日本山岳鉄道の白眉といえば、肥薩線を措いて他にないだろう。熊本や宮崎・鹿児島に住む方々には申し訳ないが、あのような田舎だからこそ都会人にはあまり知られていないだけであって、仮に肥薩線が関東地方にあったとしたら、怒濤のように観光客が訪れて、あっという間に俗化されてしまっていたに違いない。レンゲは野に咲いていてこそ美しい。肥薩線もいつまでも南九州の山中で、ひっそりと息づいていて欲しいものだ。
熊本から特急で1時間半、途中急流と焼酎で有名な球磨川を遡り、山塊を抜ければ「日本でもっとも豊かな隠れ里」人吉注に着く。九州山地に囲まれた球磨盆地に位置する、温泉の湧き出る小さな城下町だ。ここに至るまでの蛇行した深い渓谷もなかなか見どころが多いけれど、そちらの方はSL人吉号でのんびりと楽しむのが良いだろう。今回の目的地はここより更に奥にある。
それにしても、明治の人達はなにゆえこのような隠れ里に鉄道を敷いたのか。熊本・鹿児島間が鉄道で結ばれたのは、1909(明治42)年11月のことだ。この時、途中関門海峡を連絡船で乗り継いで、青森から鹿児島が鉄道で結ばれた。工事に着手した1905(明治38)年は日露戦争の真っ直中であり、その年の5月27日に日本海海戦が起こるという時代だったから、敵の艦砲射撃を怖れたのも当然のことだろう、国防上の理由から鉄道を山中に通すことにしたのである。現在肥薩線と呼ばれているこのローカル線は、かつての鹿児島本線そのものであり、当時は大動脈だったのである。
坂の苦手な蒸気機関車の前に立ち塞がる山々、しかも行き来の多い動脈。いつの時代も壁にぶち当たれば、人は技術で乗り越えようとする。矢岳越えの始まりだ。
注)2015(平成27)年、文化庁が日本遺産に認定。
大畑ループとスイッチバック
人吉を後にした列車はディーゼルエンジンを唸らせながらぐいぐいと登っていく。あたりは鬱蒼とした緑で、坂に弱い蒸気機関車泣かせの1000分の25という急勾配だ。やがてループ線が始まるとすぐに現れる横平トンネルの先には、全国でもここにしかない、ループの中のスイッチバック駅、大畑駅がある。大畑は「おこば」と読む。「こば」とはこの地方では焼き畑のことを指すので、それが地名になったようだ。
それはさておき、誰も住んでいないような所に駅が作られたのは、ここで石炭を補給し、給水する必要があったためである。人吉から大畑まで登るのに約1トンもの石炭が消費されたのだという。
重量のある蒸気機関車を安全に停車させるには、駅を水平な場所に作らなければならない。であるから、列車は勾配のあるループから一旦はずれ、水平なところに設置された大畑駅に滑り込む。
石炭を積み給水を終えた蒸気機関車はループ線に戻るためにバックをする必要がある。しかし、そのまま下り勾配のループ線に戻るわけにはいかない。重たい機関車には坂道発進など不可能だからだ。そこでループ内側に水平に設けられた引き込み線に一旦入ってから、平らなところで加速しつつ、再びループ線を登るようになっていた。
登坂能力に優れた現在のディーゼルカーならば、大畑駅に停車しなくても、そのままループを登れそうである。地図を見ても、ループは連続しているようだから、敢えて大畑駅に立ち寄る必要はなさそうに思えるかもしれない。ところが実際にはループは連続しておらず、大畑駅でジグザグと切り返しながら通過する必要がある。この何とも非効率なところが、肥薩線の魅力でもあるのだ。
現在大畑駅を通過する列車は1日わずか5往復。そのうちの2往復は観光列車である。人吉・吉松間35㎞、普通列車では1時間のところを、途中休み休み20分ほど余計に時間をかけて結んでいる。大畑駅では、バックするために運転手が移動する間、乗客達はホームに出てレトロなローカル駅を見学して楽しむことができる。駅舎にはここを訪れた人達が記念に残した名刺やメモ用紙の数々が所狭しと貼られている。まるで千社札のようだ。駅構内の片隅には、給水塔が残っていて、SL時代を偲ばせる。
大畑駅を出発した列車は、ループ内側の引き込み線に入ってから一旦停止し、運転手が車内を再び移動する。これが一大セレモニーとなっていて、キャビンアテンダントの女性が、実況中継をしてくれる。心なしか運転手も得意顔である。
運転を再開すると、引き込み線内で加速し、そのまま半径300㍍のループ線へと進んでいく。車窓右側に大畑駅を見送り、短いトンネルを抜けると木立の間から球磨盆地と九州山地が見えてくる。中でも一番高い山が市房山(1721㍍)で、九州で3番目に高い山だ。ちなみに阿蘇や霧島は名山の誉れ高いものの、標高ではこれより低い。
ループをほぼ1周した地点で左側車窓の視界が大きく開ける。ここが肥薩線最初の絶景ポイントだ。眼下に先程立ち寄った大畑駅と引き込み線が見える。その向こう側に広がるのが球磨盆地と九州山地である。
全国にはループ線がいくつか残されているが、景色のよさからすれば、ここが群を抜いている。スイッチバックの面白さもさることながら、その下に広がる球磨盆地が背景となって、山岳鉄道の趣がもっとも味わえるからである。観光列車の良いのは、このようなビューポイントできちんと停まってくれ、しかも解説してくれるところだ。37年前に訪れた時には、左右の車窓をキョロキョロしているうちに通過してしまい、不覚にも絶景を拝むことは叶わなかった。他の乗客の中で外の景色を眺めている人は殆どおらず、スイッチバックの記憶しか残っていない。「何事にも先達はあらまほしきものなり」注であって、誰かに解説してもらうということはとても有り難いものだ。
注)徒然草より。二度と訪れないかもしれない土地で、誰からの
アドバイスも受けずに、大切なものを見はぐってしまうこと
ほど残念なことはない。なお原文はもっと意味が深い。
山縣伊三郎と後藤新平
注)2015(平成27)年、文化庁が日本遺産に認定。
大畑ループとスイッチバック
(C)Yahoo Japan,(C)ZENRIN |
人吉を後にした列車はディーゼルエンジンを唸らせながらぐいぐいと登っていく。あたりは鬱蒼とした緑で、坂に弱い蒸気機関車泣かせの1000分の25という急勾配だ。やがてループ線が始まるとすぐに現れる横平トンネルの先には、全国でもここにしかない、ループの中のスイッチバック駅、大畑駅がある。大畑は「おこば」と読む。「こば」とはこの地方では焼き畑のことを指すので、それが地名になったようだ。
大畑駅からスイッチバックを眺め る。左側が人吉方面。画面中段、右 側に向かってループ線の勾配が続い ていて、正面の山の窪んだところま で登っていく。 |
それはさておき、誰も住んでいないような所に駅が作られたのは、ここで石炭を補給し、給水する必要があったためである。人吉から大畑まで登るのに約1トンもの石炭が消費されたのだという。
重量のある蒸気機関車を安全に停車させるには、駅を水平な場所に作らなければならない。であるから、列車は勾配のあるループから一旦はずれ、水平なところに設置された大畑駅に滑り込む。
石炭を積み給水を終えた蒸気機関車はループ線に戻るためにバックをする必要がある。しかし、そのまま下り勾配のループ線に戻るわけにはいかない。重たい機関車には坂道発進など不可能だからだ。そこでループ内側に水平に設けられた引き込み線に一旦入ってから、平らなところで加速しつつ、再びループ線を登るようになっていた。
登坂能力に優れた現在のディーゼルカーならば、大畑駅に停車しなくても、そのままループを登れそうである。地図を見ても、ループは連続しているようだから、敢えて大畑駅に立ち寄る必要はなさそうに思えるかもしれない。ところが実際にはループは連続しておらず、大畑駅でジグザグと切り返しながら通過する必要がある。この何とも非効率なところが、肥薩線の魅力でもあるのだ。
大畑駅停車中の観光列車 |
現在大畑駅を通過する列車は1日わずか5往復。そのうちの2往復は観光列車である。人吉・吉松間35㎞、普通列車では1時間のところを、途中休み休み20分ほど余計に時間をかけて結んでいる。大畑駅では、バックするために運転手が移動する間、乗客達はホームに出てレトロなローカル駅を見学して楽しむことができる。駅舎にはここを訪れた人達が記念に残した名刺やメモ用紙の数々が所狭しと貼られている。まるで千社札のようだ。駅構内の片隅には、給水塔が残っていて、SL時代を偲ばせる。
大畑駅を出発した列車は、ループ内側の引き込み線に入ってから一旦停止し、運転手が車内を再び移動する。これが一大セレモニーとなっていて、キャビンアテンダントの女性が、実況中継をしてくれる。心なしか運転手も得意顔である。
運転を再開すると、引き込み線内で加速し、そのまま半径300㍍のループ線へと進んでいく。車窓右側に大畑駅を見送り、短いトンネルを抜けると木立の間から球磨盆地と九州山地が見えてくる。中でも一番高い山が市房山(1721㍍)で、九州で3番目に高い山だ。ちなみに阿蘇や霧島は名山の誉れ高いものの、標高ではこれより低い。
中央が大畑駅、右下が引き込み線。 人吉からの線路は、引き込み線の 向こう側に微かに見え、撮影地点の 下をトンネルで抜けていく。 |
ループをほぼ1周した地点で左側車窓の視界が大きく開ける。ここが肥薩線最初の絶景ポイントだ。眼下に先程立ち寄った大畑駅と引き込み線が見える。その向こう側に広がるのが球磨盆地と九州山地である。
全国にはループ線がいくつか残されているが、景色のよさからすれば、ここが群を抜いている。スイッチバックの面白さもさることながら、その下に広がる球磨盆地が背景となって、山岳鉄道の趣がもっとも味わえるからである。観光列車の良いのは、このようなビューポイントできちんと停まってくれ、しかも解説してくれるところだ。37年前に訪れた時には、左右の車窓をキョロキョロしているうちに通過してしまい、不覚にも絶景を拝むことは叶わなかった。他の乗客の中で外の景色を眺めている人は殆どおらず、スイッチバックの記憶しか残っていない。「何事にも先達はあらまほしきものなり」注であって、誰かに解説してもらうということはとても有り難いものだ。
注)徒然草より。二度と訪れないかもしれない土地で、誰からの
アドバイスも受けずに、大切なものを見はぐってしまうこと
ほど残念なことはない。なお原文はもっと意味が深い。
山縣伊三郎と後藤新平
ループ線を抜けてから先も矢岳駅までの間は、1000分の30.3という蒸気機関車にとってはほぼ限界に近い区間が9㎞も続く。今回乗車している観光列車「いさぶろう号」は、キハ47という国鉄時代に普通列車用だった車両を、「ななつ星」を初めとするインダストリアルデザインで世界的にも有名な水戸岡鋭治氏によってリニューアルされた名車が使われている。ただエンジンは国鉄時代のレトロなもの。頑丈で重量のある車体を非力なエンジンで動かしている老兵のような車両だ。見かけはお洒落な若作りだが足腰が弱い。
大きなうなりをあげつつ、ゆっくりとしか登坂できないこの列車が、かえって逆に難所を走る観光列車には相応しく思えてくる。都市の電車区間では1000分の30など至る所にあるが、産業遺産を体感するとは、こういうものなのだろう。
肥薩線の標高最高地点は、矢岳駅の537㍍である。人吉が107㍍、大畑が294㍍だから随分と登って来たものだが、高度そのものはそれほど高いものではない。問題となるのはあくまでも標高差である。駅周辺には田畑と農家が点在している。昔ながらの駅舎に隣接した展示館では、往時貨物列車を始めとして多くの列車を牽引したD51型蒸気機関車を見ることができる。
肥薩線の観光列車は、人吉から吉松方面の下りが「いさぶろう号」、逆の上りが「しんぺい号」という。あえて列車名を変えているのは、この先の矢岳第1トンネルの入口に掲げられた扁額に関わりがある。熊本県と宮崎県の境に位置するこのトンネルは、全長2096㍍の肥薩線最長のトンネルであり、難工事のすえ貫通し、鹿児島本線は全線で開通することができた。この慶事を祝して、熊本県側の入口に逓信大臣山縣伊三郎が「天険若夷」と、宮崎県側に鉄道院総裁後藤新平が「引重致遠」と揮毫したので、それにちなんで吉松行きは「いさぶろう号」、人吉行きは「しんぺい号」と命名したのだ。なんとも気の利いた列車名ではないか。こういうセンスがJR九州にはある。
ところでこの難解な四字熟語の意味はというと、車内で配られたパンフレットによれば「天険若夷」が<天下の難所を平地のようにした>であり、「引重致遠」は<重いものを遠くに運べる>だそうだ。若夷は夷(い)の若(ごと)しと訓むのだろう。夷には、えびす(未開の異邦人)のほかに、平らげるの意味がある。鹿児島本線としての開通が、如何に当時の物流にとって重要で、人々の期待を担っていたかがわかるエピソードだ。
日本三大車窓 霧島連山の絶景
土木工事がまだ未熟だった明治時代には、トンネルをどれだけ短くできるかが勝負所だった。現在ならば麓同士を長大トンネル一本で抜けてしまうようなところを、短いトンネルとスイッチバックとループ線で高度を稼ぎ、これ以上無理という所にトンネルを設けて山越えを果たした。それが矢岳越えだったわけだが、これはただ単に土木技術の問題だっただけではなく、蒸気機関車にとって長大トンネルは無理だったことも考え合わせねばならないだろう。昨今のSLは無煙炭や重油を燃やして極力煙害を防いでいるし、そもそも客車の気密性が高く、乗客が煙に悩まされることはまずない。
電化以前の時代にあって、蒸気機関車がどれほどまでに嫌われていたかを知る人はすでにだいぶ少なくなった。汽車の旅は、それはもう難行苦行の連続であり、特にトンネルは最悪で、窓を閉めてもデッキから煙が流れ込んできて息苦しいこと限りなかった。夏、冷房もない頃に窓を全開にしておくと、煤や石炭殻が飛び込んでくる。私も幼い頃、車窓を眺めていると目の中に石炭殻が入ってしまい、涙では流れ落ちずに、目医者に洗い落として貰ったことがある。だから汚くて厄介な蒸気機関車などにはこれっぽっちも興味がなかった。蒸気機関車が再発見され、広く世間に人気が高まったのは、全国から姿を消した後になってからである。
矢岳第1トンネルに入った時、当時の人がどんな思いで乗っていたか。ここは想像力を働かせれば、容易に察しがつくだろう。もう二度とこんな汽車には乗りたくないという人もいたに違いない。外は漆黒の闇、薄暗い車内に漂う煤煙。暖かい煙は車内の上ほど濃いが、次第に下に降りてきて、後方へと流れていく。匂いもきつく、窒息しそうな2㎞。
トンネルを抜けた瞬間、あちらこちらで窓が開け放たれ、新鮮な外気を胸一杯に吸って人々は安堵する。そこに俄に視界が開けて、雄大な霧島連山が眼前に迫ってくるのだ。この風景は今見ても感動的だが、SL時代では尚更だったろう。目的地まではあと下るだけだ。
標高1700㍍の韓国岳(からくにだけ)を主峰に、右に飯盛山、その後ろに周辺に黄緑色のえびの高原、左には白鳥山や夷盛山(ひなもりやま)が連なる。眼下は川内川流域に加久藤盆地(えびの盆地とも)が広がる胸のすくような景観だ。日本三大車窓を謳うのも頷ける。観光列車「いさぶろう号」はここでも数分停車し、キャビンアテンダントからはご丁寧にも窓を開けて外の空気を吸うよう薦められる。勿論高原の空気を満喫して欲しいという意図なのだろうが、過去を知る者には、汽車時代の苦労が偲ばれる小粋なアドバイスに思えて仕方なかった。
日本三大車窓とは、ここ以外は信州姨捨と北海道狩勝峠だ。どこも素晴らしいが、信州の姨捨の前に広がる善光寺平は人々が多く住む開けた土地柄だし、北海道の狩勝峠は長い新トンネルが出来てからは標高が下がったこともあって、一番は昔と変わらないこの車窓であろう。ただどの車窓にせよ、蒸気機関車時代の苦労を想像しながら眺めると、感動もひとしおに違いない。なお、老婆心ながら、ここを訪れる際は「しんぺい号」ではなく、「いさぶろう号」をお薦めする。その理由はもうおわかりであろう。姨捨や狩勝峠の場合も同様である。
パンフレットには天気がよければ桜島も見えると書いてある。確かに…うっすらとシルエットが浮かんでいる。キャビンアテンダントが「皆さんは幸運です」という。自分は雨男なので、ここで運を使い果たさなければよいのだがと思うが、これだけ綺麗だったのだから、まぁ、いいか。
大きなうなりをあげつつ、ゆっくりとしか登坂できないこの列車が、かえって逆に難所を走る観光列車には相応しく思えてくる。都市の電車区間では1000分の30など至る所にあるが、産業遺産を体感するとは、こういうものなのだろう。
古い佇まいを残す矢岳駅 |
肥薩線の標高最高地点は、矢岳駅の537㍍である。人吉が107㍍、大畑が294㍍だから随分と登って来たものだが、高度そのものはそれほど高いものではない。問題となるのはあくまでも標高差である。駅周辺には田畑と農家が点在している。昔ながらの駅舎に隣接した展示館では、往時貨物列車を始めとして多くの列車を牽引したD51型蒸気機関車を見ることができる。
肥薩線の観光列車は、人吉から吉松方面の下りが「いさぶろう号」、逆の上りが「しんぺい号」という。あえて列車名を変えているのは、この先の矢岳第1トンネルの入口に掲げられた扁額に関わりがある。熊本県と宮崎県の境に位置するこのトンネルは、全長2096㍍の肥薩線最長のトンネルであり、難工事のすえ貫通し、鹿児島本線は全線で開通することができた。この慶事を祝して、熊本県側の入口に逓信大臣山縣伊三郎が「天険若夷」と、宮崎県側に鉄道院総裁後藤新平が「引重致遠」と揮毫したので、それにちなんで吉松行きは「いさぶろう号」、人吉行きは「しんぺい号」と命名したのだ。なんとも気の利いた列車名ではないか。こういうセンスがJR九州にはある。
ところでこの難解な四字熟語の意味はというと、車内で配られたパンフレットによれば「天険若夷」が<天下の難所を平地のようにした>であり、「引重致遠」は<重いものを遠くに運べる>だそうだ。若夷は夷(い)の若(ごと)しと訓むのだろう。夷には、えびす(未開の異邦人)のほかに、平らげるの意味がある。鹿児島本線としての開通が、如何に当時の物流にとって重要で、人々の期待を担っていたかがわかるエピソードだ。
日本三大車窓 霧島連山の絶景
土木工事がまだ未熟だった明治時代には、トンネルをどれだけ短くできるかが勝負所だった。現在ならば麓同士を長大トンネル一本で抜けてしまうようなところを、短いトンネルとスイッチバックとループ線で高度を稼ぎ、これ以上無理という所にトンネルを設けて山越えを果たした。それが矢岳越えだったわけだが、これはただ単に土木技術の問題だっただけではなく、蒸気機関車にとって長大トンネルは無理だったことも考え合わせねばならないだろう。昨今のSLは無煙炭や重油を燃やして極力煙害を防いでいるし、そもそも客車の気密性が高く、乗客が煙に悩まされることはまずない。
電化以前の時代にあって、蒸気機関車がどれほどまでに嫌われていたかを知る人はすでにだいぶ少なくなった。汽車の旅は、それはもう難行苦行の連続であり、特にトンネルは最悪で、窓を閉めてもデッキから煙が流れ込んできて息苦しいこと限りなかった。夏、冷房もない頃に窓を全開にしておくと、煤や石炭殻が飛び込んでくる。私も幼い頃、車窓を眺めていると目の中に石炭殻が入ってしまい、涙では流れ落ちずに、目医者に洗い落として貰ったことがある。だから汚くて厄介な蒸気機関車などにはこれっぽっちも興味がなかった。蒸気機関車が再発見され、広く世間に人気が高まったのは、全国から姿を消した後になってからである。
矢岳第1トンネルに入った時、当時の人がどんな思いで乗っていたか。ここは想像力を働かせれば、容易に察しがつくだろう。もう二度とこんな汽車には乗りたくないという人もいたに違いない。外は漆黒の闇、薄暗い車内に漂う煤煙。暖かい煙は車内の上ほど濃いが、次第に下に降りてきて、後方へと流れていく。匂いもきつく、窒息しそうな2㎞。
右が飯盛山(846m)、中央やや左が 韓国岳(1700m)、その左雲を被っ た白鳥山(1363m)。高千穂の峰は 後方で見えていない。 |
トンネルを抜けた瞬間、あちらこちらで窓が開け放たれ、新鮮な外気を胸一杯に吸って人々は安堵する。そこに俄に視界が開けて、雄大な霧島連山が眼前に迫ってくるのだ。この風景は今見ても感動的だが、SL時代では尚更だったろう。目的地まではあと下るだけだ。
標高1700㍍の韓国岳(からくにだけ)を主峰に、右に飯盛山、その後ろに周辺に黄緑色のえびの高原、左には白鳥山や夷盛山(ひなもりやま)が連なる。眼下は川内川流域に加久藤盆地(えびの盆地とも)が広がる胸のすくような景観だ。日本三大車窓を謳うのも頷ける。観光列車「いさぶろう号」はここでも数分停車し、キャビンアテンダントからはご丁寧にも窓を開けて外の空気を吸うよう薦められる。勿論高原の空気を満喫して欲しいという意図なのだろうが、過去を知る者には、汽車時代の苦労が偲ばれる小粋なアドバイスに思えて仕方なかった。
日本三大車窓とは、ここ以外は信州姨捨と北海道狩勝峠だ。どこも素晴らしいが、信州の姨捨の前に広がる善光寺平は人々が多く住む開けた土地柄だし、北海道の狩勝峠は長い新トンネルが出来てからは標高が下がったこともあって、一番は昔と変わらないこの車窓であろう。ただどの車窓にせよ、蒸気機関車時代の苦労を想像しながら眺めると、感動もひとしおに違いない。なお、老婆心ながら、ここを訪れる際は「しんぺい号」ではなく、「いさぶろう号」をお薦めする。その理由はもうおわかりであろう。姨捨や狩勝峠の場合も同様である。
微かに見える桜島のシルエット |
パンフレットには天気がよければ桜島も見えると書いてある。確かに…うっすらとシルエットが浮かんでいる。キャビンアテンダントが「皆さんは幸運です」という。自分は雨男なので、ここで運を使い果たさなければよいのだがと思うが、これだけ綺麗だったのだから、まぁ、いいか。
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