2015年1月6日火曜日

改造電車が走る町

小野田線の珍電車

 1月6日早朝、雨脚が次第に強くなってきた。下関の日の出は、東京よりも30分遅く、まだ1時間半程先のことだ。そのような冷たい雨と闇に閉ざされた中を駅まで急ぐのには訳があった。僻地でもないのに、一日わずか3本しか電車が停まらない駅に行ってみたかったのである。
長門本山駅の時刻表
6時00分下関発、普通電車岩国行が40分ほどかけて小野田駅に着いた時も、雨脚は一向に衰える様子がなく、真っ暗闇の中で駅の蛍光灯だけが冷たい光を放っていた。向かい側の下関方面ホームには、数十人の通勤客が寒さで体を振るわせながら下り電車を待っている。その人影の向こうに見慣れない電車が一両停まっていた。小野田線である。
 乗り換え時間が短いので急ぎ足で跨線橋を渡る。ホームに屋根は付いているのだが、小野田線側はホーム幅に比べて屋根が寸足らずなため、足下で雨が撥ねている。一見して傘が必要なほどだとわかるが、傘を差して乗るまでもないと高を括ってそのまま飛び乗ったら、だいぶ濡れてしまった。JRにとっては、できれば廃線にしたいくらいの路線だろうから、設備は貧弱だ。だから逆に味わい深い路線ともいえる。
車内全景 左が新設されたトイレ
ここで活躍している電車が珍品中の珍品で、両端に運転台がついているワンマンカーなのだ。ディーゼルカーの一両編成は珍しくないが、路面電車は別として、通常の電車ではおそらくここだけだろう。おまけにトイレまでついている。小野田線は距離も短く、ローカル線とは言いながら通勤通学用だろうから、都会の感覚からすればトイレは不要なはずだが、地方の列車だけにトイレがあるのは当たり前なのかもしれない。わざわざ近年改造して設置したのだという。
 小野田線は地方交通線に指定されているローカル線で、小野田から宇部線との接続駅居能までの11.6㌔区間を一日10往復している。沿線には小野田を全国に知らしめたセメント工場やコンビナート、住宅に畑という感じの、風光明媚とはほど遠い路線である。しかしながら、西国の夜明けがこんなに遅いとは予想外で、小野田から雀田までは真っ暗なため、どのようなところを走っているのか、雨で濡れた窓から外の様子は窺い知れなかった。
 15分ほど電車に揺られて雀田に着いた。ここが本日のハイライト、小野田線・本山支線のへの乗り換え駅である。駅のホームがデルタ状になっていて、鶴見線の浅野駅を彷彿とさせる。小野田と浅野、思えば共にかつてのセメント会社だが、今は合併して太平洋セメントになった。
 日本の道路事情が劣悪だった頃、内陸の貨物輸送は鉄道が担っていた。奥多摩の石灰石は青梅線・南武線・鶴見線で東京湾まで運ばれ、そこに浅野駅がある。カルスト地形の秋吉台があるほど山口には豊富な石灰石があるが、秋芳洞近くの美祢から石灰石が小野田や宇部に運ばれ、そこに雀田駅がある。乗り換え駅がデルタ状になっているのは、工場への枝分かれ部分に旅客駅を後付けしたからだろう。
 デルタのもう一辺に同じ形の電車が待っていた。私以外誰も乗る人はいない。これが一日3本のうちの始発電車、長門本山行だ。地元のおばさんが一人乗ってきて、発車の合図もなく電車は動き出した。ほかに人はいないから、安全確認さえしっかりすれば合図もアナウンスもいらないのだろう。
2番電車が到着する長門本山駅
ようやく辺りが薄明るくなってきた。工場地帯かと思っていたら田畑もある郊外風景だった。少し離れた雑木林の向こうにコンビナートらしきものが垣間見える。終点長門本山にはあっという間に着いてしまった。駅、といってもバスの待合室のような駅舎がポツンと一つ、周囲には店一軒・自販機一台なく、冬枯れの田圃とまばらな民家が点在するだけである。待っていた人はたった一人だった。
 運転手は私を見て乗らないようだと判断すると、そのまま運転台に戻ってしまった。しばらくすると始発電車は乗客一人を乗せ、パンタグラフをスパークさせながら雀田に向かって発車して行った。長門本山駅には私一人が取り残され、雨音だけしか聞こえなくなる。
 一日3本のうち2本は朝7時台に集中している。先程の電車が雀田で折り返して20分後に戻ってくるのだ。それが本日2本目となって、その後は18時37分の最終電車となる。朝と晩とで輸送力が違えば、帰る人は困らないのだろうか。困らない程度の乗客数なら、朝の1本はいらないのではないか。そもそもどうして廃線にならないのだろうか。いろいろと疑問が生じるが、一つわかったことは車止めの先の道路には路線バスが1時間に1本走っているのだ。1㌔先にある本山岬から小野田まで乗り換えなしに行くことが出来るから、地元の人にとって鉄道は普段は不要な保険のようなものなのだろう。
 2番電車の乗客は、そのまま折り返す鉄道ファンが1名、女子高生2名、おばさん1名、そして私の合計5名だ。新学期が始まると高校生で混雑するのだろうか。雀田に山口東京理科大があるが、大学生の電車通学はすくないだろうななどと考える。この電車はワンマンのくせに車掌も1名乗っている。途中の浜河内でおばさん2名が乗車し、総勢9名を乗せた電車はガタンゴトンと時速30キロ位でゆっくり走る。
デルタ地帯の向こう側は小野田行
雀田では小野田行に接続している。それなりによくできたダイヤである。5名が下車し、2名乗り込んできた。電車は小野田線の終点居能から一つ先の宇部線・宇部新川行である。引き続き田畑が散在する郊外をのんびりと走る。急ぐことは必要ないとでも思っているのか、慌ただしいはずの通勤時間帯なのに、のんびりとしたものだ。
長門本山発宇部新川行 居能にて
電車は少し坂を上り、視界が広がって、河川敷のない大きな川に出た。秋芳洞から周防灘に流れる厚東川である。電車は橋桁の上に線路をちょこんと載せただけのガーター橋の上を減速して渡っていく。窓からは水しか見えない。鉛色の世界の中、川に落ちやしないかと、正直ヒヤヒヤする。早く渡りきって欲しいと思うのは、私だけではないようだ。乗客は何で減速する必要があるのだろうとキョロキョロと外を見ている。安全のための徐行だろうけれど、却って徐行しないといけない施設に不安を覚える。渡りきった所は荒涼とした工場・コンビナート群だ。この辺りは宇部興産の本拠地である。左から宇部線が合流して居能に着く。
 小野田線や宇部線で活躍しているクモハ123系は、国鉄時代に活躍した荷物電車を旅客用に改造した電車である。かつて棚があったところは窓がないので、左右で窓の数が全く違う。手荷物や郵便輸送に用いられたが、道路交通網の発達によって不要となったので、ローカル線で用いる旅客用に改造した。そもそもローカル線は非電化が大半だから電車の需要は少ない。貨物の需要は多くて旅客は少なく、電化されているがローカル線という条件を満たしていたのが、小野田・宇部線だったのだろう。
 今でこそ貨物は小野田線からは撤退し、宇部線も激減したが、この地域の貨物がなくなったわけではない。すぐ南側には、宇部興産が造った日本最大の私道・宇部興産専用道路があって、総延長は31.94㌔に及ぶ。それほど貨物輸送が賑わう土地柄なのだ。貨物が撤退した今となっては、小野田線は産業遺産化する鉄道と言えなくもない。何とも可愛らしい路面電車のようなこの鉄道が、いつまでも廃止されずに頑張って欲しいと祈らずにはいられない。

宇部線の印象

 宇部新川からやってきた宇部行は黄色い三両編成だった。何の変哲もない通勤電車だが、路面電車(?)に乗った後だったので、先程よりも上流で厚東川を渡る際、同じガーター橋だったけれども、何とも頼もしい感じがした。
宇部駅に停車中のキハ123系
宇部で折り返し、宇部新川に向かう。沿線途中にアメリカンスクールでもあるのか、外国人高校生の集団が乗り込んでくる。足を投げ出し、大きな声で話すなど、ちょっぴり行儀が悪い。
 ガーター橋を渡り直し、先程小野田線から乗り換えた居能を通過し、宇部新川に着く。ここで乗り換えて新山口まで行くのだが、待っていた新山口行は、何と先程まで世話になった路面電車(?)クモハ123-6だった。態度不良の外国人高校生も乗って来て、車内は満員になる。やれやれだ。
 高校生はすぐに降りたのでホッとしたが、それも束の間、今度は辺り構わず話し掛ける男性が乗ってきた。乗り合わせている人達はみな関わらないよう知らんぷりをしている。私も面倒なので寝たふりをする。せっかく車窓を楽しみに来たのに、これでは意味がない。天気が今ひとつだったこともあって、宇部線の印象はとても薄いものになってしまった。
 山口宇部空港の滑走路の外れがちらりと見え、住宅地がまばらになって田圃が広がり、小高い山を迂回したら山陽線と合流し、新幹線の巨大な高架橋が近づいたら新山口に到着したとしか、書きようがない。
 新山口はかつて小郡と呼ばれた交通の要衝である。シーズンには遠くから新幹線でSLやまぐち号を目当てに観光客がやってくる駅だ。冬枯れの今日、構内は閑散としていた。
(2015/1/6乗車)

 

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