2014年8月26日火曜日

北海道乗り尽くしの旅②

襟裳岬


岬突端付近から振り返る
 バスが岬に近い丘陵地帯を登り詰めると、右手にも左手にも真っ青な海が広がってきた。およそ周囲300度近い角度、後ろまで海が広がっている壮大な絶景がそこにあった。手持ちのカメラレンズではとても捉えきれないスケールだ。魚眼レンズを使うか、あるいは高い所まで昇って鳥瞰写真でも撮らない限り収まらない風景だ。何とか両側の海が写せないかとようやく探したポイントで撮影したのが右の写真だ。18㎜の広角で、ちっぽけながら二つの海岸が何とか入った。
襟裳岬灯台
 広尾行のバスが来るまで2時間半もある。岬の隅々まで散策するのには十分な時間だ。まずは灯台を目指す。岬の駐車場には3分の2程度車が止まっているので、8月も終わりが近づいているものの、観光客はまだ結構いるのだ。香川ナンバーや福岡ナンバーの車が混じっているが、大方は札幌や帯広から来ている。バイクのツーリング族も少なくない。50CCバイクに荷物を括り付けて旅している人がいる。とにかく例外中の例外は、鉄道とバスを乗り継いでやって来る旅行客なのである。中国人観光客も多い。彼らはツアーバスでやって来る。この日、クラブツーリズムで日本の中高年も大挙訪れていた。
記念写真ポイント
 青い海と青い空には白亜の灯台がよく似合う。それを通り過ぎれば太平洋が目の前に広がって、沖まで点々と岩が続く襟裳岬に辿り着く。襟裳岬は風の岬として、またゼニガタアザラシの生息地として有名だ。残念ながら肉眼で見えるのは海鵜ばかりだが、広がる水平線をみていると地球の丸さを感じることが出来る。丸く見えるのは知識がそうさせる錯覚なのだそうだが、この際そんなことはどうでもよい。ずうっとここにいれば視力は確実に回復するのではなかろうかと思えるほど、目にも心地よい。遠くを見ると水晶体が平べったくなるために眼球の筋肉がゆるむんじゃないかなあ、などと考える。
アポイ岳の向こうに様似がある
 様似の駅では雲に隠れていたアポイ岳も姿を現してきた。岬の地下に建設された風の館に行ってみる。ここからは単眼鏡でゼニガタアザラシが観察できる。親切な案内嬢が、岩の上で寝転がっている群れと、海で泳いでいる群れに望遠鏡を向けてくれた。いるいる! かなり遠い岩場なので見つけられなかった筈だ。先を急ぐ観光客の多くはこの施設をパスしていたが、ゼニガタアザラシを見ないで帰るのは勿体ない。ここはのんびり公共交通機関派の勝利である。風の館には風速25㍍の強風が体験できる風洞実験施設もあって、なかなか興味深い。

黄金道路
覆道が続く黄金道路

 様似からやって来た本日最後の広尾行JRバスからは数名の乗客全員が下車し、かわって数名の客が乗るだけのスカスカの状態で出発した。襟裳の集落を過ぎ、山が近づくと、その先は有名な黄金道路である。昭和9年竣工のこの道は、当時黄金を敷き詰められるほどの莫大な建設費がかかった道ということで名付けられ、全国的に有名になった。以前から通ってみたい道の一つだった。落石防止のため、至る所に覆道(ふくどう、ロックシェッド)があって、柱の間から海が眺められる。小樽から積丹に向かう途中にも同じようなところがあって、かつて訪れた際に路線バスから眺めた、息を呑むような波に洗われる奇岩の絶景が忘れられない。

 ところが技術の進歩と経済発展はここ襟裳にも押し寄せていて、今は次々と長大トンネルがくり貫かれ、安全と利便性が優先された道になっているのだった。地元の人には朗報だろうが、身勝手な旅人にはとってはガッカリだ。路線バスはひたすら暗闇の中を突っ走る。今でも海岸沿いの道は残っているようだから、この次は車で来なければいけないなと、鉄道の旅をしているのも忘れて、決意するのだった。

旧広尾線跡を訪ねて


旧広尾駅
 襟裳岬から広尾までは1時間、JRバスの運行はここまでだ。広尾のバス停留所は、旧広尾線の広尾駅をそのまま利用したところだった。駅は町の顔だから、おいそれとは取り壊せないのだろう。
 広尾線が1987年に廃止されたあと、引き継いだのは十勝バスである。旧線にほぼ沿った広尾国道を通って帯広までを2時間20分ほどで結んでいる。距離にして80㎞以上あるので時間がかかる。その出発まで30分以上ある。なんとも接続の悪いことよと思うが、もともと利用者が少ない上に、それはそれで戦略があったのである。
バス待合室に記念館併設
 この旧広尾駅は現在鉄道記念館になっていて、観光客の訪れを待っていた。バスの切符販売窓口のおじさんは、「バス発車までまだ時間があるので、どうぞ見ていって下さい」という。廃線跡に残った鉄道記念物を駅に展示するのは、音威子府にも天北線資料室があるが、当時を懐かしむ地元の人たちのメモリアルとして大切にされているのである。
通票閉塞機
 広尾線のジオラマ、ランプや鶴嘴、鉄道員が着た服、記念切符等々、とにかく関係あるものならなんでも寄せ集めたような展示だが、それはそれなりに面白い。通票閉塞機が一台置いてあったが、これは広尾駅が終点で隣駅が一つしかないからだ。一つの区間に1編成しか列車を入れさせない通行手形の発行機だから、その操作をするには人手が必要だった。つまり列車交換が可能な駅や終着駅にはすべて駅員が配置されている必要があった。無人駅だらけの今とは大違いだ。機械化される前は人々が安全を守っていた。近代化は人々から仕事を奪い、地方は衰退に向かうのである。
C11動輪
 駅の外にかつてレールが敷かれていた痕跡はどこにもない。ホームの前は駐車場になっていて、隣の公園にパットゴルフを楽しみに来た人の車が置かれていた。この公園は鉄道記念公園と名付けられ、片隅には腕木式信号機や蒸気機関車の動輪がモニュメントとなっていた。
 これらを見て回るうちにあっという間に30分は過ぎてしまった。バス停に戻ると、3〜4人の乗客が待っており、しばらくすると派手な黄色にカラーリングされた十勝バスがやって来た。おお、綺麗だなと思ったのもつかの間、乗車してみて愕然とする。窓がすこぶる汚いのだ。海水の飛沫を浴びてそのまま乾いてしまったのか、夥しい水滴の跡が連なっていて、これでは美しい北海道の景色が堪能できないではないか。しかも帯広までは2時間以上乗っていなければならないのだ。最悪!
 窓が綺麗だったらなあと、ため息が出るほど、外は広大な農園が広がっている。ここは十勝平野の南側に位置する畑地帯なのだ。真っ直ぐな国道と直角に交わる農道、隣の農園との境界に植えられた樹木が彼方まで続いている。更別村に着いたときは、ここは日本の村という概念では捉えられないなと感じた。国道から側道に入ったバスは、広々とした役所や野球場が点在する所を走っていく。あたりは芝生が敷き詰められ、樹木も多いが、どこも手入れが行き届いている。車内放送が「○○団地」というので外を見ると、バス停から団地とおぼしき平屋の建物までは芝生が敷き詰められ、あたかもアメリカの民家を見ているかのようだ。冬は厳しいのだろうなと思いつつも、この日本離れした景観が忘れられない。
駅舎は気動車の間か?
 広尾線が日本中に名を轟かせたのは、愛国と幸福という駅が人気を呼んだからだ。どうやら今でも観光地となっているらしく、快走するバスからも幸福駅とおぼしき所が垣間見られた。残念ながら激しく汚れた窓を通してシャッターを切ったので見苦しい点は許していただきたい。
 殆ど乗り降りのないまま、バスは帯広市内に入る。高等学校、イトーヨーカ堂、イオン、長崎屋等々、少しでも人がいそうな場所に停まりながらバスは進むのだが、一向に乗客は乗ってこない。あたりは薄暗くなってくる。初めて訪れる町への到着は出来れば明るいうちが望ましい。帯広の第一印象は、整然と綺麗なビルが建ち並ぶ、それでいて人通りのまばらな、ちょっと寒々とした街である。これは決して帯広が悪いわけではない。こんな時間に着くような旅を計画した自分に責任があるのだ。でも、苫小牧から襟裳を抜けて帯広に至るには、これしかないのも事実だった。公共交通機関による旅が時代遅れになってしまったのである。
(2014/8/26乗車)


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