2014年8月7日木曜日

越後平野行ったり来たり

米どころ酒どころ

 新潟といえば米どころ酒どころ、豊かな土地だと長年思っていた。上越新幹線が長岡を過ぎると一面に田園がひらけ、その後ろには弥彦がデンと鎮座ましましている。夏の新潟は限りなく光溢れて熱く、広々とした穀倉地帯は北海道にも引けを取らない。稲はもともと熱帯性の植物だから、とてつもなく熱い夏の新潟こそ米作りに最適な土地だというのも納得がいく。どんなに冬が雪深くとも。
 会津から只見線で小出に抜ける際にも、福島側がいかにも寒村風景なのに対して、新潟側は雪深い冬対策がしっかりなされた屋敷に変わり、豊かな新潟を実感できる。ブランド米は宝の山、農家の人が聞けば苦労を知らない都会人の戯言に聞こえるだろうが、これが車窓愛好家の素直な思いだった。しかし、今回の旅をとおして、それは上っ面しか見ていない狭い了見であることを痛感した。

新潟駅をめぐって

 弥彦線と越後線に乗れば、新潟乗り尽くしの旅は終わる。八月上旬の昼下がり、新潟駅に下り立った私は、今までとはひどく違った印象を抱いていた。最初のキッカケは越後線吉田行の列車の窓が余りにも汚いことだった。長年使い回した115系電車の窓には、赤茶けた鉄錆がビッシリと付着して、快適な車窓など望むべくもなかった。
 やれやれと思いつつも、電車が出発すれば車窓に釘付けになり、西に向けてしばらくの間新幹線と併走する。ところで新潟駅の構造は少し込み入っていて、なんと東京へ向かう新幹線と東京方面へ向かう在来線は正反対の方向に進んでいくのである。これは実にわかりにくい。さらに秋田・青森方面と在来線の東京方面が同じ方向だというのもわかりにくい。もともとは日本海と平行に配置された東西に伸びるのスイッチバックの駅だったと言えば、少しイメージできるだろうか。大河信濃川を避けて在来線は敷設されたので、東北方面からの列車も東京からの列車も大きく迂回しつつ新潟駅に進入するのに対して、長大鉄橋を厭わない新幹線は真っ直ぐ西側から進んできて新潟駅で鉢合わせすることになったのである。
  信濃川を渡る。なお写真はイメージ処
理を施し、鉄錆の影響をかなり軽減し
てある。                        
 さて、今乗っている越後線は越後線は越後平野を縦断するからどうしても信濃川を渡らなければならない。ただ新幹線とは違って控えめに渡河するので、橋梁は出来るだけ短く、工費を節約するコースとなっている。そのためすぐに新幹線とは別れ、川と直交するルートを取る。それでも単線ながら堂々とした長大橋である。渡りきったところが白山駅で、かつて新潟交通電電車線の始発駅があった県庁前に近く、いまでも県の施設が数多く集まっている。
 この先越後線はひたすら住宅街を走り、通勤用の郊外電車という風情である。単線ながら各駅に列車交換施設があるので結構列車本数は多く、関屋駅では新型のE127系電車とすれ違った。ただあちらは実用一点張りのロングシート車である。
 どうもJR東日本は、仙台と比べて新潟を軽んじている感じがする。田中角栄元首相の威光によって新幹線を通したところまでは良いが、多くの在来線は古いものを使い回している。新幹線も古い車両が使われ、先程通ってきた新潟駅だって、ようやく高架工事が始まったばかりで、完成まで一体何年かかるのだろう。新潟始発の在来線特急「いなほ」や「北越」は20世紀の花形485系だし。

吉田に集まる電車群

 新潟大学前駅は、交換施設なしの初めての駅だ。大学は一体どこにあるのだろう。レンガ色の大きな建物が見えるが、それはだいがくではなさそうだ。それにしても、このあたりは踏切が少ない。かといって道が立体化されているわけではなく、鉄道が街を分断してしまっている。地元の人はさぞ不便だろうなと思う。
 内野駅で列車交換、また古い115系だ。この辺りは新しい住宅が目立つが、空き地も多くなってくる。そろそろ市街地が終わろうとしている。内野西が丘で田園地帯になった。弥彦も見えてくるが、雲行きが怪しい。山頂には厚い雨雲が乗っかっている。越後曽根駅でまた115系と交換。この先とうとう新型車両と出会うことは一度もなかった。
 巻は鯛車の町だ。郷土玩具の鯛車は各地にあるようだが、今ここでは町おこしに活用されている。それにしてもどうして魚に車などをつけるのだろうか? 鳩車同様、郷土玩具は謎だらけだが、巻の場合は張り子の鯛の中にロウソクが灯されて美しいらしい。まちが真っ赤に染まる情景を復活させるのだというが、それならさぞかし美しいことだろう。
すべて115系 吉田にて
 そうこうするうちに吉田に到着する。ここはこの地区の交通の要衝であり、越後線と弥彦線が交差するところだ。駅構内にはいろいろなカラーリングの115系が集結している。いかにも寄せ集めなのだが、それはそれで見ていて楽しい。セミクロスシートの115系は、寒冷地・急勾配路線対応車両として旧国鉄が開発したもので、普通列車でありながら旅を楽しめる車両である。
115系 吉田にて
 湘南色の越後線からイエローと黄緑の帯の弥彦線に乗り換える。車内はガラガラでボックスシートを独り占めする。外は酷暑だが車内は人もまばらで冷房がよく効いていて快適だ。二両編成でワンマン運転。嬉しいことに窓が綺麗だ。弥彦神社参拝は気持ちよく出来そうだ。

弥彦神社

  吉田を出ると電車は大きく右にカーブして一路弥彦山麓を目指す。午前中までの晴天と打って変わって、雷雨にでもなりそうな雲行きである。終点弥彦に着いたらすぐに参拝して、できれば弥彦山にロープウェイで昇るつもりだ。
弥彦神社をイメージした弥彦駅舎
 さてこの弥彦駅、昨年リニューアルされたばかりの綺麗な駅舎だ。弥彦神社の本殿を模した木造の入母屋造だそうで、さすが越後 一の宮の玄関にふさわしい建物なのだが、折角のこの駅舎も毎日利用する乗降客は300人にも満たないのだという。鉄道が過去の遺物となってしまっている所は、特に地方に多い。モータリゼーションの波の前で鉄道の存在意義は、高校生と高齢者のためだけになってしまっている。
 駅が町の中心地から遠いのはよくあることだが、弥彦は山麓の町で、奥まった弥彦神社にいたる斜面に広がる町のため、平地にある駅から歩くのは一苦労である。これでは鉄道で訪れる人は少ないだろうなと改めて思う。夏休みとはいえ平日の午後4時過ぎ、駅前に人影はまったくない。むせ返るような湿気と熱気の上、今にも降り出しそうな曇天の中、道路を補修する作業員と時折通る車ぐらいしかいない寂しい町の坂道をひたすら歩く。弥彦温泉に浸かって夕食もここでと思って来たが、旅館はどこもそれ程大きくはなく、立ち寄り湯歓迎の看板も入りたくなるような食べ物屋も見つからないので、とにかくまずは参拝ということで弥彦神社に向かった。
神韻縹渺とした境内
 一の鳥居をくぐると、杜に囲まれた参道は静寂に包まれ、むせ返るようだった空気も急に冷えてきた。長い歴史に刻まれた越後国一の宮だけのことはある。低く垂れ込めたそらから神鳴りが落ちるのではないかと思えた。日頃の悪行の数々が思い起こされる。人影もまばらな日常の神の社には、初詣の賑わいでは決して味わうことの出来ない、凡人を神妙な気分にさせる何かがあると思う。これは出雲大社を訪れたときも、鹿島神宮を訪れたときも感じたことだ。きちんとお参りしようと思い、参道の端を歩く。手水舎でまず左手を清める。本殿では二礼二拍手一礼を心を込めて行う。正式な参拝にはなっていないが、自分としてはいつも以上にしっかりと行った。
 弥彦神社の御神体は後ろにどっしりと控える弥彦山そのものである。山頂は厚い雲に覆われて見えないが、雲の切れ目からは豆粒のようなロープウェイが降りてくる。まだ間に合うだろうか。境内の裏手に乗り場行きの無料バスが出ていることを知り、バス停に行くとちょうど森の中から無舗装の道をバスがやってくるところだった。乗っている人は誰もいない。年取った運転手が声をかけてくれた。
「今から行くの?ロープウェイの最終が17時だから山頂で20分位しかないよ」
「でも20分あるんですよね」
「それでいいならね。今日は雲が厚くてなにも見えないよ」
この運転手はロープウェイ関係者なのに、まるで商売っ気がない。こちらは鉄道乗り尽くしが第一の目的だから、こういうときは景色は二の次なのであるが、先方はそんなこちらの事情は勿論わかっていない。ロープウェイを鉄道に含めるか否かにはいろいろ議論はあるわけだが、その時は念のために乗っておこう位の曖昧な気持ちだった。
「ああ、だめだ。雨が降ってきちゃったよ。やめた方が良いよ」
そこまで言われればこちらとしては撤退せざるを得ない。もともと曖昧な決意しかないのだから。
「そうですよね。弥彦からの景色が見えなければ意味がないですね。今度また来ます」
「それがいいよ」
 バスは私を残したまま定刻通りロープウェイ乗り場に向けて発車していった。いい人だ。弥彦は俗人の心を清めてくれる有り難く気高い町である。

直流電化のローカル線


架線に注目!
 一時間に一本しか走らない弥彦線だが、それでも立派に電化されているのには何か訳でもあるのだろうか。八高線の高麗川・高崎間よりも少ない運転本数にしては厚遇されている。有力な政治家がいた場所は随分と扱いが違うのだなあということくらいしか思い浮かばないが、人気のない車内の運転席から前方車窓を眺めていて気付いたことがある。なんと架線がトロリー線一本しか張られていないのだ。これではまるで路面電車ではないか。
 多くの鉄道はパンタグラフに電気を供給するために、まず一本の吊架線(ちょうかせん)と呼ばれ電線を吊(つ)る。電柱と電柱の間をつるので、電線は垂れ下がる。このままでは走行中パンタグラフが上下してしまうので具合が悪い。そこで吊架線からハンガー線と呼ばれる電線を垂らし、その長さを調整することでトロリー線を地面と平行に保つ。これをシンプルカテナリー方式と呼ぶ。ところがここの架線には吊架線もハンガー線もないのだ。これを直接吊架式という。かつて同じものを銚子電鉄でも見たことがあるが、国有鉄道が敷設した鉄道で見るのは初めてである。そうかあ、やはりちゃんと節約しているのだなあと感じ入る。

吉田駅に進入する場面
右から合流するのは柏崎からの越後
線。吉田駅にはホームが3本あり、
5番線まで擁する堂々とした駅だが
弥彦線と越後線がクロスする際、一
瞬だが単線となる。それがネックに
ならない程度の閑散路線なのだ。 
 架線構造は鉄道にとって高速化のカギである。東北新幹線の八戸以北や北陸新幹線は、在来線と同じ新幹線としては節約型のシンプルカテナリー方式を採るために最高時速は260キロ止まりとなっている。弥彦線は85キロ制限なのだという。越後線にも一部この直接吊架式が使われているというが、交通の要衝である吉田駅付近はどこもシンプルカテナリー式になったいた。
 弥彦線のほとんどは弥彦・吉田間、吉田・東三条間で折り返し運転をしている。終点東三条を目指すために吉田からはまた窓の汚い115系のお世話になった。
 電車が吉田の町を抜け、再び田園風景が戻ってくると架線も直接吊架線の戻っていた。沿線で有名な町は燕だ。燕と言えば洋食器、洋食器と言えば燕というくらいに世界中で有名な町だと思っていたら、車窓からはその賑わいは少しも感じ取ることが出来なかった。洋食器に限らず金属加工製品を得意とする中小企業が集まっている燕では、新興国との価格競争に喘いでいるのだという。おまけに人口減少や商店街の衰退というように、厳しい現実がこの地方を襲っている。3キロ先には新幹線の燕三条駅があるのだが、その効果はいかがなものなのだろうか。
 賑わいを感じさせないのは、終点の東三条も同様であった。信濃川の鉄橋を渡ると、電車はそのまま高架線のまま東三条に向かうのだが、高い位置から町並みを俯瞰すると、こちらもあまり元気がない。それならば新幹線の燕三条はどうか。駅前は地方の新幹線停車駅と変らない無個性な風景が広がっている。歩いて5分くらいのところに大手のショッピングモールが進出し、いくつかのビジネスホテルが建っている。そのうちの一つは、昔からある建物の隣に新しい建物が並んで建っていた。ほんの少し離れれば田圃が広がっている。
 上越新幹線が出来て32年、人でいえば一世代の年月が過ぎた。その間にバブルが弾け、リーマンショックが日本を襲い、地方都市は世界経済のうねりの中で翻弄され続けたといえる。30年といえば、建物のリニューアル・建て替えも考えなければならない年月である。新幹線があってもそれだけで活性化されるわけではないことを教えてくれているような気がする。頑張れ、燕。頑張れ、三条。
(2014/8/6乗車)

三度目の吉田通過

燕三条付近は通常の
架線が張られている
 翌早朝、燕三条から乗り尽くしの旅を再開する。弥彦線ホームは巨大な新幹線駅舎の片隅にひっそりと設けられている。地方ローカル線と新幹線が接続する駅は、本当にその落差が大きいのだ。釜石線と東北新幹線の接続駅、新花巻もそうだった。改札口を出て在来線のホームに続く歩廊の途中に改札はない。在来線は無人駅なのである。味気ない高架下に単線片側ホームだけがあるのを想像して見て欲しい。長野新幹線佐久平の小海線ホームは、単線ながら新幹線の上を跨いでいるので開放的で明るいが、高架下はじめじめと薄暗く陰気で悲しくなる。
 無人のホームに、録音された女性の声で「弥彦行電車が参ります」とアナウンスがある。いつもの聞き慣れた声なのだが、妙に人工的な響きに感じるのはどうしてか。東京では慣れてしまって気にならないことが、どうしてここでは気になるのか。その時思ったのは、誰もいなくてもこの録音は流れるのだろうなと想像したからに違いない。都会のホームに人の絶えることはない。その人々に危険を知らせ、乗車の準備を促すアナウンスは必要なことだから疑問にも思わなかった。しかしここはどうだろう。今このホームには私しかいないのである。その私は明日はいない。人がいようがいまいが繰り返されるアナウンスが人工的でなくて何であろう。
 電車は窓の綺麗な501、昨日弥彦から乗車したのと同じ車両だった。燕では朝早くから高校生が十数人乗車してきた。全国のローカル線は高齢者と高校生に支えられている、というか彼らが居てくれるので廃止できないというべきか。徐々に雲が薄くなり、うっすらと弥彦山が見えてくる。田園の中をひたすら弥彦目指して走るのは気持ちよい。吉田に近づくと進路を90度西に変え、架線もにわかにシンプルカテナリーになる。

越後線で柏崎へ

 燕三条ばかりか、駅舎がしっかりしている吉田にもこの時間駅員はいなかった。改札はフリー状態だ。今回の旅は青春18切符を利用しているので、利用開始時には日付の入った改札印を押してもらう必要があるのだが、押印は柏崎までお預けとなる。無賃乗車防止よりも人件費抑制というところに、この鉄道経営の難しさが感じ取れる。
柏崎行が新潟方面からやってくる
 新潟発柏崎行がぐらぐらと車体を大きく揺らしてポイントを通過してやってきた。綺麗な窓の115系だった。吉田を出るとすぐに見事な穀倉地帯となる。一面のグリーンだが、稲穂はほんの少し黄色味がかっている。晴れ上がった空のもと、弥彦の山が綺麗に横たわっている。今から行けば、あのバス運転手さんも歓迎してくれるだろうけれど、時間がない。
さらば弥彦
晴れ渡った空の下、穀倉地帯が
広がる           
 電車は寺泊、出雲崎と良寛さんで有名な所を通るのだが、ここでも駅が町から離れているために、何の変哲もない田舎駅にしか見えないのが残念だ。越後線は海から離れた内陸を走っている。それにしてもよく揺れる。あまりの乗り心地の悪さに胃の中のものが出てきそうだ。
 思えばこれがかつての客車列車の旅は皆こうだった。夜汽車のボックスシートで寝て、起きると頭はガンガン痛く、首も寝違えて痛く、駅売りの飲み物は限られていて、いつも缶コーヒーの飲み過ぎで胃は荒れて散々だった。長い間日本では水はタダと思われており、売られていないものは買えない道理というものだ。今は水が買えるようになって、皮肉なことに大変便利になった。なんだかそう考えるとこの酷い乗り心地も懐かしい。
 西山で5分停車し、がら空きの2両、吉田行きと交換する。その次は刈羽である。巨大な赤白の高圧鉄塔が現れ、電線が森の向こうに消えていく。柏崎刈羽原発が近いのだろう。整然とした人工林による森の深さが、よけいその先に普段隠された世界があることを暗示している。それはいつまでも隔絶されたもののままであるはずだったのに、東日本大震災が根底から覆した。森に近い刈羽駅からも高校生が多数乗車してくる。一様に明るい表情の彼ら達が辛い思いをしないで済む時代がくると良いのだが。
 次の荒浜からは何もなかったように普通の田舎の景色に戻る。いざとなればここも帰宅困難地域となるだろう。特別な区域に指定されている地区はあまりにも狭いのである。車窓に清掃工場が見えてくる。都会では清掃工場ひとつ作るのにも大騒ぎだが、こうしてみると実にかわいいものだ。ここでの炎は人が制御できる普通の炎だ。しかし原子の火は神の炎と同じで人智を超える。あの場所は近寄りがたい神域と同じではないか。
 東柏崎で高校生はみな下車してしまった。左側から信越本線が迫り、巨大な文化会館を右に見ながら電車は終点柏崎に到着した。ようやく有人駅に着いたので、改札印を押してもらえる。事情を話して押してもらおう。それからは無賃乗車ではなくなるのだ。
 (2014/8/7乗車)

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