男鹿というとまず高校時代を思い出す。
部活が終わると、どの女子部員を誰が送っていくか、男子の間でワイワイ騒ぎながら決めるのが伝統だった。女の子の方でも送られるのが当たり前になっていて、彼女や彼氏がまだいない高校生にはささやかな楽しみとなっていた。私の担当はいつも尾久近くに住む下級生だった。
この子の家の近くには踏切があった。尾久には車両基地があるので、上野駅との間でよく回送列車が通った。尾久・上野間は機関車が客車を押していく推進運転のため、列車はとてもゆっくりと走る。一旦閉まった踏切はなかなか開いてはくれないが、女の子とおしゃべりを続けるにはかえって都合が良かった。若い頃はとりとめもないことでも、話はいくらでも尽きなかった。
当時は青い客車や茶色い客車がたくさん残っていて、おもに夜行急行に使われていた。車体側面にサボと呼ばれる琺瑯引きの行き先表示板がぶら下がり、そこには東北各地の駅名が記されている。女の子と何を話したかは全く覚えていないが、サボは記憶に残っている。そのひとつが男鹿だった。急行「おが」、男鹿行である。そこがどのようなところかはわからない。当時の高校生は北海道ばかりに関心が向き、男鹿へ行きたいとも思わなかったが、おしゃべりの時間を引き延ばしてくれる有り難い列車として記憶に残っている。
大学に進んで、一人旅を楽しむようになり、最初の東北旅行で利用したのがこの急行「おが」だった。60年代の鉄道旅行ブームは過ぎ去り、80年代は夜行列車を利用する人も減少してきた頃である。4人掛けのボックスシートを独り占めできるようにもなっていた。2人掛けに上半身を横たえ、足は反対側の席に投げ出せば、結構快適に寝られるものだ。中には缶コーヒー二つをシートの下に入れ、座面に傾斜をつけて寝る猛者もいた。枕がないので、頭を高くして寝る工夫なのだ。缶が外れたらとんでもないことになりそうなので、私はついに試みなかった。
40年後の訪問
ようやく男鹿を訪ねる時が来た。踏切で列車を見送ってから、40年の月日が経っている。遙かなる時が過ぎ、急行「おが」が廃止されてからも20年が経過している。
秋田駅から1.3キロ地点にある 奥羽本線300キロポスト |
終点男鹿駅 列車後方に見えるのが寒風山。 |
男鹿駅は構内が広く、貨物輸送のためかつてはこの先の船川港まで貨物支線が伸びていたから、厳密な意味での終着駅ではなかった。しかし現在は貨物線は廃止されたので、駅の端には車止めがある。
男鹿駅 複雑に入り組む機回し線 |
(2014/1/7乗車)
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