2008年12月11日木曜日

西関東の里山めぐる八高線


ロングシートでも旅気分

 箱根ヶ崎を過ぎ金子に近づくとそこはもう埼玉県である。川があるわけでもなく、畑が続いているだけなのでいったいどこで県境を越えたかはわからない。それにしてもこのあたりの風景はいい。里山を背景に丘陵地帯が続き、綺麗に刈り込まれ縞模様に植えられた茶畑が広がっている。霜よけの扇風機も据え付けられていて、ここ金子はまさに狭山茶の産地なのである。畑が尽きて電車は登りに差し掛かり、雑木林を越えていくと視界が開けて突然大きな建物が見えてきた。それは飯能市郊外にある大学の校舎だった。緑豊かな素晴らしい自然環境の中にあるキャンパスだが、学生もここまで通うのはさぞ大変なことだろう。少子高齢化が進み、一方で都心回帰の傾向が著しい昨今、この大学の経営も大変だろうなと思ってしまう。

 205系通勤電車は景色を楽しむには不向きなロングシートである。確かに八王子を出るときには、通勤客でほぼ定員乗車程度であったが、一つ目の北八王子で大部分の人が降りてしまったあとは、殆ど誰も乗ってこない。閑散とした車内で、からだを捻って車窓の風景を堪能する。八高線は飯能市の中心部を避けて緩やかにカーブを描きながら東飯能に向かって下っていく。市街地の向こうには奥武蔵の山々が続いている。

 9時38分、東飯能到着。上り電車との交換のため6分停車である。私の乗ったクハ205-3001は、4両編成の通勤電車であることを忘れたかのようにボケッとしている。八王子付近と川越付近では通勤客も多いのだろうが、それ以外はローカル線そのものなのである。八高線と川越線を無理やり結びつけなくても良かったのにと思う。沿線を電化し、効率的な車両運用のためにはそれしかなかったのだろうか。せめてセミクロスシート車に改造してもらいたいものだ。薄曇りの中、扉は閉まっているのにどこからか寒さが忍び込んでくる。窓の向こうには西武線のホームが見えるが、何とホームも線路も1つしかないローカル仕様だ。
 八高線の電化は高麗川まである。従って、八王子発の電車はそのまま川越線に向かっていく。電化されていない高麗川こそが八高線の事実上の始発駅である。


気動車登場、里山めぐり


 八高線には、関東平野を囲む秩父山系の山裾を等高線に沿って走るローカル線というイメージが強い。実際トンネルは一つもなく、丘陵は迂回し、雑木林を抜けては次の集落へと列車は進んでいく。キハ110系は強力な気動車だ。電車並みの加速性能を持つという謳い文句通りに旧式のディーゼルカーとは比較にならない力強さでぐんぐん加速し、速度も速いので惰性で進む時間も長いため、騒音も気にならない。ドア付近はロングシートだが、通路を挟んで2人掛けと1人掛けのクロスシートを向かい合わせに配置したアイディアは、近郊運用も可能なローカル車両としてなかなか良いアイディアだったと思う。製造されてすでに 年も経っているが、時代の進歩を感じさせる気動車である。
 毛呂には医科大学がある。山里に巨大な病院だけが目立つ、医師不足とは無縁な田舎である。普通は自然と引き替えに便利さを放棄するわけだが、老後を過ごすにふさわしい土地の様に思えてくる。次の越生には、東京で見慣れた東武線がやって来る。その先の小川町にも東武東上線の駅がある。電化されていない線路は如何にも古びていて旅の情趣をかき立ててくれるが、併走する東武線はいつもの見飽きた風景で、ここでは現実と夢が同居している。里山に囲まれた小川町は和紙の里としても有名だ。東武東上線も池袋からの直通電車はここまでで、この先の寄居までは編成の短いワンマン運転に変わる。いよいよこの旅も佳境に入ってきた感じである。
 八高線沿線のハイライトは、寄居へのアプローチである。秩父山塊のはずれに位置する寄居周辺は、秩父を源流とする荒川が関東平野に流れ出すところで、いくつかの里山に阻まれて蛇行を繰り返している。南から寄居町に近づいてきた八高線は、荒川に阻まれ手前で進路を北から西に大きく変える。雑木林の向こうに荒川と寄居の町が見えてくるが、列車はしばらく上流に向かいながら次第に高度を下げるのである。川面が近づいたところで再び進路を北に向けてトラス橋を渡河、下には暴れ川特有の大岩がごろごろとした河川敷が見える。渡りきったところで、再び進路を東に大きく振り、たくさんの線路が輻輳する寄居駅に到着するのだ。
 寄居は八高線以外にも東武鉄道や秩父鉄道が集まる交通の要衝である。もっとも町はそれほど発展している様にも見えないし、八高線は非電化のローカル線だから、ムードたっぷりの田舎駅である。もっともここでの主役は、今も石灰石運搬で貨物輸送が盛んな秩父鉄道であり、寄居駅も同社が管理している。だから八高線も東武線も地方鉄道に間借りする脇役に過ぎない訳で、それだからこそ、何とも言えない風情が出てくるというものだ。


八高線、ラストラン


 八高線はここから山と離れ、関東平野へと入っていく。群馬藤岡を過ぎれば新幹線や上信越道と交差して、何やら見慣れた風景が広がる。上信越道・藤岡のハイウェイオアシスの近くを通るのである。車では何度も通ったことのある場所だが、新幹線の高架橋ばかりに目を奪われて、その下に線路が通っていることには全く気が付かなかった。単線の鉄道は本当に控えめである。北藤岡の駅は高崎線のすぐ脇にあるがあくまでも八高線だけの駅で、高崎線との接続駅倉賀野まではかなりの距離がある。列車は北藤岡のホームを出るとすぐに高崎線の線路を走り出した。従って実質的には北藤岡~倉賀野に八高線の線路は存在しないといって良い。強力なエンジンを擁するキハ110は快調に高崎を目指す。このスピードなら本線上で後続電車に迷惑をかける恐れもない。上りの八高線列車と擦れ違い、右にカーブを切りながら新幹線高架下を通れば、高崎駅は近い。旧型客車が5,6両止まっているが、SL運転の際に運用されるものであろう。こんどはあれに乗りたいなと思っているうちに、駅片隅の切り欠きになった2番線ホームに滑り込む。いかにもローカル支線ふさわしいホームである。(2008/12/11乗車)

2008年11月30日日曜日

日暮里・舎人ライナーの楽しみ方


日暮里ターミナル

 かつては駄菓子屋問屋が立ち並ぶ下町風情たっぷりの日暮里だったが、今や日暮里・舎人ライナーの完成をきっかけにだいぶその姿が変ってきた。高層マンションが聳え立ち、京成電鉄もスカイライナーの160㎞運転を前に駅を大改造し、完成すれば東京国際空港の正面玄関口として、それまでの薄暗いイメージを払拭し、一大ターミナル駅として変貌を遂げるはずである。と言うわけで、鉄路の旅人にとっても日暮里は見逃せない場所の一つなのだ。
 さて、その日暮里・舎人ライナーは東京都交通局が建設した東京でもっとも新しい鉄道の一つだ。陸の孤島と呼ばれた足立区の舎人地域と山手線を結ぶ動脈として計画された。人口は少なくないものの、ニュータウンがあるわけではなく、高規格の鉄道を建設してもその資金を回収することが難しい地域である。新交通システムは、莫大な建設費用を必要とする地下鉄と違い、既存の道路上の空間を有効活用し、タイヤ走行の軽量車両を無人自動運転をさせることで建設費と運行費を大幅に節約する鉄道だ。だからといって安かろう悪かろうではなく、ところどころに工夫があって新交通システムなりの楽しみ方がある。無人運転だからこそ味わえる先頭車両かぶりつきからの風景もその一つであるし、線路のシステムも見逃せない。

ポイントの仕組み

 普通の鉄道は車輪のフランジによってレールに沿った走行をするが、新交通システムの場合は軌道全体が車両を挟み込む形になっていて、喩えは悪いが模型のミニ四駆のような仕組みであり、コースの中を車両がタイヤ走行していると言っても良い。
 注意深く見ていないと気がつかないのだが、分岐部分に緑と赤に塗り分けられた小さな分岐器がある。直進側の時は緑が開き、分岐側の時は赤が開いて車両をガイドする。それに連動して、分岐側の信号が緑色に変わるという仕組みである。舎人ライナーは無人運転だから本来軌道上に信号など必要ないのだろうが、小さく控えめなLED発光の信号機が付いているのは保守要員の便を図ってのことだろう。ホームドアが閉まり、静かにライナーは日暮里駅を出発する。ポイントを過ぎると、いきなり90度進路を変えて次の西日暮里を目指す。新交通システムは道路上を走るので、まるで路面電車のように小回りが利かないと役に立たない。こんなに半径の短いカーブの場合、鉄製の車輪ならキイキイと耳障りな軋み音を立てるものだが、タイヤを履いたライナーは実にスムーズに曲がっていく。当然勾配にもめっぽう強いので、モノレールと同じ様にアップダウンに富んだ場所でも問題ない。普通の鉄道と比べて地形の制約を受けにくい優れた特性を持っている。地下鉄と違って高い位置から町並みを見下ろせるのも、実に爽快な気分にさせてくれる乗り物だと思う。一番の見せ場は、足立小台から扇大橋にかけて隅田川・荒川を越えるところで、荒川に沿った首都高速道路の上を通過するために驚くほどの高所をライナーは通過するので、広々とした河川敷の眺めは勿論のこと、秩父や丹沢の山々や新宿の高層ビル群も一望のもとだ。

沿線

 舎人ライナーは、尾久橋通りに沿って西日暮里からほぼ真っ直ぐに北上し、埼玉県草加市の西、鳩ヶ谷市の南、川口市の東に位置する足立区舎人と結ぶ9.7キロの路線である。京浜東北線と東武伊勢崎線に挟まれたこの地域は、都内でも珍しいほど鉄道に恵まれない地域であったが、地下鉄南北線に直通する埼玉高速鉄道と舎人ライナーの開通で、少しずつ改善されてきた。都心回帰が著しい今、沿線開発はさほど進まないと思われるが、もともと競合する交通機関がないだけに固定客は着実に伸びているとという。無人運転のために増便もたやすく、朝7時台には13本、日中でも8本の列車があって、近郊型鉄道としては★★★級である。住宅地域としてブランドイメージの低い地域だが、着実に発展する可能性を秘めている。

絶景ポイントを発見

 東京に住む人なら誰も一度は車窓から見える富士山の姿にうっとりしたことがあるだろう。東京の東に住む人ならそれに筑波山が加わる筈だ。女体山と男体山という二つの山頂からなる特徴的なシルエットは、周囲に高い山がないだけに単調な関東平野の風景の中で一つのアクセントになっている。もちろん舎人ラーナーからも堪能できる。沿線に高い建物がないだけに、走るライナーからもじっくりとスカイラインが観察できるので、じっと目をこらして見たところ、特徴ある有名な山を発見した。富士山ほどは角が立っていない、すり鉢を伏せたような形の山、こちらは日光の方の男体山である。距離が遠くその姿はとても小さいが、薄く筋状に積もった雪の景色は紛れもなく崩落が激しい男体山の筋模様である。ビルの少ない舎人ならではの日暮里・舎人ライナー随一の絶景ポイントである。

終点 見沼代親水公園

 日暮里から20分で着く終点の見沼代親水公園は、東京の北の外れである。少し歩けばそこは埼玉県。東京都交通局の鉄道がそこに延びることはあるのだろうか。都営新宿線が、一駅伸ばして千葉県の本八幡まで開通したのは、総武線各停や京成線からの乗り換え客を新宿まで速達する戦略があったからであろう。そう考えると、沿線開発がこれからのライナーにとっては遠い先の話になるのではないか。ただ、ライナーの各駅ホームは、車両増結に備えて伸長可能となっている。あせらずゆっくりと今後の発展を見守りたいと思う。(2008/11/30乗車)

2008年11月6日木曜日

東急電鉄を極める


田園都市線を乗り尽くす


 表参道から運転台の後ろに立つ。田園都市線の鉄路が見たかったからである。半蔵門線は表参道を出ると坂を下って緩やかな右カーブを描く。実際には見えないが、右側を併行して走る銀座線がそのまま真っ直ぐに頭上を越えていくようだ。宮益坂の下、更に渋谷川の暗渠のはるか下を掘られたトンネルを右へ右へと進みながら渋谷駅が見える頃にはシーサースクロッシングが光って、ここが半蔵門線の終着駅でもあることを感じさせてくれる。渋谷駅ホームのデザインは半蔵門線カラーである。 渋谷駅で乗務員が交代し、ここからは東急田園都市線となる。池尻大橋側にシーサースクロッシングはなかった。上りから下り、池尻大橋側へのシングルクロスのみである。東急としては、渋谷での折り返し運転は原則として考えていないのだろろう。今回乗車したのが急行のため、対面式の池尻大橋を減速することもなく通過し、最初の停車駅は三軒茶屋である。乗車数は多くないのでかぶりつきから見ているのは少々照れくさいが、そこはぐっと我慢する。急行電車が桜新町で各駅停車を追い越すのを以前から見たかったためである。

 東急田園都市線はかつて新玉川線と呼ばれただけあって、新しい鉄道である。ゆったりした幅を持つ国道246の下を通るということもあって、直線と緩やかなカーブとアップダウンが特徴であり、駅構造も対面式のため高速運転が可能だ。急行停車の三軒茶屋でさえ対面式なのに各駅しか止まらない駒沢大学が島式ホームなのはなぜなのだろう。しかも2本のシールド工法で造られた駅でもないのに、ホームの間には壁があるのも奇妙だ。ひょっとして246の上を通る首都高速の支柱がここまで降りてきているのかもしれない。

 高速運転のコンセプトは桜新町でも貫かれている。通過線側は直進し、駅ホームに向かって右側にポイントが開き、各駅はそこで通過待ちをする。建設費用のかかる贅沢な仕様だ。各駅停車のテールランプとホームのまぶしい照明の中、各駅の車掌が通過列車の確認を行っていた。ホーム端からは急行列車の写真が撮れそうである。ホームと通過線の間はコンクリートの壁で塞がれていた。

 上り坂の果てに地上の光が見えてくると二子玉川が近い。二子玉川といえば僕にとっては半世紀近く前に幼稚園の遠足でいった時に乗ったジェットコースターであり、人生最初の絶叫マシン体験である。ただ残念ながら映像記憶は全くなく、降りてきた後の母親の「怖かったね」か「面白かったね」か、それともその両方の言葉かの記憶(印象?)だけが残っている。だから、後年ナムコワンダーエッグが話題になろうが、ニコタマの愛称でお洒落な街と喧伝されようが、単なる遠足先に過ぎなかったのである。しかし、そんなおやじの思い出話とは全く関係なく二子玉川は東急の要衝として激変しつつある。田園都市線の混雑解消の切り札として、大井町線への乗客の流れを促そうという大計画がまさに進行中だからである。大井町線に急行を走らせ、溝の口まで複々線化して田園都市線の利用客を大井町線に導こうという計画である。現在池尻大橋・渋谷間の最大乗車率が200%弱から170%台に減ると試算されているようだ。急行運転はすでに実施され二子玉川駅の分岐設備も完成している。溝の口までの複々線化工事が佳境に入っている。大井町線についてはこの後のレポートで触れるのでそちらに譲る。

 溝の口を越えると多摩丘陵に突入するためにトンネルが多くなる。田園都市線が溝の口から先に伸びたのは昭和40年代である。比較的新しい路線だけに丘陵を掘り割り、トンネルを穿って突き進む構造であって、民鉄としては珍しいくらいにトンネルがある。どれも短く工費を節約していて、その分緩やかなカーブも多いのだが、出来うる限り真っ直ぐに線路を敷きたいという意志を感じる路線である。急行追い越し施設も充実し、その結果高速運転が可能となっている。田園都市線に人気が出るのも当然であろう。

 鷺沼・たまプラーザ・あざみ野とお洒落っぽい駅を急行は各駅に停車後、青葉台から長津田を目指す。擦れ違う列車はバラエティーに富んでいる。東急車輌以外に、東京メトロの半蔵門線や「久喜」や「南栗橋」の行き先を表示したオレンジ色の東武車両も数多く乗り入れているからである。東武からの列車は南栗橋・中央林間98.6㎞を2時間半以上をかけて走り抜ける。今や東京の通勤電車は近郊電車の範疇では括れない。

 長津田には大きな操車場があり、そこを右に見下ろしながら横浜線をオーバーハングしながら左に進路をとって終点の中央林間を目指す。ここまで来ると郊外住宅の雰囲気で東急の高級感こそ薄れるが、実はこの辺り何と東京都なのである。町田市の南の外れをかすっている。今回この線に乗ることになったのも、実は東京の鉄道完乗のために必要であったからだ。小田急ばかりでなく、田園都市線も町田を通っていたとは…東京の東の外れに住む僕は迂闊にもその事実を知らなかったのである。なるほど、沿線の宅地に止まっている車はすべて多摩ナンバーだ。いやはや、東京はかくも広いものかと思う。

 終点の中央林間は小田急が開発した林間都市である。戦前は文士・作家も多く移り住んだようである。今回駅頭に立つ案内板を見て初めて知った。だから小田急の駅は古く、東急の駅は地下を掘って町中まで線路を敷いたのである。つきみ野を越えると丘陵が迫り、電車は地中へと入って行く。緩やかな右カーブの先にシーサースクロッシングが見えて着て終点中央林間へ到着する。

 階段を昇って改札を出ると少しばかり洒落た並木が続いている。小田急の駅は右手すぐのところにあり、こちらは丈は低いものの高架駅となっている。その向こうに昔ながらの商店街が広がり、東急側とは趣が異なって庶民的な感じだ。新参者の田園都市線が、いいとこ取りをしてしまったかのようだ。現に朝の通勤時間帯で比べると、小田急の急行は新宿まで55分、東急は渋谷まで36分。勝負は目に見えている。田園都市線の魅力を痛感した旅だった。




横浜高速鉄道 こどもの国線に立ち寄る

 こどもの国線は、横浜中華街を走るみなとみらい線同様に横浜高速鉄道の所有である。従って長津田駅には乗り換え口に自動改札があり、PASMOやSUICAをかざすと初乗り運賃が差し引かれてしまう。ところが、運転手は東急の職員であり、また途中の恩田駅には東急車輛の工場があって東急そのものといっていいくらいだ。現に97年7月31日までは東急こどもの国線だった。

 長津田~こどもの国間わずか3.4㌔が開通したのは67年のこと。当時はこどもの国協会の所有だった。それが87年に東急となり、更に10年後に今の形になる。全線単線(2008/11/6乗車)。



 

2007年12月26日水曜日

寝台特急 あかつき


草臥れたEF66

2008年3月15日に廃止された寝台特急あかつき
に乗っておこうと、夕方新幹線に乗って京都の
6番線ホームに立った。そこに現れたのはだい
ぶ草臥れたEF66だった。                  (2007/12/26)



新大阪〜佐世保・長崎が全盛期の運行区間だが
廃止直前は熊本行のなはと併結して長崎行とし
て運行していた。        (2007/12/26)


熊本行なはとの併結が可能な14系で運行されていた。
長年の使用で塗装にも痛々しさが感じられる。   
                                                                     (2007/12/26)

あかつきのシングル・デラックスは
進行方向に就寝する方式だった。食
堂車はもちろん車内販売もない。 
                                            (2007/12/26)

寝台は二つあり、ツインとしても利
用可能な構造だった。   (2007/12/26)

寝台を解体すると向かい合わせの
ソファーとなり、窓下からテーブ
ルが現れた。なかなか気が利いた
仕組みだ。                   (2007/12/26)

有明海の夜明けが美しい。寝台列車に乗っていて
本当に良かったと思う一瞬だ。遠くに見えるのは
対岸の熊本県。手前は名産有明海の海苔の養殖だ
ろう。                                                       (2007/12/27)

諫早湾干拓問題で有名になった潮受け堤防と水門が
見えて来た。                              (2007/12/27)

長崎は頭端式の終着駅。風情たっぷりだ。かつては
ここから東京まで<さくら>や<みずほ>が出発し
ていった。<あかつき>が廃止されれば本州と結ぶ
列車が長崎を発つことはなくなる         (2007/12/27)

九州での牽引はED76                (2007/12/27)

ヘッドマーク

<あかつき>のマークに<なは>を重ねているので
椰子の葉に幹がちゃんとついているように見える。


異国情緒たっぷりの長崎にブルートレインはよく似合う
わずか4時間あまりの滞在だったが、長崎電気鉄道を乗
り尽くし、一路東京を目指した      (2007/12/27)




2005年8月10日水曜日

上越線湯檜曽ループを眺める

  
 勾配緩和を目的としたループ線は、今ではトンネル掘削技術が飛躍的に向上したために原則として必要がなくなってしまったが、車窓風景を楽しもうとする私のような者にとっては少々残念なことである。
 鉄道を愛好する者の多くは新技術に少なからず憧憬の念を持つものであり、世界一の青函トンネル完成などという歴史的事件には舞い上がるほどの興奮を覚えるものだが、実際にトンネル通過が楽しいという人はあまりいないのではないか。心の底では、青函連絡船で津軽海峡の眺めを堪能しながら北海道上陸を果たしていた頃を懐かしく思っているものである。
 湯桧曽と土合間の清水トンネルが出来た1931年から4年後、川端康成が上越線を使って越後湯沢を訪れ、温泉旅館「高半」に滞在しながら「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」と書き始めたときのトンネルとは、大清水でもなく、新清水でもなく、今回訪れている清水トンネルだった。湯桧曽側と土合側に二つのループトンネルを穿ち、徐々に高度を稼いで出来るだけ国境のトンネルを短くしたのである。清水トンネルを抜けるとまだ高度の高い人里離れた土合の信号所では「夜の底が白」かった。そこから少しずつ高度を下げて湯沢の町に向かったということだろう。現在新幹線が行き来する大清水トンネルだったら、「国境のトンネルを抜けると越後湯沢駅であった」と少々味気ない。
 景色を楽しみたい旅人には、大清水ではなく清水トンネルを通って雪国に向かいたいところであるが、残念ながら現在は上り線群馬方面に使われているだけである。しかも、かつては関東と新潟を結ぶ大動脈だった上越線も、新幹線開業以来めっきり寂しくなってしまい、L特急ときや急行佐渡が行き来したこのループ線から昼間の優等列車は姿を消し、日中の定期列車はわずか5本の普通列車を残すのみとなった。ただ、考えようによっては昔の風情を取り戻したと言えなくもない。(2005/8乗車)