2015年8月5日水曜日

福井の鉄道 これぞ日本の Stadtbahn だ!

 無節操で影響を受けやすい筆者は、この夏のドイツ旅行以来、すっかりあの国の鉄道にかぶれてしまった。なかでもドイツ語で Stadtbahn と呼ばれる LRT は、路面電車と近郊鉄道線を融合させた、経済的にも技術的にも優れたもので、その上地下鉄までもカバーする変幻自在の鉄道だった。
 そのドイツ旅行の2週間前に訪れた福井鉄道も、近年フクラムの愛称で親しまれる新型車両を51年ぶりに導入して話題となっている。地下鉄区間こそないものの、福井鉄道は Stadtbahn として見た場合、きわめて多くの共通点を持っている。富山の LRT とはひと味もふた味も違う、福井鉄道の魅力を紹介する。

越前武生駅 沿線随一の本格的
な駅舎とホームを備えている。
右は現在主力の一つ770形。左は
かつての花形急行用200形。  

 福井鉄道福武線は、越前武生と福井市を結ぶ全長21.4㎞の鉄道である。武生といえばかつて越前国の国府があった歴史ある町で、『源氏物語』の作者紫式部も受領の父親に連れられてここで少女時代を過ごしたことでも有名な土地だ。昭和20年に福武電気鉄道と鯖浦電気鉄道が合併して福井鉄道となったことから、本社は現在でも武生にある。つまり、武生から福井市に進出した鉄道なのである。一方の福井は一乗谷の朝倉氏が滅亡した後、柴田勝家が領有して以来の土地柄であり、幕末に俊才の誉れ高い松平春嶽を輩出したとはいえ、歴史では武生の後塵を拝するところと言える。
福井駅前から市役所前に進入する
急行越前武生行。この後一旦通り
過ぎてからスイッチバックして、
こちら側の線路に転線し、乗客を
乗せてから、左手前方に向かって
進んでいく。         

 それが影響しているわけでもないだろうが、面白いことに越前武生から赤十字前・木田四ツ辻間にある鉄軌道分界点までの18.1㎞は鉄道区間、その先の福井市街地区間3.3㎞は軌道区間つまり路面電車扱いとなっている。ここがまさに日本の Stadtbahn というべきところなのである。都市間を結ぶ近郊型の鉄道と市街地に適した路面電車との融合である。
 路面電車区間は市役所前で福井駅前方面と田原町方面に分岐するが、その分岐の仕方が若奇妙なのだ。常識的に考えると、福井駅前から武生を結び、途中から田原町方面に支線で分岐させるほうが運行しやすい筈だ。ところがここでは、そうなっていない。福井駅前を出た電車は市役所前で一旦停車し、一旦通り過ぎてスイッチバックしてから武生に向かうのである。いったいどうしてこんな面倒な配線にしたのだろうか。それは市役所前が福井駅前以上に重要であり、スイッチバックさせても経由する必要があったからだろう。電停レベルのホームでありながら、地下道で通じている位の主要駅である。
FUKURAMはFUKUIとTRAMの
合成語。福井駅前にて。左後方
に改築中のJR福井駅が見える。
将来はここまで延長される。 

 それに対して福井駅前は簡素なものだ。道幅が狭いこともあって、市役所前で分岐するとすぐに単線になってしまう。現在、JR福井駅が大改修中で、その完成にあわせて福井駅前も乗り換えやすいように移動することになっている。おそらく新駅には2本の電車が停まれるようになるだろうから、田原町でのえちぜん鉄道への乗り入れ工事が進んでいることも考え合わせると、今後はもっと賑やかな駅前となることだろう。そしてそこで大活躍するのはFUKURAMことF1000形超低床車であろう。現在2編成が活躍している。新しい車両は街並みにすっかり溶け込んでいる。3両編成で、全ての車両に台車が付いているので、間に吊られる形の付随車両を挟めばもっと定員が増えるはずだが、そこまでの需要はなかったのだろう。

普通の電車が道路との併用軌道を走
る。これが人気の秘密。     
市役所前にて。

 ところで福井鉄道が多くの人を惹きつけたのは、FUKURAM 同様に編成の長い本格的な電車が、51年も前から路面電車区間を走っていたからである。
 昭和35年に福武線の急行車両として登場した200形は、2両編成ながら本格的な電車列車であり、当時流行だった湘南電車と同じ風貌を身につけた格好良い電車であるばかりでなく、車輪に直接モーターを取り付けるのではなく、振動が伝わりにくいカルダン式という新しい技術で造られた電車であったことも人気の秘訣だった。しかも、小田急のロマンスカーにも採用された連接式車体といって、車体と車体の連結部に台車を配するという最先端の電車だった。この方式は、車体と車体が一体化しているので、振動が抑えられて乗り心地がよいという特徴がある。
連接車両の台車。コイルに挟まれ
たオイルダンパが揺れを更に低減
させる。地方私鉄とは思えない最
先端の技術が導入されていた。 

 鉄道部門は赤字を抱えて苦戦している福井鉄道だが、常に時代の最先端を導入するという点において、実に腹の据わった鉄道会社だということができよう。51年も走り続けて、もはや引退目前の200形だ。今回、福井に来てこの電車の走る姿に出会えたのは誠に幸福だった。
 現在数多く在籍する路面電車型の2両連結車両は、名古屋鉄道からのお下がりで、廃止となった岐阜市内線から回ってきたものだ。出入り口部分にステップがついた770形は、200形と同じように連接車である。製造後20年程度の比較的新しく状態の良い車両といえる。
 福井鉄道に限らず、豪雪地帯のこの地方では、単線区間から複線区間になる所、特に交換施設のある駅の両側の分岐器には、スノーシェッドが設置されている。分岐器は雪に弱いからだが、出来るだけ除雪に人の手を掛けたくないという、地方鉄道固有の事情もあるのだろう。JR北海道の閑散地域ではよく見掛けるが、本州では珍しいのではないだろうか。
 LRTが普及する北陸地方にあっても、その先見性という点で異彩を放つ福井鉄道。営業成績が良くない中で、奮闘する姿を見ていると、ぜひ応援したくなる。
(2015/8/5 乗車)

 【注】ドイツから帰国後にまとめたため、その経験が反映された内容となっている。


 

2015年8月4日火曜日

福井の鉄道 恐竜王国篇

Kingdom of the Dinosaurs FUKUI
えちぜん鉄道勝山行き車窓左手
5㎞遠方に、巨大な卵の形をし
た福井県立恐竜博物館がある。

 恐竜に特別な興味はないけれど、福井の鉄道には前から乗ってみたかった。そこで乗りに行ってみたら、行く先々で恐竜が待っていた。なんと福井駅のベンチには恐竜が座っていたりする。昔映画で観た(こちらは怪獣だが)モスラの卵のような巨大な建造物まである。福井の情熱は、同地が日本最大の恐竜化石の産出量を誇るところからくるらしい。日本の恐竜化石の8割は福井県で見つかるという。フクイサウルスという草食恐竜や映画『ジュラシックパーク』にも登場する肉食恐竜のラプトルの仲間、フクイラプトルなどと命名された怖ろしい恐竜も発見された。そんな王国の鉄道を紹介する。

えちぜん鉄道勝山永平寺線

 古くからの鉄道愛好家であれば京福電鉄越前本線と言った方がなじみがあるかもしれない。京福電鉄の名前は、今では京都嵐山や比叡山のケーブルカーなどでしか見ることができないが、出町柳と鞍馬や八瀬を結ぶ叡山電鉄もかつては京福電鉄だった。そもそも京都の鉄道会社と思われがちだが、その名前の通り京都と福井に鉄道を持つ会社だったのである。それが今では京都の片隅(いずれも名観光地だが)で細々と中小私鉄として営んでいるのは、この会社が悲劇に見舞われているからである。なかでも今回訪れた勝山永平寺線(当時の越前本線)で2000年と2001年のわずか半年間に二度起こった正面衝突事故では、国土交通省から運行停止命令を受けるという鉄道会社にとっては屈辱的な結果となってしまった。その結果、経営の危機となった京福電鉄は福井地区と叡山地区の路線を手放すことにしたのである。
 地域の足を確保するために、福井県では第三セクター方式の鉄道会社として存続させることを決め、福井市や勝山市が出資するえちぜん鉄道が2003年に開業した。ということで、えちぜん鉄道は古くて新しい鉄道である。どことなく都会的な外観の電車が、地域の足を支えている。京福電鉄時代には叶えられなかった車両の更新や保安施設の整備に相当資金が必要だったのだろう、運賃は決して安くはない。福井・勝山間のわずか27.8㌔で770円という運賃はJRの約1.5倍。このあとで乗車した福井・三国港間も同額だったため、この日の合計は3,080円の支出となった。
 お金のことなど無粋な話はすべきではないが、もしも今日が土日だったらフリー切符がなんと900円で買えたのである。これはいくら何でも安い! また切符売り場には夏休み親子企画として、大人一人と子ども一人のフリー切符が1,200円で販売されていた。「親子フリー切符は大人だけでも使えますか」と尋ねると、気の毒そうな顔をされて「使えません」という返答が返ってきた。それはそうだろう、乗りたくてやって来た客に割り引く必要はないし、二度と乗らない客に過剰なサービスは不要だ。ということで、図らずも今日の私は地域振興のために役立った筈である。
 電車は小高い山に囲まれた九頭竜川沿いの田園地帯をトコトコと進んでいく。途中永平寺口ではバスを利用して永平寺へ向かう人がかなり下車した。もともとはここから永平寺まで線路が敷かれていたが、これも衝突事故の後に廃線となってしまった。
 
 終点の勝山駅は国の登録有形文化財に指定されている由緒正しき駅である。そもそもこの鉄道が施設されたのは1914年のことで、当時は越前電気鉄道と呼ばれた。この時に造られた駅舎が今でも利用されている。勝山市の鉄道玄関口として大切に保存・修復がされていて、さながら生きた博物館のようだ。おしゃれなコーヒーショップも営業されていて、ここから恐竜博物館へ向かう人達の休み処にもなっているのだろう。
 勝山駅前
さすがに当時の車両は残っていないが、開業6年後に導入された電気機関車テキ6形が、構内の片隅に大切に保存されている。まるでちっぽけな豆電車のような形だが、この電気機関車の導入によって大幅に輸送力が向上したのだという。貨物輸送専用の電気機関車として活躍し、昭和55年までの60年間、地域の織物製品や木材を運び続けたのだそうだ。えちぜん鉄道から勝山市に寄贈されたもので、産業遺産として大切に保管されているのである。

越美北線(九頭竜湖線)


 一旦福井に戻って、次はJR線だ。岐阜県の美濃太田から北濃までを結ぶ国鉄越美南線が第3セクター化し長良川鉄道となった今でも、越美北線は旧国鉄を引き継いだJR西日本のローカル線として生き残っている。並行して走るえちぜん鉄道とは異なり、ここで使用されている車両は、通常よりも車長が2割ほど短いローカル線専用のワンマンディーゼルカーだ。このキハ120系はJR西日本の標準的なローカル車両である。

スタフは鉄道の通行手形。
信号機が発達した現在では
とても珍しい存在である。
改装された立派な福井駅の片隅の切り欠きホームから出発する。全線単線非電化。事実上越美南線がなくなり、北線だけとなってしまった越美線は九頭竜湖線という愛称で地域の足としての役割を担っている。福井平野をしばらく走り、山が両側から迫ってくると戦国の武将朝倉氏で有名な一乗谷に着く。国の特別史跡となっている一乗谷朝倉氏遺跡までは駅から1㎞半ほどだが、無人駅に史跡の地図が掲示してあるだけで、ここから歩く観光客は少なそうだ。里山の谷間をしばらく進めば、越前大野である。ここは列車交換できる最後の駅だ。
 この先九頭竜湖までの間に、信号機は一切なくなる。その代わりとして通行手形とも言えるスタフが手渡され、終点までは7駅あるものの、スタフを持つ1車両だけが往復できるという1日5往復の閑散路線となる。柿ヶ島の手前で九頭竜川を渡り、水力発電所があるような山の深い谷川となり、その先越美北線はトンネルが連続して、それほど景観を楽しめるわけではない。将来、長良鉄道越美南線と結ばれることは決してないだろうが、仮に結ばれたにしろ、あたりの深い山の様子から見て、トンネルだらけの路線となったはずである。いくら自分が鉄道好きだからといって、夏休み期間の旅行シーズンにも関わらず、これほどまでに乗客がまばらなこの路線を更に延長せよなどとは決して言えない。
終点の九頭竜湖駅からダムまでは直線距離でも3㎞ほどあって、残念ながら駅前から湖を眺めることは出来なかった。そのかわりここでも出迎えてくれるのは恐竜たちだった。マイカーで訪れる観光客の人々が、電動で動く恐竜たちを見て興じていた。


えちぜん鉄道三国芦原線

 越美北線を往復し、福井駅に戻ってくる頃には午後の日差しもだいぶ傾いて来た。次に目指すは三国港である。三国と言えばカニのブランド越前ガニのメッカだ。一匹一匹ごとに黄色いタグがつけられた越前ガニだが、なかでも三国港で水揚げされたものは皇室にも献上される最高峰の高級ガニで、三国出身の知人に言わせると、地元民も口にすることがないのだそうだ。地元民が口にするのは雌のセイコガニだそうだが、近年こちらの方も人気が急上昇している。いずれにせよ冬の味覚だから今回は食べられないものの、それはかえって良かったかもしれない。なまじシーズンにやって来たとしても、高級過ぎて鉄道のひとり旅のついでに食べるような御品ではない。
 ただしせっかく夕暮れ時に三国港まで行こうというのだから、早めの夕食に海鮮丼のようなものが食べたいなあと思いつつ、三国芦原線に乗車する。午前中に乗車した勝山永平寺線と同じデザインだが、こちらは利用者が多いのだろう、2両編成の電車である。福井口で勝山永平寺線と分かれると、えちぜん鉄道の車両基地を左に眺めつつ北陸線をまたぎ、福井鉄道との乗り換え駅田原町に着く。帰りはここから福井鉄道に乗り換えて福井駅に行く予定である。
 芦原温泉の最寄り駅、あわら湯のまち駅までは広い田園地帯をほぼ真っ直ぐに北上する。駅周辺にはホテルや旅館がたくさん集まっていて、美人の駅員さんが改札口でにこやかに迎えるこの鉄道の主要駅なのだが、芦原温泉駅を名乗らないのは、ここから4㌔も離れた所にJRの同名駅があるからだ。ただしJRで訪れる人はバスに乗り換えてここまでやって来なければならない。あくまでも本家はこちらである。
 さて、ここから終点の三国港は近い。進路を90度変え真西に向かい、九頭竜川の河口で日本海にぶつかる所に著名な港がある。私が訪れた時は夕方ということもあって、市場に人けはなく、ひっそりと静まりかえっていた。こうして、えちぜん鉄道全線を乗り終えることができたわけだが、祝杯をあげるべく下調べしていた店は臨時休業だった。夏の期間だけは昼ばかりでなく夕方も開店しているとネットには記されていたのに、残念である。これだけ閑散としているのだから、やはり臨時休業にしてしまったのだろう。少し歩き回って別の店を見つけ、そこで祝杯をあげた。

再び福井駅に戻って

福井駅に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。現在駅前は改良工事中で、一足先に出来上がっているのが恐竜コーナーである。暗闇の中でライトアップされた恐竜が、鳴き声をあげながら口を開け、首を動かしている。道行く人達が興味深げに集まってくる。福井は本気で恐竜王国になろうとしているようだ。
(2015/8/4乗車)

2015年7月23日木曜日

餃子と試練と豊橋鉄道

出掛ける理由

 この夏には四国全線制覇という野望を抱いてたのに、急に仕事が入ってそれが流れてしまった。新幹線に比べてかなりお得な早割航空券はキャンセル料がバカにならないが、知り合いの旅行業者に言わせると、航空会社はキャンセル料で稼げるからこそ格安航空券を売ることが出来るのだそうだ。私のようなドタキャンを強いられる者は、格好なカモなのだろう。一方で予約したホテルのキャンセル料は免れたものの、ネット上で取り消す時の思いは実に切ないものだ。悔しくて、このままで済ますわけにはいかなかった。
 そこで、せめて一泊の急拵えの計画を立ててみた。こちらは別の日にもう一泊の旅行と併せて青春18切符を活用しようという作戦だ。乗り尽くしていない地域がだいぶ西国に偏ってきたために、日帰りでは難しくなってきたのである。
 ところがそれすらも前日になって仕事が飛び込んできた。日頃の行いが余程悪いのだろう。途方に暮れていた時、ふと浜松餃子が食べたくなった。年間餃子消費量が宇都宮を抜いて、ついに日本一の餃子消費地に昇格したと先日知ったのであるが、無類の餃子好きの私には、餃子がなかなか食べられない事情がある。細君が大のニンニク嫌いなのである。鋭い嗅覚を持つ彼女からは、外で餃子を食べないようきつく申し渡されている。その代わり家庭ではニンニク抜きの、それこそ絶品の餃子を作ってくれるのだが、やはり外で餃子を肴にビールが飲みたい。お昼に食べれば、多少は誤魔化せるに違いない。もはや浜松に行くしかなかった。
 浜松あたりは、各駅停車で往復するギリギリの地点である。ただし、浜松近郊で乗っていない鉄道は存在しない。もう少し足を伸ばして豊橋まで行けないだろうか。早朝4時台に家を出れば、豊橋鉄道に完乗できることがわかった。その分昼食が15時頃になってしまうが、帰宅時間も遅いので臭いの方も何とかなるだろう。ネット上には予約必須とあったので、すぐに目的の店に電話を掛けた。「その時間なら大丈夫です」と言われたとき、餃子ごときで本当に予約が必要なのかと高を括っていただけに、期待も大きく膨らんだ。

天が与えた試練?

 東京駅を5時46分に発てば、二度乗り換えで10時54分には豊橋に着く。東京駅で大人気の「駅弁屋祭」の開店が5時半だから、朝食も列車内で済ませられる。沼津まではグリーン車にも乗れるので快適な旅が始まるはずだった。雨が降っているのは我慢しよう。昨日まで晴天が続き、明日からも晴天が続いて、今日だけが雨模様と天気予報が告げても、所詮雨男の自分だから仕方がない。他の旅行者が「私は雨女じゃないのに」と恨めしそうに同行者に語っていたが、まさか「僕が筋金入りの雨男です」とも言えないので、心の中で「ゴメンね」と謝るだけにしておいた。それなのに、まさか乗っていた列車が熱海で運転打ち切りになるとは思わなかった。大磯を過ぎたあたりで車内放送が入り、「ただ今沼津駅構内の沿線で火災が発生し、東海道線は熱海・沼津間で運転を見合わせております」などとアナウンスしている。
 <天>は何故にこの私に対して、かくも辛く当たるのか。それとも厄災が待っているから、旅を思いとどめよという啓示なのだろうか。国府津では御殿場線の接続がいいが、豊橋到着が11時37分になってしまい、その先のスケジュールが回らなくなる。豊橋鉄道の路面電車を諦めるか、浜松餃子を諦めるか、どちらの決断も出来ない相談だ。それに御殿場線の終着駅は沼津だから、こちらも運転打ち切りの可能性がある。車内放送で「沼津より先にお越しの方は御殿場線をご利用下さい」などと言ってもくれないのは、情報がないのか、そもそも各駅停車ばかりを乗り継ぐ客などいないと思っているのか、JR東海のことなど関係がないとJR東日本の車掌が思っているのかの、いずれかか、すべてだろう。
 今日は諦めて帰ろうかと思った時、小田原を新幹線が通過していった。気が進まないけれど熱海から新幹線に乗ってみるか。ちょうど4分の接続で、こだまが来る。走らなければならないなあ。でも、どこまで? 出来るだけ節約したい! いくら掛かるのだろう。
 青春18切符の場合、一日あたり2,370円で乗り放題となる。乗れるのは快速までなので、新幹線に乗れば特急料金の他に運賃も必要となる。安くはないだろうから、チョイ乗りにしたい。しかしながら、次の三島は沼津の手前で論外、新富士は在来線の富士まで直線距離で1㌔半もある。路面電車と餃子のためには、選択肢は静岡しかなかった。
 熱海駅新幹線改札口脇の切符売り場には既に長蛇の列が出来ていた。途方に暮れている私に駅員が「自由席ならこの券を持って下車駅で清算して下さい」と告げて熱海駅乗車証明書をくれた。有り難い。ホームに駆け上がった時には既に新大阪行きの「こだま633号」はドアが開いて客がおりてくるところだった。車内は混雑したので、デッキで過ごすことにした。静岡までは38分も掛かる。三島駅で2本の「のぞみ」に抜かれ、新富士駅でも2本、合計4列車に抜かれるからである。「こだま」は割に合わないなあと改めて思う。それでいて静岡駅では3,050円も支払った。これは今日という日を無駄にしないための特別料金であると思うことにした。在来線で熱海から静岡までは1時間15分から20分掛かるが、わずかな時間短縮に特急料金1,730円は少々高すぎる。普段だったら決して選ばない選択肢だ。それでも多少の新幹線効果はあって、豊橋には予定より30分早い10時20分に到着した。

豊橋鉄道渥美線

 渥美線の終着駅、三河田原駅は安藤忠雄設計の洒落た駅舎だ。市制10周年を記念して建築されたという。駅前のロータリー、交番、公衆トイレすべてが楕円形をしていてトータルにデザインされている。周辺には住宅地だけが広がっていることもあって、すっきりとした素敵な環境だ。
 ここから渥美半島の突端、伊良湖岬まではバスが通じていて、フェリーに乗り継げば鳥羽に渡ることが出来る観光拠点なのだが、  ほとんどのバスは豊橋発なので、伊良湖観光のためにわざわざこの電車を利用する人はあまりいそうにない。もっぱら地元密着型の鉄道であって、新豊橋から乗車したたくさんの人もそのほとんどが途中の大清水までに降りてしまった。終点まで乗り通した人は5〜6人である。
 渥美線の歴史は、1924(大正13)年の渥美電鉄開業に遡る。渥美半島を縦断する鉄道として構想されたが、開業時は現在の高師から三河田原までの間で運行が始まった。その後、市街地の新豊橋まで進出したり、黒川原まで延長されたり、名古屋鉄道の傘下となったりした挙げ句、更に国鉄線になるはずでもあったが、結局戦争の悪化ですべてが泡と消え、三河田原・黒川原間は不要不急路線として休止となってしまった。そして1954(昭和29)年、新豊橋・三河田原間が豊橋鉄道に譲渡されて現在に至る。駅前広場の片隅には、歴史に翻弄された渥美線の様子が記されたプレートと当時の車止めが展示されている。土地の人達の渥美半島縦断鉄道への思いが伝わってくる。
 18㎞ほどの路線には16の駅があり、全線電化単線のために途中7箇所に交換設備がある。そのうちの5カ所で列車交換があったが、その列車がユニークなのだ。すべて異なるデザインが施され、違ったヘッドマークが備えられている。カラフルトレインと命名された可愛らしい車両は、もとは全て東急線で使われたものである。順に紹介しよう。

 まずは、「桜号」。この電車で新豊橋と三河田原を往復した。写真は三河田原駅にて。


 新豊橋に向けて出発すると最初の駅が神戸(かんべ)。ここでいきなり列車交換が行われる。「菊号」である。渥美半島は電照菊で有名なところであり、沿線にはは電照菊用と思われるハウスが沢山ある。電灯の光を当てて花の開花時期を遅らせる電照菊については、小学校の時社会科の時間に教育テレビの番組で教わった。ここはそのメッカなのだ。


 田原の市街地から遠ざかって、田畑が広がる郊外を進んでいくと杉山駅に着く。そこで待っていたのは「つつじ号」だ。豊橋市の花に指定されているのだそうだ。なお、ここの転轍機はスプリング式が採用されていて、「つつじ号」の方は無理矢理線路を押し開いてこちらにやって来る。


 大清水まででほぼ田園地帯は終わり、ここからは郊外住宅地となる。下り電車を待っているとやってきたのが「ばら号」である。田原町のバラ生産高は全国屈指なのだそうだ。


 芦原駅にやってきたのは「はまぼう号」。はまぼうは南国の花で、自生北限地が田原市堀切町にあることから、このカラフルトレインにも採用された。ちなみにこの自生地は愛知県天然記念物に指定されているそうだ。入り江に大群落をつくることが多いらしく、堀切町の自生地は、伊良湖岬の近くにある。
 

 正面に新幹線の高架が見える小池駅までやって来た。ここで交換するのが「菖蒲号」。豊橋市や田原市の公園にも梅雨の季節は菖蒲の花が咲く。


 新豊橋に到着するとそこで待っていたのは「菜の花号」である。田原市の花に指定されているそうだ。

 今回すれ違わなかった「しでこぶし号」「椿号」「ひまわり号」と併せて十色の花を身に纏った渥美線の電車を見ていると、払い下げられる前の東急電鉄に所属していた頃よりも、幸せに余生を送っている感じがする。社員の愛を感じる鉄道会社だ。

豊橋鉄道市内線

 最近では「ほっトラム」の愛称でLRV(超低床車両)が運行され、全国から注目を集めている路面電車が豊鉄市内線だ。路線は駅前から赤岩口への本線と井原・運動公園前の支線からなる。まずは電停の名称が豪快である。ズバリ「駅前」。この堂々たる普通名詞をなんのためらいもなく電停の名称にするところは他にはない。だからネットの路線探索で駅前と打てば、間違いなく豊鉄市内線の駅前が出てくる。これって、実に痛快ではないか。一方の「運動公園前」は青森県の弘南鉄道にも存在する。 
 豊橋の街は道幅が広く、路面電車と自動車が共存している。道の中央を車に邪魔されることなく走るので、時間も正確だ。日中は7分間隔で運行しているし一律150円という低運賃で頑張っている。町並みに溶け込む美しい電柱も必見だ。LRVが走るくらいだから、電停の嵩上げは出来ないかわりに、新しい車両にはすべて格納式のステップが付いていて、利用者に優しい構造となっている。
 市内線のほとんどは複線なのだが、終点に近い競輪場前からは単線となり、見どころが多くなる。電車が競輪場前に近づくと、一旦停止をして駅前行が発車するのを待つ。回りの車は動いていても、線路が合流する先の電停脇に表示された信号は、進入停止の×印が点灯している。よく見ると、合流した線路が電停の手前で左に分岐している。
 市内線の車庫は終点の赤岩口にあるのだが、実は競輪場脇にも2両分の引き込み線が敷かれているのである。ラッシュ時の増発用なのだそうだ。商店街の駐車場の脇に路面電車が車と並んで置かれている感じだ。
 競輪場前から一駅先の井原までの単線区間が、もっとも電車の混み合う場所である。井原から運動場前に支線が分かれるため、日中は14分間隔で交互にやって来る。しかも上下双方向だから3分30秒ごとに通過することになる。これだけで限界だからラッシュ時には引き込み線の2両が力を発揮するのも頷ける。
 さて、その井原であるが、ここがまた有名なスポットなのだ。日本の鉄道で最急カーブが存在する。なんと半径11㍍のカーブがあるのだ。「全日本鉄道路線ぐねぐねランキング」によれば、立山砂防工事専用軌道の半径7㍍が1番ということだが、普通に乗れる鉄道としてはここが一番である。路面電車は鉄道ではなく軌道だという議論はあるにしても。
 井原の交差点に立ってみると、まず余りの急カーブに驚かされる。そこを通過する電車はさぞや金属音を立てながら車輪を軋ませて進むのだろうな、と思いきや、最新式の台車を目一杯車体からはみ出させながら、難なく通過してしまった。拍子抜けするくらいスムースに。路面電車の技術は確実に高まっていると感じる一瞬だった。
 豊鉄はいいなあ、今日は無理してここまでやって来てよかったなあと思い始めたとき、ふとまだ肝心の電車に出会っていないことに気付いた。そろそろすれ違ってもいい頃ではないか。今話題のLVR「ほっトラム」である。ネーミングにも市民に親しまれたいと言う思いが感じられる。豊鉄では、納涼ビール電車や花電車はもちろんのこと、冬にうれしい「おでんしゃ」まである。暖まりそうだなとは思うが、今は心が温まる「ほっトラム」と出会いたい。しかしここまで出会うことはなかった。ということは終点の赤岩口にある車庫に停まっているはずである。
 井原から赤岩口まで歩き、そして車庫の奥底に停められている車両を恨めしく眺めることになった。ここからは全容を拝むことは出来ない。乗客の少ない日中は出番が少ないのだろう。結局、乗車はおろか対面すらもお預けとなった。しかし、嫌な気は全くしなかった。今日は十分に豊橋鉄道の魅力に触れることが出来たからだ。そのうち機会があったら、「おでんしゃ」にでも乗りに来よう。結局最後は食行動に走るのが私の最大の欠点であると苦笑せずにはいられなかった。

さて、餃子は…

 豊橋を後にして、新浜松から遠州鉄道に乗り継ぎ、目的地に着いたのは15時少し前。住宅地の真ん中に、長蛇の列もなく、何の飾り気もない店があった。ここが浜松餃子ランキング第2位を誇る「むつ菊」だった。のれんが掛かっていない! まずいなあと思って、引き戸を見ると「本日は予約の方以外の餃子は売り切れました」と書かれた紙が貼ってあった。良かった! このブログは鉄道の旅を記すためのものだから、餃子に関するコメントは控える。そのかわりに写真を掲載しておく。それを見るだけで、おそらく私が大満足でその店を後にしたことがおわかりになるに違いない。最後に情報を一つ、この店にはお酒以外には餃子しかありません。餃子だけを食べる店です。
(2015/7/23乗車)


2015年7月1日水曜日

被災地気仙沼線を訪ねて

仙石東北ラインで石巻へ

 今日から7月だというのに冷たい小糠雨が降る仙台駅4番線ホーム。そこに静かに滑り込んできた列車は、ふつうの新型電車となんら変わるところはなかった。しかし屋根にはパンタグラフが付いていない。最新型のハイブリッドトレインだ。
パンタグラフのない「電車」
 ディーゼル発電機で電気を生み出し、モーターを回して推進するばかりでなく、制動時にはモーターを発電機に変えて電気を蓄電池に溜めることのできる優れものだ。今回の旅の目的は、この列車で復旧された仙石線を通って石巻まで行き、南三陸の気仙沼線を見に行くことだ。
 ハイブリッドトレインHB-E210系は、全く音も立てず滑らかに走り出した。その感覚は電車そのものだが、しばらくするとお馴染みのディーゼルエンジンが唸り出し、ぐいぐいと速度を増していく。このあたりは自動車のハイブリッドカーと同じ感覚だ。しかし自動車と違って、鉄道は一定速度に達すると動力を切っても惰性で走り続けることができる。これを惰行というが、その間ディーゼルエンジンはアイドリングすらしないので、走行音だけが響く電車の静寂に戻り、なかなか快適な乗り心地だ。
 仙石東北ラインは塩釜までは東北本線を走り、その先で仙石線に乗り入れ、宮城県第二の都市石巻までを短時間で結ぶ、この5月に誕生したばかりの災害復興路線である。東北本線も仙石線も共に電化されているのに、それを結ぶ仙石東北ラインがハイブリッドを採用したのにはもちろん訳がある。交流電化された東北本線と直流電化の仙石線とを、そのまま繋げることはできない。長い間仙石線は孤立していたのである。そこで、東北本線と仙石線が併走する松島海岸付近に非電化の渡り線を新たに造り、そこを通過させるために、最新のディーゼルカーを導入したということだ。
 ここを通過するのを一目見ようと多くの人が運転台後ろの特等席に集まってきた。最近は女性の鉄道ファンも大分多くなった。ビデオ撮影する人や写真撮影する人など、皆思い思いに楽しんでいる。私は心に焼き付けるように、じっと運転台の向こうを眺め続ける。列車は速度を落として下り線から一旦上り線に移り、更に分岐して仙石線に近づいていく。東北本線を離れた所で一旦停止する。松島海岸・石巻間の仙石線は単線なので、高城町からやってくるあおば通行普通電車の通過を待つ。信号が青に変わって、仙石線への転線が完了する。渡り線を過ぎればすぐのところに高城町がある。
009・003・001
が出迎える石巻
 2013年に訪れた時はここが終点で、その先陸前小野までが震災による不通区間だった。この5月に完全復旧した。復旧にあたっては、津波の影響を受けにくい松島湾内の海岸線沿いは盛り土をして海面よりも高い所を走り、太平洋とそのまま繋がって津波に晒されやすい仙台湾に面した野蒜付近は、ルートそのものを高台に移すという大工事をしたのである。盛り土区間は奥松島がよりよく見渡せる景勝区間となったはずだが、本日はあいにくの雨模様で、あたりは出来の悪い水墨画の世界だ。海岸から離れて、丘陵地帯に入ると真新しい野蒜駅があった。駅周辺は造成だけが終わった未成の町で、今後多くの人が戻ってくるのを期待するばかりだ。そこを越えると、陸前小野までは長い高架区間となる。ここもガランとしている。特別快速列車は仙台からの途中、塩釜・高城町・矢本の3駅だけに停まって、あっという間にサイボーグ達が出迎える石巻に着いた。

復旧した石巻線・別の道を歩む気仙沼線

復旧した女川駅
 石巻から女川までの石巻線16.8㎞もこの5月に復旧している。ここで従来のディーゼルカーに乗り換える。雨は止みそうになく景色は期待できない。石巻を出るとすぐに旧北上川を渡り、更に進むとまるで湖のような万石浦を右に見つつ、トンネルを抜けれと終点の女川に着いてしまった。真新しいホームと駅舎、新しく山を削って造成された高台の区画。綺麗だけれど、生活感の乏しい風景なのは、この土地に戻って来た人が少ないからだろう。しかし、鉄道という生活基盤が復元され、石巻を通して仙台との繋がりも密になったのだから、今後の発展に期待したところだ。
気仙沼線0㌔ポスト 前谷地駅にて
 乗ってきた列車でそのまま戻り、石巻を越えて、その先の前谷地から気仙沼線に乗り継いだ。前谷地は気仙沼線の起点である。
 仙石線や石巻線と異なり、気仙沼線の将来は微妙だ。前谷地・気仙沼間72.8㎞のうち、鉄道が走っているのは柳津までのわずか17.5㎞に過ぎない。その先はBRT(Bus Rapid Transit)が気仙沼までを結んでいる。前谷地を出た列車(と言っても1両編成だが)は、三つ四つの無人駅に停車した後、素晴らしく立派な鉄橋で大河を渡る。北上川である。この地点で北上川は旧北上川と分かれて進路を東に変え、太平洋に直接流れていく。一方の旧北上川は先程通ってきた石巻に向かうのである。東北地方を代表する大河であるだけに、気仙沼線の鉄橋は実に堂々としている。そこを1両編成のディーゼルカーがトコトコと渡っていく。渡りきるとすぐ終点の柳津に着いた。
草に覆われた線路
 柳津駅の跨線橋からは、いつまでも赤く点灯したままの信号機と雑草に覆われて行き来のなくなった線路が見える。到着した列車は、すぐに前谷地に向けて出発してしまった。
 ここからはバスに乗り換えるのだが、このBRTは4日前の6月27日から前谷地を起点とするようになった。微妙だというのはまさにこのことで、おそらくJR東日本は将来、前谷地・柳津の列車運行を取りやめる積もりなのだろう。
専用道入口に設置され
た信号機。     
気仙沼駅にて
 ここのBRTの特徴は、出来るだけ気仙沼線の線路跡地を利用して、渋滞や信号待ちのないスピーディなバス運行を可能にしたことだ。ただ、まだ多くの場所では一般道を通行している。防災庁舎を残すことで決着した南三陸町のように、津波の被害が甚大だった地域は、線路そのものが押し流されて跡形もなくなってしまったからだ。山がちで津波の影響がなかった地域では、かつての単線鉄道区間が舗装道路にかわって、渋滞のない専用道をバスはスピーディに進んでいく。
BRTが接近すると感知
中のサインが表示され
る。この先BRTが走行
していなければ、信号
は青に変わる。   
 トンネル区間では、車体を擦るのではないかと心配になるほど、ハンドルさばきが難しそうだ。一般道に出入りするところには、遮断機とセンサー付きの信号機が設置されていて、これによって閉塞区間の制御をしていることがわかる。バスは鉄道と違ってすぐに停車することが可能だから、正面衝突の危険性は極めて少ないが、単線を利用した専用道だけに行き違いが出来ないので、閉塞区間をつくって区切り、バスの進入をコントロールする必要がある。そこで活躍するのが車両感応式信号機なのである。
保存が決まった防災庁舎

 さて、あの痛々しい姿の防災庁舎は、かつては多くの人々が暮らした志津川地区にあるが、周辺は現在急ピッチに復興工事が進んでいた。その一画にある「南三陸さんさん商店街」は出来て3年ほど経つ仮設商店街だ。現在32軒の事業者が店を営んでいるという。そこに併設されるようにBRTの志津川駅があって、何人かの人々が乗り降りした。地域の拠点であることがよくわかる。
破壊された橋梁の脇を通る
 バスは一般道と専用道を出たり入ったりとせわしない。それは多くの箇所で線路の基盤となる道床そのものが流されてしまったからだ。また橋脚そのものが破壊されてしまったところも多い。このような箇所は、再建はおろか撤去そのものが大変で後回しにされているのだろう。
単線区間でバスが交換する。
 2010年の時刻表によれば、柳津から気仙沼までは1時間22分掛かっていたが、震災後BRTに変わってからは同区間が1時間56分掛かるようになった。30分余計にかかるようにはなったものの、バスとしては十分健闘しているといえるだろう。今後も専用道区間の整備は進みそうなので、その差はより縮まると思われる。
ユニバーサルデザイン例。
鉄道とBRTが一体化している。
 震災直後は鉄道の復旧に拘っていた人達も、最近ではBRTに理解を示すようになってきたという。正確な運行、本数の増大、GPS等を利用した接近表示システム、地域に暮らす人々への説明努力等々がその大きな要因になっていると思われる。気仙沼駅などはホームの両側にBRTと鉄道を区別せず配置して、ユニバーサルな駅として新しい駅のあり方を提示している。こうしてみると、トロリーバスが鉄道扱いなのとそれほど違わない感じもしてくる。BRTに対する認識が大いに深まった旅となった。
(2015/7/1乗車)

2015年4月2日木曜日

ぐるっと紀伊半島ひとめぐり

巨大な半島

 紀伊半島に行って来ますと知人に告げたら、熊野古道を歩かれるのですかと尋ねられた。いや、鉄道に乗るための旅なので今回はそこまでは行けませんと答えると、気の毒そうな顔をされる。いつまで経っても列車に乗るだけの旅を理解する人はいそうもない。
前日夜に大阪入り

 そんな私だって、時間に都合がつけば旅の途中で観光することもある。しかしながら紀伊半島は実に大きく、日中、特急を乗り継いで大阪・名古屋間を乗り通す方法はわずか3通りしかない。名古屋からならば8時05分発と10時01分発の特急南紀が利用でき、10時の列車に乗れば新大阪には18時50分に着く。厳密には日没後の到着だが、ライトアップされた通天閣が楽しめる。
 しかし以前から紀伊半島をめぐるなら出発は大阪からと決めていた。午前中は東から降り注ぐ日の光に輝く大阪湾や紀州灘を眺め、午後は西から射す光に照らされた熊野灘を眺めれば、一日中順光で綺麗な景色が眺められるというもの。一方名古屋から出発すると終日逆光に悩まされることになる。ということで新大阪7時53分発の特急くろしお1号を選んだ。嬉しいことにこの列車はオーシャンアロー車両で運転されると時刻表に記されている。奮発して、展望グリーン車の海側席を確保することにした。
 今日の旅は、観光する暇もないくらい、距離が長く時間のかかるものとなる。大阪の天王寺から名古屋までは470.8㎞もあり、それは東京から名古屋・米原を越えて安土までの距離に匹敵する。ちなみに大阪・名古屋間を普通に東海道本線で行けば190.4㎞なので、距離にして2倍以上、しかもカーブの多いローカル線だから、車窓愛好家にとってはいやが上にも期待は高まる。熊野古道などまたの機会で構わない!
 ということで、オーシャンアロー1号に乗るために、前日夕刻、大阪に入った。大阪に来たからには二度漬け禁止の串かつが食べたいので、ビリケンさんが祀られる通天閣に出掛け、ビリケン神社斜前の店に入る。今日は一日中雨降りだったが、予報によると明日は晴れ渡るらしい。旅の成功を祈念しつつ一人祝杯をあげた。

オーシャンアロー くろしお1号に乗る

 新大阪駅11番線は、関空や南紀方面へ向かう特急列車の専用ホームである。和歌山からのくろしお2号がそのまま折り返し新宮行くろしお1号となる。水色と白が鮮やかなオーシャンアローは、先の尖った先頭車両が展望グリーン車となっている。鮫に似ているなと思ったら、実際はイルカをイメージしてデザインされたものだそうだ。近鉄のアーバンライナーにも似ているが、それもそのはずで、車内に表示されたプレートには近畿車輛製造とあった。ゆったりした3列シートの、海側一人席に腰を下ろし、ウィスキーを詰めたスキットルを窓枠に置いて発車を待つ。準備万端、優雅な旅が始まろうとしていた。

運転台と車内とは一面のガラス
で仕切られているため、前方の
眺望も抜群。        

 この列車が走る新大阪・天王寺間は実に見どころが多い。通勤電車では通ることの出来ない梅田貨物線を使って関空や南紀と結んでいるため、この区間はいわば特急列車の専用線となっている。三複線の淀川鉄橋を渡ると、大阪駅には向かわずに東海道本線と別れ、阪急線の高架手前で単線となり、現在は更地となった広大な旧梅田貨物駅の脇を進んでいく。右手には「未来の凱旋門」とも呼ばれる梅田スカイビルが聳え立ち、左手には更地の向こう側に大阪駅のシンボルとなった大屋根が見える。とても近未来的な風景で、大阪という街のエネルギーが感じられる。列車は東海道線の下をくぐって大阪環状線の高架に寄り添いながら地上をゆっくり進んでいく。福島駅の下には渋滞で悪名高き、なにわ筋の踏切がある。そこを過ぎれば次第に高度を上げて大阪環状線と合流する。
 ひっきりなしに電車が行き交う大阪環状線には西九条駅で乗り入れる。西九条は二面3線の駅で、ユニバーサルシティーのある桜島線への分岐駅でもある。列車は西九条駅に近づき、梅田貨物線が空くのを待っている新大阪行くろしお4号を眺めながら、まず環状線外回りの線路に転線し、さらに分岐をしながら通勤客で賑わう二面あるホームの間をゆっくりと通過していく。仕事に向かう人々の複雑な思いが籠もる視線が突き刺さる。こんなときはグリーン席でゆったりしているからといって優越感など感じるどころではなく、罪悪感と気恥ずかしさの合わさった思いがするものだ。ホームを抜けてもう一度転線して、大阪環状線内回りに入る。この間、多くの列車が信号待ちになっているはずで、実に申し訳ない。
 川の街大阪らしくいくつかのトラス橋を渡る。それはまるで昭和の産業遺産であるかのように時代がかっている。そうかと思えば、UFOのような京セラドームがビルの密集した街中に現れる。それを過ぎれば天王寺は近く、天を衝くかのようなあべのハルカスが立ちはだかる。それに比べると、新世界の通天閣はレトロな雰囲気が漂う控えめなタワーに見えてしまう。ど派手で「こてこて」な通天閣も、朝陽の中ではその本性を隠しており、横浜のマリンタワーのようにおとなしいものである。新旧聖俗入り混じった大阪は、まさにワンダーランドだ。

天王寺界隈

 鉄道という視点で見ると、大阪は東京ではなくロンドンに似ている。それ程広くない地域に鉄道が数多く集まり、頭端式(行き止まり)の終着駅が多数存在する。ホームが櫛形になっているので、到着した列車の乗客は、行き止まりの先の改札口に向かい、そのまま街中へ出ていく。旅立つときはその逆で、鉄道を利用する人の流れが二方向に統一されていて美しい。終着駅は始発駅、旅の終わりは旅の始まり。どことなく人生を感じさせる櫛形の駅だからこそ、旅情も掻き立てられるに違いない。
 東京では上野駅に風情を感じる人が多いのも、地上駅が行き止まりだからである。高架駅の方は中間駅なので、こちらに特別な思いを感じる人はいないだろう。天王寺駅は上野駅に似ている。ここは大阪環状線・関西本線・阪和線の分岐駅でありながら、そのうち阪和線だけが頭端式の駅となっているのだ。
 ただし和歌山方面からの優等列車は大阪環状線を通って大阪まで直通するので、櫛形ホームは使われない。また奈良方面からの関西本線は終点がJR難波のため天王寺では折り返さない。ということで天王寺・大阪間の大阪環状線は様々な車両で溢れかえっている。入り組んだ線路、老朽化した施設を見ていると、ここでも、重厚なロンドンを感じてしまう。


阪和線から紀勢本線へ
行き先表示に羽衣線の文字


 阪和線は全線複線の近郊路線である。途中、鳳で支線の通称羽衣線が分岐する。わずか一駅1.7㎞の盲腸線で、乗り尽くしを目指す者には手強い相手だ。今回の旅では阪和線完乗にも拘っていたので、昨日のうちに南海電鉄で羽衣までやって来て、歩いてすぐの東羽衣から鳳までを乗車済みにしておいた。そこを今日はあっという間に通り過ぎる。
 阪和線の多くの駅はホームが相対式となっていて、通過列車は減速する必要がない。南海本線と競合するJRとしては、競争に勝ち抜くにはスピードダウンは避けなければならないのだろう。尼崎の悲劇は繰り返されてはならないが、関西の鉄道の懸命な速度競争が乗客の利便性を高めていることは間違いない。
 家がまばらになり、ゆったりとした町並みの上に青空が広がってきた。関空への分岐地点である日根野駅に近づく。大阪湾に浮かぶ関西国際空港、本土と結ぶ橋、りんくうタウン、離着陸する航空機が見えてくる。
 和歌山山脈に向かって上り坂にかかり、雄ノ山トンネルを抜けると紀ノ川沿いに開けた和歌山の町が見えてきた。25‰の急勾配で駆け下りる列車の車窓には、温暖な気候を活かした蜜柑畑が展開している。快晴の空の下、和歌山は光に溢れていた。駅のホームにはJRの職員が「和歌山へようこそ」と書かれた横断幕を持って歓迎している。普段接客をしていない運転手や車掌が中心のようで、慣れない仕事に恥ずかしそうにしていたが、列車が走り出すと一斉に手を振って見送ってくれた。
串本、古座・田原間の海岸

 和歌山は紀伊半島の入り口である。ここから伊勢国亀山までが紀勢本線で、新宮までは直流電化されているものの、カーブの多いローカル幹線であり、このオーシャンアローは曲線に強い振り子車両だ。ただオーシャンアローと名付けられてはいるものの、意外に海岸を走ることは少なく、山や谷を迂回しながら走っているので、まるで山岳路線のようだ。時折海が見える。
 沿線には御坊や紀伊田辺、白浜といった有名観光地が数多く点在する。紀伊半島の南端に位置する串本付近になると、ようやく紀州灘の海岸沿いを走ることが多くなるが、断崖絶壁などはなく穏やかな海岸線が続いている。しかしここは台風銀座で有名な潮岬も近い。今は穏やかな風景も一変して大自然の脅威に晒されることになるのだろう。
 串本からは熊野灘に入り、列車は北上を始める。棕櫚の木が植えられていて南国情緒が漂っている。紀伊勝浦にはたくさんの観光ホテルが建っていて、沿線随一の観光地となっている。紀伊勝浦には、JR東海の特急南紀が名古屋から乗り入れている。今回の乗り尽くしの旅では紀伊勝浦と新宮のどちらでも乗り継ぐことが出来たが、折角展望グリーン車に乗ったのだから最後まで堪能しようと、少し先の終点新宮まで行くことにした。ところがこれが大失敗であった。

新宮という町
南国情緒は豊かだけれど

 4時間16分の長旅を終えて南国新宮に着いたのは11時49分、ちょうど昼時であった。しかし人影はまばらで、駅構内にも駅前にも開いているレストラン・食堂は一軒もなかった。あるのはコーヒーショップと居酒屋兼用のラーメン屋だけだ。駅売店には駅弁も置いてない。この土地らしい新鮮な海鮮料理を期待してきたが、唯一見つけた鮨屋は今日から三連休である。商店街までは往復する時間はなく、仕方なくラーメン屋で済ますことにした。ひょっとしたら海鮮ラーメンがあるかもしれない。カウンターに坐ると様々な海産物が酒の肴として表示されている。しかしランチタイムはラーメンのみだという。およそ観光客を意識しない町であった。JR東海との接続駅であるにも関わらず、特急南紀が紀伊勝浦まで乗り入れている意味が漸くわかった。新宮はその名の通り、熊野大社への玄関口であり、観光客の多くが素通りする町だった。

非電化区間に突入
 
矢になっていないオーシャンアロー

 50分ほどで特急ワイドビュー南紀6号がやって来る。地下道を渡ってホームに立った。向かい側には先程乗ってきたオーシャンアローが停まっている。大阪側の先頭車両は丸みをおびた顔で、とてもアローとは言い難かったが、それはそれで愛嬌がある。この列車は12時45分の折り返しくろしお22号となって新大阪まで戻っていく。今は紀伊勝浦からの交換列車を待っているところだ。
非貫通型の先頭車両

 その南紀6号がディーゼル音も高らかにやって来た。この先、JR東海管内の紀勢本線は全線非電化の単線路線だ。特急南紀に使用されているキハ85系は1990年前後に造られたJR東海の特急型車両で、スマートな外観と強力なエンジン搭載し電車並みの速力が自慢の、高山本線や紀勢本線で活躍する観光特急である。先頭車両は非貫通形と貫通形の2種類あるが、やはり人気なのは非貫通形であろう。4両編成の南紀は非貫通形を先頭にやってきた。
連結可能な貫通型車両

 列車は紀伊勝浦からの乗客でほぼ満席状態だった。それに比べると新宮からの乗客はそれほど多くはない。予め海側の指定席を確保していたので、列車の写真を撮ってからゆっくりと車内に向かう。席は通路から一段上がったややハイデッカータイプのものだった。
 新宮を12時39分に発車し、短いトンネルを抜けるとすぐに熊野川に差し掛かり、三重県に入る。参宮線との分岐駅である多岐までの間は、紀勢本線で最も閑散とした区間であり、一日に普通定期列車が8本、特急列車が4本というローカル幹線である。それだけに見どころも多い。更に嬉しいことにオーシャンアローにはなかった車内販売のサービスが回ってきた。今特に欲しいものはなかったけれども、やはり特急に乗ったからには車内販売がないともの寂しい。
新鹿湾海水浴場付近

 熊野市までは七里御浜というなだらかな浜のそばを走る。ここは「21世紀に残したい日本の浜百選」に選ばれた景勝地で、白砂青松の穏やかな浜には産卵のためアオウミガメも上陸するという。次第に空が翳ってきたこともあって、先程までの南国情緒はすでになくなり、日本の浜の原風景とでもいえそうな風景が続いている。熊野市を越えると、入り江が入り組んだ漁村が続く。列車は軽快に飛ばして新鹿湾をめぐっていく。
 天気が悪くなるのも考えてみれば当然だ。かつて日本一の降水量を誇った(?)尾鷲はもう間近である。トンネルを抜ければ入り江の漁村という風景を幾度も繰り返す。
 紀伊長島は志摩半島の付け根にあたり、ここから紀勢本線は山地へと分け入っていく。前方には標高484㍍の大内山が立ちはだかっており、そこを荷坂トンネル(1914㍍)が貫いている。トンネル入り口はおよそ160㍍地点にあるため、海岸から25‰の急勾配だけでは足りず、いくつものトンネルとオメガループで迂回しながら登っていく。進行左の車窓からは先程通ってきた長島の町や線路が見えるようだが、通路越しに見る風景では詳細はわからない。車窓絶景100選に選ばれるほどだから、またここへは訪れる必要がありそうだ。
 力強いエンジン音がにわかに小さくなって、列車はゆっくりとなだらかな坂を下っていく。風景はどこでも見るような山里の風情である。山がなだらかになり、耕地が広がって、やがて国道沿いにお馴染みの大型店などが姿を現す頃には住宅も増えてくる。右から参宮線の線路が近づいてきた。列車は多気に到着だ。
 
多岐から名古屋へ

 紀勢本線は多気から松阪、三重の県庁所在地である津を通って、名古屋には向かわずに亀山までを結んでいる。もともとは伊勢神宮参拝の関西方面からの列車を通すことを目的に造られたため、亀山で関西本線と合流する際も、奈良方面に向いており、名古屋へ行くにはスイッチバックしなくてはならない。伊勢詣でのための特別列車が不要となった今では、亀山・津間はローカル支線と言ってよい。
津駅1番線は伊勢鉄道が発着

 三重県にとっては名古屋方面へのアクセスが重要であったため、1970年代になってから四日市の外れにある河原田と津とを結ぶ国鉄伊勢線が建設された。ところが名古屋・津・伊勢間には近鉄特急が頻繁に走り、地元の足としても大いに利用されていたために、国鉄は非電化の伊勢線に列車をほとんど走らせなかった。その結果、地元民からは顧みられず、超赤字路線となってしまい、わずか14年で第3セクター伊勢鉄道として切り離されてしまった。伊勢鉄道は非電化ながら高規格で造られた鉄道のため、現在はJR東海の特急南紀や快速みえが頻繁に通るようになった。ほぼ全線が高架で複線区間もあり、単線区間にもすでに複線用地が確保されている。途中には鈴鹿サーキットの最寄り駅、鈴鹿サーキット稲生がある。
 鳥羽と名古屋との間は近鉄線が通っているため、財政赤字に苦しんでいた国鉄としては到底勝ち目がないと匙を投げていたのだろうが、現在この区間を走る快速みえの乗車率は決して低くはなく、特急南紀にも大勢の乗客が乗っていることからもわかるように、伊勢線の第3セクター化は誤りであったと言う識者も多い。駅に進入するたびに減速を繰り返さなければならない単線ばかりを走る特急南紀が、高速対応の伊勢鉄道線にはいると軽快に走行するのを実際に体験してみると、やはり何とかならなかったのかと思ってしまう。南紀やみえに乗車する際には、伊勢鉄道経由の連絡切符が必要である。車内検札では、その点を丹念に確認していた。一般の乗客、特に旅行者には実にわかりにくい仕組みである。
河原田駅関西本線ホーム
右上に伊勢鉄道線ホームの屋根が
見える。           

 河原田で関西本線と合流する。ここから名古屋までは電化区間となる。電化区間は亀山まで延びており、亀山・名古屋間には近郊型の通勤電車が走っている。ただ、路線の多くは単線のままなので、併走する近鉄線には見劣りする。駅間で快調に飛ばす特急南紀も、しばしば列車交換のために運転停車を余儀なくされる。この間に近鉄特急は先に名古屋につくのだろうなと思う。しかし、それでもワイドビュー南紀の旅は快適だ。それは人里離れた山紫水明の地を疾走する特急気動車の魅力を存分に味わえるからである。大都市名古屋に近づいても複線区間がほとんどない関西本線だが、だからこそ余計旅情を掻き立ててくれるのかもしれない。ワイドビュー南紀6号は、新宮からの206.8㎞を3時間26分かけて走り抜け、16時10分、定刻どおり名古屋駅12番線ホームに到着した。
(2015/4/2乗車)