蒸気機関車を支えた技術
北海道の鉄道が輝いていた頃を偲べる博物館、その二つめは小樽市総合博物館だ。総合博物館とはいうもののほぼ鉄道博物館であり、しかも日本有数の施設だろう。それもそのはず、ここはかつて北海道開拓の要となった幌内鉄道の起点、旧手宮駅の鉄道施設なのだ。それがそのまま博物館となったもので、機関車庫三号(明治18年竣工)のように重要文化財まである。
さて、ここではあまり他に類を見ない展示施設を紹介しよう。それは蒸気機関車資料館だ。
蒸気機関車は数千点の鉄・銅・鉛の金属部品などからできていて、日本を代表するD51型蒸気機関車の場合、約123トンの重さがあり、同程度の大きさの電気機関車の1.4倍もの重量がある金属の塊だ。その塊を動かすためには、部品一つ一つが高熱高圧蒸気の力によって機械的動作を繰り返すしかない。そのため部品は摩耗し、腐食するので、その整備の苦労は計り知れなかった。
ねじやボルトなどの小物から動輪や主連棒などの大型部品に至るまで、分解、補修、組み立ての繰り返し。その際に必要になるのが、様々なゲージだった。例えば車輪の摩耗や軸のゆがみはそのまま大事故に繋がる。それを防ぎ、効率の良い整備をするために、現場では様々なゲージや工具が開発されていた。それらが資料館には所狭しと展示されている。
これらの展示を見ていると、当時の技術者が如何に創造的な仕事をしていたかということを思い知る。東海道新幹線を作ることに尽力した島秀夫は、もともとは蒸気機関車の設計を行っていた。コンピュータもない時代、製図板と向き合いながら、効率の良い蒸気機関を追究し、自分の頭の中で空間的なイメージを二次元に落とし込んでいく。蒸気機関車は現代人にとってはノスタルジックな鉄道遺産に過ぎないが、当時の人々にとっては、時代の最先端を行く交通機関であり、それに従事する鉄道員は最高の頭脳の持ち主だったということだ。ここにあるもの、それを生み出した技術者がどれほど優れていたかを改めて思い知る場として、ぜひ注目したい展示だと感じる。
今日、日本各地で蒸気機関車の復活運転が行われているが、その準備と維持には莫大な時間と労力が払われていると聞く。もの作りが得意だと言われている日本にとって、蒸気機関車の再生・維持は、それを証明する必要条件のように思える。
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