2014年6月4日水曜日

気動車王国、常磐路①

アカデミック常磐線

 上野東京ラインの開業が迫っている。東北本線と東海道本線の直通運転は、上野・秋葉原間に代表される混雑解消や品川車両区の土地有効利用という、まさにJR東日本にとって夢のようなプロジェクトだ。もちろん沿線自治体も大きな期待を寄せている。なかでも上野周辺では、横浜方面からの客が望めることから、新宿や池袋における副都心線効果の再来を期待しているようである。
 心中穏やかでないのが常磐線沿線自治体だろう。当初の発表では、特急ひたちの東京駅乗り入れこそアナウンスされたものの、普通電車の乗り入れまでは触れられていなかった。黙っていないのは茨城県で、全列車を横浜まで直行させるよう要求していると、先日のニュースで流された。東北・高崎線方面と横浜とは既に湘南新宿ラインで結ばれているのだから、上野東京ラインは常磐線を優先すべきであるという主張は、実に理にも叶っている。
 しかしおそらく茨城県の主張は通らないだろう。それは常磐線が大切にされていないというような、優劣の問題では決してない。むしろ常磐線は首都圏の他の鉄道に比べて高価な車両を導入している特別な路線なのである(注)。利用者には何の恩恵もないが、製作費のかかる交直両用電車が導入されているために、常磐線電車は横浜へは行けるが、直流専用の東海道線電車は取手から先へは行くことができない。だから、横浜湘南方面に常磐線電車を直通させると茨城県に割ける電車の本数が減ってしまうために、JRは決して定期列車を東京駅より南には行かせないはずである。
 交直両用がどれほど高額かは、つくばエクスプレスの電車も2種類あり、安価な直流電車だけが秋葉原と守谷の間を往復していることからもわかる。

(注)首都圏で大切にされていないのは、むしろ意外にも中央線の方である。世間では中央線はオシャレでJR本社からも大切にされていると考えがちだが、必ずしもそうではない。三鷹・立川間の複々線化はおそらく永遠にないだろうし、未だに普通グリーン車はなく、逆に通勤電車のまま大月まで運転するありさまだ。駅周辺の施設が充実し華やかな反面、中央線で都心へ通う人たちの通勤地獄は解消されていない。今どき気軽にグリーン車が使えないのは首都圏五方面(東海道・中央・高崎宇都宮・常磐・総武)で中央線だけである。

 それにしても直流が中心の首都圏にどうして交流用の電車を走らせているのか。難しい話はわからないが、筑波山の麓に柿岡地磁気観測所があり、電流の流れが一方通行の直流大電流が近くを流れると観測に支障を来すからだそうだ。地磁気の観測? う~む、よくわからないが茨城県はアカデミックだなあ。研究学園都市もあるし、東海村の研究所もあるし(こちらは近年評判が悪いけれど)。とにもかくにも交流だと電気の流れが双方向なので影響がないのだという。だから、常磐線の取手以北、水戸線の小山以東、つくばエクスプレス線の守谷以北は交流電化になっている。オシャレで遊び上手な湘南ボーイのような向きには理解不能な土地、それが茨城県なのだ。

 長い前置きはそろそろ終わりにしよう。問題はJRやつくばエクスプレスのような資金力のある鉄道会社は高額な交流施設が持てるから良いが、ローカル私鉄はどうすればよいのか。御存じのように、地方のJRはほぼ交流で電化するものの、同じ地域を走っているローカル私鉄は大体が首都圏の大手私鉄電車のお古を使っている。ということは直流電車の中古品を使うのがローカル私鉄の大鉄則と言える。茨城県にもローカル私鉄はある。さて、どうする? 気象庁の施設のためなのだから国の補助金がたんまりと出て…などということは全くない。答えは電気を使わないことだった。ここに常磐路に気動車王国が誕生する最大の理由があった。


関東鉄道常総線

 常磐線は東京の日暮里を起点とし、江戸川を渡ると千葉県に、利根川を渡ると茨城県に入る。取手は利根川を渡った茨城県最初の町であり、常総線の起点となっている。常総線の名前の由来は、常陸と上総を結ぶ鉄道という意味である。取手が上総というのは少し違和感があるかもしれないが、そもそも利根川は江戸時代に開削された放水路なので、それ以前は更に北側を流れる小貝川あたりが国境になっていたようである。つまり、現在は茨城県でも当時は上総国だった。こんな歴史が線名に現れていて興味深い。
守谷・新守谷間
 ところで都会の鉄道を見慣れた人には、電化されていない複線の鉄道はなかなか想像できないかもしれない。朝晩のラッシュ時には2両編成で運行されて、最大4両編成で運転されることもある常総線は、実に堂々としたローカル私鉄である。鉄道発祥の国イギリスではごくごく当たり前で、目障りな架線がない分、すっきりとした風景が広がっている。日本では北海道の室蘭本線などで見られるが、なかなかいいものである。
 さて複線区間は取手から水海道までの17.5㎞区間であり、7時台には10本(往復で20本)もの列車が運行されている。つくばエクスプレスが開業してからは、取手から常磐線に乗り換える人が減り、乗降客が一番多いのは守谷駅に移った。日中は1時間あたり4本に減り、3本が水海道折り返し、1本だけが下館行となっていることが多い。守谷折り返しとなることもある。
水海道
 沿線は住宅と畑、雑木林が混在している。つくばエクスプレスが開通してからは、マンションも目立つようになったが、それ以前から新守谷駅付近には新しい住宅街が広がっていた。バブル期に土地の高い都心を嫌って、広々とした宅地を求めて移住してきた人も多い。かなり質の高い住宅街が広がっているのである。この辺りに住む人の中には、パークアンドライドの人や、奥さんに駅まで送り迎えして貰う人も多いと聞く。
水海道から先は単線
 水海道から先33.6㎞は単線となる。三妻では列車交換があり快速守谷行が通過していく。遠くに、宗教法人だろうか、立派な建物が見えるが、この先の石下には豪壮な天守閣があった。なんとも建物が個性的な土地柄である。筑波山が大きく見えるが、一向に近づかない。つまり遠巻きに走っているのだ。保線の具合が良く、空気バネの新型車両でもあるので、単線ながら快適な乗り心地だ。
筑波山
左のピークが男体山、右は女体山。
 下妻は大きな駅だ。いわゆる国鉄型のホーム配置となっていて、列車交換だけではなく、折り返しが出来るよう2面3線構造になっている。大宝を過ぎると起伏のある土地となり果樹園が広がってきた。難読駅の騰波ノ江(とばのえ)を過ぎると、男体山と女体山が重なってひとつとなり、妖艶な雰囲気が漂うと妄想しているのは自分だけかもしれない。黒子でまた交換。単線に単行の気動車が頻繁に走っているが、どれもガラガラである。
 筑波の左側に見えるのは加波山のようである。雑木林を越え、広々とした畑や植木屋が育てる芝の絨毯の脇を通って気動車はコスモスの花が中途半端に広がる大田郷に着いた。密集した農家の村である。余すところあと一駅、乗客4人、運転手1人、保線区員1人を乗せた列車は、右に大きくカーブを切りながらJR水戸線と併走し、終点下館に滑り込んだ。JRの向こう側には真岡鐵道のディーゼルカーが停まっている。このレポートはまたの機会に。
(2009/11/5乗車)


関東鉄道竜ヶ崎線

 常磐線取手を過ぎると藤代の手前で一瞬車内の灯りが消えたり空調が止まったりする。ここがデッドセクションと呼ばれる直流から交流に切り替わる所である。地磁気観測所が近づいたというわけだ。藤代を過ぎ、小貝川を渡ると佐貫に着く。佐貫はウナギで有名な牛久沼のほとりに開けた町である。
竜ヶ崎駅(左奥)

佐貫に向かって出発するキハ2000系
車庫内にキハ532も見える。在籍す
る列車の全てが写っている。    
 竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶわずか4.5㎞の非電化路線だ。途中駅はわずか入地駅のみ。しかも列車の交換施設はなく、1両が行ったり来たりしているだけのミニ路線となっている。佐貫駅も竜ヶ崎駅もすべてが1面1線の片側ホームであり、鉄道模型の入門セットのように素っ気ない。入地駅前後には田圃が広がっている。
 竜ヶ崎線の歴史は古く、明治33年には常磐線佐貫駅と共に開業している。龍ヶ崎の歴史は古く、江戸時代は仙台藩領として米の中継場所でもあり、江戸との繋がりも強かったようだ。竜ヶ崎線は常磐線と連絡することで、この町と東京を今でも結ぶ重要な生活路線となっている。
ジャッキ
 さて、本来なら電化されてもおかしくない路線だが、観測所があるために気動車が活躍している。しかもキハ2000系は1997年に新製されたもので、冷房装置も最初から完備されており、ローカル線らしさはどこにもない。駅改札口にはSuica対応の改札機もあって、常磐線からそのまま龍ヶ崎までやってくることが出来る。気動車が時代遅れだというのは全くの早計であり、学問に貢献するための対応なのだということが実感できる。
軽油スタンド
 竜ヶ崎駅に併設された車両基地には、少ない車両数ながらも整備に対応する様々な施設がある。その一つが、車両を持ち上げるジャッキだ。4つの大きな爪が車両を持ち上げて、床下機器を点検するためのものだ。ジャッキの一つには整備士たちのナッパ服が干してあり、ここが車両整備工場であることを実感する。
 また、気動車特有のものとしては、燃料関係施設がある。列車に燃料ホースとサービススタンドの取り合わせは、やはり珍しい。



(2009/11/5乗車)



気動車王国、常磐路②

今はなき筑波鉄道

筑波駅にて(1981.11.3撮影)

キハ811
 1987年4月1日に廃止された筑波鉄道は、その名の通りかつては筑波山には欠かせない鉄道だった。常磐線の土浦から筑波山麓を巡り、水戸線の岩瀬までの間40.1㎞を結ぶ単線非電化の路線で、全線のほぼ中間に位置する筑波駅から筑波神社前までのわずかな距離をバスが結んでいた。筑波神社の脇から山頂まではケーブルカーを使えば誰でも気軽に行けることもあって、全盛期には多くの観光客が上野からの直通列車でやって来た。手元にある時刻表1972年3月号によれば、快速列車「筑波」は休日のみの運行で上野を8時39分に出発し、途中、松戸・我孫子・取手・佐貫に停車し、土浦には9時55分に着いている。土浦から筑波までは非電化のため、「筑波」は客車列車で運行されていたから、おそらく土浦では機関車の付け替えがなされたのではないだろうか。終点筑波には10時49分着とある。筑波山を歩いて登山するには少々遅い時間のような気もするが、ケーブルを利用する一般の参拝者や観光客にはなかなか便利な列車であった。

DC202機関車(筑波駅にて)
 さて、筑波鉄道は関東鉄道常総線と同じように、常磐線と水戸線を結ぶローカル私鉄なのだが、常総線と比べて東京から遠いため通勤路線としての利用度が低く、また筑波観光自体にマイカーが利用されるようになって、利用客が大幅に減少してしまい、赤字経営が続いた。その結果、奇しくも国鉄解体と同じ日に廃線となってしまったのである。


キハ505
 私がここを訪れたのは廃線の6年前の文化の日、紅葉狩りをしようということでやって来た。東京の木々が色づくにはまだ早いが、同じ関東でも標高の高い筑波では紅葉が進んでいた。この頃すでに上野からの直通列車はなくなっていた。赤字が続いていたこともあって、鄙びたムード満載の鉄道であったという印象である。生憎の天候で、列車の写真写りはたいそう悪いが、無くなってしまった今にして思えば貴重な写真となった。現在廃線跡地はサイクリングロードになっているそうだ。
(1981/11/3乗車)


SLの里で活躍する緑の気動車

真岡駅

建物が蒸気機関車の形になっている。
SLに賭ける意気込みを感じさせる。  
 真岡鐡道に関するクイズを一つ。「真岡」は何とフリガナを振ったら良いのか。
  1)まおか
  2)もうか
  3)もおか
 結構迷われる方も多いのではないか。恥ずかしながら私などはワープロでかな漢字変換をする際に、一発で変換できたためしがない。

 答えは3の「もおか」である。「真」を「も」と読むのはなかなか難しい。しかも車内アナウンスは「もーか」に聞こえるので、ついつい「もうか」と打ってしまうのである。「大通」は「おおどうり」ではなく「おおどおり」。「胴体」は「どおたい」ではなく「どうたい」。「ー」を使わずに延ばす音を表記するのは難しい。なお「真」を「も」と読むのは、二重母音の関係だろう(注)
 (注)日本語は二重母音を嫌い、発音が変わる。アオはオーとなる。
    まおか maoka  → mooka もおか  
  なお、旧国鉄真岡線は「もうか」線と仮名を振った。ところが市名は
 「もおか」なので、それに合わせたという。地域密着型の鉄道会社なら
  ではの配慮である。

下館駅
 さて、真岡鐡道が正しく読み書きできるようになったところで本題に入ろう。今回の話題は人気のSLではなく、乗り尽くしである。水戸線経由でここまでやって来て、下館駅で真岡鐡道の気動車を初めて見た時は、正直びっくりした。なんとまあド派手なデザインなのだろう。一目で新造車両だとわかる列車の塗装は、他に類を見ない斬新なものだった。濃い緑と薄い緑の市松模様、こんな列車は世界中のどこにもない。さらに裾にはオレンジ色の帯が巻かれている。凄いとしか言いようがなかった。
 SLの運行で有名な真岡鐡道だが、普段はどのような列車が走っているかは不覚にも思いが及ばなかった。下館駅では複雑な思いでこの気動車に乗車したが、乗ってしまえば綺麗な車内は快適そのもの。この先の真岡・益子・茂木への旅が楽しみである。
 ところで真岡鐡道の起点下館は、いわゆる平成の大合併で誕生した筑西市の中心駅である。筑波山麓西側にあり、取手からの常総線と水戸線が合流する交通の要衝で、常磐路の西の外れに位置する。しかし真岡線沿線の大半(真岡・益子・茂木)はいずれも栃木県に属していて、厳密には常磐路の鉄道とは言い難いのだが、歴史的にはどうやら宇都宮との繋がりよりも筑西との繋がりが強かった土地のようである。旧国鉄時代に走っていた急行「つくばね」は、その名の通り、上野から常磐線・水戸線を通って下館から茂木へと結んでいた。真岡沿線と宇都宮の間には鬼怒川が流れ、鬼怒川は常総線に沿って南下し、守谷付近で利根川と合流している。つまり常総線と真岡鉄道は、常磐線と東北線ともに、放射状に首都圏と結んでいるのである。
下館行と交換
 列車が久下田に着いたとき、この列車の印象がガラッと変わった。すでに交換列車が待っていたのだが、その車両が周囲の風景にすっかり溶け込んでいるのである。緑豊かな木々の中にこの気動車を置いてみると、まるで迷彩色をまとったかのように、周囲と一体化する。緑のグラデーションの中に、「木々の葉」のような市松模様が散らされているのだから、何の不自然さもなかった。ただ車両が余りに風景に溶け込んでしまうと、接近しても見えづらく危険である。オレンジの帯は、遠くから視認でき、安全に役立っていた。つまり計算され尽くした車両だったのである。
 遠くに里山が低く連なり、田圃の中を列車は走っていく。益子では陶器を求める人々が数多く降りて行った。まばらになった車内では、携帯電話会社の調査員がしきりに電波状態を測定している。時々電波の途絶える場所があるようだ。自分の携帯を見てみると、電波は良好である。ここでも電話会社同士の熾烈な戦いがあるのだなと感じる。
茂木駅

左側に転車台が見える。蒸気機関車
はここで反転し、機回り線を使って、
これまで最後尾だった客車と連結す
る。見ているだけで楽しい場面だ。 
 小高い丘を越えて、一目で道の駅とわかる建物の脇を下ると、終点茂木である。観光で成り立つような町ではない。普通の、ごく普通の、田舎町。暮らしやすそうな町だなと思うと同時に、ここを去れば忘れてしまいそうな町でもある。ホンダのカーレース場「ツインリンクもてぎ」はここから4キロ程先だという。周囲にはゴルフ場もあるらしい。だからと言って、一般客が散策を楽しむような場所ではなく、ここは生活をする場所なのだ。
 ここでの用事はない。このまま帰ろうと思う。昼食は真岡で食べよう。再び真岡鐡道の乗客となって、益子を通り、真岡に着く。ここは鉄道の町である。駅舎だけでなく、真岡鐡道を有名にしているSLや今は使われなくなったディーゼルカーが展示されている。なかでもガラス越しに見える蒸気機関車は、ロッドや車輪が磨き上げられていて、この鉄道会社の心意気が窺えて快い。
C12は展示室を兼ねた車庫の中で
ピカピカに磨き上げられていた。 
 展示に満足しつつ、良い気分で町を少し歩く。お昼は何にしようかと適当な店を探していると、駅から程近いところに「みんみん」の看板が現れた。宇都宮餃子の有名店がここに進出している。餃子でビールも悪くないと思うと同時に、改めてここが栃木県であることと、地域の繋がりが鉄道から自動車に移っていることを実感した瞬間でもあった。
(2010/6/17乗車)



気動車王国 常磐路③

Mythical 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線
 
JR鹿島神宮駅で出発を待つ水戸行
 JR鹿島線の正式な終点は鹿島サッカースタジアムだが、同駅は試合開催日だけ営業する臨時駅のため、すべてのJR列車は一つ手前の鹿島神宮で運転が打ち切られる。そこを埋め合わせているのが鹿島サッカースタジアムと水戸を結ぶ鹿島臨海鉄道であり、2両編成のディーゼルカーが鹿島神宮まで足を延ばしてやってくる。試合のない日はスタジアム駅を通過してしまうので、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線はふだんは起点の駅が営業されていない一風変わった鉄道だ。
 臨海鉄道という名前が示すように、この鉄道はもともとは貨物輸送専用として建設された。大洗鹿島線以外に鹿島臨海線があり、こちらは現在でも貨物専用路線として臨海工業地帯の重要な輸送を担っている。ただ輸送の主役が鉄道からトラックに移った(注1)ために経営は決して楽ではないようだが、旅客の乗れない鉄道には残念ながら協力のしようがない。

 大洗鹿島線はもともと国鉄鹿島線として水戸と鹿島を結ぶ鉄道として計画され、鉄建公団によって建設された。深刻な赤字財政に喘いでいた国鉄は鹿島線の延長を拒んだため、行き場を失いかけたこの路線は第3セクターとして開業し、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線となった。霞ヶ浦の一部(注2)である北浦と鹿島灘の間を北上し、那珂川河口に位置する大洗で西に進路を変え水戸に至る、延長53キロの非電化単線路線である。

 さて厳かな雰囲気が漂う鹿島神宮の杜から少し下ったところにJR鹿島神宮駅がある。『常陸国風土記』にもみえる由緒ある神宮には武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ)が祭られ、古くから武神として尊崇を集めていた。参道にある駅前の広場には剣豪塚原卜伝の碑が建っていて、戦う人々の聖地といった感がある。
 この地に関係する戦いでも物騒でないのが、生き死にに関係のないサッカーJリーグの戦いであろう。鹿島アントラーズの本拠地、茨城県立カシマサッカースタジアムは、鹿島神宮から2~3キロのところにある。普段は列車の停まらない駅には、何本もの側線があって、サポーター達の輸送用に列車を留置しておく所と思いきや、実は臨海工業地帯からのコンテナ列車の留置線だそうだ。ホームとは比べものにならないほどの長い待避線が、貨物用であることを示している。
水田の向こうに見える北浦

丘陵地帯の麓に横に広がる水の帯が
北浦。南北に20数キロにわたって
細長く横たわる、ほぼ北限の風景。
 さて、大洗鹿島線は北浦と鹿島灘の間を通るといっても、残念ながら海や湖水が堪能できるわけではない。ハマナスの自生南限地に近い、その名も鹿島灘駅ですら海岸から1キロ以上隔たっている。海岸線をのんびりと行く普通のローカル線とは異なった雰囲気が漂っている。そもそもコンテナ貨物の輸送が可能なように鉄建公団が建設した路線だけあって、列車はひたすら真っ直ぐに林や畑の中を北に向けて走る。起伏に乏しい土地なので高架や盛り土区間はほとんどないが、それなのに踏切はなく、あまり車の通らないような道路までもが高架橋となっていて、まさに近代的なローカル線なのだ。

 集落の集まっている鉾田に近づいたところで、わずかに北浦が見える。湖畔に沿って走ってくれればいいのにとは思うが、産業効率優先の路線は旅の情趣には無頓着である。
涸沼(ひぬま)
 その後、どこで分水嶺を越えたか分からないうちに那珂川水系の涸沼がちらりと見える。こちらも北浦と同様に汽水湖なのだが、どんな湖かわかるほど近くには寄ってくれない。そうこうしているうちに、沿線最大の町大洗に着いた。側線には二両編成のディーゼルカーが停まっている。大洗・水戸間は列車本数がほぼ倍になり、日中は1時間に二本程度運転されているのだ。
単線高架
 那珂川流域は水田が広がり、人口も増えてくる。大洗を過ぎると列車は高架線の上を走るようになる。途中進行左側の丘の上に大仏が見えて来た。森の中に鎮座している。後に知ったことだが、それはホトケではなくヒトだった。『常陸国風土記』に出てくる伝説の巨人、ダイダラボウの像だったのである。丘の上に居ながら海岸に手が届いてハマグリをさらうことが出来、片足の痕跡はなんと偕楽園脇の千波湖となったという伝承が残っている。前者はこの地にある貝塚の由来を説明し、後者は湖の形の由来を解き明かしてくれる、伝承はまさに古代人の知恵であった訳だ。
大仏?
 列車は緩いカーブを切りながらトラス橋を渡って常磐線に寄り添いながら水戸に到着する。国鉄の路線として計画されただけあって、事実上の起点である鹿島神宮もこの水戸駅もJRと完全に一体化していて、一見地方鉄道であるようには見えない。水戸と鹿島臨海工業地帯を結ぶ貨物線に間借りするような旅客鉄道とでもいったらよいだろうか。ただ、この路線に乗って振り返ってみれば、常陸の国は紛れもない神話の国であるということだった。武甕槌大神に始まり巨人の足跡で終わるこの鉄道は、『古事記』や『風土記』という日本を代表する神話を身近に感じることが出来る、歴史探訪鉄道でもあった。
水戸駅で出発を待つ鹿島神宮行

(注1)近頃また風向きが変わってきた。人口の減少によって、トラック運転手不足が懸念されているそうである。味の素は2016年から500キロ以上の輸送をトラックから船舶・鉄道に切り替えると発表した(2014/5/28日経)。人口減少は鉄道会社にとっても頭の痛い問題だろうが、長距離鉄道貨物の回復が思わぬ救世主となるかもしれない。

(注2)霞ヶ浦は、西浦・北浦・外浪逆浦(そとなさかうら)・北利根川・鰐川・常陸川の各水域からなる総称だという。大きく二股に分かれた湖を指しているものだと不覚にも思っていたが、それは正式には西浦と呼ぶ。私のように思い込んでいる人も多いようで、西浦を狭義の霞ヶ浦と考える向きもあるらしい。


(2010/5/13乗車)



郷愁のひたちなか海浜鉄道湊線

阿字ケ浦
 終点の阿字ヶ浦は常磐線勝田から旧型気動車にゴトゴト揺られて8駅目、距離にして14.3キロの地点にある。駅から5〜6分歩けば阿字ケ浦海水浴場があり、花々が楽しめる国営ひたちなか海浜公園もさほど遠くない。しかしまず楽しめるのが終点阿字ケ浦駅そのものだ。味わいある終着駅としてはまさに一級品で、そのまま鉄道模型のジオラマにでもしたくなるような風景がある。町はずれの広い空、清潔だが古びた駅舎とレトロな気動車。長い年月、大切にされていたものが今も息づいている。
 
前照灯を挟む二つのタイフォン
 停車中の気動車は一見国鉄車両に見えるが、前照灯周りを見ると一風変わっていることに気づく。両側にタイフォン(警笛)が付いているこの車両は、1969年まで北海道の留萌鉄道で活躍していたキハ2005である。国鉄の普通列車キハ22と似た車両だが、タイフォンの位置と形状が個性的で、その上に国鉄の急行塗装を施すなど湊鉄道線はなかなか憎い演出をしている。
那珂湊駅にて
注目は車庫に停車中のキハ2004
国鉄準急色。手前は海浜鉄道に
よる新造車両キハ3710形。  
 留萌鉄道から移って来た同系気動車はもう一台あって、こちらは国鉄の準急塗装を施したキハ2004である。どちらも車歴がだいぶ古くなって来たので、いつまで運用されるか心配だが、昨今の地方鉄道が歴史的記念物として車両を大切に保存してくれるのは大変嬉しいことだ。鉄道会社の努力と沿線の牧歌的な風景が相俟って、私たちの心に郷愁を感じさせるのだが、ようやくこの日本にも英国の保存鉄道のような試みが始まっているのかもしれない。古いものを大切にしつつ実用に供する。そのために敢えて国鉄時代を彷彿とさせるようなカラーリングを施す。ひたちなか海浜鉄道の試みを今後も見守りたい。
那珂湊駅にて
キハ2005の後ろにキハ222
 ところで沿線で乗降客が一番多いのはもちろん那珂湊である。那珂川をはさんで大洗の対岸に位置する那珂湊には関東でも有数の漁港があり、駅から15分ほど歩いたところの那珂湊おさかな市場はいつも観光客で賑わっている。休日の駐車場は混雑するし、新鮮な魚を楽しみながら一杯やるのも悪くない。そんな時、やはり頼りになるのは湊鉄道線ではないだろうか。勝田までスーパーひたちでやって来て、海浜鉄道に乗り換え、おさかな市場で軽く一杯…こういう観光客が増えれば少しはローカル私鉄の赤字も解消するのだが。

那珂湊駅にて
改札口のある上りホームから下り
ホームまでは線路を横切っていく
必要がある。引っ切りなしに走る
都会の鉄道では見かけなくなった
 那珂湊の駅で帰りの列車を待っていると、キハ2005に連れられて、これまた珍しいキハ222がやって来た。この車両は1970年に北海道の羽幌炭礦鉄道から払い下げられたものである。羽幌は留萌よりも更に北にある最果ての地だ。この二両は炭鉱の閉山とともにこの地に移り、第二の人生を歩んでいる。
旋回窓の向こうには
田植えの終った水田
が広がっている。
 
 キハ222は極寒の地の鉄道らしく、ワイパーではなく旋回窓が使われている唯一の旅客車両だそうだ。冬の羽幌を訪れたことはないが、真夏にこの地方をドライブした際、日本海に沿ったオロロンラインに点在するシェルターには驚いた。本州では地吹雪を避けるために道路沿いにフェンスを張る地方があるが、最果て天塩地方ではもっと徹底して、かまぼこ型のドームで道を覆っているのだ。風が静まるのを待って次のシェルターまで車を走らせるのだろう。この旋回窓を見ていると、この車両がかつて厳しい北国にいたことを思い知らされる。

 さて、そろそろ気動車を乗り尽くす常磐路の旅も終わりが近づいた。常磐とは常陸と磐城の合成語だから、本来は福島県の気動車にも触れなければならないところだ。ただ、今回はローカル私鉄ばかりを取り上げているので、私鉄はすべて電車の福島県については触れないことにする。
 関東地方では茨城県以外に千葉県でも気動車が活躍している。こちらはそのうち房総横断鉄道として紹介してみたい。いつのことになるかはわからないけれど。
(2010/5/13乗車)