2017年12月22日金曜日

近江鉄道、車窓の景色が宝物!?


生きるか死ぬか

「車窓からの景観を奪われるのは許せない」と、かつて国鉄に楯突いた鉄道がある。明治29年創業の老舗、滋賀の近江鉄道だ。新幹線がすぐ脇の南側に建設されれば、日当たりは悪くなるし、ゆったりとした田園風景も失われる。それでなくても経営不振の近江鉄道にとって観光客離れにもなりかねず死活問題だと訴えたのである。オリンピックに間に合わせたい国鉄は、前代未聞の景観補償費を出すことで一応の決着がつくのだが、後に国会で大問題となった。親会社が西武鉄道であり、その社長が政治家でもある堤庚次郎だったということもあって、社会問題にまで発展した。今から50年前の話である。
 一体どんなところを走っているのだろう。生きるか死ぬかの景色にも出会ってみたい。ぜひとも訪れたい鉄道だった。

滋賀のローカル鉄道

 平成29年が終わりを告げようとする早朝、底冷えのする米原駅にやってきた。新幹線が停まり、東海道線と北陸線が分岐する重要な駅なのに、駅前には見事なほど何もない。コンビニすらないので、腹が空いているけれど、自動販売機の飲み物くらいしか口にするものがなかった。人々は乗り換えるためだけにこの駅を利用するのだろう。歴史的にも中山道と北国街道が分岐する有名な場所だが、北の長浜と西南の彦根という二つの城下町に挟まれた、ごく控えめな宿場町だったのである。今も昔も旅人が通り過ぎていくところだ。
 ガランとした駅前の一角に、これまた見落としそうな近江鉄道のホームがある。7時08分発の近江八幡行に乗るため、切符を買おうと思ったが、無人改札脇の自動販売機はまだシャッターが下りていて使えない。始発からすでに3本目、朝の通勤時間が間近なのに人影はまばらで切符すら買えなかった。
米原駅にて
そのものズバリ「赤電」のヘッドマ
ーク。車両の裾が鋭角にカットされ
ているのは、車両限界が小さめなの
で改造したものだという。    

 すぐにやってきた二両連結の電車は、かつて東京の郊外を走っていた西武の「赤電」だった。くすんだ赤とベージュのツートンカラーが懐かしい。定刻になると、わずか10人ほどを乗せて走り出す。

 出発して間もなく左側に一風変わった新幹線電車3両が見えてくる。ここは鉄道総合技術研究所の施設、米原風洞技術センターで、実験車両が保存展示されている。こちらの風洞実験施設では時速400㎞に相当する風力実験が可能ということで、3両の車両は鉄道史に残る走行実験を行ったものだ。JR東海の300Xは1996年に京都〜米原間で時速443㎞、JR東日本のSTAR21は1993年に燕三条付近で425㎞、JR西日本のWIN350は1992年に小郡〜新下関間で350.4㎞を叩き出し、いずれも今日の新幹線の礎となった。その輝かしい歴史の脇をローカル線がトコトコとのんびり走っている。
 次に右側に見えてくるのは、田圃の中にひときわ高く聳え立つ実験棟だ。FUJITECというエレベーター企業の主力工場のものだそうで、青い空に突き刺さるような白い塔が美しい。停車駅の名前もずばりフジテック前。ここでわずかばかりの乗客ほぼ全員が降りてしまった。やや早いとは言え、朝の通勤時間帯にガラガラの電車ではさぞかし経営も厳しいだろうなと心配になる。およそ10分で城下町彦根に到着する。
 米原・彦根間は、JRならば5分で運賃は190円。日中なら1時間に4本走っている。一方の近江鉄道は10分かかって運賃は310円、しかも日中は1時間に1本。まったく勝負にならない。よくぞ廃線にならないものだと感心する。彦根には本社と工場・電車区があり、近江鉄道の一大拠点だ。ここでロングシートが満席となりホッとする。

 この電車は近江八幡行だが、私は途中の高宮で乗り換えて多賀大社に参拝するつもりだ。日本の国土を産んだイザナギ・イザナミの命を祀る由緒正しき元別格官幣大社だ。門前町で朝食にもありつけるかもしれない。

 およそ9分で高宮に到着、ここで坐っていたほとんどの乗客が下車し、ホーム向かい側の多賀大社前行に乗り換える。高宮には近江八幡方面からの電車も到着していて、その乗客も乗り換えて来ているので、多賀大社行は吊革につかまる人もいるほどの盛況ぶりだ。
 ローカル線を旅していると、朝のこの時間帯は大方女子高生で満員になることが多い。勿論世の中男女の人数はほぼ同数のはずだが、かしましい元気印の女子高生の前では草食男子はスマホの画面に逃げるしかなく、著しく存在感に欠けるので、女子高生ばかりが目立つのだが、多賀大社行は圧倒的におじさん軍団で占められていた。華やぎは一切なく、これから一日の仕事が始まるのだという、何となく重苦しい雰囲気が漂う。
 おじさん軍団は、次のスクリーン駅で下りるようだ。ここもまた企業名がそのまま駅名となったものだ。ワンマンカーのため、運転席横のドアまで延々と人が並び、次々と降りて、そのまま工場の中に吸い込まれていった。次の終点多賀大社前まで乗車したのはわずか数名であった。
真っ白な霜が朝日に輝き、荘厳な
佇まいの多賀大社。      


 多賀大社への参拝を終えて、一旦高宮まで戻る。高宮では近江本線の電車が交換し、そのタイミングに合わせて多賀線も運行されているために、三方面からの電車が集合離散する。

 ここでの乗り換えはちょっとした見ものだ。本線のホームは対面式で跨線橋はなく中央に踏切が設けてあって、利用客は線路を横断して移動する。電車はそれぞれ踏切の手前で停まるので、遮断機は下りたままだ。このままでは本線上りと多賀線との間で乗り換えができない。果たしてどうするのかと眺めていると、あろうことか乗り換え客は遮断機の下を潜って移動している。駅員も、運転手も、地元の乗客も馴れたもので、皆当たり前のように事は進んでいく。豪快というか、おおらかというか、とにかくローカルな私鉄である。
高宮駅に本線上り彦根行が入って
きた。伊藤園のラッピングカー、
先頭が「おーいお茶 濃い茶」後
ろが「緑茶」。車両の前の遮断機
が下がっている点に注目! この
棒を押し上げて線路を横切り乗り
換える。           

 近江鉄道は運賃が高いと記したが、実は安いフリー切符も売られていた。金曜日を含む週末限定販売の「1デイ・スマイルチケット」だ。一日乗り放題で破格の880円、確かに笑顔が浮かぶ。高宮駅の駅員さんが教えてくれて、直ちに購入する。
 米原駅でも買えるそうだが、窓口が開いている時間のみ販売ということで、結局この日普通に買ったら2630円かかるところを1400円で済んだ。米原駅の窓口が開いていれば、米原・多賀大社間の520円も節約できたのだが、まあそこはこの鉄道への支援金ということ納得。お金の話は品がないのでこれ以上避けたいところだけれど、それにしても差があり過ぎで、ちょこっと乗るだけの地元の人が可愛そうな感じがした。

タイル壁画の物語

 高宮を出てしばらくすると、前方に新幹線が立ち塞がってくる。この先、尼子・豊郷・愛知川の三駅を含むおよそ8㎞が新幹線併走区間だ。盛り土区間なので確かに左側の景色はまったく見えず、ひたすら日陰を走る。頭上を頻繁に重低音を響かせて新幹線が行き来する。右側だけを見れば、のんびりとした冬の田圃の景色が広がっている。「生きるか死ぬかの風景」論争が、かつてこの場所をめぐって繰り広げられたのだが、鈍感な私にはまったくピンと来ない。ごく普通の田園風景のように思えた。

 新幹線と分かれ、暖かい日差しが戻り、八日市に着く。ここからは八日市線が分岐している。八日市線は商都近江八幡とを結ぶ最重要路線で、日中は他路線の倍の本数の電車が走っている。とはいっても、1時間に2本なのだが。
 吹き抜けとなった大きな三角屋根の駅舎から出て、駅前広場を歩いてみる。なかなか立派な駅前である。その駅舎のちょうど正面中央に大きなタイル壁画があった。古代の装束を身にまとった男と女が描かれている。その由来を読んでなるほどと思った。ここはかつての蒲生野だったのだ。
 高校の古典教科書に登場し、里中満智子の漫画『天上の虹 持統天皇物語』にも取り上げられている、額田王と元カレ大海人皇子のラブストーリーの舞台である。古典というとちょっと敷居は高いが、内容はワイドショウーや週刊誌ネタになるようなアブナイ「不倫」物語である。

 天智天皇の妻となっていた額田王が、天智天皇の弟であり元カレの大海人皇子から求愛される場面を万葉集は次のように記している(訳は気にせず、眺めるだけでよし)。
 
    天皇の、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし
    時に、額田王の作れる歌

  あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
  野守(のもり)は見ずや君が袖振る

    皇太子の答へませる御歌〔明日香宮に天の下知らしめしし
    天皇、謚(おくりな)して天武天皇にといふ〕

  紫草のにほへるいもを憎くあらば
  人妻ゆゑに われ恋ひめやも

 白村江の戦いで唐と新羅に敗れた日本は、敵襲を恐れて都を海から遠い大津に移していた。天智天皇は大津京からほど近い蒲生野に狩りに出かけたのだが、その一行の中に額田王と大海人皇子がいた。額田王がひとり佇んでいると、そこに別れた前の夫がいて袖を振っている。当時の人たちにとって、それは求愛のしぐさだった。野の番人に見られたら大変とばかりに元妻はたしなめる歌を贈る。
 すると大海人皇子は、美しいおまえを憎いと思うならば、どうして今は兄の妻だからといって、恋い慕うことがあるものかと、返歌を贈ったのでる。否定的な仮定法と反語が用いられているので、古文嫌いにはわかりにくいかもしれないが、要するに、今は私のもとを離れて(兄に奪われて)兄嫁となってしまったおまえだけれど、とても憎いとは思えず恋しいのだと訴えた、というお話。

 この歌は天智天皇もいる宴席で歌われた戯れ歌らしいのだが(大人同士って怖いなあ。ニコニコした顔しながら神経戦を繰り広げている)、のちに壬申の乱を起こし、天智天皇側を打ち負かした大海人皇子のことを知る後世の者にとってみれば、大らかな時代であったとばかりはとても思えず、歴史の奥底を垣間見る思いがするものだ。そこを綺麗に歌い上げるからこそ、文学でもあるのだが。

景色から感じ取れるもの
蒲生野を走る貴生川行き電車の
後方車窓。右が鈴鹿山脈。  

 その蒲生野を走る鉄道こそ、近江鉄道だった。そう思うと、不思議に景色も違って見えてくる。冬枯れの田園風景はかつては蒲の生い茂る湿地だったのだろう。天智天皇はカモを狩りにやって来たのかもしれない。ところどころに点在する雑木林は男女の密会の場にうってつけだ。額田王はそれを見て想像を逞しくし、意味深長な歌を披露した。思いを断ち切れない元彼は敏感に反応する。全てを手に入れた天皇は豪快に笑った。のちに壬申の乱・・・おお、怖っ!

 野原の向こうには、鈴鹿山脈が連なっている。雪を頂いてひときわ輝く山は、御在所岳に違いない。山脈を越えれば三重県湯の山温泉であり、四月に近鉄全線走破の際に訪れた。あの時とは違う季節の雪が積もっている。
 視線を車窓反対側に転ずれば、琵琶湖方面に山脈が連なり、こちらも雪を頂いている。方角から見て、比叡山より北に位置する比良山地のようだ。こちらは古来、近江八景のひとつに数えられている景勝地だが、蒲生野はそれらすべてを借景にして、おだやかな陽だまりの中にあった。

 生きるか死ぬかの風景かどうかはともかくも、この特別絶景でもない風景と新幹線や高速道路のような近代的景観が馴染むとはとても思えない。今を生きる我々にとって、新しい交通機関はなくてはならないものだが、そのために誰も見たことがないものを受け入れなければならなかった現地の人々にとっては、戸惑い以外のなにものでもなかったのだろう。時が経てば、あれだけ大騒ぎしたこと自体が忘れ去れていく。それでいいのだと思う。
 電車は終点貴生川に近づく。貴生川は忍者の里で有名な甲賀の地である。近江鉄道はここまでだが、貴生川から先は信楽高原鉄道が続いている。高原鉄道とはいっても、信楽高原があるわけではないが、貴生川と信楽の間の峠越えは見晴らしが良く、そこからは蒲生野が眼下に広がっている。それを見てすべてを納得した気になり、安心すると、急に空腹が身に沁みてきた。
(2017/12/22乗車)

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