が
あり、確かに中央なのかもしれな 
いが、観光客に便利な駅とはいい
がたい。                
 終点のひとつ前は弘高下という名の駅である。さすが地元の有名校は略称で呼ばれても風格がある。というより略称で呼ばれるくらいの風格というべきか。ここは県立弘前高等学校の下の駅というわけだ。旧制中学時代は太宰治も学んだ名門校である。終点まで一駅ということもあって、弘高生は誰も乗って来なかった。弘高下を過ぎると電車は土淵川の流れに沿って緩やかなカーブを切りながら中央弘前駅に到着する。片面1線の終着駅で、ホームから緩やかなスロープを下ったところに改札口がある。振り返ると、雪のぱらつく軒下には小振りのツララが何本も下がっていた。


こみせの町、黒石につゆ焼きそばを食べに行く


弘前駅

都会の私鉄と何ら変わらない。
 大鰐線と弘南線とはもともと別会社だったこともあって、両者は繋がっていない。雪道を1キロ以上も歩くのは東京育ちには危険だし、また津軽の食事でお勧めは何かを知りたいこともあって、タクシーに乗ることにした。運転手さんに早速尋ねてみると「津軽の地元料理ねえ」と気のない返事が返ってくる。こちらの身なりを見て、貧乏人と足元を見たのだろう。悩んだ挙句推薦してきたのは、全国チェーンの居酒屋だった。いくらなんでもねえ。
 こうなったら弘前での夕食は諦めよう、黒石の郷土料理が食べたい! 
 今黒石で人気なのは、何と汁に浸かった焼きそばなのだそうだ。B級グルメかあ。まあ、付き合ってみるかということで、弘南線の乗客となった。
 夕方が近いこともあって、綺麗に改装された弘前駅には多くの人が電車を待っていた。それでも年々乗客が減り、ここも高校生頼みなのだという。大鰐線と同じ車両が使われているのだが、乗客が多いので地方ローカル線に乗った気がしない。しばらく乗車しているうちに、景色から家々が消えてゆき、田圃の真ん中を通るようになって、ようやくローカル線らしくなってきた。 黒石までは16.8キロ。12の駅があるので、駅間は大鰐線に比べて開いている。
 よくポスターなどで見るこの路線は岩木山をバックにしたものが多い。雪模様の今日は勿論白一色の世界だ。田んぼアートという駅だけを通過して、30分ほどで終点黒石に着いた。

 黒石市には日本の道百選に選ばれたこみせ通りがある。こみせとは、越後高田では雁木と呼ばれている日本版アーケードのことだ。通りに面した各家が、軒を道まで伸ばして、通行人を雪や日差しから守った施設のことをいう。実に合理的な工夫で、通行人の便を図って造った施設だが、玄関前の雪掻きをする必要もなく、そこで暮らす人にも便利だったに違いない。
 
こみせ通り
 駅からこみせ通りまでは普通の歩道すらない商店街で、雪の圧雪路をヒヤヒヤしながら歩いたが、この一画に入ると途端に世界が変わった。安全で伝統美の空間が広がっているのである。守りたい日本の道であることが頷ける。造り酒屋や商店、普通の家屋がこの町を守っていた。
 こみせを堪能した後は、いよいよ「つゆ焼きそば」である。お勧めの地酒を尋ねると、先程訪れた造り酒屋の銘柄とは違うものを紹介された。地元の人は亀吉を呑むという。冷やのまま口に含むうちに、次第にいい気分になってくる。つゆ焼きそばも、香ばしい汁麺という感じだ。いいものに出逢った。全国全線乗り尽くしの旅の途中であるが、乗車だけを目的に終着駅ですぐに折り返さなくて良かったとつくづく思う。

 底冷えのする夜の黒石の町を歩きながら、再びこの町に来ることはないかもしれないと思い、だからこそこの風景を覚えておきたいという、いつもの感情が湧いてきた。
 人通りの絶えた夜の道を駅に急ぐ。駅に隣接したスーパーマーケットには何人かの地元の人たちが買い物をしていた。棚には茨木産や長野産の野菜や果物が並べられている。売られているものは東京と変らない。買っている人たちの表情も似たようなものだ。流通が発達した今では、全国から送られてくる同じような物に囲まれて、この土地の人も普段の私も同じように生活をしている。
車止め(黒石駅)
 こんな当たり前のことが、とても意味深いことに感じる。一時的ではあるが、自分とここで生きる人たちとの間に繋がりがあることを実感したからである。ところが、また明日から私はこの人たちとは無関係に生きていく。ここで感じたことは幻のように思えていくだろう。それが不思議でならなかった。同じ空間を共有し、一瞬ではあれ繋がりを持ったという現実の感覚が、明日には途切れてしまい、現実は幻想に変わってしまう。その喪失感の中で取り残される自分という存在の危うさをどう受け止めればよいのか。


黒石駅にて
 駅の構内に入ると、降り積もった雪の中で、車止めがほのかな光を放っていた。行燈のような暖かい灯りを見ていると、こころが次第に和んできた。この光をいつまでも覚えておきたいと感じた。この光はきっと忘れない。そうすることで明日には切れてしまうはずの繋がりが、いつまでも続いていくように思えた。旅に出て車窓からの景色を覚えておきたいというのも、危うい自分という存在をしっかりと繋ぎ止めておきたいからだということに、この時気づいた。 

(2014/1/6乗車)

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