2014年6月4日水曜日

気動車王国、常磐路①

アカデミック常磐線

 上野東京ラインの開業が迫っている。東北本線と東海道本線の直通運転は、上野・秋葉原間に代表される混雑解消や品川車両区の土地有効利用という、まさにJR東日本にとって夢のようなプロジェクトだ。もちろん沿線自治体も大きな期待を寄せている。なかでも上野周辺では、横浜方面からの客が望めることから、新宿や池袋における副都心線効果の再来を期待しているようである。
 心中穏やかでないのが常磐線沿線自治体だろう。当初の発表では、特急ひたちの東京駅乗り入れこそアナウンスされたものの、普通電車の乗り入れまでは触れられていなかった。黙っていないのは茨城県で、全列車を横浜まで直行させるよう要求していると、先日のニュースで流された。東北・高崎線方面と横浜とは既に湘南新宿ラインで結ばれているのだから、上野東京ラインは常磐線を優先すべきであるという主張は、実に理にも叶っている。
 しかしおそらく茨城県の主張は通らないだろう。それは常磐線が大切にされていないというような、優劣の問題では決してない。むしろ常磐線は首都圏の他の鉄道に比べて高価な車両を導入している特別な路線なのである(注)。利用者には何の恩恵もないが、製作費のかかる交直両用電車が導入されているために、常磐線電車は横浜へは行けるが、直流専用の東海道線電車は取手から先へは行くことができない。だから、横浜湘南方面に常磐線電車を直通させると茨城県に割ける電車の本数が減ってしまうために、JRは決して定期列車を東京駅より南には行かせないはずである。
 交直両用がどれほど高額かは、つくばエクスプレスの電車も2種類あり、安価な直流電車だけが秋葉原と守谷の間を往復していることからもわかる。

(注)首都圏で大切にされていないのは、むしろ意外にも中央線の方である。世間では中央線はオシャレでJR本社からも大切にされていると考えがちだが、必ずしもそうではない。三鷹・立川間の複々線化はおそらく永遠にないだろうし、未だに普通グリーン車はなく、逆に通勤電車のまま大月まで運転するありさまだ。駅周辺の施設が充実し華やかな反面、中央線で都心へ通う人たちの通勤地獄は解消されていない。今どき気軽にグリーン車が使えないのは首都圏五方面(東海道・中央・高崎宇都宮・常磐・総武)で中央線だけである。

 それにしても直流が中心の首都圏にどうして交流用の電車を走らせているのか。難しい話はわからないが、筑波山の麓に柿岡地磁気観測所があり、電流の流れが一方通行の直流大電流が近くを流れると観測に支障を来すからだそうだ。地磁気の観測? う~む、よくわからないが茨城県はアカデミックだなあ。研究学園都市もあるし、東海村の研究所もあるし(こちらは近年評判が悪いけれど)。とにもかくにも交流だと電気の流れが双方向なので影響がないのだという。だから、常磐線の取手以北、水戸線の小山以東、つくばエクスプレス線の守谷以北は交流電化になっている。オシャレで遊び上手な湘南ボーイのような向きには理解不能な土地、それが茨城県なのだ。

 長い前置きはそろそろ終わりにしよう。問題はJRやつくばエクスプレスのような資金力のある鉄道会社は高額な交流施設が持てるから良いが、ローカル私鉄はどうすればよいのか。御存じのように、地方のJRはほぼ交流で電化するものの、同じ地域を走っているローカル私鉄は大体が首都圏の大手私鉄電車のお古を使っている。ということは直流電車の中古品を使うのがローカル私鉄の大鉄則と言える。茨城県にもローカル私鉄はある。さて、どうする? 気象庁の施設のためなのだから国の補助金がたんまりと出て…などということは全くない。答えは電気を使わないことだった。ここに常磐路に気動車王国が誕生する最大の理由があった。


関東鉄道常総線

 常磐線は東京の日暮里を起点とし、江戸川を渡ると千葉県に、利根川を渡ると茨城県に入る。取手は利根川を渡った茨城県最初の町であり、常総線の起点となっている。常総線の名前の由来は、常陸と上総を結ぶ鉄道という意味である。取手が上総というのは少し違和感があるかもしれないが、そもそも利根川は江戸時代に開削された放水路なので、それ以前は更に北側を流れる小貝川あたりが国境になっていたようである。つまり、現在は茨城県でも当時は上総国だった。こんな歴史が線名に現れていて興味深い。
守谷・新守谷間
 ところで都会の鉄道を見慣れた人には、電化されていない複線の鉄道はなかなか想像できないかもしれない。朝晩のラッシュ時には2両編成で運行されて、最大4両編成で運転されることもある常総線は、実に堂々としたローカル私鉄である。鉄道発祥の国イギリスではごくごく当たり前で、目障りな架線がない分、すっきりとした風景が広がっている。日本では北海道の室蘭本線などで見られるが、なかなかいいものである。
 さて複線区間は取手から水海道までの17.5㎞区間であり、7時台には10本(往復で20本)もの列車が運行されている。つくばエクスプレスが開業してからは、取手から常磐線に乗り換える人が減り、乗降客が一番多いのは守谷駅に移った。日中は1時間あたり4本に減り、3本が水海道折り返し、1本だけが下館行となっていることが多い。守谷折り返しとなることもある。
水海道
 沿線は住宅と畑、雑木林が混在している。つくばエクスプレスが開通してからは、マンションも目立つようになったが、それ以前から新守谷駅付近には新しい住宅街が広がっていた。バブル期に土地の高い都心を嫌って、広々とした宅地を求めて移住してきた人も多い。かなり質の高い住宅街が広がっているのである。この辺りに住む人の中には、パークアンドライドの人や、奥さんに駅まで送り迎えして貰う人も多いと聞く。
水海道から先は単線
 水海道から先33.6㎞は単線となる。三妻では列車交換があり快速守谷行が通過していく。遠くに、宗教法人だろうか、立派な建物が見えるが、この先の石下には豪壮な天守閣があった。なんとも建物が個性的な土地柄である。筑波山が大きく見えるが、一向に近づかない。つまり遠巻きに走っているのだ。保線の具合が良く、空気バネの新型車両でもあるので、単線ながら快適な乗り心地だ。
筑波山
左のピークが男体山、右は女体山。
 下妻は大きな駅だ。いわゆる国鉄型のホーム配置となっていて、列車交換だけではなく、折り返しが出来るよう2面3線構造になっている。大宝を過ぎると起伏のある土地となり果樹園が広がってきた。難読駅の騰波ノ江(とばのえ)を過ぎると、男体山と女体山が重なってひとつとなり、妖艶な雰囲気が漂うと妄想しているのは自分だけかもしれない。黒子でまた交換。単線に単行の気動車が頻繁に走っているが、どれもガラガラである。
 筑波の左側に見えるのは加波山のようである。雑木林を越え、広々とした畑や植木屋が育てる芝の絨毯の脇を通って気動車はコスモスの花が中途半端に広がる大田郷に着いた。密集した農家の村である。余すところあと一駅、乗客4人、運転手1人、保線区員1人を乗せた列車は、右に大きくカーブを切りながらJR水戸線と併走し、終点下館に滑り込んだ。JRの向こう側には真岡鐵道のディーゼルカーが停まっている。このレポートはまたの機会に。
(2009/11/5乗車)


関東鉄道竜ヶ崎線

 常磐線取手を過ぎると藤代の手前で一瞬車内の灯りが消えたり空調が止まったりする。ここがデッドセクションと呼ばれる直流から交流に切り替わる所である。地磁気観測所が近づいたというわけだ。藤代を過ぎ、小貝川を渡ると佐貫に着く。佐貫はウナギで有名な牛久沼のほとりに開けた町である。
竜ヶ崎駅(左奥)

佐貫に向かって出発するキハ2000系
車庫内にキハ532も見える。在籍す
る列車の全てが写っている。    
 竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶわずか4.5㎞の非電化路線だ。途中駅はわずか入地駅のみ。しかも列車の交換施設はなく、1両が行ったり来たりしているだけのミニ路線となっている。佐貫駅も竜ヶ崎駅もすべてが1面1線の片側ホームであり、鉄道模型の入門セットのように素っ気ない。入地駅前後には田圃が広がっている。
 竜ヶ崎線の歴史は古く、明治33年には常磐線佐貫駅と共に開業している。龍ヶ崎の歴史は古く、江戸時代は仙台藩領として米の中継場所でもあり、江戸との繋がりも強かったようだ。竜ヶ崎線は常磐線と連絡することで、この町と東京を今でも結ぶ重要な生活路線となっている。
ジャッキ
 さて、本来なら電化されてもおかしくない路線だが、観測所があるために気動車が活躍している。しかもキハ2000系は1997年に新製されたもので、冷房装置も最初から完備されており、ローカル線らしさはどこにもない。駅改札口にはSuica対応の改札機もあって、常磐線からそのまま龍ヶ崎までやってくることが出来る。気動車が時代遅れだというのは全くの早計であり、学問に貢献するための対応なのだということが実感できる。
軽油スタンド
 竜ヶ崎駅に併設された車両基地には、少ない車両数ながらも整備に対応する様々な施設がある。その一つが、車両を持ち上げるジャッキだ。4つの大きな爪が車両を持ち上げて、床下機器を点検するためのものだ。ジャッキの一つには整備士たちのナッパ服が干してあり、ここが車両整備工場であることを実感する。
 また、気動車特有のものとしては、燃料関係施設がある。列車に燃料ホースとサービススタンドの取り合わせは、やはり珍しい。



(2009/11/5乗車)



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