2014年4月1日火曜日

スイッチバック讃歌

篠ノ井線 姨捨(おばすて)駅

特急 しなの6号 名古屋行

善光寺平を見下ろしながら、

特急は姨捨駅(左)の脇を通
過してしまう       
 駅に降り立った時、焚き火の香ばしい薫りがした。更科の里では、農作業を間近に控え、ところどころで枯れ草を燃やしている。春は確実にやって来ていた。
 姨捨駅は日本三大車窓の一つに数え上げられ、善光寺平(長野盆地)を見下ろす冠着山の中腹に位置しているだけあって、素晴らしい眺望が楽しめる。ホームのベンチはすべて線路側ではなく外を向いている位だ。松尾芭蕉が「田毎の月」と詠った棚田もすぐ向かいの斜面に広がっている。
 この三大車窓は一体誰が言い出したのかはわからないが、九州・肥薩線で矢岳を越える際に見える霧島連山の眺めと、北海道・根室本線の狩勝峠越え(ただし廃止された旧線に限る)で見える十勝平野の眺めということになっている。それにしても雄大な風景はほかにもあるはずで、どうしてこの三つなのか。
しなの6号遠望

篠ノ井からおよそ70mほ
ど登って来たところ。姨
捨まではあと120m上らな
くてはならない。後方、
白銀に輝くのは戸隠山。
(姨捨から撮影)
 共通するのはいずれも峠を越えて突然ひらける雄大な眺めという点であろう。ということは蒸気機関車時代の人々の思いが関係していそうである。峠を登る機関車は凄まじいほどの煤煙を吐き出す。更にその先に待ち構えているのはトンネルだ。窓を閉めても通路を煙が漂い、ハンカチで鼻と口を塞いでも煙の匂いと酸欠で息苦しい。もう勘弁してくれと思った時、トンネルを抜け出した列車は雄大な景色の中を、下り坂で煙を出さなくなった機関車に引っ張られながら軽快に走っていく。爽やかな風はこの景色に酔った人々にさぞ快かったに違いない。

 在来線の多くは蒸気機関車時代に敷設されたため、とびきり勾配に弱い機関車のために様々な工夫が凝らされている。その一つにスイッチバックがある。姨捨は姨捨伝説や松尾芭蕉の「田毎の月」だけでなく、スイッチバックでも有名な駅である。
桑ノ原信号場

本線は坂になっているが、左右
の引き込み線は水平に設置され
蒸気機関車でも動き出せるよう
工夫されている。      
 篠ノ井線は善光寺平が尽きる稲荷山駅から先には25パーミルの勾配が続く。パーミルとは千分率のことで、1000mにつき25m登る勾配であり、人や車にはさほどでもないが、蒸気機関車や貨物列車にはとても手強い坂となる。また篠ノ井線は特急も頻繁に通る重要幹線でありながら、複線化は見送られているため、駅間が長いと列車交換に困るので、その対策として信号場を設置し列車同士が行き違えるようになっている。
 ところが馬力の弱い蒸気機関車は坂道発進が出来ないので交換施設は水平に設置する必要がある。そこで本線は坂のままとし、信号所は水平を確保して、蒸気機関車は平らなところで勢いをつけてから登攀できるようにしたのが、桑ノ原信号場のようなスイッチバックなのである。稲荷山から登ってきた列車は、桑ノ原信号場で一旦左側の引き込み線に入る。ここでスイッチバックして本線を横切り右側の引き込み線で待機し、下ってくる列車の通過を待つ。列車が通過したら、助走をつけて本線を再び登って行く。蒸気機関車が廃止された後も、重量のある貨物列車にとっては必要な施設である。
 桑ノ原信号場をノンストップで通過すると電車は次第に高度を稼ぎ、あたりの家が次第に小さくなっていき善光寺平が広がっていく。脇には長野自動車道が通っているが、あちらは既により高所を走っている。やがて前方に姨捨駅が見えてくる。

右上に姨捨駅見えてくる。中継信号機が斜めとなっ
ているのは、この先の側線用信号機が<黄=注意>
となっているため。本線側は<赤=停止>    


姨捨駅へは一旦左側の側線に入り、バックして右手
前に進んでいく                

運転手は移動せず、窓から身を乗り出して安全確認
をしながらバックする             

逆推進運転中に下り普通電車が近づいてくる


乗車してきた上りが冠着に向かって出発したあと
今度は下り長野行が先程の側線に向かってバック
していく                  
バックを終えて、姨捨駅脇を長野に向けて下って行
く普通電車。向こう側斜面に棚田が広がる    

 この日、姨捨駅から見る戸隠や飯縄の山々は残雪で白く輝いていた。眼下には善光寺平すべてが見渡せる。手前の棚田に水が湛えられるまでにはまだ日があるようだ。秋の実りの季節には黄金色の稲穂がそよぎ、さぞ美しいことだろう。再び違う季節にここを訪れたいと思いつつ、次の下りを待った。
(2014/4/1乗車)

信越線 関山駅・二本木駅

関山駅

かつては左側に伸びる先に関山
駅があった。本線は横断歩道橋
のところで右にカーブしている
 鉄道の近代化とともにスピードアップの妨げになるスイッチバックが次々と消えていった中で、信越線にたったひとつだけ取り残されたスイッチバック駅がある。
 妙高高原駅から高田平野の外れにある新井駅までは21km、標高差は約450m。25パーミルほどの勾配で下って行く。間には関山と二本木の二駅があり、どちらもスイッチバックの駅だった。昭和60年(1985年)、すべての列車が電車化されるのに伴って、関山は通常の駅に変更され、線路自体は今も敷設されているものの、スイッチバックは廃止された。今も残るのは二本木のスイッチバックである。
 二本木駅がスイッチバック駅として残ったのは、駅の隣にある日本曹達二本木工場の専用線が併設されていたためであり、貨物輸送そのものが平成19年(2007年)になくなってしまったので、保線の面倒なスイッチバックは早晩廃止の憂き目に会うことだろう。
前方に二本木駅

本線は信号機の所で右に消えている。
※ 運転台後ろからの撮影のためガラ
スの文字が写り込んで見にくくなっ
  ている              

 姨捨駅が観光的価値もあってこれからも生き延びるであろうことに比べて、信越線の方は風前の灯である。信越線自体は横川・軽井沢区間が廃線となった段階で、都市間輸送の役割を終えて、もともと人口の少ない地域のローカル線として分断されてしまった。来年春の北陸新幹線開業によって更にそれは推し進められることになる。優等列車もなくなり本線を通過するだけの定期列車が全くなく、すべての列車が二本木駅に立ち寄るにも関わらず、構内の線路が雑草に埋もれているのは、ここがすでに役目を終えつつあることを示している。
 鉄道愛好家はノスタルジーに浸りたいものだが、現実は甘くない。信越線の車窓の素晴らしさはまた別のところで触れたいが、ここの鉄道が活気を取り戻すのはなかなか一筋縄ではいきそうもない。
(2014/4/1乗車)


登攀するためのスイッチバック


木次線三段式スイッチバック

左が一段目、右が二段目。少しずつ
高度を稼いでいることがわかる。 
 スイッチバックは英語でZIGZAGとも言うそうで、本来は急斜面をジグザグに登って行くためにある。姨捨や二本木のように、勾配ではあるものの登攀そのものは直線的で機関車が再発進するために停車場を折り返しにしているスイッチバックは、蒸気機関車全盛時代には日本各地に見受けられた。今はそれが希少価値となっているのだ。
延命水で有名な出雲坂根駅

右が一段目、左が二段目。左線路を
手前方向に登っていけば、やがて次
のシェルター付分岐に辿り着く。 
 さて、本来の登攀するために造られたスイッチバックとしては、箱根登山鉄道の四段式スイッチバック、木次線の出雲坂根や豊肥本線の立野の三段式スイッチバックが有名である。それぞれ行ったり来たりしながら高度を稼いで行く。視界が開けていくと同時に、今さっき通過した線路が見えるというのも、なんとも不思議な感覚である。いかにも登って行く(あるいは降りていく)ということが実感できる点で、スイッチバックはとても楽しい鉄道イベントである。
左が二段目、右が三段目

雪の多い地方のため、人里から離れ
た分岐器は雪囲いのシェルターで守
られている。三段目手前方向に登っ
ていくと、この峠のサミットに至る
 箱根登山鉄道や木次線の場合、運転手が運転台を移るというセレモニーまでついている。ここではスピードアップ・時間短縮などどこ吹く風、実にのんびりとしたものだ。効率優先の今の世の中にとって、なんと無駄多き世界の贅沢なことよと思わないではいられない。特に木次線の場合、そこに辿り着くまでがまた一苦労で、新幹線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えた後、新見でローカル線の芸備線に再び乗り換えて備後落合まで行けば、ようやく一日三往復しかない木次線に乗ることができるという、なんともまあ極めつけの秘境にそのスイッチバックはある。何かのついでに立ち寄ることなど所詮無理。スイッチバックのために一日を使うという、実に贅沢な時間を使った旅が楽しめる。
(2011/1/6乗車)
  
驚きのスイッチバック 立山砂防工事専用軌道

 さて、登攀するためのスイッチバックとして前代未聞の、驚きのスイッチバックが富山県にある。YAHOO地図にもグーグルマップにも記載されていないし、勿論時刻表や旅行ガイドブックにも掲載されていない。鉄道紀行作家の宮脇俊三が『夢の山岳鉄道』の中でこう記している。
 
「起点の千寿ヶ原まで一八・二キロ、スイッチバック四二カ所のこの破格の砂防工事専用軌道の乗車体験について、くわしく書くのはやめる。書けば書くほど鉄道ファンの嫉妬羨望の的になりそうだし、うまく書けそうにない。わりあい正確な路線図を一所懸命に書いて挿入したので、黒岩さんの絵を参照しながら乗り心地を想像していただきたい。」
(宮脇俊三『夢の山岳鉄道』より)

 これでは馬に人参ではないか。この御馳走お預け的文章には正直困った。見てみたい! 乗ってみたい!
 宮脇俊三が書けなかったのは、特別な許可を得て乗車したからであり、鉄道愛好家としてフェアでないと考えたからであろう。しかし現在では唯一乗るチャンスがある。立山砂防体験学習会に参加することだ。ただし回数が限られており、抽選に当たらなければならない。何とそれに当たったのである。
 
白岩砂防堰堤
8つの砂防ダムで
落差108m分の土砂
をくい止めている
 立山砂防工事専用軌道は立山カルデラという聞き慣れない地域にある。有名な黒部立山アルペンルートのすぐ脇にあるのだが、一般人立ち入り禁止区域のため、地元民以外にはほとんど知られていない。東西6.5キロ、南北5.0キロの巨大なスリ鉢状の地形の中にあった鳶山が、安政年間に起こった大地震で完全崩落し、その大量の土砂が放っておくと急流常願寺川によって富山平野に流れてくる。全て流出すれば富山平野が1〜2m埋まってしまうほどの気の遠くなるような量の土砂が立山カルデラにはあるのだという。カルデラはその形状から普通出口は1カ所である。そこで塞き止めれば流出は防げる。治山治水は国の要。人が住めるような場所ではないから国としては立ち入り禁止とせねばならない。しかし、莫大な資金を投じて努力している姿は是非国民に知って貰わなければならない。観光の為ではなく、国が如何に努力しているかという理解者が必要で、だから学ぼうとする限られた人にだけ門戸が開かれる。それが体験学習会なのだ。つまり以上のことを学んだ人だけが、砂防工事用につくられたトロッコに乗ることができるということなのである。
 
デーゼル機関車が3両の 
人員輸送用トロッコを牽引
 起点の千寿ヶ原は、人でごった返す立山ケーブル駅の目と鼻の先にある。ただ堅苦しい感じの漂う砂防博物館の裏手にあるため、多くの観光客は気付かず素通りしてしまう博物館の下に車両基地があるが、これも外からは見えない。博物館内で学習したあと、ふと二階の窓から外をみるとトロッコ基地があることに気付いた。まるで遊園地の豆列車のようだ。ただ違うのは、敷かれた軌道の数。その数が半端ではなく、大規模な施設なのだということが実感される。運転訓練用の軌道まであるのだ。
屋上にヘリポートがついた
事業所・博物館。停留所名
は千寿ヶ原       
 この日の体験乗車に使用されたトロッコ列車は、「平成」号と「薬師」号の二編成。夏休みということもあって、通常の倍の人数である。多少倍率が低かったと見える。我々は第一便となった平成号に乗り組む。トロッコはしばらく常願寺川沿いを遡り、最初のスイッチバックでもと来た方に戻り高度を上げていく。下を逆方向に薬師号が走っていく。これはいい! 薬師号がいい被写体になりそうである。やがて千寿ヶ原まで戻って来た。もちろん高度が上がっているから、博物館が下に見える。屋上は災害時用のヘリポートが設置されていた。トロッコはそのまま進み、観光客で満員の立山ケーブルと擦れ違う。先ほど乗って来たものだが、そのときはトロッコが走っていなかったので気がつかなかった。
バラスト貨物とモーターカー
通過した箇所を下に見つつ 
スイッチバックしながら進む
(7.9キロ地点 鬼ヶ城連絡所)
 専用軌道は軌間610ミリ、全長18.2キロからなる。千寿ヶ原から水谷の間には5カ所の連絡所が設置されていて、ここで列車の交換がなされている。連絡所という名前からして、閉塞確認を連絡し合っている信号所という位置づけなのだろう。擦れ違う列車には乗っている人員輸送用もあれば、バラスト運搬用貨物列車、モーターカーも見かけられた。
薬師号は前進から停止、
更に後進していくところ
 千寿ヶ原の標高は476m、左の写真の鬼ヶ城は713mで、すでに237m登って来たわけだが、距離は7.9キロだから、平均勾配は30‰ということになる。多くはスイッチバックで稼いでいるので、それ以外は平坦な感じだ。


身を乗り出してバック運転
 ところで終点水谷は、白岩砂防堰堤よりも高い位置にある。そして堰堤より低い位置にある最後の連絡所が樺平だ。水谷が標高1116m、樺平が883m。標高差233m。ここに驚きの18段連続スイッチバックがある。何回も往復運動しながら、200mの山肌を登っていく。まさに、スイッチバックの頂点に立つ見事な景観だ。最初は見上げていた向かいの山の岩壁が、次第に同じレベルになり、眼下に移っていく。鬱蒼とした緑の中のスイッチバックだから、残念ながら全貌が見渡せる箇所はないが、途中で何段目か数えるのを忘れてしまうほど、いつまでもいつまでも続く至福のスイッチバックであった。
鉄道模型のレイアウトのような
配線            
 最初に載せた白岩砂防堰堤の遠望写真は、18段スイッチバックが終わった近くの展望台で撮影したものだ。見えている部分の標高差は100m余り、この倍の高さを18段で登って来たかと思うと、いかにスケールの大きなスイッチバックであるかが実感としてわかってくる。
 およそ1時間40分の旅が終わる。水谷から先はバスで砂防ダムを見て回る。あくまでもトロッコは、国の治山治水の最先端を学ぶための移動手段なのである。帰りは、最初にバス見学した人たちの帰路用であるから、残念ながらここでトロッコとはお別れだ。終わってみれば、まさに夢のような体験であった。
(2011/8/17学習)
立山砂防の図







2014年3月24日月曜日

元気な静岡の鉄道たち

今さらながら、感動! 東海道線

 東海道線は日本を代表する大幹線であると同時に、一級の絶景路線でもある。なかでも小田原以西は、箱根火山が太平洋に迫り出した絶壁に張り付くようにして険阻な道が拓かれている。
 断崖絶壁の上を鉄道が走り、そのわずか下をセンターラインもないような県道が取り付き、遥か下の海岸沿いを国道が走っている。人気の観光地だけに交通量は多く、場所によっては海の上に有料道路までが造られ、橋脚が波に洗われている。いずれも難工事だったことだろう。
根府川橋梁と相模湾 1981年

 グリーン車の2階席からは、前方の伊豆の山々に始まり後方の相模灘へと続く、大きな弧を描く雄大な風景が堪能できる。快晴の空のもと太平洋は深い青を湛えて、遥かかなたには伊豆大島が横たわっている。そこを在来線では最高規格の鉄路が敷かれているため、列車はそれほどスピードを落とすことなく疾走するのだから、快適以外の何ものでもない。普段は車窓になど関心のない人々も、ここだけはみんな風景に見入っている。
 その昔、東海道線のような大動脈は特甲線という規格でレールが敷かれた。甲乙丙の3ランクに収まらない特別な最高ランクの甲線というほどの意味だ。小田原・熱海間はさすがにカーブが多いために背の高いグリーン車2階席はローリングが気になるが、JR東海の熱海から先は実にすばらしい乗り心地だ。丹那トンネルに入ると、車両の揺れはほとんど収まっている。地方のローカル線などは、保線のしづらいトンネル内では乗り心地が悪くなりがちだが、ここではまったくそのようなことはない。新幹線で鍛えられた高度な技術がここでも活躍しているのだろう


 富岳観賞という点では案外東海道線はよろしくないと思う。歴史の古い路線のため、地上をひたすら走るので、どうしても美しい富士の前には無粋な電線が立ちはだかっているからである。気にならないという人もいるかもしれないが、車窓で富士を楽しむなら高架で見晴らしの良い新幹線が断然お勧めだ。
左富士 函南・三島間
関西方面に向かう列車の左車窓
に富士が望める場所   1982年
 富士の愛で方のひとつに「左富士」がある。東海道を京に向かう際、道中右側に聳える富岳が左側に見える珍しい場所が何カ所かあるのだが、その一つに由比がある。浮世絵で目にすることも多いのでご存知の方も多いに違いない。富士川を長大な橋梁で渡ると、東海道線は進路を大きく南に変え、それまで右側に見えていた富士が左後方に位置を変える。小田原・熱海間のようにここでも山塊が太平洋に迫り出していて、それを迂回するために鉄道と道路は海岸に寄り添うように走らなくてはならないのだが、その時左手後方に富岳が望めるのである。
313系近郊型電車

JR東海の主力電車。さまざまな種類
があるが、静岡地区はロングシート仕
様となっているのが玉にきず。    
 この辺りの線路脇には異様なほど分厚い年代物のコンクリート壁がずうっと続いている。昔は太平洋の荒波から鉄道を守らなければならなかったのである。その後海側に国道1号線が、更にその外側を東名高速道路が通るようになった。だから今では列車から海はほとんど見えないのだが、0メートル地帯であることに変わりはなく、よく台風接近の際に高潮で通行止めになる。東日本大震災以来、津波の恐ろしさを思い知らされているので、東南海トラフ起因の地震が起こったらひとたまりもないなと余計な思いが脳裏を過る。逃げ場がないのだ。しかしながら、過酷な自然は時として風景は絶景になる。浮世絵にも取り上げられる所以である。この浜を過ぎ、トンネルを抜ければ、清水や静岡は目前である。

 東海道線の魅力的な風景はこの先も続くが、今回は静岡の鉄道を楽しむ旅、ひとまず少し戻って吉原からのプチ旅行から始めよう。

製紙工場を支えた岳南鉄道

吉原駅にて
岳南とは富岳の南に位置するという意味だろう。吉原と岳南江尾の間約9キロを結ぶ小鉄道である。大小様々な製紙工場を縫うようにして走っている。今では貨物輸送は廃止されてしまったが、工場地帯とともに発展したので、風景は鶴見線に酷似している。
 それにしても工場地帯というのは実にシュールな景観だ。あたかも廃墟の中を走っているかのような錯覚に襲われる。稼働中の施設ばかりでなく、サビの浮いた巨大な休眠施設や放置された工場内線路がここかしこにある。しかもそのバックに世界文化遺産の富岳が見えるのは、もう凄いとしか言いようがない。
岳南江尾付近から見える富士山
 その中をちっちゃな電車がゴトゴトと走っている。岳南富士岡から先は雑然とした畑や民家に変わり、終点の岳南江尾には何か特別の物でもあるのかと思ったが、だだっ広い構内のはずれを新幹線が斜めに横切るという、観光とは無縁の無人駅だった。
点検後直ちに発車 岳南江尾にて

 それでも湘南電車型の風貌を持つ両運転台式の1両編成電車は、なぜか憎めない可愛らしさを持っている。いかにも俊足そうな流線型の電車が、路面電車のように両運転台式なのだから珍しい。
 
比奈で列車交換
 製紙工場は昔と比べて高度な排煙処理をしているので、あちこちから真っ白な煙が勢い良く排出されている。ただいくら白くても、煙は煙で、いかにも体には悪そうな感じがする。昔のような強烈な匂いこそないが、何となく漂白剤のような臭いが微かにする。富岳が自然遺産にならなかったのも、裾野に広がる工場地帯の影響もあるだろう。写真を撮ろうにも電線が邪魔をする。そんな中を、岳南鉄道は健気に走っている。


JR併走型地方鉄道の奮闘 静岡鉄道 

新清水駅にて
 住宅街からそろそろっと電車は現れた。静岡鉄道の終点・新清水駅の裏手は住宅が密集地する生活感あふれる所だ。2両連結の電車は、あっという間に人で埋まってしまいそうなほど狭いホームにゆっくりと停車した。 
 静鉄はJR東海道線の清水・静岡間を併走している。ただそれぞれの駅は微妙に東海道線から離れているため、新清水と新静岡というように「新」の冠が付いている。多くの場合、新がつく方は新参者の悲哀で、「本」駅に比べ寂れていることが多いものだが、静鉄の場合、確かに駅自体は小さいものの、人の多い町中を頻繁に電車が行き交い活気がある。路面電車が似合うような庶民的な土地柄である。でも、本格的な鉄道となっているのには事情がありそうだ。
 JRの清水・静岡間11.2キロには中間駅として草薙と東静岡の二駅がある。一方の静鉄は何と13駅、完全に地域密着型の鉄道なのである。電車はすべて二両編成、全線複線で駅は有人、日中でも毎時9本というフリークエントサービスの徹底した優良鉄道だ。頑張っているなあという感じがひしひしとする。
 静鉄がよくできてるなあと思うことの一つに、JR駅との絶妙な距離がある。静岡の町は、国道1号線(東海道)や東海道線に沿って広がっているから、人口の多い地域に鉄道を敷けばどうしても競合してしまう。静鉄はほぼJRと併走し、こまめに停車して乗客を獲得しながらも、JR駅との間に適当な距離があるので、乗り換えにくいのである。一番近い草薙駅でも100m以上離れている。JRと並行する京成電鉄が、船橋駅でJRにごそっと客を奪われているのとは大違いだ。
 新静岡駅はおしゃれな駅ビルの裏側に位置している。頻繁に出入りする電車からは乗客がたくさん降りてきて、JR静岡駅との間の都会的センスに満ちた繁華街へと吸い込まれていく。路面電車であればスピードも遅く、ここまで利用者は多くなかっただろう。わずか2両編成の電車がひっきりなしに行き来する静鉄は、利用者に優しい地方鉄道の優等生ではないだろうか。

文化財を巡る旅 天竜浜名湖鉄道


原谷での交換風景
日本の原風景に出逢う旅。

 天竜浜名湖鉄道のキャッチコピーだ。昭和の原風景といってもいい。掛川から沿線の中心地である天竜二俣までは、進行右側に茶畑、その先新所原までは左側に浜名湖が広がり、天浜線の見どころとなっている。更に天竜二俣の前後、遠州一宮から西鹿島あたりには、近年めっきり見かけなくなった藁葺き農家が点在している。全線ほのぼの感が漂う鉄道だ。
駅前に展示された 
遠方信号機(右)と
副本線用場内信号機

 それにしても天浜線とは言いにくい。思わず天玉と発音し立ち食い蕎麦のようで苦笑する。国鉄時代を知る者にとっては「二俣線」と呼びたいところだが、JR化で見捨てられ、第三セクターとして頑張っている天竜浜名湖鉄道にとっては、天浜線以外のなにものでもないだろう。これからは「テンハマセン」と噛まずに言えるようにしよう。
転車台

 さて、この昭和の原風景の主役は古い鉄道施設である。木造駅舎、単線での列車交換施設、橋梁等々が天浜線沿線の随所に散りばめられているのだが、何と言ってもその白眉は天竜二俣駅の構内施設である。

給水塔
水は井戸水を使用
 転車台と扇形機関庫、給水塔と井戸、駅舎、運転区や事務室などの鉄道施設が有形文化財として登録されている。しかも蒸気機関車が走らない今でも、かつて機関士たちが煤を洗い流すために使用した風呂以外は、いずれも現役として利用されているのだ。給水塔などは洗車機用として活躍している。運転区と事務室が建ち並ぶ一画を歩いていくと、青い作業服や軍手がたくさん干してある。使われていない湯船を見ると、今が蒸気機関車時代ではないことを改めて思い知らされるのだが、ここが今も現役の鉄道施設であることが感じられて、単なる保存展示とは次元の違う見学ができる。「すみません、見学させて頂きます」という思いを持つのと持たないのとでは、感動の質がちがうからである。ここを訪ねて本当に良かった。
かつては人力で回していた
転車台も今は電動式   
 係の人たちが転車台の実演をしてくれた。一人の係員が転車台をアイドリング中の気動車の位置にぴたりと合わせてロックをかけ、もう一人が気動車を載せる。気動車は転車台ほぼいっぱいの大きさなので位置合わせは難しそうだ。運転台の窓から体を大きく出して、慎重にかつ一発でぴたっと止める。慣れているとはいえ、見事なコンビネーションだ。昔は人力で回した転車台も今は電動式であり、我々にサービスで一回転してくれた。
現役の扇形機関庫
 また機関庫に併設された鉄道展示館内には、タブレット、腕木式信号機、鉄道電話、駅名表示板、改札業務用機器などが並べられ、ローカル線をテーマとした鉄道博物館になっている。すべて駅構内にあるため、毎日開かれる見学ツアーに参加することによって、誰もが昭和にタイムスリップ出来るようになっている。

タブレット閉塞機
緑色は珍しい?
赤色が多いのだが…

 このように鉄道の原風景満載の天浜線なのだが、惜しむらくは、ここで走っている気動車が余りにも今風で電車のように見えてしまうことだ。お世辞にも周りの風景に合っているとはいえない。なんとももったいないと思う。どうせ新車で大量に導入したのだから、もっとレトロな雰囲気を大切にしたデザインであって欲しかった。
 いすみ鉄道のように、国鉄の旧型気動車を購入して運行したらいかがか。天竜二俣駅の有形文化財に登録されたプラットフォームで、ディーゼル急行と普通列車がすれ違うシーンを演出したら、中高年の鉄道ファンが全国から集まるに違いない。やるなら徹底的にやるといい。お金を払ってでも見たい人は多いだろう。茶畑や浜名湖をバックにポスターを作り、新幹線で掛川まで来てもらい、昭和の鉄道で売り込む。ぜひ実現してもらいたいものだ。

 さて、天浜線の名前の由来となった天竜川は二俣本町の先で渡る。山が迫り丘陵地帯に囲まれているので、川は蛇行し荒々しい姿をしている。一方その先の浜名湖は広々と穏やかで、レジャーボートのマリーナも点在している。浜名湖が尽きれば、終点新所原は近い。




中核都市・浜松市を貫く遠州鉄道

 ルイ・ヴィトンやティファニーなどの高級ブランドショップの前を通ると、遠州鉄道新浜松駅がある。洗練された感じの駅で、エスカレータを上がると改札口があり、ホームは更にその上となる。対面式2線の高架ホーム向かい側には、湘南型の2両編成電車が止まっていた。乗ってみたいなと思ったが、車輪に手歯止めが噛ませてあるので、当分動かないのだろう。そのうちに綺麗な新車、西鹿島行が入線してきた。

 遠鉄は新浜松・西鹿島間17.8キロを赤電と呼ばれるインバーター制御回生ブレーキ付の高性能電車が結んでいる。全線単線だが、特筆すべきは全18駅中7駅が高架駅なのである。単線で38.9%の立体化率は驚くべき数字である。それだけ浜松市のモータリゼーションが進んでいるということだろうし、またこの地方の中核都市としてインフラが整備されているということでもある。単線でこれだけ連続高架(都市の象徴)があり、駅に着くたびに両開きの分岐器(ローカル線の象徴)があるというのは、とても珍しい風景だ。ここにはローカルな雰囲気など微塵もない。
上島駅で交換
 アーチを描いた駅屋根は東京でもおしゃれな小田急線を彷彿とさせるが、そこで列車交換があるところが遠鉄らしいところだろう。
 
浜北駅で交換
 自動車学校駅からは地上を走る。この駅名はいかにも地方鉄道らしいが、ローカル鉄道にありがちな高校名ではないところに利用者層の幅を感じる。次第に緑や畑が増えて、車窓には郊外の雰囲気が広がってくる。沿線の中核駅と思われる浜北で列車交換があるが、上りは夕方のラッシュに合わせて4両編成となっていた。また遠鉄で感心するのは保線状態がきわめて良いことだ。分岐器の枕木もガラス繊維を使った合成枕木で最新式のものを使用している。
 ほぼ終日12分ヘッドの各駅停車のみという完全なパターンダイアで運行し、新浜松・西鹿島を32分で結んでいる遠州鉄道は、経営的にも安定した理想の地方鉄道である。
 
天浜線から眺める天竜川
 終点の西鹿島は、天竜浜名湖線の乗換駅でもある。西鹿島から天竜二俣まではふた駅と近いが、間には天竜川が立ちふさがっている。その先は南アルプスへと続く里山である。二俣と結ぶには、橋梁とトンネルの掘削が必要だったので、ここを終点としたのだろう。電車を降りて、地下連絡道で寂れた天浜線ホームに行く。これで静岡の鉄道はすべて乗り尽くしたことになる。これから再び天浜線の旅を楽しみ、掛川からは「青春18きっぷ」を利用して東京まで各駅停車で帰ろうと思う。6時間弱の長旅となるが、鉄道愛好家にとってはそれもまた一興というものだ。

 







2014年2月12日水曜日

惜別 寝台特急「あけぼの」の旅

サヨナラするため青森へ

 寝台特急「あけぼの」に初めて乗車したのは1975年9月2日のことだった。北海道からの帰り道、乗りたかった寝台特急「ゆうづる」は満席で、駅窓口の係員に勧められるままに、仕方なく奥羽本線経由のローカル寝台特急の寝台券を手に入れたのだった。
 連絡船との接続は悪く、客車は古い20系の3段式ベッド。青森を18:29に出発し、秋田からは内陸に入り、山形を通って福島から東北本線を南下して、上野到着は6:52。こんなに時間をかけて遠回りしながらも、当時の特急には当たり前だった食堂車の連結はなく、あろうことか車内販売すらないという超格落ちローカル寝台特急だった。当然印象はすこぶる悪い。20系は昭和30年代の設計で寝台幅が52㎝しかなく、寝返りすら打てない窮屈な思いをしながら、せっかくの北海道旅行の最後が台無しだなあと思ったものだった。
 あれから39年、国鉄がJRに変り、山形新幹線の開通によって奥羽本線が福島と新庄で分断され、「あけぼの」は北上線経由となり、更に寝台特急「鳥海」に取って代わって上越・羽越線経由となってからも、上野と秋田・青森を結ぶ寝台特急として生きながらえてきた。そして東北新幹線開業にともなって東北地方から在来線特急が次々と姿を消す中にあって、「あけぼの」は上野と北東北を結ぶ大切な列車となっていった。私自身、「鳥海」時代を含めれば7回ほどお世話になり、いつの間にかお気に入りの寝台特急になっていたのである。五能線や津軽地方を訪れるには最適の列車であるばかりでなく、個室寝台が手軽に利用できるというのも魅力の一つだった。
 それが2014年3月14日、ついに幕を下ろしてしまう。日本から夜行列車が次々と姿を消しつつある今、ブルートレインとして生き残るのは、「北斗星」と「はまなす」しかない。<目が覚めれば異郷の地>を味わえる鉄道の旅は、終焉を迎えつつある。実に寂しい限りだ。
新青森駅
残すところあと1ヶ月となった2月12日水曜日、続けては休暇の取れない平日ではあるけれど、「あけぼの」に別れを告げるために、青森を目指すことにした。翌朝は上野から直接職場に出勤するのでスーツ姿で旅立たねばならないが、それはそれで面白い。いっそエリートビジネスマンをまねて新幹線グリーン車に乗ってみようということになった。グランクラスも考えたが、グリーンすら乗ったことがないのだから時期尚早、楽しみは次回に回すことにする。列車限定の早割を利用すれば、お得な料金で最新型E5系のグリーン車が利用できる。実に格好いい! と自己満足に浸る。
 グリーンに乗る以上、新青森までの3時間34分は特別な時間だ。ケチケチなどしてはいられない。東京駅エキナカGRANSTA DININGにある高級スーパーマーケット・紀ノ国屋で、冷えたシャルドネと気の利いたオードブルと屋久島の水を手に入れて、流れる車窓を眺めながら贅沢な時間を過ごそうと洒落てみる。席は進行右側、奥羽山脈を楽しめない窓側は今まで出来るだけ避けてきたため、どうもこちら側の風景は記憶にない。車窓ファンとしては是非とも記憶にとどめたいところなので、今回は右側の席を選んだ。有名な山は筑波山くらいしかなく、宇都宮や郡山、仙台の繁華街はすべて左側に位置し、右側に街が広がるのは福島や盛岡くらいのものであるが、東北自動車道と交差するたびに、見覚えのある標識や周りの風景が確認できて、結構面白い。ほろ酔い加減であっという間の3時間半だった。
  新青森に近づくと、右側の車窓には前方に青い陸奥湾、後方には雪に覆われた八甲田山が広がっている。ここまで乗り通す客はまばらで、それなりにグランドツアーに出た心境になってくるものだ。本日のお目当ては青森ではなく、このあとすぐに12時間かけて上野に戻っていく。実に酔狂な旅である。現地滞在時間は1時間余り、そのほとんどは<晩餐会>の準備に費やすだけだ。
青森駅
新青森と青森の間は、特定区間となっていて特急自由席に乗車券だけで乗ることが出来る。今日の連絡列車はJR北海道のスーパー白鳥だ。わずか一駅の旅だが何となく得した感じがするのは自分が鉄道愛好家だからであり、一般の人はきっと面倒だろうなと思う。青函連絡船がなくなり、東北新幹線が八戸まで開通してから本州と北海道を結んできた趣のある特急だが、これも来年の3月に新幹線が函館まで繋がると廃止になってしまう。この列車でまた函館湾をぐるっと廻っておかないといけないなあと思うものの、今回はお預けだ。

青森駅は雪の中

青森駅東口改札口
石川さゆりの名曲「津軽海峡冬景色」の中で唄われている青森駅は寂しい終着駅だが、旅人が目指す北の町は更にその先の厳冬の中にある。

 上野発の夜行列車降りた時から青森駅は雪の中
 北へ帰る人の群れは誰も無口で海鳴りだけを聞いていた

長岡まではEF81が牽引
「あけぼの」の廃止によって、上野発の夜行列車で青森駅に降り立つことはもう出来なくなることに気付いた。「北斗星」や「カシオペア」は青森通過であるし、「はまなす」は札幌発である。今回ここを訪れてたのは昭和に別れを告げるためであったように思えてくる。青函連絡船が運航していた頃はヒトヒトヒトでごった返していた青森駅も、今は閑散としている。持て余し気味に何本も並ぶプラットホームには、編成の短い列車がまばらに停車しているだけで、長大な屋根の下に寸足らずの電車が妙に寒々しい。普段人がそこまで来ることはないホーム半ばから海に向かって端まで続く屋根は、老朽化からだろうか、無骨な支柱に加えられていて、そこが滅多に使われることのない忘れられた空間であることを示している。かつてはそこを連絡船に向かう旅人がせわしげに走ったところである。栄枯盛衰の世の中を感じさせる風景だ。
 しかし、3番線ホームだけは活気があった。何処からやってきたのか、「あけぼの」廃止を惜しむファンが集まっている。ファンに混じって、長岡まで牽引するEF81のヘッドマークを背景に記念写真を撮る老夫婦もいる。みんな惜別の思いからここにやってきているのだ。それにしても、もったいないなあとつくづく思う。なんとかならないものか。日本から夜汽車がなくなってしまうのは、文化的損失ではないのかとすら思うが、経営的に超優良企業であるJR東日本がそのような考えになることは絶対にあり得ないし、無くなるからこそ悲壮感が多くの人の心を打つのだろう。編成の端から端までゆっくり歩いて、見納めの寝台列車を堪能する。
「あけぼの」は青森を18:23に発車し、上野に6:58に到着する。12時間35分の長旅は39年前と殆ど変わらない。乗車すると「食堂車・車内販売はございません。予めご了承ください」と車内放送が入った。これも変わらない。ここでは時間が止まっている感じだが、車内設備だけは大きく様変わりしている。

オハネ24-552 B寝台ソロ8上
入口から撮影

 今からちょうど一ヶ月前、自宅最寄り駅のみどりの窓口で10時ちょうどにA寝台・シングルデラックスを取ろうとして、結局瞬時に売り切れてしまったのだったが、幸いB寝台ソロの上の個室が空いていて、そこを押さえることができた。「あけぼの」のソロには、かつて下段の個室には乗車したことがあった。印象としてはとても狭い穴蔵で、スーツの着替えが厄介だなあと不安はあったが、上段の個室は入り口部分がちょうど階段になっていて、そこにかろうじて立つことが出来、これなら着替えは可能とほっとした。ラフな格好なら一層申し分のない空間だ。
晩餐会
12時間をどう過ごすかは、今回の計画を立てた時からの楽しみであった。個室寝台の利点は部屋を真っ暗にして車窓が楽しめることだが、それと同時にプライベート空間だからこそ、青森の地元料理を食べながら一人で宴会することも可能だ。今晩は大いに飲み明かそうと思う。
「つがる総菜」謹製の駅弁「たまご箱」は、おとなの休日倶楽部ミドルの2月号で紹介されたものである。青森県立五所川原農業高校(五農)の生徒が朝採りした卵を使って、寿司屋『助六』が焼き上げた玉子焼きを主菜とした駅弁だ。前日に電話予約をして、新青森駅の販売店で手に入れておいた。この玉子焼きを肴に青森黒石の地酒『亀吉』を呑もうという魂胆である。寝台個室ソロの壁にはほど良いテーブルがあり、そこに並べて酒宴を始める。チェイサーは奥入瀬渓流の水、つまみに鶏串も手に入れておいた。弘前から大鰐温泉を通過する頃には、雪もだいぶ深くなり、時々室内灯を消して外を眺めると雪明かりで景色が浮かび上がる。ここは一ヶ月ほど前に早朝の特急「つがる」で通った所なので、おおよその風景は記憶に残っている。客車列車はモーター音がないので、空調を切ると(これも自分で操作できるのが個室の良さだ)聞こえてくるのは、車輪がレールを刻む音だけである。奥羽本線はロングレールが殆どないため、規則正しいタタッタタという音の繰り返しが心地良い。
東能代 五能線の気動車
碇ヶ関を越えれば津軽地方とはお別れで秋田県へと入っていく。闇の中、大館から分かれていく花輪線の線路もはっきりと見える。二本目の冷酒を呑み終える頃には、津軽地方は遥か後方に過ぎていき、やがて世界一の大太鼓で有名な鷹ノ巣に到着する。ここからは秋田内陸縦貫線が分岐するが、駅構内に展示されている太鼓も内陸線も進行左側のために見ることはできない。そのかわり暗闇の中でうっすらと浮かび上がる山並みがぐっと穏やかになって、秋田の米どころが近いことを知らせてくれている。昼であれば遠くに白神山地の見えるあたりだが、さすがに夜は見えない。横を流れる米代川に沿って寝台特急「あけぼの」は東能代に向かって真西へと進んでいく…

4時15分水上通過
目が覚めたとき、列車は越後中里を通過し清水トンネルの最初のループに差し掛かるところだった。雪が深い。入り組んだ山懐を昇っていくために、下り本線と分かれていく。関越自動車道は真っ直ぐに三国山脈を目指してぐんぐんと高度を上げていくが、勾配に弱い鉄道はぐるりと高度を稼ぎながらでないと土樽の駅を目指せない。土樽駅のすぐ上には自動車道のネオンランプが輝いていて、雪がかなり降っていることがわかる。ここは川端康成の『雪国』で有名な国境の駅である。今日は小説とは逆の道を辿って雪のない上州を目指していく。石積みで作られた歴史ある清水トンネルを抜け、ガーター橋で渓流を越えると踏切があって、土合の駅に着く。勿論ここは通過。そのあと二つほど短いトンネルを越えると、眼下に湯檜曽の温泉街が見えてくる。二つ目のループまではもう少しだ。谷川に沿った温泉街の外れの少し開けたところに湯檜曽の駅が見える。向かい側の山腹にある湯檜曽駅まで、今「あけぼの」が走っている真下を、直角に線路が通っている。これからこの列車はそこまで、ぐるりと左にカーブを切りながらゆっくりと高度を下げていくのだ。そのほとんどはトンネルの中である。川端は清水トンネルを抜けたところで「夜の底が白くなった」と、あたかも三国山脈の関東側になかった雪が、土樽駅には降り積もっているかのように書いているが、実際はここから水上までは雪の中であり、ここもまた雪国である。
上越線牽引はEF64
しかし、列車は確実に関東平野に近づいている。上野まではまだ2時間近く走らなければならないが、「あけぼの」の旅は大きな山場を過ぎている。夜が明ければ、いつもの都会の喧噪が始まり、また日常が戻ってくる。「あけぼの」はその名の通り、夜明けを目指してひた走りに走る。ヘッドマークが表しているような「やうやうたなびくやまぎは」をこの列車は上野を目指しているのだ。
目に見えるゴール
6時58分、列車は上野駅13番線の寝台列車専用の地上ホームに静かに到着する。この先はどこへも行けない終着駅。いったいあと何回このホームを利用できるのだろう。来年の今頃は最後の定期ブルートレインがここから旅立っていく筈である。日本の夜汽車の終焉がまた一歩近づいてきた。


後日談

 「あけぼの」廃止まであと2週間となった。毎日乗り換えで利用している西日暮里駅の3番線ホーム。時計の針はもうすぐ6時50分を過ぎようとしている。1本だけ山手線を見送れば、通過を見送れるなと、見晴らしの良いホーム端まで歩いていこうとすると、ブーンというディーゼルエンジンの重低音を響かせて、青い列車が上野に向かって走っていく。灰色の蒲鉾のような屋根の所どころには赤茶けた錆が浮いていて痛々しい。ふと『老兵は死なず。消えゆくのみ』のことばが思い浮かぶ。でも、また会えて良かった。さすがにもう乗ることはできないけれど。
 同日夜8時55分、外回りの山手線が駒込駅に着く。このまま上野まで乗って行けば、朝見た「あけぼの」にまた会えるな、青森行を見送ろうと思う。

上野駅13番線ホームにはすでに多くのファンが集まっていた。近年ファンの層が厚くなっている。一眼レフをビシッと構える「鉄子さん」の姿もよく見かけるようになった。反対に、携帯片手の軽装ファンも少なくない。かく言う自分も急に思い立って来たために持っているのはスマホしかない。でも、動画が撮れる…と思いつつ、一両一両眺めながらEF64に向かって歩いていく。
 最後尾は女性専用ごろんとシート車だ。ただこれはちょっといただけない対応だと感じる。昔から日本の客車列車の最後尾は特別なところだったはずだ。「はと」や「つばめ」の最後尾は展望車であり、紳士淑女が乗る車両だった。後方に去りゆくレールを眺めながら旅を楽しむ特別な場所だ。そこが男子禁制の女性専用車だと、男性はどうすればよいのか。女性専用車は電源車の次に配置し、最後尾は誰もが楽しめる場所であって欲しいものだ。すべての乗客が後方に流れていく車窓を楽しむことができれば、こんな列車に乗ってみたいという人も増えるのではないだろうか。
 ゴロンとシート自体はとても気の利いたサービスである。乗客の減少で空いた寝台を格安で提供すれば、利用者は喜ぶからだ。そもそも夜行列車が人気ないからと言って、日本人が夜に移動しなくなった訳ではあるまい。運賃の安い豪華夜行高速バスの人気は高いと聞く。鉄道から人が離れていく最大の原因は割高な運賃設定にある。夜行高速バスの事故は後を絶たないのだから、もう一度夜行列車の魅力を再発見できればいいのだが、残念ながらその望みはなさそうである。多くの人に支えられた安全な乗り物はそれだけに経費もかかり、効率優先の安価な乗り物には到底太刀打ちができない。 
 ★★★B寝台が輝いていた昭和は遠ざかっていく。今日、寝台特急が支持されないのは、高速道路の四通八達と航空運賃の相対的な低額化が原因である。つまり国の政策が鉄道から自動車・航空機重視にスライドしたためであるから、当然のこと勝ち目はない。豪華列車カシオペアやトワイライト・エクスプレスですら廃止が囁かれている今、ななつ星のような例外的な超豪華列車を除いて、夜汽車の終焉はもうそこまでやって来ている。

動画は音声をONにしてお楽しみ下さい ▼











2014年1月7日火曜日

はるかなる男鹿

男鹿に至る道のり

 男鹿というとまず高校時代を思い出す。
 部活が終わると、どの女子部員を誰が送っていくか、男子の間でワイワイ騒ぎながら決めるのが伝統だった。女の子の方でも送られるのが当たり前になっていて、彼女や彼氏がまだいない高校生にはささやかな楽しみとなっていた。私の担当はいつも尾久近くに住む下級生だった。
 この子の家の近くには踏切があった。尾久には車両基地があるので、上野駅との間でよく回送列車が通った。尾久・上野間は機関車が客車を押していく推進運転のため、列車はとてもゆっくりと走る。一旦閉まった踏切はなかなか開いてはくれないが、女の子とおしゃべりを続けるにはかえって都合が良かった。若い頃はとりとめもないことでも、話はいくらでも尽きなかった。
 当時は青い客車や茶色い客車がたくさん残っていて、おもに夜行急行に使われていた。車体側面にサボと呼ばれる琺瑯引きの行き先表示板がぶら下がり、そこには東北各地の駅名が記されている。女の子と何を話したかは全く覚えていないが、サボは記憶に残っている。そのひとつが男鹿だった。急行「おが」、男鹿行である。そこがどのようなところかはわからない。当時の高校生は北海道ばかりに関心が向き、男鹿へ行きたいとも思わなかったが、おしゃべりの時間を引き延ばしてくれる有り難い列車として記憶に残っている。

 大学に進んで、一人旅を楽しむようになり、最初の東北旅行で利用したのがこの急行「おが」だった。60年代の鉄道旅行ブームは過ぎ去り、80年代は夜行列車を利用する人も減少してきた頃である。4人掛けのボックスシートを独り占めできるようにもなっていた。2人掛けに上半身を横たえ、足は反対側の席に投げ出せば、結構快適に寝られるものだ。中には缶コーヒー二つをシートの下に入れ、座面に傾斜をつけて寝る猛者もいた。枕がないので、頭を高くして寝る工夫なのだ。缶が外れたらとんでもないことになりそうなので、私はついに試みなかった。
急行「おが」は福島まで東北本線を北上し、奥羽本線に入って山形、新庄、大曲を経て秋田、終点男鹿に行く。快適に眠ることができ、目が覚めたのは新庄の先の真室川だった。朝靄の中を「真室川音頭の真室川だな」と思いながら風景を見ていた記憶がある。それにしても今の自分では考えられないほどの睡眠力である。この時は角館を訪れるのが目的だったために大曲で途中下車し、終点男鹿を見ることはなかった。


40年後の訪問

 ようやく男鹿を訪ねる時が来た。踏切で列車を見送ってから、40年の月日が経っている。遙かなる時が過ぎ、急行「おが」が廃止されてからも20年が経過している。
秋田駅から1.3キロ地点にある
奥羽本線300キロポスト   
 そもそも奥羽本線そのものが山形新幹線の誕生によって新庄で分断され、上野・福島からの直通列車の運行は出来なくなった。ところが、秋田から男鹿に向かう途中で見つけたものがある。300キロポストである。切りの良い数字だから目に付くのだが、どう考えても300という数字は福島からの距離を表しているではないか。山形新幹線は線路幅が標準軌になっただけで、厳密には在来線扱いだから当然と言えば当然ななのだが、直通できない線路であっても同じ奥羽線を語るのは、どうも妙な感じがする。でも何となく嬉しかったのは、福島と青森を結ぶ奥羽本線は乗り継げば今でも行ける同じJR線であるということだ。一部区間を第3セクターとしてしまった信越本線や東北本線とは違う運命を歩んでいる。
終点男鹿駅

列車後方に見えるのが寒風山。
 追分駅で奥羽本線と別れ、八郎潟を右に見ながら男鹿線は終点を目指す。右前方に寒風山が近づいてくる。男鹿半島の観光の中心であり、山頂からは360度のパノラマが開ける所として有名だ。周囲に障害物がないので、まさに名前の通り寒風が吹きすさぶという。列車は、秋田から1時間ほどで終点に着く。
 男鹿駅は構内が広く、貨物輸送のためかつてはこの先の船川港まで貨物支線が伸びていたから、厳密な意味での終着駅ではなかった。しかし現在は貨物線は廃止されたので、駅の端には車止めがある。
男鹿駅

複雑に入り組む機回し線
 機関車を付け替えるための機回し線も残っており、かつては上野からの急行「おが」が日中ここで休んでいたのだろう。1972年の時刻表には、季節列車急行「おが2号」は上野を21時22分に発ち、秋田8時21分着、そこからは普通列車となって9時53分に男鹿到着とある。指定席は勿論のこと、A寝台車1両B寝台車1両、自由席8両の合計11両という堂々とした急行である。秋田で自由席数両を切り離したかどうかはわからないが、広い構内と機回し線の長さを見る限り、フル編成の急行が上り列車の発車時刻18時30分まで、ここで長旅の疲れを癒していたとしてもおかしくはない。尾久の踏切で見たあの列車がここまで来ていたのだなと感慨にふけりながら、乗ってきたディーゼルカーで再び秋田へと戻った。
(2014/1/7乗車)