2017年8月23日水曜日

山岳鉄道の魅力あふれる肥薩線


絶景路線、誕生の秘話

 日本山岳鉄道の白眉といえば、肥薩線を措いて他にないだろう。熊本や宮崎・鹿児島に住む方々には申し訳ないが、あのような田舎だからこそ都会人にはあまり知られていないだけであって、仮に肥薩線が関東地方にあったとしたら、怒濤のように観光客が訪れて、あっという間に俗化されてしまっていたに違いない。レンゲは野に咲いていてこそ美しい。肥薩線もいつまでも南九州の山中で、ひっそりと息づいていて欲しいものだ。

 熊本から特急で1時間半、途中急流と焼酎で有名な球磨川を遡り、山塊を抜ければ「日本でもっとも豊かな隠れ里」人吉に着く。九州山地に囲まれた球磨盆地に位置する、温泉の湧き出る小さな城下町だ。ここに至るまでの蛇行した深い渓谷もなかなか見どころが多いけれど、そちらの方はSL人吉号でのんびりと楽しむのが良いだろう。今回の目的地はここより更に奥にある。

 それにしても、明治の人達はなにゆえこのような隠れ里に鉄道を敷いたのか。熊本・鹿児島間が鉄道で結ばれたのは、1909(明治42)年11月のことだ。この時、途中関門海峡を連絡船で乗り継いで、青森から鹿児島が鉄道で結ばれた。工事に着手した1905(明治38)年は日露戦争の真っ直中であり、その年の5月27日に日本海海戦が起こるという時代だったから、敵の艦砲射撃を怖れたのも当然のことだろう、国防上の理由から鉄道を山中に通すことにしたのである。現在肥薩線と呼ばれているこのローカル線は、かつての鹿児島本線そのものであり、当時は大動脈だったのである。
 坂の苦手な蒸気機関車の前に立ち塞がる山々、しかも行き来の多い動脈。いつの時代も壁にぶち当たれば、人は技術で乗り越えようとする。矢岳越えの始まりだ。

   注)2015(平成27)年、文化庁が日本遺産に認定。

大畑ループとスイッチバック


(C)Yahoo Japan,(C)ZENRIN

 人吉を後にした列車はディーゼルエンジンを唸らせながらぐいぐいと登っていく。あたりは鬱蒼とした緑で、坂に弱い蒸気機関車泣かせの1000分の25という急勾配だ。やがてループ線が始まるとすぐに現れる横平トンネルの先には、全国でもここにしかない、ループの中のスイッチバック駅、大畑駅がある。大畑は「おこば」と読む。「こば」とはこの地方では焼き畑のことを指すので、それが地名になったようだ。
大畑駅からスイッチバックを眺め
る。左側が人吉方面。画面中段、右
側に向かってループ線の勾配が続い
ていて、正面の山の窪んだところま
で登っていく。         

 それはさておき、誰も住んでいないような所に駅が作られたのは、ここで石炭を補給し、給水する必要があったためである。人吉から大畑まで登るのに約1トンもの石炭が消費されたのだという。
 重量のある蒸気機関車を安全に停車させるには、駅を水平な場所に作らなければならない。であるから、列車は勾配のあるループから一旦はずれ、水平なところに設置された大畑駅に滑り込む。
 石炭を積み給水を終えた蒸気機関車はループ線に戻るためにバックをする必要がある。しかし、そのまま下り勾配のループ線に戻るわけにはいかない。重たい機関車には坂道発進など不可能だからだ。そこでループ内側に水平に設けられた引き込み線に一旦入ってから、平らなところで加速しつつ、再びループ線を登るようになっていた。

 登坂能力に優れた現在のディーゼルカーならば、大畑駅に停車しなくても、そのままループを登れそうである。地図を見ても、ループは連続しているようだから、敢えて大畑駅に立ち寄る必要はなさそうに思えるかもしれない。ところが実際にはループは連続しておらず、大畑駅でジグザグと切り返しながら通過する必要がある。この何とも非効率なところが、肥薩線の魅力でもあるのだ。
大畑駅停車中の観光列車

 現在大畑駅を通過する列車は1日わずか5往復。そのうちの2往復は観光列車である。人吉・吉松間35㎞、普通列車では1時間のところを、途中休み休み20分ほど余計に時間をかけて結んでいる。大畑駅では、バックするために運転手が移動する間、乗客達はホームに出てレトロなローカル駅を見学して楽しむことができる。駅舎にはここを訪れた人達が記念に残した名刺やメモ用紙の数々が所狭しと貼られている。まるで千社札のようだ。駅構内の片隅には、給水塔が残っていて、SL時代を偲ばせる。

 大畑駅を出発した列車は、ループ内側の引き込み線に入ってから一旦停止し、運転手が車内を再び移動する。これが一大セレモニーとなっていて、キャビンアテンダントの女性が、実況中継をしてくれる。心なしか運転手も得意顔である。
 
 運転を再開すると、引き込み線内で加速し、そのまま半径300㍍のループ線へと進んでいく。車窓右側に大畑駅を見送り、短いトンネルを抜けると木立の間から球磨盆地と九州山地が見えてくる。中でも一番高い山が市房山(1721㍍)で、九州で3番目に高い山だ。ちなみに阿蘇や霧島は名山の誉れ高いものの、標高ではこれより低い。
中央が大畑駅、右下が引き込み線。
人吉からの線路は、引き込み線の  
向こう側に微かに見え、撮影地点の
下をトンネルで抜けていく。   

 ループをほぼ1周した地点で左側車窓の視界が大きく開ける。ここが肥薩線最初の絶景ポイントだ。眼下に先程立ち寄った大畑駅と引き込み線が見える。その向こう側に広がるのが球磨盆地と九州山地である。
 全国にはループ線がいくつか残されているが、景色のよさからすれば、ここが群を抜いている。スイッチバックの面白さもさることながら、その下に広がる球磨盆地が背景となって、山岳鉄道の趣がもっとも味わえるからである。観光列車の良いのは、このようなビューポイントできちんと停まってくれ、しかも解説してくれるところだ。37年前に訪れた時には、左右の車窓をキョロキョロしているうちに通過してしまい、不覚にも絶景を拝むことは叶わなかった。他の乗客の中で外の景色を眺めている人は殆どおらず、スイッチバックの記憶しか残っていない。「何事にも先達はあらまほしきものなり」であって、誰かに解説してもらうということはとても有り難いものだ。

   注)徒然草より。二度と訪れないかもしれない土地で、誰からの
        アドバイスも受けずに、大切なものを見はぐってしまうこと
                       ほど残念なことはない。なお原文はもっと意味が深い。
          
山縣伊三郎と後藤新平
 
 ループ線を抜けてから先も矢岳駅までの間は、1000分の30.3という蒸気機関車にとってはほぼ限界に近い区間が9㎞も続く。今回乗車している観光列車「いさぶろう号」は、キハ47という国鉄時代に普通列車用だった車両を、「ななつ星」を初めとするインダストリアルデザインで世界的にも有名な水戸岡鋭治氏によってリニューアルされた名車が使われている。ただエンジンは国鉄時代のレトロなもの。頑丈で重量のある車体を非力なエンジンで動かしている老兵のような車両だ。見かけはお洒落な若作りだが足腰が弱い。
 大きなうなりをあげつつ、ゆっくりとしか登坂できないこの列車が、かえって逆に難所を走る観光列車には相応しく思えてくる。都市の電車区間では1000分の30など至る所にあるが、産業遺産を体感するとは、こういうものなのだろう。
古い佇まいを残す矢岳駅

 肥薩線の標高最高地点は、矢岳駅の537㍍である。人吉が107㍍、大畑が294㍍だから随分と登って来たものだが、高度そのものはそれほど高いものではない。問題となるのはあくまでも標高差である。駅周辺には田畑と農家が点在している。昔ながらの駅舎に隣接した展示館では、往時貨物列車を始めとして多くの列車を牽引したD51型蒸気機関車を見ることができる。

 肥薩線の観光列車は、人吉から吉松方面の下りが「いさぶろう号」、逆の上りが「しんぺい号」という。あえて列車名を変えているのは、この先の矢岳第1トンネルの入口に掲げられた扁額に関わりがある。熊本県と宮崎県の境に位置するこのトンネルは、全長2096㍍の肥薩線最長のトンネルであり、難工事のすえ貫通し、鹿児島本線は全線で開通することができた。この慶事を祝して、熊本県側の入口に逓信大臣山縣伊三郎が「天険若夷」と、宮崎県側に鉄道院総裁後藤新平が「引重致遠」と揮毫したので、それにちなんで吉松行きは「いさぶろう号」、人吉行きは「しんぺい号」と命名したのだ。なんとも気の利いた列車名ではないか。こういうセンスがJR九州にはある。
 ところでこの難解な四字熟語の意味はというと、車内で配られたパンフレットによれば「天険若夷」が<天下の難所を平地のようにした>であり、「引重致遠」は<重いものを遠くに運べる>だそうだ。若夷は夷(い)の若(ごと)しと訓むのだろう。夷には、えびす(未開の異邦人)のほかに、平らげるの意味がある。鹿児島本線としての開通が、如何に当時の物流にとって重要で、人々の期待を担っていたかがわかるエピソードだ。

日本三大車窓 霧島連山の絶景

 土木工事がまだ未熟だった明治時代には、トンネルをどれだけ短くできるかが勝負所だった。現在ならば麓同士を長大トンネル一本で抜けてしまうようなところを、短いトンネルとスイッチバックとループ線で高度を稼ぎ、これ以上無理という所にトンネルを設けて山越えを果たした。それが矢岳越えだったわけだが、これはただ単に土木技術の問題だっただけではなく、蒸気機関車にとって長大トンネルは無理だったことも考え合わせねばならないだろう。昨今のSLは無煙炭や重油を燃やして極力煙害を防いでいるし、そもそも客車の気密性が高く、乗客が煙に悩まされることはまずない。
 電化以前の時代にあって、蒸気機関車がどれほどまでに嫌われていたかを知る人はすでにだいぶ少なくなった。汽車の旅は、それはもう難行苦行の連続であり、特にトンネルは最悪で、窓を閉めてもデッキから煙が流れ込んできて息苦しいこと限りなかった。夏、冷房もない頃に窓を全開にしておくと、煤や石炭殻が飛び込んでくる。私も幼い頃、車窓を眺めていると目の中に石炭殻が入ってしまい、涙では流れ落ちずに、目医者に洗い落として貰ったことがある。だから汚くて厄介な蒸気機関車などにはこれっぽっちも興味がなかった。蒸気機関車が再発見され、広く世間に人気が高まったのは、全国から姿を消した後になってからである。
 矢岳第1トンネルに入った時、当時の人がどんな思いで乗っていたか。ここは想像力を働かせれば、容易に察しがつくだろう。もう二度とこんな汽車には乗りたくないという人もいたに違いない。外は漆黒の闇、薄暗い車内に漂う煤煙。暖かい煙は車内の上ほど濃いが、次第に下に降りてきて、後方へと流れていく。匂いもきつく、窒息しそうな2㎞。
右が飯盛山(846m)、中央やや左が
韓国岳(1700m)、その左雲を被っ
た白鳥山(1363m)。高千穂の峰は
後方で見えていない。      

 トンネルを抜けた瞬間、あちらこちらで窓が開け放たれ、新鮮な外気を胸一杯に吸って人々は安堵する。そこに俄に視界が開けて、雄大な霧島連山が眼前に迫ってくるのだ。この風景は今見ても感動的だが、SL時代では尚更だったろう。目的地まではあと下るだけだ。
 標高1700㍍の韓国岳(からくにだけ)を主峰に、右に飯盛山、その後ろに周辺に黄緑色のえびの高原、左には白鳥山や夷盛山(ひなもりやま)が連なる。眼下は川内川流域に加久藤盆地(えびの盆地とも)が広がる胸のすくような景観だ。日本三大車窓を謳うのも頷ける。観光列車「いさぶろう号」はここでも数分停車し、キャビンアテンダントからはご丁寧にも窓を開けて外の空気を吸うよう薦められる。勿論高原の空気を満喫して欲しいという意図なのだろうが、過去を知る者には、汽車時代の苦労が偲ばれる小粋なアドバイスに思えて仕方なかった。
 日本三大車窓とは、ここ以外は信州姨捨と北海道狩勝峠だ。どこも素晴らしいが、信州の姨捨の前に広がる善光寺平は人々が多く住む開けた土地柄だし、北海道の狩勝峠は長い新トンネルが出来てからは標高が下がったこともあって、一番は昔と変わらないこの車窓であろう。ただどの車窓にせよ、蒸気機関車時代の苦労を想像しながら眺めると、感動もひとしおに違いない。なお、老婆心ながら、ここを訪れる際は「しんぺい号」ではなく、「いさぶろう号」をお薦めする。その理由はもうおわかりであろう。姨捨や狩勝峠の場合も同様である。
微かに見える桜島のシルエット

 パンフレットには天気がよければ桜島も見えると書いてある。確かに…うっすらとシルエットが浮かんでいる。キャビンアテンダントが「皆さんは幸運です」という。自分は雨男なので、ここで運を使い果たさなければよいのだがと思うが、これだけ綺麗だったのだから、まぁ、いいか。

鉄道遺産としての肥薩線 


承前 山岳鉄道の最高峰

 矢岳越えを終えた「いさぶろう号」は、軽やかなエンジン音を響かせながら加久藤盆地、別名えびの盆地へと下っていく。ここは日向の国、宮崎県だ。肥薩線はその名の通り肥後熊本と薩摩鹿児島を結ぶ路線なのだが、ほんの少しだけ日向の国の西端をかすり、そこに位置するのが真幸(まさき)である。勾配の途中にある真幸駅もまた、素通り不能のスイッチバック駅だ。ここでも列車は一旦車止め手前で停車し、運転手の移動後に、真幸駅へ向けて逆進する。
列車は真幸駅の脇を通過してから
バックしつつ駅に停車する。  

 なんとここに待ち受けていたのは、地元の人達の歓迎であった。十数人の人達が、幟をを持ち、手を振って出迎えてくれる。アテンダントの説明によれば、地元の特産品やお弁当なども販売しているとのこと。また、ホームには「真幸の鐘」があり、それを衝く幸せになれるという。あの手この手で町おこしなのだなと思うものの、ここまで多くの人が集まって歓迎してくれるのも珍しい。

 真幸から吉松は近い。盆地を囲む山々の斜面を滑り降りながら、日向と別れて薩摩に入るが、むろん景色が変わるわけではない。地図を見ながら列車に乗っているから分かるだけであって、ほかの乗客の人達は一瞬宮崎県に入ったことなど、知りもしないし関心もないだろう。オタクとは言われたくないが、言われても仕方ない。
『赤と黒』
スタンダールじゃないけれど…

 「いさぶろう号」は吉松が終点である。乗客の多くは、ホーム向かい側で待つシックな黒い特急「はやての風号」に乗り換えて、そのまま鹿児島へ向かう。こちらも水戸岡鋭治氏のデザインによるリニューアル車で、窓からはふんだんに木を用いた雰囲気のある車内が見える。思わず乗りたくなるが、ここは我慢。
都城からの吉都線列車
前方左が人吉方面

 吉松は吉都線の乗り換え駅で、都城を経由して宮崎に繋がる交通の要衝である。かつては熊本と宮崎を結ぶ急行「えびの」が走っていたが、今は需要がないため、吉都線は完全にローカル線化している。肥薩線からは見えなかった天孫降臨神話で名高い高千穂峰も、吉都線からはよくみえるので、霧島連山すべてを眺めるなら、この景勝路線がお薦めだ。そのためJR九州では、肥薩線と吉都線を併せて「えびの高原線」という愛称をつけているくらいだ。熊本県民にはピンと来ないだろうけれど。

遺産
近代化産業遺産【石倉】

 交通の要衝だっただけに、吉松駅には鉄道遺産が残されている。その一つが、2009(平成21)年に近代化産業遺産に認定された石倉だ。肥薩線(旧鹿児島本線)が全通する前の1903(明治36)年に作られた燃料庫で、石造りの鉄総施設としては珍しいという。たしかに全国各地に残るランプ小屋は煉瓦造りだ。電気のなかった時代、ランプの灯りだけが頼りだっただけに、当時を記憶に残す貴重な施設といえる。

 いまでこそ吉松は静かなローカル駅だが、最盛期には機関区・保線区が置かれ、鉄道の町として600人以上の鉄道員が所属するこの地域の拠点であった。その面影がそこかしこに残されていて、駅周辺には蒸気機関車C55なども静態保存されている。この機関車の動輪は、スポーク型の美しいタイプだ。

 肥薩線の旅を終えるに当たって、最後に触れておきたい駅がある。嘉例川である。テレビで紹介されることもあって、比較的多くの人に知れ渡るところとなった。
嘉例川駅舎

 木造平屋切妻造の駅舎は、吉松の石倉と同じ1903(明治36)年、国分(現隼人)から吉松まで旧鹿児島本線が開通した際に建てられたもので、ほぼ当時の原形を保ったまま残っている。お椀を伏せたような緑濃い小山の脇に、ちょこんと建った田舎の駅舎を見ていると、まるでタイムスリップしたかのように、時代を忘れ、刻む時を忘れてしまう。薄暗い待合室には三和土の上に木製のベンチ。その隣は駅員の居なくなった事務室。ホームとの間には木製の改札口。駅舎の脇には樹齢100年を越える大きく育った木。
嘉例川駅と都城行普通列車


 有名になったこともあって、観光客が少なからず訪れる。その多くはマイカーでやって来る。私を乗せた列車が嘉例川に着いた時には、すでに駅前に何台も車が停まって、見学者が数多くいた。静かな田舎駅を想像していただけに少し意外だったが、列車が行ってしまい、しばらくするうちに、さあっと水が引くように人がいなくなってしまった。一緒に降りた高校生達も家族の出迎えの車で行ってしまい、次の列車を待つ私一人だけが残された。

 2006(平成18)年、嘉例川駅舎は国によって登録有形文化財に指定された。「日本でもっとも豊かな隠れ里」という日本遺産に始まり、絶景と数多くの産業遺産に恵まれた肥薩線。地元では現在、世界遺産に登録しようと運動を始めている。
(2017/8/23乗車)

 




世界で一番すてきな通学列車


ローカル線と高校生

 全国のローカル線を最も利用しているのは高校生に違いない。各駅停車の旅を続けていると、朝夕はほぼ必ず通学や帰宅途中の高校生と一緒になる。社会人はマイカー通勤が多いのだろうか、高校生に比べると人数は少ない。高校生の場合は、仮に家から駅が遠い場合も、駅までは車で送ってもらい、その先は通学列車を利用する。
 ローカル線には昔ながらの古い車両が使われることが多く、ボックスシートと呼ばれる4人が向かい合わせに坐るタイプがほとんどだ。外の景色を楽しむ旅人には重宝な座席だが、4人席を一人で占めてしまう場合が多い。特に高校生は見知らぬ人と同席などしないので、仲間同士が出入り口近くに溜まることになる。中はスカスカ、両脇は大混雑という風景が繰り広げられる。こうしてみると、4人ボックスシートが次々に廃止され、景色を楽しめないロングシートが幅を利かせてきているのも分からなくはない。せめて、2人掛けのクロスシートにして欲しいが、安価なロングシートが採用されがちなのは誠に残念だ。
 鉄道が走るような地域は高校の数も複数あるから、制服ごとにどっと下車したり、また乗車してきたりと、賑やかな光景が繰り広げられる。見ていると、学校ごとにカラーが違って面白い。乗車すると同時にスマホに集中する高校生がほとんどだが、中には全員ノートと参考書を取り出して勉強し始めることもある。そんな場合、心なしか大人びた顔つきで、しかも身なりはきちんとしているように見えるが、こちらの先入観もあるかもしれない。テスト前のにわか勉強の可能性だってあるからだが、いずれにせよ、必死にノートを見ている高校生は可愛いものだ。
 大都市圏では新幹線通学する高校生もいるが、私が経験上一番驚いたのは始発の特急列車で宇和島から松山まで通う高校生が少なからずいたことだ。途中からもどんどん乗車してくる。おそらく県立の進学校は県庁所在地にあるからなのだろう。通学定期代も馬鹿にならないだろうから、親の苦労が偲ばれる。

高校生とサロンカー


 さて今回紹介するのは、それとは一線を画す、素敵な通学列車である。熊本県の人吉盆地を走る 「 くま川鉄道」は第3セクターのローカル線だ。国鉄湯前線として開業し、JRに移管後、平成元年に誕生した。沿線にはビックネームの観光地がなく、どちらかというと地味な田園路線だが、5校ほど高校があって通学路線としての需要がある。それにしても取り立てて特徴のない鉄道会社なのだが、大きく変貌を遂げたのは、水戸岡鋭治氏デザインの新型ディーゼルカーKT-500型が5台導入されたことによる。

 鉄道会社としては観光に力を入れて多くの客を招きたいところだが、やはり利用者の大半は高校生。素っ気ないロングシートが当たり前の路線に、特上のサロンが誕生したのだ。高校生達にとっても使い勝手の良いロングシートは、良くデザインされたソファー。

 また外の景色を楽しむことが出来るボックスシートも、お洒落な照明とテーブルを備えている。これなら会話も弾むはずだ。すべてのシートの柄は異なり、ロングシートとボックスシートの間には、パーティションとして肥後独楽などが飾られている。

 列車の交換で手の空いた運転手に「贅沢な列車ですね。素晴らしい」と語りかけると、「水戸岡さんのデザインです。大勢の高校生が乗るので、ちょっときついですが」と答える。どうやら席が足りないということらしいが、所詮どこでも高校生は立っていることが多いのだから問題ないだろう。それより、シートに座った者同士の会話が弾むところに設計者の狙いがあるのだろうから。

 人吉駅で乗車した際は、多くの女子高生で席は埋まっていた。車内に入った瞬間にその内装に驚いたのだが、まさか写真撮影をするわけにはいかない。しかし終点の湯前に着く時に乗車していたのは私だけだった。その際に車内の写真を心置きなく撮らせて貰った。

 こうしてみると、都会の学生は気の毒だなと思う。味気ない満員電車に揺られ、コンクリートジャングルの中の無個性な校舎で学ぶ生徒が大半だ。地方に行くと、学校の校舎が立派なことに驚かされる。そこに現れた水戸岡鋭治氏プロデュースのサロンカー。このような土地で成長すれば、感性も研ぎ澄まされるに違いない。この車両のテーマは「田園」だそうだ。勿論全線が田園地帯を走るからだが、そこにベートーベンが掛けてある。ヘッドマーク代わりに描かれたト音記号がその証拠である。
(2017/8/23乗車)



2017年8月22日火曜日

最果ての駅 九州編

南の果て


 北の最果て稚内から3068.4㎞、線路で結ばれた駅としては日本最南端の西大山にやって来た。開聞岳が間近に迫る風光明媚な無人駅だ。鹿児島中央から列車に乗った際は生憎の雨模様だったが、この駅に降り立つ頃には雨も止んで、開聞岳の裾野が姿をあらわしていた。駅の周辺はヒマワリ畑と一軒の土産物屋。朝が早いためか、店は閉まっているし、曇天のためか、ヒマワリはあちらこちらを向いて絵にならない。次の上りで一旦指宿まで戻ってみようと思う。

 ホームにはお約束通り、この駅の特徴を記したボードが設置されている。最北端の稚内と最東端の東根室は当然のこと、ここでは最西端として佐世保が示されていた。なるほど、西大山を本州最南端としてしまうと、最西端は松浦鉄道たびら平戸口としなければならなくなってしまう。JRとしては佐世保が西の端。だから西大山はJR最南端の駅なのだ。納得。

 指宿で砂蒸し風呂を楽しんだ後、4時間後にもう一度西大山に立ち寄る。だいぶ天気も回復し色鮮やかな風景になってきたが、太陽が移動して列車は逆光、恥ずかしがり屋の開聞岳は山頂が隠れたまま。わずかな停車時間の間に急いで写したのが左の一枚。日本最南端の駅の上にJRとあるのがミソである。

 再び車上の人となって終点を目指す。天気はどんどん回復したが、この先も開聞岳はついに山頂を見せてはくれなかった。残念だが、これでもう一度訪れる言い訳(誰への? 無論私の道楽を見て見ぬふりをしている人だが…)が出来た。

 揺られることおよそ50分、枕崎は真夏の太陽の真っ直中にあった。湿度はそれほどでもないが、とにかく日差しが強い。二ヶ月前に訪れた愁いに沈んむ稚内とは大違いだ。「さあ、昼食は鰹料理と生ビールだ!」と弾む思いで改札口を出ると、コジャレたプレートが下がっている。


「本土最南端の始発・終着駅」。稚内までは3099.5㎞。そういえば、枕崎と稚内は友好都市だった。稚内のホームにも同じような掲示があったなあと思い出す。二つの町は始発・終着駅で結ばれている。そのうち、青春18切符を使って両駅の間を旅してみたいと思う。どちらを始発駅にするにしても、ここに来るまでが大変で、終わった後が一苦労だなあと、愛好家としては嬉しい悲鳴をあげるばかりだった。
稚内駅の掲示(2017/6/28撮影)
(2017/8/22乗車)






もう一つの南の果て


 こんなところにも果てがあった。この視点で考えたことがなかったので、予想外のことに思わず笑ってしまい、嬉しくなった。鹿児島市電の谷山停留所である。洒落た駅舎の入口中央に、「日本最南端の電停」という立派な碑が建っている。

 なるほど、たしかにそうだよなと思うと同時に、それならば最北端は札幌だけれども、あの街は東西南北に碁盤の目のように広がっているから、該当する電停は一つではないぞ、いくつあるんだろうとワクワクしながらスマホでグーグルマップを開いてみる。


 そこで改めて知ったのだが、札幌の街はちょっと傾いているのだ。どうでもいいようなことだが、ざっと測ってみると10度ほど街全体が反時計回りに回転している。「へえっ、知らなかった!」と、知っていたからといってどうでもいいことに妙に感心しつつ、それならば最北端の電停はめでたく一つに決定! 最近環状運転が始まり終着駅ではなくなって風景が一変したが、大通に最も近く、十字路の角に三越のある繁華街、西四丁目こそが、栄誉ある日本最北端の電停である。
札幌市電 西四丁目電停
(2017/7/1撮影)

 地下鉄と接続する電停として、終日賑わう西四丁目だが、あそこを利用する人達に「日本最北端」だというプライド(?)はあるのだろうか。少なくともこの間訪れた際には谷山にあるような立派な碑は建っていなかったと思うけれども、充分に調べ歩いたわけではない。やはり確認に行かなければならないかなあと、愛好家としてはいくらお金があっても足りないなとため息が出るばかりだった。

(2017/8/23乗車)