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2014年10月1日水曜日

鉄道王国の新世代路面電車

富山の鉄道

 富山は鉄道王国なのだそうだ。ところどころに貼られたポスターにそう書いてある。確かに黒部・立山と市内を結ぶ富山地方鉄道があり、その先には絶景路線で有名な黒部峡谷鉄道が控えている。おいそれと乗ることは出来ないが、鉄道ファン垂涎の立山砂防工事専用軌道という驚愕のトロッコまである。新幹線だってもうすぐ開業する。斜陽の鉄道界にとって、確かに富山は異彩を放っている。
 
宮脇俊三と富山港線

  鉄道の「時刻表」にも愛読者がいる。
 
で始まる名作『時刻表2万キロ』の第1章は富山が舞台だ。宮脇は時刻表の愛読者だから、絶妙な列車の乗り継ぎプランを考え、途中駅で分割併合を行う列車の運用を予想して、効率のよい汽車の旅を目論むが、時に予想が外れ、失敗することもある。そんな我が身を愚かしく思いつつ興じている姿に、大人の余裕を感じ憧れる読者が数多くいる。
 さて、神岡線の乗り継ぎに失敗し予定変更を余儀なくされた宮脇は、次の富山港線を乗り潰す方法として、タクシーを利用して終点から折り返す列車に飛び乗ろうと考えた。富山港線は富山と岩瀬浜との間を往復するだけの路線なので、富山で乗り遅れても岩瀬浜に先回りすれば完全乗車は可能だからだ。しかも その日は休日だから道も空いているだろうと高を括った。富山と岩瀬浜の間は、県道と富山港線が並んで走っている。列車で富山に着いた宮脇は、タクシー乗り場に急ぎ、すぐにタクシーで行ってしまった電車を追いかけたのだが、あいにくと信号が多く、しかも急いでいる時に限って赤信号につかまるということで、あと一駅の東岩瀬で諦めざるを得なかった。

  東岩瀬の改札口は岩瀬浜寄りにある。古さびた
 ホームの端に立って北へ伸びた単線の線路上を見
 すかすと、いましも岩瀬浜を発車したばかりの焦
 茶色の電車がこちらへ向かってくる。私はそれに
 乗って富山へ引き返した。東京か大阪で使い古し
 た国電の車両であった。

 たった一駅を残して撤退する宮脇。努力もむなしく、乗車距離は伸びたものの、いつか再びここへ来なければ完全乗車は達成できない。しかも使い古しの国電が走るような、面白くでもない路線である。それでも文句一つ言わないところが大人の嗜みであろう。宮脇は1年半後、四国からの帰りに東岩瀬・岩瀬浜間に乗車する。岩瀬浜の駅から先は貨物線が続いていて終着駅らしくなかったと記されている。

 このぱっとしない富山港線は大赤字だったので、JRは廃線にする予定だった。そこで立ち上がったのが富山県・富山市それに地元の企業である。富山港線をLRT(Light rail Transit=軽量軌道交通)化し、富山駅北側の道路に併用軌道を新設して、市街地の活性化に役立てようと計画する。そうして設立されたのが、第3セクター、富山ライトレール株式会社だ。

富山ライトレール

 富山ライトレールを走るLRV(Light Rail Vehicle=軽量軌道交通用車両)の愛称はポートラムという。ポート(港)とトラム(路面電車)を掛け合わせたもので、かつての冴えない富山港線とは一線を画すセンスの光るネーミングだ。
 富山駅は現在建て替え中で、構内は臨時の通路が入り組み、工事現場さながらの状態である。北口改札も仮の設備でなんの風情もないが、その駅前におしゃれなポートラムが停車して、回りには帰宅途中の人々で賑わっていた。
 2両連接車のポートラムは、万葉線のアイトラムそっくりだ。それもそのはずで、全国のLRVは新潟トランシスという会社が一手に製造を引き受けているからである。しかもすべてドイツ・ボンバルディア社からライセンスを受けてのことだから、日本の鉄道愛好家としては少し複雑な心境だ。
 万葉線と同じように、駅前の賑やかな道路部分はすべて単線である。旧富山港線から離れて路面電車としたところは今のところ単線なのであるが、今後道路の拡幅がなされるところには複線化の予定もあるという。
 路面を走るLRVの乗り心地はすこぶる良い。加速は滑らかだし音も静かなので、乗っていて疲れない。座席も工夫されていて、通路を挟んで2人掛けと1.5人掛けのクロスシートとなっている。この1.5人掛けが秀逸で、子供連れなら2人並んで座れるし、1人だったらゆったりと荷物も置ける。
 最初の停留所はインテック本社前、有力な出資企業に敬意を表して名付けられた名前かと思いきや、今はやりの命名権を1500万で購入したのだそうだ。考えてみれば当たり前だ。すぐ隣には同じ出資企業の北陸電力本店のビルもあるのだから、一社を優遇するはずがない。
 起点からの1㎞区間が新設された路面電車区間であり、奥田中学校前からが旧富山港線の線路を走る鉄道区間となる。ポートラムがいかにもLRTらしいのは、市街地は路面電車として、その先は郊外電車として、両方の役割を併せ持っているところである。だから鉄道区間では制限速度が20㎞/hアップし、60㎞/hで軽快に走行する。その効果は絶大で、富山港線時代よりも駅数が3つ、列車交換可能駅が1カ所から4カ所に増え、単線ながら日中15分間隔の高頻度運行を実施しながらも、所要時間がほとんど変わらずに済んだ。
 ただし窓に広がる風景はなんの変哲もない。工場、宅地、空き地、道路沿いの看板など、港が近いだけに住む人は多いのだろう、雑多な感じの風景だ。宮脇俊三が書いたように使い古した国電が走っていそうな場所である。そのような土地柄の中をポートラムは色鮮やかに疾走する。7編成在籍しているポートラムは七色の違った塗装が施されているのだ。
 終点の岩瀬浜は、周囲に店もない寂しいところだった。ただホームは綺麗に整備されていて、一つ屋根続きでバスに乗り換えられるように工夫されている。お客様視点で作られているところが、またポートラムの人気に繋がっているのだろう。
 宮脇俊三がこの地を訪れてから25年以上が経ち、だいぶ変わったところもある。今では岩瀬浜駅の外れに車止めが設置されて、ちゃんとした終着駅になっている。宮脇俊三は鉄道に乗るためだけに旅を続け、その点では自分も変わらないつもりなのだが、どうやら私の方が欲深いようで、少しだけ観光もしてみたくなる。知人から教わったことだが、ここには歴史的な町並みが残されているのである。
 
 岩瀬は北前船で栄えた所だ。船による交易は、倍々に儲かるので「バイ船」と土地では呼ぶのだそうだ。その廻船問屋が大町通りに残されている森家である。バイ船が扱う物資で巨万の富を得た森家は、贅を尽くした屋敷を建てた。それが国の重要文化財に指定されたのをきっかけに、周辺の歴史的景観を保全しようとしているのである。岩瀬浜から東岩瀬の間は1.5㎞ほどなので、ポートラムを2本遣り過ごす程度で散策が出来る。夕方になってすでに閉館の時間だろうけれども、せめて町並みの風情だけでも触れてみたかった。
 電柱や電線が埋設された大町通りには江戸時代の風情が漂っていた。森家の屋敷は明治11年の建築だというが、雰囲気を壊さぬよう近年の建物も昔の姿で建築されている。ここは商店街なので銀行も営業しているが、北陸銀行の建物も格子や木の看板を設えた昔風建築だ。北前船のモニュメントが飾られた広場には明治のガス灯風の灯りが光を放っている。岩瀬はポートラムで訪れることのできる歴史的散歩道だった。
 東岩瀬の駅まで歩いてきた。宮脇俊三が悔しい思いをした駅である。『時刻表2万キロ』で「岩瀬浜寄りにある」と書かれた改札口のある駅舎は、今は休息所としてのみ使われている。白熱球の灯った駅舎をよく見れば、入り口の柱やガラス窓が凝った作りになっている。それなのに「古びたホーム」としか書かれていないのはどうしてだろう。呆然と岩瀬浜から来る国電を眺めただけで気付かなかったのか、それとも後になって観光のため造り替えたのかはわからない。宮脇ファンとしては、呆然として気がつかなかったのだということにしておこう。
(2014/10/1乗車)

コミック列車の似合う町

まずはクイズから

問1)アンパンマン、ゲゲゲの鬼太郎、忍者ハットリくん、ドラえもん、サイボーグ009に共通することを答えよ。

 漫画の主人公の描かれたラッピング列車が全国各地で活躍している。ということで答えは漫画列車である。町興しの一環であったり、ローカル鉄道の活性化のためであったりと目的は様々だが、いずれも著名な漫画家に縁とゆかりのある土地で乗ることができる。それほど漫画に親しんでいない私には、乗り尽くしの旅の途中の予期せぬ出会いであったが、郷土の誉れを背負って走る列車には大変親しみを感じることができた。
 今回はそんな漫画列車が登場する話である。それでは次の問題だ。こちらは少し難しいかもしれない。

問2)それぞれどの路線で走っているか。線名を答えよ。

 解答はこのブログのどこかに示すことにして、話を先に進めよう。

散居村を行く城端線

 珍しく「大人の休日倶楽部」会員限定パス(東日本・北陸)利用期間中に休みが取れた。旅行客閑散期に設定されている超割引パスなのだが、気軽に有給休暇がとれない我が身にとっては、いつも悔しい思いをしていた。降って湧いたようなこのチャンス、「今ここで行くしかない」と思いつつ、「はて、どこへ行こうか」ということで、来年3月に北陸新幹線が金沢まで開業すれば激変するであろう富山を訪ねることにした。
 新幹線の開業によってまた並行在来線がJRから切り離される。今回は北陸本線の直江津・金沢間が第3セクター化され、県が有力出資者のために新潟・富山・石川に3つの鉄道会社が誕生する。JR限定の青春18切符は使えなくなり、この割引パスだってどうなるかわからない。今回は超割引パスが使える最後のチャンスかもしれないのだ。
 休日初日の朝、上越新幹線で越後湯沢に行き、ほくほく線経由のはくたか2号で高岡に着いたのは10時27分であった。東京からは3時間半の旅だ。随分と近くなったものだが、鉄道が飛行機と戦えるギリギリのラインであることに変わりはなく、JRが北陸新幹線開業を急ぐ理由もわからなくはない。開業後は1時間短縮されることになり、航空機から鉄道に人が戻ってくると考えられている。しかし一方で味わいのある在来線がまた一つ無くなってしまう。車窓ファンにとってはとても残念でならない。
 高岡は鉄道の要衝であり、北陸本線の支線、城端線と氷見線への乗り換え駅となっている。この2本のローカル線は、新幹線とは直角に交わっているので、本線がなくなった後もJR西日本にとどまることになっている。こうして本線がなくなり、ポツンと取り残される在来のローカル線がところどころに生まれている。青森の大湊線と八戸線、岩手の花輪線、長野の小海線。今まではJR東日本にだけ見られた飛び地のようなローカル線が、今後増えていくことだろう。
 さて、今日最初に乗るのは城端線である。ホームの外れに車庫があり、たくさんのカラフルな気動車が停まっている。そのうちホームにやって来たのは青地に漫画が描かれたキハ40で、正面の貫通ドアに描かれていたのは忍者ハットリくんだった。高岡は藤子不二雄ゆかりの土地である。
 城端線は高岡から城端まで、全長29.9kmの単線非電化のローカル線だ。沿線に砺波市があり、チューリップ畑が有名である。列車は高岡を出発するとすぐに北陸本線から離れて、民家の軒先を進んでいく。その先、列車は神社の境内の脇を通り、明らかに家庭菜園と思われる猫の額のような畑と民家の前を通り過ぎる。この風景との距離感がローカル線の楽しみの一つだ。しばらく行くと新幹線新高岡駅の建設現場を通過する。現在城端線の新駅も建設中だ。
 この地方の屋根瓦は黒光りしていて、釉薬をかけてから焼かれたものが多い。また落雪を防ぐために瓦に取り付けられた雪止めは、東京なら一段のところ、三段になっている。雪国だから当然だろうが、かと言って越後のように床が嵩上げされているわけではない。
 更にこの地方の景観として特徴的なのは、農家が集落を作らず、一軒一軒散らばった散居村になっていることだ。各家は日除け風除けの高い木立に囲まれている。隣家との間は田圃が隔てており、家屋敷は比較的大きく、豊かな土地であることを窺わせる。車窓を木立に囲まれた農家が次々に通り過ぎていく。なんでも日本最大の散居村であり、砺波平野全体では7,000戸にものぼるのだそうだ。今では廃線となってしまった出雲地方の大社線でもかつて同じ風景を見ることができた。
 途中駅で上り列車と交換する。向こうも忍者ハットリくんだが、絵柄が少し異なっていて、更に城端ラインとかかれたラッピング車両が連結されている。
 油田という珍しい名前の駅に着いた。「あぶらでん」と読む。はたしてこんなところから石油が出るのだろうか。かつて秋田や新潟に油田があったと聞いたことはあるが。
 沿線最大の駅は砺波である。日本各地で見る運送用トラック「TONAMI」がここにも停まっていた。たしか本社はこの地方だったはずだ。
 列車は約1時間ほどで終点城端に到着する。城端は風情のある終着駅だった。乗客はさほど多くはなく、しかも簡易委託駅なので駅員がいて、写真を撮ろうとする私をじっと待っている。プレッシャーを感じ、そそくさと改札を済ませて、駅前広場に出ると、数名の乗客は全員同じバスに乗るようである。すぐにバスはやってきた。「城端~白川郷シャトルバス」「世界遺産バス」とかかれている。迂闊なことにここが白川郷の最寄駅であることを忘れていた。古い木造の駅舎は中部の駅百選に選ばれている。
 世界遺産を前にしながら、そのまま高岡に引き返す者などいる筈もない。相変わらずアホなことをやっているなあと思いつつ、終着駅らしさを求めて駅の周囲を散策する。駅の外れまで来ると、車止めの先に今降りたばかりのキハ40がポツンと停まっている。こののんびりとした雰囲気がたまらない。城端線を制覇した記念に祝杯でも挙げたい気分だが、あいにく駅には売店もコンビニもない。付近には店もまばらで、お酒を扱っていそうな店は一切なかった。少しもの足りない思いを抱きながら、高岡の駅で購入した鱒ずしを食べながら、列車の出発を待った。

万葉線の由来、そして今

 高岡は越中国の国府・国分寺があった由緒正しき歴史の町である。『万葉集』に数多くの歌を残した大伴家持が国司としてこの地に赴任したことから、高岡は『万葉集』ゆかりの地となり、ここを走る鉄道にも愛称として「万葉線」と名付けられた路線がある。
 万葉線の歴史は少し複雑だ。戦後富山地方鉄道が敷設した軌道が発端となり、加越能鉄道が引き継いで路線の統廃合を経たものの、モータリゼーションのあおりを受けて一旦は廃線の危機が迫る中、長年にわたる存続のための努力が実って、平成14年から第三セクター、万葉線株式会社として生まれ変わった。
 万葉線は歴史を感じさせる名前とは裏腹に、軽量軌道交通(Light Rail Transit=LRT)という新しい概念を採り入れた鉄道としても有名だ。JRローカル線が苦戦する中で、地方の中小都市では軽快な電車が活躍し始めている。
 2011年、JR高岡駅が橋上駅として生まれ変わり、今年の春、ステーションビルが竣工されたことに伴って、万葉線が100mほど伸長されてJR高岡駅と直結し、乗り換えがスムーズになった。改札を抜け、広々とした瀟洒なコンコースに設置されたエスカレーターを1階に降りれば、すぐ目の前に新しい万葉線の停留所がある。
 そこに現れたのが、真っ赤なボディーのMLRV1000系、愛称アイトラムだ。真っ白な新しい停留所との取り合わせが何とも日本離れしている。まるでヨーロッパの都市にでも来たような気になる。それもそのはずで、この車両はドイツのボンバルディア社から技術提供を受けて製造されたものなのだ。
 LRTは、都市交通として利用しやすい路面電車の良さを活かす一方で、時代遅れとなっていた路面電車車両の欠点を克服した画期的な鉄道だ。おもにヨーロッパの中核都市を中心に発達した技術である。驚くほどの低床構造で、しかもフルフラット化されている。この特殊車両をLRV(Light Rail Vehicle)という。これなら路上から乗車するのも簡単だ。
 LRVの車輪はボディーに覆われてあまりよく見えない。2両編成に見えるが、つなぎ目の幌の下の部分には台車があって、二つの車体が同じ台車に乗る連接構造になっているはずなのだが、残念ながら外からはよくわからない。乗車すると座席の下に大きなタイヤハウスがあって、そこに車輪が潜んでいることは想像がつくが、車軸はどうなっているのだろうと疑問は膨らむばかりだ。想像される車輪の大きさからすると、車軸はどうしても床よりも上になければならない。もしも床の下に車軸が通っているなら、余程車輪の直径は短いに違いないが、そのような小さな車輪で、素晴らしい加速と乗り心地が実現できるはずがない。まさに魔法のような車両なのだ。詳しい構造はとても文章では書き表せないが、日本人が思うほどには新幹線技術が世界で高く評価されていないように、路面電車分野でも日本は大きく遅れをとってしまった。誠に残念なことである。
 ステーションビル1階にある高岡駅を出ると、軌道はすぐに単線となって広いメインストリートに入っていく。片側2車線の堂々とした道路の中央に単線の路面電車軌道が走っている。お互い邪魔することなく、ここでは自動車と路面電車が完璧に共存しているのだ。富山県は各世帯あたりの自動車保有率で全国一位二位を争うマイカー依存度の高い土地柄だから、この共存のあり方は重要なポイントである。どうして複線ではなく単線なのかは、おそらくローカルかどうかの問題ではなく、邪魔せず邪魔されずに定時運行するためのものなのだろう。
 最初の末広町電停を過ぎ、片原町交差点で 右折すると、すぐ目の前に青いトラムが待っていた。車内にいた親子連れが「ドラえもんだ!」と声をあげる。ここにもコミック列車が走っていた。色といい丸みを帯びたボディーラインといい、確かにドラえもんそっくりである。しかも乗降口はピンク色でどこでもドアそっくりである。片原町の停留所には交換施設があり、こちらがやってくるのを待っていたのだ。それにしても色鮮やかな電車達で、見ていて楽しくなる。
 片倉町の先、坂下町に交換施設はなく、その先電停ではないところに交換施設があった。高岡駅からほぼふた停留所ごとに交換施設がある。広小路で国道の方が左折して行き、万葉線はそのまま真っ直ぐに県道を進んでいく。ここからは道幅が広がって片側2車線のまま万葉線も複線区間になる。電停ゾーンは道路側が片側1.5車線になるものの、市の繁華街からも少し距離があるために交通量は少なめのようである。
 万葉線には昭和42年製の旧型路面電車も走っている。複線区間が尽きる米島口には車庫があり、冬場に活躍するラッセル車が停まっていた。米島口からは一旦専用軌道となり、進路を東に変えながら上り坂となって、JR氷見線を跨いでいく。能町口で再び併用軌道にもどるが、ここからは風情もかわって住宅街となる。それほどの住宅密集地ではないので、専用軌道でも良さそうな感じだが、土地の取得にはやはり資金がかかるのであろう。自動車の数がさほど多くないところを単線の路面電車が進んでいく。
 吉久停留所を過ぎると、万葉線は道を外れて専用軌道区間に入る。周囲は川と工場地帯と住宅が点在する、どちらかと言えば殺風景な地域である。
 ヨーロッパのLRVは、繁華街のある市街では路面電車として、また郊外になるとそのまま通常の鉄道として、どちらにも対応可能な優れものとして開発された。従って郊外に専用軌道のある万葉線はまさにLRVが活躍する条件にぴったりの路線なのである。しかも六渡寺から終点の越の潟までは、法律上も路面電車のような軌道ではなく、歴とした鉄道として認可されている。
 ただここで疑問が生じる。万葉線には旧型の路面電車も走っている。果たして鉄道法上、路面電車が軌道ではなく鉄道を走っても問題は生じないのだろうか。どうでもいいことだけれど。
 庄川を柵のないガーター橋で渡るのは、少しばかりスリリングだ。一瞬脱線したら沈む前にどこから逃げようかと考える。
 進行左側前方に、美しい巨大な斜張橋が見えてくる。新湊大橋である。富山新港の入り口に架かる自動車専用橋であり、万葉線は越の潟で行き止まりとなる。その先は県営の渡し船である越の潟フェリーが対岸の堀岡と結んでいる。万葉線の全列車と全フェリーは、わずか3分の接続時間で連絡し、対岸まで移動可能となっている。
 越の潟の停留所ではたくさんの人が電車を待っていた。みなそれぞれカメラを抱えている。なにごとだろうと思ったが、こちらはこの先次の訪問先が待っているので先を急がなくてはならない。アイトラムの写真を撮ったら、同じ電車で引き返そうと思ったが、ドアは開いているものの誰も乗ろうとはしない。まだ乗ってはいけないのかなとためらううちに、電車はドアを閉めて出発してしまった。「しまった! このあとの列車接続に響くなあ」と思っていると、大勢の人を率いているバスガイドさんが、「皆さん。次にお待ちかねの電車が参りますよぉ」と言う。ここでようやく思い当たった。
彼らは先程片原町ですれ違ったドラえもん号に乗る観光客だったのだ。それならこちらも便乗しようということで待っていると、正面にドラえもんの顔が描かれたアイトラムがやって来た。まさかここでもコミック列車に乗れるとは思わなかった。ホームで待つ観光客の一群は我先にと車内に雪崩れ込んでいく。最後になって、出遅れたのび太のように、どこでもドアからドラえもんの世界に入って行く。天井を見上げると、そこにはタケコプターで空を飛ぶドラえもんの姿があった。

注)後で調べてわかったことだが、幌の下に台車はなかった。ふつうは安定性を確保するために1車体に2軸4輪のボギー台車が2つ付いているものだが、アイトラムでは1車体に1つの台車しか付いていない。従って2両編成に見えるが、連接して初めて1両分となるような台車構造であることがわかる。


帯に短く襷に長い絶景路線

 ドラえもん号を楽しんだために、高岡駅まで戻ってしまうと氷見線には間に合いそうもない。幸いなことに万葉線と氷見線とは高岡から能町まではほぼ並行に走っているので、万葉線の新能町から氷見線の能町まで歩くことにした。地図で見ると、能町駅は側線が何本もあるかなり広い駅である。付近は工業地帯なので、貨物の仕分けをする駅なのだろう。踏切を渡り、しばらく歩くと能町駅はあった。無人駅だった。
 氷見線は高岡と氷見を結ぶ全長16.5㎞のローカル線だ。一日上下それぞれ18本走っているので閑散路線とは言い難く、そこそこのローカル線である。日中は1時間に1本走っているのだから、まずまずとすら言っても良いだろう。しかしながら、廃止寸前だった万葉線が15分間隔で走っていることを実感した今となっては、氷見線が地元住民から見放されてしまうのもわかるような気がする。しかも能町・高岡間に駅はわずか一駅しかない。万葉線の停留所は10カ所あるにも関わらずである。地方のローカル線は、地元密着という視点からは、帯に短し襷に長しなのである。

 誰もいないホームに佇むと遠くを万葉線の旧型路面電車が行くのが見えた。あのガーター橋の下、雑草が生えてレールの見えなくなった所を氷見線は走っている。しばらくすると、高岡方面から氷見行のガラガラのディーゼルカーがやって来た。鋼鉄製、重量級のキハ47、忍者ハットリくん号である。あらためてLRTという概念の先進性が納得できる。私の大好きな重量級の鉄道は、中小都市の地域密着形鉄道にはなり得ないことを改めて思い知らされた。このガランとした能町駅の空間に、爽やかだけれどどこか侘びしい秋の風が吹き抜けた。
 氷見行はしばらく工業地帯を走り、それが尽きると富山湾が開けてくる。右手後方に先程訪れた越の潟の新湊大橋が見えた。午後の日差しが傾いて来る。この先に以前から行ってみたかった雨晴の駅がある。源義経が東北に逃亡する際、雨が晴れるのを待ったという伝説にちなむ土地だが、有名なのは富山湾越しに見える立山連峰である。空が澄み渡る冬の晴れ間にしか見えず、年に数回とも言われている。雨男の自分だから、いくら雨晴らしでも天気は良くないだろうとは思いつつ、写真で見た絶景の場所にはどうしても行ってみたかった。
 列車は雨晴に近づくにつれて荒磯の脇を通っていく。海が荒れたらすぐに運休になりそうな風光明媚なところである。先程のLRTのことなどすっかり忘れて、やはり列車の旅はいいもんだと思うところが現金なものである。立山連峰は見えないけれど、海に浮かぶ女岩の向こうに能登半島が広がっている。
 雨晴の駅周辺は、キャンプ場や旅館があって、シーズンには多くの人たちで賑わうようだ。しかし列車で訪れる人は少ないという。何と言っても、富山県はマイカー所有率が全国トップクラスなのだから仕方ない。
 雨晴からは海岸から遠ざかって、ほんのわずかで終点氷見に着く。氷見海岸に行ってみたい気もするが、折り返しの列車に乗らないと今日の計画が全うできなくなる。改札を出て駅舎の写真を1枚撮っただけで、再び ホームの戻ることにする。
 先程見たばかりの景色をもう一度眺めながら,再び能町まで戻ってきた。能町から高岡までが未乗区間なので、しっかり見ようと思う。途中の越中中川からは大量の高校生が乗ってきた。県立高岡高校の生徒達だ。たった一駅区間だけ満員列車となって、あっという間に高岡駅1番ホームに滑り込んだ。
 高岡は大伴家持と藤子不二雄の町だった。そして鉄道の今と未来を考えさせる町でもあった。もうすぐ新幹線が開業し、高岡にとってまた新しい時代がやってくることだろう。数年後にはどんな変貌を遂げているのか、興味津々である。

(2014/10/1乗車)


クイズの答え)アンパンマン:土讃線、ゲゲゲの鬼太郎:境港線、サイボーグ009:石巻線

2014年4月1日火曜日

スイッチバック讃歌

篠ノ井線 姨捨(おばすて)駅

特急 しなの6号 名古屋行

善光寺平を見下ろしながら、

特急は姨捨駅(左)の脇を通
過してしまう       
 駅に降り立った時、焚き火の香ばしい薫りがした。更科の里では、農作業を間近に控え、ところどころで枯れ草を燃やしている。春は確実にやって来ていた。
 姨捨駅は日本三大車窓の一つに数え上げられ、善光寺平(長野盆地)を見下ろす冠着山の中腹に位置しているだけあって、素晴らしい眺望が楽しめる。ホームのベンチはすべて線路側ではなく外を向いている位だ。松尾芭蕉が「田毎の月」と詠った棚田もすぐ向かいの斜面に広がっている。
 この三大車窓は一体誰が言い出したのかはわからないが、九州・肥薩線で矢岳を越える際に見える霧島連山の眺めと、北海道・根室本線の狩勝峠越え(ただし廃止された旧線に限る)で見える十勝平野の眺めということになっている。それにしても雄大な風景はほかにもあるはずで、どうしてこの三つなのか。
しなの6号遠望

篠ノ井からおよそ70mほ
ど登って来たところ。姨
捨まではあと120m上らな
くてはならない。後方、
白銀に輝くのは戸隠山。
(姨捨から撮影)
 共通するのはいずれも峠を越えて突然ひらける雄大な眺めという点であろう。ということは蒸気機関車時代の人々の思いが関係していそうである。峠を登る機関車は凄まじいほどの煤煙を吐き出す。更にその先に待ち構えているのはトンネルだ。窓を閉めても通路を煙が漂い、ハンカチで鼻と口を塞いでも煙の匂いと酸欠で息苦しい。もう勘弁してくれと思った時、トンネルを抜け出した列車は雄大な景色の中を、下り坂で煙を出さなくなった機関車に引っ張られながら軽快に走っていく。爽やかな風はこの景色に酔った人々にさぞ快かったに違いない。

 在来線の多くは蒸気機関車時代に敷設されたため、とびきり勾配に弱い機関車のために様々な工夫が凝らされている。その一つにスイッチバックがある。姨捨は姨捨伝説や松尾芭蕉の「田毎の月」だけでなく、スイッチバックでも有名な駅である。
桑ノ原信号場

本線は坂になっているが、左右
の引き込み線は水平に設置され
蒸気機関車でも動き出せるよう
工夫されている。      
 篠ノ井線は善光寺平が尽きる稲荷山駅から先には25パーミルの勾配が続く。パーミルとは千分率のことで、1000mにつき25m登る勾配であり、人や車にはさほどでもないが、蒸気機関車や貨物列車にはとても手強い坂となる。また篠ノ井線は特急も頻繁に通る重要幹線でありながら、複線化は見送られているため、駅間が長いと列車交換に困るので、その対策として信号場を設置し列車同士が行き違えるようになっている。
 ところが馬力の弱い蒸気機関車は坂道発進が出来ないので交換施設は水平に設置する必要がある。そこで本線は坂のままとし、信号所は水平を確保して、蒸気機関車は平らなところで勢いをつけてから登攀できるようにしたのが、桑ノ原信号場のようなスイッチバックなのである。稲荷山から登ってきた列車は、桑ノ原信号場で一旦左側の引き込み線に入る。ここでスイッチバックして本線を横切り右側の引き込み線で待機し、下ってくる列車の通過を待つ。列車が通過したら、助走をつけて本線を再び登って行く。蒸気機関車が廃止された後も、重量のある貨物列車にとっては必要な施設である。
 桑ノ原信号場をノンストップで通過すると電車は次第に高度を稼ぎ、あたりの家が次第に小さくなっていき善光寺平が広がっていく。脇には長野自動車道が通っているが、あちらは既により高所を走っている。やがて前方に姨捨駅が見えてくる。

右上に姨捨駅見えてくる。中継信号機が斜めとなっ
ているのは、この先の側線用信号機が<黄=注意>
となっているため。本線側は<赤=停止>    


姨捨駅へは一旦左側の側線に入り、バックして右手
前に進んでいく                

運転手は移動せず、窓から身を乗り出して安全確認
をしながらバックする             

逆推進運転中に下り普通電車が近づいてくる


乗車してきた上りが冠着に向かって出発したあと
今度は下り長野行が先程の側線に向かってバック
していく                  
バックを終えて、姨捨駅脇を長野に向けて下って行
く普通電車。向こう側斜面に棚田が広がる    

 この日、姨捨駅から見る戸隠や飯縄の山々は残雪で白く輝いていた。眼下には善光寺平すべてが見渡せる。手前の棚田に水が湛えられるまでにはまだ日があるようだ。秋の実りの季節には黄金色の稲穂がそよぎ、さぞ美しいことだろう。再び違う季節にここを訪れたいと思いつつ、次の下りを待った。
(2014/4/1乗車)

信越線 関山駅・二本木駅

関山駅

かつては左側に伸びる先に関山
駅があった。本線は横断歩道橋
のところで右にカーブしている
 鉄道の近代化とともにスピードアップの妨げになるスイッチバックが次々と消えていった中で、信越線にたったひとつだけ取り残されたスイッチバック駅がある。
 妙高高原駅から高田平野の外れにある新井駅までは21km、標高差は約450m。25パーミルほどの勾配で下って行く。間には関山と二本木の二駅があり、どちらもスイッチバックの駅だった。昭和60年(1985年)、すべての列車が電車化されるのに伴って、関山は通常の駅に変更され、線路自体は今も敷設されているものの、スイッチバックは廃止された。今も残るのは二本木のスイッチバックである。
 二本木駅がスイッチバック駅として残ったのは、駅の隣にある日本曹達二本木工場の専用線が併設されていたためであり、貨物輸送そのものが平成19年(2007年)になくなってしまったので、保線の面倒なスイッチバックは早晩廃止の憂き目に会うことだろう。
前方に二本木駅

本線は信号機の所で右に消えている。
※ 運転台後ろからの撮影のためガラ
スの文字が写り込んで見にくくなっ
  ている              

 姨捨駅が観光的価値もあってこれからも生き延びるであろうことに比べて、信越線の方は風前の灯である。信越線自体は横川・軽井沢区間が廃線となった段階で、都市間輸送の役割を終えて、もともと人口の少ない地域のローカル線として分断されてしまった。来年春の北陸新幹線開業によって更にそれは推し進められることになる。優等列車もなくなり本線を通過するだけの定期列車が全くなく、すべての列車が二本木駅に立ち寄るにも関わらず、構内の線路が雑草に埋もれているのは、ここがすでに役目を終えつつあることを示している。
 鉄道愛好家はノスタルジーに浸りたいものだが、現実は甘くない。信越線の車窓の素晴らしさはまた別のところで触れたいが、ここの鉄道が活気を取り戻すのはなかなか一筋縄ではいきそうもない。
(2014/4/1乗車)


登攀するためのスイッチバック


木次線三段式スイッチバック

左が一段目、右が二段目。少しずつ
高度を稼いでいることがわかる。 
 スイッチバックは英語でZIGZAGとも言うそうで、本来は急斜面をジグザグに登って行くためにある。姨捨や二本木のように、勾配ではあるものの登攀そのものは直線的で機関車が再発進するために停車場を折り返しにしているスイッチバックは、蒸気機関車全盛時代には日本各地に見受けられた。今はそれが希少価値となっているのだ。
延命水で有名な出雲坂根駅

右が一段目、左が二段目。左線路を
手前方向に登っていけば、やがて次
のシェルター付分岐に辿り着く。 
 さて、本来の登攀するために造られたスイッチバックとしては、箱根登山鉄道の四段式スイッチバック、木次線の出雲坂根や豊肥本線の立野の三段式スイッチバックが有名である。それぞれ行ったり来たりしながら高度を稼いで行く。視界が開けていくと同時に、今さっき通過した線路が見えるというのも、なんとも不思議な感覚である。いかにも登って行く(あるいは降りていく)ということが実感できる点で、スイッチバックはとても楽しい鉄道イベントである。
左が二段目、右が三段目

雪の多い地方のため、人里から離れ
た分岐器は雪囲いのシェルターで守
られている。三段目手前方向に登っ
ていくと、この峠のサミットに至る
 箱根登山鉄道や木次線の場合、運転手が運転台を移るというセレモニーまでついている。ここではスピードアップ・時間短縮などどこ吹く風、実にのんびりとしたものだ。効率優先の今の世の中にとって、なんと無駄多き世界の贅沢なことよと思わないではいられない。特に木次線の場合、そこに辿り着くまでがまた一苦労で、新幹線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えた後、新見でローカル線の芸備線に再び乗り換えて備後落合まで行けば、ようやく一日三往復しかない木次線に乗ることができるという、なんともまあ極めつけの秘境にそのスイッチバックはある。何かのついでに立ち寄ることなど所詮無理。スイッチバックのために一日を使うという、実に贅沢な時間を使った旅が楽しめる。
(2011/1/6乗車)
  
驚きのスイッチバック 立山砂防工事専用軌道

 さて、登攀するためのスイッチバックとして前代未聞の、驚きのスイッチバックが富山県にある。YAHOO地図にもグーグルマップにも記載されていないし、勿論時刻表や旅行ガイドブックにも掲載されていない。鉄道紀行作家の宮脇俊三が『夢の山岳鉄道』の中でこう記している。
 
「起点の千寿ヶ原まで一八・二キロ、スイッチバック四二カ所のこの破格の砂防工事専用軌道の乗車体験について、くわしく書くのはやめる。書けば書くほど鉄道ファンの嫉妬羨望の的になりそうだし、うまく書けそうにない。わりあい正確な路線図を一所懸命に書いて挿入したので、黒岩さんの絵を参照しながら乗り心地を想像していただきたい。」
(宮脇俊三『夢の山岳鉄道』より)

 これでは馬に人参ではないか。この御馳走お預け的文章には正直困った。見てみたい! 乗ってみたい!
 宮脇俊三が書けなかったのは、特別な許可を得て乗車したからであり、鉄道愛好家としてフェアでないと考えたからであろう。しかし現在では唯一乗るチャンスがある。立山砂防体験学習会に参加することだ。ただし回数が限られており、抽選に当たらなければならない。何とそれに当たったのである。
 
白岩砂防堰堤
8つの砂防ダムで
落差108m分の土砂
をくい止めている
 立山砂防工事専用軌道は立山カルデラという聞き慣れない地域にある。有名な黒部立山アルペンルートのすぐ脇にあるのだが、一般人立ち入り禁止区域のため、地元民以外にはほとんど知られていない。東西6.5キロ、南北5.0キロの巨大なスリ鉢状の地形の中にあった鳶山が、安政年間に起こった大地震で完全崩落し、その大量の土砂が放っておくと急流常願寺川によって富山平野に流れてくる。全て流出すれば富山平野が1〜2m埋まってしまうほどの気の遠くなるような量の土砂が立山カルデラにはあるのだという。カルデラはその形状から普通出口は1カ所である。そこで塞き止めれば流出は防げる。治山治水は国の要。人が住めるような場所ではないから国としては立ち入り禁止とせねばならない。しかし、莫大な資金を投じて努力している姿は是非国民に知って貰わなければならない。観光の為ではなく、国が如何に努力しているかという理解者が必要で、だから学ぼうとする限られた人にだけ門戸が開かれる。それが体験学習会なのだ。つまり以上のことを学んだ人だけが、砂防工事用につくられたトロッコに乗ることができるということなのである。
 
デーゼル機関車が3両の 
人員輸送用トロッコを牽引
 起点の千寿ヶ原は、人でごった返す立山ケーブル駅の目と鼻の先にある。ただ堅苦しい感じの漂う砂防博物館の裏手にあるため、多くの観光客は気付かず素通りしてしまう博物館の下に車両基地があるが、これも外からは見えない。博物館内で学習したあと、ふと二階の窓から外をみるとトロッコ基地があることに気付いた。まるで遊園地の豆列車のようだ。ただ違うのは、敷かれた軌道の数。その数が半端ではなく、大規模な施設なのだということが実感される。運転訓練用の軌道まであるのだ。
屋上にヘリポートがついた
事業所・博物館。停留所名
は千寿ヶ原       
 この日の体験乗車に使用されたトロッコ列車は、「平成」号と「薬師」号の二編成。夏休みということもあって、通常の倍の人数である。多少倍率が低かったと見える。我々は第一便となった平成号に乗り組む。トロッコはしばらく常願寺川沿いを遡り、最初のスイッチバックでもと来た方に戻り高度を上げていく。下を逆方向に薬師号が走っていく。これはいい! 薬師号がいい被写体になりそうである。やがて千寿ヶ原まで戻って来た。もちろん高度が上がっているから、博物館が下に見える。屋上は災害時用のヘリポートが設置されていた。トロッコはそのまま進み、観光客で満員の立山ケーブルと擦れ違う。先ほど乗って来たものだが、そのときはトロッコが走っていなかったので気がつかなかった。
バラスト貨物とモーターカー
通過した箇所を下に見つつ 
スイッチバックしながら進む
(7.9キロ地点 鬼ヶ城連絡所)
 専用軌道は軌間610ミリ、全長18.2キロからなる。千寿ヶ原から水谷の間には5カ所の連絡所が設置されていて、ここで列車の交換がなされている。連絡所という名前からして、閉塞確認を連絡し合っている信号所という位置づけなのだろう。擦れ違う列車には乗っている人員輸送用もあれば、バラスト運搬用貨物列車、モーターカーも見かけられた。
薬師号は前進から停止、
更に後進していくところ
 千寿ヶ原の標高は476m、左の写真の鬼ヶ城は713mで、すでに237m登って来たわけだが、距離は7.9キロだから、平均勾配は30‰ということになる。多くはスイッチバックで稼いでいるので、それ以外は平坦な感じだ。


身を乗り出してバック運転
 ところで終点水谷は、白岩砂防堰堤よりも高い位置にある。そして堰堤より低い位置にある最後の連絡所が樺平だ。水谷が標高1116m、樺平が883m。標高差233m。ここに驚きの18段連続スイッチバックがある。何回も往復運動しながら、200mの山肌を登っていく。まさに、スイッチバックの頂点に立つ見事な景観だ。最初は見上げていた向かいの山の岩壁が、次第に同じレベルになり、眼下に移っていく。鬱蒼とした緑の中のスイッチバックだから、残念ながら全貌が見渡せる箇所はないが、途中で何段目か数えるのを忘れてしまうほど、いつまでもいつまでも続く至福のスイッチバックであった。
鉄道模型のレイアウトのような
配線            
 最初に載せた白岩砂防堰堤の遠望写真は、18段スイッチバックが終わった近くの展望台で撮影したものだ。見えている部分の標高差は100m余り、この倍の高さを18段で登って来たかと思うと、いかにスケールの大きなスイッチバックであるかが実感としてわかってくる。
 およそ1時間40分の旅が終わる。水谷から先はバスで砂防ダムを見て回る。あくまでもトロッコは、国の治山治水の最先端を学ぶための移動手段なのである。帰りは、最初にバス見学した人たちの帰路用であるから、残念ながらここでトロッコとはお別れだ。終わってみれば、まさに夢のような体験であった。
(2011/8/17学習)
立山砂防の図