2013年11月6日水曜日

飯山線湯けむり紀行

長野新幹線の旅

 秋も深まり肌寒さを感じる頃となった。日頃の疲れを癒そうと温泉も楽しめる飯山線完乗の旅に出ることにした。長野から入り、帰りは越後湯沢に立ち寄って利き酒を楽しむのも一興だ。車窓の旅に新幹線は無粋とは思ったが、のんびりと出発時間を遅らせたいという欲望に負けて、東京駅から新幹線に乗ることにする。11月最初の水曜日、席は楽勝に取れると高を括っていたら、窓側は全て売り切れていた。東京7:24発、長野8:49着の速達タイプのあさま505号はビジネスマンに人気の列車だった。上野は通過する。曇り空のなか、上中里あたりの木々は少しだけ色づいてきている。
 大宮からは大勢のビジネスマンが乗車してきて、あっという間に車内は満席となった。どこか東海道新幹線の新横浜を彷彿とさせる光景だ。人口のドーナッツ化、分散化が進んでいるのだろう。ただ上越新幹線開通時に作られた新幹線ホームは、陰気くさい雰囲気の漂っているところが多く、大宮駅も例外ではない。施設そのものがだいぶ古くなってきた上に、屋根付きで日が差し込まず、しかも節電が徹底しているからだ。更に、3面6線の大掛かりな駅でもある。新幹線が暫定開業だった頃、始発駅として3面必要とされたかららしいが、今は真ん中の1面はあまり使われていないので、余計暗い雰囲気が漂っているわけだ。
 さて通路側から車窓ばかり眺めていると隣の人の気が散るだろうから出来るだけ遠慮する。高崎に近づくと速度は160キロに減速し、そのまま通過となる。この減速は、日本最大の38番分岐器を分岐側に通過する際の制限速度だからである。上越新幹線と長野新幹線は高崎駅の先、3.3キロ地点で別れていくが、上越方面は直進側のため速度制限はなく、長野方面は分岐側のため160キロに制限速度が定められている。38番分岐器とは、38m進む間に1m離れ、レールが交差するクロッシングまでは134m以上ある大変大掛かりなしかけだが、通過時はそれなりのショックがある。ほとんどの人は気にも留めないが。
 再び加速して山が近づきトンネルを抜けると、安中榛名。軽井沢までは連続勾配のためスピードが落ちる。トンネルの出入りが激しくなるので「耳ツン現象」が起こるが、安中榛名から軽井沢まで一気に700mも駆け上るのだから、それも当たり前といえば当たり前のことだ。横軽の苦労は過去の記憶となり、そのうち忘れ去られていくことだろう。
 トンネルを抜けて紅葉の軽井沢を時速50キロほどのゆるゆるとしたペースで通過する。長野新幹線は随所に速度制限の場所があるようで、新幹線らしくないよなあと思う。右側の車窓にちらりと浅間山が見える。中腹の森林限界までは紅葉しているが、色合いはシックな感じで、鮮やかさはない。雪が降った形跡はなかった。
 佐久平を過ぎると台地の上を疾走するが、防音壁が続いているために見晴らしは悪い。ここがちょっと興醒めで、「詰まらないなあ。やはり新幹線は日本の移動を詰まらないものにしている」と思わざるを得ない。ようやく首都圏を離れて最初の停車駅上田に着く。多くのビジネスマンがここで降りていった。新幹線を使うと、東京まで1時間、上田から長野はわずかに10分。定期券代の問題さえ解決できれば、どちらも十分通勤圏である。
 新幹線の開通で時代に取り残された町として小諸がある。かつては文豪島崎藤村や全国でも珍しい穴城の懐古園で有名な土地であり、情緒豊かな宿場町であるが、今は見る影も無い。上田が東京に近づき、小諸が遠ざかって忘れられていく。新幹線の破壊的な影響力を感じる。もしも長野新幹線が軽井沢か先をミニ新幹線にしたらどうなっていたのか。山形新幹線によって、米沢・高畠・赤湯・かみのやま温泉は文化圏・生活圏を破壊されることなく、山形県は山形県のまま東京との距離を縮めたのではないか。この点に関してはJR東日本の英断は賞賛に値する。一方長野新幹線は本来北陸新幹線の一部であるからそれは所詮叶わないことなのかもしれず、であるなら小諸の再生は中央から見放された小諸自身の努力の推移を見守るしかない。
 昭和の時代、長野は夜行列車で行くのも選択肢の一つとなるような土地だった。初めて信越本線で越後の高田まで行った時は、上野で何時間も並び、満席の夜行列車で首を痛くしながら一晩過ごして、夏の早い夜明けを長野盆地のリンゴ畑で迎えた。今ではまるで嘘のように首都圏と信州の距離は狭まっている。速達タイプはわずか1時間25分で東京と長野を結んでいるが、新幹線の速度もさることながら、やはり横川・軽井沢間の碓氷峠越えが如何に大変であったかを物語っている。
 屋代付近でトンネルを抜ければいきなり長野盆地が広がり、千曲川と犀川を渡れば呆気ないほどの早さで長野駅に滑り込む。

飯山線にゆられて <Part Ⅰ>

 飯山線は長野県豊野から越後川口まで全長96.7キロの全線単線のローカル線だ。全線ほぼ千曲川(信濃川は新潟での名称)に沿って走り、世界有数の豪雪地帯を走る鉄道として有名である。長野盆地から日本海に抜ける大河とともに新潟を目指し、2000m級の山が控えた妙高高原や菅平高原に挟まれたのどかな盆地をゆったりと走っている。
 長野からは2両編成十日町行に乗車する。乗車したのはキハ110-229、JR東日本の標準的な気動車で馬力があり加速も優れているが、何よりも嬉しいのは2・1の3列シートとなっていて、一人客でも気兼ねすることなく旅が楽しめることだ。しかも1列側は進行右側で千曲川が堪能できる車窓である、日差しの強さが玉に傷であるが。
 住宅街を抜け、北長野を過ぎるとリンゴ畑が広がり、真っ赤にかわいらしく実ったリンゴが鈴なりになっている。それにしても長野盆地にはリンゴがよく似合う。所々に柿も実っていて、このオレンジ色も青空に映えてとても綺麗だ。時々北アルプスの山々が雪化粧した姿を見せてくれる。スキーリゾートが盛んな菅平方面にはまだ雪の降った痕跡はない。実に秋は色彩豊かで旅が楽しめる。
 豊野で信越本線が左側に離れていく。飯山線は長野盆地の地形に逆らわず真っ直ぐ進むので、こちらがまるで本線のようだ。そう思ったのも束の間、程なく脇に流れる風景がぐっと迫って、生活色がローカル色に染まり、線路も蛇行を始める。手が届きそうな風景はローカル線ならではのものだ。建設中の北陸新幹線の高架橋もよく見え、あと1年半ほどの迫った開業を前に、あらかた完成しているようだ。
 千曲川は1300m級の高社山と斑尾山に挟まれた山腹を、千曲の名に恥じることなくくねくねと流れ、並行する飯山線も蛇行を繰り返している。対岸の深い山間に広がる扇状地は木島平あたりだろうか。町並みが広がって新幹線の高架橋が近づきけば、そこは飯山である。巨大な新幹線駅舎はまだこの町にはとけ込んでいない感じがする。新幹線をくぐり抜けて200mほど先に飯山駅は昔ながらの佇まいでひっそりと終わりを待っている。ここでも生活圏が移動するのだなと思う。飯山駅には蒸気機関車C56と転車台が残っているのだが、今後どうなっていくのだろう。
 さて列車はこの先の戸狩野沢温泉で1両切り離し、単行となる。ローカル色が一層深まる。次の停車駅は今回の目的地である上境だ。






いいやま湯滝温泉

 飯山線で旅をするなら、駅から近いここを訪ねようと思っていた。時刻もちょうど昼時、温泉につかってお酒を嗜むのも悪くない。2時間ほどノンビリできる。日帰り立ち寄り湯は駅からほんの200mほど、千曲川が蛇行する川に突き出た見晴らしの良い所にあった。
 空は快晴、紅葉もほど良く色づき、空気は澄み切っていた。温泉は内湯と露天風呂が離れていて、木塀で隠された通路で内庭を迂回していく。この木塀はどう見ても、歩く人を隠すためのものではなく、女湯の目隠しであろう(現に帰りがけに撮った写真を見ると、近くの橋からは通路が丸見えだ)。
 この時期でも濡れた素肌には結構寒い移動だが、日差しがあるので気持ちよい。平日の真昼だから客も少なく、ほぼ独り占め状態であった。お湯に浸かって、ぼうっとしていると、日頃の疲れが肩から抜けていくのが実感できる。人が仕事している時に、こうして極楽気分を味わうことは何と快感であることか。更にこの先には、一献が待っている!
 地元の紫米でつくった皮が特色の紫米餃子を摘みに、生ビールで喉を潤す。ほろ酔い気分で休憩所に寝転ぶ。まさに至福の時。
 
冬支度

 上境でみつけた豪雪地帯の冬支度をいくつか紹介しよう。

融雪道路
雪国では良く見かける施設。
人口がそれほどない地域にも
インフラの充実は欠かせない
のだからたいへんだ。

豪雪地帯の消火栓
夏と冬とで使用する高さが
異なっている。これは面白い。


綺麗に並べられている。
几帳面な人なのだなあと感心する。

駅前には火の見櫓と
1軒の店屋があるだけの
のどかな田舎だ。

飯山線にゆられて <Part Ⅱ>

 薄の穂が揺れる中を定刻通り越後川口行がやって来た。ここからは更に豪雪地帯となる。
 上境からは山が次第になだらかになり、ほろ酔い気分と午睡の時間も迫って、うたた寝が始まる。
 その時ふと目に飛び込んで来たのが、「日本最高積雪地点」記念碑である。7.85mとは凄まじい。碑の一番上に横線が引かれているが、ここまで積もったのである。戦争末期のことだ。ここには豪雪の時期にもう一度訪れたいものだ。ただ、以前ほど鉄道は雪に強い乗り物ではなくなったので、それなりの覚悟は必要かもしれない。ローカル線が軽視されているのか、安全志向が強まり確認がより慎重になったのか、その理由はわからないが、無理をしてまで走らせないようにしている感じがする。森宮野原のこの碑を過ぎると長野県は終わり、新潟県へと入っていく。
 津南を過ぎ越後鹿渡の先で、飯山線は千曲川から名前を変えた信濃川を渡る。この辺りまで来ると里に出た感じで、風景は取り留めもなくなって、くっきりとした印象にとして残りにくい。十日町では20分も停車し1両増結する。ほくほく線の単線高架上をはくたかが猛スピードで通過していく。高校生がたくさん乗り込んで来た。ローカル線の旅には定番の風景だ。女子高校生が、「この電車に書いてあるワンマンって、なに?」と話しているところをみると、ワンマンを知らないくらいだから通学生ではなさそうだ。
 それにしても電車かあ! 気動車はもはや死語だろうなあ。1両編成で列車も実態に合わないし。呼び名とは難しいものである。でも、電車は勘弁してほしい。これが電車なら、ガソリンとモーターで動くハイブリットカーの方がよっぽど電車である。
 日もだいぶ傾いて来た。この先で信濃川と合流する魚野川を渡れば上越線が近づいてくる。”電車”はここまで。越後川口からは、電気で走る本当の電車に乗って越後湯沢に向かうつもりである。













2013年7月22日月曜日

スカイライナー VS 成田エクスプレス

 千葉にあって神奈川にないもの、それは「東京××」。東京ディズニーリゾートと新東京国際空港、ちょっとマイナーだが東京ドイツ村もある。千葉にとっては、なんとも微妙なネーミングではある。千葉国際空港や千葉ディズニーリゾートだとお客さんが集まらないだろう。「神奈川××」がないのは神奈川がブランドなのではなく、そもそも神奈川県民は自分が神奈川に住んでいるとは言わないのだそうだ。横浜・鎌倉・湘南等々を名乗るのだという。なるほどね。
 それにしても千葉国際空港ならぬ新東京国際空港がある成田までは、遠いなあと思っている人は多いに違いない。羽田がもっと利用できればいいのに。あちらは5本の滑走路、こちらは1.5本の滑走路しかない。しかし、やはり国際線のメインは成田だ。だから、成田までどう行こうということになる。リムジンバスは安いし、いろいろなところから出ていて便利だが、渋滞が厄介。近年、鉄道がとても便利になった。ということで、京成・JR対決!

京成高砂駅通過 成田空港行
 日暮里から高砂までは曲線も多いために100㌔を超えることはない。特に高砂ではきつい分岐をするので、40㌔程度に減速してゆったりと走る。新柴又を通過したところから120㌔を超えた軽快な走りとなる。北総線はどの駅も減速する必要のない構造になっている。特に千葉ニュータウンを突っ切るあたりは、両側の一般道も含めて直線が続く。それにしても、スカイライナーの160キロは実に素晴らしい。印旛沼の脇を滑るように通り過ぎ、成田湯川では減速することなく通過、その先の複線から単線に移る箇所も国内最大の38番分岐器で160キロ走行が可能だ。成田湯川から空港側は直線の為300キロ走行も可能という優れものだ。これと同じ分岐器が高崎駅安中榛名側にもある。京成車両は標準軌だが、車両はミニ新幹線と同じ。前回乗車の際は座席が車端だったため振動が気になったが、今回は中央のため安定した走行感だった。そしていくつかのトンネルを抜けて第1ターミナルへ。この時の減速がかなりきつめで、無駄のない高速からの停車という感じがして興味深い。
長野電鉄で活躍する旧N'EX
スノーモンキー
横浜駅停車中 大船行
 帰りは新宿までN'EXに乗ってみることにした。旧N'EXはリクライニングしない固定シートで如何にも力の入っていない特急車両だった。金儲けの上手なJR東日本は、やる気のない時には徹底して手を抜くが、一旦商機を見い出すと徹底して客獲得に乗り出す企業だ。そういうところが、鉄道愛好家からすれば実に気に入らないのだが、横浜や新宿・渋谷の客が期待できると見て、力を入れた。乗車すると新建材的な臭いが鼻につくが、見た目が綺麗な列車である。フォルムや色彩も都会的でいい。驚いたのは、空港を出るとノンストップで東京なのである。スカイライナーに比べ足は遅く、成田駅や千葉駅では分岐器通過の際に最徐行するものの、このノンストップ効果は大きい。1時間ほどで東京に着くから、スカイライナー利用より早い。この先、渋谷停車のみ。ただ渋谷も新宿も遣り繰りして造ったホームだから、お馴染みの渋谷駅や新宿駅までは結構歩くことを覚悟しなければならない。

2013年3月26日火曜日

失われた山田線を訪ねて

 
 陸中大橋のヘアピンカーブ


めがね橋にはSLが似合いそう
 宮沢賢治が活躍した花巻と新日鐵で有名な釜石を結ぶ釜石線は銀河鉄道を意識したキャンペーンを続けている。沿線には民話のふるさと遠野もあって、JRとしては観光客を誘致した路線であろう。しかし山岳鉄道ファンにとってはそれ以上に垂涎の場、陸中大橋のループがある。
 上越線湯檜曽ループのように完全に閉じたものではないが、Ω(オメガ)ループと呼ばれるように、ほとんど閉じかけたカーブなのである。特に陸中大橋はヘアピンカーブと言っても良い。
眼下にこれから走る線路が見えてくる。
陸中大橋駅は左、釜石は右手トンネル
の先である。               

 両側から迫り来る山間を利用して、出来るだけトンネルを掘らずに勾配を稼ごうとしたために、Ωというよりは音叉の形に近いヘアピンカーブとなっている。そのため、かなりの高低差のある線路同士が平行に走っている場所があって、まるで狭い空間を上手に活かした鉄道模型のジオラマを見ているような錯覚に陥るという。ぜひ、ここを訪ねてみたかった。
 
先程通った橋を見上げつつ進む。
標高差約40m。直線距離130
m。橋では左から右に下っている。
ところが、あの東日本大震災が起こって三陸の鉄道は壊滅的な打撃を受けてしまった。ただの鉄道愛好家が被災地を訪れるというのはいかにも気が引けることだ。随分長い間出掛けていくのがためらわれたが、一方で日本に住む同胞として見ておかなくて良いのかという思いもあった。震災から2年が経ち、被災地を観光することが支援になるという声声も聞かれるようになったこともあって、この地を訪ねることにした。



被災地へ


 釜石は釜石線のほかに山田線と三陸鉄道南リアス線が集まる交通の要衝だ。東日本大震災では、この山田線と南リアス線が甚大な被害を受けた。列車で来られるのはここまでである。 
前方左側に山田線の線路が見える
 お腹も空いてきたので、釜石で昼食をと思ったがどこも11時半からでやっていない。バスの時間が心配なため、釜石での昼食は諦めた。駅前はいきなり新日鐵の巨大な工場があるばかりで、行く当てもないのから近くのスーパーで時間を潰そうと思う。バス停が近いので助かる。無料休憩室でカフェオレを飲みながら、地元の人たちの様子を眺めるが、特段変った所はない。
 バス停「製鉄所前」から「道の駅やまだ」行きのバスに乗る。駅前からは大勢の人が乗って来て、バスは満員になる。津波想定区域の札が立っているが、工場ばかりでまだここが津波に襲われたことが実感できない。しかし、駅前の川を渡ると様子が変った。建物がまばらになのである。残った建物も1階部分が何もないか、シャッターがひしゃげられたりと、津波のエネルギーの大きさを目の当たりにする。バスは市街地を越えて坂を上り次の集落のある入り江に向かってトンネルを潜る。そこで景色は一変した。
 残った建物も何もない。虚しさが漂う。建物はなくてもバスにはたくさんの人が乗っている。彼らはみな被災者なのだ。とても写真など撮れる雰囲気ではない。後ろめたさが込み上げてくる。
 40年前、三陸を訪ねたことがあった。満足に舗装もされていなかった道が、等高線を辿りながら入江から入江へと結んでいた。リアス式海岸は山と山の間に入江があり、集落があるから、道は入江に差し掛かるたびに高度を下げ、次の入江に向かうために山道を登っていった。
 このバスも当時と同じように、入江ごとに山から下っていく。途中までの高台では見慣れた田舎の風景だ。遥か彼方の海は穏やかで綺麗だ。ところが津波浸水区間の札が出てくると、そこから先はなにもない。跡形もない。へし折れた鉄骨は撤去された建物の跡だ。コンクリートの基礎だけが、間取りの形に残っている。それ以外は何もない荒野を、復旧された道だけが、かつてあった街路通りに何キロも続いている。建物はなくても停留所ごとにバスは止まり、人々は少しずつ降りていく。ここからは見ることが出来ない、この先の高台に仮設住宅があるのかもしれない。虚しさと悲しみが押し寄せる。確かにガレキは片付けられたが、それだけに空疎で、復興の兆しはなにもない。
 バスは高台にのぼり、眼下に入り江が広がった。青空のもと、山田湾は実に美しかった。真新しい黄色の浮きが整然と並んでいる。ホタテの養殖だろうか。この海が多くの人の命を奪ったとはとても考えられないくらいだ。
 本来なら山田線でここを通るはずだった。しかし、道床ごと押し流された線路は跡形もないか、あるいはレールがぶらりと浮いて無惨な姿を曝していた。復旧には莫大な金がかかることだろう。JRはどうするのだろう。気仙沼線では鉄道による復旧は断念し、BRT( bus rapid transit=バス高速輸送システム)に移行している。もう二度と釜石・宮古間に鉄道は戻ってこないかもしれない。 
 宮古行バスへの乗り換え停留所は船越駅前である。乗り継ぎ時間の合間を利用して今は使われていない山田線を見に行くことにした。海から遠く高台に位置するこの辺りは、何の変哲もない田舎町である。津波が来るか来ないかで、世界は一変しているのだ。駅片隅にある踏切には「休止中」の札が掛かっている。どこも壊れていない鉄道施設を見ていると、津波など全くなかったかのように思えてくる。
荒れた船越駅
 しかし、列車の通るあてのないレールには錆が浮かんで、命が尽きようとしているかのようだ。早くここまで列車を走らせてやりたいと思うが、代行バスが走っている今、このままずうっと放置されてしまうのではないかという思いが否定できなくなる。
 被災地を訪れたことは、これからの生き方を考えるきっかけになったと思う。誰しもいつかは終える命であるが、それがある日突然訪れてしまったたくさんの人たちがいる。残されても、生活が一変してしまった人たちがいる。自分は運良く、殆ど影響も受けずに生きている。この世の中の不条理をどう受け止めていくのか。じっくりと考えていかなくてはならない。




宮古から盛岡へ

 生き残った山田線は川を辿りながら北上高地を越える景勝路線だ。雪解け水で水量は豊か。新緑や紅葉はさぞかし美しいだろうと思われる。谷は深く渓谷の趣である。宮古の風は冷たくても日差しは明るくやはり海洋性の穏やかな気分が漂っていたが、分水嶺の区界は標高が780メートルもあって一面の雪が積もっている。窓は息で真っ白に曇った。北上高地によって岩手は大きく分断されている。

宮古→盛岡 キハ110 136 単行。 

2012年12月26日水曜日

東海道本線昼景色ノート

鉄旅の備忘録より

 2012年夏に「東北本線昼景色」の旅に出たが、それが思いの外面白く、その第2弾として東京から小倉までを景色が楽しめる昼間に鈍行列車で乗り継ぐ計画を立てた。途中、乗り尽くしの旅の一環として岡山では路面電車に完乗したり、赤穂線に完乗したり呉線で呉を訪れるなど、少々欲張りな計画である。以下はそのうちの東海道本線編ノートである。旅行記にまでまとめあげることはなかったので、ノートの形で残すことにした。 2012年12月26日実施。なお、同日は岡山泊。続きは山陽本線昼景色を見よ。
  1. 6:07東京発。購入した駅弁は鳥取のカニ寿司。グリーン2階席で食べながら出発。辺りは真っ暗。有楽町、晴海通りも真っ暗。
  2. 戸塚・東戸塚地点で上りサンライズとすれ違う(今回の旅の帰路に乗る予定。帰りはどんな思いでこの列車を見送るだろうと考える)。
  3. 朝日を浴びた相模湾がまぶしい。
  4. 熱海駅で最初の乗り換え。ここからはJR東海。ホームが違うため、階段の降り登りがあって面倒。
  5. JR東海の電車静岡行きは何とロングシート。座って乗っても何にも面白くない。
  6. 昔三島まで写真を撮りに来たことがあったが、どこかわからなかった。
  7. 沼津から運転台後ろで立って楽しむ。ところが、苦手な鉄道ファンがかなりいる(自分を映し見る様で何となく避けたいのだ。)。
  8. その中の一人は、完全なトランス状態。あたり構わず話し掛けている。最後に捕まったのは僕。観念して優しく熱心に相手する。話しているうちに驚いた。彼は鉄道ファンではなくて、富士山マニアだったのだ。美しい富士山がだんだん大きく見えてくる。彼の興奮も高まる。「みんな見ているよ」と嬉しそう。終点の静岡まで乗車し、県庁の無料展望台で楽しんだ後、小田原まで新幹線で富士山を楽しみながら戻るのだそうだ。富士山だけでなく、遠くに南アルプスの白い山並みが見える。
  9. 鉄道ファンにオタクが多いのはどうしてだろう。いや、問題の立て方がおかしいか。ファンはみんなオタクかも。知識体系の幅が広い鉄道は、オタクにとって格好の興味の対象なのだろう。優れた人や普通の人からちょっと風変りな人まで、すべてを包み込む鉄道という趣味。何と懐の深いものであることか。
  10. 東田子の浦から富士にかけて、富士の真横を東海道線は突っ走る。手前の里山も切れて、もっとも間近に裾野が美しく広がるところだが、この辺りは製紙業がさかんな地域でもある。錆の浮いた製紙工場が連らなり、真っ白な煙をもくもくと上げている。吉原からは岳南鉄道。静岡乗り尽くしの際には再訪することになるが、この工場地帯はいただけない。
  11. 富士川は素晴らしい橋梁だ。はやぶさ・富士で通った時を思い出す。
  12. 由比から興津にかけては海岸まで山が迫っているので、東海道線・国道・東名自動車道が寄り添って走る。最初に開通したのが東海道線であることは、線路脇の頑丈そうで無骨な防波堤の名残から推測できる。あとになって、海側に道路が造られていったのだろう。なお、このあたりは「左富士」で有名な所だそうだ。前方に気を取られ、また富士マニアが左富士を知らなかったため話題にならなかったので、見はぐった。
  13. 清水から静岡鉄道が併走して静岡に着く。これも乗りに来ないといけないなあ。
  14. 静岡からはまたロングシート。安倍川はどうして連濁しないのか。むかしから安倍川餅って言ってたなあと取り留めもないことを考える。立派な橋梁だ。
  15. 島田を過ぎると長大な大井川を渡る。ここからは白いアルプスは見えない。小夜の中山も近いこの辺りは牧ノ原台地が広がる起伏の変化に富んだ所で静岡茶の産地でもある。大井川橋梁を越えると列車は右に90度曲がり、徐々に高度を上げて金谷の駅に着く。SLの時間ではないようだ。大地の窪地をうねりながら、菊川から掛川へと進む。周囲は茶畑で囲まれている。新幹線と併走して掛川に到着。ここからは天竜浜名湖鉄道(天浜線)が分岐する。旧二俣線には近々訪れる予定。
  16. 掛川から浜松まではかつて車窓展望を楽しんだことがある。このあたりは新幹線と併走し、しかも高架橋ではないので間近に見ることが出来る。天竜川を渡れば浜松は近い。
  17. 浜松で乗り継ぎは、やはり階段での上り下りが必要。一体どうなっているのだろう。
  18. 浜名湖あたりの風景は美しい。弁天島で少々停車しているうちに、新幹線が高速で行き交う。日本の大動脈であることを実感する。とにかく頻繁に通る。
  19. 豊橋からは漸くクロスシートになった。長時間立ちっぱなしだったので嬉しい。乗った電車は「新快速」大垣行。豊橋駅では飯田線と名鉄が同居。
  20. 名古屋付近は線路も複雑で、とても覚えきれない。中央線が合流。名鉄も併走。賑やかだ。名鉄全線走破は大変だろうなあと思う。関東に住みながら、東武全線走破が大変だったことを思いだす。面白いばかりではないし。清洲は織田の清洲城のことかあ。岐阜は山城が見える。一度降りてみたいな。遠くの山並みに白いものが見えてきた。大垣に近づくと徐々に上り坂になって山が近づいてくる。そのうちのひとつ、行く手に見える真っ白い山は伊吹山に違いない。
  21. 大垣で小休憩。一旦改札を出て予定通りドトールに行く。食べ過ぎないよう、水分の補給とトイレにも行っておかないと。
  22. 大垣・米原間は東海道線内唯一のローカル線である。関ヶ原は地形的には勿論のこと経済的にも東西を分かつ境界線なのだということを実感する。近郊電車の半分は岐阜で折り返し、残りも殆どが大垣止まり。この先は1時間に2本程度となる。
  23. 大垣は交通の要衝で、東海道本線以外に、樽見鉄道・養老鉄道・美濃赤坂行(東海道本線)が走っている。更に東海道本線もこの先の南荒尾信号所で上下別線となって、愛好家にはたまらなく魅力的な場所である。各駅停車の旅なので、下り専用線には入らず、通称垂井線で垂井を目指す。ここは面白い。垂井線は複線に見えるが、実際は東海道本線上りの高規格線路と各駅停車専用の低規格線路垂井線が併走する奇妙な場所である。垂井駅に停車する必要のない優等列車や貨物列車は、すべて高規格線路の下り専用線に回る。一方上り優等列車は垂井経由となる。雪が交じり始めた。このあたりは日本海側の気候が入り込んでいるのだろう。
  24. 美濃赤坂から草津までは、かつて中山道であった。東海道は熱田から桑名にでて四日市経由である。
  25. 関ヶ原を越えると峠があり、そこから米原までは坂を転げ落ちるように下っていく。伊吹山が大きく聳え立つ。
  26. 米原で乗り換え。JR西日本の新快速網干行、先頭車両の乗る。運転手は女性。クロスシートで快適だ。このあたりは琵琶湖線と呼ぶらしい。地元の人にはいいが、我々旅人にはどこを走っているのが琵琶湖線かはわからない。
  27. 雪が交じっている。彦根城が見える。安土城の場所は確認できなかった。近江八幡といえばたねやかな。看板見あたらず。
  28. 野洲には電車基地。
  29. 草津からは複々線。新快速の真骨頂。ところで新快速が早いのは衆目の事実だが、ギリギリの運転をしているなと思うのは駅に停車する時の制動距離の短さである。ブレーキ操作が難しそう。カクカク制御しながら運転している。他の民鉄との対抗上、スピードが命なのだろう。JR東日本にも見習って欲しいものだ。だが、一方でここまでスピードに拘るからこそ福知山線の事故は起こったのだとも思う。怖いくらい速いのである。関東では京急が120㎞運転をしてスリル満点だが、こちらは130㎞運転である。
  30. 大津が近づき天候も回復。叡山も見えてきた。逢坂山トンネルを抜ければ山科だ。湖西線と合流。
  31. 東京からずうっと一緒だったハンチングの人物は京都で降りた。こちらはまだまだ先だ。
  32. 山崎サントリー。茨木。新大阪、そして大阪へ。
  33. さくら夙川あたりは高級住宅街なのか。芦屋。
  34. 灘、灘中高はどこだろう。六甲山が大きく迫り、住宅街を見上げる様になる。
  35. 三ノ宮の次が神戸。この電車の終点はまだ先だが、東海道本線昼景色はここまで。

2012年12月25日火曜日

山陽本線昼景色ノート

鉄旅の備忘録より


1~9は12月26日「東海道本線昼景色」の続き。10~は翌日27日の記録。
  1. 線路上の戸籍とは別に新快速は何事もなかったかのように神戸駅を出発する。東北縦貫線が開通すれば、東北線と東海道線が直通するが、東京駅を通過するときに特別な感動があろう筈もない。それと同じ。でも、東京から来た身にはついに来たなあという思いはある。ただ、ここから山陽本線が始まるにしては、ここ始発の列車がないだけにちょっとあっけない感じはある。
  2. 明石海峡大橋、明石の天文台?
  3. 途中で徐行
  4. 姫路で乗り換え。DC特急のあとすぐ。
  5. 網干、相生から赤穂線へ。夕暮れ迫り、播州赤穂。乗り換え。
  6. 瀬戸内海が少し見えるがすぐに日没。
  7. 大多羅、岡山着。
  8. すぐにチェックイン。福寿司で、生ビール、酢の物、冷酒、特上ままかり寿司。
  9. 岡山電気軌道でまず東山、戻ってから清輝橋、戻って宿へ。
  10. 5時起床。5:50発。
  11. 尾道はまるでジオラマのような風景。狭い海峡にびっしりと町が広がり、中腹をうねるように山陽線。上をしまなみハイウェイの橋が架かる。冷え込んだ朝、海水温の方が高いため海からは霧が湧き起こる。幻想的な風景。
  12. 糸崎で乗り換え。何と味気ない103系ロングシート。三原は新幹線も停まるちょっと大きめの町。高架線上に駅。ここで新幹線と山陽線は真っ直ぐ山に向かってトンネルに吸い込まれていく。呉線は大きく左にカーブを切り、徐々に高度を下げて渡河、正面の山を回り込むように左カーブを切るものだから、とうとう山陽線と平行に東へ向かい、小さな半島の縁を再び180度右に進路を変えて西に向かう。この間、瀬戸内海に沿って電車は走り、遠くにしまなみの橋を見届けながら、風光明媚な景色が楽しめる。日の出の太陽が徐々に高度を上げるなか、
    呉線車窓 海霧の夜明け
    海面からは沢山の霧が湧き起こる。それがオレンジから金色に輝いて美しい。
  13. 瀬戸内海の風景を堪能するには、頭の切り替えが必要である。箱庭のような美しい風景の土地には、沢山の人が昔から住んでいる。盛んなのは海運と造船業。近代日本の牽引車だ。そして海運はコンビナートを発達させている。大規模な火力発電所。これらがすべて美しい風景の中にある。工場群は美しくない。しかも巨大な煙突からは、浄化処理された白い煙とはいえ、もくもくと大気中に放出されている。ところどころで工場地帯は途切れる。いきなり美しい島と海岸が現れる。しばらく行くと集落が現れ、また工場地帯。
  14. 呉線が走る所は特に近代日本の先進工業が発達した所。戦前は、軍艦は勿論のこと零戦を始めとする戦闘機の生産一大拠点であった。工場労働者ばかりでなく、先端技術者が多く集まり、日本の頭脳集団が暮らしていた場所なのである。その伝統は今も受け継がれている。巨大な造船所の回りには、そこで働く人達が乗ってきた自家用車がびっしりと取り囲んでいる。
  15. 呉は、造船と自衛隊の街。だから呉線は単なるローカル線ではないのだ。赤穂線と同様、このあたりの山陽線の方がローカルなのである。
  16. 大和ミュージアム、鋼鉄の鯨。見所多し。江田島の向こうに厳島が見えることを教わる。
  17. 呉から広島までは、快速安芸路ライナー。途中列車交換があるので、それほど速いわけではない。運転席にはモニターがあり、次停車とか表示される。驚いたのは、速度制限がでたり、急カーブ表示があること。福知山線事故の反省からであろう。JR西日本は、制限速度一杯に運転しているので、必須の装備と感じた。ここの海がまた綺麗だ。広島は海が綺麗だ。だからこそ牡蠣が美味しいのだろう。
  18. 広島から宮島口を通って大野浦まで。次は岩国まで。
  19. 岩国から新山口まで。ここは周防大島の橋が見所。以前、見たことがある。たぶん、みずほで長崎に行った時だ。大学生の時。思い出に残るのと全く同じ橋が現れた。記憶は確かだ。このあたりも風光明媚。光を過ぎ下松からは海とお別れ。山側の席に移る。
    大畠瀬戸にかかる大島大橋
  20. 防府は趣のある町。山が西日に当たって美しい。山は石灰岩質、秋芳洞にも近く、またこの先はセメント工業の盛んな所だ。
  21. 新山口はかつて小郡と言った。かつてホームに立ったことがあるが、風景に記憶はない。乗り換え。
  22. いよいよ本州の端は近い。起伏の激しい所で小さな峠をいくつも越える。路線は地形に逆らわないようにくねくねと曲がる。海からは遠い。
  23. 幡生で非電化の山陰線が合流する。複線の山陽本線の間を下から這い上がってくる。下関駅に近づくと右側から海が近づく。これは下関漁港・下関湾であって、関門海峡ではない。
  24. 本州の果て、下関駅はエキゾチックで重厚な駅である。いにしえの繁栄を彷彿とさせるかのように、長大で広々としたホームには、どっしりとした屋根が被さっている。柱はレールを用いた鋼鉄製だ。今、ここに停車する長大編成の長距離列車は残念ながらない。山陽本線はこの先門司が終点だが、JR西日本はここまでで、最後の一駅まではJR九州となる。夕暮れ迫る関門海峡を通り、今回の旅の終点小倉に向かった。
  25. 小倉から東京に戻る。残念ながら直通の寝台特急はない。今の時間、のぞみならそのまま深夜に東京に着く。それでは面白くない。今回採った方法は、山陽本線昼景色区間は、JR九州のさくらで、その先はサンライズ瀬戸で優雅に帰るというものだ。さくらの停車駅は小倉、徳山、広島、福山、岡山。ビールとかしわ飯弁当で夕食。さすがJR九州車両、指定席はグリーン並みの横4列。肘掛けやテーブルに木をふんだんに使っている豪華仕様で実に快適。通路ドア上のLED表示も大きく見やすい。山陽新幹線を利用するときは、新大阪で乗り換えよう。
  26. 岡山からはマリンライナーで高松へ。ここは青春18が使える。20分の待ち合わせで、サンライズ瀬戸は出発。

2012年8月23日木曜日

スーパーおおぞら 283系 スーパー北斗 281系


追分駅に到着する釧路行スーパーおおぞら

283系特急気動車はカーブに強い振り子式を採用.
側面に釧路湿原に生息する丹頂鶴の赤をあしらっ
ている。単線の石勝線は追分駅手前で分岐、右側
は通過用。           (2012 8.23)




函館行スーパー北斗運用の283系

281系と異なり、かなり厳つい顔をしている。
ヘッドマークはLED,前照灯が縦に並び、貫通
幌の枠も無骨だが,その分だけ力強さを感じる
                   (2012 8.24)

函館駅 281系

283系と比べてスマートな感じがする。ヘッド
マークは従来通り巻き上げ式のものを使用
            (2012 8.24)



2012年8月22日水曜日

札沼線の終着駅 

急行寝台列車、札幌へ

   国鉄時代には全国に夜行列車網が広がり、時間はあっても金のない貧乏学生の強力な助っ人になっていた。知らない土地には行ってみたいが、食事代は節約できても宿泊代までは浮かせにくい。夜行列車は移動と宿泊が同時にできる実に重宝な存在だった。
 その典型が北海道だった。

1983年8月時刻表より
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   21:33→48(小樽回り)→05:01
   23:15→すずらん62号→06:12 
 札幌                 函館
   06:04←すずらん61号←23:35
   06:51←41(小樽回り)←23:51
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   22:10→まりも3号→06:15 06:24→ノサップ1号→08:54
 札幌                 釧路                根室
   06:25←まりも4号←22:35 22:30←  274D  ←19:36
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   22:15→大 雪 5号→07:26
 札幌               網走
   06:15←大 雪 6号←21:14
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   21:25→利  尻→06:22
 札幌              稚内
   05:56←利  尻←21:00
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 札幌を21時から23時に出発し、目的地には6時から8時に到着するという無駄のないダイアであった。北海道の主要都市が夜行急行で結ばれているおかげで、宗谷・知床・納沙布・阿寒・摩周・函館などの道北・道東・道南は、宿泊代を浮かしながら旅することが可能だった。日中は見学先で過ごし、夜になれば一日おきに札幌に戻ってくる。札幌周辺では市内見学はもちろんのこと、小樽や積丹半島に足を伸ばせばよい。実に便利な夜行列車だったが、盲点は道央で、80年代に入って人気が高まる富良野や大雪山系は行きづらい(宿泊代にお金が掛かる)場所の一つであった。

急行はまなす

青森発
全国的に夜行列車が廃止される中、今でも昔を彷彿とさせるスジで走っている列車がある。それが急行「はまなす」だ。札幌と青森を結ぶ急行「はまなす」は、北海道内だけでも利用できる最後の夜行列車といえるだろう。函館通過が深夜となるため、本来は青森・札幌間で利用する急行だが、夜中の1時に函館で乗車して6時過ぎに札幌下車というように宿泊用としても十分に利用価値がある。上り列車で函館の乗り降りは余程のことがない限り利用はしづらく、あくまでも青森からの乗車が良いのだが、それにしても乗り換えなしに寝ている間に札幌に到着するのはありがたい。

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   22:00→はまなす→02:52/03:22→はまなす→05:39  
 札幌            函館             青森
   06:07←はまなす←01:23/01:00←はまなす←22:42
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 さて、今回の北海道乗り尽くしの旅は、札沼線や留萌本線、石勝線の枝線などに乗ることが目的で、終着駅を訪ねる旅でもある。北海道への第一歩として、時間の有効利用からはまなすを選んだ。

急行はまなすのエンブレム

1号車7下、久し振りに二段式B寝台を利用する。7下は車両中央で揺れの少ない所だが、14系客車はディーゼル発電機が床下に設置されているのでとてもうるさく感じる。寝台に入ってカーテンを閉めてしまえば気にならないのだが、こんなところにもこの車両が時代に取り残されているなあと思う。もっとも寝台列車好きには、穴蔵のような空間に入ってしまえば心がウキウキしたまらないのだが。
 さっそく酒宴。今日の日本酒は弘前六花酒造の吟醸酒じょっぱりと龍飛。じょっぱりは頑固者の意味だそうで、水は白神山地の伏流水を使っているという。龍飛の方は文字通り竜飛岬の水。摘みは、やはり土地の名産、ほたて十万石という笹かまぼこで、ほたて、むきえび入り。あっという間に出来上がって、そのまますぐに寝入ってしまった。函館停車で一度目覚めたが、そのあとは5:15の車内放送までぐっすりだ。
朝もやの中を走る
 起きて気付いたのは、同乗者が生活感漂う中高年ばかりで、実に庶民的なことだ。ブルートレイン全盛期の7〜80年代は贅沢だったB寝台も、より豊かになった今では昔を知る人しか乗らない車両となったのかもしれない。繁忙期直後で1(号車)と2(号車)の間に21(号車)を増結している上に、上段を使用していないため、車内は人数が少なく快適であった。列車は函館でスイッチバックするので、機関車の次だった1号車が最後尾に変わっているので、道内では後方車窓が楽しめる。目覚めた時は千歳線を走っていた。このあたりの風景は曖昧で大雑把なな感じなので、北海道好きな自分だが、この風景はいただけない。札幌には6:15、やや遅れての到着。
札幌着

【編成】
スハネフ14 551+オハネ24 501+オハネフ25 3+スハフ14 555+…

 朝食はキオスクで済ます。とうきびおにぎり、野菜ジュース、キウィヨーグルト。”大通公園名物”と銘打ったおにぎりは、だいぶ期待はずれだった。甘辛たれはベトベト、コーンはぽろぽろ。やはりおにぎりはさっぱしてないとね。”名物”に騙されてはいけない!

学園都市線と呼ばれる札沼線

 札沼線の名称は札幌と石狩沼田を結ぶ路線として開業したことに由来するが、昭和40年代に新十津川・石狩沼田間が廃止となってしまい、実情に合わない線路名となっていることもあって、近年は学園都市線の名前で親しまれている。しかし、その名前も北海道医療大学駅までがぴったりで、電化されて通勤通学電車が通うのもここまでだ。
札幌にて クハ731 205
札幌7:02発普通石狩当別行535M電車は、三つ扉のロングシートだった。前日青森までの各駅停車の旅がほとんどロングシートだったこともあり、いささかうんざりだが所詮通勤電車なので仕方がない。札幌から一駅めの桑園で函館本線と分かれ、しばらく高架のまま札幌の市街を走る。石狩当別までは通勤電車そのもので、外の風景が次第に郊外から農村に変っていく。石狩当別には7:47定刻通り到着する。

 さて、ここからが旅の始まり。電化されて比較的本数が多いのは一つ先の北海道医療大学なのだが、この地域の主要駅はここ石狩当別である。ここから終点新十津川まで走る列車は一日わずかに3本、朝・昼・夕だけしかない。途中の浦臼まではあと3本あり、要するに札沼線末端はローカル線以上の閑散路線なのである。
 石狩当別7:51発新十津川行気動車が接続するのだが、これが大混乱なのだ。先ほどの通勤電車からこの1両編成気動車にほとんどの人が乗り込むので超満員。乗客の半数は1駅めの北海道医療大学で降りるが、それでも通路やデッキは高校生でいっぱいだ。せめて2両編成にすればいいのにと思うが、通学定期相手にはサービス無用と考えているのだろうか。ようやくガラガラになったのは、石狩月形でDK(男子高校生)JK(女子高校生)が下車してからだった。30分以上満員で揺られていたことになる。 

ローカルな札沼線

石狩月形にて キハ40 401
ここからが旅の仕切り直し。札沼線は石狩平野の北側のへりをゆくのどかな路線である。稲があり、そばの白い花も見える。札沼線の「沼」とは、石狩川の蛇行で取り残された有名な三日月湖(沼)が至る所にあるからだろうと、勝手な想像をするが、実際は先ほど述べた通り、札幌と留萌本線の石狩沼田を結んでいたからである。月形という地名は三日月湖そのものだから、沼の由来もこちらの方が由緒正しい感じなのだが。

石狩月形に交換列車が接近する
広がる石狩平野のへりには集落ができる。集落とは言っても広大な農地をほこる北海道だから人口は多くない。そこを走る札沼線だから月形の高校をあとにすると、乗客は鉄道ファンばかりである。乗客はおそらくフリー切符で乗っているから、この線にはお金は落とさない。従って空気を運んでいるばかりである。この効率の悪さが、鉄道に情緒を与えるのだから始末が悪い。

ピンネシリ方面を眺める
ところがちょっと興ざめなのが、こんなローカル線でも車内テープ放送があり、その声がおなじみの女性の声、東京の通勤電車で流される声と一緒だったこと。「次は○○です。お降りの方は前の方にお進みになり、運賃箱にお金と整理券をお入れ下さい」と流れるが、誰も立とうとはしない。それも当たり前である。何の用向きもなく、ただ終点に行くことだけを目的としている「鉄ちゃん」ばかりだからである。私などは、左右に一つずつボックスシートを占有して、両側の風景を楽しんでいる。駅に近づくと顔を窓から出して、乗ってくる客のいないことを確認し、席にふんぞり返る。極楽である。
 
先は廃線。建物が建っている
ところでテープのアナウンスでは「この列車は…」と正確に案内しているのにも関わらず、運転手がマイクで告げる案内では「この電車は…」と言っている。電車は電気で走るもの、軽油で走る列車は気動車だ。「そんなこまかいこと、どうでもいいじゃん」と言われそうだが、それなら蒸気機関車も電車って言えるのかと突っ込みたくなる。JR職員がそれでいいのか。終わってる!!
 終点新十津川には9:28到着。線路前方遥か先に車止めがあり、その向こうには2階建ての集合住宅が立ち塞がっている。どうしてここが終点なのか、その根拠は曖昧に違いない。かつてはこの先があったくらいだから、駅は途中駅の作りだ。終着駅とは言ってもその風情があるわけではない。
 ホームに降りると、なにやら賑やかだ。地元の幼稚園児が可愛い浴衣に着替えてよさこいソーランで出迎えてくれていたのである。列車はこの先昼まで来ないから、この列車のためにわざわざ踊ってくれているのだ。ただのおじさんとしては、望外の出迎えにいささか照れるが、嬉しくなった。ここへ来て良かったと思う。園児の踊りや到着した列車をテレビカメラが追っていた。HBCのロゴが見える。趣味に現を抜かしている姿など撮られたくないから、ホームの先までそおっと歩き、小さな駅舎を通らずに、新十津川の駅前にでる。
花で飾られた駅舎

 地図を見ると、ここから滝川の駅までは石狩川を隔ててほんの近い位置にある。歩けない距離ではないだろうと高を括っていたら、だだっ広い北海道の風景は歩いても歩いても変化に乏しく、思いの外時間がかかった。炎天下、早足で50分歩かされた。

   新十津川 9:37<歩き>10:26 滝川