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2014年1月7日火曜日

はるかなる男鹿

男鹿に至る道のり

 男鹿というとまず高校時代を思い出す。
 部活が終わると、どの女子部員を誰が送っていくか、男子の間でワイワイ騒ぎながら決めるのが伝統だった。女の子の方でも送られるのが当たり前になっていて、彼女や彼氏がまだいない高校生にはささやかな楽しみとなっていた。私の担当はいつも尾久近くに住む下級生だった。
 この子の家の近くには踏切があった。尾久には車両基地があるので、上野駅との間でよく回送列車が通った。尾久・上野間は機関車が客車を押していく推進運転のため、列車はとてもゆっくりと走る。一旦閉まった踏切はなかなか開いてはくれないが、女の子とおしゃべりを続けるにはかえって都合が良かった。若い頃はとりとめもないことでも、話はいくらでも尽きなかった。
 当時は青い客車や茶色い客車がたくさん残っていて、おもに夜行急行に使われていた。車体側面にサボと呼ばれる琺瑯引きの行き先表示板がぶら下がり、そこには東北各地の駅名が記されている。女の子と何を話したかは全く覚えていないが、サボは記憶に残っている。そのひとつが男鹿だった。急行「おが」、男鹿行である。そこがどのようなところかはわからない。当時の高校生は北海道ばかりに関心が向き、男鹿へ行きたいとも思わなかったが、おしゃべりの時間を引き延ばしてくれる有り難い列車として記憶に残っている。

 大学に進んで、一人旅を楽しむようになり、最初の東北旅行で利用したのがこの急行「おが」だった。60年代の鉄道旅行ブームは過ぎ去り、80年代は夜行列車を利用する人も減少してきた頃である。4人掛けのボックスシートを独り占めできるようにもなっていた。2人掛けに上半身を横たえ、足は反対側の席に投げ出せば、結構快適に寝られるものだ。中には缶コーヒー二つをシートの下に入れ、座面に傾斜をつけて寝る猛者もいた。枕がないので、頭を高くして寝る工夫なのだ。缶が外れたらとんでもないことになりそうなので、私はついに試みなかった。
急行「おが」は福島まで東北本線を北上し、奥羽本線に入って山形、新庄、大曲を経て秋田、終点男鹿に行く。快適に眠ることができ、目が覚めたのは新庄の先の真室川だった。朝靄の中を「真室川音頭の真室川だな」と思いながら風景を見ていた記憶がある。それにしても今の自分では考えられないほどの睡眠力である。この時は角館を訪れるのが目的だったために大曲で途中下車し、終点男鹿を見ることはなかった。


40年後の訪問

 ようやく男鹿を訪ねる時が来た。踏切で列車を見送ってから、40年の月日が経っている。遙かなる時が過ぎ、急行「おが」が廃止されてからも20年が経過している。
秋田駅から1.3キロ地点にある
奥羽本線300キロポスト   
 そもそも奥羽本線そのものが山形新幹線の誕生によって新庄で分断され、上野・福島からの直通列車の運行は出来なくなった。ところが、秋田から男鹿に向かう途中で見つけたものがある。300キロポストである。切りの良い数字だから目に付くのだが、どう考えても300という数字は福島からの距離を表しているではないか。山形新幹線は線路幅が標準軌になっただけで、厳密には在来線扱いだから当然と言えば当然ななのだが、直通できない線路であっても同じ奥羽線を語るのは、どうも妙な感じがする。でも何となく嬉しかったのは、福島と青森を結ぶ奥羽本線は乗り継げば今でも行ける同じJR線であるということだ。一部区間を第3セクターとしてしまった信越本線や東北本線とは違う運命を歩んでいる。
終点男鹿駅

列車後方に見えるのが寒風山。
 追分駅で奥羽本線と別れ、八郎潟を右に見ながら男鹿線は終点を目指す。右前方に寒風山が近づいてくる。男鹿半島の観光の中心であり、山頂からは360度のパノラマが開ける所として有名だ。周囲に障害物がないので、まさに名前の通り寒風が吹きすさぶという。列車は、秋田から1時間ほどで終点に着く。
 男鹿駅は構内が広く、貨物輸送のためかつてはこの先の船川港まで貨物支線が伸びていたから、厳密な意味での終着駅ではなかった。しかし現在は貨物線は廃止されたので、駅の端には車止めがある。
男鹿駅

複雑に入り組む機回し線
 機関車を付け替えるための機回し線も残っており、かつては上野からの急行「おが」が日中ここで休んでいたのだろう。1972年の時刻表には、季節列車急行「おが2号」は上野を21時22分に発ち、秋田8時21分着、そこからは普通列車となって9時53分に男鹿到着とある。指定席は勿論のこと、A寝台車1両B寝台車1両、自由席8両の合計11両という堂々とした急行である。秋田で自由席数両を切り離したかどうかはわからないが、広い構内と機回し線の長さを見る限り、フル編成の急行が上り列車の発車時刻18時30分まで、ここで長旅の疲れを癒していたとしてもおかしくはない。尾久の踏切で見たあの列車がここまで来ていたのだなと感慨にふけりながら、乗ってきたディーゼルカーで再び秋田へと戻った。
(2014/1/7乗車)








2014年1月6日月曜日

雪の弘南鉄道

うら寂れた跨線橋


大鰐温泉 2010年8月撮影

気がついてからあわててシャッ
ーを切ったので、弘南鉄道の文字
が少し読みづらい。クリックする
と写真が拡大。        
 たといお気に入りの列車に乗っている時であっても、どうしても途中下車したくなるようなことがある。大鰐温泉から中央弘前を結ぶ弘南鉄道を見た時がまさにそうだった。
 前の晩に上野を発ち、寝台特急「あけぼの」の個室の中で、鳥海山に昇る日の出の時からずうっと車窓を楽しんでいた。碇ヶ関を越え、ようやく津軽までやって来たなと思いながら、弘前の奥座敷と呼ばれる大鰐温泉に列車が到着すると、まず目に飛び込んできたのが、少し痛んだ跨線橋に記された弘南鉄道の文字だった。日本中の鉄道に一度は乗りたいと思っていたので、そのうちここにも立ち寄りたいと考えながら、今回は終点までこの個室の旅を楽しむことが目的だったと、改めて再訪を期したのだった。
大鰐温泉駅 2010年8月撮影
 さて、弘南鉄道と言えば、冬のラッセル車が思い浮かぶ。冬を満喫するためには、できれば地吹雪の季節に訪れたいとも思う。7〜8年ほど前、真冬の津軽を訪れようと二度ほど試みたことがあった。1度目は出発直前に、羽越本線で突風のため特急が脱線転覆し何人かの方が亡くなられた。その日の寝台列車は運休となり、私のような物見遊山の人間がとやかく言えるような状況ではなかった。その翌年、再度挑戦した際は、例年にない暖冬で、津軽は地吹雪どころではなく、大雨の中で津軽三味線を聴きに行ったようなものだった。どうも自分は冬の津軽には見放されているらしいと、長年思っていた。
 しかしチャンスは訪れた。廃線が決定した江差線に乗るために北海道を往復することにして、帰路弘前に立ち寄る機会ができたからだ。冬の津軽を旅し、黒石の駅に到着すれば、青森の鉄道は全て乗り尽くすことにもなる。なかなか魅力的な冬の旅となりそうであった。


大鰐温泉から中央弘前へ
7031と7032の2両編成

 弘南鉄道には弘南線と大鰐線の2路線がある。国鉄から引き継いだ黒石線は残念ながら6年前に廃止されている。二つの路線は繋がっておらず、JR弘前駅に隣接する弘南線弘前駅と大鰐線中央弘前とは直線距離で1㎞ほど離れているので、どう回るかは思案のしどころだが、ここはやはり大鰐温泉から始めることにした。
7039と7040の2両編成
 雪に包まれいっそう寂寥感が増した跨線橋を渡ると、JRからそのまま大鰐線のホームに繋がっていた。中央弘前までの乗車券を購入しようと、北口から一旦外に出る。出札係から乗車券を改められることもなく、実にのんびりしたものだ。停まっている電車は東急7000系のお下がりだが、嬉しいことにヘッドマークが付いている。しかも綺麗な塗装までが施されていて、大切に使われているなあと感じる。また運転台下に雪を弾き飛ばすスノープラウが装着されていて、いかにも雪国の鉄道らしい風情がある。ホームの先に電気機関車が見えるが、ちょうど真正面なので、どのような形式なのかはよくわからない。
ED22
 それにしても今大鰐線は廃線の危機にあるという。確かに誰もいないホームに佇むと現実味を帯びてくる。青い帯を巻いた2両編成の電車に乗ったのは、私以外にたったの一人しかおらず、1両に一人ずつ座った。しばらくして空気ばかりを乗せた電車が発車する。もちろんワンマンカーである。
 大鰐温泉から中央弘前まではわずか13.9キロ、並行するJR奥羽本線とは異なり地域密着型の地方私鉄なので、14もの駅を擁している。およそ1キロに一駅の割合で設置されていることになる。この先いったいどのような人が乗ってくるのだろう。
黒いラッセル
 電車が電気機関車の横を通り過ぎると、そこには黒いラッセル車が停まっていた。あわててカメラのシャッターを切る。誰も乗っていないので真冬でも窓は開けられたのだが、心の準備が出来ていなかった。写真には反対側の窓が写り込んでしまっていた。それでも名物の黒いラッセル車と出会えたのは嬉しい。鉄道の除雪車といえば今は赤が相場だが、蒸気機関車の時代はすべて真っ黒だった。汚れの目立たない実用一点張りの昭和を感じさせる色彩である。真白な雪原を疾走するにはふさわしいが、夜の運用は危険だろうなとも思う。
 大鰐温泉を囲む山々が尽きて、電車はリンゴ畑の中を走る。宿河原、鯖石、石川プール前という味のある駅名ごとに停まるが、一向に客は乗ってこない。石川を過ぎたところで盛り土区間となり、そのままJRを跨いで、義塾高校前に着く。甲子園にも出場経験のある東奥義塾高校の最寄駅である。ここで高校生が大勢乗車してきた。まだ冬休み期間中なので全員部活帰りと見える。やはり地方ローカル線は高校生に支えられているのである。にわかに車内が活気づく。
津軽大沢駅

交換列車は東急でお馴染みの
赤い帯          


 津軽大沢では列車交換があった。ふつう鉄道は左側通行だが、地方のワンマン運転ではしばしばホームの右側につけることがある。これは運転台が左側にあるため、この方がドアの開閉確認がしやすいからだ。理に叶ってはいるが、何となく妙な気分がする。
 一駅停まるごとに生徒たちが降りていく。当然と言えば当然だが、地元の生徒だけでスポーツ強豪校にはなれないだろうから、この子たちは楽しみで部活をやっているタイプなのかなと、とりとめのないことを考える。その後は、聖愛中高前、弘前学院大前と学校名のオンパレードだ。まさに学生が支える鉄道だから、登下校時以外は閑散としているのも当たり前だろう。

中央弘前駅

弘前中央ではない。この名前には
何かいわれがあるのだろうか。弘
前城からもJR弘前駅からも距離が
あり、確かに中央なのかもしれな 
いが、観光客に便利な駅とはいい
がたい。                
 終点のひとつ前は弘高下という名の駅である。さすが地元の有名校は略称で呼ばれても風格がある。というより略称で呼ばれるくらいの風格というべきか。ここは県立弘前高等学校の下の駅というわけだ。旧制中学時代は太宰治も学んだ名門校である。終点まで一駅ということもあって、弘高生は誰も乗って来なかった。弘高下を過ぎると電車は土淵川の流れに沿って緩やかなカーブを切りながら中央弘前駅に到着する。片面1線の終着駅で、ホームから緩やかなスロープを下ったところに改札口がある。振り返ると、雪のぱらつく軒下には小振りのツララが何本も下がっていた。


こみせの町、黒石につゆ焼きそばを食べに行く


弘前駅

都会の私鉄と何ら変わらない。
 大鰐線と弘南線とはもともと別会社だったこともあって、両者は繋がっていない。雪道を1キロ以上も歩くのは東京育ちには危険だし、また津軽の食事でお勧めは何かを知りたいこともあって、タクシーに乗ることにした。運転手さんに早速尋ねてみると「津軽の地元料理ねえ」と気のない返事が返ってくる。こちらの身なりを見て、貧乏人と足元を見たのだろう。悩んだ挙句推薦してきたのは、全国チェーンの居酒屋だった。いくらなんでもねえ。
 こうなったら弘前での夕食は諦めよう、黒石の郷土料理が食べたい! 
 今黒石で人気なのは、何と汁に浸かった焼きそばなのだそうだ。B級グルメかあ。まあ、付き合ってみるかということで、弘南線の乗客となった。
 夕方が近いこともあって、綺麗に改装された弘前駅には多くの人が電車を待っていた。それでも年々乗客が減り、ここも高校生頼みなのだという。大鰐線と同じ車両が使われているのだが、乗客が多いので地方ローカル線に乗った気がしない。しばらく乗車しているうちに、景色から家々が消えてゆき、田圃の真ん中を通るようになって、ようやくローカル線らしくなってきた。 黒石までは16.8キロ。12の駅があるので、駅間は大鰐線に比べて開いている。
 よくポスターなどで見るこの路線は岩木山をバックにしたものが多い。雪模様の今日は勿論白一色の世界だ。田んぼアートという駅だけを通過して、30分ほどで終点黒石に着いた。

 黒石市には日本の道百選に選ばれたこみせ通りがある。こみせとは、越後高田では雁木と呼ばれている日本版アーケードのことだ。通りに面した各家が、軒を道まで伸ばして、通行人を雪や日差しから守った施設のことをいう。実に合理的な工夫で、通行人の便を図って造った施設だが、玄関前の雪掻きをする必要もなく、そこで暮らす人にも便利だったに違いない。
 
こみせ通り
 駅からこみせ通りまでは普通の歩道すらない商店街で、雪の圧雪路をヒヤヒヤしながら歩いたが、この一画に入ると途端に世界が変わった。安全で伝統美の空間が広がっているのである。守りたい日本の道であることが頷ける。造り酒屋や商店、普通の家屋がこの町を守っていた。
 こみせを堪能した後は、いよいよ「つゆ焼きそば」である。お勧めの地酒を尋ねると、先程訪れた造り酒屋の銘柄とは違うものを紹介された。地元の人は亀吉を呑むという。冷やのまま口に含むうちに、次第にいい気分になってくる。つゆ焼きそばも、香ばしい汁麺という感じだ。いいものに出逢った。全国全線乗り尽くしの旅の途中であるが、乗車だけを目的に終着駅ですぐに折り返さなくて良かったとつくづく思う。

 底冷えのする夜の黒石の町を歩きながら、再びこの町に来ることはないかもしれないと思い、だからこそこの風景を覚えておきたいという、いつもの感情が湧いてきた。
 人通りの絶えた夜の道を駅に急ぐ。駅に隣接したスーパーマーケットには何人かの地元の人たちが買い物をしていた。棚には茨木産や長野産の野菜や果物が並べられている。売られているものは東京と変らない。買っている人たちの表情も似たようなものだ。流通が発達した今では、全国から送られてくる同じような物に囲まれて、この土地の人も普段の私も同じように生活をしている。
車止め(黒石駅)
 こんな当たり前のことが、とても意味深いことに感じる。一時的ではあるが、自分とここで生きる人たちとの間に繋がりがあることを実感したからである。ところが、また明日から私はこの人たちとは無関係に生きていく。ここで感じたことは幻のように思えていくだろう。それが不思議でならなかった。同じ空間を共有し、一瞬ではあれ繋がりを持ったという現実の感覚が、明日には途切れてしまい、現実は幻想に変わってしまう。その喪失感の中で取り残される自分という存在の危うさをどう受け止めればよいのか。


黒石駅にて
 駅の構内に入ると、降り積もった雪の中で、車止めがほのかな光を放っていた。行燈のような暖かい灯りを見ていると、こころが次第に和んできた。この光をいつまでも覚えておきたいと感じた。この光はきっと忘れない。そうすることで明日には切れてしまうはずの繋がりが、いつまでも続いていくように思えた。旅に出て車窓からの景色を覚えておきたいというのも、危うい自分という存在をしっかりと繋ぎ止めておきたいからだということに、この時気づいた。 

(2014/1/6乗車)

2013年3月26日火曜日

失われた山田線を訪ねて

 
 陸中大橋のヘアピンカーブ


めがね橋にはSLが似合いそう
 宮沢賢治が活躍した花巻と新日鐵で有名な釜石を結ぶ釜石線は銀河鉄道を意識したキャンペーンを続けている。沿線には民話のふるさと遠野もあって、JRとしては観光客を誘致した路線であろう。しかし山岳鉄道ファンにとってはそれ以上に垂涎の場、陸中大橋のループがある。
 上越線湯檜曽ループのように完全に閉じたものではないが、Ω(オメガ)ループと呼ばれるように、ほとんど閉じかけたカーブなのである。特に陸中大橋はヘアピンカーブと言っても良い。
眼下にこれから走る線路が見えてくる。
陸中大橋駅は左、釜石は右手トンネル
の先である。               

 両側から迫り来る山間を利用して、出来るだけトンネルを掘らずに勾配を稼ごうとしたために、Ωというよりは音叉の形に近いヘアピンカーブとなっている。そのため、かなりの高低差のある線路同士が平行に走っている場所があって、まるで狭い空間を上手に活かした鉄道模型のジオラマを見ているような錯覚に陥るという。ぜひ、ここを訪ねてみたかった。
 
先程通った橋を見上げつつ進む。
標高差約40m。直線距離130
m。橋では左から右に下っている。
ところが、あの東日本大震災が起こって三陸の鉄道は壊滅的な打撃を受けてしまった。ただの鉄道愛好家が被災地を訪れるというのはいかにも気が引けることだ。随分長い間出掛けていくのがためらわれたが、一方で日本に住む同胞として見ておかなくて良いのかという思いもあった。震災から2年が経ち、被災地を観光することが支援になるという声声も聞かれるようになったこともあって、この地を訪ねることにした。



被災地へ


 釜石は釜石線のほかに山田線と三陸鉄道南リアス線が集まる交通の要衝だ。東日本大震災では、この山田線と南リアス線が甚大な被害を受けた。列車で来られるのはここまでである。 
前方左側に山田線の線路が見える
 お腹も空いてきたので、釜石で昼食をと思ったがどこも11時半からでやっていない。バスの時間が心配なため、釜石での昼食は諦めた。駅前はいきなり新日鐵の巨大な工場があるばかりで、行く当てもないのから近くのスーパーで時間を潰そうと思う。バス停が近いので助かる。無料休憩室でカフェオレを飲みながら、地元の人たちの様子を眺めるが、特段変った所はない。
 バス停「製鉄所前」から「道の駅やまだ」行きのバスに乗る。駅前からは大勢の人が乗って来て、バスは満員になる。津波想定区域の札が立っているが、工場ばかりでまだここが津波に襲われたことが実感できない。しかし、駅前の川を渡ると様子が変った。建物がまばらになのである。残った建物も1階部分が何もないか、シャッターがひしゃげられたりと、津波のエネルギーの大きさを目の当たりにする。バスは市街地を越えて坂を上り次の集落のある入り江に向かってトンネルを潜る。そこで景色は一変した。
 残った建物も何もない。虚しさが漂う。建物はなくてもバスにはたくさんの人が乗っている。彼らはみな被災者なのだ。とても写真など撮れる雰囲気ではない。後ろめたさが込み上げてくる。
 40年前、三陸を訪ねたことがあった。満足に舗装もされていなかった道が、等高線を辿りながら入江から入江へと結んでいた。リアス式海岸は山と山の間に入江があり、集落があるから、道は入江に差し掛かるたびに高度を下げ、次の入江に向かうために山道を登っていった。
 このバスも当時と同じように、入江ごとに山から下っていく。途中までの高台では見慣れた田舎の風景だ。遥か彼方の海は穏やかで綺麗だ。ところが津波浸水区間の札が出てくると、そこから先はなにもない。跡形もない。へし折れた鉄骨は撤去された建物の跡だ。コンクリートの基礎だけが、間取りの形に残っている。それ以外は何もない荒野を、復旧された道だけが、かつてあった街路通りに何キロも続いている。建物はなくても停留所ごとにバスは止まり、人々は少しずつ降りていく。ここからは見ることが出来ない、この先の高台に仮設住宅があるのかもしれない。虚しさと悲しみが押し寄せる。確かにガレキは片付けられたが、それだけに空疎で、復興の兆しはなにもない。
 バスは高台にのぼり、眼下に入り江が広がった。青空のもと、山田湾は実に美しかった。真新しい黄色の浮きが整然と並んでいる。ホタテの養殖だろうか。この海が多くの人の命を奪ったとはとても考えられないくらいだ。
 本来なら山田線でここを通るはずだった。しかし、道床ごと押し流された線路は跡形もないか、あるいはレールがぶらりと浮いて無惨な姿を曝していた。復旧には莫大な金がかかることだろう。JRはどうするのだろう。気仙沼線では鉄道による復旧は断念し、BRT( bus rapid transit=バス高速輸送システム)に移行している。もう二度と釜石・宮古間に鉄道は戻ってこないかもしれない。 
 宮古行バスへの乗り換え停留所は船越駅前である。乗り継ぎ時間の合間を利用して今は使われていない山田線を見に行くことにした。海から遠く高台に位置するこの辺りは、何の変哲もない田舎町である。津波が来るか来ないかで、世界は一変しているのだ。駅片隅にある踏切には「休止中」の札が掛かっている。どこも壊れていない鉄道施設を見ていると、津波など全くなかったかのように思えてくる。
荒れた船越駅
 しかし、列車の通るあてのないレールには錆が浮かんで、命が尽きようとしているかのようだ。早くここまで列車を走らせてやりたいと思うが、代行バスが走っている今、このままずうっと放置されてしまうのではないかという思いが否定できなくなる。
 被災地を訪れたことは、これからの生き方を考えるきっかけになったと思う。誰しもいつかは終える命であるが、それがある日突然訪れてしまったたくさんの人たちがいる。残されても、生活が一変してしまった人たちがいる。自分は運良く、殆ど影響も受けずに生きている。この世の中の不条理をどう受け止めていくのか。じっくりと考えていかなくてはならない。




宮古から盛岡へ

 生き残った山田線は川を辿りながら北上高地を越える景勝路線だ。雪解け水で水量は豊か。新緑や紅葉はさぞかし美しいだろうと思われる。谷は深く渓谷の趣である。宮古の風は冷たくても日差しは明るくやはり海洋性の穏やかな気分が漂っていたが、分水嶺の区界は標高が780メートルもあって一面の雪が積もっている。窓は息で真っ白に曇った。北上高地によって岩手は大きく分断されている。

宮古→盛岡 キハ110 136 単行。