2015年1月6日火曜日

関門海峡今昔物語


『今』 歩いて海峡を渡る

 言わずと知れたことだが、日本列島には四つの大きな島がある。そのうちの本州と九州とはほとんど接しているので、逆にどうしてこの二島は離れているのだろうという疑問が涌いてくる。北米大陸と南米大陸を繋ぐパナマ地峡のように、九州と本州とは「関門地峡」として地続きであってもおかしくはない注1と思う。
 しかし、関門海峡を前にして佇むと、潮の流れのあまりの速さに驚かされる。こんな大きな力で潮の流れにぶつかられたら、大地が裂けるのも当たり前だ。源平の合戦で、流れの下手になってしまった平家が源氏に大敗北を喫するのも納得がいく。この水路のことを早鞆の瀬戸(はやとものせと)と呼ぶのだそうだ。
 これほどまでに近接している関門海峡だから、対岸までは歩いてでも渡れる。比喩で言ってるのではないし、橋を渡るのでもない。この瀬戸の下に人や自転車専用の海底トンネルがある、ということをつい最近知った。自動車専用トンネルである関門国道トンネルの下に設置された人道である。壇ノ浦にある地上出口からエレベーターで降り、およそ780mの海底トンネルを歩くと対岸の門司側に着き、再びエレベーターで地上に戻ることができる。
 今回乗り尽くしの旅のついでに歩いてみようと思った。そうすれば、かつての九州の玄関口、門司港駅から列車に乗ることもできる。一石二鳥である。

 夜明け前から降り続けていた雨がようやく止んだものの、壇ノ浦上空には厚い雲が垂れ込めている。海峡が一番狭まっているここには、本州と九州を結ぶ大動脈が三つ通っていて、そのうちの二つ、新幹線と国道2号線は海底トンネルなので、直接目にすることができるのは、中国自動車道と九州自動車道を結ぶ頭上の関門橋だけである。目指す人道の入口は、巨大な橋桁の下の建物の中にある。
 無骨なステンレス製の扉が閉じて、エレベーターが降りていく。海底に着くと、扉の前に殺風景なフロアが現れ、その先の説明板の横にトンネルの入口があった。細長い空間は、少しでも閉塞感を感じさせないよう、明るい照明が青と白に塗られたトンネル全体を照らしている。トンネルは下り坂になっていて、中間点で上り坂にかわるよう設計されていた。だから向こう側は見えない。
門司側から振り返る。人道もまた
国道2号線。         


 歩いてみて感じたのは、予想以上に多くの人たちが本州と九州を歩いて行き来していることだ。中にはウォーキングしているシニア世代や家族連れもいる。頭上には車が通り、更にその上には船が行き来している様子を想像しながら、歩いて九州に行けることを皆楽しんでいるようだった。
関門橋方面にのびる線路は、
門司港レトロ観光線。   


 九州側出口から門司港駅までは2キロ半ほどの距離がある。ここには門司港レトロ観光線というトロッコ列車が走っているのだが、12月から3月中旬の冬季区間はあいにく運休となっている。雪が降るわけでもなく、東京に比べてそれほど寒くもないのだが、やはり吹きっ晒しのトロッコでは観光客が来ないのだろう。この鉄道乗り尽くしは諦めて、早鞆の瀬戸沿いを歩くことにした。天気も次第に回復したので、煉瓦造りのレトロな港湾施設を楽しみながら門司港駅を目指す。

『そして今』 鹿児島本線を乗り尽くす

門司港駅5番線

 鹿児島本線の大半は40年前に乗り終えていたが、枝線注2となっている門司港・門司間5.5㎞が残っていた。名駅舎で有名な門司港駅は現在大規模改修中であり、工事現場の見学コースもあるのだが、ネオ・ルネサンス風の名建築はその片鱗すらも窺い知れない。九州乗り尽くしの旅が始まればまた見る機会もあるとばかりにあっさりと諦めて列車に飛び乗る。九州鉄道記念館もパスしたほどだから、必ずもう一度門司港を訪れなければならないだろう。
門司港駅3番線

 赤い瀟洒なJR九州の813系通勤電車は、途中駅小森江に停まるだけで、あっという間に門司に到着した。降りたホームには嬉しいことに、立ち食いソバ処があって、乗降客はほとんどいないのに、暖かそうな湯気が立っている。「かしわ蕎麦」と書かれていたので、小倉の駅弁「かしわめし」が美味しかったこと思い出し、特にお腹が空いていたわけでもないのに、頼んでしまった。甘辛く煮た鳥そぼろの美味しい立ち食いソバである。


『昔』 鉄道で海峡を渡る
 
 歩いて渡れる関門トンネルに対して、誰もがふつうに思い描くのは、昭和17年に完成した鉄道の方の関門トンネルだろう。九州寝台特急が大活躍していた頃は、ここを通過するのが一大イベントだった。というのも、下関駅と門司駅の二か所で電気機関車の付け替えが行われたからだ。駅に到着するとファンは一斉にホームの端まで走って、機関車の切り離しと連結を見守ったのだった。短時間に2回の切り離しで、合計3台もの電気機関車が見られるのはここだけだった。

『昔々』 1980年代の海峡…

FE-65の切り離し 下関駅
          1981/8/18

 前日夕方18時ちょうどに東京駅を出発した寝台特急「富士」は、一晩かけて1000㎞を走り抜けて、翌日9時09分に下関に到着する。関西発の寝台特急はまだ暗いうちに海峡を抜けてしまうのに対して、東京発の寝台特急では食堂車で朝食を済ませた後に下関に着くので、機関車の付け替えを楽しむには持って来いの時間なのである。
EF-30の切り離し  門司駅
           1981/8/18

 ここまで牽引してきた直流電気機関車EF-65が切り離され、関門海峡用に塩害対策を施した銀色に輝く交直両用電気機関車EF-30が連結される。ステンレス製の電気機関車はここだけでしか見ることのできないレアものだ。連結が終了すればすぐに発車して、海峡トンネルに進入していく。海峡は狭いので、ほどなく九州側の出口がやってくる。鹿児島本線と合流すれば、走りながら交直切り替えが行われる。
ED-76の連結  門司駅
         1981/8/18

 門司駅に到着すると、再び機関車は切り離されて、赤い交流機関車ED-76が近づいてくる。ここでもファンに見守られながら、連結作業が行われるのだ。
 門司発9時26分。こうして17分間のドラマを終えて、富士はふたたび終点宮崎を目指して走り出す。毎日毎日、富士以外にも東京からは、さくら・はやぶさ・みずほ・あさかぜがやって来て、このシーンを繰り返していた。下関や門司の駅が最も輝いていた時代である。

『そして再び今』 2015年冬、海峡を鉄道で渡る

 移動手段としての夜行寝台列車はもはや絶滅危惧種。夜行高速バスが関門海峡大橋を渡ることはあっても、寝台列車が関門トンネルを通過することはない。現在は一部を除き、日中1時間に3~4本の電車が下関と門司の一つ先、小倉との間を往復しているに過ぎない。長距離輸送はコンテナ貨物に限られ、人は新幹線と航空機に移ってしまった。
小倉行き415系電車  下関駅

 門司駅にやってきた下関行きの電車は、415系と呼ばれる旧国鉄時代に製造された古い車両だ。しばらく走ると一瞬蛍光灯が消えて、交流から直流へと切り替えられることがわかる。再び灯りが点くとすぐに地中へと潜って関門トンネルに入った。3.6㎞ほどのトンネルだからすぐに地上に戻って、下関駅に到着する。ほんの6〜7分の小旅行だ。

そして将来

 それにしても、これから先の関門海峡はどうなるのだろう。いつまで415系電車を使い続けるのだろうか。というのも、下関・門司間にはちょっと複雑な事情があるのだ。山陽本線は神戸を起点とし終点は門司だが、国鉄分割の折に下関・門司間はJR九州の管轄となった。青函トンネルがJR北海道、本四連絡橋がJR四国というように、3島の会社はすべて本州にぶら下がっている。直流電化された山陽本線のうち、わずか4㎞に満たない一駅区間だけがJR九州の管轄なのである。そして、厄介なことに交流電化されたJR九州にとって、ここだけが直流区間となっている。だから門司を出発してすぐの所で交直切り替えが行われるのだ。わずか一駅区間のためだけに、EF-30のような交直両用の車両が必要になる。いまだに古い国鉄車両を使わざるを得ないのは、高価な交直両用車両を作るのは無駄だと思っているからだろう。
 この先も交直両用車両は新造されないのではないか。JR東日本から中古を購入するか、それが無理なら答えは一つしかない。えちごトキめき鉄道の直江津・泊間のようにディーゼルカーを走らせることである。どちらも貨物にとっては大動脈であっても、旅客にとってはローカル線に過ぎないという現実。壇ノ浦で滅びた平家のように、ここでも「盛者必衰の理」を思い知るのである。
(2015/1/6乗車)

  注1)6000~7000年前まで、本州と九州は繋がっていたという。八島邦夫『内海の海釜地形に関する研究』(H5.11)
  注2)本州・九州連絡が主流だった頃は確かに門司・門司港間が枝線のようだったが、今はほとんどの列車が門司港始発となり、本来の本線に戻ったと言える。

改造電車が走る町

小野田線の珍電車

 1月6日早朝、雨脚が次第に強くなってきた。下関の日の出は、東京よりも30分遅く、まだ1時間半程先のことだ。そのような冷たい雨と闇に閉ざされた中を駅まで急ぐのには訳があった。僻地でもないのに、一日わずか3本しか電車が停まらない駅に行ってみたかったのである。
長門本山駅の時刻表
6時00分下関発、普通電車岩国行が40分ほどかけて小野田駅に着いた時も、雨脚は一向に衰える様子がなく、真っ暗闇の中で駅の蛍光灯だけが冷たい光を放っていた。向かい側の下関方面ホームには、数十人の通勤客が寒さで体を振るわせながら下り電車を待っている。その人影の向こうに見慣れない電車が一両停まっていた。小野田線である。
 乗り換え時間が短いので急ぎ足で跨線橋を渡る。ホームに屋根は付いているのだが、小野田線側はホーム幅に比べて屋根が寸足らずなため、足下で雨が撥ねている。一見して傘が必要なほどだとわかるが、傘を差して乗るまでもないと高を括ってそのまま飛び乗ったら、だいぶ濡れてしまった。JRにとっては、できれば廃線にしたいくらいの路線だろうから、設備は貧弱だ。だから逆に味わい深い路線ともいえる。
車内全景 左が新設されたトイレ
ここで活躍している電車が珍品中の珍品で、両端に運転台がついているワンマンカーなのだ。ディーゼルカーの一両編成は珍しくないが、路面電車は別として、通常の電車ではおそらくここだけだろう。おまけにトイレまでついている。小野田線は距離も短く、ローカル線とは言いながら通勤通学用だろうから、都会の感覚からすればトイレは不要なはずだが、地方の列車だけにトイレがあるのは当たり前なのかもしれない。わざわざ近年改造して設置したのだという。
 小野田線は地方交通線に指定されているローカル線で、小野田から宇部線との接続駅居能までの11.6㌔区間を一日10往復している。沿線には小野田を全国に知らしめたセメント工場やコンビナート、住宅に畑という感じの、風光明媚とはほど遠い路線である。しかしながら、西国の夜明けがこんなに遅いとは予想外で、小野田から雀田までは真っ暗なため、どのようなところを走っているのか、雨で濡れた窓から外の様子は窺い知れなかった。
 15分ほど電車に揺られて雀田に着いた。ここが本日のハイライト、小野田線・本山支線のへの乗り換え駅である。駅のホームがデルタ状になっていて、鶴見線の浅野駅を彷彿とさせる。小野田と浅野、思えば共にかつてのセメント会社だが、今は合併して太平洋セメントになった。
 日本の道路事情が劣悪だった頃、内陸の貨物輸送は鉄道が担っていた。奥多摩の石灰石は青梅線・南武線・鶴見線で東京湾まで運ばれ、そこに浅野駅がある。カルスト地形の秋吉台があるほど山口には豊富な石灰石があるが、秋芳洞近くの美祢から石灰石が小野田や宇部に運ばれ、そこに雀田駅がある。乗り換え駅がデルタ状になっているのは、工場への枝分かれ部分に旅客駅を後付けしたからだろう。
 デルタのもう一辺に同じ形の電車が待っていた。私以外誰も乗る人はいない。これが一日3本のうちの始発電車、長門本山行だ。地元のおばさんが一人乗ってきて、発車の合図もなく電車は動き出した。ほかに人はいないから、安全確認さえしっかりすれば合図もアナウンスもいらないのだろう。
2番電車が到着する長門本山駅
ようやく辺りが薄明るくなってきた。工場地帯かと思っていたら田畑もある郊外風景だった。少し離れた雑木林の向こうにコンビナートらしきものが垣間見える。終点長門本山にはあっという間に着いてしまった。駅、といってもバスの待合室のような駅舎がポツンと一つ、周囲には店一軒・自販機一台なく、冬枯れの田圃とまばらな民家が点在するだけである。待っていた人はたった一人だった。
 運転手は私を見て乗らないようだと判断すると、そのまま運転台に戻ってしまった。しばらくすると始発電車は乗客一人を乗せ、パンタグラフをスパークさせながら雀田に向かって発車して行った。長門本山駅には私一人が取り残され、雨音だけしか聞こえなくなる。
 一日3本のうち2本は朝7時台に集中している。先程の電車が雀田で折り返して20分後に戻ってくるのだ。それが本日2本目となって、その後は18時37分の最終電車となる。朝と晩とで輸送力が違えば、帰る人は困らないのだろうか。困らない程度の乗客数なら、朝の1本はいらないのではないか。そもそもどうして廃線にならないのだろうか。いろいろと疑問が生じるが、一つわかったことは車止めの先の道路には路線バスが1時間に1本走っているのだ。1㌔先にある本山岬から小野田まで乗り換えなしに行くことが出来るから、地元の人にとって鉄道は普段は不要な保険のようなものなのだろう。
 2番電車の乗客は、そのまま折り返す鉄道ファンが1名、女子高生2名、おばさん1名、そして私の合計5名だ。新学期が始まると高校生で混雑するのだろうか。雀田に山口東京理科大があるが、大学生の電車通学はすくないだろうななどと考える。この電車はワンマンのくせに車掌も1名乗っている。途中の浜河内でおばさん2名が乗車し、総勢9名を乗せた電車はガタンゴトンと時速30キロ位でゆっくり走る。
デルタ地帯の向こう側は小野田行
雀田では小野田行に接続している。それなりによくできたダイヤである。5名が下車し、2名乗り込んできた。電車は小野田線の終点居能から一つ先の宇部線・宇部新川行である。引き続き田畑が散在する郊外をのんびりと走る。急ぐことは必要ないとでも思っているのか、慌ただしいはずの通勤時間帯なのに、のんびりとしたものだ。
長門本山発宇部新川行 居能にて
電車は少し坂を上り、視界が広がって、河川敷のない大きな川に出た。秋芳洞から周防灘に流れる厚東川である。電車は橋桁の上に線路をちょこんと載せただけのガーター橋の上を減速して渡っていく。窓からは水しか見えない。鉛色の世界の中、川に落ちやしないかと、正直ヒヤヒヤする。早く渡りきって欲しいと思うのは、私だけではないようだ。乗客は何で減速する必要があるのだろうとキョロキョロと外を見ている。安全のための徐行だろうけれど、却って徐行しないといけない施設に不安を覚える。渡りきった所は荒涼とした工場・コンビナート群だ。この辺りは宇部興産の本拠地である。左から宇部線が合流して居能に着く。
 小野田線や宇部線で活躍しているクモハ123系は、国鉄時代に活躍した荷物電車を旅客用に改造した電車である。かつて棚があったところは窓がないので、左右で窓の数が全く違う。手荷物や郵便輸送に用いられたが、道路交通網の発達によって不要となったので、ローカル線で用いる旅客用に改造した。そもそもローカル線は非電化が大半だから電車の需要は少ない。貨物の需要は多くて旅客は少なく、電化されているがローカル線という条件を満たしていたのが、小野田・宇部線だったのだろう。
 今でこそ貨物は小野田線からは撤退し、宇部線も激減したが、この地域の貨物がなくなったわけではない。すぐ南側には、宇部興産が造った日本最大の私道・宇部興産専用道路があって、総延長は31.94㌔に及ぶ。それほど貨物輸送が賑わう土地柄なのだ。貨物が撤退した今となっては、小野田線は産業遺産化する鉄道と言えなくもない。何とも可愛らしい路面電車のようなこの鉄道が、いつまでも廃止されずに頑張って欲しいと祈らずにはいられない。

宇部線の印象

 宇部新川からやってきた宇部行は黄色い三両編成だった。何の変哲もない通勤電車だが、路面電車(?)に乗った後だったので、先程よりも上流で厚東川を渡る際、同じガーター橋だったけれども、何とも頼もしい感じがした。
宇部駅に停車中のキハ123系
宇部で折り返し、宇部新川に向かう。沿線途中にアメリカンスクールでもあるのか、外国人高校生の集団が乗り込んでくる。足を投げ出し、大きな声で話すなど、ちょっぴり行儀が悪い。
 ガーター橋を渡り直し、先程小野田線から乗り換えた居能を通過し、宇部新川に着く。ここで乗り換えて新山口まで行くのだが、待っていた新山口行は、何と先程まで世話になった路面電車(?)クモハ123-6だった。態度不良の外国人高校生も乗って来て、車内は満員になる。やれやれだ。
 高校生はすぐに降りたのでホッとしたが、それも束の間、今度は辺り構わず話し掛ける男性が乗ってきた。乗り合わせている人達はみな関わらないよう知らんぷりをしている。私も面倒なので寝たふりをする。せっかく車窓を楽しみに来たのに、これでは意味がない。天気が今ひとつだったこともあって、宇部線の印象はとても薄いものになってしまった。
 山口宇部空港の滑走路の外れがちらりと見え、住宅地がまばらになって田圃が広がり、小高い山を迂回したら山陽線と合流し、新幹線の巨大な高架橋が近づいたら新山口に到着したとしか、書きようがない。
 新山口はかつて小郡と呼ばれた交通の要衝である。シーズンには遠くから新幹線でSLやまぐち号を目当てに観光客がやってくる駅だ。冬枯れの今日、構内は閑散としていた。
(2015/1/6乗車)

 

2015年1月5日月曜日

懐かしの山陰本線 前編

偉大なるローカル線

 京都から下関の一つ手前の幡生まで総延長673.8㌔の堂々たるローカル線、それが山陰本線である。鉄道紀行作家宮脇俊三は名作『にっぽん最長ローカル列車の旅』の中で、同行の編集者藍孝夫氏の「幹線なんでしょう」という質問に対して「名目上は幹線でも、まあローカル線を長くしたようなもので、いわば偉大なるローカル線ってところですな」と実にうまいことをいう。だから京都から下関を通しで走る列車はひとつもなく、そもそも全線の66%が非電化単線という、都会人にとってはまさに想定外の路線と言っていい。通しで走らせたくても(まあJRはそんな効率の悪いサービスは嫌がるだろうけれど)、都会人にとって鉄道に乗るといえば電車に乗るというくらい電車が当たり前の世の中にあって、電気が来ていない線路が合わせて444.6㌔もあるために、通し運転は所詮夢のまた夢なのである。
 非電化単線にはそこだけでしか味わえない風情がある。もともと鉄道は自動車道と違って環境負荷が低く、道幅を狭くすることが出来る。それが単線ともなれば、走行中擦れ違うこともなく、深山幽谷であろうと海蝕崖上であろうと、自然に溶け込みながら線路を敷くことが出来る。近年は長大トンネルで景色の楽しめない路線が増えたが、山陰本線はまさに時代遅れの非電化単線ある。文部省唱歌の『汽車』にある「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと」そのままの風景が楽しめる。できるだけトンネルを短くしたい時代に造られた山陰本線は、丁寧に等高線を辿りながら、ひとけのない入り江をめぐり、断崖をかすめ、漁で生計をたてる人々の集落を繋ぎながら日本海を堪能できる、いまどき珍しい日本の原風景を楽しめる鉄道なのだ。

    注)門司5時22分発、福知山23時51分着、824列車。1984年2月廃止。

どうやって出雲市へ行く?

「済みません。やはり取れませんでした」
出入りの旅行社にサンライズ出雲の個室寝台を依頼してあったのだが、近年の出雲大社人気で指定券が取りづらくなっていることはわかっていたものの、1月5日ともなれば世間では仕事始めだから、まさか取れないとは思いも寄らなかった。
 出雲市を10時過ぎの列車で発ち、乗り継ぎながら夕方までに下関まで行こうと計画を立て、宿泊先も押さえてあったものだから、今さら中止にも出来ず、いささか途方に暮れた。夜行高速バスは事故が怖いのでまっぴら御免だし、新幹線乗り継ぎだと13時過ぎに漸く到着で話にならない。どうして世間の人は昼に長距離移動などするのだろう、だから鉄道が嫌いになってしまうんじゃないかなどと思ってみても仕方ない。こうしてしょんぼりしていると、同僚で旅好きのAさんが、
「飛行機はないの? どうせお金持ちなんだから」
とヒントをくれた。お金持ちは実に余計で、私の趣味に対する無駄遣いをからかっているのだが、鉄道車窓愛好家として飛行機という選択肢は最初から考えもしなかったので、それは目から鱗だった。調べてみれば、始発便だと8時台には出雲空港に着くではないか。松本清張『点と線』の謎解きのようだなと思いつつネットで調べてみると、更にサプライズだったのが一般の人の移動が少ないこの時期、早割で何と12,000円でJクラスシートにも乗れるということがわかった。これは高速バスとほとんど変わらない。あり得ない!と思いつつ、計画が思い通りに遂行できることに安堵した。

快速マリンライナー

出雲市駅
空港連絡バスで出雲市駅まで向かったのはわずか5人。松江や出雲大社行きも同じようなもので、地方消滅が話題に上る昨今、早割でもこの時間帯に乗る人は少ないようだ。大社造りを模した立派な出雲市駅の駅前広場にもひとけはほとんどなかった。9時半前には駅に到着し、昨晩22時ちょうどに東京を出発したサンライズ出雲が到着するまでにまだ30分ほどのゆとりがあった。ホームで出迎えるのも一興である。個室を利用すれば21,710円〜28,960円もかかる憧れの豪華列車である。こっちは半値以下で先に着いたんだからねと、乗れなかった憂さ晴らしをしてみたい気もあった。鉄道愛好家の風上にも置けない奴だと反省する。
 改札口にある行き先表示を見ると、予定していた列車の前に快速が先発することに気付く。計画を立てていた際、サンライズが到着する15分前に出発してしまうこの快速が恨めしくてならなかった。仕方なく、サンライズ到着の18分後に出る各駅停車に乗るしかないとあきらめ、その後飛行機騒動のドタバタですっかりこの快速のことを忘れていた。
「そうかあ、乗れるんだ」と、もう出迎えなどどうでもいいと思い始めてしまうところが現金なものだ。
出雲市駅に進入する
快速マリンライナー
やって来たのは新型の2両編成ディーゼルカーだった。快速マリンライナーは、米子・益田間191.5㌔を結んでいるが、米子は鳥取県の西の外れに位置し文化圏としてはほとんど島根のような場所だから、ほぼ島根県の東西を貫く列車なのである。出雲市・浜田間が快速運転となり、1時間35分で結んでいる。これはかなりの俊足ぶりで、40分前に出発するスーパーまつかぜ1号の1時間6分には及ばないものの、当初乗る予定だった普通浜田行きだと2時間24分もかかってしまうのだから、乗り得感満載と言える。これならさぞ人気があるだろうと思いきや、混んでいた車内からぞろぞろと人は降りて行き、ガラガラとなって出雲市を出発した。ボックスシートを独り占めにして車窓を眺める。あいにく窓は汚い。老朽化した車両にありがちな、こびりついた鉄錆で窓が赤茶けているのではない。水滴が流れた跡が幾筋もあるから、塩分をたっぷり含んだ波の飛沫や雨だれの痕跡なのだろう。普通列車だからそれほど頻繁に車両洗浄を行うはずもなく、このあたりが普通列車の旅の辛いところだ。
 出雲市駅からしばらくは高架橋が続き、出雲大社に続く山並みが青空のもと、冬の日差しに照らされている。神戸川を渡った先に最初の駅西出雲がある。伯備線に続く伯耆大山からここまでが電化区間となっていて、寝台特急サンライズ出雲やスーパーやくもが回送される車両基地がある。西出雲は電化はされていても回送される優等列車のためだから、旅客が利用するのはディーゼルカーばかりだ。広々とした車両基地からは特急列車は出払い、まだサンライズがやって来ていないので閑散としている。車両洗浄機もあるので、少しあそこに寄ってから出発したいと思うが、所詮叶わぬことだ。
山陰本線は出雲市以西では
海岸沿いをひた走りに走る
車窓には窓の汚れがもったいないような風景が広がっている。鮮やかな赤褐色の石州瓦を戴いた農家が里山の麓に点在している。山陰地方は字面からなんとなく暗いイメージがつきまとうが、確かに人口が少なく賑やかさには欠けるものの、釉薬が効いて照り輝く赤い屋根の家並みがとても美しいところだ。山あいの農家も入り江の漁村も、鉛色の空を跳ね返すような美しい赤褐色が乱舞している。
 それにしてもどうしてこの快速にマリンライナーなどという、国籍不明の軽率な名前をつけているのだろう。この土地にふさわしい名前はなかったのだろうかと思うが、乗っているうちに合点がいった。延々と海岸風景が楽しめる路線なのである。ここまで海に寄り添って敷かれた鉄路は他にない。それも偉大なるローカル線だからこそ、大正時代に造られたままの場所を走っている。線路やバラストと呼ばれる砂利石などは幹線並のもの(そもそも幹線なのだから当たり前か)を使っているので、列車はかなりのスピードで快走する。ただ海岸に沿っているだけにカーブはきつく、その分眺めが抜群なので、右に左に揺られながら旅人は目を楽しませて貰えるというわけだ。
海辺の風力発電所群は
今や日本の定番風景だ
だからこそ、余計に窓の汚れが悔しくてたまらなくなった。何枚も写真を撮ったが、出来る限りの修正を加えても鑑賞に堪えられるものは一枚もなかったのが残念だ。汚い窓の確認と雰囲気だけでもと2枚だけ掲載しておくことにする。

クルージングトレインのこと

 JR九州の豪華寝台列車「ななつ星」の大成功で、JR各社はクルージングトレインの導入に力を入れ始めた。どうせ倍率が高すぎて、余暇を満喫できる富裕層か高齢者しか利用できないのだろうなと私自身は冷めた思いで見ているが、山陰本線の絶景は、美しく磨かれたクルージングトレインならさぞかし満喫できることだろうとも思う。JR西日本では2017年春から運行開始だそうだ。期待できるのは、架線集電式ではなくディーゼル発電とバッテリーアシストのハイブリッド方式を採用した点である。これならどこへでも行ける。その点JR東日本が導入する列車はイラストを見る限りパンタグラフが付いているので、五能線にも下北にも三陸にも北上線にも陸羽東西線にも男鹿にも磐越東西線にも水郡線にも烏山線にも飯山線にも小海線にも行けない、まさに絶景路線を避けたとしか思えない列車になる恐れがある。超豪華な走るホテルを造って夜に幹線を走らせ、観光は豪華なバスでも仕立ててと考えているのだろう。もしもそうなら、はなはだ残念なことである。
キハ126系はJR西日本の20㍍級の
普通列車用気動車。江津駅にて。
その点JR西日本のクルージングトレインはこの山陰の美しい海岸風景を意識し、電車方式を採らなかった点で大いに期待が持てるだろう。ぜひ早く実現して欲しいものだが、先にも記したように時間とお金の両方にゆとりのある人しか乗れないのが実に残念だ。私のような旅行者のために、せめて在来の列車の窓をもう少し綺麗にして貰えないだろうか。そうでないとあまりにももったいない風景なのだ。

浜田という響き

 ブルートレインが全盛だった70年代から年代にかけては、毎夕東京駅から九州・山陽・山陰に向けて何本もの寝台列車が発車して行った。1978年10月の時刻表には、9本の輝けるスター列車が掲載されている。

 16時30分  列車番号1   さくら    長崎・佐世保行
 16時45分  列車番号3   はやぶさ   西鹿児島行
 17時00分  列車番号5   みずほ    熊本・長崎行
 18時00分  列車番号7   富士     西鹿児島行
 18時20分  列車番号2001   出雲1号     浜田行
 18時25分  列車番号9   あさかぜ1号   博多行
 19時00分  列車番号13    あさかぜ3号   下関行
 19時25分  列車番号15    瀬戸     宇野行
 20時40分  列車番号2003   出雲3号・紀伊 出雲市・紀伊勝浦行

 ブルーの車体側面にある行き先表示を見ていると、行ったことのない町の名前が手招きをして「早くここまで乗っておいで」とささやいていたいるかのようだった。とにかく、「遠くへ行ってみたかったし、知らない町を歩いてみたかった」
廃止直前の寝台特急出雲
2006年2月7日 出雲市駅
そのなかでも異彩を放っていたのは、出雲1号浜田行だった。そこがどこにあるのか、どんなところなのか皆目わからない。山陰の出雲ではなく、浜田って? もともと出雲号は出発時間が切りの悪い20分、列車番号が4桁という、まさに格落ちのブルートレインだったのだが、貧乏だった学生時代に奮発して初めて乗車したのが米子発東京行の寝台特急「いなば」(のちの出雲3号)だったこともあり、山陰地方と出雲号にはとても親しみを感じていた。その後浜田行はなくなり出雲市どまりとなったが、それも2006年3月に廃止されてしまった。
 今回の乗り尽くしの旅では、浜田行きの各駅停車に乗り、浜田に着くや否や大急ぎで駅弁「乃どくろ御飯」を手に入れてから特急に乗り継ぎ、益田から再び各駅停車の旅を続ける予定だった。ところが快速マリンライナーのおかげで予定より1時間20分早く浜田に着くことになった。懐かしい響きの浜田の町を散策する時間が生まれた。
浜田駅
高級魚ノドクロは全国でとれるが、浜田産のものは脂がよくのっていて最高峰といわれている。その駅弁はぜひ食してみたいと思っていた。ところがホームでは駅弁の販売所がなく、ああ時間が浮いて良かったなと改札口をでてもどこにも駅弁を売っている気配がない。駅の構内にはノドクロのイラストが描かれているのだが、肝心の駅弁がないのだ。駅の売店にも隣接する観光物産館にも置かれていなかった。駅弁そのものがこの駅では販売されていないのである。需要がないということなのだろう。鉄道の旅の楽しみがここでも失われていこうとしていた。残念ではあったが、普通のお弁当として売られている鯖寿司で我慢することにした。お酒はないかと探してみると手頃なところで「石陽日本海ワンカップ」があった。蔵元の住所が記されていないが、口には入れさえすれば良いという心境になっていた。
 気を取り直して、町へ繰り出す。駅前広場には大きなからくり時計が置かれていた。日中のひとけのない商店街を歩き、高台に登って町を見下ろしているうちに、ここが石見神楽で有名な所だとわかってきた。神楽といえば古事記や日本書紀の神話がもとになっているものだが、石見神楽は弁慶や加藤清正のような歴史上の武勇伝を演目にした創作神楽もあって、伝統を受け継ぐ民間の人達が古代の衣装や面を身に纏い、八岐大蛇や天の岩戸の物語を演じたりする人気の祭りだそうだ。大人から子供までが参加する賑やかなもので、子供神楽はその音色から「どんちっち祭り」と呼ばれているらしい。
からくり時計
駅前に戻ってくると、ちょうど時刻は12時を回るところだった。「どんちっち」のお囃子が響き渡り、からくり時計が動き始めた。屋根が浮き上がり、舞台がせり上がって、三段に分かれた空間で、人形達が笛や太鼓を奏で、神楽を舞い始める。最上段は大蛇がくねくねと動いている。普段は観ることの出来ない石見神楽の片鱗を垣間見ることが出来た。石見といえば銀山が世界遺産に登録されて有名だが、この地方に根付いた文化は、赤褐色の瓦と同じように照り輝いている。東京で人波に押し流されている自分にとっては、寝台特急出雲の終着駅は、期待通りの異次元空間であった。

スーパーおき3号

 浜田の駅がその立派な駅舎とは裏腹に閑散としているのは、日本海側の都市同士に強力なネットワークがないからだろう。おそらく浜田と強力に結びついているのは広島ではないか。距離にしておよそ100㌔を中国道から延びる浜田道が結んでいて、1日16往復もの高速バスが走っている。
キハ187系特急型気動車
益田駅にて
一方のJRといえば、スーパーまつかぜ(鳥取⇔益田)4往復、スーパーおき(鳥取・米子⇔新山口)3往復が頑張っているものの、全国でも有数の過疎地帯のため、指定席車両と自由席車両のわずか2両編成でグリーン車の設定はない。使用されている187系特急型気動車は、一見通勤電車のように飾り気のない顔をしている。しかしその風貌とは裏腹に秘めた実力の持ち主で、カーブの多い山陰本線を高速で走り抜けられるよう、車体が内側に傾く制御付自然振り子式車両なのだ。
 乗るのは二度目だが、いつも混んでいる感じがする。今回も自由席が満員でデッキまで人で溢れていた。海側の席を確保するために予め指定券を取っておいて正解だった。優等列車だけに窓も汚いというほどではなく、これなら心置きなく楽しめそうだ。益田までわずか32分の旅だが、買っておいた鯖寿司と日本酒「石陽日本海」で車窓を眺めながら昼食を楽しむ。酢で締めた鯖とほんのりと甘い酢飯が美味しい。風景がいいと酒も旨い。後でわかったことだが、鯖寿司は「乃どくろ御飯」と並ぶ浜田のもう一つの名物だったし、「石陽日本海」も浜田の地酒だった。JRも売店も、もう少し観光客相手にアピールするなど、商売っ気をだしても良さそうなものが、おそらくそれほど需要がないのだろう。
中国電力三隅発電所
全国津々浦々、車窓を楽しむ旅をしていると、風光明媚なところに突然巨大な発電所が現れれてびっくりすることがある。発電所は規模の大きな施設だけに、余計人里離れた所に造られるものだから、結局景色の良いところにあるケースが多いのだろう。電気エネルギーに縋って生きている自分としては、ここで自然保護を主張することは厳に慎む。ご都合主義という批判があれば、その責めは甘んじて受ける。そんなアホなことを考えるのも、少し酔いが回ってきたのだろう。
岡見・鎌手間
益田に近づいてくると、穏やかな入り江が多くなってきた。鉄道の絶景路線として紹介されることはないが、何とも心和む風景が続く。人を寄せ付けない厳しい自然とも違う、かといって人が傍若無人に歩き回る自然とも違う、いわば人と自然が共存しているような、なんの変哲もない風景なのだ。
鎌手・石見津田間
かつて賑わっていた地域が過疎化すると、そこには多くの廃屋が放置されたままとなって、風景は人の心を荒ます凶器となる。日本各地には産業の空洞化に伴って、そんな悲しい風景がいくつもある。一方で、沖縄の西表島や北海道の釧路湿原の一部のように、人がその地を離れたあと、自然がもとに戻っていくようなところもある。ここがどのような経緯をもつ土地なのかはわからないが、長い間かわらぬ風景を保ってきたことだけは間違いない。言ってみれば、日本の原風景なのではないだろうかなどど考えながら益田を目指した。
(2015/1/5乗車)

懐かしの山陰本線 中編

各駅停車しか走らない「本線」

 益田まではスーパーおきが走っているが、この先、幡生(下関市)まで山陰本線を乗り尽くすためには乗り換えが必要となる。ここからは特急などの優等列車が全く走らない、まさにローカル線になってしまうのだ。スーパーおきは、山陰本線を離れて山口線に入り、有名観光地が連なる津和野や山口・湯田温泉などを通って、山陽新幹線との乗り換え駅の新山口に向かう。
 一方、この先の山陰本線には萩や長門市がある。明治維新で活躍した数々の人材を生んだ萩や、天才童謡詩人金子みすゞの郷里仙﨑(長門市)は、観光地としてもすこぶる有名だが、鉄道で旅をする人は極めて少ない。特に萩観光はほとんどがバス利用のため、この辺りの山陰本線は極めつけのローカル線になってしまうのだ。
 益田から下関まで直通する列車は一日わずかに1本、最も利用客の少ない益田と東萩の間は一日8本の普通列車があるに過ぎない。そのうち朝が4本、夕方以降が3本設定されているので、日中はわずかに1本しかなく、観光客に見向きもされないのは当たり前だ。今回の旅ではこの1本、益田13時27分発の長門市行以外に選択肢はなかった。この1本に乗るために、飛行機に乗り、快速と特急を乗り継いで益田までやって来たのだ。
 待っていた列車は、国鉄時代からお馴染みの気動車キハ40だった。古い車両だが、思いの外窓は綺麗で、これなら何とか車窓の旅は楽しめそうだ。ただこういう曰わく付きの列車には、同好の士も乗っていることが多い。我が儘のようだが、一人でゆっくりと楽しみたい私としては、できるだけ同じ趣味の人とは出会いたくない。勝手な言い分とはわかっているが、同じような趣味人が乗っていると、実に落ち着かないのである。児戯に等しい振る舞いは伏せておきたい。同類の人を見てしまうと、いきなり天から冷静な自分が降りてきて、羞恥心が目覚めてしまう。
萩は近い
案の定、すぐにそれとわかる人がひとり乗っていた。しかも海側のボックスシートはすでにあらかた埋まっていて、一人で占有しているその人物の向かい側しかすわる席はなかった。山側にはまだ空いている席もあったが、海を見にここまで来たのだから仕方あるまい。<マニア>もなんでわざわざ向かい側にすわるんだよ、という顔で見ている。あーあ、心理戦が始まってしまった。
 益田を出るとすぐに山口線が左に分かれて行き、向かい側の席からの視線も消えていく線路を追っている。エンジン音を轟かせて旧型気動車が軽快に浜辺を走り始めれば、それに釘付けになる。さっきから<マニア>もこちらも向ける視線の方向が同じだ。見ているものが同じだから、時々「お前もか」という感じで目が合ってしまう。我慢・我慢! 外の景色に集中しろ! せっかくここまでやって来たんじゃないか。
 いくつかの入り江を越え、いくつかの無人駅に停まるたびに乗客の何人かが降りていった。益田・萩間には路線バスすら通っていないので、ここに住むお年寄りや高校生など免許を持たない人達にとってはこの列車だけが頼りなのである。ようやく席を移ることが出来た。<マニア>もほっとしたに違いない。
中央が益田発長門市行。左は長門市
発小串行。この列車は小串で下関行
に接続している。        
萩に立ち寄りたいが、列車の関係から先を急ぐ。今回の旅では長門の国を乗り尽くすつもりなので、明後日再び萩を訪れることになる。今日はひとまず長門市に直行する。長門市のホームや跨線橋、停まっているキハ40型気動車を見ていると、40年ほどタイムスリップしたような気がしてくる。ここには国鉄末期からまったく変わっていない懐かしい風景が残っている。今時、このような場所がほかにあるだろうか。


山陰本線踏破の難所、仙﨑支線

 長門市からたった一駅区間だが、もうひとつの山陰本線が走っている。仙﨑支線だ。定期列車としては厚狭線に乗り入れるものが数本あるため、時刻表では厚狭線のページに掲載されている。ローカル線からローカル線への乗り継ぎは、朝晩以外はまず連絡していないと言ってよい。この時も連絡列車を待っていたら、仙﨑ですぐ折り返しとなってしまうところだった。仙﨑までは距離にして約2㌔、歩いて行けないこともないが、仙﨑の町を歩いてみたかったので、タクシーを利用することにした。
「タマゴ公園までお願いします」
運転手の反応がない!
「あのう、玉子公園に行きたいのですが」
「ああ、オウジ公園ね」
やってしまった! まさか王子公園ではないよねと、何度も注意して地名を見返したはずなのだ。絶対に点が付いていると確信してから言った積もりだったからショックだった。年々老眼が進んでいる。耳は聞こえないし、目は見えない。寄る年波には逆らえないから、乗り尽くしの旅も急がなければならないと強く思う。
「お客さん、東京から? 王子公園って何もないよ」
「仙﨑の町が一望できますよね。そこからぶらぶらと町を歩きたいんです」
「なるほどねえ。今は冬だから木も生い茂っていないので見えると思うよ。でも景色の良いところなら、青海島の中の浦とか。そっちへ行く?」
左側中央の港近くに仙﨑駅がある
まさか列車に乗るのが目的で来たなどとは言えない。そんなことを口走れば、興味津々、根掘り葉掘り聞かれた挙げ句に「好きだねぇ」という顔をされるだけだ。
「金子みすゞに関心があるんですよ」
これに嘘はない。郷里の誇り金子みすゞの名前が出たので、運転手の話題は仙﨑の方に移っていった。


 青海島の外れにある王子公園から眺める仙﨑の町は、午後の傾いた日差しの中で静謐に包まれていた。みすゞの故郷を見下ろしながら、しばらくそこに佇んだ。
 それにしても、みすゞの代表作のひとつ『わたしと小鳥とすずと』は、彼女の薄幸の生涯とは裏腹に、なんと自己肯定感の高い、エネルギーを貰える詩だろうか。


  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。


 傷つきやすい現代人を癒してくれるのは、わずか26歳で自ら命を絶った若き童謡詩人であることに、今さらながら驚きを禁じ得ない。

 右に深川湾、左に仙﨑湾を眺めながら青海大橋を歩いて渡りながら、仙﨑の町に入っていく。金子みすゞの菩提寺である遍照寺で墓参をしたあと、記念館に立ち寄った。この町のあちこちには、詩が記されたプレートがかかっている。すべてをゆっくりと鑑賞していると列車に遅れそうだ。 こうして40分ほど仙﨑の町を散策しながら仙﨑駅までやって来た。ここは山陰本線で唯一の行き止まりの駅、大好きな終着駅だ。京都も幡生も終着駅ではない。
 しばらくすると、長門市方面からちっぽけな気動車が1両でやって来た。JR西日本が所有する特に乗客の少ないローカル線用の小型気動車キハ120系だ。普通車両よりも2割ほど短い16㍍しかない可愛らしい車両だ。降りてきた数名の乗客の中に、なんとあの<マニア>の方もいらっしゃった。おそらく長門市で1時間ほどこの列車を待っていたに違いない。なんとなく視線を感じる。向こうもばつが悪いに違いない。そう思うと、ちょっぴり気の毒な感じもする。僕がここにいてごめんなさい。

 ラッピングされた気動車は厚狭線経由の厚狭行である。今日はこれに乗って厚狭線を乗り尽くし、厚狭からは山陽本線で下関に出る。山陰本線の残り、長門市・幡生間は明日乗るつもりであり、そこで漸く山陰本線完乗となる。偉大なるローカル線の乗り尽くしは実に手強いが、最大の難所である仙﨑支線を無事踏破し山陰本線未乗もあと74.2㌔となった。明日は下関周辺の鉄道を楽しんだ後に山陰本線に戻ってくるつもりである。

2015/1/5乗車)

  注)観光シーズンには、みすゞ潮彩号が新下関・下関と仙﨑を山陰本線経由で結んでいる。





 

懐かしの山陰本線 後編

下関・幡生間は山陽本線

客車列車用に造られた低いホームは
山陽本線の電車が停まる箇所だけ
上げされている。左側が9番線山
本線ホーム。            

 京都を起点とする山陰本線の線路名称上の終点は下関の一駅手前3.5㎞地点にある幡生だが、すべての列車は山陽本線に入って下関までやってくるので実質的な終点は下関である。かつては寝台特急の機関車付け替えで賑わっていた下関駅も、今では長距離優等列車が全廃されてしまい、歴史ある長大で立派なホームはその役割を終えて、少しばかり寂しげな雰囲気が漂っている。山陰本線の列車が発着するのは、その更に片隅の9番線である。
 古びたホームに佇むと、起点の京都駅ホームがかつては人々から忘れられたように片隅にあったことを思い出す。華やかな東海道線から外れた、端に張り出すような形で設置されたホームには、蒸気機関車が引退したあともディーゼルカーの排煙が漂っていたものだ。今でこそ京都のホームは造り替えられたが、ここ下関9番ホームには、いかにも偉大なローカル線にふさわしい終着駅の風格がある。
 下関・益田間には有名な観光地である萩や長門市があるにも関わらず、鉄道だけは極め付けのローカル線であって、優等列車は一本も走っていない。特別列車は仙﨑の金子みすゞにちなんだみすゞ潮彩号ただ一本に過ぎず、これとてもシーズン中の土曜・休日だけに運転される季節列車でしかない。普段この区間には、錆止めのような国鉄色をまとったディーゼルカーがのんびりと走っているのである。
 昼下がりのホームに、留置線に停められていたキハ47の2両編成がディーゼルエンジンを唸らせて滑り込んできた。乗客の数は少ないが、通勤通学対応で改造された室内にはボックスシートの数が少なく、海側進行方向の席は確保できなかったが、しばらくすれば席も空くだろうと鷹揚に構える。遠出をする人は少ないのがローカル線のいいところでもある。

幡生・長門市間 ラストラン 

 幡生を出発するやいなや単線となった山陰本線は、複線の山陽本線に挟まれるようにして進み、次第に沈み込んで山陽本線の上り線の下を潜るようにして分かれていく。何度も言うようだが本線とは名ばかりのローカル線なのだが、それだけに出発して20分もすると日本海・響灘(ひびきなだ)が見えてくる。小串までは通勤通学圏のようで、その先は列車の本数もぐっと減ってしまい、それとは裏腹に景色が輝いてくる。列車は阿川までほぼ北を目指して進んでいくため、海側に席を取ると午後の日差しがまともに降り注いで、冬とはいえまぶしいくらいだ。天気は悪くないが風が強いため、響灘は三角波が立っている。乗客は少なく、ボックス席を一人で占有できるほどになった。
点在する牧草牧草ロール
阿川駅にて

 長門二見からは一旦海と別れて内陸を行き、難読駅名横綱級の特牛に着く。「こっとい」と読むのだそうだが、語源に諸説あって定説はないくらいなので、読めないのが当たり前と言える。ただ漢字が示すように辺りは放牧が盛んなようである。次の阿川駅前には牧草地が広がっていて、あちこちに白いビニールに包まれた牧草ロールが散らばっていた。
その名も何とムカツク半島

 列車は阿川を出ると次第に進路を東に変えて、再び海辺を走り始める。響灘とは別れを告げて、ここからは油谷湾へと入っていく。対岸に見えるのが向津具半島で、これも難読地名だが、傑作なのは「むかつく」半島と読むことだ。「いったい何で?」と言いたくなるほど、むかつきとは無縁な、ほっとするような良い景色が続く。
 油谷湾が尽きて再び内陸に入り、しばらくすると人丸に着く。これは柿本人麻呂にちなむ駅名なのだろうか。全国各地に人丸神社があるが、その多く祭神は柿本人麻呂であるし、ここから人麻呂の誕生と終焉の地石見国はそう遠くはない。このあたりは駅名・地名が楽しい土地だ。
只の浜の向かいには青海島

 下関を出て70㎞ほどの距離を走り、約2時間が経過した。列車は只の浜に沿って、ゴールの長門市に近づいていく。目の前の海は青海島と本州に囲まれた深川湾である。その一番ふところ奥に位置しするのが仙崎の町で、青海島とは橋一本で繋がっている。橋の向こうは仙﨑湾が広がり、日本海側では屈指の漁港となっている。この仙﨑までは長門市から一駅だけ山陰本線の支線が繋がっていることは、すでに中編で触れた。
 ということで、私の山陰本線乗り尽くしの旅も漸く終わりに近づいた。初めて山陰本線を旅したのは高校生の時だから、40年越しの「快挙」となる。そのゴールが長門市という昭和が取り残されたような場所であったのは、偉大なるローカル線の旅のフィナーレに実にふさわしいと思う。
懐かしい国鉄色のディーゼルカー
長門駅にて

 40年の間には、景勝地の保津峡がトンネルの完成で楽しめなくなったり、列車の落下事故で有名となった餘部鉄橋が付け変わったりしているので、まだ厳密には完乗ではないけれど、車窓を楽しむという点では、乗り切ったなという思いが沸いてくる。
 それにしても海の風景がこれほどまでに楽しめる路線がほかにあるだろうか。絶景路線は全国各地にあるものの、日本の美しい海岸線を辿りながら走る路線としては、偉大なるローカル線山陰本線こそが筆頭と言うべきだろう。
(2015/1/6乗車)