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2014年8月26日火曜日

北海道乗り尽くしの旅③


帯広から新得へ

早朝の帯広駅
 8月27日晴れ。今朝の帯広の気温は13度。肌がピンと張り詰めるような清涼感は格別だ。東京でいえば初冬の感じである。人通りの少ない早朝の街を駅まで歩く。駅前はホテルばかりでやや賑やかさに欠けるが、十勝地方の中核都市にふさわしくJRの駅舎はかなり立派な作りで、ショッピング街が東西に分かれ、どちらも小振りながらも地元の人や観光客が利用しやすいように整えられている。帯広名物の豚丼が食べられる店は、さすがにこの時間は閉まっているものの、昨晩は多くの人で賑わっていた。テイクアウトして食べてみたが、豚ロースの焼き肉とご飯に甘辛のタレがからまって、人気の秘密がよくわかった。店によって肉の部位にバリエーションがあるようなので、食べ比べが楽しそうだ。
よく見ると橋桁には十勝の風景が
描かれている。
        
 ところで帯広の駅のすぐ隣にはコンクリート製のなんとも存在感ある斜張橋がある。どうしてこんな大掛かりな?と思うが、それはホームに行くと納得する。幅の広い帯広の道路の上にホームに接した4本の線路を高架で渡すには、構造上橋桁を吊る必要があったのである。市街地のため騒音対策上コンクリート製の斜張橋を選んだのだろう。経年変化ですこし汚れてきたなと思ったら、それは橋桁に描かれた日高の山並みと森林だった。ちょっと申し訳ない気持ちになる。
ホームに接した斜張橋
列車は札幌行スーパーとかち
 池田からの滝川行普通列車が3両編成でやって来た。またもや高校生列車だ。キハ40は走り始めると排気ガスが車内にはいってきた。体には悪そうだけれど、ローカル線気分が盛り上がる。しばらく高架線が続いていて、帯広の街の広さが実感される。遠くにはこれから向かう日高山脈が連なっている。きょうの車窓風景は右が良いと予想したが、あきらかにこの時間は順光の左がいい。車内が混んできたので移動は諦めるしかない。芽室でまた沢山の高校生が乗り込んできて、私が座るボックス席にも2人の高1生が「空いてますか」と一声掛けてきて腰を下ろした。座ると一人は黙ってスマホをいじり始める。この光景は日本全国どこも変わらないが、驚いたことにもう一人はノートを開いて勉強を始めた。気がついてみるとあちこちで勉強している。感心、感心!
 車内の殆どの生徒は同じ学校と見えて似た制服を着ている。半袖シャツ姿、ネクタイ着用派、上着まで着用とてんでバラバラだが、明らかに同じ生地、同じ仕立ての制服である。ここの気候では柔軟性が必要と見える。大半は十勝清水で下車した。
 降りる際に「レナ、バイバイ」と言われた高校生は新得までの乗車。残った高校生たちの方は少し行儀が悪いが、先程の高校生が出来が良すぎたのだろう。
 新得で高校生が下車してしまうと、車内はガラガラになってしまった。狩勝峠を越えると生活圏が変わるので普通列車の需要は多くない。お約束の車両切り離しが行われ、この先は単行ワンマン運転になる。

日高山脈を越えて富良野へ
 たった乗客4名を乗せて列車は出発した。運転手が替わり、明るい真面目そうな人になった。指差喚呼も丁寧に行っている。こういう人にとって見れば、昨今のJR北海道の失態は辛いことだろうなと思う。
 新得は2年前に訪れて名物の蕎麦を食べたところだ。見覚えのある駅前風景が懐かしい。ここから落合までの狩勝峠越えは、運転台の後ろやドア窓など、あちらこちらに移動しながら存分に楽しむ。空いているので、人目も気にならない。


<狩勝峠越え>
切り離し作業を終えて引き上げる作業員 新得駅で


新得を出るとすぐにトンネル、入り登りとなる

農耕地の中を登っていく

風雪除けのフェンスがあちこちに

大きく迂回しながら登坂するのできつい坂ではない

十勝平野は広大だが、高度感は今ひとつ

駅間が長いためいくつも信号場がある

新狩勝トンネル新得側入り口

石勝線側出口からの光

落合側出口
 車窓からは十勝平野が見渡されるが、今ひとつ高度感が足りない。しかし日高山脈を越えていくための大迂回は見どころ十分だ。駅間が長いために随所に信号場があって列車交換が可能となっている。
幌舞は終着駅という設定だった。
 新狩勝トンネルは、トンネル内で石勝線と根室本線が合流する珍しい構造になっていて、石狩側には2カ所の出口がある面白いトンネルだ。運転台の後ろからこの構造をしっかり見させてもらった。石勝線側は出口こそ見えないが、外の光が壁を浮かび上がらせている。トンネル内に上落合信号場がある。この辺りの信号場には分岐器上に必ずスノーシェッドが設置されているので、保線の都合上トンネル内に信号場をつくるほうが効率的だったのだろう。
夕張山地の最高峰。綺麗な 鋭峰が
印象的。           
 落合の次、幾寅は映画『鉄道員(ぽっぽや)』のロケ地となったところである。映画は、架空の駅「幌舞」を舞台に、鉄道一筋に愚直に生きる高倉健が、仕事一筋ゆえに死に目に会えなかった娘の亡霊に慰められながら大往生を遂げる名作だ。それにしてもホロマイはいかにもありそうな名前だが、イクトラはいかがなものだろう。こちらの方があり得ない地名に思えてしまう。
 釣り人が楽しむ金山湖を過ぎ、富良野の盆地に入ると正面に見える尖った山は芦別岳で、ここでも車窓は左が美しい。
ようやく姿をあらわしたものの
山頂は雲の中。       

 右側に席をとったのは金山湖や十勝岳を楽しみたかったからだが、40年前に訪れた時に比べ木々が生い茂った金山湖はなかなか姿を見せず、十勝岳も手前の里山に阻まれてようやく姿を現したのは、最後の最後、富良野到着直前だった。次回乗るなら左だ。


根室本線(島ノ下→野花南13.9㎞)・・残りあと3路線

 根室本線には以前から未乗区間が残っていた。富良野の次、島ノ下・野花南間の13.9㎞である。ほぼ全線トンネル区間だ。1991年滝里ダム建設のため新ルートに切り替えになり、旧滝里駅は今湖底に沈んでいる。今回はこのトンネルをくぐりに来たというわけだ。トンネルでは景色も楽しめず、アホくさいと思いつつ、無事完乗! 
釧路行
 野花南(のかなん)駅で列車交換となる。やって来たのは同じキハ40だが、あちらはとても有名な列車だ。滝川発の各駅停車で、鈍行最長運転時間を誇る2429D釧路行である。滝川を9:37に出発し、釧路に17:39に着く、8時間2分の長旅だ。完乗の満足感よりも、珍しい列車に出会えたことの方がワクワクする。運転距離は308㎞。現在距離として最長鈍行は、岡山から新山口まで走る電車で、316㎞を5時間45分かけて走破する。釧路まで乗り尽くす人は一体何人乗っているだろう。もちろんそんな物好きはファン以外にありえない。
滝川にて
 芦別からは田園風景が一変して、稲作地帯に入る。滝川に近づくと、正面に暑寒別の山々が見えてくる。あの向こうは日本海だ。なだらかな丸加高原を過ぎ、列車は函館本線と合流してまもなく滝川駅1番線ホームに到着した。滝川は帯広とはうって変わって夏模様。からりと暑い。上空をグライダーが旋回していた。
(2014/8/27乗車)

2014年4月1日火曜日

スイッチバック讃歌

篠ノ井線 姨捨(おばすて)駅

特急 しなの6号 名古屋行

善光寺平を見下ろしながら、

特急は姨捨駅(左)の脇を通
過してしまう       
 駅に降り立った時、焚き火の香ばしい薫りがした。更科の里では、農作業を間近に控え、ところどころで枯れ草を燃やしている。春は確実にやって来ていた。
 姨捨駅は日本三大車窓の一つに数え上げられ、善光寺平(長野盆地)を見下ろす冠着山の中腹に位置しているだけあって、素晴らしい眺望が楽しめる。ホームのベンチはすべて線路側ではなく外を向いている位だ。松尾芭蕉が「田毎の月」と詠った棚田もすぐ向かいの斜面に広がっている。
 この三大車窓は一体誰が言い出したのかはわからないが、九州・肥薩線で矢岳を越える際に見える霧島連山の眺めと、北海道・根室本線の狩勝峠越え(ただし廃止された旧線に限る)で見える十勝平野の眺めということになっている。それにしても雄大な風景はほかにもあるはずで、どうしてこの三つなのか。
しなの6号遠望

篠ノ井からおよそ70mほ
ど登って来たところ。姨
捨まではあと120m上らな
くてはならない。後方、
白銀に輝くのは戸隠山。
(姨捨から撮影)
 共通するのはいずれも峠を越えて突然ひらける雄大な眺めという点であろう。ということは蒸気機関車時代の人々の思いが関係していそうである。峠を登る機関車は凄まじいほどの煤煙を吐き出す。更にその先に待ち構えているのはトンネルだ。窓を閉めても通路を煙が漂い、ハンカチで鼻と口を塞いでも煙の匂いと酸欠で息苦しい。もう勘弁してくれと思った時、トンネルを抜け出した列車は雄大な景色の中を、下り坂で煙を出さなくなった機関車に引っ張られながら軽快に走っていく。爽やかな風はこの景色に酔った人々にさぞ快かったに違いない。

 在来線の多くは蒸気機関車時代に敷設されたため、とびきり勾配に弱い機関車のために様々な工夫が凝らされている。その一つにスイッチバックがある。姨捨は姨捨伝説や松尾芭蕉の「田毎の月」だけでなく、スイッチバックでも有名な駅である。
桑ノ原信号場

本線は坂になっているが、左右
の引き込み線は水平に設置され
蒸気機関車でも動き出せるよう
工夫されている。      
 篠ノ井線は善光寺平が尽きる稲荷山駅から先には25パーミルの勾配が続く。パーミルとは千分率のことで、1000mにつき25m登る勾配であり、人や車にはさほどでもないが、蒸気機関車や貨物列車にはとても手強い坂となる。また篠ノ井線は特急も頻繁に通る重要幹線でありながら、複線化は見送られているため、駅間が長いと列車交換に困るので、その対策として信号場を設置し列車同士が行き違えるようになっている。
 ところが馬力の弱い蒸気機関車は坂道発進が出来ないので交換施設は水平に設置する必要がある。そこで本線は坂のままとし、信号所は水平を確保して、蒸気機関車は平らなところで勢いをつけてから登攀できるようにしたのが、桑ノ原信号場のようなスイッチバックなのである。稲荷山から登ってきた列車は、桑ノ原信号場で一旦左側の引き込み線に入る。ここでスイッチバックして本線を横切り右側の引き込み線で待機し、下ってくる列車の通過を待つ。列車が通過したら、助走をつけて本線を再び登って行く。蒸気機関車が廃止された後も、重量のある貨物列車にとっては必要な施設である。
 桑ノ原信号場をノンストップで通過すると電車は次第に高度を稼ぎ、あたりの家が次第に小さくなっていき善光寺平が広がっていく。脇には長野自動車道が通っているが、あちらは既により高所を走っている。やがて前方に姨捨駅が見えてくる。

右上に姨捨駅見えてくる。中継信号機が斜めとなっ
ているのは、この先の側線用信号機が<黄=注意>
となっているため。本線側は<赤=停止>    


姨捨駅へは一旦左側の側線に入り、バックして右手
前に進んでいく                

運転手は移動せず、窓から身を乗り出して安全確認
をしながらバックする             

逆推進運転中に下り普通電車が近づいてくる


乗車してきた上りが冠着に向かって出発したあと
今度は下り長野行が先程の側線に向かってバック
していく                  
バックを終えて、姨捨駅脇を長野に向けて下って行
く普通電車。向こう側斜面に棚田が広がる    

 この日、姨捨駅から見る戸隠や飯縄の山々は残雪で白く輝いていた。眼下には善光寺平すべてが見渡せる。手前の棚田に水が湛えられるまでにはまだ日があるようだ。秋の実りの季節には黄金色の稲穂がそよぎ、さぞ美しいことだろう。再び違う季節にここを訪れたいと思いつつ、次の下りを待った。
(2014/4/1乗車)

信越線 関山駅・二本木駅

関山駅

かつては左側に伸びる先に関山
駅があった。本線は横断歩道橋
のところで右にカーブしている
 鉄道の近代化とともにスピードアップの妨げになるスイッチバックが次々と消えていった中で、信越線にたったひとつだけ取り残されたスイッチバック駅がある。
 妙高高原駅から高田平野の外れにある新井駅までは21km、標高差は約450m。25パーミルほどの勾配で下って行く。間には関山と二本木の二駅があり、どちらもスイッチバックの駅だった。昭和60年(1985年)、すべての列車が電車化されるのに伴って、関山は通常の駅に変更され、線路自体は今も敷設されているものの、スイッチバックは廃止された。今も残るのは二本木のスイッチバックである。
 二本木駅がスイッチバック駅として残ったのは、駅の隣にある日本曹達二本木工場の専用線が併設されていたためであり、貨物輸送そのものが平成19年(2007年)になくなってしまったので、保線の面倒なスイッチバックは早晩廃止の憂き目に会うことだろう。
前方に二本木駅

本線は信号機の所で右に消えている。
※ 運転台後ろからの撮影のためガラ
スの文字が写り込んで見にくくなっ
  ている              

 姨捨駅が観光的価値もあってこれからも生き延びるであろうことに比べて、信越線の方は風前の灯である。信越線自体は横川・軽井沢区間が廃線となった段階で、都市間輸送の役割を終えて、もともと人口の少ない地域のローカル線として分断されてしまった。来年春の北陸新幹線開業によって更にそれは推し進められることになる。優等列車もなくなり本線を通過するだけの定期列車が全くなく、すべての列車が二本木駅に立ち寄るにも関わらず、構内の線路が雑草に埋もれているのは、ここがすでに役目を終えつつあることを示している。
 鉄道愛好家はノスタルジーに浸りたいものだが、現実は甘くない。信越線の車窓の素晴らしさはまた別のところで触れたいが、ここの鉄道が活気を取り戻すのはなかなか一筋縄ではいきそうもない。
(2014/4/1乗車)


登攀するためのスイッチバック


木次線三段式スイッチバック

左が一段目、右が二段目。少しずつ
高度を稼いでいることがわかる。 
 スイッチバックは英語でZIGZAGとも言うそうで、本来は急斜面をジグザグに登って行くためにある。姨捨や二本木のように、勾配ではあるものの登攀そのものは直線的で機関車が再発進するために停車場を折り返しにしているスイッチバックは、蒸気機関車全盛時代には日本各地に見受けられた。今はそれが希少価値となっているのだ。
延命水で有名な出雲坂根駅

右が一段目、左が二段目。左線路を
手前方向に登っていけば、やがて次
のシェルター付分岐に辿り着く。 
 さて、本来の登攀するために造られたスイッチバックとしては、箱根登山鉄道の四段式スイッチバック、木次線の出雲坂根や豊肥本線の立野の三段式スイッチバックが有名である。それぞれ行ったり来たりしながら高度を稼いで行く。視界が開けていくと同時に、今さっき通過した線路が見えるというのも、なんとも不思議な感覚である。いかにも登って行く(あるいは降りていく)ということが実感できる点で、スイッチバックはとても楽しい鉄道イベントである。
左が二段目、右が三段目

雪の多い地方のため、人里から離れ
た分岐器は雪囲いのシェルターで守
られている。三段目手前方向に登っ
ていくと、この峠のサミットに至る
 箱根登山鉄道や木次線の場合、運転手が運転台を移るというセレモニーまでついている。ここではスピードアップ・時間短縮などどこ吹く風、実にのんびりとしたものだ。効率優先の今の世の中にとって、なんと無駄多き世界の贅沢なことよと思わないではいられない。特に木次線の場合、そこに辿り着くまでがまた一苦労で、新幹線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えた後、新見でローカル線の芸備線に再び乗り換えて備後落合まで行けば、ようやく一日三往復しかない木次線に乗ることができるという、なんともまあ極めつけの秘境にそのスイッチバックはある。何かのついでに立ち寄ることなど所詮無理。スイッチバックのために一日を使うという、実に贅沢な時間を使った旅が楽しめる。
(2011/1/6乗車)
  
驚きのスイッチバック 立山砂防工事専用軌道

 さて、登攀するためのスイッチバックとして前代未聞の、驚きのスイッチバックが富山県にある。YAHOO地図にもグーグルマップにも記載されていないし、勿論時刻表や旅行ガイドブックにも掲載されていない。鉄道紀行作家の宮脇俊三が『夢の山岳鉄道』の中でこう記している。
 
「起点の千寿ヶ原まで一八・二キロ、スイッチバック四二カ所のこの破格の砂防工事専用軌道の乗車体験について、くわしく書くのはやめる。書けば書くほど鉄道ファンの嫉妬羨望の的になりそうだし、うまく書けそうにない。わりあい正確な路線図を一所懸命に書いて挿入したので、黒岩さんの絵を参照しながら乗り心地を想像していただきたい。」
(宮脇俊三『夢の山岳鉄道』より)

 これでは馬に人参ではないか。この御馳走お預け的文章には正直困った。見てみたい! 乗ってみたい!
 宮脇俊三が書けなかったのは、特別な許可を得て乗車したからであり、鉄道愛好家としてフェアでないと考えたからであろう。しかし現在では唯一乗るチャンスがある。立山砂防体験学習会に参加することだ。ただし回数が限られており、抽選に当たらなければならない。何とそれに当たったのである。
 
白岩砂防堰堤
8つの砂防ダムで
落差108m分の土砂
をくい止めている
 立山砂防工事専用軌道は立山カルデラという聞き慣れない地域にある。有名な黒部立山アルペンルートのすぐ脇にあるのだが、一般人立ち入り禁止区域のため、地元民以外にはほとんど知られていない。東西6.5キロ、南北5.0キロの巨大なスリ鉢状の地形の中にあった鳶山が、安政年間に起こった大地震で完全崩落し、その大量の土砂が放っておくと急流常願寺川によって富山平野に流れてくる。全て流出すれば富山平野が1〜2m埋まってしまうほどの気の遠くなるような量の土砂が立山カルデラにはあるのだという。カルデラはその形状から普通出口は1カ所である。そこで塞き止めれば流出は防げる。治山治水は国の要。人が住めるような場所ではないから国としては立ち入り禁止とせねばならない。しかし、莫大な資金を投じて努力している姿は是非国民に知って貰わなければならない。観光の為ではなく、国が如何に努力しているかという理解者が必要で、だから学ぼうとする限られた人にだけ門戸が開かれる。それが体験学習会なのだ。つまり以上のことを学んだ人だけが、砂防工事用につくられたトロッコに乗ることができるということなのである。
 
デーゼル機関車が3両の 
人員輸送用トロッコを牽引
 起点の千寿ヶ原は、人でごった返す立山ケーブル駅の目と鼻の先にある。ただ堅苦しい感じの漂う砂防博物館の裏手にあるため、多くの観光客は気付かず素通りしてしまう博物館の下に車両基地があるが、これも外からは見えない。博物館内で学習したあと、ふと二階の窓から外をみるとトロッコ基地があることに気付いた。まるで遊園地の豆列車のようだ。ただ違うのは、敷かれた軌道の数。その数が半端ではなく、大規模な施設なのだということが実感される。運転訓練用の軌道まであるのだ。
屋上にヘリポートがついた
事業所・博物館。停留所名
は千寿ヶ原       
 この日の体験乗車に使用されたトロッコ列車は、「平成」号と「薬師」号の二編成。夏休みということもあって、通常の倍の人数である。多少倍率が低かったと見える。我々は第一便となった平成号に乗り組む。トロッコはしばらく常願寺川沿いを遡り、最初のスイッチバックでもと来た方に戻り高度を上げていく。下を逆方向に薬師号が走っていく。これはいい! 薬師号がいい被写体になりそうである。やがて千寿ヶ原まで戻って来た。もちろん高度が上がっているから、博物館が下に見える。屋上は災害時用のヘリポートが設置されていた。トロッコはそのまま進み、観光客で満員の立山ケーブルと擦れ違う。先ほど乗って来たものだが、そのときはトロッコが走っていなかったので気がつかなかった。
バラスト貨物とモーターカー
通過した箇所を下に見つつ 
スイッチバックしながら進む
(7.9キロ地点 鬼ヶ城連絡所)
 専用軌道は軌間610ミリ、全長18.2キロからなる。千寿ヶ原から水谷の間には5カ所の連絡所が設置されていて、ここで列車の交換がなされている。連絡所という名前からして、閉塞確認を連絡し合っている信号所という位置づけなのだろう。擦れ違う列車には乗っている人員輸送用もあれば、バラスト運搬用貨物列車、モーターカーも見かけられた。
薬師号は前進から停止、
更に後進していくところ
 千寿ヶ原の標高は476m、左の写真の鬼ヶ城は713mで、すでに237m登って来たわけだが、距離は7.9キロだから、平均勾配は30‰ということになる。多くはスイッチバックで稼いでいるので、それ以外は平坦な感じだ。


身を乗り出してバック運転
 ところで終点水谷は、白岩砂防堰堤よりも高い位置にある。そして堰堤より低い位置にある最後の連絡所が樺平だ。水谷が標高1116m、樺平が883m。標高差233m。ここに驚きの18段連続スイッチバックがある。何回も往復運動しながら、200mの山肌を登っていく。まさに、スイッチバックの頂点に立つ見事な景観だ。最初は見上げていた向かいの山の岩壁が、次第に同じレベルになり、眼下に移っていく。鬱蒼とした緑の中のスイッチバックだから、残念ながら全貌が見渡せる箇所はないが、途中で何段目か数えるのを忘れてしまうほど、いつまでもいつまでも続く至福のスイッチバックであった。
鉄道模型のレイアウトのような
配線            
 最初に載せた白岩砂防堰堤の遠望写真は、18段スイッチバックが終わった近くの展望台で撮影したものだ。見えている部分の標高差は100m余り、この倍の高さを18段で登って来たかと思うと、いかにスケールの大きなスイッチバックであるかが実感としてわかってくる。
 およそ1時間40分の旅が終わる。水谷から先はバスで砂防ダムを見て回る。あくまでもトロッコは、国の治山治水の最先端を学ぶための移動手段なのである。帰りは、最初にバス見学した人たちの帰路用であるから、残念ながらここでトロッコとはお別れだ。終わってみれば、まさに夢のような体験であった。
(2011/8/17学習)
立山砂防の図







2013年3月26日火曜日

失われた山田線を訪ねて

 
 陸中大橋のヘアピンカーブ


めがね橋にはSLが似合いそう
 宮沢賢治が活躍した花巻と新日鐵で有名な釜石を結ぶ釜石線は銀河鉄道を意識したキャンペーンを続けている。沿線には民話のふるさと遠野もあって、JRとしては観光客を誘致した路線であろう。しかし山岳鉄道ファンにとってはそれ以上に垂涎の場、陸中大橋のループがある。
 上越線湯檜曽ループのように完全に閉じたものではないが、Ω(オメガ)ループと呼ばれるように、ほとんど閉じかけたカーブなのである。特に陸中大橋はヘアピンカーブと言っても良い。
眼下にこれから走る線路が見えてくる。
陸中大橋駅は左、釜石は右手トンネル
の先である。               

 両側から迫り来る山間を利用して、出来るだけトンネルを掘らずに勾配を稼ごうとしたために、Ωというよりは音叉の形に近いヘアピンカーブとなっている。そのため、かなりの高低差のある線路同士が平行に走っている場所があって、まるで狭い空間を上手に活かした鉄道模型のジオラマを見ているような錯覚に陥るという。ぜひ、ここを訪ねてみたかった。
 
先程通った橋を見上げつつ進む。
標高差約40m。直線距離130
m。橋では左から右に下っている。
ところが、あの東日本大震災が起こって三陸の鉄道は壊滅的な打撃を受けてしまった。ただの鉄道愛好家が被災地を訪れるというのはいかにも気が引けることだ。随分長い間出掛けていくのがためらわれたが、一方で日本に住む同胞として見ておかなくて良いのかという思いもあった。震災から2年が経ち、被災地を観光することが支援になるという声声も聞かれるようになったこともあって、この地を訪ねることにした。



被災地へ


 釜石は釜石線のほかに山田線と三陸鉄道南リアス線が集まる交通の要衝だ。東日本大震災では、この山田線と南リアス線が甚大な被害を受けた。列車で来られるのはここまでである。 
前方左側に山田線の線路が見える
 お腹も空いてきたので、釜石で昼食をと思ったがどこも11時半からでやっていない。バスの時間が心配なため、釜石での昼食は諦めた。駅前はいきなり新日鐵の巨大な工場があるばかりで、行く当てもないのから近くのスーパーで時間を潰そうと思う。バス停が近いので助かる。無料休憩室でカフェオレを飲みながら、地元の人たちの様子を眺めるが、特段変った所はない。
 バス停「製鉄所前」から「道の駅やまだ」行きのバスに乗る。駅前からは大勢の人が乗って来て、バスは満員になる。津波想定区域の札が立っているが、工場ばかりでまだここが津波に襲われたことが実感できない。しかし、駅前の川を渡ると様子が変った。建物がまばらになのである。残った建物も1階部分が何もないか、シャッターがひしゃげられたりと、津波のエネルギーの大きさを目の当たりにする。バスは市街地を越えて坂を上り次の集落のある入り江に向かってトンネルを潜る。そこで景色は一変した。
 残った建物も何もない。虚しさが漂う。建物はなくてもバスにはたくさんの人が乗っている。彼らはみな被災者なのだ。とても写真など撮れる雰囲気ではない。後ろめたさが込み上げてくる。
 40年前、三陸を訪ねたことがあった。満足に舗装もされていなかった道が、等高線を辿りながら入江から入江へと結んでいた。リアス式海岸は山と山の間に入江があり、集落があるから、道は入江に差し掛かるたびに高度を下げ、次の入江に向かうために山道を登っていった。
 このバスも当時と同じように、入江ごとに山から下っていく。途中までの高台では見慣れた田舎の風景だ。遥か彼方の海は穏やかで綺麗だ。ところが津波浸水区間の札が出てくると、そこから先はなにもない。跡形もない。へし折れた鉄骨は撤去された建物の跡だ。コンクリートの基礎だけが、間取りの形に残っている。それ以外は何もない荒野を、復旧された道だけが、かつてあった街路通りに何キロも続いている。建物はなくても停留所ごとにバスは止まり、人々は少しずつ降りていく。ここからは見ることが出来ない、この先の高台に仮設住宅があるのかもしれない。虚しさと悲しみが押し寄せる。確かにガレキは片付けられたが、それだけに空疎で、復興の兆しはなにもない。
 バスは高台にのぼり、眼下に入り江が広がった。青空のもと、山田湾は実に美しかった。真新しい黄色の浮きが整然と並んでいる。ホタテの養殖だろうか。この海が多くの人の命を奪ったとはとても考えられないくらいだ。
 本来なら山田線でここを通るはずだった。しかし、道床ごと押し流された線路は跡形もないか、あるいはレールがぶらりと浮いて無惨な姿を曝していた。復旧には莫大な金がかかることだろう。JRはどうするのだろう。気仙沼線では鉄道による復旧は断念し、BRT( bus rapid transit=バス高速輸送システム)に移行している。もう二度と釜石・宮古間に鉄道は戻ってこないかもしれない。 
 宮古行バスへの乗り換え停留所は船越駅前である。乗り継ぎ時間の合間を利用して今は使われていない山田線を見に行くことにした。海から遠く高台に位置するこの辺りは、何の変哲もない田舎町である。津波が来るか来ないかで、世界は一変しているのだ。駅片隅にある踏切には「休止中」の札が掛かっている。どこも壊れていない鉄道施設を見ていると、津波など全くなかったかのように思えてくる。
荒れた船越駅
 しかし、列車の通るあてのないレールには錆が浮かんで、命が尽きようとしているかのようだ。早くここまで列車を走らせてやりたいと思うが、代行バスが走っている今、このままずうっと放置されてしまうのではないかという思いが否定できなくなる。
 被災地を訪れたことは、これからの生き方を考えるきっかけになったと思う。誰しもいつかは終える命であるが、それがある日突然訪れてしまったたくさんの人たちがいる。残されても、生活が一変してしまった人たちがいる。自分は運良く、殆ど影響も受けずに生きている。この世の中の不条理をどう受け止めていくのか。じっくりと考えていかなくてはならない。




宮古から盛岡へ

 生き残った山田線は川を辿りながら北上高地を越える景勝路線だ。雪解け水で水量は豊か。新緑や紅葉はさぞかし美しいだろうと思われる。谷は深く渓谷の趣である。宮古の風は冷たくても日差しは明るくやはり海洋性の穏やかな気分が漂っていたが、分水嶺の区界は標高が780メートルもあって一面の雪が積もっている。窓は息で真っ白に曇った。北上高地によって岩手は大きく分断されている。

宮古→盛岡 キハ110 136 単行。 

2012年5月16日水曜日

足尾銅山観光のトロッコ

ラックレール仕様のトロッコ列車

 日本における公害事件の嚆矢とも言える足尾鉱毒事件から100年余りの年月が経ち、足尾銅山そのものが閉山してからも40年近くが経過した。現在は足尾銅山観光として通洞抗跡をトロッコ列車で観光する施設になっている。
 足尾銅山といえば、田中正造の活躍によって、世間ではすっかり悪玉扱いであるが、勿論現地ではそのような負の遺産に触れることはなく、もっぱら近代日本を支えた産業遺産として展示されていて、400年間にわたる歴史と1234キロにも及ぶ坑道のスケールが強調されている。その展示観光場所に導くのが、トロッコ列車であり、この観光の大きな魅力となっている。
 通洞抗入り口へは、一旦急坂を下って行かなくてはならない。機関車が下側に付き、観光客を乗せるトロッコを数両連結している。左上の写真は、トロッコを先頭に列車が急坂を登って来たところである。
 レールの間には登山鉄道と同じように、滑落防止のためにラックレールが設置されている。日本ではラックレールといえば、かつて碓井峠で活躍し今も大井川鉄道で利用されているアプト式が有名だが、こちらのものは2枚の鉄板の間に円筒形のピンを挟み込んだ形式であり、アメリカのワシントン山にあるマーシュ式に近い感じである。ただ、マーシュ式自体は枕木に固定するためにL字型の鉄板を用いている。銅山観光では強度を増すためにコの字型の鉄板で挟み込むようになっているので、その点はスイスのリッゲンバッハ式に近い。リッゲンバッハ式は歯車との噛み合わせを確実にするためであろう、円筒形のピンは用いない。従って、ちょうど両者の中間的な形式といえるのではないだろうか。

詳しくは「講座 スイスの鉄道」 ※2017/8/31をもって閉鎖しました。
 http://home.att.ne.jp/red/swiss-rail/Contents/FrameSetswiss.html 

 ラックレールそのものは、急坂の部分だけに設置されている。銅山観光入り口にある駅、機関車付け替えの中間駅、通洞抗内の駅それぞれは水平であり、ラックは設置されていない。入り口駅の先から中間駅の手前までがラック区間である。その長さは数10㍍でさほど長いものではないが、ラックレールそのものが珍しい日本では、興味深いいくつかの点が観察できる。

 通常の区間からラック区間に進入する部分は、機関車の車輪に取り付けられた歯車をラックにかみ合わせねばならない重要な箇所である。歯車を確実に破損させることなく噛み合わせるのは容易ではないという。エントランス部分には、少しでも摩擦を減らすために大量のグリスが塗られており、しかもラック部分が上下に可動式になって車輪側の歯車を受け止めるようになっている。

 観光という遊戯施設ではあるが、中間駅では登坂用機関車を切り離し、通気の悪い坑道内でも安心なバッテリー式機関車に交換する。乗っている観光客は、トロッコ列車があっという間に終わってしまうので少々拍子抜けするようだが、山岳鉄道ファンには心憎いばかりの演出で思わずニンマリとしてしまうのである。


(2012/5乗車)