2011年1月6日木曜日

おろちループとスイッチバック


山岳鉄道の聖地 木次線を訪ねる
 山岳鉄道愛好家なら誰でも一度は訪ねてみたいと思う路線がある。島根県の宍道から広島県の東北部、備後落合に抜ける木次線だ。八岐大蛇で有名な斐伊川を遡り、松本清張の『砂の器』で複雑な謎解きの発端となる亀嵩(かめだけ)や日本を代表するソロバン生産地、雲州算盤の出雲横田を通って、奥出雲地方の最もはずれに位置する出雲坂根で、ついに立ち塞がる中国山地に行く手を阻まれるローカル線である。 出雲坂根から標高727㍍の分水嶺に近い三井野原までの間には161㍍の標高差がある。直線でわずか1.3㌔程の距離だからそのまままっすぐに結べば124‰(12.4%)の坂道になる。自動車道路でもふつうだったら造らない急坂であろう。ましてや坂に滅法弱い鉄道だから長いトンネルを遙か先の油木辺りまで掘り抜けばよいはずである。そうすれば終点備後落合も目前となる。ところが出雲横田から備後落合の間は一日にわずか3本、上下併せても6本の列車しか走らない超閑散路線ということもあって、採った方法は行きつ戻りつよじ登る三段式スイッチバックと6.4㌔に及ぶ大迂回路だったのである。山岳鉄道好きならば一度は訪れなければならない聖地と言える。

 余談ながらこのような超赤字路線が廃止の憂き目を免れたのは、ここに満足な自動車道路がなかったからである。そもそもこんな僻地だから多額の資金を投入するほどの需要もない。「どうだ、鉄道の有難味がわかったか」と自慢したくなるところだが、平成4年に「奥出雲おろちループ橋」が完成したのは地元の方々には慶賀なこととお喜び申し上げるものの、一介の愛好家としては実に無念ではある。しかも名前にもあるように山岳鉄道の華、ループで山を駆け上るとは実に怪しからん限りである。

 さて長年夢見ていたこの聖地を訪れるチャンスがついにやって来た。寝台列車愛好家でもある私にとって、東京駅からブルートレインが全滅したのは寂しさの極みだが、唯一残るサンライズ瀬戸・出雲号に乗って、新幹線では味わえない豪華でプライベートな旅をしてみようということになったのである。仕事の都合から現地で宿泊する時間はない。どうせなら瀬戸号で高松、あるいは出雲号で出雲市まで完全乗車するのが望ましく、両方利用して東京から往復すれば、出雲市・高松間に木次線も含められそうである。

 ということで時刻表を調べることとなった。一日3本の超ローカル線なので、接続にはかなりの制約がある。本来なら宍道から備後落合に向かって山を登りたいところだったが、サンライズ出雲を宍道で降りてしまうと宍道・出雲市間のわずか一駅間が未乗車区間になってしまう。宍道発は1121分なのでそのまま出雲市に958分に着いたあと折り返しも可能だったが、朝食はどうしようかと考えているうちに妙案が浮かんだ。

 サンライズ瀬戸で728分に高松に着き、1855分出雲市発のサンライズ出雲で東京に戻る。朝は高松で讃岐うどんに舌鼓を打ち、夜は出雲で割り子蕎麦をたぐりながら酒を飲む。我ながらいい企画だと思っているうちに、肝心の木次線は二の次になった。であるからに、木次線の旅は備後落合から中国山地の分水嶺に向かい、更に山を下って宍道へ行く行程となったのである。



芸備線で備後落合へ
 備中神代で電化された大動脈、伯備線に別れを告げた芸備線の気動車は、保守の行き届いていないレールの上を大きく車体を揺らせながらも快調に走っていく。中国山地と並行して走る中国自動車道と付かず離れず進む備後落合行は、キハ120型の新型ワンマンカーである。新見からは午前中で学校を終えた女子高生が多く乗り込み、各駅に停車するごとにすこしずつ降りていった。最初は女子高生ばかりかと思ってよく見ると同じ数ほど男子学生も混じっている。ここでも元気なのは女子高生ばかりだなとつい笑ってしまう。そろそろ元気のないダメな日本は、その改革を元気な女性に任せた方が良いのではないかと真剣に考えてしまう。一方で元気なのは高齢者である。私が座っているロングシートの対面では先ほどから70歳前後の男性が連れ人に大きな声で話をしている。「姥捨」だとか「立野」とかいう言葉が耳に飛び込んでくる。どうやら同好の士であるようだ。山岳鉄道の風光明媚な場所に行ったことがあるという自慢話なのだが、ああいう周囲の目を憚らぬ態度は鉄道愛好家としては失格である。その点私などは実に慎ましく外の風景を楽しんでいる。本当は運転台の横からカメラで前方に伸びる線路を狙いたかったのだが、高齢愛好家とはまったく別の男性が先程から運転台脇にかぶりついてビデオを回している。実に嫌な予感がしてきた。ひょっとしてみんな考えることは同じ? 真冬の木次線に乗りに来たのではないか。
 鉄道愛好家であることに気恥ずかしさが全くないかと問われれば、ないとは決して言い切れない。勿論好きなことをしてどこが悪いなどと居直る無骨な神経もない。人目を気にするシャイな愛好家だからこそ、鉄道の旅は一人旅と決めているのだ。
 ところでローカル線の列車が遅いのは何も馬力不足のためだけではないようである。中国自動車道と別れを告げて、中国山地の山懐に入っていくにつれて次第に線路は渓流の流れに沿って蛇行するようになる。いかにも落石の恐れや路盤の危なげな箇所を列車は進んでいる。線路脇の標識を見ると、30㌔制限の標識が至るところにある。中には制限15㌔の箇所まであるし、なんと「雨の日は更に5㌔マイナス」となっている。風で減速は聞いたことがあるが、雨で減速などというのは初めてである。それほど危うい路盤の上をそろそろと列車は進んでいく。それでも私が乗車しているキハ120型は軽量車両なので制限が緩いのだそうだ。標識にそう書いてある。一般企業JR西日本にしてみれば、金ばかりかかって儲けの少ないローカル線は一刻も早くなくしたいに違いない。おそらく最低限の保守に切り替えて経費を切り詰めているのだろう。
 その様なわけで、列車は恐々と悪路を徐行しながら進んでいく。雪も深くなってきた。なかなか進まない列車に油断したのか、先ほどから先頭でビデオを回していた愛好家が席に座ってしまった。チャンス到来という思いはおくびにも出さずに、シャイな私は少し間を置いてからゆっくりとカメラ片手に運転台脇の特等席に立つ。そして間もなく、雪間から備後落合が見えてきた。真っ白な世界に、雪で埋もれながらもかろうじて前に進んでいく2本のレール、その先に場内信号とホームと乗り継ぎの気動車が1台見えてくる。他はなにもない。わずかに人家があるはずだが、白い世界に埋もれてしまって、そこには備後落合駅だけがあった。いい駅だ。
 備後落合は芸備線の途中駅であると同時に木次線の終着駅でもある。途中駅といっても全線を直通する列車はなく、備後落合で乗り換えて次の乗換駅三次に向かうことになる。だから、一度に3列車がここに集結し、人を入れ替えて、また3方向に散っていく場所なのである。多くの同乗者はホーム向かい側に停車していた三次行に乗り換えた。鉄道愛好家達は雪に覆われた駅と気動車を物珍しげにカメラに納めている。先ほどの高齢愛好家は三次に向かうのだという。乗り合わせた乗客が皆、木次線に向かうのではと言う危惧は無用だった。こんな寒い時期に更に僻地へ向かう物好きなどそう多くはない。出雲横田行の気動車に乗車したのはわずか5名だった。

天孫降臨
 1425分、この日の2番列車が軽快なエンジン音を響かせながら備後落合を後にした。次は1750分の最終である。しばらく三次方面に続く芸備線と併行して走り、その後すぐ
に進路を北に向ける。いよいよ中国山地越えだ。備後落合は標高480㍍ほどだから、これから距離にして10数㌔を250㍍ほど上っていくことになる。人家のない谷間を往来もまれな道路と寄り添いながら進んでいく。この道を東城往来と呼ぶのだそうだ。備後と周辺諸国とを結ぶ四通八達した街道が昔からあり、ここはその一つ出雲と結ぶ道である。時折車も通るが、その数はきわめて少ない。雪が更に深くなる。
橋の向こうに雪よけトンネル
 分水嶺のある三井野原からがいよいよ木次線最大の見せ場、山岳鉄道愛好家の聖地である。ここは日本神話八岐大蛇の舞台でもある。ここから下った地が出雲であるから、三井野原は高天原に準えられる。これから天孫降臨のように豊葦原中つ国に降っていくかと思うとワクワクする。まず目の前に飛び込んでくるのが真っ赤なアーチ橋三井野大橋で、奥出雲おろちループ橋と一体になって東城往来を天上界から地上界へと結びつけている。我らがキハ120型は上空からゆっくりと見下ろしながら進んでいく。辺り一面は雪で埋まったモノトーンの世界である。吹き上げる寒風のため車窓が白く曇る。やがて奥出雲おろちループ橋の雄大な円弧が見えてくる。豊葦原中つ国へはつむじ風のようにして降りていかねばならないあちらと違って、我々はこれから大きく東に進路をとり、いくつかの隧道を抜けて再び進路を西に変えループ橋の向こう側まで行くことになるが、雪に埋もれて行く手は見えない。しばらく時間が経過し冬枯れの木立を抜けると目の前にコンクリートの柱、ループ橋の橋脚が見えてきた。だいぶ中つ国に近づいたようである。ループ橋の向こうには先程通過してきた高天原の雪よけトンネルが見える。鉄道愛好家は自分が通ってきた線路が見えるとなぜか心が熱くなるものである。そしてしばらく進むと今度は左側の眼下に線路が見えてどんどん迫ってくる。いよいよ三段スイッチバックの始まりだ。こみ上げる感動は更に頂点へと高まっていく。
 前方スイッチバックの分岐点は、ポイント凍結防止のために切妻屋根のついた木造小屋で覆われていた。雪の風情にぴったりである。小屋を抜けて列車はゆっくりと停車した。一段目が終わると、急ぐわけでもなく運転士はマスコンハンドルを抜き、後ろの運転台へと向かう。車内にいた他の乗客は午後の気怠い時間を朦朧と過ごしているが、私だけは興奮の中にあった。ここからわずかの間、列車は逆方向に進んで降りていく。さあ、また先頭で見るぞと思って愕然とした。運転台の前を除き、雪が付着した窓から前はよく見えなかったのである。ぼやけた小屋、うっすらとしか見えない分岐、いい写真が撮れないなと少し残念だったが、これが真冬の鉄路の旅なのである。
後ろにアーチ橋
 ゆるゆると進む列車の右側下から線路が近づき、ポイントどうしが交差して出雲坂根に到着した。これで二段目終了。ここには有名な延命水があるが、寒いし誰も降りないのでまたの時にしようと思う。一歩だけ外に出て駅の行き止まり前方を見上げると、先程見下ろしてきた三井野大橋の真っ赤なアーチが小さく見えた。161㍍の標高差を実感した瞬間であった。
宍道にて
 この先列車は再び反転して三段目の坂をゆっくりと豊葦原中つ国出雲へと向かっていく。宍道まではまだ遠いけれど、出雲に着けば蕎麦と酒が待っている。次第に暮れていく風景を見ながら、もう一度ここに来ようと思うのだった。(2011/1/6乗車)

2010年8月19日木曜日

スーパー白鳥 789系  白鳥 485系


蟹田駅に進入する八戸発函館行スーパー白鳥1号
                (2010 8.19)

蟹田駅にて(2010 8.19)

函館駅にて 北斗11号とスーパー白鳥26号八戸行
                 (2012 8.24)

スーパー白鳥26号(2012 8.24.)

函館行スーパー白鳥19号回送(2014 1.5.)

木古内駅に進入するスーパー白鳥11号函館行
            (2014 1.6.)
木古内駅にて 白鳥28号新青森行
           (2014 1.6.)
青森駅にて 白鳥28号(2014 1.6.)

青森駅にて スーパー白鳥27号函館行(2014 2.12.)

青森駅にて スーパー白鳥27号函館行(2014 2.12.)









寝台特急 あけぼの

21:15発 寝台特急あけぼの
上野駅13番線 (2010 8.18)

EF64 1053 長岡まで牽引

ヘッドマーク
テールマーク
行灯式行先表示

シングルデラックス廊下

車窓 鳥海山と日の出(2010 8.19. 5:16)
車窓 象潟(2010 8.19. 5:44)

車窓 八郎潟(2010 8.19. 7:11)

車窓 秋田内陸縦貫線(2010 8.19. 8:18) 
車窓 大鰐温泉 弘南鉄道(2010 8.19. 9:08)
車窓 岩木山(2010 8.19. 9:24)
9:56着 青森駅5番線
EF81 136 長岡から牽引
青森駅 機関車切り離し(2010 8.19.)

青森駅 回送準備(2010 8.19.)
青森駅(2010 8.19.)

2010年1月6日水曜日

寝台特急北陸と急行能登

21:15発 寝台特急あけぼの
上野駅13番線 (2010 8.18)

EF64 1053 長岡まで牽引

ヘッドマーク
テールマーク
行灯式行先表示

シングルデラックス廊下

車窓 鳥海山と日の出(2010 8.19. 5:16)
車窓 象潟(2010 8.19. 5:44)

車窓 八郎潟(2010 8.19. 7:11)

車窓 秋田内陸縦貫線(2010 8.19. 8:18) 
車窓 大鰐温泉 弘南鉄道(2010 8.19. 9:08)
車窓 岩木山(2010 8.19. 9:24)
9:56着 青森駅5番線
EF81 136 長岡から牽引
青森駅 機関車切り離し(2010 8.19.)

青森駅 回送準備(2010 8.19.)
青森駅(2010 8.19.)

2008年12月27日土曜日

昭和が漂う烏山線

宝積寺から始まる単線の旅

 烏山線は東北本線宝積寺から烏山までの間わずか20.4㎞、全線単線のローカル線だが、その旅は宝積寺から二駅上野寄りの宇都宮から始まる。1時間に一本程度の閑散とした路線であっても、朝晩を中心に日に5本の列車が宇都宮までやって来るからだ。新幹線ホームの反対側に何本もの留置線があり、その片隅に昔懐かしい2両編成の気動車がちょこんと止まっている。車両は近頃だいぶ少なくなってきた旧国鉄時代に造られたキハ40型である。今回の旅では時間の制約があるので、宇都宮からは普通電車に乗り換え宝積寺駅からディーゼルカーに乗り換えることにした。

 個性に乏しい駅が多くなっている中で、この宝積寺駅は一見の価値がある。著名な建築家隈研吾設計の駅舎は、特に橋上駅に通じる階段の天上に驚かされる。薄い板を幾何学的に組み合わせたそれは荘厳な感じさえするし、ガラス張りの駅舎も地方駅とは思えないほどの意匠だ。しかも蔵をシンボルと考えているこの町にふさわしい駅前広場の設計と言い、実に個性的な駅なのである。その真新しい宝積寺を出発した気動車は、東北本線の線路に別れを告げるとすぐに台地を抜けて広々とした田園地帯へと出る。風は冷たいが抜けるように晴れ上がった冬空の下に、刈り取ったあとのブラウン色の田圃が広がっている。あたり一帯の高根町では「ちょっ蔵の町」というキャッチフレーズで町おこしを図っているだけあって、あちらこちらに蔵が点在している。ここの蔵造りは石組みのものが多く、漆喰で塗り固めたものは見当たらない。栃木名産の大谷石で組まれた蔵も数多くある。

 時折車窓に流れる看板を見るとどうやらコシヒカリの産地らしく、豊かな土地柄のようである。門構えがしっかりした農家も多い。そんな風景の中をのんびりと気動車が走ってゆく。畦道、というか舗装されているので狭い農道というべきだろうが、そこに老人が腰を下ろしている。手にした杖からして天気に誘われて散歩に出た風情だが、それにしてもこんなだだっ広い田圃の中、ちょっと遠出しすぎじゃないですかと心配になるくらい、あたりには何もない。

メタボなキハ40

 キハ40型は旧国鉄が造った気動車だけに、転覆しても壊れないのではないかと思えるほど頑丈で重厚に造られているが、その図体の割にはエンジンが非力なので、豪快なエンジン音を撒き散らしながらも、それほど加速するわけでもなく、ちょっとした坂にとりかかるとまるでジョギングでもしているかのようなゆっくりしたペースでしか走れない。途中の鴻野山駅付近にサミットがあり、わずか10人にも満たない程のがら空きなのに、気動車は喘ぎながら登っていく。風景と同じように時間がゆったりと流れていく。下り坂になれば軽やかな走りになるだろうと思いきや、今度は重たい車体が転がり落ちるのを食い止めようと必死のブレーキングが始まって、ロングシートに腰掛けた身体が何度も揺すぶられる。何ともメタボなキハ40ではある。


 車窓には立派な門構えの農家が続き、ここに住む人たちはこんな時代遅れの烏山線には乗らないだろうなという思いが募るばかりだ。「電化のためにみんなで烏山線に乗りましょう」という看板がこのローカル線の苦境を裏付けている。さらに丘陵地帯の上にはゴルフ場が広がっていて、この烏山線だけが昭和の遺産なのであった。

通票閉塞式が残っていた!!

 大金という実に景気の良い名前の駅で上りと下りの列車が交換する。沿線のほとんどの駅は無人駅であるが、ここでは赤い帯の帽子を被った駅長さんが赤と緑の旗を持って運転席にやって来て、乗務員に何か手渡しをしている。何とタブレットであった。大金から終点の烏山までの間に列車は1編成しか入ることを許されていないので、このタブレットはそれを許可するスタフというタイプの通行許可証なのである。だから駅の外れにある二灯式信号は昔の腕子木式と同じような転轍機と連動したポイント通行の可不可を示すものに過ぎないのだ。ここでも昭和が続いている。


駅の名は、「滝」

 小塙を過ぎると再び登りとなり、トンネル内でサミットを越えて、坂を下りながら右にカーブを切ると滝駅に着く。この無人駅がまた何ともいい風情だった。 駅名は「滝」。自然の景物そのものをそのまま駅名にするなどという大胆な例を私は知らない。列車から降りるとそれこそホームと日本海しかないことで有名な信越線の青海川駅だって海や川という普通名詞に対して形容詞的に「青」が付いているし、山の上に寺がある仙山線の山寺だって確かにそのものずばりの命名だが、そもそも地名の語源は素朴なものが多いものだ。近くに龍門の滝があるから「滝」というのだろうが、実に大胆不敵な命名である。まさか名前倒れじゃあるまいなと思いつつ駅から5分歩いて合点がいった。実に名瀑なのである。逆にやるなあと妙に感心してしまった。滝口に一軒の茶屋があり、付近は観瀑台を擁した公園になってはいるものの、俗化されていないところがいい。しかも鉄路の旅人にとってうれしいことに、滝の後ろを烏山線が走っているのである。先ほど乗ってきた列車が折り返しの上りとなって40分後にやって来るので待つことにした。
 真冬のこの時期、だれ一人訪れる人はいない。窪地のため冷たい北風も幾分和らいでいる。することもなく待ちくたびれた頃になって、列車はやって来た。ゆっくり走る列車のことだから例の轟音を合図にカメラを構えればいいと油断していると、思いの外音も立てずにスコスコと走る気動車が視界に飛び込んできた。ちょうど下り坂に差し掛かっていたのである。ここを逃すとあとがないとばかりにシャッターを切った。 


終着駅 烏山

 滝から終点の烏山まではたった1駅。川の流れに沿って山を迂回し、大きくΩループを描きながら城下町烏山に向かう。里山に囲まれた静かな町である。廃藩置県で一度は烏山県となったこともあるというのが信じられないほど、あたりは閑散としている。それにしても終着駅はどこも寂しげな風情が漂うが、それが何とも言えずいいものだ。烏山駅もその先に行き場のないどん詰まりの駅として、どこか悲哀が漂っている。単線が分岐し相対式のホームが2面あって、ホームの先でまた単線に戻っている。2両編成の気動車がもて余すほどのホームの長さである。今から30年ほど前、末期の国鉄がイベント列車として行き先不明のミステリー列車「銀河鉄道999」を企画したとき、その目的地がここ烏山だったことはあまりにも有名だ。9両の客車を機関車牽引で運転したという。機関車を付け替えることが可能なほどの規模があるということだ。しかも、現在は大金~烏山間に2編成以上の列車が入ることはなく、1線は使われることがない過剰施設ということになる。線路表面に浮いた赤錆が、終着駅のもの悲しさをより一層強めている感じがする。身勝手な旅人は、そこに懐かしい昭和の面影を感じ取り、いつまでもこのままであって欲しいと願うばかりなのである。 (2008/12/27乗車)