2014年6月4日水曜日

気動車王国 常磐路③

Mythical 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線
 
JR鹿島神宮駅で出発を待つ水戸行
 JR鹿島線の正式な終点は鹿島サッカースタジアムだが、同駅は試合開催日だけ営業する臨時駅のため、すべてのJR列車は一つ手前の鹿島神宮で運転が打ち切られる。そこを埋め合わせているのが鹿島サッカースタジアムと水戸を結ぶ鹿島臨海鉄道であり、2両編成のディーゼルカーが鹿島神宮まで足を延ばしてやってくる。試合のない日はスタジアム駅を通過してしまうので、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線はふだんは起点の駅が営業されていない一風変わった鉄道だ。
 臨海鉄道という名前が示すように、この鉄道はもともとは貨物輸送専用として建設された。大洗鹿島線以外に鹿島臨海線があり、こちらは現在でも貨物専用路線として臨海工業地帯の重要な輸送を担っている。ただ輸送の主役が鉄道からトラックに移った(注1)ために経営は決して楽ではないようだが、旅客の乗れない鉄道には残念ながら協力のしようがない。

 大洗鹿島線はもともと国鉄鹿島線として水戸と鹿島を結ぶ鉄道として計画され、鉄建公団によって建設された。深刻な赤字財政に喘いでいた国鉄は鹿島線の延長を拒んだため、行き場を失いかけたこの路線は第3セクターとして開業し、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線となった。霞ヶ浦の一部(注2)である北浦と鹿島灘の間を北上し、那珂川河口に位置する大洗で西に進路を変え水戸に至る、延長53キロの非電化単線路線である。

 さて厳かな雰囲気が漂う鹿島神宮の杜から少し下ったところにJR鹿島神宮駅がある。『常陸国風土記』にもみえる由緒ある神宮には武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ)が祭られ、古くから武神として尊崇を集めていた。参道にある駅前の広場には剣豪塚原卜伝の碑が建っていて、戦う人々の聖地といった感がある。
 この地に関係する戦いでも物騒でないのが、生き死にに関係のないサッカーJリーグの戦いであろう。鹿島アントラーズの本拠地、茨城県立カシマサッカースタジアムは、鹿島神宮から2~3キロのところにある。普段は列車の停まらない駅には、何本もの側線があって、サポーター達の輸送用に列車を留置しておく所と思いきや、実は臨海工業地帯からのコンテナ列車の留置線だそうだ。ホームとは比べものにならないほどの長い待避線が、貨物用であることを示している。
水田の向こうに見える北浦

丘陵地帯の麓に横に広がる水の帯が
北浦。南北に20数キロにわたって
細長く横たわる、ほぼ北限の風景。
 さて、大洗鹿島線は北浦と鹿島灘の間を通るといっても、残念ながら海や湖水が堪能できるわけではない。ハマナスの自生南限地に近い、その名も鹿島灘駅ですら海岸から1キロ以上隔たっている。海岸線をのんびりと行く普通のローカル線とは異なった雰囲気が漂っている。そもそもコンテナ貨物の輸送が可能なように鉄建公団が建設した路線だけあって、列車はひたすら真っ直ぐに林や畑の中を北に向けて走る。起伏に乏しい土地なので高架や盛り土区間はほとんどないが、それなのに踏切はなく、あまり車の通らないような道路までもが高架橋となっていて、まさに近代的なローカル線なのだ。

 集落の集まっている鉾田に近づいたところで、わずかに北浦が見える。湖畔に沿って走ってくれればいいのにとは思うが、産業効率優先の路線は旅の情趣には無頓着である。
涸沼(ひぬま)
 その後、どこで分水嶺を越えたか分からないうちに那珂川水系の涸沼がちらりと見える。こちらも北浦と同様に汽水湖なのだが、どんな湖かわかるほど近くには寄ってくれない。そうこうしているうちに、沿線最大の町大洗に着いた。側線には二両編成のディーゼルカーが停まっている。大洗・水戸間は列車本数がほぼ倍になり、日中は1時間に二本程度運転されているのだ。
単線高架
 那珂川流域は水田が広がり、人口も増えてくる。大洗を過ぎると列車は高架線の上を走るようになる。途中進行左側の丘の上に大仏が見えて来た。森の中に鎮座している。後に知ったことだが、それはホトケではなくヒトだった。『常陸国風土記』に出てくる伝説の巨人、ダイダラボウの像だったのである。丘の上に居ながら海岸に手が届いてハマグリをさらうことが出来、片足の痕跡はなんと偕楽園脇の千波湖となったという伝承が残っている。前者はこの地にある貝塚の由来を説明し、後者は湖の形の由来を解き明かしてくれる、伝承はまさに古代人の知恵であった訳だ。
大仏?
 列車は緩いカーブを切りながらトラス橋を渡って常磐線に寄り添いながら水戸に到着する。国鉄の路線として計画されただけあって、事実上の起点である鹿島神宮もこの水戸駅もJRと完全に一体化していて、一見地方鉄道であるようには見えない。水戸と鹿島臨海工業地帯を結ぶ貨物線に間借りするような旅客鉄道とでもいったらよいだろうか。ただ、この路線に乗って振り返ってみれば、常陸の国は紛れもない神話の国であるということだった。武甕槌大神に始まり巨人の足跡で終わるこの鉄道は、『古事記』や『風土記』という日本を代表する神話を身近に感じることが出来る、歴史探訪鉄道でもあった。
水戸駅で出発を待つ鹿島神宮行

(注1)近頃また風向きが変わってきた。人口の減少によって、トラック運転手不足が懸念されているそうである。味の素は2016年から500キロ以上の輸送をトラックから船舶・鉄道に切り替えると発表した(2014/5/28日経)。人口減少は鉄道会社にとっても頭の痛い問題だろうが、長距離鉄道貨物の回復が思わぬ救世主となるかもしれない。

(注2)霞ヶ浦は、西浦・北浦・外浪逆浦(そとなさかうら)・北利根川・鰐川・常陸川の各水域からなる総称だという。大きく二股に分かれた湖を指しているものだと不覚にも思っていたが、それは正式には西浦と呼ぶ。私のように思い込んでいる人も多いようで、西浦を狭義の霞ヶ浦と考える向きもあるらしい。


(2010/5/13乗車)



郷愁のひたちなか海浜鉄道湊線

阿字ケ浦
 終点の阿字ヶ浦は常磐線勝田から旧型気動車にゴトゴト揺られて8駅目、距離にして14.3キロの地点にある。駅から5〜6分歩けば阿字ケ浦海水浴場があり、花々が楽しめる国営ひたちなか海浜公園もさほど遠くない。しかしまず楽しめるのが終点阿字ケ浦駅そのものだ。味わいある終着駅としてはまさに一級品で、そのまま鉄道模型のジオラマにでもしたくなるような風景がある。町はずれの広い空、清潔だが古びた駅舎とレトロな気動車。長い年月、大切にされていたものが今も息づいている。
 
前照灯を挟む二つのタイフォン
 停車中の気動車は一見国鉄車両に見えるが、前照灯周りを見ると一風変わっていることに気づく。両側にタイフォン(警笛)が付いているこの車両は、1969年まで北海道の留萌鉄道で活躍していたキハ2005である。国鉄の普通列車キハ22と似た車両だが、タイフォンの位置と形状が個性的で、その上に国鉄の急行塗装を施すなど湊鉄道線はなかなか憎い演出をしている。
那珂湊駅にて
注目は車庫に停車中のキハ2004
国鉄準急色。手前は海浜鉄道に
よる新造車両キハ3710形。  
 留萌鉄道から移って来た同系気動車はもう一台あって、こちらは国鉄の準急塗装を施したキハ2004である。どちらも車歴がだいぶ古くなって来たので、いつまで運用されるか心配だが、昨今の地方鉄道が歴史的記念物として車両を大切に保存してくれるのは大変嬉しいことだ。鉄道会社の努力と沿線の牧歌的な風景が相俟って、私たちの心に郷愁を感じさせるのだが、ようやくこの日本にも英国の保存鉄道のような試みが始まっているのかもしれない。古いものを大切にしつつ実用に供する。そのために敢えて国鉄時代を彷彿とさせるようなカラーリングを施す。ひたちなか海浜鉄道の試みを今後も見守りたい。
那珂湊駅にて
キハ2005の後ろにキハ222
 ところで沿線で乗降客が一番多いのはもちろん那珂湊である。那珂川をはさんで大洗の対岸に位置する那珂湊には関東でも有数の漁港があり、駅から15分ほど歩いたところの那珂湊おさかな市場はいつも観光客で賑わっている。休日の駐車場は混雑するし、新鮮な魚を楽しみながら一杯やるのも悪くない。そんな時、やはり頼りになるのは湊鉄道線ではないだろうか。勝田までスーパーひたちでやって来て、海浜鉄道に乗り換え、おさかな市場で軽く一杯…こういう観光客が増えれば少しはローカル私鉄の赤字も解消するのだが。

那珂湊駅にて
改札口のある上りホームから下り
ホームまでは線路を横切っていく
必要がある。引っ切りなしに走る
都会の鉄道では見かけなくなった
 那珂湊の駅で帰りの列車を待っていると、キハ2005に連れられて、これまた珍しいキハ222がやって来た。この車両は1970年に北海道の羽幌炭礦鉄道から払い下げられたものである。羽幌は留萌よりも更に北にある最果ての地だ。この二両は炭鉱の閉山とともにこの地に移り、第二の人生を歩んでいる。
旋回窓の向こうには
田植えの終った水田
が広がっている。
 
 キハ222は極寒の地の鉄道らしく、ワイパーではなく旋回窓が使われている唯一の旅客車両だそうだ。冬の羽幌を訪れたことはないが、真夏にこの地方をドライブした際、日本海に沿ったオロロンラインに点在するシェルターには驚いた。本州では地吹雪を避けるために道路沿いにフェンスを張る地方があるが、最果て天塩地方ではもっと徹底して、かまぼこ型のドームで道を覆っているのだ。風が静まるのを待って次のシェルターまで車を走らせるのだろう。この旋回窓を見ていると、この車両がかつて厳しい北国にいたことを思い知らされる。

 さて、そろそろ気動車を乗り尽くす常磐路の旅も終わりが近づいた。常磐とは常陸と磐城の合成語だから、本来は福島県の気動車にも触れなければならないところだ。ただ、今回はローカル私鉄ばかりを取り上げているので、私鉄はすべて電車の福島県については触れないことにする。
 関東地方では茨城県以外に千葉県でも気動車が活躍している。こちらはそのうち房総横断鉄道として紹介してみたい。いつのことになるかはわからないけれど。
(2010/5/13乗車)
 




2014年4月1日火曜日

松本電気鉄道上高地線



3000系電車

JR松本車両センターの脇をかすめるようにして
ゆっくりと京王電鉄払い下げの電車がやってきた

松本駅7番線ホーム 新島々行

このホームの先6番線は、大糸線各駅停車専用ホーム
となっている。大糸線利用者は松本電鉄の前を通って
乗車する。JRとの間に改札はない。       

終点新島々まではおよそ30分

上高地の玄関口である。駅前にバスターミナルがあり
ここから上高地や乗鞍へはバスが接続している。乗車
した日は夕暮れ時で、西日に照らされた乗鞍岳が真っ
白に輝いていたが、逆光のため残念ながら撮影出来な
かった。                    
 
今はなき島々への鉄路

1983年台風で土砂崩れがあり、1.3キロが廃止
となってしまった。              

新島々から松本方面を眺める

渕東駅

新島々から一つ目の駅。エンドウと読む。ローカル
私鉄らしいいい雰囲気の駅だ。難読駅といえる。ち
なみに上高地線にはアニメのイメージキャラクター
がいて、その美少女の名前を渕東なぎさという。姓
も名もどちらも駅名である。ちなみに当管理人はそ
の方面には関心はないが参考までに。      


新村駅

全線ではやや松本よりにあるが、おおよそ中間点
で、列車交換が行われる。また、左側に上高地線
の車両基地が併設されている。        

交換列車 なぎさTRAIN


松本平と美ヶ原(正面の山)

なだらかな傾斜の中、ゆっくりと松本市街に向かって
下っていく。野麦街道に沿ってコトコト走るローカル
私鉄は、観光用というより沿線住民の足という性格が
強い。                     

(2014/4/1乗車)
















大糸線昼景色

変貌する糸魚川

 手元に二枚の古い写真がある。一枚はピンボケでブレた列車の写真、もう一枚は煤けた感じの煉瓦車庫の写真で、どちらも昭和38年(1963年)夏に北陸本線を写したものだ。
赤煉瓦車庫とC56(1963年撮影)

屋根上の煙突は蒸気機関車廃止後は
撤去された。C56は大糸線で活躍。
 ピンボケ列車の方は、糸魚川駅の隣にある梶屋敷駅ホームを、当時珍しかったデーゼル特急白鳥が通過するシーンである。目にも止まらぬようなスピードで疾走していく最新式の特急列車は実に格好良かった。まだ電化されていなかった北陸本線は蒸気機関車牽引の薄汚い客車列車が中心で、綺麗なデーゼル特急は皆の憧れであった。その軽快で優雅な走行は「白鳥」という名前にぴったりであり、終生このシーンは忘れられそうにない。
赤煉瓦車庫とキハ52(2010年撮影)

取り壊し直前の赤煉瓦車庫。北陸新
幹線の橋脚は直前まで迫っていた。
またキハ52も3ヶ月後に大糸線から
消えていった。         
 赤煉瓦車庫の方は糸魚川駅構内にあったものだが、こちらは記憶に全く残っていない。古いものがありふれていた時代にあっては、この赤煉瓦車庫がまさか存続運動まで起こるほどの貴重なものだとは誰も思わなかった。
 あれから半世紀が過ぎ、ディーゼル特急よりも蒸気機関車牽引の客車や煉瓦車庫の方が格段に注目を集めるようになった。時はものの価値を変えていく。かつて単線で海岸沿いを走っていた北陸本線直江津・糸魚川間が、複線電化と長大トンネルでスピードアップし、優雅な「白鳥」は今では青森よりも南下することもなくなった。そして煉瓦機関庫は北陸新幹線工事によって、惜しまれつつも3億円の移築費が捻出できず、永久に消え去ってしまったである。


大糸線の思い出


姫川
 糸魚川は翡翠の町だ。翡翠はフォッサマグナの激しい造山運動によって生み出された宝玉であり、活断層の巣である糸魚川静岡構造線に沿って流れる姫川流域に眠っている。翡翠を生み出すほどの激しい自然を流れる姫川だが、古くから交通の要衝でもあった。上杉謙信が宿敵武田信玄に塩を送り、「敵に塩を送る」の言葉となって今も有名な塩の道、千国街道は、この急流姫川に沿って松本やはるかかなたの甲府まで続いている。大糸線はこの姫川を遡り、北アルプスや仁科三湖などの景勝地を結んで松本に至るが、現在は残念ながら全線走破する列車がない。すべては途中の南小谷で折り返している。それはJR西日本管轄の南小谷以北が非電化だからだが、そもそも国鉄時代も直通列車は稀だった。
 その珍しかった直通列車に乗ったことがある。昭和44年(1969年)夏のことだ。糸魚川発新宿行の急行アルプス5号は列車番号が1414D、末尾にDが付くディーゼル急行だった。当時既に南小谷までは電化されていたので、新宿発着のアルプスはこの列車以外はすべて電車だったから当時としても珍しい存在である。糸魚川を8時12分に出発、新宿には15時49分に着くという7時間半のロングランだった。記憶に残っているのは、仁科三湖と荻窪付近の高架化工事くらいだが、今にして思うと日本列島を横断した貴重な経験と言える。北アルプスの記憶が残っていないのは、水蒸気が多い夏場は山が見えにくいという事情があったのだろう。大糸線にはこの時以外にも乗る機会があったが、どうも車窓風景の記憶が曖昧である。一度じっくり味わいたいと思っていた。 


糸魚川・南小谷間


大糸線切欠き4番ホーム

左ホームが1番線。通過列車用の

線路を挟んで大糸線列車の左側線
路の先に2番線ホームがある。列
車の右側が3番線。そして大糸線
は4番線となる。ホーム中程で下
車した人には4番線が見えない。
 大糸線の列車は、糸魚川駅の片隅から出発する。特急列車の停まる糸魚川駅には普通列車を追い越せるような堂々としたホームがあるが、その端は、線路方向にホームを半分切り取って線路を敷き、編成の短い列車が停車出来るようにしてある。これを切欠きホームと呼ぶが、この形式は、需要の少ないローカル線のために新たにホームを増設する必要がないところから時々目にすることがある。
 片隅にひっそりと列車が待つところが、いかにもローカル色豊かで良い雰囲気なのだが、問題もなくはない。初めて訪れる旅人には、ホームが見つけにくいのである。列車が遅れて乗り換えを急がなくてはならないような場合、ホームは番号順にあるものだと思い込んでいるととんでもないことになる。おまけのホームだから、番号が飛んでいるのだ。本数が少ないローカル線だけに、駅の放送にしっかり耳を傾けて、間違いなく乗り換えを急がなくてはならない。
 さて北陸新幹線の開業を前にして大きく様変わりした糸魚川駅であるが、大糸線の列車も随分と新しく可愛らしい車両となった。鈍重な印象のキハ52に替わって、軽快なキハ120となり、さらに御当地ゆるキャラのラッピングカーまで投入された。地域の活性化に役立つことだろう。
 もっともこの日に乗車したのはラッピングされていない列車で、出発ホームも本線2番ホームからだった。知ったかぶりをして大糸線ホームで待っていたら、乗車口に行くまでに少々出遅れてしまった。キハ120は通常の車両より短い16m車だから乗車定員が少ない。進行右側の座席をどうしても確保したかったが、結構多くの人が乗り込み始めていた。これはまずいなと思っていると、幸いなことに左側から埋まっていく。日差しが強かったこの日、地元の人は日陰側の席を求めていたのだった。この先列車は姫川を右手に見ながら進んでいくのでありがたい。


小滝・平岩駅間

国道の上には崩落した土砂と残雪
がある。 
 糸魚川から南小谷までの35.3㎞は糸魚川ジオパークの旅でもある。世界で100カ所ほど認定されているジオパークの定義は少々わかりにくいが、世界自然遺産とは異なり、地質学的に珍しいばかりでなく、その自然が生態系や人間の営みと密接に絡み合った地域が認定されるようだ。日本ジオパークネットワークによれば「ジオ(地球)に親しみ、ジオを学ぶ旅、ジオツーリズムを楽しむ場所がジオパーク」であるという。親しんで、学び、楽しむ所と言われても… まあ、余り難しいことは考えないようにしよう。少なくともこれから大糸線を楽しむのだから。
 この姫川沿いの大糸線の景色は半端ではない。糸魚川から海抜516mの南小谷まで、姫川の急流は大地を深く刻み込み、険しい渓谷を形作っていて、人が住めるようなところはほとんどなく、冬は豪雪が見舞うような厳しい場所でもある。
小滝・平岩駅間

国道は護岸された堤防からはみ出す
ように設置され、大糸線は頑丈な鉄
骨で守られている。
 そのような場所でありながら昔から塩の道として人々の生活を支える道が通っていた。現在は国道148号線となって、主に川の西側を通っている。落雪の危険を避けるために、全線ほとんどがスノーシェッドで覆われた無骨な国道である。頑丈なコンクリート製の雪除けトンネルが延々と続くのである。眼下を雪解け水の濁流が流れている。護岸のために無骨なコンクリート壁が川岸を固めてあり、自然から生活を守るための奮闘の跡が見て取れる。
もともと土地のないところだから、鉄道路線と道路は併走できず対岸に建設せざるを得ない。険しい渓谷の、限られた川岸に線路を敷き、どうしても敷けない場所は山岳トンネルをぶち抜いたため、大糸線はスノーシェッドとトンネルの連続である。鉄骨で守られた雪除けトンネルから眺める姫川と国道の景色が、この路線の最大の見せ場である。こんなところに国道や鉄道を造っているのだという驚きは、まさに自然と人の営みをテーマとしたジオパークの楽しみ方そのものを体現しているではなかろうか。
南小谷駅

後ろの白銀、左側は大渚
山か。        



 鉄道愛好家としては自動車道路には余り触れたくないのだが、この148号線のドライブについては少し触れておきたい。外からは窺い知れないが、このスノーシェッドの中をトラックやタンクローリーを始めとする大型車が爆走しているのだ。松本から富山方面を目指す際、高速道路を利用すると長野や妙高・上越市と大きく迂回しなければならない。だから多くの車はこの国道148号線に流れてくるので、昼夜を問わず人々の生活を支える重要路線として機能している。交通量が多く閉鎖的な空間だから、ドライブを気楽に楽しめるような場所ではないのだが、外は見所ある渓谷が広がっている。おちおち景色など楽しんでいられないが、一度通ると忘れられない不思議な道なのである。
 ということで、ここはやはり鉄道の旅が一番だなあと思っているうちに、あっという間に1時間が過ぎて南小谷に到着する。ここで乗り換えだ。





南小谷・松本間

 大糸線の名称は信濃大町と糸魚川を結ぶことに由来する。全線開通前の昭和12年には、信濃大町・松本間の信濃鉄道が国有化されて組み込まれたために、松本・糸魚川間となった歴史を持つ。鉄道の近代化として松本から伸びてきた鉄道の電化はここ南小谷までとなっていて、この先糸魚川までは伸びなかった。これは松本平から続く平坦な土地が、南小谷のすぐ上にある栂池高原・コルチナスキー場で尽きるのと同じで、ここまでが人々の多く集まる地域であり、この先は先程通ってきた渓谷となる。ここから大糸線は人里を走ることになる。
南小谷駅

左からE257系、キハ120、E127系
南小谷に現れる定期列車の揃い踏
みとなった。         
 新宿行あずさ26号に乗り換える。昼景色を楽しむ旅としては各駅停車に拘りたいところだが、スケジュールの都合上どうしても松本まではこの列車に乗らなくてはならなかった。車窓の旅記録も駆け足でいこう。





 晴天に恵まれ北アルプスの山々を堪能できる日和だった。ただ午後の日差しは逆光のためにどうも写真写りが悪い。それでも雨男の私にとっては滅多に見ることの出来ない北アルプスではあった。

白馬駅付近から眺める白馬三山

左から白馬鑓ヶ岳、山頂が平らな杓子岳、右が白馬岳

 白馬には何度も訪れているが、いつも厚い水蒸気の幕に阻まれてなかなか山容を拝めることが出来なかった。今回は久々のヒットだが、惜しむらくは順光の午前中に訪れられなかったことである。また来ようといつものように思う。

神城駅付近から八方尾根を振り返る

なだらかで雄大な斜面は白馬のシンボルとも言える。
後方中央に白馬岳が控えている。         
 
 白馬の山々が後ろに遠離っていく。そろそろ分水嶺が近づき、神城辺りは姫川の源流のある場所だ。その昔、姫川は青木湖を源流としていたらしいが、土石の崩落によって分水嶺が変わったという。現在の分水嶺、佐野坂峠を越えると白馬とはお別れで、風光明媚な仁科三湖に辿り着く。こちらは信濃川水系で、まずは青木湖。以前にオートキャンプで訪れたこともあるが、水の綺麗な静かな湖だ。

青木湖

対岸の閑静な山腹にホテルやキャンプ場のリゾート地
がある。                    

 青木湖を過ぎるとすぐに中綱湖が現れる。三湖のなかでは一番小さく、地味で、集落にも近く生活感のある湖だ。

中綱湖

小さな湖の回りには田圃や集落が広がる。


 そして最後が木崎湖。写真からは窺い知れないが、夏にはレジャーボートもたくさん浮かぶ行楽の湖である。

木崎湖

三湖の中でもっとも拓けたリゾート地だが、たまたま
写真に収まった木崎湖はもっとも神秘な佇まいを見せ
ている。                    

 ところで、駆け足で車窓を紹介してきたが、実は最後に苦労話を書かなくてはならない。こんなに素晴らしい景色が続く大糸線であるが、車窓から写真に収められる場所がほとんどないのだ。その原因は電線である。電線に慣れっ子の日本人には、普通に車窓を眺めている分にはさほど気にならないものだが、いざ写真を撮ろうとなるとそうはいかない。気がついてみると、南小谷から信濃大町までの間、私は殆どカメラのファインダーを通して景色を眺めていた。電線が途切れる瞬間を待つためである。それでも中綱湖の場合、電線が途切れることはついになかった。
 車窓から写真を撮るなどいうのは本来邪道であるに違いない。しかし、私は車窓ファン、しかも全国全線走破のために途中下車するゆとりはあまりない。観光立国を標榜し、しかもこれだけの絶景路線なのだから、電線の地下埋設に対してもっと積極的になっても良いのではないかと思う。
(2014/4/1乗車)



スイッチバック讃歌

篠ノ井線 姨捨(おばすて)駅

特急 しなの6号 名古屋行

善光寺平を見下ろしながら、

特急は姨捨駅(左)の脇を通
過してしまう       
 駅に降り立った時、焚き火の香ばしい薫りがした。更科の里では、農作業を間近に控え、ところどころで枯れ草を燃やしている。春は確実にやって来ていた。
 姨捨駅は日本三大車窓の一つに数え上げられ、善光寺平(長野盆地)を見下ろす冠着山の中腹に位置しているだけあって、素晴らしい眺望が楽しめる。ホームのベンチはすべて線路側ではなく外を向いている位だ。松尾芭蕉が「田毎の月」と詠った棚田もすぐ向かいの斜面に広がっている。
 この三大車窓は一体誰が言い出したのかはわからないが、九州・肥薩線で矢岳を越える際に見える霧島連山の眺めと、北海道・根室本線の狩勝峠越え(ただし廃止された旧線に限る)で見える十勝平野の眺めということになっている。それにしても雄大な風景はほかにもあるはずで、どうしてこの三つなのか。
しなの6号遠望

篠ノ井からおよそ70mほ
ど登って来たところ。姨
捨まではあと120m上らな
くてはならない。後方、
白銀に輝くのは戸隠山。
(姨捨から撮影)
 共通するのはいずれも峠を越えて突然ひらける雄大な眺めという点であろう。ということは蒸気機関車時代の人々の思いが関係していそうである。峠を登る機関車は凄まじいほどの煤煙を吐き出す。更にその先に待ち構えているのはトンネルだ。窓を閉めても通路を煙が漂い、ハンカチで鼻と口を塞いでも煙の匂いと酸欠で息苦しい。もう勘弁してくれと思った時、トンネルを抜け出した列車は雄大な景色の中を、下り坂で煙を出さなくなった機関車に引っ張られながら軽快に走っていく。爽やかな風はこの景色に酔った人々にさぞ快かったに違いない。

 在来線の多くは蒸気機関車時代に敷設されたため、とびきり勾配に弱い機関車のために様々な工夫が凝らされている。その一つにスイッチバックがある。姨捨は姨捨伝説や松尾芭蕉の「田毎の月」だけでなく、スイッチバックでも有名な駅である。
桑ノ原信号場

本線は坂になっているが、左右
の引き込み線は水平に設置され
蒸気機関車でも動き出せるよう
工夫されている。      
 篠ノ井線は善光寺平が尽きる稲荷山駅から先には25パーミルの勾配が続く。パーミルとは千分率のことで、1000mにつき25m登る勾配であり、人や車にはさほどでもないが、蒸気機関車や貨物列車にはとても手強い坂となる。また篠ノ井線は特急も頻繁に通る重要幹線でありながら、複線化は見送られているため、駅間が長いと列車交換に困るので、その対策として信号場を設置し列車同士が行き違えるようになっている。
 ところが馬力の弱い蒸気機関車は坂道発進が出来ないので交換施設は水平に設置する必要がある。そこで本線は坂のままとし、信号所は水平を確保して、蒸気機関車は平らなところで勢いをつけてから登攀できるようにしたのが、桑ノ原信号場のようなスイッチバックなのである。稲荷山から登ってきた列車は、桑ノ原信号場で一旦左側の引き込み線に入る。ここでスイッチバックして本線を横切り右側の引き込み線で待機し、下ってくる列車の通過を待つ。列車が通過したら、助走をつけて本線を再び登って行く。蒸気機関車が廃止された後も、重量のある貨物列車にとっては必要な施設である。
 桑ノ原信号場をノンストップで通過すると電車は次第に高度を稼ぎ、あたりの家が次第に小さくなっていき善光寺平が広がっていく。脇には長野自動車道が通っているが、あちらは既により高所を走っている。やがて前方に姨捨駅が見えてくる。

右上に姨捨駅見えてくる。中継信号機が斜めとなっ
ているのは、この先の側線用信号機が<黄=注意>
となっているため。本線側は<赤=停止>    


姨捨駅へは一旦左側の側線に入り、バックして右手
前に進んでいく                

運転手は移動せず、窓から身を乗り出して安全確認
をしながらバックする             

逆推進運転中に下り普通電車が近づいてくる


乗車してきた上りが冠着に向かって出発したあと
今度は下り長野行が先程の側線に向かってバック
していく                  
バックを終えて、姨捨駅脇を長野に向けて下って行
く普通電車。向こう側斜面に棚田が広がる    

 この日、姨捨駅から見る戸隠や飯縄の山々は残雪で白く輝いていた。眼下には善光寺平すべてが見渡せる。手前の棚田に水が湛えられるまでにはまだ日があるようだ。秋の実りの季節には黄金色の稲穂がそよぎ、さぞ美しいことだろう。再び違う季節にここを訪れたいと思いつつ、次の下りを待った。
(2014/4/1乗車)

信越線 関山駅・二本木駅

関山駅

かつては左側に伸びる先に関山
駅があった。本線は横断歩道橋
のところで右にカーブしている
 鉄道の近代化とともにスピードアップの妨げになるスイッチバックが次々と消えていった中で、信越線にたったひとつだけ取り残されたスイッチバック駅がある。
 妙高高原駅から高田平野の外れにある新井駅までは21km、標高差は約450m。25パーミルほどの勾配で下って行く。間には関山と二本木の二駅があり、どちらもスイッチバックの駅だった。昭和60年(1985年)、すべての列車が電車化されるのに伴って、関山は通常の駅に変更され、線路自体は今も敷設されているものの、スイッチバックは廃止された。今も残るのは二本木のスイッチバックである。
 二本木駅がスイッチバック駅として残ったのは、駅の隣にある日本曹達二本木工場の専用線が併設されていたためであり、貨物輸送そのものが平成19年(2007年)になくなってしまったので、保線の面倒なスイッチバックは早晩廃止の憂き目に会うことだろう。
前方に二本木駅

本線は信号機の所で右に消えている。
※ 運転台後ろからの撮影のためガラ
スの文字が写り込んで見にくくなっ
  ている              

 姨捨駅が観光的価値もあってこれからも生き延びるであろうことに比べて、信越線の方は風前の灯である。信越線自体は横川・軽井沢区間が廃線となった段階で、都市間輸送の役割を終えて、もともと人口の少ない地域のローカル線として分断されてしまった。来年春の北陸新幹線開業によって更にそれは推し進められることになる。優等列車もなくなり本線を通過するだけの定期列車が全くなく、すべての列車が二本木駅に立ち寄るにも関わらず、構内の線路が雑草に埋もれているのは、ここがすでに役目を終えつつあることを示している。
 鉄道愛好家はノスタルジーに浸りたいものだが、現実は甘くない。信越線の車窓の素晴らしさはまた別のところで触れたいが、ここの鉄道が活気を取り戻すのはなかなか一筋縄ではいきそうもない。
(2014/4/1乗車)


登攀するためのスイッチバック


木次線三段式スイッチバック

左が一段目、右が二段目。少しずつ
高度を稼いでいることがわかる。 
 スイッチバックは英語でZIGZAGとも言うそうで、本来は急斜面をジグザグに登って行くためにある。姨捨や二本木のように、勾配ではあるものの登攀そのものは直線的で機関車が再発進するために停車場を折り返しにしているスイッチバックは、蒸気機関車全盛時代には日本各地に見受けられた。今はそれが希少価値となっているのだ。
延命水で有名な出雲坂根駅

右が一段目、左が二段目。左線路を
手前方向に登っていけば、やがて次
のシェルター付分岐に辿り着く。 
 さて、本来の登攀するために造られたスイッチバックとしては、箱根登山鉄道の四段式スイッチバック、木次線の出雲坂根や豊肥本線の立野の三段式スイッチバックが有名である。それぞれ行ったり来たりしながら高度を稼いで行く。視界が開けていくと同時に、今さっき通過した線路が見えるというのも、なんとも不思議な感覚である。いかにも登って行く(あるいは降りていく)ということが実感できる点で、スイッチバックはとても楽しい鉄道イベントである。
左が二段目、右が三段目

雪の多い地方のため、人里から離れ
た分岐器は雪囲いのシェルターで守
られている。三段目手前方向に登っ
ていくと、この峠のサミットに至る
 箱根登山鉄道や木次線の場合、運転手が運転台を移るというセレモニーまでついている。ここではスピードアップ・時間短縮などどこ吹く風、実にのんびりとしたものだ。効率優先の今の世の中にとって、なんと無駄多き世界の贅沢なことよと思わないではいられない。特に木次線の場合、そこに辿り着くまでがまた一苦労で、新幹線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えた後、新見でローカル線の芸備線に再び乗り換えて備後落合まで行けば、ようやく一日三往復しかない木次線に乗ることができるという、なんともまあ極めつけの秘境にそのスイッチバックはある。何かのついでに立ち寄ることなど所詮無理。スイッチバックのために一日を使うという、実に贅沢な時間を使った旅が楽しめる。
(2011/1/6乗車)
  
驚きのスイッチバック 立山砂防工事専用軌道

 さて、登攀するためのスイッチバックとして前代未聞の、驚きのスイッチバックが富山県にある。YAHOO地図にもグーグルマップにも記載されていないし、勿論時刻表や旅行ガイドブックにも掲載されていない。鉄道紀行作家の宮脇俊三が『夢の山岳鉄道』の中でこう記している。
 
「起点の千寿ヶ原まで一八・二キロ、スイッチバック四二カ所のこの破格の砂防工事専用軌道の乗車体験について、くわしく書くのはやめる。書けば書くほど鉄道ファンの嫉妬羨望の的になりそうだし、うまく書けそうにない。わりあい正確な路線図を一所懸命に書いて挿入したので、黒岩さんの絵を参照しながら乗り心地を想像していただきたい。」
(宮脇俊三『夢の山岳鉄道』より)

 これでは馬に人参ではないか。この御馳走お預け的文章には正直困った。見てみたい! 乗ってみたい!
 宮脇俊三が書けなかったのは、特別な許可を得て乗車したからであり、鉄道愛好家としてフェアでないと考えたからであろう。しかし現在では唯一乗るチャンスがある。立山砂防体験学習会に参加することだ。ただし回数が限られており、抽選に当たらなければならない。何とそれに当たったのである。
 
白岩砂防堰堤
8つの砂防ダムで
落差108m分の土砂
をくい止めている
 立山砂防工事専用軌道は立山カルデラという聞き慣れない地域にある。有名な黒部立山アルペンルートのすぐ脇にあるのだが、一般人立ち入り禁止区域のため、地元民以外にはほとんど知られていない。東西6.5キロ、南北5.0キロの巨大なスリ鉢状の地形の中にあった鳶山が、安政年間に起こった大地震で完全崩落し、その大量の土砂が放っておくと急流常願寺川によって富山平野に流れてくる。全て流出すれば富山平野が1〜2m埋まってしまうほどの気の遠くなるような量の土砂が立山カルデラにはあるのだという。カルデラはその形状から普通出口は1カ所である。そこで塞き止めれば流出は防げる。治山治水は国の要。人が住めるような場所ではないから国としては立ち入り禁止とせねばならない。しかし、莫大な資金を投じて努力している姿は是非国民に知って貰わなければならない。観光の為ではなく、国が如何に努力しているかという理解者が必要で、だから学ぼうとする限られた人にだけ門戸が開かれる。それが体験学習会なのだ。つまり以上のことを学んだ人だけが、砂防工事用につくられたトロッコに乗ることができるということなのである。
 
デーゼル機関車が3両の 
人員輸送用トロッコを牽引
 起点の千寿ヶ原は、人でごった返す立山ケーブル駅の目と鼻の先にある。ただ堅苦しい感じの漂う砂防博物館の裏手にあるため、多くの観光客は気付かず素通りしてしまう博物館の下に車両基地があるが、これも外からは見えない。博物館内で学習したあと、ふと二階の窓から外をみるとトロッコ基地があることに気付いた。まるで遊園地の豆列車のようだ。ただ違うのは、敷かれた軌道の数。その数が半端ではなく、大規模な施設なのだということが実感される。運転訓練用の軌道まであるのだ。
屋上にヘリポートがついた
事業所・博物館。停留所名
は千寿ヶ原       
 この日の体験乗車に使用されたトロッコ列車は、「平成」号と「薬師」号の二編成。夏休みということもあって、通常の倍の人数である。多少倍率が低かったと見える。我々は第一便となった平成号に乗り組む。トロッコはしばらく常願寺川沿いを遡り、最初のスイッチバックでもと来た方に戻り高度を上げていく。下を逆方向に薬師号が走っていく。これはいい! 薬師号がいい被写体になりそうである。やがて千寿ヶ原まで戻って来た。もちろん高度が上がっているから、博物館が下に見える。屋上は災害時用のヘリポートが設置されていた。トロッコはそのまま進み、観光客で満員の立山ケーブルと擦れ違う。先ほど乗って来たものだが、そのときはトロッコが走っていなかったので気がつかなかった。
バラスト貨物とモーターカー
通過した箇所を下に見つつ 
スイッチバックしながら進む
(7.9キロ地点 鬼ヶ城連絡所)
 専用軌道は軌間610ミリ、全長18.2キロからなる。千寿ヶ原から水谷の間には5カ所の連絡所が設置されていて、ここで列車の交換がなされている。連絡所という名前からして、閉塞確認を連絡し合っている信号所という位置づけなのだろう。擦れ違う列車には乗っている人員輸送用もあれば、バラスト運搬用貨物列車、モーターカーも見かけられた。
薬師号は前進から停止、
更に後進していくところ
 千寿ヶ原の標高は476m、左の写真の鬼ヶ城は713mで、すでに237m登って来たわけだが、距離は7.9キロだから、平均勾配は30‰ということになる。多くはスイッチバックで稼いでいるので、それ以外は平坦な感じだ。


身を乗り出してバック運転
 ところで終点水谷は、白岩砂防堰堤よりも高い位置にある。そして堰堤より低い位置にある最後の連絡所が樺平だ。水谷が標高1116m、樺平が883m。標高差233m。ここに驚きの18段連続スイッチバックがある。何回も往復運動しながら、200mの山肌を登っていく。まさに、スイッチバックの頂点に立つ見事な景観だ。最初は見上げていた向かいの山の岩壁が、次第に同じレベルになり、眼下に移っていく。鬱蒼とした緑の中のスイッチバックだから、残念ながら全貌が見渡せる箇所はないが、途中で何段目か数えるのを忘れてしまうほど、いつまでもいつまでも続く至福のスイッチバックであった。
鉄道模型のレイアウトのような
配線            
 最初に載せた白岩砂防堰堤の遠望写真は、18段スイッチバックが終わった近くの展望台で撮影したものだ。見えている部分の標高差は100m余り、この倍の高さを18段で登って来たかと思うと、いかにスケールの大きなスイッチバックであるかが実感としてわかってくる。
 およそ1時間40分の旅が終わる。水谷から先はバスで砂防ダムを見て回る。あくまでもトロッコは、国の治山治水の最先端を学ぶための移動手段なのである。帰りは、最初にバス見学した人たちの帰路用であるから、残念ながらここでトロッコとはお別れだ。終わってみれば、まさに夢のような体験であった。
(2011/8/17学習)
立山砂防の図