2014年3月24日月曜日

元気な静岡の鉄道たち

今さらながら、感動! 東海道線

 東海道線は日本を代表する大幹線であると同時に、一級の絶景路線でもある。なかでも小田原以西は、箱根火山が太平洋に迫り出した絶壁に張り付くようにして険阻な道が拓かれている。
 断崖絶壁の上を鉄道が走り、そのわずか下をセンターラインもないような県道が取り付き、遥か下の海岸沿いを国道が走っている。人気の観光地だけに交通量は多く、場所によっては海の上に有料道路までが造られ、橋脚が波に洗われている。いずれも難工事だったことだろう。
根府川橋梁と相模湾 1981年

 グリーン車の2階席からは、前方の伊豆の山々に始まり後方の相模灘へと続く、大きな弧を描く雄大な風景が堪能できる。快晴の空のもと太平洋は深い青を湛えて、遥かかなたには伊豆大島が横たわっている。そこを在来線では最高規格の鉄路が敷かれているため、列車はそれほどスピードを落とすことなく疾走するのだから、快適以外の何ものでもない。普段は車窓になど関心のない人々も、ここだけはみんな風景に見入っている。
 その昔、東海道線のような大動脈は特甲線という規格でレールが敷かれた。甲乙丙の3ランクに収まらない特別な最高ランクの甲線というほどの意味だ。小田原・熱海間はさすがにカーブが多いために背の高いグリーン車2階席はローリングが気になるが、JR東海の熱海から先は実にすばらしい乗り心地だ。丹那トンネルに入ると、車両の揺れはほとんど収まっている。地方のローカル線などは、保線のしづらいトンネル内では乗り心地が悪くなりがちだが、ここではまったくそのようなことはない。新幹線で鍛えられた高度な技術がここでも活躍しているのだろう


 富岳観賞という点では案外東海道線はよろしくないと思う。歴史の古い路線のため、地上をひたすら走るので、どうしても美しい富士の前には無粋な電線が立ちはだかっているからである。気にならないという人もいるかもしれないが、車窓で富士を楽しむなら高架で見晴らしの良い新幹線が断然お勧めだ。
左富士 函南・三島間
関西方面に向かう列車の左車窓
に富士が望める場所   1982年
 富士の愛で方のひとつに「左富士」がある。東海道を京に向かう際、道中右側に聳える富岳が左側に見える珍しい場所が何カ所かあるのだが、その一つに由比がある。浮世絵で目にすることも多いのでご存知の方も多いに違いない。富士川を長大な橋梁で渡ると、東海道線は進路を大きく南に変え、それまで右側に見えていた富士が左後方に位置を変える。小田原・熱海間のようにここでも山塊が太平洋に迫り出していて、それを迂回するために鉄道と道路は海岸に寄り添うように走らなくてはならないのだが、その時左手後方に富岳が望めるのである。
313系近郊型電車

JR東海の主力電車。さまざまな種類
があるが、静岡地区はロングシート仕
様となっているのが玉にきず。    
 この辺りの線路脇には異様なほど分厚い年代物のコンクリート壁がずうっと続いている。昔は太平洋の荒波から鉄道を守らなければならなかったのである。その後海側に国道1号線が、更にその外側を東名高速道路が通るようになった。だから今では列車から海はほとんど見えないのだが、0メートル地帯であることに変わりはなく、よく台風接近の際に高潮で通行止めになる。東日本大震災以来、津波の恐ろしさを思い知らされているので、東南海トラフ起因の地震が起こったらひとたまりもないなと余計な思いが脳裏を過る。逃げ場がないのだ。しかしながら、過酷な自然は時として風景は絶景になる。浮世絵にも取り上げられる所以である。この浜を過ぎ、トンネルを抜ければ、清水や静岡は目前である。

 東海道線の魅力的な風景はこの先も続くが、今回は静岡の鉄道を楽しむ旅、ひとまず少し戻って吉原からのプチ旅行から始めよう。

製紙工場を支えた岳南鉄道

吉原駅にて
岳南とは富岳の南に位置するという意味だろう。吉原と岳南江尾の間約9キロを結ぶ小鉄道である。大小様々な製紙工場を縫うようにして走っている。今では貨物輸送は廃止されてしまったが、工場地帯とともに発展したので、風景は鶴見線に酷似している。
 それにしても工場地帯というのは実にシュールな景観だ。あたかも廃墟の中を走っているかのような錯覚に襲われる。稼働中の施設ばかりでなく、サビの浮いた巨大な休眠施設や放置された工場内線路がここかしこにある。しかもそのバックに世界文化遺産の富岳が見えるのは、もう凄いとしか言いようがない。
岳南江尾付近から見える富士山
 その中をちっちゃな電車がゴトゴトと走っている。岳南富士岡から先は雑然とした畑や民家に変わり、終点の岳南江尾には何か特別の物でもあるのかと思ったが、だだっ広い構内のはずれを新幹線が斜めに横切るという、観光とは無縁の無人駅だった。
点検後直ちに発車 岳南江尾にて

 それでも湘南電車型の風貌を持つ両運転台式の1両編成電車は、なぜか憎めない可愛らしさを持っている。いかにも俊足そうな流線型の電車が、路面電車のように両運転台式なのだから珍しい。
 
比奈で列車交換
 製紙工場は昔と比べて高度な排煙処理をしているので、あちこちから真っ白な煙が勢い良く排出されている。ただいくら白くても、煙は煙で、いかにも体には悪そうな感じがする。昔のような強烈な匂いこそないが、何となく漂白剤のような臭いが微かにする。富岳が自然遺産にならなかったのも、裾野に広がる工場地帯の影響もあるだろう。写真を撮ろうにも電線が邪魔をする。そんな中を、岳南鉄道は健気に走っている。


JR併走型地方鉄道の奮闘 静岡鉄道 

新清水駅にて
 住宅街からそろそろっと電車は現れた。静岡鉄道の終点・新清水駅の裏手は住宅が密集地する生活感あふれる所だ。2両連結の電車は、あっという間に人で埋まってしまいそうなほど狭いホームにゆっくりと停車した。 
 静鉄はJR東海道線の清水・静岡間を併走している。ただそれぞれの駅は微妙に東海道線から離れているため、新清水と新静岡というように「新」の冠が付いている。多くの場合、新がつく方は新参者の悲哀で、「本」駅に比べ寂れていることが多いものだが、静鉄の場合、確かに駅自体は小さいものの、人の多い町中を頻繁に電車が行き交い活気がある。路面電車が似合うような庶民的な土地柄である。でも、本格的な鉄道となっているのには事情がありそうだ。
 JRの清水・静岡間11.2キロには中間駅として草薙と東静岡の二駅がある。一方の静鉄は何と13駅、完全に地域密着型の鉄道なのである。電車はすべて二両編成、全線複線で駅は有人、日中でも毎時9本というフリークエントサービスの徹底した優良鉄道だ。頑張っているなあという感じがひしひしとする。
 静鉄がよくできてるなあと思うことの一つに、JR駅との絶妙な距離がある。静岡の町は、国道1号線(東海道)や東海道線に沿って広がっているから、人口の多い地域に鉄道を敷けばどうしても競合してしまう。静鉄はほぼJRと併走し、こまめに停車して乗客を獲得しながらも、JR駅との間に適当な距離があるので、乗り換えにくいのである。一番近い草薙駅でも100m以上離れている。JRと並行する京成電鉄が、船橋駅でJRにごそっと客を奪われているのとは大違いだ。
 新静岡駅はおしゃれな駅ビルの裏側に位置している。頻繁に出入りする電車からは乗客がたくさん降りてきて、JR静岡駅との間の都会的センスに満ちた繁華街へと吸い込まれていく。路面電車であればスピードも遅く、ここまで利用者は多くなかっただろう。わずか2両編成の電車がひっきりなしに行き来する静鉄は、利用者に優しい地方鉄道の優等生ではないだろうか。

文化財を巡る旅 天竜浜名湖鉄道


原谷での交換風景
日本の原風景に出逢う旅。

 天竜浜名湖鉄道のキャッチコピーだ。昭和の原風景といってもいい。掛川から沿線の中心地である天竜二俣までは、進行右側に茶畑、その先新所原までは左側に浜名湖が広がり、天浜線の見どころとなっている。更に天竜二俣の前後、遠州一宮から西鹿島あたりには、近年めっきり見かけなくなった藁葺き農家が点在している。全線ほのぼの感が漂う鉄道だ。
駅前に展示された 
遠方信号機(右)と
副本線用場内信号機

 それにしても天浜線とは言いにくい。思わず天玉と発音し立ち食い蕎麦のようで苦笑する。国鉄時代を知る者にとっては「二俣線」と呼びたいところだが、JR化で見捨てられ、第三セクターとして頑張っている天竜浜名湖鉄道にとっては、天浜線以外のなにものでもないだろう。これからは「テンハマセン」と噛まずに言えるようにしよう。
転車台

 さて、この昭和の原風景の主役は古い鉄道施設である。木造駅舎、単線での列車交換施設、橋梁等々が天浜線沿線の随所に散りばめられているのだが、何と言ってもその白眉は天竜二俣駅の構内施設である。

給水塔
水は井戸水を使用
 転車台と扇形機関庫、給水塔と井戸、駅舎、運転区や事務室などの鉄道施設が有形文化財として登録されている。しかも蒸気機関車が走らない今でも、かつて機関士たちが煤を洗い流すために使用した風呂以外は、いずれも現役として利用されているのだ。給水塔などは洗車機用として活躍している。運転区と事務室が建ち並ぶ一画を歩いていくと、青い作業服や軍手がたくさん干してある。使われていない湯船を見ると、今が蒸気機関車時代ではないことを改めて思い知らされるのだが、ここが今も現役の鉄道施設であることが感じられて、単なる保存展示とは次元の違う見学ができる。「すみません、見学させて頂きます」という思いを持つのと持たないのとでは、感動の質がちがうからである。ここを訪ねて本当に良かった。
かつては人力で回していた
転車台も今は電動式   
 係の人たちが転車台の実演をしてくれた。一人の係員が転車台をアイドリング中の気動車の位置にぴたりと合わせてロックをかけ、もう一人が気動車を載せる。気動車は転車台ほぼいっぱいの大きさなので位置合わせは難しそうだ。運転台の窓から体を大きく出して、慎重にかつ一発でぴたっと止める。慣れているとはいえ、見事なコンビネーションだ。昔は人力で回した転車台も今は電動式であり、我々にサービスで一回転してくれた。
現役の扇形機関庫
 また機関庫に併設された鉄道展示館内には、タブレット、腕木式信号機、鉄道電話、駅名表示板、改札業務用機器などが並べられ、ローカル線をテーマとした鉄道博物館になっている。すべて駅構内にあるため、毎日開かれる見学ツアーに参加することによって、誰もが昭和にタイムスリップ出来るようになっている。

タブレット閉塞機
緑色は珍しい?
赤色が多いのだが…

 このように鉄道の原風景満載の天浜線なのだが、惜しむらくは、ここで走っている気動車が余りにも今風で電車のように見えてしまうことだ。お世辞にも周りの風景に合っているとはいえない。なんとももったいないと思う。どうせ新車で大量に導入したのだから、もっとレトロな雰囲気を大切にしたデザインであって欲しかった。
 いすみ鉄道のように、国鉄の旧型気動車を購入して運行したらいかがか。天竜二俣駅の有形文化財に登録されたプラットフォームで、ディーゼル急行と普通列車がすれ違うシーンを演出したら、中高年の鉄道ファンが全国から集まるに違いない。やるなら徹底的にやるといい。お金を払ってでも見たい人は多いだろう。茶畑や浜名湖をバックにポスターを作り、新幹線で掛川まで来てもらい、昭和の鉄道で売り込む。ぜひ実現してもらいたいものだ。

 さて、天浜線の名前の由来となった天竜川は二俣本町の先で渡る。山が迫り丘陵地帯に囲まれているので、川は蛇行し荒々しい姿をしている。一方その先の浜名湖は広々と穏やかで、レジャーボートのマリーナも点在している。浜名湖が尽きれば、終点新所原は近い。




中核都市・浜松市を貫く遠州鉄道

 ルイ・ヴィトンやティファニーなどの高級ブランドショップの前を通ると、遠州鉄道新浜松駅がある。洗練された感じの駅で、エスカレータを上がると改札口があり、ホームは更にその上となる。対面式2線の高架ホーム向かい側には、湘南型の2両編成電車が止まっていた。乗ってみたいなと思ったが、車輪に手歯止めが噛ませてあるので、当分動かないのだろう。そのうちに綺麗な新車、西鹿島行が入線してきた。

 遠鉄は新浜松・西鹿島間17.8キロを赤電と呼ばれるインバーター制御回生ブレーキ付の高性能電車が結んでいる。全線単線だが、特筆すべきは全18駅中7駅が高架駅なのである。単線で38.9%の立体化率は驚くべき数字である。それだけ浜松市のモータリゼーションが進んでいるということだろうし、またこの地方の中核都市としてインフラが整備されているということでもある。単線でこれだけ連続高架(都市の象徴)があり、駅に着くたびに両開きの分岐器(ローカル線の象徴)があるというのは、とても珍しい風景だ。ここにはローカルな雰囲気など微塵もない。
上島駅で交換
 アーチを描いた駅屋根は東京でもおしゃれな小田急線を彷彿とさせるが、そこで列車交換があるところが遠鉄らしいところだろう。
 
浜北駅で交換
 自動車学校駅からは地上を走る。この駅名はいかにも地方鉄道らしいが、ローカル鉄道にありがちな高校名ではないところに利用者層の幅を感じる。次第に緑や畑が増えて、車窓には郊外の雰囲気が広がってくる。沿線の中核駅と思われる浜北で列車交換があるが、上りは夕方のラッシュに合わせて4両編成となっていた。また遠鉄で感心するのは保線状態がきわめて良いことだ。分岐器の枕木もガラス繊維を使った合成枕木で最新式のものを使用している。
 ほぼ終日12分ヘッドの各駅停車のみという完全なパターンダイアで運行し、新浜松・西鹿島を32分で結んでいる遠州鉄道は、経営的にも安定した理想の地方鉄道である。
 
天浜線から眺める天竜川
 終点の西鹿島は、天竜浜名湖線の乗換駅でもある。西鹿島から天竜二俣まではふた駅と近いが、間には天竜川が立ちふさがっている。その先は南アルプスへと続く里山である。二俣と結ぶには、橋梁とトンネルの掘削が必要だったので、ここを終点としたのだろう。電車を降りて、地下連絡道で寂れた天浜線ホームに行く。これで静岡の鉄道はすべて乗り尽くしたことになる。これから再び天浜線の旅を楽しみ、掛川からは「青春18きっぷ」を利用して東京まで各駅停車で帰ろうと思う。6時間弱の長旅となるが、鉄道愛好家にとってはそれもまた一興というものだ。

 







2014年2月12日水曜日

惜別 寝台特急「あけぼの」の旅

サヨナラするため青森へ

 寝台特急「あけぼの」に初めて乗車したのは1975年9月2日のことだった。北海道からの帰り道、乗りたかった寝台特急「ゆうづる」は満席で、駅窓口の係員に勧められるままに、仕方なく奥羽本線経由のローカル寝台特急の寝台券を手に入れたのだった。
 連絡船との接続は悪く、客車は古い20系の3段式ベッド。青森を18:29に出発し、秋田からは内陸に入り、山形を通って福島から東北本線を南下して、上野到着は6:52。こんなに時間をかけて遠回りしながらも、当時の特急には当たり前だった食堂車の連結はなく、あろうことか車内販売すらないという超格落ちローカル寝台特急だった。当然印象はすこぶる悪い。20系は昭和30年代の設計で寝台幅が52㎝しかなく、寝返りすら打てない窮屈な思いをしながら、せっかくの北海道旅行の最後が台無しだなあと思ったものだった。
 あれから39年、国鉄がJRに変り、山形新幹線の開通によって奥羽本線が福島と新庄で分断され、「あけぼの」は北上線経由となり、更に寝台特急「鳥海」に取って代わって上越・羽越線経由となってからも、上野と秋田・青森を結ぶ寝台特急として生きながらえてきた。そして東北新幹線開業にともなって東北地方から在来線特急が次々と姿を消す中にあって、「あけぼの」は上野と北東北を結ぶ大切な列車となっていった。私自身、「鳥海」時代を含めれば7回ほどお世話になり、いつの間にかお気に入りの寝台特急になっていたのである。五能線や津軽地方を訪れるには最適の列車であるばかりでなく、個室寝台が手軽に利用できるというのも魅力の一つだった。
 それが2014年3月14日、ついに幕を下ろしてしまう。日本から夜行列車が次々と姿を消しつつある今、ブルートレインとして生き残るのは、「北斗星」と「はまなす」しかない。<目が覚めれば異郷の地>を味わえる鉄道の旅は、終焉を迎えつつある。実に寂しい限りだ。
新青森駅
残すところあと1ヶ月となった2月12日水曜日、続けては休暇の取れない平日ではあるけれど、「あけぼの」に別れを告げるために、青森を目指すことにした。翌朝は上野から直接職場に出勤するのでスーツ姿で旅立たねばならないが、それはそれで面白い。いっそエリートビジネスマンをまねて新幹線グリーン車に乗ってみようということになった。グランクラスも考えたが、グリーンすら乗ったことがないのだから時期尚早、楽しみは次回に回すことにする。列車限定の早割を利用すれば、お得な料金で最新型E5系のグリーン車が利用できる。実に格好いい! と自己満足に浸る。
 グリーンに乗る以上、新青森までの3時間34分は特別な時間だ。ケチケチなどしてはいられない。東京駅エキナカGRANSTA DININGにある高級スーパーマーケット・紀ノ国屋で、冷えたシャルドネと気の利いたオードブルと屋久島の水を手に入れて、流れる車窓を眺めながら贅沢な時間を過ごそうと洒落てみる。席は進行右側、奥羽山脈を楽しめない窓側は今まで出来るだけ避けてきたため、どうもこちら側の風景は記憶にない。車窓ファンとしては是非とも記憶にとどめたいところなので、今回は右側の席を選んだ。有名な山は筑波山くらいしかなく、宇都宮や郡山、仙台の繁華街はすべて左側に位置し、右側に街が広がるのは福島や盛岡くらいのものであるが、東北自動車道と交差するたびに、見覚えのある標識や周りの風景が確認できて、結構面白い。ほろ酔い加減であっという間の3時間半だった。
  新青森に近づくと、右側の車窓には前方に青い陸奥湾、後方には雪に覆われた八甲田山が広がっている。ここまで乗り通す客はまばらで、それなりにグランドツアーに出た心境になってくるものだ。本日のお目当ては青森ではなく、このあとすぐに12時間かけて上野に戻っていく。実に酔狂な旅である。現地滞在時間は1時間余り、そのほとんどは<晩餐会>の準備に費やすだけだ。
青森駅
新青森と青森の間は、特定区間となっていて特急自由席に乗車券だけで乗ることが出来る。今日の連絡列車はJR北海道のスーパー白鳥だ。わずか一駅の旅だが何となく得した感じがするのは自分が鉄道愛好家だからであり、一般の人はきっと面倒だろうなと思う。青函連絡船がなくなり、東北新幹線が八戸まで開通してから本州と北海道を結んできた趣のある特急だが、これも来年の3月に新幹線が函館まで繋がると廃止になってしまう。この列車でまた函館湾をぐるっと廻っておかないといけないなあと思うものの、今回はお預けだ。

青森駅は雪の中

青森駅東口改札口
石川さゆりの名曲「津軽海峡冬景色」の中で唄われている青森駅は寂しい終着駅だが、旅人が目指す北の町は更にその先の厳冬の中にある。

 上野発の夜行列車降りた時から青森駅は雪の中
 北へ帰る人の群れは誰も無口で海鳴りだけを聞いていた

長岡まではEF81が牽引
「あけぼの」の廃止によって、上野発の夜行列車で青森駅に降り立つことはもう出来なくなることに気付いた。「北斗星」や「カシオペア」は青森通過であるし、「はまなす」は札幌発である。今回ここを訪れてたのは昭和に別れを告げるためであったように思えてくる。青函連絡船が運航していた頃はヒトヒトヒトでごった返していた青森駅も、今は閑散としている。持て余し気味に何本も並ぶプラットホームには、編成の短い列車がまばらに停車しているだけで、長大な屋根の下に寸足らずの電車が妙に寒々しい。普段人がそこまで来ることはないホーム半ばから海に向かって端まで続く屋根は、老朽化からだろうか、無骨な支柱に加えられていて、そこが滅多に使われることのない忘れられた空間であることを示している。かつてはそこを連絡船に向かう旅人がせわしげに走ったところである。栄枯盛衰の世の中を感じさせる風景だ。
 しかし、3番線ホームだけは活気があった。何処からやってきたのか、「あけぼの」廃止を惜しむファンが集まっている。ファンに混じって、長岡まで牽引するEF81のヘッドマークを背景に記念写真を撮る老夫婦もいる。みんな惜別の思いからここにやってきているのだ。それにしても、もったいないなあとつくづく思う。なんとかならないものか。日本から夜汽車がなくなってしまうのは、文化的損失ではないのかとすら思うが、経営的に超優良企業であるJR東日本がそのような考えになることは絶対にあり得ないし、無くなるからこそ悲壮感が多くの人の心を打つのだろう。編成の端から端までゆっくり歩いて、見納めの寝台列車を堪能する。
「あけぼの」は青森を18:23に発車し、上野に6:58に到着する。12時間35分の長旅は39年前と殆ど変わらない。乗車すると「食堂車・車内販売はございません。予めご了承ください」と車内放送が入った。これも変わらない。ここでは時間が止まっている感じだが、車内設備だけは大きく様変わりしている。

オハネ24-552 B寝台ソロ8上
入口から撮影

 今からちょうど一ヶ月前、自宅最寄り駅のみどりの窓口で10時ちょうどにA寝台・シングルデラックスを取ろうとして、結局瞬時に売り切れてしまったのだったが、幸いB寝台ソロの上の個室が空いていて、そこを押さえることができた。「あけぼの」のソロには、かつて下段の個室には乗車したことがあった。印象としてはとても狭い穴蔵で、スーツの着替えが厄介だなあと不安はあったが、上段の個室は入り口部分がちょうど階段になっていて、そこにかろうじて立つことが出来、これなら着替えは可能とほっとした。ラフな格好なら一層申し分のない空間だ。
晩餐会
12時間をどう過ごすかは、今回の計画を立てた時からの楽しみであった。個室寝台の利点は部屋を真っ暗にして車窓が楽しめることだが、それと同時にプライベート空間だからこそ、青森の地元料理を食べながら一人で宴会することも可能だ。今晩は大いに飲み明かそうと思う。
「つがる総菜」謹製の駅弁「たまご箱」は、おとなの休日倶楽部ミドルの2月号で紹介されたものである。青森県立五所川原農業高校(五農)の生徒が朝採りした卵を使って、寿司屋『助六』が焼き上げた玉子焼きを主菜とした駅弁だ。前日に電話予約をして、新青森駅の販売店で手に入れておいた。この玉子焼きを肴に青森黒石の地酒『亀吉』を呑もうという魂胆である。寝台個室ソロの壁にはほど良いテーブルがあり、そこに並べて酒宴を始める。チェイサーは奥入瀬渓流の水、つまみに鶏串も手に入れておいた。弘前から大鰐温泉を通過する頃には、雪もだいぶ深くなり、時々室内灯を消して外を眺めると雪明かりで景色が浮かび上がる。ここは一ヶ月ほど前に早朝の特急「つがる」で通った所なので、おおよその風景は記憶に残っている。客車列車はモーター音がないので、空調を切ると(これも自分で操作できるのが個室の良さだ)聞こえてくるのは、車輪がレールを刻む音だけである。奥羽本線はロングレールが殆どないため、規則正しいタタッタタという音の繰り返しが心地良い。
東能代 五能線の気動車
碇ヶ関を越えれば津軽地方とはお別れで秋田県へと入っていく。闇の中、大館から分かれていく花輪線の線路もはっきりと見える。二本目の冷酒を呑み終える頃には、津軽地方は遥か後方に過ぎていき、やがて世界一の大太鼓で有名な鷹ノ巣に到着する。ここからは秋田内陸縦貫線が分岐するが、駅構内に展示されている太鼓も内陸線も進行左側のために見ることはできない。そのかわり暗闇の中でうっすらと浮かび上がる山並みがぐっと穏やかになって、秋田の米どころが近いことを知らせてくれている。昼であれば遠くに白神山地の見えるあたりだが、さすがに夜は見えない。横を流れる米代川に沿って寝台特急「あけぼの」は東能代に向かって真西へと進んでいく…

4時15分水上通過
目が覚めたとき、列車は越後中里を通過し清水トンネルの最初のループに差し掛かるところだった。雪が深い。入り組んだ山懐を昇っていくために、下り本線と分かれていく。関越自動車道は真っ直ぐに三国山脈を目指してぐんぐんと高度を上げていくが、勾配に弱い鉄道はぐるりと高度を稼ぎながらでないと土樽の駅を目指せない。土樽駅のすぐ上には自動車道のネオンランプが輝いていて、雪がかなり降っていることがわかる。ここは川端康成の『雪国』で有名な国境の駅である。今日は小説とは逆の道を辿って雪のない上州を目指していく。石積みで作られた歴史ある清水トンネルを抜け、ガーター橋で渓流を越えると踏切があって、土合の駅に着く。勿論ここは通過。そのあと二つほど短いトンネルを越えると、眼下に湯檜曽の温泉街が見えてくる。二つ目のループまではもう少しだ。谷川に沿った温泉街の外れの少し開けたところに湯檜曽の駅が見える。向かい側の山腹にある湯檜曽駅まで、今「あけぼの」が走っている真下を、直角に線路が通っている。これからこの列車はそこまで、ぐるりと左にカーブを切りながらゆっくりと高度を下げていくのだ。そのほとんどはトンネルの中である。川端は清水トンネルを抜けたところで「夜の底が白くなった」と、あたかも三国山脈の関東側になかった雪が、土樽駅には降り積もっているかのように書いているが、実際はここから水上までは雪の中であり、ここもまた雪国である。
上越線牽引はEF64
しかし、列車は確実に関東平野に近づいている。上野まではまだ2時間近く走らなければならないが、「あけぼの」の旅は大きな山場を過ぎている。夜が明ければ、いつもの都会の喧噪が始まり、また日常が戻ってくる。「あけぼの」はその名の通り、夜明けを目指してひた走りに走る。ヘッドマークが表しているような「やうやうたなびくやまぎは」をこの列車は上野を目指しているのだ。
目に見えるゴール
6時58分、列車は上野駅13番線の寝台列車専用の地上ホームに静かに到着する。この先はどこへも行けない終着駅。いったいあと何回このホームを利用できるのだろう。来年の今頃は最後の定期ブルートレインがここから旅立っていく筈である。日本の夜汽車の終焉がまた一歩近づいてきた。


後日談

 「あけぼの」廃止まであと2週間となった。毎日乗り換えで利用している西日暮里駅の3番線ホーム。時計の針はもうすぐ6時50分を過ぎようとしている。1本だけ山手線を見送れば、通過を見送れるなと、見晴らしの良いホーム端まで歩いていこうとすると、ブーンというディーゼルエンジンの重低音を響かせて、青い列車が上野に向かって走っていく。灰色の蒲鉾のような屋根の所どころには赤茶けた錆が浮いていて痛々しい。ふと『老兵は死なず。消えゆくのみ』のことばが思い浮かぶ。でも、また会えて良かった。さすがにもう乗ることはできないけれど。
 同日夜8時55分、外回りの山手線が駒込駅に着く。このまま上野まで乗って行けば、朝見た「あけぼの」にまた会えるな、青森行を見送ろうと思う。

上野駅13番線ホームにはすでに多くのファンが集まっていた。近年ファンの層が厚くなっている。一眼レフをビシッと構える「鉄子さん」の姿もよく見かけるようになった。反対に、携帯片手の軽装ファンも少なくない。かく言う自分も急に思い立って来たために持っているのはスマホしかない。でも、動画が撮れる…と思いつつ、一両一両眺めながらEF64に向かって歩いていく。
 最後尾は女性専用ごろんとシート車だ。ただこれはちょっといただけない対応だと感じる。昔から日本の客車列車の最後尾は特別なところだったはずだ。「はと」や「つばめ」の最後尾は展望車であり、紳士淑女が乗る車両だった。後方に去りゆくレールを眺めながら旅を楽しむ特別な場所だ。そこが男子禁制の女性専用車だと、男性はどうすればよいのか。女性専用車は電源車の次に配置し、最後尾は誰もが楽しめる場所であって欲しいものだ。すべての乗客が後方に流れていく車窓を楽しむことができれば、こんな列車に乗ってみたいという人も増えるのではないだろうか。
 ゴロンとシート自体はとても気の利いたサービスである。乗客の減少で空いた寝台を格安で提供すれば、利用者は喜ぶからだ。そもそも夜行列車が人気ないからと言って、日本人が夜に移動しなくなった訳ではあるまい。運賃の安い豪華夜行高速バスの人気は高いと聞く。鉄道から人が離れていく最大の原因は割高な運賃設定にある。夜行高速バスの事故は後を絶たないのだから、もう一度夜行列車の魅力を再発見できればいいのだが、残念ながらその望みはなさそうである。多くの人に支えられた安全な乗り物はそれだけに経費もかかり、効率優先の安価な乗り物には到底太刀打ちができない。 
 ★★★B寝台が輝いていた昭和は遠ざかっていく。今日、寝台特急が支持されないのは、高速道路の四通八達と航空運賃の相対的な低額化が原因である。つまり国の政策が鉄道から自動車・航空機重視にスライドしたためであるから、当然のこと勝ち目はない。豪華列車カシオペアやトワイライト・エクスプレスですら廃止が囁かれている今、ななつ星のような例外的な超豪華列車を除いて、夜汽車の終焉はもうそこまでやって来ている。

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2014年1月7日火曜日

はるかなる男鹿

男鹿に至る道のり

 男鹿というとまず高校時代を思い出す。
 部活が終わると、どの女子部員を誰が送っていくか、男子の間でワイワイ騒ぎながら決めるのが伝統だった。女の子の方でも送られるのが当たり前になっていて、彼女や彼氏がまだいない高校生にはささやかな楽しみとなっていた。私の担当はいつも尾久近くに住む下級生だった。
 この子の家の近くには踏切があった。尾久には車両基地があるので、上野駅との間でよく回送列車が通った。尾久・上野間は機関車が客車を押していく推進運転のため、列車はとてもゆっくりと走る。一旦閉まった踏切はなかなか開いてはくれないが、女の子とおしゃべりを続けるにはかえって都合が良かった。若い頃はとりとめもないことでも、話はいくらでも尽きなかった。
 当時は青い客車や茶色い客車がたくさん残っていて、おもに夜行急行に使われていた。車体側面にサボと呼ばれる琺瑯引きの行き先表示板がぶら下がり、そこには東北各地の駅名が記されている。女の子と何を話したかは全く覚えていないが、サボは記憶に残っている。そのひとつが男鹿だった。急行「おが」、男鹿行である。そこがどのようなところかはわからない。当時の高校生は北海道ばかりに関心が向き、男鹿へ行きたいとも思わなかったが、おしゃべりの時間を引き延ばしてくれる有り難い列車として記憶に残っている。

 大学に進んで、一人旅を楽しむようになり、最初の東北旅行で利用したのがこの急行「おが」だった。60年代の鉄道旅行ブームは過ぎ去り、80年代は夜行列車を利用する人も減少してきた頃である。4人掛けのボックスシートを独り占めできるようにもなっていた。2人掛けに上半身を横たえ、足は反対側の席に投げ出せば、結構快適に寝られるものだ。中には缶コーヒー二つをシートの下に入れ、座面に傾斜をつけて寝る猛者もいた。枕がないので、頭を高くして寝る工夫なのだ。缶が外れたらとんでもないことになりそうなので、私はついに試みなかった。
急行「おが」は福島まで東北本線を北上し、奥羽本線に入って山形、新庄、大曲を経て秋田、終点男鹿に行く。快適に眠ることができ、目が覚めたのは新庄の先の真室川だった。朝靄の中を「真室川音頭の真室川だな」と思いながら風景を見ていた記憶がある。それにしても今の自分では考えられないほどの睡眠力である。この時は角館を訪れるのが目的だったために大曲で途中下車し、終点男鹿を見ることはなかった。


40年後の訪問

 ようやく男鹿を訪ねる時が来た。踏切で列車を見送ってから、40年の月日が経っている。遙かなる時が過ぎ、急行「おが」が廃止されてからも20年が経過している。
秋田駅から1.3キロ地点にある
奥羽本線300キロポスト   
 そもそも奥羽本線そのものが山形新幹線の誕生によって新庄で分断され、上野・福島からの直通列車の運行は出来なくなった。ところが、秋田から男鹿に向かう途中で見つけたものがある。300キロポストである。切りの良い数字だから目に付くのだが、どう考えても300という数字は福島からの距離を表しているではないか。山形新幹線は線路幅が標準軌になっただけで、厳密には在来線扱いだから当然と言えば当然ななのだが、直通できない線路であっても同じ奥羽線を語るのは、どうも妙な感じがする。でも何となく嬉しかったのは、福島と青森を結ぶ奥羽本線は乗り継げば今でも行ける同じJR線であるということだ。一部区間を第3セクターとしてしまった信越本線や東北本線とは違う運命を歩んでいる。
終点男鹿駅

列車後方に見えるのが寒風山。
 追分駅で奥羽本線と別れ、八郎潟を右に見ながら男鹿線は終点を目指す。右前方に寒風山が近づいてくる。男鹿半島の観光の中心であり、山頂からは360度のパノラマが開ける所として有名だ。周囲に障害物がないので、まさに名前の通り寒風が吹きすさぶという。列車は、秋田から1時間ほどで終点に着く。
 男鹿駅は構内が広く、貨物輸送のためかつてはこの先の船川港まで貨物支線が伸びていたから、厳密な意味での終着駅ではなかった。しかし現在は貨物線は廃止されたので、駅の端には車止めがある。
男鹿駅

複雑に入り組む機回し線
 機関車を付け替えるための機回し線も残っており、かつては上野からの急行「おが」が日中ここで休んでいたのだろう。1972年の時刻表には、季節列車急行「おが2号」は上野を21時22分に発ち、秋田8時21分着、そこからは普通列車となって9時53分に男鹿到着とある。指定席は勿論のこと、A寝台車1両B寝台車1両、自由席8両の合計11両という堂々とした急行である。秋田で自由席数両を切り離したかどうかはわからないが、広い構内と機回し線の長さを見る限り、フル編成の急行が上り列車の発車時刻18時30分まで、ここで長旅の疲れを癒していたとしてもおかしくはない。尾久の踏切で見たあの列車がここまで来ていたのだなと感慨にふけりながら、乗ってきたディーゼルカーで再び秋田へと戻った。
(2014/1/7乗車)








2014年1月6日月曜日

雪の弘南鉄道

うら寂れた跨線橋


大鰐温泉 2010年8月撮影

気がついてからあわててシャッ
ーを切ったので、弘南鉄道の文字
が少し読みづらい。クリックする
と写真が拡大。        
 たといお気に入りの列車に乗っている時であっても、どうしても途中下車したくなるようなことがある。大鰐温泉から中央弘前を結ぶ弘南鉄道を見た時がまさにそうだった。
 前の晩に上野を発ち、寝台特急「あけぼの」の個室の中で、鳥海山に昇る日の出の時からずうっと車窓を楽しんでいた。碇ヶ関を越え、ようやく津軽までやって来たなと思いながら、弘前の奥座敷と呼ばれる大鰐温泉に列車が到着すると、まず目に飛び込んできたのが、少し痛んだ跨線橋に記された弘南鉄道の文字だった。日本中の鉄道に一度は乗りたいと思っていたので、そのうちここにも立ち寄りたいと考えながら、今回は終点までこの個室の旅を楽しむことが目的だったと、改めて再訪を期したのだった。
大鰐温泉駅 2010年8月撮影
 さて、弘南鉄道と言えば、冬のラッセル車が思い浮かぶ。冬を満喫するためには、できれば地吹雪の季節に訪れたいとも思う。7〜8年ほど前、真冬の津軽を訪れようと二度ほど試みたことがあった。1度目は出発直前に、羽越本線で突風のため特急が脱線転覆し何人かの方が亡くなられた。その日の寝台列車は運休となり、私のような物見遊山の人間がとやかく言えるような状況ではなかった。その翌年、再度挑戦した際は、例年にない暖冬で、津軽は地吹雪どころではなく、大雨の中で津軽三味線を聴きに行ったようなものだった。どうも自分は冬の津軽には見放されているらしいと、長年思っていた。
 しかしチャンスは訪れた。廃線が決定した江差線に乗るために北海道を往復することにして、帰路弘前に立ち寄る機会ができたからだ。冬の津軽を旅し、黒石の駅に到着すれば、青森の鉄道は全て乗り尽くすことにもなる。なかなか魅力的な冬の旅となりそうであった。


大鰐温泉から中央弘前へ
7031と7032の2両編成

 弘南鉄道には弘南線と大鰐線の2路線がある。国鉄から引き継いだ黒石線は残念ながら6年前に廃止されている。二つの路線は繋がっておらず、JR弘前駅に隣接する弘南線弘前駅と大鰐線中央弘前とは直線距離で1㎞ほど離れているので、どう回るかは思案のしどころだが、ここはやはり大鰐温泉から始めることにした。
7039と7040の2両編成
 雪に包まれいっそう寂寥感が増した跨線橋を渡ると、JRからそのまま大鰐線のホームに繋がっていた。中央弘前までの乗車券を購入しようと、北口から一旦外に出る。出札係から乗車券を改められることもなく、実にのんびりしたものだ。停まっている電車は東急7000系のお下がりだが、嬉しいことにヘッドマークが付いている。しかも綺麗な塗装までが施されていて、大切に使われているなあと感じる。また運転台下に雪を弾き飛ばすスノープラウが装着されていて、いかにも雪国の鉄道らしい風情がある。ホームの先に電気機関車が見えるが、ちょうど真正面なので、どのような形式なのかはよくわからない。
ED22
 それにしても今大鰐線は廃線の危機にあるという。確かに誰もいないホームに佇むと現実味を帯びてくる。青い帯を巻いた2両編成の電車に乗ったのは、私以外にたったの一人しかおらず、1両に一人ずつ座った。しばらくして空気ばかりを乗せた電車が発車する。もちろんワンマンカーである。
 大鰐温泉から中央弘前まではわずか13.9キロ、並行するJR奥羽本線とは異なり地域密着型の地方私鉄なので、14もの駅を擁している。およそ1キロに一駅の割合で設置されていることになる。この先いったいどのような人が乗ってくるのだろう。
黒いラッセル
 電車が電気機関車の横を通り過ぎると、そこには黒いラッセル車が停まっていた。あわててカメラのシャッターを切る。誰も乗っていないので真冬でも窓は開けられたのだが、心の準備が出来ていなかった。写真には反対側の窓が写り込んでしまっていた。それでも名物の黒いラッセル車と出会えたのは嬉しい。鉄道の除雪車といえば今は赤が相場だが、蒸気機関車の時代はすべて真っ黒だった。汚れの目立たない実用一点張りの昭和を感じさせる色彩である。真白な雪原を疾走するにはふさわしいが、夜の運用は危険だろうなとも思う。
 大鰐温泉を囲む山々が尽きて、電車はリンゴ畑の中を走る。宿河原、鯖石、石川プール前という味のある駅名ごとに停まるが、一向に客は乗ってこない。石川を過ぎたところで盛り土区間となり、そのままJRを跨いで、義塾高校前に着く。甲子園にも出場経験のある東奥義塾高校の最寄駅である。ここで高校生が大勢乗車してきた。まだ冬休み期間中なので全員部活帰りと見える。やはり地方ローカル線は高校生に支えられているのである。にわかに車内が活気づく。
津軽大沢駅

交換列車は東急でお馴染みの
赤い帯          


 津軽大沢では列車交換があった。ふつう鉄道は左側通行だが、地方のワンマン運転ではしばしばホームの右側につけることがある。これは運転台が左側にあるため、この方がドアの開閉確認がしやすいからだ。理に叶ってはいるが、何となく妙な気分がする。
 一駅停まるごとに生徒たちが降りていく。当然と言えば当然だが、地元の生徒だけでスポーツ強豪校にはなれないだろうから、この子たちは楽しみで部活をやっているタイプなのかなと、とりとめのないことを考える。その後は、聖愛中高前、弘前学院大前と学校名のオンパレードだ。まさに学生が支える鉄道だから、登下校時以外は閑散としているのも当たり前だろう。

中央弘前駅

弘前中央ではない。この名前には
何かいわれがあるのだろうか。弘
前城からもJR弘前駅からも距離が
あり、確かに中央なのかもしれな 
いが、観光客に便利な駅とはいい
がたい。                
 終点のひとつ前は弘高下という名の駅である。さすが地元の有名校は略称で呼ばれても風格がある。というより略称で呼ばれるくらいの風格というべきか。ここは県立弘前高等学校の下の駅というわけだ。旧制中学時代は太宰治も学んだ名門校である。終点まで一駅ということもあって、弘高生は誰も乗って来なかった。弘高下を過ぎると電車は土淵川の流れに沿って緩やかなカーブを切りながら中央弘前駅に到着する。片面1線の終着駅で、ホームから緩やかなスロープを下ったところに改札口がある。振り返ると、雪のぱらつく軒下には小振りのツララが何本も下がっていた。


こみせの町、黒石につゆ焼きそばを食べに行く


弘前駅

都会の私鉄と何ら変わらない。
 大鰐線と弘南線とはもともと別会社だったこともあって、両者は繋がっていない。雪道を1キロ以上も歩くのは東京育ちには危険だし、また津軽の食事でお勧めは何かを知りたいこともあって、タクシーに乗ることにした。運転手さんに早速尋ねてみると「津軽の地元料理ねえ」と気のない返事が返ってくる。こちらの身なりを見て、貧乏人と足元を見たのだろう。悩んだ挙句推薦してきたのは、全国チェーンの居酒屋だった。いくらなんでもねえ。
 こうなったら弘前での夕食は諦めよう、黒石の郷土料理が食べたい! 
 今黒石で人気なのは、何と汁に浸かった焼きそばなのだそうだ。B級グルメかあ。まあ、付き合ってみるかということで、弘南線の乗客となった。
 夕方が近いこともあって、綺麗に改装された弘前駅には多くの人が電車を待っていた。それでも年々乗客が減り、ここも高校生頼みなのだという。大鰐線と同じ車両が使われているのだが、乗客が多いので地方ローカル線に乗った気がしない。しばらく乗車しているうちに、景色から家々が消えてゆき、田圃の真ん中を通るようになって、ようやくローカル線らしくなってきた。 黒石までは16.8キロ。12の駅があるので、駅間は大鰐線に比べて開いている。
 よくポスターなどで見るこの路線は岩木山をバックにしたものが多い。雪模様の今日は勿論白一色の世界だ。田んぼアートという駅だけを通過して、30分ほどで終点黒石に着いた。

 黒石市には日本の道百選に選ばれたこみせ通りがある。こみせとは、越後高田では雁木と呼ばれている日本版アーケードのことだ。通りに面した各家が、軒を道まで伸ばして、通行人を雪や日差しから守った施設のことをいう。実に合理的な工夫で、通行人の便を図って造った施設だが、玄関前の雪掻きをする必要もなく、そこで暮らす人にも便利だったに違いない。
 
こみせ通り
 駅からこみせ通りまでは普通の歩道すらない商店街で、雪の圧雪路をヒヤヒヤしながら歩いたが、この一画に入ると途端に世界が変わった。安全で伝統美の空間が広がっているのである。守りたい日本の道であることが頷ける。造り酒屋や商店、普通の家屋がこの町を守っていた。
 こみせを堪能した後は、いよいよ「つゆ焼きそば」である。お勧めの地酒を尋ねると、先程訪れた造り酒屋の銘柄とは違うものを紹介された。地元の人は亀吉を呑むという。冷やのまま口に含むうちに、次第にいい気分になってくる。つゆ焼きそばも、香ばしい汁麺という感じだ。いいものに出逢った。全国全線乗り尽くしの旅の途中であるが、乗車だけを目的に終着駅ですぐに折り返さなくて良かったとつくづく思う。

 底冷えのする夜の黒石の町を歩きながら、再びこの町に来ることはないかもしれないと思い、だからこそこの風景を覚えておきたいという、いつもの感情が湧いてきた。
 人通りの絶えた夜の道を駅に急ぐ。駅に隣接したスーパーマーケットには何人かの地元の人たちが買い物をしていた。棚には茨木産や長野産の野菜や果物が並べられている。売られているものは東京と変らない。買っている人たちの表情も似たようなものだ。流通が発達した今では、全国から送られてくる同じような物に囲まれて、この土地の人も普段の私も同じように生活をしている。
車止め(黒石駅)
 こんな当たり前のことが、とても意味深いことに感じる。一時的ではあるが、自分とここで生きる人たちとの間に繋がりがあることを実感したからである。ところが、また明日から私はこの人たちとは無関係に生きていく。ここで感じたことは幻のように思えていくだろう。それが不思議でならなかった。同じ空間を共有し、一瞬ではあれ繋がりを持ったという現実の感覚が、明日には途切れてしまい、現実は幻想に変わってしまう。その喪失感の中で取り残される自分という存在の危うさをどう受け止めればよいのか。


黒石駅にて
 駅の構内に入ると、降り積もった雪の中で、車止めがほのかな光を放っていた。行燈のような暖かい灯りを見ていると、こころが次第に和んできた。この光をいつまでも覚えておきたいと感じた。この光はきっと忘れない。そうすることで明日には切れてしまうはずの繋がりが、いつまでも続いていくように思えた。旅に出て車窓からの景色を覚えておきたいというのも、危うい自分という存在をしっかりと繋ぎ止めておきたいからだということに、この時気づいた。 

(2014/1/6乗車)

2014年1月5日日曜日

廃線前の江差線に乗る


早朝の函館

 1月5日早朝、雪がちらちらと舞っている。カチンコチンに凍る道の中を函館の駅まで歩いていく。雪靴を履いてはいるのだが、買ってからだいぶ経つのでゴムが劣化し、少し滑りやすくなっている。自分は雪道を歩くのが苦手である。「踵や爪先から足を下ろしてはいけないよ。足の裏全体で大地を踏みしめるように歩くんだ」と雪国生活の長かった息子に教わるのだが、なかなか上手くはいかない。積雪はそれほどでもないが、道路一面が圧雪されて氷原のようだ。ときどきつるっと滑ってヒヤッとする。
 夜明けまでにはまだ間があるので、あたり一面は真っ暗で人通りはない。ただ、函館名物の朝市が6時開店のため、あちらこちらから蒸気が立ち上がって、店内は準備に忙しいようだ。この地を訪れれば必ず立ち寄る朝市だが、今日は江差までの鉄道の旅が待っている。少しでも良い席を確保したいので、そのまま駅まで直行する。
 来年の北海道新幹線函館開業を前に、この5月には江差線、木古内・江差間が一足先に廃線となる。かねてから一度乗っておきたいと思っていた。
 鰊御殿で有名な江差にはかつて訪れたことがあるが、その時は函館からレンタカーに乗ってであった。遅い春がようやく南東北まで北上してきた頃で江差にとってはまだ先のこと、鉛色の寂しい町だったという印象が残っている。それなのにまた冬に来てしまった。


廃止されない江差線(津軽海峡線) 

 6時25分、1番線に江差線普通列車が入線してきた。キハ40-1801。重厚な造りだ。太いアイドリングの音が懐かしい。単行(車両の両端に運転台があり前進後進が自在)ながらデッキが付き、更に寒冷地仕様で窓は二重なので、室内はとても暖かい。すぐに乗る客はまばらだが、私が急いで来た理由は、もうすぐ上野からの寝台特急北斗星が到着し、同好の士が集まってくると予想したからだ。廃止まではまだ間があるとはいえ、冬休みも終盤になって江差線を目的に北海道を目指す鉄道ファンは多いだろうと考えたのである。乗り換え客も含めてボックスシートに大方一人ずつおさまって列車は出発した。函館湾を堪能できる左側ボックスをあきらめた人もいる(表情でわかる)。海側の席に座りたいからと言って、空いているボックスに座らずに相席を選ぶ人は稀である。
函館山が真横に見えてくる
 江差線の始点は函館の次の五稜郭だが、ここから列車は函館湾を反時計回りにこまめに停まりながら上磯に着く。この辺りまではいくつもの工場群があり住宅街が広がって、函館までの通勤通学圏となっているため、上磯折り返しの普通列車が設定されている。この先は駅間が広がり、海もぐっと近づいて海峡線の様相を呈してくる。列車は函館湾をほぼ半周した感じで、車窓正面には函館山が見えてくる。穏やかな波はここが天然の良港であることを示しており、かつて函館が北海道の玄関口に選ばれた理由がよくわかる。男子修道院として有名なトラピスト修道院がある渡島当別あたりまで来ると、函館山は後方に過ぎて見えなくなり、それに代わって遥か彼方に横たわる下北半島が見えくてる。広がる海は津軽海峡だ。新幹線が開通すれば、この風景ともお別れとなる。
スーパー白鳥が木古内に近づく
 木古内から先が廃止されてしまう江差線となるが、列車はここで14分ほど停車して後続のスーパー白鳥20号の到着待ち合わせを行う。ところでJR北海道では江差線の廃線に合わせ「ありがとう江差線フリーパス」を発売していて、函館・木古内間は特急自由席にも乗れるお得な切符となっている。これを利用すれば函館出発を30分遅らせて少し朝寝坊ができるのだ。当然この人たちが乗り込んでくる。早朝から函館駅を目指したもう一つの理由は、首から下げるクリアケース付きのフリーパスに惑わされると、お気に入りの席の確保が難しくなるからだった。木古内からの乗車率はほぼ50〜60パーセント。自分がいるボックスシートも3人掛けとなった。ビデオカメラを持ち込む人、いかにも高性能な一眼レフカメラを手にする人が何人か加わった。
江差行(左)

終着駅江差へ

 木古内では北海道新幹線の開業に向けて急ピッチに工事が進捗している。新幹線ホームは外観がほぼ完成していて、駅周辺には新幹線歓迎の看板や横断幕が張られて、新しい時代がやってくるのだなと感じさせられる。地元の期待の一方で、都会から来た者の目にはあまりにも木古内の町の規模が小さく、過剰設備の感は否めない。そもそも新幹線の駅に繋がる江差線を廃線にしようという位だから、ことは深刻だ。廃線を受け入れた江差の人には鉄道よりも道路が便利なように、東京までは新幹線よりも航空機が便利だということではないか。地元の人もわかっている筈である。しかし選択肢の多さは便利さの証であり、時代に取り残されていないという実感につながるものとして、経済効果だけで論じる都会人には所詮わからぬことなのだろう。
 今こうして滅び行く江差線の風情をわざわざ味わいにきたよそ者である私は、この味わいを残してくれた(都会的な意味において不便な生活に耐えてきてくれた)渡島地方の人たちにどう恩返しができるのだろうか。都会は地方に、食糧・資源・人的資源ばかりでなく観光を通して文化的・精神的にも支えられているわけだが、もちろん日頃私たちは経済原理だけでものごとを考えがちである。莫大な借金を返済する目処のない北海道新幹線の将来を考えると、よそ者が出来ることのあまりに非力なことに慄然とせざるを得ない。
 津軽海峡側の木古内から日本海に面した江差までは、渡島半島の背骨にあたる小高い山々を越えていく必要がある。頑丈な作りのキハ40はその図体の割に馬力のないエンジンしか積んでいないので、さほど険しくもない峠道でも極めつけの鈍足である。全国のローカル線から乗客が逃げていったのは、人口減少以外にあまりにも時間ががかる鉄道に嫌気がさしたこともあるのではないだろうか。生活のためなら車を使う方が格段にQOL(Quality of life)が上がるというものだ。
 
ところが旅人にはこの時間の流れがたまらないのだから始末に負えない。パウダースノーをまき散らしながら、峠の最後は短いトンネルで抜けて分水嶺が変わる。うなるようなエンジン音がアイドリング音に変わって、スピードも加わりながら、左側から川が近づいてくるとそこは神明駅である。誰も降りないし、誰も乗ってこない。次の湯ノ岱は沿線途中唯一の有人駅で、近くに温泉施設もあるようだ。ここでは列車交換と通票(スタフ)の交換が行われる。
 列車はそこからこの川に沿って日本海側の上ノ国まで行く。川の名前は天の川という。何とも風情のある名前だが、特別な風景が広がっているわけではない。上ノ国に近づくと向かいの山に林立する風力発電施設が見えてきて、海が近いことを知らせてくれる。
 この時期の日本海は鉛色の厳しい姿である。夏と冬とでは全く見せている姿が違うのが日本海だ。列車は追分ソーランラインと呼ばれる国道228号線と並走しながら、かつて殷賑を誇った江差へと進んでいく。荒涼とした風景の中、風雪に耐えてあちこちが傷んだ町並みが広がっていく。そこに多くの人の生活があることはわかるが、人影はほとんどない。
江差駅は江差の中心街の遥か手前にあった。線路の先には小さなマンションが立ちふさがっていて、終着駅としては少々風情に欠ける。どうせこの先鉄道は延びないのだから、マンション建てちゃえといった感じである。しかし駅舎はしっかりしていて、厳寒のホームに立って思わず身をすくめた旅行客達を、強力なストーブが暖かく迎えてくれた。本日の乗客の多くは、江差線に別れを告げにきた人たちである。折り返し時間までに凍てついた道を歩いて町の中心街に行って帰ってくるには少し時間が足りない。そのまま多くの人が列車に戻っていく。
 
江差に来て、海を見ないで帰るわけにはいかない。滑る足下に気をつけながら、海岸を走る国道の上に立った。モノトーンの風景が広がる。次に来る時は、この追分ソーランラインを車で北上してくることだろう。おそらく夏の美しく穏やかな日本海が迎えてくれるに違いない。