2014年1月6日月曜日

雪の弘南鉄道

うら寂れた跨線橋


大鰐温泉 2010年8月撮影

気がついてからあわててシャッ
ーを切ったので、弘南鉄道の文字
が少し読みづらい。クリックする
と写真が拡大。        
 たといお気に入りの列車に乗っている時であっても、どうしても途中下車したくなるようなことがある。大鰐温泉から中央弘前を結ぶ弘南鉄道を見た時がまさにそうだった。
 前の晩に上野を発ち、寝台特急「あけぼの」の個室の中で、鳥海山に昇る日の出の時からずうっと車窓を楽しんでいた。碇ヶ関を越え、ようやく津軽までやって来たなと思いながら、弘前の奥座敷と呼ばれる大鰐温泉に列車が到着すると、まず目に飛び込んできたのが、少し痛んだ跨線橋に記された弘南鉄道の文字だった。日本中の鉄道に一度は乗りたいと思っていたので、そのうちここにも立ち寄りたいと考えながら、今回は終点までこの個室の旅を楽しむことが目的だったと、改めて再訪を期したのだった。
大鰐温泉駅 2010年8月撮影
 さて、弘南鉄道と言えば、冬のラッセル車が思い浮かぶ。冬を満喫するためには、できれば地吹雪の季節に訪れたいとも思う。7〜8年ほど前、真冬の津軽を訪れようと二度ほど試みたことがあった。1度目は出発直前に、羽越本線で突風のため特急が脱線転覆し何人かの方が亡くなられた。その日の寝台列車は運休となり、私のような物見遊山の人間がとやかく言えるような状況ではなかった。その翌年、再度挑戦した際は、例年にない暖冬で、津軽は地吹雪どころではなく、大雨の中で津軽三味線を聴きに行ったようなものだった。どうも自分は冬の津軽には見放されているらしいと、長年思っていた。
 しかしチャンスは訪れた。廃線が決定した江差線に乗るために北海道を往復することにして、帰路弘前に立ち寄る機会ができたからだ。冬の津軽を旅し、黒石の駅に到着すれば、青森の鉄道は全て乗り尽くすことにもなる。なかなか魅力的な冬の旅となりそうであった。


大鰐温泉から中央弘前へ
7031と7032の2両編成

 弘南鉄道には弘南線と大鰐線の2路線がある。国鉄から引き継いだ黒石線は残念ながら6年前に廃止されている。二つの路線は繋がっておらず、JR弘前駅に隣接する弘南線弘前駅と大鰐線中央弘前とは直線距離で1㎞ほど離れているので、どう回るかは思案のしどころだが、ここはやはり大鰐温泉から始めることにした。
7039と7040の2両編成
 雪に包まれいっそう寂寥感が増した跨線橋を渡ると、JRからそのまま大鰐線のホームに繋がっていた。中央弘前までの乗車券を購入しようと、北口から一旦外に出る。出札係から乗車券を改められることもなく、実にのんびりしたものだ。停まっている電車は東急7000系のお下がりだが、嬉しいことにヘッドマークが付いている。しかも綺麗な塗装までが施されていて、大切に使われているなあと感じる。また運転台下に雪を弾き飛ばすスノープラウが装着されていて、いかにも雪国の鉄道らしい風情がある。ホームの先に電気機関車が見えるが、ちょうど真正面なので、どのような形式なのかはよくわからない。
ED22
 それにしても今大鰐線は廃線の危機にあるという。確かに誰もいないホームに佇むと現実味を帯びてくる。青い帯を巻いた2両編成の電車に乗ったのは、私以外にたったの一人しかおらず、1両に一人ずつ座った。しばらくして空気ばかりを乗せた電車が発車する。もちろんワンマンカーである。
 大鰐温泉から中央弘前まではわずか13.9キロ、並行するJR奥羽本線とは異なり地域密着型の地方私鉄なので、14もの駅を擁している。およそ1キロに一駅の割合で設置されていることになる。この先いったいどのような人が乗ってくるのだろう。
黒いラッセル
 電車が電気機関車の横を通り過ぎると、そこには黒いラッセル車が停まっていた。あわててカメラのシャッターを切る。誰も乗っていないので真冬でも窓は開けられたのだが、心の準備が出来ていなかった。写真には反対側の窓が写り込んでしまっていた。それでも名物の黒いラッセル車と出会えたのは嬉しい。鉄道の除雪車といえば今は赤が相場だが、蒸気機関車の時代はすべて真っ黒だった。汚れの目立たない実用一点張りの昭和を感じさせる色彩である。真白な雪原を疾走するにはふさわしいが、夜の運用は危険だろうなとも思う。
 大鰐温泉を囲む山々が尽きて、電車はリンゴ畑の中を走る。宿河原、鯖石、石川プール前という味のある駅名ごとに停まるが、一向に客は乗ってこない。石川を過ぎたところで盛り土区間となり、そのままJRを跨いで、義塾高校前に着く。甲子園にも出場経験のある東奥義塾高校の最寄駅である。ここで高校生が大勢乗車してきた。まだ冬休み期間中なので全員部活帰りと見える。やはり地方ローカル線は高校生に支えられているのである。にわかに車内が活気づく。
津軽大沢駅

交換列車は東急でお馴染みの
赤い帯          


 津軽大沢では列車交換があった。ふつう鉄道は左側通行だが、地方のワンマン運転ではしばしばホームの右側につけることがある。これは運転台が左側にあるため、この方がドアの開閉確認がしやすいからだ。理に叶ってはいるが、何となく妙な気分がする。
 一駅停まるごとに生徒たちが降りていく。当然と言えば当然だが、地元の生徒だけでスポーツ強豪校にはなれないだろうから、この子たちは楽しみで部活をやっているタイプなのかなと、とりとめのないことを考える。その後は、聖愛中高前、弘前学院大前と学校名のオンパレードだ。まさに学生が支える鉄道だから、登下校時以外は閑散としているのも当たり前だろう。

中央弘前駅

弘前中央ではない。この名前には
何かいわれがあるのだろうか。弘
前城からもJR弘前駅からも距離が
あり、確かに中央なのかもしれな 
いが、観光客に便利な駅とはいい
がたい。                
 終点のひとつ前は弘高下という名の駅である。さすが地元の有名校は略称で呼ばれても風格がある。というより略称で呼ばれるくらいの風格というべきか。ここは県立弘前高等学校の下の駅というわけだ。旧制中学時代は太宰治も学んだ名門校である。終点まで一駅ということもあって、弘高生は誰も乗って来なかった。弘高下を過ぎると電車は土淵川の流れに沿って緩やかなカーブを切りながら中央弘前駅に到着する。片面1線の終着駅で、ホームから緩やかなスロープを下ったところに改札口がある。振り返ると、雪のぱらつく軒下には小振りのツララが何本も下がっていた。


こみせの町、黒石につゆ焼きそばを食べに行く


弘前駅

都会の私鉄と何ら変わらない。
 大鰐線と弘南線とはもともと別会社だったこともあって、両者は繋がっていない。雪道を1キロ以上も歩くのは東京育ちには危険だし、また津軽の食事でお勧めは何かを知りたいこともあって、タクシーに乗ることにした。運転手さんに早速尋ねてみると「津軽の地元料理ねえ」と気のない返事が返ってくる。こちらの身なりを見て、貧乏人と足元を見たのだろう。悩んだ挙句推薦してきたのは、全国チェーンの居酒屋だった。いくらなんでもねえ。
 こうなったら弘前での夕食は諦めよう、黒石の郷土料理が食べたい! 
 今黒石で人気なのは、何と汁に浸かった焼きそばなのだそうだ。B級グルメかあ。まあ、付き合ってみるかということで、弘南線の乗客となった。
 夕方が近いこともあって、綺麗に改装された弘前駅には多くの人が電車を待っていた。それでも年々乗客が減り、ここも高校生頼みなのだという。大鰐線と同じ車両が使われているのだが、乗客が多いので地方ローカル線に乗った気がしない。しばらく乗車しているうちに、景色から家々が消えてゆき、田圃の真ん中を通るようになって、ようやくローカル線らしくなってきた。 黒石までは16.8キロ。12の駅があるので、駅間は大鰐線に比べて開いている。
 よくポスターなどで見るこの路線は岩木山をバックにしたものが多い。雪模様の今日は勿論白一色の世界だ。田んぼアートという駅だけを通過して、30分ほどで終点黒石に着いた。

 黒石市には日本の道百選に選ばれたこみせ通りがある。こみせとは、越後高田では雁木と呼ばれている日本版アーケードのことだ。通りに面した各家が、軒を道まで伸ばして、通行人を雪や日差しから守った施設のことをいう。実に合理的な工夫で、通行人の便を図って造った施設だが、玄関前の雪掻きをする必要もなく、そこで暮らす人にも便利だったに違いない。
 
こみせ通り
 駅からこみせ通りまでは普通の歩道すらない商店街で、雪の圧雪路をヒヤヒヤしながら歩いたが、この一画に入ると途端に世界が変わった。安全で伝統美の空間が広がっているのである。守りたい日本の道であることが頷ける。造り酒屋や商店、普通の家屋がこの町を守っていた。
 こみせを堪能した後は、いよいよ「つゆ焼きそば」である。お勧めの地酒を尋ねると、先程訪れた造り酒屋の銘柄とは違うものを紹介された。地元の人は亀吉を呑むという。冷やのまま口に含むうちに、次第にいい気分になってくる。つゆ焼きそばも、香ばしい汁麺という感じだ。いいものに出逢った。全国全線乗り尽くしの旅の途中であるが、乗車だけを目的に終着駅ですぐに折り返さなくて良かったとつくづく思う。

 底冷えのする夜の黒石の町を歩きながら、再びこの町に来ることはないかもしれないと思い、だからこそこの風景を覚えておきたいという、いつもの感情が湧いてきた。
 人通りの絶えた夜の道を駅に急ぐ。駅に隣接したスーパーマーケットには何人かの地元の人たちが買い物をしていた。棚には茨木産や長野産の野菜や果物が並べられている。売られているものは東京と変らない。買っている人たちの表情も似たようなものだ。流通が発達した今では、全国から送られてくる同じような物に囲まれて、この土地の人も普段の私も同じように生活をしている。
車止め(黒石駅)
 こんな当たり前のことが、とても意味深いことに感じる。一時的ではあるが、自分とここで生きる人たちとの間に繋がりがあることを実感したからである。ところが、また明日から私はこの人たちとは無関係に生きていく。ここで感じたことは幻のように思えていくだろう。それが不思議でならなかった。同じ空間を共有し、一瞬ではあれ繋がりを持ったという現実の感覚が、明日には途切れてしまい、現実は幻想に変わってしまう。その喪失感の中で取り残される自分という存在の危うさをどう受け止めればよいのか。


黒石駅にて
 駅の構内に入ると、降り積もった雪の中で、車止めがほのかな光を放っていた。行燈のような暖かい灯りを見ていると、こころが次第に和んできた。この光をいつまでも覚えておきたいと感じた。この光はきっと忘れない。そうすることで明日には切れてしまうはずの繋がりが、いつまでも続いていくように思えた。旅に出て車窓からの景色を覚えておきたいというのも、危うい自分という存在をしっかりと繋ぎ止めておきたいからだということに、この時気づいた。 

(2014/1/6乗車)

2014年1月5日日曜日

廃線前の江差線に乗る


早朝の函館

 1月5日早朝、雪がちらちらと舞っている。カチンコチンに凍る道の中を函館の駅まで歩いていく。雪靴を履いてはいるのだが、買ってからだいぶ経つのでゴムが劣化し、少し滑りやすくなっている。自分は雪道を歩くのが苦手である。「踵や爪先から足を下ろしてはいけないよ。足の裏全体で大地を踏みしめるように歩くんだ」と雪国生活の長かった息子に教わるのだが、なかなか上手くはいかない。積雪はそれほどでもないが、道路一面が圧雪されて氷原のようだ。ときどきつるっと滑ってヒヤッとする。
 夜明けまでにはまだ間があるので、あたり一面は真っ暗で人通りはない。ただ、函館名物の朝市が6時開店のため、あちらこちらから蒸気が立ち上がって、店内は準備に忙しいようだ。この地を訪れれば必ず立ち寄る朝市だが、今日は江差までの鉄道の旅が待っている。少しでも良い席を確保したいので、そのまま駅まで直行する。
 来年の北海道新幹線函館開業を前に、この5月には江差線、木古内・江差間が一足先に廃線となる。かねてから一度乗っておきたいと思っていた。
 鰊御殿で有名な江差にはかつて訪れたことがあるが、その時は函館からレンタカーに乗ってであった。遅い春がようやく南東北まで北上してきた頃で江差にとってはまだ先のこと、鉛色の寂しい町だったという印象が残っている。それなのにまた冬に来てしまった。


廃止されない江差線(津軽海峡線) 

 6時25分、1番線に江差線普通列車が入線してきた。キハ40-1801。重厚な造りだ。太いアイドリングの音が懐かしい。単行(車両の両端に運転台があり前進後進が自在)ながらデッキが付き、更に寒冷地仕様で窓は二重なので、室内はとても暖かい。すぐに乗る客はまばらだが、私が急いで来た理由は、もうすぐ上野からの寝台特急北斗星が到着し、同好の士が集まってくると予想したからだ。廃止まではまだ間があるとはいえ、冬休みも終盤になって江差線を目的に北海道を目指す鉄道ファンは多いだろうと考えたのである。乗り換え客も含めてボックスシートに大方一人ずつおさまって列車は出発した。函館湾を堪能できる左側ボックスをあきらめた人もいる(表情でわかる)。海側の席に座りたいからと言って、空いているボックスに座らずに相席を選ぶ人は稀である。
函館山が真横に見えてくる
 江差線の始点は函館の次の五稜郭だが、ここから列車は函館湾を反時計回りにこまめに停まりながら上磯に着く。この辺りまではいくつもの工場群があり住宅街が広がって、函館までの通勤通学圏となっているため、上磯折り返しの普通列車が設定されている。この先は駅間が広がり、海もぐっと近づいて海峡線の様相を呈してくる。列車は函館湾をほぼ半周した感じで、車窓正面には函館山が見えてくる。穏やかな波はここが天然の良港であることを示しており、かつて函館が北海道の玄関口に選ばれた理由がよくわかる。男子修道院として有名なトラピスト修道院がある渡島当別あたりまで来ると、函館山は後方に過ぎて見えなくなり、それに代わって遥か彼方に横たわる下北半島が見えくてる。広がる海は津軽海峡だ。新幹線が開通すれば、この風景ともお別れとなる。
スーパー白鳥が木古内に近づく
 木古内から先が廃止されてしまう江差線となるが、列車はここで14分ほど停車して後続のスーパー白鳥20号の到着待ち合わせを行う。ところでJR北海道では江差線の廃線に合わせ「ありがとう江差線フリーパス」を発売していて、函館・木古内間は特急自由席にも乗れるお得な切符となっている。これを利用すれば函館出発を30分遅らせて少し朝寝坊ができるのだ。当然この人たちが乗り込んでくる。早朝から函館駅を目指したもう一つの理由は、首から下げるクリアケース付きのフリーパスに惑わされると、お気に入りの席の確保が難しくなるからだった。木古内からの乗車率はほぼ50〜60パーセント。自分がいるボックスシートも3人掛けとなった。ビデオカメラを持ち込む人、いかにも高性能な一眼レフカメラを手にする人が何人か加わった。
江差行(左)

終着駅江差へ

 木古内では北海道新幹線の開業に向けて急ピッチに工事が進捗している。新幹線ホームは外観がほぼ完成していて、駅周辺には新幹線歓迎の看板や横断幕が張られて、新しい時代がやってくるのだなと感じさせられる。地元の期待の一方で、都会から来た者の目にはあまりにも木古内の町の規模が小さく、過剰設備の感は否めない。そもそも新幹線の駅に繋がる江差線を廃線にしようという位だから、ことは深刻だ。廃線を受け入れた江差の人には鉄道よりも道路が便利なように、東京までは新幹線よりも航空機が便利だということではないか。地元の人もわかっている筈である。しかし選択肢の多さは便利さの証であり、時代に取り残されていないという実感につながるものとして、経済効果だけで論じる都会人には所詮わからぬことなのだろう。
 今こうして滅び行く江差線の風情をわざわざ味わいにきたよそ者である私は、この味わいを残してくれた(都会的な意味において不便な生活に耐えてきてくれた)渡島地方の人たちにどう恩返しができるのだろうか。都会は地方に、食糧・資源・人的資源ばかりでなく観光を通して文化的・精神的にも支えられているわけだが、もちろん日頃私たちは経済原理だけでものごとを考えがちである。莫大な借金を返済する目処のない北海道新幹線の将来を考えると、よそ者が出来ることのあまりに非力なことに慄然とせざるを得ない。
 津軽海峡側の木古内から日本海に面した江差までは、渡島半島の背骨にあたる小高い山々を越えていく必要がある。頑丈な作りのキハ40はその図体の割に馬力のないエンジンしか積んでいないので、さほど険しくもない峠道でも極めつけの鈍足である。全国のローカル線から乗客が逃げていったのは、人口減少以外にあまりにも時間ががかる鉄道に嫌気がさしたこともあるのではないだろうか。生活のためなら車を使う方が格段にQOL(Quality of life)が上がるというものだ。
 
ところが旅人にはこの時間の流れがたまらないのだから始末に負えない。パウダースノーをまき散らしながら、峠の最後は短いトンネルで抜けて分水嶺が変わる。うなるようなエンジン音がアイドリング音に変わって、スピードも加わりながら、左側から川が近づいてくるとそこは神明駅である。誰も降りないし、誰も乗ってこない。次の湯ノ岱は沿線途中唯一の有人駅で、近くに温泉施設もあるようだ。ここでは列車交換と通票(スタフ)の交換が行われる。
 列車はそこからこの川に沿って日本海側の上ノ国まで行く。川の名前は天の川という。何とも風情のある名前だが、特別な風景が広がっているわけではない。上ノ国に近づくと向かいの山に林立する風力発電施設が見えてきて、海が近いことを知らせてくれる。
 この時期の日本海は鉛色の厳しい姿である。夏と冬とでは全く見せている姿が違うのが日本海だ。列車は追分ソーランラインと呼ばれる国道228号線と並走しながら、かつて殷賑を誇った江差へと進んでいく。荒涼とした風景の中、風雪に耐えてあちこちが傷んだ町並みが広がっていく。そこに多くの人の生活があることはわかるが、人影はほとんどない。
江差駅は江差の中心街の遥か手前にあった。線路の先には小さなマンションが立ちふさがっていて、終着駅としては少々風情に欠ける。どうせこの先鉄道は延びないのだから、マンション建てちゃえといった感じである。しかし駅舎はしっかりしていて、厳寒のホームに立って思わず身をすくめた旅行客達を、強力なストーブが暖かく迎えてくれた。本日の乗客の多くは、江差線に別れを告げにきた人たちである。折り返し時間までに凍てついた道を歩いて町の中心街に行って帰ってくるには少し時間が足りない。そのまま多くの人が列車に戻っていく。
 
江差に来て、海を見ないで帰るわけにはいかない。滑る足下に気をつけながら、海岸を走る国道の上に立った。モノトーンの風景が広がる。次に来る時は、この追分ソーランラインを車で北上してくることだろう。おそらく夏の美しく穏やかな日本海が迎えてくれるに違いない。
 
 

  

2013年11月6日水曜日

飯山線湯けむり紀行

長野新幹線の旅

 秋も深まり肌寒さを感じる頃となった。日頃の疲れを癒そうと温泉も楽しめる飯山線完乗の旅に出ることにした。長野から入り、帰りは越後湯沢に立ち寄って利き酒を楽しむのも一興だ。車窓の旅に新幹線は無粋とは思ったが、のんびりと出発時間を遅らせたいという欲望に負けて、東京駅から新幹線に乗ることにする。11月最初の水曜日、席は楽勝に取れると高を括っていたら、窓側は全て売り切れていた。東京7:24発、長野8:49着の速達タイプのあさま505号はビジネスマンに人気の列車だった。上野は通過する。曇り空のなか、上中里あたりの木々は少しだけ色づいてきている。
 大宮からは大勢のビジネスマンが乗車してきて、あっという間に車内は満席となった。どこか東海道新幹線の新横浜を彷彿とさせる光景だ。人口のドーナッツ化、分散化が進んでいるのだろう。ただ上越新幹線開通時に作られた新幹線ホームは、陰気くさい雰囲気の漂っているところが多く、大宮駅も例外ではない。施設そのものがだいぶ古くなってきた上に、屋根付きで日が差し込まず、しかも節電が徹底しているからだ。更に、3面6線の大掛かりな駅でもある。新幹線が暫定開業だった頃、始発駅として3面必要とされたかららしいが、今は真ん中の1面はあまり使われていないので、余計暗い雰囲気が漂っているわけだ。
 さて通路側から車窓ばかり眺めていると隣の人の気が散るだろうから出来るだけ遠慮する。高崎に近づくと速度は160キロに減速し、そのまま通過となる。この減速は、日本最大の38番分岐器を分岐側に通過する際の制限速度だからである。上越新幹線と長野新幹線は高崎駅の先、3.3キロ地点で別れていくが、上越方面は直進側のため速度制限はなく、長野方面は分岐側のため160キロに制限速度が定められている。38番分岐器とは、38m進む間に1m離れ、レールが交差するクロッシングまでは134m以上ある大変大掛かりなしかけだが、通過時はそれなりのショックがある。ほとんどの人は気にも留めないが。
 再び加速して山が近づきトンネルを抜けると、安中榛名。軽井沢までは連続勾配のためスピードが落ちる。トンネルの出入りが激しくなるので「耳ツン現象」が起こるが、安中榛名から軽井沢まで一気に700mも駆け上るのだから、それも当たり前といえば当たり前のことだ。横軽の苦労は過去の記憶となり、そのうち忘れ去られていくことだろう。
 トンネルを抜けて紅葉の軽井沢を時速50キロほどのゆるゆるとしたペースで通過する。長野新幹線は随所に速度制限の場所があるようで、新幹線らしくないよなあと思う。右側の車窓にちらりと浅間山が見える。中腹の森林限界までは紅葉しているが、色合いはシックな感じで、鮮やかさはない。雪が降った形跡はなかった。
 佐久平を過ぎると台地の上を疾走するが、防音壁が続いているために見晴らしは悪い。ここがちょっと興醒めで、「詰まらないなあ。やはり新幹線は日本の移動を詰まらないものにしている」と思わざるを得ない。ようやく首都圏を離れて最初の停車駅上田に着く。多くのビジネスマンがここで降りていった。新幹線を使うと、東京まで1時間、上田から長野はわずかに10分。定期券代の問題さえ解決できれば、どちらも十分通勤圏である。
 新幹線の開通で時代に取り残された町として小諸がある。かつては文豪島崎藤村や全国でも珍しい穴城の懐古園で有名な土地であり、情緒豊かな宿場町であるが、今は見る影も無い。上田が東京に近づき、小諸が遠ざかって忘れられていく。新幹線の破壊的な影響力を感じる。もしも長野新幹線が軽井沢か先をミニ新幹線にしたらどうなっていたのか。山形新幹線によって、米沢・高畠・赤湯・かみのやま温泉は文化圏・生活圏を破壊されることなく、山形県は山形県のまま東京との距離を縮めたのではないか。この点に関してはJR東日本の英断は賞賛に値する。一方長野新幹線は本来北陸新幹線の一部であるからそれは所詮叶わないことなのかもしれず、であるなら小諸の再生は中央から見放された小諸自身の努力の推移を見守るしかない。
 昭和の時代、長野は夜行列車で行くのも選択肢の一つとなるような土地だった。初めて信越本線で越後の高田まで行った時は、上野で何時間も並び、満席の夜行列車で首を痛くしながら一晩過ごして、夏の早い夜明けを長野盆地のリンゴ畑で迎えた。今ではまるで嘘のように首都圏と信州の距離は狭まっている。速達タイプはわずか1時間25分で東京と長野を結んでいるが、新幹線の速度もさることながら、やはり横川・軽井沢間の碓氷峠越えが如何に大変であったかを物語っている。
 屋代付近でトンネルを抜ければいきなり長野盆地が広がり、千曲川と犀川を渡れば呆気ないほどの早さで長野駅に滑り込む。

飯山線にゆられて <Part Ⅰ>

 飯山線は長野県豊野から越後川口まで全長96.7キロの全線単線のローカル線だ。全線ほぼ千曲川(信濃川は新潟での名称)に沿って走り、世界有数の豪雪地帯を走る鉄道として有名である。長野盆地から日本海に抜ける大河とともに新潟を目指し、2000m級の山が控えた妙高高原や菅平高原に挟まれたのどかな盆地をゆったりと走っている。
 長野からは2両編成十日町行に乗車する。乗車したのはキハ110-229、JR東日本の標準的な気動車で馬力があり加速も優れているが、何よりも嬉しいのは2・1の3列シートとなっていて、一人客でも気兼ねすることなく旅が楽しめることだ。しかも1列側は進行右側で千曲川が堪能できる車窓である、日差しの強さが玉に傷であるが。
 住宅街を抜け、北長野を過ぎるとリンゴ畑が広がり、真っ赤にかわいらしく実ったリンゴが鈴なりになっている。それにしても長野盆地にはリンゴがよく似合う。所々に柿も実っていて、このオレンジ色も青空に映えてとても綺麗だ。時々北アルプスの山々が雪化粧した姿を見せてくれる。スキーリゾートが盛んな菅平方面にはまだ雪の降った痕跡はない。実に秋は色彩豊かで旅が楽しめる。
 豊野で信越本線が左側に離れていく。飯山線は長野盆地の地形に逆らわず真っ直ぐ進むので、こちらがまるで本線のようだ。そう思ったのも束の間、程なく脇に流れる風景がぐっと迫って、生活色がローカル色に染まり、線路も蛇行を始める。手が届きそうな風景はローカル線ならではのものだ。建設中の北陸新幹線の高架橋もよく見え、あと1年半ほどの迫った開業を前に、あらかた完成しているようだ。
 千曲川は1300m級の高社山と斑尾山に挟まれた山腹を、千曲の名に恥じることなくくねくねと流れ、並行する飯山線も蛇行を繰り返している。対岸の深い山間に広がる扇状地は木島平あたりだろうか。町並みが広がって新幹線の高架橋が近づきけば、そこは飯山である。巨大な新幹線駅舎はまだこの町にはとけ込んでいない感じがする。新幹線をくぐり抜けて200mほど先に飯山駅は昔ながらの佇まいでひっそりと終わりを待っている。ここでも生活圏が移動するのだなと思う。飯山駅には蒸気機関車C56と転車台が残っているのだが、今後どうなっていくのだろう。
 さて列車はこの先の戸狩野沢温泉で1両切り離し、単行となる。ローカル色が一層深まる。次の停車駅は今回の目的地である上境だ。






いいやま湯滝温泉

 飯山線で旅をするなら、駅から近いここを訪ねようと思っていた。時刻もちょうど昼時、温泉につかってお酒を嗜むのも悪くない。2時間ほどノンビリできる。日帰り立ち寄り湯は駅からほんの200mほど、千曲川が蛇行する川に突き出た見晴らしの良い所にあった。
 空は快晴、紅葉もほど良く色づき、空気は澄み切っていた。温泉は内湯と露天風呂が離れていて、木塀で隠された通路で内庭を迂回していく。この木塀はどう見ても、歩く人を隠すためのものではなく、女湯の目隠しであろう(現に帰りがけに撮った写真を見ると、近くの橋からは通路が丸見えだ)。
 この時期でも濡れた素肌には結構寒い移動だが、日差しがあるので気持ちよい。平日の真昼だから客も少なく、ほぼ独り占め状態であった。お湯に浸かって、ぼうっとしていると、日頃の疲れが肩から抜けていくのが実感できる。人が仕事している時に、こうして極楽気分を味わうことは何と快感であることか。更にこの先には、一献が待っている!
 地元の紫米でつくった皮が特色の紫米餃子を摘みに、生ビールで喉を潤す。ほろ酔い気分で休憩所に寝転ぶ。まさに至福の時。
 
冬支度

 上境でみつけた豪雪地帯の冬支度をいくつか紹介しよう。

融雪道路
雪国では良く見かける施設。
人口がそれほどない地域にも
インフラの充実は欠かせない
のだからたいへんだ。

豪雪地帯の消火栓
夏と冬とで使用する高さが
異なっている。これは面白い。


綺麗に並べられている。
几帳面な人なのだなあと感心する。

駅前には火の見櫓と
1軒の店屋があるだけの
のどかな田舎だ。

飯山線にゆられて <Part Ⅱ>

 薄の穂が揺れる中を定刻通り越後川口行がやって来た。ここからは更に豪雪地帯となる。
 上境からは山が次第になだらかになり、ほろ酔い気分と午睡の時間も迫って、うたた寝が始まる。
 その時ふと目に飛び込んで来たのが、「日本最高積雪地点」記念碑である。7.85mとは凄まじい。碑の一番上に横線が引かれているが、ここまで積もったのである。戦争末期のことだ。ここには豪雪の時期にもう一度訪れたいものだ。ただ、以前ほど鉄道は雪に強い乗り物ではなくなったので、それなりの覚悟は必要かもしれない。ローカル線が軽視されているのか、安全志向が強まり確認がより慎重になったのか、その理由はわからないが、無理をしてまで走らせないようにしている感じがする。森宮野原のこの碑を過ぎると長野県は終わり、新潟県へと入っていく。
 津南を過ぎ越後鹿渡の先で、飯山線は千曲川から名前を変えた信濃川を渡る。この辺りまで来ると里に出た感じで、風景は取り留めもなくなって、くっきりとした印象にとして残りにくい。十日町では20分も停車し1両増結する。ほくほく線の単線高架上をはくたかが猛スピードで通過していく。高校生がたくさん乗り込んで来た。ローカル線の旅には定番の風景だ。女子高校生が、「この電車に書いてあるワンマンって、なに?」と話しているところをみると、ワンマンを知らないくらいだから通学生ではなさそうだ。
 それにしても電車かあ! 気動車はもはや死語だろうなあ。1両編成で列車も実態に合わないし。呼び名とは難しいものである。でも、電車は勘弁してほしい。これが電車なら、ガソリンとモーターで動くハイブリットカーの方がよっぽど電車である。
 日もだいぶ傾いて来た。この先で信濃川と合流する魚野川を渡れば上越線が近づいてくる。”電車”はここまで。越後川口からは、電気で走る本当の電車に乗って越後湯沢に向かうつもりである。













2013年7月22日月曜日

スカイライナー VS 成田エクスプレス

 千葉にあって神奈川にないもの、それは「東京××」。東京ディズニーリゾートと新東京国際空港、ちょっとマイナーだが東京ドイツ村もある。千葉にとっては、なんとも微妙なネーミングではある。千葉国際空港や千葉ディズニーリゾートだとお客さんが集まらないだろう。「神奈川××」がないのは神奈川がブランドなのではなく、そもそも神奈川県民は自分が神奈川に住んでいるとは言わないのだそうだ。横浜・鎌倉・湘南等々を名乗るのだという。なるほどね。
 それにしても千葉国際空港ならぬ新東京国際空港がある成田までは、遠いなあと思っている人は多いに違いない。羽田がもっと利用できればいいのに。あちらは5本の滑走路、こちらは1.5本の滑走路しかない。しかし、やはり国際線のメインは成田だ。だから、成田までどう行こうということになる。リムジンバスは安いし、いろいろなところから出ていて便利だが、渋滞が厄介。近年、鉄道がとても便利になった。ということで、京成・JR対決!

京成高砂駅通過 成田空港行
 日暮里から高砂までは曲線も多いために100㌔を超えることはない。特に高砂ではきつい分岐をするので、40㌔程度に減速してゆったりと走る。新柴又を通過したところから120㌔を超えた軽快な走りとなる。北総線はどの駅も減速する必要のない構造になっている。特に千葉ニュータウンを突っ切るあたりは、両側の一般道も含めて直線が続く。それにしても、スカイライナーの160キロは実に素晴らしい。印旛沼の脇を滑るように通り過ぎ、成田湯川では減速することなく通過、その先の複線から単線に移る箇所も国内最大の38番分岐器で160キロ走行が可能だ。成田湯川から空港側は直線の為300キロ走行も可能という優れものだ。これと同じ分岐器が高崎駅安中榛名側にもある。京成車両は標準軌だが、車両はミニ新幹線と同じ。前回乗車の際は座席が車端だったため振動が気になったが、今回は中央のため安定した走行感だった。そしていくつかのトンネルを抜けて第1ターミナルへ。この時の減速がかなりきつめで、無駄のない高速からの停車という感じがして興味深い。
長野電鉄で活躍する旧N'EX
スノーモンキー
横浜駅停車中 大船行
 帰りは新宿までN'EXに乗ってみることにした。旧N'EXはリクライニングしない固定シートで如何にも力の入っていない特急車両だった。金儲けの上手なJR東日本は、やる気のない時には徹底して手を抜くが、一旦商機を見い出すと徹底して客獲得に乗り出す企業だ。そういうところが、鉄道愛好家からすれば実に気に入らないのだが、横浜や新宿・渋谷の客が期待できると見て、力を入れた。乗車すると新建材的な臭いが鼻につくが、見た目が綺麗な列車である。フォルムや色彩も都会的でいい。驚いたのは、空港を出るとノンストップで東京なのである。スカイライナーに比べ足は遅く、成田駅や千葉駅では分岐器通過の際に最徐行するものの、このノンストップ効果は大きい。1時間ほどで東京に着くから、スカイライナー利用より早い。この先、渋谷停車のみ。ただ渋谷も新宿も遣り繰りして造ったホームだから、お馴染みの渋谷駅や新宿駅までは結構歩くことを覚悟しなければならない。

2013年3月26日火曜日

失われた山田線を訪ねて

 
 陸中大橋のヘアピンカーブ


めがね橋にはSLが似合いそう
 宮沢賢治が活躍した花巻と新日鐵で有名な釜石を結ぶ釜石線は銀河鉄道を意識したキャンペーンを続けている。沿線には民話のふるさと遠野もあって、JRとしては観光客を誘致した路線であろう。しかし山岳鉄道ファンにとってはそれ以上に垂涎の場、陸中大橋のループがある。
 上越線湯檜曽ループのように完全に閉じたものではないが、Ω(オメガ)ループと呼ばれるように、ほとんど閉じかけたカーブなのである。特に陸中大橋はヘアピンカーブと言っても良い。
眼下にこれから走る線路が見えてくる。
陸中大橋駅は左、釜石は右手トンネル
の先である。               

 両側から迫り来る山間を利用して、出来るだけトンネルを掘らずに勾配を稼ごうとしたために、Ωというよりは音叉の形に近いヘアピンカーブとなっている。そのため、かなりの高低差のある線路同士が平行に走っている場所があって、まるで狭い空間を上手に活かした鉄道模型のジオラマを見ているような錯覚に陥るという。ぜひ、ここを訪ねてみたかった。
 
先程通った橋を見上げつつ進む。
標高差約40m。直線距離130
m。橋では左から右に下っている。
ところが、あの東日本大震災が起こって三陸の鉄道は壊滅的な打撃を受けてしまった。ただの鉄道愛好家が被災地を訪れるというのはいかにも気が引けることだ。随分長い間出掛けていくのがためらわれたが、一方で日本に住む同胞として見ておかなくて良いのかという思いもあった。震災から2年が経ち、被災地を観光することが支援になるという声声も聞かれるようになったこともあって、この地を訪ねることにした。



被災地へ


 釜石は釜石線のほかに山田線と三陸鉄道南リアス線が集まる交通の要衝だ。東日本大震災では、この山田線と南リアス線が甚大な被害を受けた。列車で来られるのはここまでである。 
前方左側に山田線の線路が見える
 お腹も空いてきたので、釜石で昼食をと思ったがどこも11時半からでやっていない。バスの時間が心配なため、釜石での昼食は諦めた。駅前はいきなり新日鐵の巨大な工場があるばかりで、行く当てもないのから近くのスーパーで時間を潰そうと思う。バス停が近いので助かる。無料休憩室でカフェオレを飲みながら、地元の人たちの様子を眺めるが、特段変った所はない。
 バス停「製鉄所前」から「道の駅やまだ」行きのバスに乗る。駅前からは大勢の人が乗って来て、バスは満員になる。津波想定区域の札が立っているが、工場ばかりでまだここが津波に襲われたことが実感できない。しかし、駅前の川を渡ると様子が変った。建物がまばらになのである。残った建物も1階部分が何もないか、シャッターがひしゃげられたりと、津波のエネルギーの大きさを目の当たりにする。バスは市街地を越えて坂を上り次の集落のある入り江に向かってトンネルを潜る。そこで景色は一変した。
 残った建物も何もない。虚しさが漂う。建物はなくてもバスにはたくさんの人が乗っている。彼らはみな被災者なのだ。とても写真など撮れる雰囲気ではない。後ろめたさが込み上げてくる。
 40年前、三陸を訪ねたことがあった。満足に舗装もされていなかった道が、等高線を辿りながら入江から入江へと結んでいた。リアス式海岸は山と山の間に入江があり、集落があるから、道は入江に差し掛かるたびに高度を下げ、次の入江に向かうために山道を登っていった。
 このバスも当時と同じように、入江ごとに山から下っていく。途中までの高台では見慣れた田舎の風景だ。遥か彼方の海は穏やかで綺麗だ。ところが津波浸水区間の札が出てくると、そこから先はなにもない。跡形もない。へし折れた鉄骨は撤去された建物の跡だ。コンクリートの基礎だけが、間取りの形に残っている。それ以外は何もない荒野を、復旧された道だけが、かつてあった街路通りに何キロも続いている。建物はなくても停留所ごとにバスは止まり、人々は少しずつ降りていく。ここからは見ることが出来ない、この先の高台に仮設住宅があるのかもしれない。虚しさと悲しみが押し寄せる。確かにガレキは片付けられたが、それだけに空疎で、復興の兆しはなにもない。
 バスは高台にのぼり、眼下に入り江が広がった。青空のもと、山田湾は実に美しかった。真新しい黄色の浮きが整然と並んでいる。ホタテの養殖だろうか。この海が多くの人の命を奪ったとはとても考えられないくらいだ。
 本来なら山田線でここを通るはずだった。しかし、道床ごと押し流された線路は跡形もないか、あるいはレールがぶらりと浮いて無惨な姿を曝していた。復旧には莫大な金がかかることだろう。JRはどうするのだろう。気仙沼線では鉄道による復旧は断念し、BRT( bus rapid transit=バス高速輸送システム)に移行している。もう二度と釜石・宮古間に鉄道は戻ってこないかもしれない。 
 宮古行バスへの乗り換え停留所は船越駅前である。乗り継ぎ時間の合間を利用して今は使われていない山田線を見に行くことにした。海から遠く高台に位置するこの辺りは、何の変哲もない田舎町である。津波が来るか来ないかで、世界は一変しているのだ。駅片隅にある踏切には「休止中」の札が掛かっている。どこも壊れていない鉄道施設を見ていると、津波など全くなかったかのように思えてくる。
荒れた船越駅
 しかし、列車の通るあてのないレールには錆が浮かんで、命が尽きようとしているかのようだ。早くここまで列車を走らせてやりたいと思うが、代行バスが走っている今、このままずうっと放置されてしまうのではないかという思いが否定できなくなる。
 被災地を訪れたことは、これからの生き方を考えるきっかけになったと思う。誰しもいつかは終える命であるが、それがある日突然訪れてしまったたくさんの人たちがいる。残されても、生活が一変してしまった人たちがいる。自分は運良く、殆ど影響も受けずに生きている。この世の中の不条理をどう受け止めていくのか。じっくりと考えていかなくてはならない。




宮古から盛岡へ

 生き残った山田線は川を辿りながら北上高地を越える景勝路線だ。雪解け水で水量は豊か。新緑や紅葉はさぞかし美しいだろうと思われる。谷は深く渓谷の趣である。宮古の風は冷たくても日差しは明るくやはり海洋性の穏やかな気分が漂っていたが、分水嶺の区界は標高が780メートルもあって一面の雪が積もっている。窓は息で真っ白に曇った。北上高地によって岩手は大きく分断されている。

宮古→盛岡 キハ110 136 単行。 

2012年12月26日水曜日

東海道本線昼景色ノート

鉄旅の備忘録より

 2012年夏に「東北本線昼景色」の旅に出たが、それが思いの外面白く、その第2弾として東京から小倉までを景色が楽しめる昼間に鈍行列車で乗り継ぐ計画を立てた。途中、乗り尽くしの旅の一環として岡山では路面電車に完乗したり、赤穂線に完乗したり呉線で呉を訪れるなど、少々欲張りな計画である。以下はそのうちの東海道本線編ノートである。旅行記にまでまとめあげることはなかったので、ノートの形で残すことにした。 2012年12月26日実施。なお、同日は岡山泊。続きは山陽本線昼景色を見よ。
  1. 6:07東京発。購入した駅弁は鳥取のカニ寿司。グリーン2階席で食べながら出発。辺りは真っ暗。有楽町、晴海通りも真っ暗。
  2. 戸塚・東戸塚地点で上りサンライズとすれ違う(今回の旅の帰路に乗る予定。帰りはどんな思いでこの列車を見送るだろうと考える)。
  3. 朝日を浴びた相模湾がまぶしい。
  4. 熱海駅で最初の乗り換え。ここからはJR東海。ホームが違うため、階段の降り登りがあって面倒。
  5. JR東海の電車静岡行きは何とロングシート。座って乗っても何にも面白くない。
  6. 昔三島まで写真を撮りに来たことがあったが、どこかわからなかった。
  7. 沼津から運転台後ろで立って楽しむ。ところが、苦手な鉄道ファンがかなりいる(自分を映し見る様で何となく避けたいのだ。)。
  8. その中の一人は、完全なトランス状態。あたり構わず話し掛けている。最後に捕まったのは僕。観念して優しく熱心に相手する。話しているうちに驚いた。彼は鉄道ファンではなくて、富士山マニアだったのだ。美しい富士山がだんだん大きく見えてくる。彼の興奮も高まる。「みんな見ているよ」と嬉しそう。終点の静岡まで乗車し、県庁の無料展望台で楽しんだ後、小田原まで新幹線で富士山を楽しみながら戻るのだそうだ。富士山だけでなく、遠くに南アルプスの白い山並みが見える。
  9. 鉄道ファンにオタクが多いのはどうしてだろう。いや、問題の立て方がおかしいか。ファンはみんなオタクかも。知識体系の幅が広い鉄道は、オタクにとって格好の興味の対象なのだろう。優れた人や普通の人からちょっと風変りな人まで、すべてを包み込む鉄道という趣味。何と懐の深いものであることか。
  10. 東田子の浦から富士にかけて、富士の真横を東海道線は突っ走る。手前の里山も切れて、もっとも間近に裾野が美しく広がるところだが、この辺りは製紙業がさかんな地域でもある。錆の浮いた製紙工場が連らなり、真っ白な煙をもくもくと上げている。吉原からは岳南鉄道。静岡乗り尽くしの際には再訪することになるが、この工場地帯はいただけない。
  11. 富士川は素晴らしい橋梁だ。はやぶさ・富士で通った時を思い出す。
  12. 由比から興津にかけては海岸まで山が迫っているので、東海道線・国道・東名自動車道が寄り添って走る。最初に開通したのが東海道線であることは、線路脇の頑丈そうで無骨な防波堤の名残から推測できる。あとになって、海側に道路が造られていったのだろう。なお、このあたりは「左富士」で有名な所だそうだ。前方に気を取られ、また富士マニアが左富士を知らなかったため話題にならなかったので、見はぐった。
  13. 清水から静岡鉄道が併走して静岡に着く。これも乗りに来ないといけないなあ。
  14. 静岡からはまたロングシート。安倍川はどうして連濁しないのか。むかしから安倍川餅って言ってたなあと取り留めもないことを考える。立派な橋梁だ。
  15. 島田を過ぎると長大な大井川を渡る。ここからは白いアルプスは見えない。小夜の中山も近いこの辺りは牧ノ原台地が広がる起伏の変化に富んだ所で静岡茶の産地でもある。大井川橋梁を越えると列車は右に90度曲がり、徐々に高度を上げて金谷の駅に着く。SLの時間ではないようだ。大地の窪地をうねりながら、菊川から掛川へと進む。周囲は茶畑で囲まれている。新幹線と併走して掛川に到着。ここからは天竜浜名湖鉄道(天浜線)が分岐する。旧二俣線には近々訪れる予定。
  16. 掛川から浜松まではかつて車窓展望を楽しんだことがある。このあたりは新幹線と併走し、しかも高架橋ではないので間近に見ることが出来る。天竜川を渡れば浜松は近い。
  17. 浜松で乗り継ぎは、やはり階段での上り下りが必要。一体どうなっているのだろう。
  18. 浜名湖あたりの風景は美しい。弁天島で少々停車しているうちに、新幹線が高速で行き交う。日本の大動脈であることを実感する。とにかく頻繁に通る。
  19. 豊橋からは漸くクロスシートになった。長時間立ちっぱなしだったので嬉しい。乗った電車は「新快速」大垣行。豊橋駅では飯田線と名鉄が同居。
  20. 名古屋付近は線路も複雑で、とても覚えきれない。中央線が合流。名鉄も併走。賑やかだ。名鉄全線走破は大変だろうなあと思う。関東に住みながら、東武全線走破が大変だったことを思いだす。面白いばかりではないし。清洲は織田の清洲城のことかあ。岐阜は山城が見える。一度降りてみたいな。遠くの山並みに白いものが見えてきた。大垣に近づくと徐々に上り坂になって山が近づいてくる。そのうちのひとつ、行く手に見える真っ白い山は伊吹山に違いない。
  21. 大垣で小休憩。一旦改札を出て予定通りドトールに行く。食べ過ぎないよう、水分の補給とトイレにも行っておかないと。
  22. 大垣・米原間は東海道線内唯一のローカル線である。関ヶ原は地形的には勿論のこと経済的にも東西を分かつ境界線なのだということを実感する。近郊電車の半分は岐阜で折り返し、残りも殆どが大垣止まり。この先は1時間に2本程度となる。
  23. 大垣は交通の要衝で、東海道本線以外に、樽見鉄道・養老鉄道・美濃赤坂行(東海道本線)が走っている。更に東海道本線もこの先の南荒尾信号所で上下別線となって、愛好家にはたまらなく魅力的な場所である。各駅停車の旅なので、下り専用線には入らず、通称垂井線で垂井を目指す。ここは面白い。垂井線は複線に見えるが、実際は東海道本線上りの高規格線路と各駅停車専用の低規格線路垂井線が併走する奇妙な場所である。垂井駅に停車する必要のない優等列車や貨物列車は、すべて高規格線路の下り専用線に回る。一方上り優等列車は垂井経由となる。雪が交じり始めた。このあたりは日本海側の気候が入り込んでいるのだろう。
  24. 美濃赤坂から草津までは、かつて中山道であった。東海道は熱田から桑名にでて四日市経由である。
  25. 関ヶ原を越えると峠があり、そこから米原までは坂を転げ落ちるように下っていく。伊吹山が大きく聳え立つ。
  26. 米原で乗り換え。JR西日本の新快速網干行、先頭車両の乗る。運転手は女性。クロスシートで快適だ。このあたりは琵琶湖線と呼ぶらしい。地元の人にはいいが、我々旅人にはどこを走っているのが琵琶湖線かはわからない。
  27. 雪が交じっている。彦根城が見える。安土城の場所は確認できなかった。近江八幡といえばたねやかな。看板見あたらず。
  28. 野洲には電車基地。
  29. 草津からは複々線。新快速の真骨頂。ところで新快速が早いのは衆目の事実だが、ギリギリの運転をしているなと思うのは駅に停車する時の制動距離の短さである。ブレーキ操作が難しそう。カクカク制御しながら運転している。他の民鉄との対抗上、スピードが命なのだろう。JR東日本にも見習って欲しいものだ。だが、一方でここまでスピードに拘るからこそ福知山線の事故は起こったのだとも思う。怖いくらい速いのである。関東では京急が120㎞運転をしてスリル満点だが、こちらは130㎞運転である。
  30. 大津が近づき天候も回復。叡山も見えてきた。逢坂山トンネルを抜ければ山科だ。湖西線と合流。
  31. 東京からずうっと一緒だったハンチングの人物は京都で降りた。こちらはまだまだ先だ。
  32. 山崎サントリー。茨木。新大阪、そして大阪へ。
  33. さくら夙川あたりは高級住宅街なのか。芦屋。
  34. 灘、灘中高はどこだろう。六甲山が大きく迫り、住宅街を見上げる様になる。
  35. 三ノ宮の次が神戸。この電車の終点はまだ先だが、東海道本線昼景色はここまで。

2012年12月25日火曜日

山陽本線昼景色ノート

鉄旅の備忘録より


1~9は12月26日「東海道本線昼景色」の続き。10~は翌日27日の記録。
  1. 線路上の戸籍とは別に新快速は何事もなかったかのように神戸駅を出発する。東北縦貫線が開通すれば、東北線と東海道線が直通するが、東京駅を通過するときに特別な感動があろう筈もない。それと同じ。でも、東京から来た身にはついに来たなあという思いはある。ただ、ここから山陽本線が始まるにしては、ここ始発の列車がないだけにちょっとあっけない感じはある。
  2. 明石海峡大橋、明石の天文台?
  3. 途中で徐行
  4. 姫路で乗り換え。DC特急のあとすぐ。
  5. 網干、相生から赤穂線へ。夕暮れ迫り、播州赤穂。乗り換え。
  6. 瀬戸内海が少し見えるがすぐに日没。
  7. 大多羅、岡山着。
  8. すぐにチェックイン。福寿司で、生ビール、酢の物、冷酒、特上ままかり寿司。
  9. 岡山電気軌道でまず東山、戻ってから清輝橋、戻って宿へ。
  10. 5時起床。5:50発。
  11. 尾道はまるでジオラマのような風景。狭い海峡にびっしりと町が広がり、中腹をうねるように山陽線。上をしまなみハイウェイの橋が架かる。冷え込んだ朝、海水温の方が高いため海からは霧が湧き起こる。幻想的な風景。
  12. 糸崎で乗り換え。何と味気ない103系ロングシート。三原は新幹線も停まるちょっと大きめの町。高架線上に駅。ここで新幹線と山陽線は真っ直ぐ山に向かってトンネルに吸い込まれていく。呉線は大きく左にカーブを切り、徐々に高度を下げて渡河、正面の山を回り込むように左カーブを切るものだから、とうとう山陽線と平行に東へ向かい、小さな半島の縁を再び180度右に進路を変えて西に向かう。この間、瀬戸内海に沿って電車は走り、遠くにしまなみの橋を見届けながら、風光明媚な景色が楽しめる。日の出の太陽が徐々に高度を上げるなか、
    呉線車窓 海霧の夜明け
    海面からは沢山の霧が湧き起こる。それがオレンジから金色に輝いて美しい。
  13. 瀬戸内海の風景を堪能するには、頭の切り替えが必要である。箱庭のような美しい風景の土地には、沢山の人が昔から住んでいる。盛んなのは海運と造船業。近代日本の牽引車だ。そして海運はコンビナートを発達させている。大規模な火力発電所。これらがすべて美しい風景の中にある。工場群は美しくない。しかも巨大な煙突からは、浄化処理された白い煙とはいえ、もくもくと大気中に放出されている。ところどころで工場地帯は途切れる。いきなり美しい島と海岸が現れる。しばらく行くと集落が現れ、また工場地帯。
  14. 呉線が走る所は特に近代日本の先進工業が発達した所。戦前は、軍艦は勿論のこと零戦を始めとする戦闘機の生産一大拠点であった。工場労働者ばかりでなく、先端技術者が多く集まり、日本の頭脳集団が暮らしていた場所なのである。その伝統は今も受け継がれている。巨大な造船所の回りには、そこで働く人達が乗ってきた自家用車がびっしりと取り囲んでいる。
  15. 呉は、造船と自衛隊の街。だから呉線は単なるローカル線ではないのだ。赤穂線と同様、このあたりの山陽線の方がローカルなのである。
  16. 大和ミュージアム、鋼鉄の鯨。見所多し。江田島の向こうに厳島が見えることを教わる。
  17. 呉から広島までは、快速安芸路ライナー。途中列車交換があるので、それほど速いわけではない。運転席にはモニターがあり、次停車とか表示される。驚いたのは、速度制限がでたり、急カーブ表示があること。福知山線事故の反省からであろう。JR西日本は、制限速度一杯に運転しているので、必須の装備と感じた。ここの海がまた綺麗だ。広島は海が綺麗だ。だからこそ牡蠣が美味しいのだろう。
  18. 広島から宮島口を通って大野浦まで。次は岩国まで。
  19. 岩国から新山口まで。ここは周防大島の橋が見所。以前、見たことがある。たぶん、みずほで長崎に行った時だ。大学生の時。思い出に残るのと全く同じ橋が現れた。記憶は確かだ。このあたりも風光明媚。光を過ぎ下松からは海とお別れ。山側の席に移る。
    大畠瀬戸にかかる大島大橋
  20. 防府は趣のある町。山が西日に当たって美しい。山は石灰岩質、秋芳洞にも近く、またこの先はセメント工業の盛んな所だ。
  21. 新山口はかつて小郡と言った。かつてホームに立ったことがあるが、風景に記憶はない。乗り換え。
  22. いよいよ本州の端は近い。起伏の激しい所で小さな峠をいくつも越える。路線は地形に逆らわないようにくねくねと曲がる。海からは遠い。
  23. 幡生で非電化の山陰線が合流する。複線の山陽本線の間を下から這い上がってくる。下関駅に近づくと右側から海が近づく。これは下関漁港・下関湾であって、関門海峡ではない。
  24. 本州の果て、下関駅はエキゾチックで重厚な駅である。いにしえの繁栄を彷彿とさせるかのように、長大で広々としたホームには、どっしりとした屋根が被さっている。柱はレールを用いた鋼鉄製だ。今、ここに停車する長大編成の長距離列車は残念ながらない。山陽本線はこの先門司が終点だが、JR西日本はここまでで、最後の一駅まではJR九州となる。夕暮れ迫る関門海峡を通り、今回の旅の終点小倉に向かった。
  25. 小倉から東京に戻る。残念ながら直通の寝台特急はない。今の時間、のぞみならそのまま深夜に東京に着く。それでは面白くない。今回採った方法は、山陽本線昼景色区間は、JR九州のさくらで、その先はサンライズ瀬戸で優雅に帰るというものだ。さくらの停車駅は小倉、徳山、広島、福山、岡山。ビールとかしわ飯弁当で夕食。さすがJR九州車両、指定席はグリーン並みの横4列。肘掛けやテーブルに木をふんだんに使っている豪華仕様で実に快適。通路ドア上のLED表示も大きく見やすい。山陽新幹線を利用するときは、新大阪で乗り換えよう。
  26. 岡山からはマリンライナーで高松へ。ここは青春18が使える。20分の待ち合わせで、サンライズ瀬戸は出発。