黒部川の電源開発といえば、石原裕次郎・三船敏郎主演の映画『黒部の太陽』が有名だ。黒四ダム建設のために数多くの犠牲者を出したものの、不屈の努力によって北アルプスを掘り抜くという、戦後日本の高度経済成長を象徴する作品であり、そこには輝かしい将来に立ち向かう肯定的な人生観があった。
一方で吉村昭の『高熱隧道』(新潮文庫)は、日中戦争が厳しさを増し太平洋に戦端が開かれつつあるきな臭い時代に、黒三ダム建設のために大自然と闘う男達の、健気だが無謀ともいえる執念が描かれる、そら恐ろしい記録文学である。どちらも、従事した人々がいてくれたからこそ、今日の我々の暮らしが支えられていることを教えてくれるのだが、吉村が描く世界は、否定的な要素を含めつつ、それだけでは済まされない複雑な問題を投げ掛ける。黒部の光と影。
どうしても高熱隧道に行ってみたかった。
抽選
現在、黒四ダムへは3つのルートがある。今更言うまでもないが、有名な立山黒部アルペンルートは、大町ルートと立山ルートを繋いだもので、長野県信濃大町から富山県富山市を結び、年間100万人の観光客が訪れる日本を代表する観光地である。三千㍍を越えるアルプスの絶景を堪能するために、二つのケーブルカー、二つのトロリーバス、高原バスやロープウェイなどを乗り継ぎ、そこに至るためにバスや電車まで含めると、総額で10,850円かかることでも有名だ。高額だと批判されることもあるけれど、スイスの登山鉄道の方がよほど高いと思うのだが、それはさておき、いつ訪れても人で溢れているので、乗り継ぎに時間が掛かることは覚悟した方がよい。
さて、残りのもう一つがふつう観光客が立ち寄れない黒部ルートだ。ここに目指す高熱隧道がある。黒部川第三発電所・第四発電所のために造られたもので、関西電力関係者しか利用できないのだが、コネのない一般人でも方法が一つだけある。公募見学会に申し込むのである。
見学会は、5月下旬から10月下旬にかけて34回実施され、黒四ダムと下流の欅平の2カ所から出発する。それぞれ定員30名だから、年間2000人余りの人が参加可能だ。自由に休暇の取れない会社勤めには厳しいかもしれない。ただし知る人ぞ知る(換言すれば、あまり知られていない)見学会なので、せっせと応募ハガキを出してみる価値はある。
昨年は7月のとある回に当たった。あいにく集中豪雨で流れてしまったが。臥薪嘗胆の思いで、今年もハガキを出したところ、見事第2回に当選。梅雨の時期だが、トンネルに天気は無関係。心は舞い上がる。
集合
当選通知と共に送られてきた〈見学会参加のしおり〉には、
9時20分 黒部峡谷鉄道 欅平駅2階食堂集合
とある。その時間に間に合うためには、遅くとも富山地方鉄道・電鉄富山駅5時58分発普通宇奈月温泉行に乗り、黒部峡谷鉄道・宇奈月駅7時57分発の始発に乗り継ぐ必要があった。
黒部峡谷鉄道に乗るのは、実に54年ぶり。その時は途中の鐘釣駅までの往復だった。まだ小学校の低学年だった私は、「命の保証はしません」という伝説のトロッコには、正直乗りたくないという不安な思いでいっぱいだったが、いったん乗ってしまえば、次々に現れる急流と巨大なダムに目を奪われ、今でも風景が頭に浮かぶほど夢中になった鉄道である。日本の鉄道にすべて乗り尽くそうという身にとっては、このアプローチも楽しみの一つだ。
電気機関車牽引であるからには、トロッコ列車と 呼ぶのがふさわしい。 |
「トロッコ電車」の愛称で人気の高い黒部峡谷鉄道だが、鉄道愛好家としてはどうしてもこのネーミングに違和感を感じる。最近ではディーゼルカーのことも「このデンシャは○○行です」なんてアナウンスする鉄道員がいるくらいだから、電気で走るものを電車と呼ぶくらい我慢しなければいけないのかもしれない。だったらHVやEVも電車なんだなと突っ込みの一つでも入れたくなる。
それはさておき、線路幅が762㎜しかないナローゲージのトロッコ列車は、遊園地の乗り物のような可愛らしさとは無縁の、実によい面構えの重厚な豆列車である。森林鉄道のような軽便鉄道とも異なり、英国のロムニー鉄道と同じ本格的なナローゲージといえる。電源開発という重厚長大なプロジェクトを支える鉄道だからである。今も定期の旅客列車が片道12本あるのに対し、関西電力専用列車は7本走っている。
黒部ルート見学者には、公募見学委員会事務局の計らいによって、あらかじめリラックス車両が予約されている。客車は3等制で、壁も窓もないオープン型の普通客車、窓付きの特別客車、更に背もたれ付きのリラックス客車がある。トロッコというからには、オープン型がふさわしいだろうと、事前に連絡して、グレードダウンしておいた。ちなみに工事関係者は全員、リラックス客車に乗っていた。えっ?と一瞬思ったが、考えてみれば当たり前のことである。彼らは風景を楽しみに乗車しているわけではないのだから。
指定された1号車に乗車したのは、私ひとりだった。ホームを歩く観光客は、皆もの珍しそうにニヤニヤ笑いながらオープン客車を眺め、後ろの方に繋がれたリラックス客車へと向かっていく。この季節、寒さに震えながら、雨が降ればずぶ濡れになる車両に、何を好き好んで乗るのだろうと思っているに違いない。少しばかり恥ずかしい。が、右も左もすべての風景独り占めだ!
ヨーロッパの古城を思わせる新柳河原発電所(黒一) 赤い綺麗な鉄橋が特徴の黒部川第二発電所、どちらに も峡谷鉄道の引き込み線が繋がっている。 |
列車は定刻通り出発。最初のトンネルを抜けると緑深い谷に架かる真っ赤な新山彦橋をゆっくりと渡っていく。黒部の山は、思っていた以上に大きく険しい。このあたりは標高がそれほど高くなく樹木が鬱蒼と生い茂っているので、一見穏やかな風景に見えるが、見上げると覆い被さるように迫ってくる。橋を渡りきると、切り立った岩にくり抜かれたトンネルが待っている。
宇奈月ダムや新柳河原発電所、うなづき湖の脇を列車は進む。対岸には宇奈月温泉へ温泉水を送る導水管が続いている。源泉は黒薙温泉なのだそうだ。人造湖が猿の生活圏を変えてしまわぬよう、猿専用の吊り橋まである。人間さま用と違って欄干がない。とても歩けるようなものには見えなかった。湖面はしだいに細くなって、黒部川らしい流れになってきた。水の色はコバルトブルーである。
宇奈月から25分、列車は黒部川からいったん離れ、支流の黒薙川に沿って進む。
ところで黒部は渓谷ではなく峡谷である。それほど谷の両脇が切り立った壁となりV字谷を形作っているのだが、中でも黒薙川は最初に現れる峡谷といえる。この黒薙川に架かる橋が、ポスターでもお馴染みの後曳橋だ。高さ60㍍、長さ64㍍の水色の鉄橋が、一体どうやって掘りはじめたのかと思われるような足場のない岩壁に穿たれたトンネルへと続いている。
黒薙川の上流には、秘境の一軒宿の黒薙温泉と黒薙発電所がある。発電所までは黒薙支線が続いているが、残念ながら旅客扱いはしていない。
トンネルを抜けると再び黒部川に戻り、川岸に大小様々な白く綺麗な岩が転がっているのが見える。川の水の色は、清流本来の色に加えて、太陽光が水中の岩に反射して混ざり合い、美しいコバルトブルーになるのだそうだ。
宇奈月から黒部川右岸をずっと遡行してきたトロッコ列車の前方に、やがて寺の鐘のような巨大な山が二つ見えてくる。東鐘釣山と西鐘釣山である。渓流はその間を流れている。二つの山に穿たれたトンネルの間に鐘釣橋が架かり、ここからは左岸を遡って行く。辺り一帯は錦繍関と呼ばれ、紅葉の名所だという。高山に雪が降り、あたり一帯が紅葉に包まれる季節に再訪したいものだ。
鐘釣駅から先が未乗区間である。55年前の記憶があるのはここまでだ。新たに出来た新柳河原発電所は別にして、記憶に大きな違いがなかったのは驚きだった。思い出がごちゃ混ぜになっていたのは、二つの鐘釣山の間に後曳橋が架かっていると勘違いしていたこと。どちらも印象深い絶景ポイントなので、半世紀の間、トロッコ列車の象徴として記憶されていたのだろう。
絶壁に張り付いた黒薙駅(右)を出ると、列車は すぐに後曳橋を渡り、トンネルに吸い込まれる。 |
トンネルを抜けると再び黒部川に戻り、川岸に大小様々な白く綺麗な岩が転がっているのが見える。川の水の色は、清流本来の色に加えて、太陽光が水中の岩に反射して混ざり合い、美しいコバルトブルーになるのだそうだ。
宇奈月から黒部川右岸をずっと遡行してきたトロッコ列車の前方に、やがて寺の鐘のような巨大な山が二つ見えてくる。東鐘釣山と西鐘釣山である。渓流はその間を流れている。二つの山に穿たれたトンネルの間に鐘釣橋が架かり、ここからは左岸を遡って行く。辺り一帯は錦繍関と呼ばれ、紅葉の名所だという。高山に雪が降り、あたり一帯が紅葉に包まれる季節に再訪したいものだ。
鐘釣橋とスイッチバック式鐘釣駅 |
鐘釣駅から先が未乗区間である。55年前の記憶があるのはここまでだ。新たに出来た新柳河原発電所は別にして、記憶に大きな違いがなかったのは驚きだった。思い出がごちゃ混ぜになっていたのは、二つの鐘釣山の間に後曳橋が架かっていると勘違いしていたこと。どちらも印象深い絶景ポイントなので、半世紀の間、トロッコ列車の象徴として記憶されていたのだろう。
ただ一つ大きな変化があった。半世紀前は今ほど、雪除け・落石除けトンネルがなかったことだ。トンネルは、谷底側にH鋼で柱を建て上部を塞いだだけのもの。これがあるおかげで、冬期も落雪から線路を守り、架線や線路を取り外す区間を少なくすることが出来るようになったのだろう。それによって渓流の眺めが大きく損なわれるものではない。人の目が不思議なのは、隙間から眺める風景であっても、脳が上手に障害物を情報処理して、ちゃんと美しいと認識することだ。ただし、カメラはそうはいかず、いつまでも柱が写り込む。車窓からのシャッターチャンスは確実に難度が上がったと思う。
冬期歩道とその内部 黒部の冬は厳しく、深く積もる雪のために峡谷鉄道は 12月から4月までは運休となる。その間も電力関係者 は宇奈月・欅平間20.1㎞を通わなければならない。そ のために用意されているのが冬期歩道。こんな狭い穴 蔵を6時間掛けて歩くのだという。 |
万年雪のある鐘釣から先、黒部川の川幅はますます狭まり、見上げれば首が痛くなるようなV字谷となる。第二発電所に送水するために造られた小屋平ダムの脇を通って、9時12分、終点欅平駅に着く。この先、峡谷は更に狭まり、うねるような急流となるため、もはや線路を敷くような場所はどこにもない。
黒部川第三発電所のすぐ上に造られた欅平駅。 土地が狭いため、二列車が縦に並ぶよう、長い プラットフォームが設けられている。 |
付録
54年前に乗車したトロッコ列車 平成6年まで使われていた。 (北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅前広場に展示) |
黒部峡谷鉄道100周年記念レリーフ 新旧電気機関車・新柳河原発電所・後曳橋 (宇奈月駅改札口に展示) |
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