2014年10月2日木曜日

被災地仙石線を訪ねて

あの日の仙石線

 2011年3月11日午後10時過ぎ、地震発生からおよそ7時間が経過した頃、仙石線野蒜駅付近で4両編成の電車が2両ずつ中間から折れ曲がりL字型になった状態で発見された。石巻発あおば通行普通1426Sは野蒜駅を発車して数百メートルの地点で被災したのだが、この時点では乗員乗客の安否はわからなかった。L字型になった無残な車両の映像は、日本中の人々に改めて津波の恐ろしさを伝えていた。
 後日明らかになったことは、その時20名から50名の乗客がいて、そのほとんどは1キロほど離れた野蒜小学校に避難していたということだ。避難場所の体育館にもどす黒い津波が押し寄せたという。
 あれから3年以上が経つが、仙石線の高城町・陸前小野間の11.7キロは現在も不通のままだ。以前から一度そこを訪ねてみたいと思っていた。

快速高城行

 あおば通11時6分発の快速高城町行は、平日の日中ということもあって乗客はまばらだった。仙台駅から乗車する人もさほど多くなく、ロングシートには空席が目立って、座ったままキョロキョロと車窓からの景色を楽しみたい自分のようなものには都合が良かった。昼食のために購入した牛タン弁当からは良い匂いが漂ってくるが、それも人目を気にしなくて済む。
 仙石線は宮城電気鉄道として開通した経緯もあって、沿線風景はどことなく私鉄沿線の感じがする。仙台の市街地を抜けると田園地帯が広がり線路は真っ直ぐに敷かれているが、多賀城に近づくあたりから入り組んだ丘陵地帯になり、塩竃市内までは線路が右へ左へと曲がりくねった地域密着型の鉄道なのである。ひたすら脇目も振らずに北東北を目指す東北本線とは趣が違う。しかも眺めがよい。東北本線は塩竃の街外れを通過し絶景の誉れ高い松島湾の横を掠めるだけだが、仙石線は街なかをゆっくりと塩竃港に向かい松島湾を巡るルートをとる。本塩釜から先は高架線から港が眺められ、横浜の金沢シーサイドラインにでも乗っているような感じである。その後港から少し離れ東塩釜から先は単線になって、今度は山間をトンネルで抜けていく。東北本線と併走したり、風光明媚な松島の島々が眺められたりと、沿線のハイライトはこの辺りに集中している。
 仙台から松島観光を目的に鉄道を利用するなら、東北本線ではなく、仙石線が断然便利だし楽しめる。下車駅は松島海岸である。海に浮かぶ五大堂、瑞巌寺、松島観光船はすべて駅前近くに集まっている。トンネルと接するように松島海岸駅があり、そこでは上り電車が交換待ちをしていた。電車が停まると、観光客ばかりでなく、ほとんどの乗客が下車してしまった。それはこの電車が一つ先の高城町までしか行かず、現在不通となっている高城町・陸前小野間を結ぶ代行バスを利用するなら、幹線道路に近い松島海岸で乗り換えるのが便利だからである。私は鉄道で行けるところまで行くのが目的なので、「代行バスにお乗り換えの方はこちらでお降り下さい」というアナウンスを無視して乗り続ける。もちろん代行バスは次の高城町も通るはずだし、乗り換え時間が9分あるので、降りた人たちとは高城町で合流するつもりである。
 松島海岸駅を出発しトンネルを抜けると、東北本線と並んで走る箇所がある。しばらく併走後に仙石線は右に分かれて行くのだが、その箇所だけバラスト(石)が真新しくなっている。2015年に仙石線が完全復旧する際、東北本線と仙石線の間に連絡線ができ、石巻と仙台の間が短時間で結ばれるようになる。現在その工事中というわけだ。
 ところが仙石・東北ラインという愛称で運行されるその直通列車は、何と時代に逆行するかのように気動車が投入される。もちろんそれには理由がある。東北本線は交流電化区間、仙石線は直流電化区間なので、そこに連絡線がつくられても架線を張る訳にはいかない。そこで最新の気動車・ハイブリッド車両HB-210系を8編成(16両)新造し投入することにしたのだ。利便性と話題性を高めつつもコストは抑える、いかにもJR東日本らしい対応だ。
 電車は丘陵地帯を抜けて盛り土区間を下り、暫定終点となっている高城駅に到着する。あたりは雑草がボウボウと生えて、荒れ放題。ホームから先に伸びる線路は錆びて痛々しく、信号機は赤に灯ったままだ。
 電車から降りた乗客はわずか二人だけだった。駅舎の改札口では、写真撮影でもたもたしている私を駅員がじっと眺めて待っている。待たれるのはどうも苦手なので、いい加減にシャッターを切って改札へ走った。

代行バスが行く


 改札口には代行バス停留所の案内図が貼ってあった。少しわかりにくかったので、先程の駅員に尋ねてみた。
「代行バスの停留所は遠いのですか」
「えっ? 代行バスに乗るの? どうして松島海岸で降りなかったの?」
そんなに責めなくたっていいのにと思ったが、これも親切心の裏返しなのだろうと良い方に解釈して、
「11時46分発ですよね。走っていきますから」
と冷静を装って話をすると
「この前の道をまっすぐ行くとバス通りにぶつかるから、そのT字路を左に行くと壮観というホテルがあるんだけど、その入り口の前が停留所になってるから、急いで」
と教えてくれた。
 日頃走ることなどないようなだらけた生活をしている上に、重いカメラ装備を抱えながらの時間との戦いはかなりしんどかった。T字路といっても、実際は人の歩ける道が向こう側に繋がっていて一見それとは見えなかったし、バス通りと行っても今バスが走っている訳ではないし、ほとんど勘を頼りに息を切らせながらホテルを探すと、ついに時間ギリギリのところで、ホテル入り口を発見した。ところが肝心の停留所がない。フェンスにピンクのリボンがぶら下がっているから、これが目印かなあと思案していると、先程通り過ぎた交差点の所に、脇道から出て来たバスが右折してこちらに向かって来ようとしている。「良かった!」と胸を撫で下ろしたところで信号が変わり、「代行バス」と表示されたバスがやって来る。
 しかし、そのバスは私のところで減速もせずに通り過ぎてしまった。ホテルの入り口にぽつんと立った私を置いてきぼりにして。やはりここは停留所ではなかったのだ。とすれば、ホテルの入り口はどこにあるのだろう。バスが現れた交差点の所まで戻ると、脇道の先に大きな立て看板があり、先程の入り口よりももっと立派なエントランスが見えた。あっちが正門か!と気付いたときはもう後の祭りだ。このままだと今日の予定はガタガタになる。こうなれば出費は覚悟でタクシーに頼るしかなかった。

タクシーで行く

 運転手さんは気さくな人だった。早速震災のことを尋ねてみる。というのも、意外なことに高城町周辺の民家は震災の影響をまったく受けていないように見えたからだ。
「このあたりは大丈夫だったのですか」
「松島の島々が守ってくれたんですよ。太平洋を津波は押し寄せたのですが、島々で勢いは弱まっていたんですね。ただこの先の地区はだいぶやられて、仙石線も被害を受けました。今急ピッチで工事をしているので、来年には復旧します。新しい仙石線は今までよりも嵩上げして線路が作られるから見晴らしが良くなりますよ。湾が一望できるようになります」
 明るい、前向きな運転手さんだった。有難い。苦しい話をする人には、どう慰めればよいのかわからないし、そもそも触れてはいけない話題なのかもしれないからだ。
 車窓からは仙石線の復旧の様子がよくわかる。陸前富山から陸前大塚のあたりは海岸沿いに線路が敷かれているために、堤防と路盤を嵩上げして、その上に線路を敷き直してある。復旧後は観光の目玉になりそうな所である。
「ところで運転手さんは震災時どこにいたのですか」
「家にいました。2階に逃げたんですよ」と笑顔で答える。
「庭にいたら、家の前の川にヘドロの様な水が逆流して来たんです。まさかここまでは来ないだろうと高を括っていたら、あっという間に隣の塀を越えて、腰の高さまで水がやって来たんです。家の中に逃げようにも水圧で窓は開かないので、上の小窓から家に潜り込み、2階に登って見ていたんです。津波は11回押し寄せたんですよ」と、恐怖の体験を笑顔で語る。きっとこの話をもう何百回と繰り返してきたのだろうなと、同情する。
「怖かったでしょう」
「そりゃ、生きた心地がしませんでした」
と話す間も笑顔を絶やさない。
「今この道路は高い所を通っているでしょう。これが堤防となって、右側はぜんぶやられたんです。左はなんともなかった」
 その話の通り、左側には年季の入った家が点在し、右側は新築ばかりだった。
「堤防は嵩上げされたのですか」
「いや、まだこれからです。じきに取りかかります」
ということは、今はまだ津波には無防備なままなのだ。にもかかわらず、生活のために家を建てている。そこには仮設住宅もある。
「震災後1〜2年目は、被災地見学の人も多かったのですがねえ。今は寂れる一方ですわ」
 仙石線は来年初夏に復旧する予定である。被災地見学も地元経済に貢献できるならまた訪れようと思う。

陸前小野から石巻へ


 陸前小野駅は新しく建て替えられた小さな駅だ。建物の中にはちゃんと売店もある。ただお酒は扱っていなかった。用意した牛タン弁当にはビールが合うと思っていただけに残念だ。気を取り直して駅のベンチに腰を下ろし、包み紙を解き、牛タンを頬張る。専門店で購入しテイクアウトしたものだけに、冷めても実に美味しい。
 予定の列車が来るまでにはには間があった。高城町同様この駅も代行バスの停留所からは遠く、乗り換え客は見当たらない。タクシーを利用したからこそ貴重な話も聞くことが出来て、かえって良かったと思いながら、列車の到着を待つ。ホームから高城町方面を見ると新しく敷き直された線路が続いている。今は錆びたレールも列車が走り始めれば再び光り輝くようになるだろう。あともうすぐだ。
 しばらくしてやって来たのは、電車ではなく気動車だった。陸羽東線・陸羽西線で使われているキハ110だ。奥の細道湯けむりラインとロゴのある車両である。震災で電車を失い、また電化施設も被害を受けただろうから、気動車が今までこの地域を支えてきたのだ。脳天気な旅人にとっても、クロスシートの列車が来て、かえって嬉しいくらいだ。その列車に乗車したのはたった二人だけだった。
 最初の駅である鹿妻の駅前にはブルーインパルスのジェット機が飾られている。ここには航空自衛隊の松島基地があり、自衛隊から東松島市に寄贈されたものだそうだ。その展示はちょうどプラモデルの戦闘機のように、まさに大空を飛翔し上昇する姿で台座に固定されているので、模型ではないかと思えてしまうくらいだが、実際にかつて練習機として活躍した本物のジェット機なのだという。確かに教官が同乗できる複座機であった。
 次の矢本からはたくさんの人が乗車してきた。先程松島海岸で降りた人達が混じっている。彼らはここまでただ乗り継いで来ただけだろうが、こちらは貴重な体験をしてきたのだぞと、ちょっぴり心の中で自慢をしてみる。
 石巻に着く。宮城県第二の人口を擁する都市なのに、仙台と直接結ぶ鉄路は閉ざされたままである。来年以降仙石線が復旧し、仙石・東北ラインが走り出したら必ず再訪しようと思う。しかし今日は小牛田経由で遠回りしつつ仙台に戻ろう。そのために古い気動車が待つ石巻線ホームに向かった。
(2014/10/2乗車)

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