2015年1月5日月曜日

懐かしの山陰本線 前編

偉大なるローカル線

 京都から下関の一つ手前の幡生まで総延長673.8㌔の堂々たるローカル線、それが山陰本線である。鉄道紀行作家宮脇俊三は名作『にっぽん最長ローカル列車の旅』の中で、同行の編集者藍孝夫氏の「幹線なんでしょう」という質問に対して「名目上は幹線でも、まあローカル線を長くしたようなもので、いわば偉大なるローカル線ってところですな」と実にうまいことをいう。だから京都から下関を通しで走る列車はひとつもなく、そもそも全線の66%が非電化単線という、都会人にとってはまさに想定外の路線と言っていい。通しで走らせたくても(まあJRはそんな効率の悪いサービスは嫌がるだろうけれど)、都会人にとって鉄道に乗るといえば電車に乗るというくらい電車が当たり前の世の中にあって、電気が来ていない線路が合わせて444.6㌔もあるために、通し運転は所詮夢のまた夢なのである。
 非電化単線にはそこだけでしか味わえない風情がある。もともと鉄道は自動車道と違って環境負荷が低く、道幅を狭くすることが出来る。それが単線ともなれば、走行中擦れ違うこともなく、深山幽谷であろうと海蝕崖上であろうと、自然に溶け込みながら線路を敷くことが出来る。近年は長大トンネルで景色の楽しめない路線が増えたが、山陰本線はまさに時代遅れの非電化単線ある。文部省唱歌の『汽車』にある「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと」そのままの風景が楽しめる。できるだけトンネルを短くしたい時代に造られた山陰本線は、丁寧に等高線を辿りながら、ひとけのない入り江をめぐり、断崖をかすめ、漁で生計をたてる人々の集落を繋ぎながら日本海を堪能できる、いまどき珍しい日本の原風景を楽しめる鉄道なのだ。

    注)門司5時22分発、福知山23時51分着、824列車。1984年2月廃止。

どうやって出雲市へ行く?

「済みません。やはり取れませんでした」
出入りの旅行社にサンライズ出雲の個室寝台を依頼してあったのだが、近年の出雲大社人気で指定券が取りづらくなっていることはわかっていたものの、1月5日ともなれば世間では仕事始めだから、まさか取れないとは思いも寄らなかった。
 出雲市を10時過ぎの列車で発ち、乗り継ぎながら夕方までに下関まで行こうと計画を立て、宿泊先も押さえてあったものだから、今さら中止にも出来ず、いささか途方に暮れた。夜行高速バスは事故が怖いのでまっぴら御免だし、新幹線乗り継ぎだと13時過ぎに漸く到着で話にならない。どうして世間の人は昼に長距離移動などするのだろう、だから鉄道が嫌いになってしまうんじゃないかなどと思ってみても仕方ない。こうしてしょんぼりしていると、同僚で旅好きのAさんが、
「飛行機はないの? どうせお金持ちなんだから」
とヒントをくれた。お金持ちは実に余計で、私の趣味に対する無駄遣いをからかっているのだが、鉄道車窓愛好家として飛行機という選択肢は最初から考えもしなかったので、それは目から鱗だった。調べてみれば、始発便だと8時台には出雲空港に着くではないか。松本清張『点と線』の謎解きのようだなと思いつつネットで調べてみると、更にサプライズだったのが一般の人の移動が少ないこの時期、早割で何と12,000円でJクラスシートにも乗れるということがわかった。これは高速バスとほとんど変わらない。あり得ない!と思いつつ、計画が思い通りに遂行できることに安堵した。

快速マリンライナー

出雲市駅
空港連絡バスで出雲市駅まで向かったのはわずか5人。松江や出雲大社行きも同じようなもので、地方消滅が話題に上る昨今、早割でもこの時間帯に乗る人は少ないようだ。大社造りを模した立派な出雲市駅の駅前広場にもひとけはほとんどなかった。9時半前には駅に到着し、昨晩22時ちょうどに東京を出発したサンライズ出雲が到着するまでにまだ30分ほどのゆとりがあった。ホームで出迎えるのも一興である。個室を利用すれば21,710円〜28,960円もかかる憧れの豪華列車である。こっちは半値以下で先に着いたんだからねと、乗れなかった憂さ晴らしをしてみたい気もあった。鉄道愛好家の風上にも置けない奴だと反省する。
 改札口にある行き先表示を見ると、予定していた列車の前に快速が先発することに気付く。計画を立てていた際、サンライズが到着する15分前に出発してしまうこの快速が恨めしくてならなかった。仕方なく、サンライズ到着の18分後に出る各駅停車に乗るしかないとあきらめ、その後飛行機騒動のドタバタですっかりこの快速のことを忘れていた。
「そうかあ、乗れるんだ」と、もう出迎えなどどうでもいいと思い始めてしまうところが現金なものだ。
出雲市駅に進入する
快速マリンライナー
やって来たのは新型の2両編成ディーゼルカーだった。快速マリンライナーは、米子・益田間191.5㌔を結んでいるが、米子は鳥取県の西の外れに位置し文化圏としてはほとんど島根のような場所だから、ほぼ島根県の東西を貫く列車なのである。出雲市・浜田間が快速運転となり、1時間35分で結んでいる。これはかなりの俊足ぶりで、40分前に出発するスーパーまつかぜ1号の1時間6分には及ばないものの、当初乗る予定だった普通浜田行きだと2時間24分もかかってしまうのだから、乗り得感満載と言える。これならさぞ人気があるだろうと思いきや、混んでいた車内からぞろぞろと人は降りて行き、ガラガラとなって出雲市を出発した。ボックスシートを独り占めにして車窓を眺める。あいにく窓は汚い。老朽化した車両にありがちな、こびりついた鉄錆で窓が赤茶けているのではない。水滴が流れた跡が幾筋もあるから、塩分をたっぷり含んだ波の飛沫や雨だれの痕跡なのだろう。普通列車だからそれほど頻繁に車両洗浄を行うはずもなく、このあたりが普通列車の旅の辛いところだ。
 出雲市駅からしばらくは高架橋が続き、出雲大社に続く山並みが青空のもと、冬の日差しに照らされている。神戸川を渡った先に最初の駅西出雲がある。伯備線に続く伯耆大山からここまでが電化区間となっていて、寝台特急サンライズ出雲やスーパーやくもが回送される車両基地がある。西出雲は電化はされていても回送される優等列車のためだから、旅客が利用するのはディーゼルカーばかりだ。広々とした車両基地からは特急列車は出払い、まだサンライズがやって来ていないので閑散としている。車両洗浄機もあるので、少しあそこに寄ってから出発したいと思うが、所詮叶わぬことだ。
山陰本線は出雲市以西では
海岸沿いをひた走りに走る
車窓には窓の汚れがもったいないような風景が広がっている。鮮やかな赤褐色の石州瓦を戴いた農家が里山の麓に点在している。山陰地方は字面からなんとなく暗いイメージがつきまとうが、確かに人口が少なく賑やかさには欠けるものの、釉薬が効いて照り輝く赤い屋根の家並みがとても美しいところだ。山あいの農家も入り江の漁村も、鉛色の空を跳ね返すような美しい赤褐色が乱舞している。
 それにしてもどうしてこの快速にマリンライナーなどという、国籍不明の軽率な名前をつけているのだろう。この土地にふさわしい名前はなかったのだろうかと思うが、乗っているうちに合点がいった。延々と海岸風景が楽しめる路線なのである。ここまで海に寄り添って敷かれた鉄路は他にない。それも偉大なるローカル線だからこそ、大正時代に造られたままの場所を走っている。線路やバラストと呼ばれる砂利石などは幹線並のもの(そもそも幹線なのだから当たり前か)を使っているので、列車はかなりのスピードで快走する。ただ海岸に沿っているだけにカーブはきつく、その分眺めが抜群なので、右に左に揺られながら旅人は目を楽しませて貰えるというわけだ。
海辺の風力発電所群は
今や日本の定番風景だ
だからこそ、余計に窓の汚れが悔しくてたまらなくなった。何枚も写真を撮ったが、出来る限りの修正を加えても鑑賞に堪えられるものは一枚もなかったのが残念だ。汚い窓の確認と雰囲気だけでもと2枚だけ掲載しておくことにする。

クルージングトレインのこと

 JR九州の豪華寝台列車「ななつ星」の大成功で、JR各社はクルージングトレインの導入に力を入れ始めた。どうせ倍率が高すぎて、余暇を満喫できる富裕層か高齢者しか利用できないのだろうなと私自身は冷めた思いで見ているが、山陰本線の絶景は、美しく磨かれたクルージングトレインならさぞかし満喫できることだろうとも思う。JR西日本では2017年春から運行開始だそうだ。期待できるのは、架線集電式ではなくディーゼル発電とバッテリーアシストのハイブリッド方式を採用した点である。これならどこへでも行ける。その点JR東日本が導入する列車はイラストを見る限りパンタグラフが付いているので、五能線にも下北にも三陸にも北上線にも陸羽東西線にも男鹿にも磐越東西線にも水郡線にも烏山線にも飯山線にも小海線にも行けない、まさに絶景路線を避けたとしか思えない列車になる恐れがある。超豪華な走るホテルを造って夜に幹線を走らせ、観光は豪華なバスでも仕立ててと考えているのだろう。もしもそうなら、はなはだ残念なことである。
キハ126系はJR西日本の20㍍級の
普通列車用気動車。江津駅にて。
その点JR西日本のクルージングトレインはこの山陰の美しい海岸風景を意識し、電車方式を採らなかった点で大いに期待が持てるだろう。ぜひ早く実現して欲しいものだが、先にも記したように時間とお金の両方にゆとりのある人しか乗れないのが実に残念だ。私のような旅行者のために、せめて在来の列車の窓をもう少し綺麗にして貰えないだろうか。そうでないとあまりにももったいない風景なのだ。

浜田という響き

 ブルートレインが全盛だった70年代から年代にかけては、毎夕東京駅から九州・山陽・山陰に向けて何本もの寝台列車が発車して行った。1978年10月の時刻表には、9本の輝けるスター列車が掲載されている。

 16時30分  列車番号1   さくら    長崎・佐世保行
 16時45分  列車番号3   はやぶさ   西鹿児島行
 17時00分  列車番号5   みずほ    熊本・長崎行
 18時00分  列車番号7   富士     西鹿児島行
 18時20分  列車番号2001   出雲1号     浜田行
 18時25分  列車番号9   あさかぜ1号   博多行
 19時00分  列車番号13    あさかぜ3号   下関行
 19時25分  列車番号15    瀬戸     宇野行
 20時40分  列車番号2003   出雲3号・紀伊 出雲市・紀伊勝浦行

 ブルーの車体側面にある行き先表示を見ていると、行ったことのない町の名前が手招きをして「早くここまで乗っておいで」とささやいていたいるかのようだった。とにかく、「遠くへ行ってみたかったし、知らない町を歩いてみたかった」
廃止直前の寝台特急出雲
2006年2月7日 出雲市駅
そのなかでも異彩を放っていたのは、出雲1号浜田行だった。そこがどこにあるのか、どんなところなのか皆目わからない。山陰の出雲ではなく、浜田って? もともと出雲号は出発時間が切りの悪い20分、列車番号が4桁という、まさに格落ちのブルートレインだったのだが、貧乏だった学生時代に奮発して初めて乗車したのが米子発東京行の寝台特急「いなば」(のちの出雲3号)だったこともあり、山陰地方と出雲号にはとても親しみを感じていた。その後浜田行はなくなり出雲市どまりとなったが、それも2006年3月に廃止されてしまった。
 今回の乗り尽くしの旅では、浜田行きの各駅停車に乗り、浜田に着くや否や大急ぎで駅弁「乃どくろ御飯」を手に入れてから特急に乗り継ぎ、益田から再び各駅停車の旅を続ける予定だった。ところが快速マリンライナーのおかげで予定より1時間20分早く浜田に着くことになった。懐かしい響きの浜田の町を散策する時間が生まれた。
浜田駅
高級魚ノドクロは全国でとれるが、浜田産のものは脂がよくのっていて最高峰といわれている。その駅弁はぜひ食してみたいと思っていた。ところがホームでは駅弁の販売所がなく、ああ時間が浮いて良かったなと改札口をでてもどこにも駅弁を売っている気配がない。駅の構内にはノドクロのイラストが描かれているのだが、肝心の駅弁がないのだ。駅の売店にも隣接する観光物産館にも置かれていなかった。駅弁そのものがこの駅では販売されていないのである。需要がないということなのだろう。鉄道の旅の楽しみがここでも失われていこうとしていた。残念ではあったが、普通のお弁当として売られている鯖寿司で我慢することにした。お酒はないかと探してみると手頃なところで「石陽日本海ワンカップ」があった。蔵元の住所が記されていないが、口には入れさえすれば良いという心境になっていた。
 気を取り直して、町へ繰り出す。駅前広場には大きなからくり時計が置かれていた。日中のひとけのない商店街を歩き、高台に登って町を見下ろしているうちに、ここが石見神楽で有名な所だとわかってきた。神楽といえば古事記や日本書紀の神話がもとになっているものだが、石見神楽は弁慶や加藤清正のような歴史上の武勇伝を演目にした創作神楽もあって、伝統を受け継ぐ民間の人達が古代の衣装や面を身に纏い、八岐大蛇や天の岩戸の物語を演じたりする人気の祭りだそうだ。大人から子供までが参加する賑やかなもので、子供神楽はその音色から「どんちっち祭り」と呼ばれているらしい。
からくり時計
駅前に戻ってくると、ちょうど時刻は12時を回るところだった。「どんちっち」のお囃子が響き渡り、からくり時計が動き始めた。屋根が浮き上がり、舞台がせり上がって、三段に分かれた空間で、人形達が笛や太鼓を奏で、神楽を舞い始める。最上段は大蛇がくねくねと動いている。普段は観ることの出来ない石見神楽の片鱗を垣間見ることが出来た。石見といえば銀山が世界遺産に登録されて有名だが、この地方に根付いた文化は、赤褐色の瓦と同じように照り輝いている。東京で人波に押し流されている自分にとっては、寝台特急出雲の終着駅は、期待通りの異次元空間であった。

スーパーおき3号

 浜田の駅がその立派な駅舎とは裏腹に閑散としているのは、日本海側の都市同士に強力なネットワークがないからだろう。おそらく浜田と強力に結びついているのは広島ではないか。距離にしておよそ100㌔を中国道から延びる浜田道が結んでいて、1日16往復もの高速バスが走っている。
キハ187系特急型気動車
益田駅にて
一方のJRといえば、スーパーまつかぜ(鳥取⇔益田)4往復、スーパーおき(鳥取・米子⇔新山口)3往復が頑張っているものの、全国でも有数の過疎地帯のため、指定席車両と自由席車両のわずか2両編成でグリーン車の設定はない。使用されている187系特急型気動車は、一見通勤電車のように飾り気のない顔をしている。しかしその風貌とは裏腹に秘めた実力の持ち主で、カーブの多い山陰本線を高速で走り抜けられるよう、車体が内側に傾く制御付自然振り子式車両なのだ。
 乗るのは二度目だが、いつも混んでいる感じがする。今回も自由席が満員でデッキまで人で溢れていた。海側の席を確保するために予め指定券を取っておいて正解だった。優等列車だけに窓も汚いというほどではなく、これなら心置きなく楽しめそうだ。益田までわずか32分の旅だが、買っておいた鯖寿司と日本酒「石陽日本海」で車窓を眺めながら昼食を楽しむ。酢で締めた鯖とほんのりと甘い酢飯が美味しい。風景がいいと酒も旨い。後でわかったことだが、鯖寿司は「乃どくろ御飯」と並ぶ浜田のもう一つの名物だったし、「石陽日本海」も浜田の地酒だった。JRも売店も、もう少し観光客相手にアピールするなど、商売っ気をだしても良さそうなものが、おそらくそれほど需要がないのだろう。
中国電力三隅発電所
全国津々浦々、車窓を楽しむ旅をしていると、風光明媚なところに突然巨大な発電所が現れれてびっくりすることがある。発電所は規模の大きな施設だけに、余計人里離れた所に造られるものだから、結局景色の良いところにあるケースが多いのだろう。電気エネルギーに縋って生きている自分としては、ここで自然保護を主張することは厳に慎む。ご都合主義という批判があれば、その責めは甘んじて受ける。そんなアホなことを考えるのも、少し酔いが回ってきたのだろう。
岡見・鎌手間
益田に近づいてくると、穏やかな入り江が多くなってきた。鉄道の絶景路線として紹介されることはないが、何とも心和む風景が続く。人を寄せ付けない厳しい自然とも違う、かといって人が傍若無人に歩き回る自然とも違う、いわば人と自然が共存しているような、なんの変哲もない風景なのだ。
鎌手・石見津田間
かつて賑わっていた地域が過疎化すると、そこには多くの廃屋が放置されたままとなって、風景は人の心を荒ます凶器となる。日本各地には産業の空洞化に伴って、そんな悲しい風景がいくつもある。一方で、沖縄の西表島や北海道の釧路湿原の一部のように、人がその地を離れたあと、自然がもとに戻っていくようなところもある。ここがどのような経緯をもつ土地なのかはわからないが、長い間かわらぬ風景を保ってきたことだけは間違いない。言ってみれば、日本の原風景なのではないだろうかなどど考えながら益田を目指した。
(2015/1/5乗車)

懐かしの山陰本線 中編

各駅停車しか走らない「本線」

 益田まではスーパーおきが走っているが、この先、幡生(下関市)まで山陰本線を乗り尽くすためには乗り換えが必要となる。ここからは特急などの優等列車が全く走らない、まさにローカル線になってしまうのだ。スーパーおきは、山陰本線を離れて山口線に入り、有名観光地が連なる津和野や山口・湯田温泉などを通って、山陽新幹線との乗り換え駅の新山口に向かう。
 一方、この先の山陰本線には萩や長門市がある。明治維新で活躍した数々の人材を生んだ萩や、天才童謡詩人金子みすゞの郷里仙﨑(長門市)は、観光地としてもすこぶる有名だが、鉄道で旅をする人は極めて少ない。特に萩観光はほとんどがバス利用のため、この辺りの山陰本線は極めつけのローカル線になってしまうのだ。
 益田から下関まで直通する列車は一日わずかに1本、最も利用客の少ない益田と東萩の間は一日8本の普通列車があるに過ぎない。そのうち朝が4本、夕方以降が3本設定されているので、日中はわずかに1本しかなく、観光客に見向きもされないのは当たり前だ。今回の旅ではこの1本、益田13時27分発の長門市行以外に選択肢はなかった。この1本に乗るために、飛行機に乗り、快速と特急を乗り継いで益田までやって来たのだ。
 待っていた列車は、国鉄時代からお馴染みの気動車キハ40だった。古い車両だが、思いの外窓は綺麗で、これなら何とか車窓の旅は楽しめそうだ。ただこういう曰わく付きの列車には、同好の士も乗っていることが多い。我が儘のようだが、一人でゆっくりと楽しみたい私としては、できるだけ同じ趣味の人とは出会いたくない。勝手な言い分とはわかっているが、同じような趣味人が乗っていると、実に落ち着かないのである。児戯に等しい振る舞いは伏せておきたい。同類の人を見てしまうと、いきなり天から冷静な自分が降りてきて、羞恥心が目覚めてしまう。
萩は近い
案の定、すぐにそれとわかる人がひとり乗っていた。しかも海側のボックスシートはすでにあらかた埋まっていて、一人で占有しているその人物の向かい側しかすわる席はなかった。山側にはまだ空いている席もあったが、海を見にここまで来たのだから仕方あるまい。<マニア>もなんでわざわざ向かい側にすわるんだよ、という顔で見ている。あーあ、心理戦が始まってしまった。
 益田を出るとすぐに山口線が左に分かれて行き、向かい側の席からの視線も消えていく線路を追っている。エンジン音を轟かせて旧型気動車が軽快に浜辺を走り始めれば、それに釘付けになる。さっきから<マニア>もこちらも向ける視線の方向が同じだ。見ているものが同じだから、時々「お前もか」という感じで目が合ってしまう。我慢・我慢! 外の景色に集中しろ! せっかくここまでやって来たんじゃないか。
 いくつかの入り江を越え、いくつかの無人駅に停まるたびに乗客の何人かが降りていった。益田・萩間には路線バスすら通っていないので、ここに住むお年寄りや高校生など免許を持たない人達にとってはこの列車だけが頼りなのである。ようやく席を移ることが出来た。<マニア>もほっとしたに違いない。
中央が益田発長門市行。左は長門市
発小串行。この列車は小串で下関行
に接続している。        
萩に立ち寄りたいが、列車の関係から先を急ぐ。今回の旅では長門の国を乗り尽くすつもりなので、明後日再び萩を訪れることになる。今日はひとまず長門市に直行する。長門市のホームや跨線橋、停まっているキハ40型気動車を見ていると、40年ほどタイムスリップしたような気がしてくる。ここには国鉄末期からまったく変わっていない懐かしい風景が残っている。今時、このような場所がほかにあるだろうか。


山陰本線踏破の難所、仙﨑支線

 長門市からたった一駅区間だが、もうひとつの山陰本線が走っている。仙﨑支線だ。定期列車としては厚狭線に乗り入れるものが数本あるため、時刻表では厚狭線のページに掲載されている。ローカル線からローカル線への乗り継ぎは、朝晩以外はまず連絡していないと言ってよい。この時も連絡列車を待っていたら、仙﨑ですぐ折り返しとなってしまうところだった。仙﨑までは距離にして約2㌔、歩いて行けないこともないが、仙﨑の町を歩いてみたかったので、タクシーを利用することにした。
「タマゴ公園までお願いします」
運転手の反応がない!
「あのう、玉子公園に行きたいのですが」
「ああ、オウジ公園ね」
やってしまった! まさか王子公園ではないよねと、何度も注意して地名を見返したはずなのだ。絶対に点が付いていると確信してから言った積もりだったからショックだった。年々老眼が進んでいる。耳は聞こえないし、目は見えない。寄る年波には逆らえないから、乗り尽くしの旅も急がなければならないと強く思う。
「お客さん、東京から? 王子公園って何もないよ」
「仙﨑の町が一望できますよね。そこからぶらぶらと町を歩きたいんです」
「なるほどねえ。今は冬だから木も生い茂っていないので見えると思うよ。でも景色の良いところなら、青海島の中の浦とか。そっちへ行く?」
左側中央の港近くに仙﨑駅がある
まさか列車に乗るのが目的で来たなどとは言えない。そんなことを口走れば、興味津々、根掘り葉掘り聞かれた挙げ句に「好きだねぇ」という顔をされるだけだ。
「金子みすゞに関心があるんですよ」
これに嘘はない。郷里の誇り金子みすゞの名前が出たので、運転手の話題は仙﨑の方に移っていった。


 青海島の外れにある王子公園から眺める仙﨑の町は、午後の傾いた日差しの中で静謐に包まれていた。みすゞの故郷を見下ろしながら、しばらくそこに佇んだ。
 それにしても、みすゞの代表作のひとつ『わたしと小鳥とすずと』は、彼女の薄幸の生涯とは裏腹に、なんと自己肯定感の高い、エネルギーを貰える詩だろうか。


  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速く走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。


 傷つきやすい現代人を癒してくれるのは、わずか26歳で自ら命を絶った若き童謡詩人であることに、今さらながら驚きを禁じ得ない。

 右に深川湾、左に仙﨑湾を眺めながら青海大橋を歩いて渡りながら、仙﨑の町に入っていく。金子みすゞの菩提寺である遍照寺で墓参をしたあと、記念館に立ち寄った。この町のあちこちには、詩が記されたプレートがかかっている。すべてをゆっくりと鑑賞していると列車に遅れそうだ。 こうして40分ほど仙﨑の町を散策しながら仙﨑駅までやって来た。ここは山陰本線で唯一の行き止まりの駅、大好きな終着駅だ。京都も幡生も終着駅ではない。
 しばらくすると、長門市方面からちっぽけな気動車が1両でやって来た。JR西日本が所有する特に乗客の少ないローカル線用の小型気動車キハ120系だ。普通車両よりも2割ほど短い16㍍しかない可愛らしい車両だ。降りてきた数名の乗客の中に、なんとあの<マニア>の方もいらっしゃった。おそらく長門市で1時間ほどこの列車を待っていたに違いない。なんとなく視線を感じる。向こうもばつが悪いに違いない。そう思うと、ちょっぴり気の毒な感じもする。僕がここにいてごめんなさい。

 ラッピングされた気動車は厚狭線経由の厚狭行である。今日はこれに乗って厚狭線を乗り尽くし、厚狭からは山陽本線で下関に出る。山陰本線の残り、長門市・幡生間は明日乗るつもりであり、そこで漸く山陰本線完乗となる。偉大なるローカル線の乗り尽くしは実に手強いが、最大の難所である仙﨑支線を無事踏破し山陰本線未乗もあと74.2㌔となった。明日は下関周辺の鉄道を楽しんだ後に山陰本線に戻ってくるつもりである。

2015/1/5乗車)

  注)観光シーズンには、みすゞ潮彩号が新下関・下関と仙﨑を山陰本線経由で結んでいる。





 

懐かしの山陰本線 後編

下関・幡生間は山陽本線

客車列車用に造られた低いホームは
山陽本線の電車が停まる箇所だけ
上げされている。左側が9番線山
本線ホーム。            

 京都を起点とする山陰本線の線路名称上の終点は下関の一駅手前3.5㎞地点にある幡生だが、すべての列車は山陽本線に入って下関までやってくるので実質的な終点は下関である。かつては寝台特急の機関車付け替えで賑わっていた下関駅も、今では長距離優等列車が全廃されてしまい、歴史ある長大で立派なホームはその役割を終えて、少しばかり寂しげな雰囲気が漂っている。山陰本線の列車が発着するのは、その更に片隅の9番線である。
 古びたホームに佇むと、起点の京都駅ホームがかつては人々から忘れられたように片隅にあったことを思い出す。華やかな東海道線から外れた、端に張り出すような形で設置されたホームには、蒸気機関車が引退したあともディーゼルカーの排煙が漂っていたものだ。今でこそ京都のホームは造り替えられたが、ここ下関9番ホームには、いかにも偉大なローカル線にふさわしい終着駅の風格がある。
 下関・益田間には有名な観光地である萩や長門市があるにも関わらず、鉄道だけは極め付けのローカル線であって、優等列車は一本も走っていない。特別列車は仙﨑の金子みすゞにちなんだみすゞ潮彩号ただ一本に過ぎず、これとてもシーズン中の土曜・休日だけに運転される季節列車でしかない。普段この区間には、錆止めのような国鉄色をまとったディーゼルカーがのんびりと走っているのである。
 昼下がりのホームに、留置線に停められていたキハ47の2両編成がディーゼルエンジンを唸らせて滑り込んできた。乗客の数は少ないが、通勤通学対応で改造された室内にはボックスシートの数が少なく、海側進行方向の席は確保できなかったが、しばらくすれば席も空くだろうと鷹揚に構える。遠出をする人は少ないのがローカル線のいいところでもある。

幡生・長門市間 ラストラン 

 幡生を出発するやいなや単線となった山陰本線は、複線の山陽本線に挟まれるようにして進み、次第に沈み込んで山陽本線の上り線の下を潜るようにして分かれていく。何度も言うようだが本線とは名ばかりのローカル線なのだが、それだけに出発して20分もすると日本海・響灘(ひびきなだ)が見えてくる。小串までは通勤通学圏のようで、その先は列車の本数もぐっと減ってしまい、それとは裏腹に景色が輝いてくる。列車は阿川までほぼ北を目指して進んでいくため、海側に席を取ると午後の日差しがまともに降り注いで、冬とはいえまぶしいくらいだ。天気は悪くないが風が強いため、響灘は三角波が立っている。乗客は少なく、ボックス席を一人で占有できるほどになった。
点在する牧草牧草ロール
阿川駅にて

 長門二見からは一旦海と別れて内陸を行き、難読駅名横綱級の特牛に着く。「こっとい」と読むのだそうだが、語源に諸説あって定説はないくらいなので、読めないのが当たり前と言える。ただ漢字が示すように辺りは放牧が盛んなようである。次の阿川駅前には牧草地が広がっていて、あちこちに白いビニールに包まれた牧草ロールが散らばっていた。
その名も何とムカツク半島

 列車は阿川を出ると次第に進路を東に変えて、再び海辺を走り始める。響灘とは別れを告げて、ここからは油谷湾へと入っていく。対岸に見えるのが向津具半島で、これも難読地名だが、傑作なのは「むかつく」半島と読むことだ。「いったい何で?」と言いたくなるほど、むかつきとは無縁な、ほっとするような良い景色が続く。
 油谷湾が尽きて再び内陸に入り、しばらくすると人丸に着く。これは柿本人麻呂にちなむ駅名なのだろうか。全国各地に人丸神社があるが、その多く祭神は柿本人麻呂であるし、ここから人麻呂の誕生と終焉の地石見国はそう遠くはない。このあたりは駅名・地名が楽しい土地だ。
只の浜の向かいには青海島

 下関を出て70㎞ほどの距離を走り、約2時間が経過した。列車は只の浜に沿って、ゴールの長門市に近づいていく。目の前の海は青海島と本州に囲まれた深川湾である。その一番ふところ奥に位置しするのが仙崎の町で、青海島とは橋一本で繋がっている。橋の向こうは仙﨑湾が広がり、日本海側では屈指の漁港となっている。この仙﨑までは長門市から一駅だけ山陰本線の支線が繋がっていることは、すでに中編で触れた。
 ということで、私の山陰本線乗り尽くしの旅も漸く終わりに近づいた。初めて山陰本線を旅したのは高校生の時だから、40年越しの「快挙」となる。そのゴールが長門市という昭和が取り残されたような場所であったのは、偉大なるローカル線の旅のフィナーレに実にふさわしいと思う。
懐かしい国鉄色のディーゼルカー
長門駅にて

 40年の間には、景勝地の保津峡がトンネルの完成で楽しめなくなったり、列車の落下事故で有名となった餘部鉄橋が付け変わったりしているので、まだ厳密には完乗ではないけれど、車窓を楽しむという点では、乗り切ったなという思いが沸いてくる。
 それにしても海の風景がこれほどまでに楽しめる路線がほかにあるだろうか。絶景路線は全国各地にあるものの、日本の美しい海岸線を辿りながら走る路線としては、偉大なるローカル線山陰本線こそが筆頭と言うべきだろう。
(2015/1/6乗車)

2014年10月23日木曜日

比叡山横断鉄道

叡山電鉄
比叡山をバックに高野川を渡る
叡電鞍馬線         

 京都の市街から叡山に登るには乗り換えのいらないバスが便利だが、時に鉄道を利用するのも乙なものだ。京都側から登るのも良し、琵琶湖側から登るのも悪くない。乗り換えさえ厭わなければ、風景を楽しみながらの小旅行になる。そして更にぐるっと一回りして、同じ所を引き返さずに京都に戻ってくることが出来て楽しい。
 10月下旬のとある日、紅葉にはまだ早く、それだけに観光客の数は限られているから、叡山に登るにはちょうど良い時期だった。地下鉄の烏丸線で終点の国際会館で降りると、宝ヶ池に近いこの辺りは閑静な高級住宅街だ。実はここから叡山電鉄の宝ヶ池は歩いて15分ほどの所にあり、八瀬比叡山口まで二駅という極近の隠れルートなのだ。
きらら 宝ヶ池にて

 叡山電鉄こと叡電は本線と鞍馬線からなり、宝ヶ池が乗り換え駅である。その名前からして本線の終点は八瀬比叡山口だが、運転形態の主流は鞍馬線であり、人気の展望列車きららも出町柳と鞍馬を結んでいる。
京都電燈→京福電鉄→叡電  
と活躍したデナ21 鞍馬駅にて

 話は逸れるが、この鉄道はかつて京福電気鉄道だった。京福は栄枯盛衰の激しい会社で、京都ばかりでなく福井の方でも鉄道部門を切り離さざるを得なかったりして、地元の人でない限り、名前の変化についていけないだろう。私が初めて鞍馬を訪れた1970(昭和45)年、大阪万博の年にはこの鉄道は京福を名乗り、当時の記憶を引き摺る私には、嵐電も叡電もえちぜん鉄道も皆京福電鉄だと思ってしまう。年寄り臭いといえばその通りだが、よそ者には
何とも厄介な鉄道なのだ。 
 八瀬比叡山口に着き、そこからケーブルカーに乗ると、再び混乱が始まるというのは少し大袈裟かもしれないが、ここからの鋼索鉄道が京福電鉄なのである。

叡山ケーブル・ロープウェイ



 高野川の蛇行に行く手を阻まれるかのように叡電・八瀬比叡山口駅はある。目の前には山並みが迫っている。観光シーズンから外れた秋の平日ということもあって、電車は幼稚園児の遠足と一緒になってしまった。ケーブル八瀬駅までは200㍍ほどだから、少し早歩きすれば、団体さんよりも1本前のケーブルカーに間に合いそうである。高野川の清流を橋で渡り、かつては八瀬遊園地であったであろう辺りをケーブル駅に向けて急ぐ。
 この遊園地の廃園も京福電鉄に関わりがある。京福電鉄越前本線の列車衝突事故が会社を傾けたからである。会社は越前本線を手放し現在は第3セクターのえちぜん鉄道となり、遊園地は売り払われて会員制リゾートホテルとなった。そして残ったのが、比叡山に登るケーブルカーとロープウェイである。
 ケーブル八瀬駅に着くやいなや時刻表を確かめる。平日は20分に1本しかないが、まもなく発車なので、ちびっ子団体は追いつかないだろう。時刻表には「所要時間9分、ケーブル八瀬駅・ケーブル比叡駅を同時に発車します」と書いてある。つるべ式井戸と同じように登りと下りの車体がケーブルで結ばれているのだから当たり前だろう、と思うのは鉄道ファンだけかもしれない。おそらく親切な表示なのだろう。
 それにしても乗車してみて驚いた。この鋼索鉄道は高低差561㍍で日本一なのだそうだ。最急勾配なのが高尾山ケーブルカーであることは知っていたが、ここにも日本一があるとは思わなかった。路線は細長くS字形に曲がりくねり目的地が見えない。そこに緑の木々が覆い被さり、日の光が差し込んでとても美しい。中間地点が近づいて、つるべの一方とすれ違う。雰囲気のあるケーブルカーだ。
 ケーブルからロープウェイに乗り継ぐ。振り返ると、宝ヶ池の脇にプリンスホテルの特徴的な円環状の建物がよく見える。3分で山頂駅だが、勿論ここは山頂ではない。標高820㍍の駅からピーク大比叡までは直線距離にして600㍍、あと28㍍ほど登らなくてはならないが、今回の目的は比叡山横断なので、すぐに下山に向かう。ケーブル延暦寺を目指さなければならない。直線距離にして1.6㎞。幸いにしてバスがある。

比叡山鉄道

 叡山に登りながら延暦寺を参拝することなく下山する。なんともバチ当たりな気もするが、様々な宗派の開祖を育み、全山焼き討ちにした信長すらも許した心広い学問寺だから、先を急ぐ鉄道愛好家のことはお許し下さるに違いないと、バスを降り、そのままケーブル延暦寺駅に向かう。谷の向こう側に延暦寺が佇んでいる。
 坂本ケーブルの名で親しまれている比叡山鉄道は、延暦寺への表参道の一画をなし、昭和2年に開業した歴史ある鉄道だ。今日はその表参道を逆に歩いている。しばらく歩くと、登録有形文化財に指定され、関西の駅100選にも選ばれているケーブル延暦寺駅に着く。クリームイエローの漆喰で覆われた駅舎は、多くの著名人が訪れた歴史を物語る貴賓室を備えた重厚な建物だ。階段を上り展望台に立つと、600㍍眼下に琵琶湖が広がっている。ここからケーブル坂本駅までは全長2025㍍、日本一の長さを誇っている。叡山には日本タイトルを持つ鉄道が2本控えているのである。
 
 距離が長いだけあって、ケーブルでは珍しい途中駅が2カ所ある。ほうらい丘駅ともたて山で、ケーブルの特性としてどちらも終点からは等距離にある。坂本ケーブルの面白いのは、架線もないのにパンタグラフが備わっているところだ。普通ケーブルカーに架線はつきもので、ケーブルに電気を流すわけにはいかないから、車内照明をはじめとして必要な電気は架線から採り入れるしかない。もともとはあった架線だが、管理維持が大変なため取り払ったそうで、パンタグラフだけが残されている。鉄道から架線を取り去ると、空がすっきりとして眺めが俄然良くなる。線路は車が走る道路とは違って、幅は狭く色合いも周囲の自然に溶け込むので、環境負荷が極めて低いという特性がある。カーブがあり、鉄橋やトンネルもあって、移動そのものが楽しめる。
 さて、パンタグラフの種明かしだが、実は単なる飾りではない。終点駅にだけ架線があり、停車中に受電してバッテリーに充電するために使われているのだ。
 ケーブル坂本駅から、京阪電車の坂本駅までは徒歩で15分ほど。連絡バスも走っているが、下り坂をとぼとぼと歩くのも悪くない。

京阪京津線


 京阪電車の石山坂本線で浜大津まで行けば、そこから京都までは京津線が連絡している。比叡山の南側、山塊を回避するように敷かれたこの鉄道も、実に個性的だ。4両編成の普通の電車が、堂々と道路の真ん中を走っていく。道路を走るからといって、これは決して路面電車などではなく、鉄道と道路が共存しているとしか言いようがない。自動車が連なる道を走る電車は路面電車というにはどっしりとしたものだし、いざ目線を上に移すと、簡易的なトローリー線ではなく、シンプルカテナリー方式の本格的な架線が張られ、その下をパンタグラフを擦らせて進む電車だけを見ていると、まさに普通の鉄道そのものなのである。距離にして600メートルほどだが、国道161号線を走る京津線は、鉄道というものの概念を覆す逸品である。
 上栄町で国道から逸れて専用軌道に入る。その先には急カーブが控えていて、車輪とレールの摩擦を軽減するために、散水装置が備えられているのも珍しい。
 かくも比叡山横断鉄道は、鉄道愛好家の心をくすぐる見どころ満載の路線なのである。
(2014/10/23乗車)
 
 


2014年10月2日木曜日

東北本線完乗記

どこまでが東北本線か

 東北本線の起点が東京で、終点は盛岡であることは多くの人が御存じのことと思う。「えっ?終点は青森ではなかったの?」とおっしゃる方もいると思うけれど、青森まで新幹線が開通するのと引き替えに、在来線が第3セクター化されたので、終点はあくまでも盛岡である。短くなったとはいえ、全長535.3㎞という堂々とした大幹線である。東北本線くらいの大物になると、本線にへばり付いた枝線と呼ばれる路線がある。それらを合わせると全長は36.4㎞も増えて571.7㎞にもなる。
 そのなかでも一番長い枝線は赤羽から大宮までの18.0㎞、埼京線である。何となくぴんと来ないが埼京線も正式には東北本線の一部だ。次に長いのが日暮里から尾久を通って赤羽までの部分。7.6㎞のこの部分こそが東北本線そのもののように思えるが、正式には京浜東北線が通る田端経由が本線であり、尾久経由は枝線扱いだ。これなどは実際の運行とは別であり、路線が造られた歴史と関連がある。田端駅の開業は1896(明治29)年4月1日、尾久駅は33年後の1929(昭和4)年6月20日開業と聞けば、線路の戸籍上田端経由が本線となるのも納得がいく。
 さてその次に長いのが6.6キロの長町・宮城野・東仙台間である。ただこちらは貨物専用路線のため乗車することはできない。貨物列車が仙台駅を避けるために敷かれた路線であり、これは諦めるしかない。東北新幹線の工事が佳境となった昭和50年代前半、夜行列車の一部が仙台を通らずに、長町から宮城野経由で運転された時があった。長町・仙台間に連絡バスが運行されたのだが、残念ながらその列車には乗っていない。私が乗った急行八甲田は仙台を0時38分に出発し、青森に向かっている。工事中の仙台駅から乗車した記憶が残っている。今では新幹線の高架橋と周辺の高層ビルで薄暗い仙台駅だが、当時は地上ホームから空を遮るものは何もなかった。たとえ宮城野経由に乗ったところで深夜のため何も見えなかっただろうが、今にして思うとちょっと残念に思うところが、乗り尽くしファンの心情というものだろう。
岩切14時31発利府行
残りは4.2㎞、これに乗っていないために長い間東北本線を乗り尽くすことが出来ないでいた。岩切・利府間である。岩切は仙台からわずか2駅め。しかし岩切にも利府にも何の用もないからチャンスが訪れなかった。これは乗りに行くしかない。

利府へ

 仙台に近いので通勤通学路線と思われるが、運行本数は余り多くない。朝晩は1時間に2本程度が仙台・利府間を結び、日中は1時間に1本となって岩切・利府間を往復している。
 14時06分、岩切に到着した電車は折り返し14時31分発利府行となる。ロングシートに2〜3人の人が所在なさそうにただ発車を待っている。そのうちに仙台からの電車が到着し、乗り換える人もやってくるが、相変わらず空席が目立つままに発車時間となった。もちろんワンマンカーである。
 本線の方が右に大きくカーブを切って分かれて行き、枝線の方は新幹線の高架下をくぐったあとは新幹線と一定の距離を保ったまま並行して走る。新幹線と枝線の間にはレールセンターが広がって、事業用の車両が多く停まっている。在来線の工事用基地がしばらく続き、それが尽きると新幹線基地に変わり、カラフルな様々な新幹線電車が停まっていて見た目にも楽しい。はやぶさ用のE5系、こまち用のE6系、先日引退した旧こまち用のE3系も停まっている。そしてなんと、北陸新幹線用のE7系まである。やまびこ用のE2系も含めて、初代のMaxとき以外はすべてが揃っていて、さながら新幹線博覧会状態だ。
 留置線が尽きた所に新利府駅がある。ここからは新幹線工場ゾーンだ。ホームの注意書きに「一般のお客様は岩切側の出口をご利用下さい」とある。利府側には工場直結、JR社員専用の出入り口があるのだ。つまりJR社員のためにこの駅は存在する。周囲に住宅は全く見えない。線路を挟んで工場の反対側は田圃だけが広がっている。果たして、この駅を利用する一般客はいるのだろうか。
利府駅
岩切を出て6分、新幹線工場が尽きれば、終点利府に到着する。駅前には住宅地が広がっている。いかにも仙台へ通う人達の住宅地である。ここで暮らす方々には申し訳ないが、朝晩の通勤以外にはほとんど利用されない路線なんだなあと改めて思う。
 ところで終着駅という言い方は利府には馴染まない。「終」には「ついに」の意味があり、それは長い旅の終着点という意味だからである。近郊電車が走る利府はあくまでも終点だろう。しかし、それでも私にとって利府には特別な意味がある。ここはようやく東北本線を乗り尽くした私にとっての終着駅なのである。
(2014/10/2乗車)

被災地仙石線を訪ねて

あの日の仙石線

 2011年3月11日午後10時過ぎ、地震発生からおよそ7時間が経過した頃、仙石線野蒜駅付近で4両編成の電車が2両ずつ中間から折れ曲がりL字型になった状態で発見された。石巻発あおば通行普通1426Sは野蒜駅を発車して数百メートルの地点で被災したのだが、この時点では乗員乗客の安否はわからなかった。L字型になった無残な車両の映像は、日本中の人々に改めて津波の恐ろしさを伝えていた。
 後日明らかになったことは、その時20名から50名の乗客がいて、そのほとんどは1キロほど離れた野蒜小学校に避難していたということだ。避難場所の体育館にもどす黒い津波が押し寄せたという。
 あれから3年以上が経つが、仙石線の高城町・陸前小野間の11.7キロは現在も不通のままだ。以前から一度そこを訪ねてみたいと思っていた。

快速高城行

 あおば通11時6分発の快速高城町行は、平日の日中ということもあって乗客はまばらだった。仙台駅から乗車する人もさほど多くなく、ロングシートには空席が目立って、座ったままキョロキョロと車窓からの景色を楽しみたい自分のようなものには都合が良かった。昼食のために購入した牛タン弁当からは良い匂いが漂ってくるが、それも人目を気にしなくて済む。
 仙石線は宮城電気鉄道として開通した経緯もあって、沿線風景はどことなく私鉄沿線の感じがする。仙台の市街地を抜けると田園地帯が広がり線路は真っ直ぐに敷かれているが、多賀城に近づくあたりから入り組んだ丘陵地帯になり、塩竃市内までは線路が右へ左へと曲がりくねった地域密着型の鉄道なのである。ひたすら脇目も振らずに北東北を目指す東北本線とは趣が違う。しかも眺めがよい。東北本線は塩竃の街外れを通過し絶景の誉れ高い松島湾の横を掠めるだけだが、仙石線は街なかをゆっくりと塩竃港に向かい松島湾を巡るルートをとる。本塩釜から先は高架線から港が眺められ、横浜の金沢シーサイドラインにでも乗っているような感じである。その後港から少し離れ東塩釜から先は単線になって、今度は山間をトンネルで抜けていく。東北本線と併走したり、風光明媚な松島の島々が眺められたりと、沿線のハイライトはこの辺りに集中している。
 仙台から松島観光を目的に鉄道を利用するなら、東北本線ではなく、仙石線が断然便利だし楽しめる。下車駅は松島海岸である。海に浮かぶ五大堂、瑞巌寺、松島観光船はすべて駅前近くに集まっている。トンネルと接するように松島海岸駅があり、そこでは上り電車が交換待ちをしていた。電車が停まると、観光客ばかりでなく、ほとんどの乗客が下車してしまった。それはこの電車が一つ先の高城町までしか行かず、現在不通となっている高城町・陸前小野間を結ぶ代行バスを利用するなら、幹線道路に近い松島海岸で乗り換えるのが便利だからである。私は鉄道で行けるところまで行くのが目的なので、「代行バスにお乗り換えの方はこちらでお降り下さい」というアナウンスを無視して乗り続ける。もちろん代行バスは次の高城町も通るはずだし、乗り換え時間が9分あるので、降りた人たちとは高城町で合流するつもりである。
 松島海岸駅を出発しトンネルを抜けると、東北本線と並んで走る箇所がある。しばらく併走後に仙石線は右に分かれて行くのだが、その箇所だけバラスト(石)が真新しくなっている。2015年に仙石線が完全復旧する際、東北本線と仙石線の間に連絡線ができ、石巻と仙台の間が短時間で結ばれるようになる。現在その工事中というわけだ。
 ところが仙石・東北ラインという愛称で運行されるその直通列車は、何と時代に逆行するかのように気動車が投入される。もちろんそれには理由がある。東北本線は交流電化区間、仙石線は直流電化区間なので、そこに連絡線がつくられても架線を張る訳にはいかない。そこで最新の気動車・ハイブリッド車両HB-210系を8編成(16両)新造し投入することにしたのだ。利便性と話題性を高めつつもコストは抑える、いかにもJR東日本らしい対応だ。
 電車は丘陵地帯を抜けて盛り土区間を下り、暫定終点となっている高城駅に到着する。あたりは雑草がボウボウと生えて、荒れ放題。ホームから先に伸びる線路は錆びて痛々しく、信号機は赤に灯ったままだ。
 電車から降りた乗客はわずか二人だけだった。駅舎の改札口では、写真撮影でもたもたしている私を駅員がじっと眺めて待っている。待たれるのはどうも苦手なので、いい加減にシャッターを切って改札へ走った。

代行バスが行く


 改札口には代行バス停留所の案内図が貼ってあった。少しわかりにくかったので、先程の駅員に尋ねてみた。
「代行バスの停留所は遠いのですか」
「えっ? 代行バスに乗るの? どうして松島海岸で降りなかったの?」
そんなに責めなくたっていいのにと思ったが、これも親切心の裏返しなのだろうと良い方に解釈して、
「11時46分発ですよね。走っていきますから」
と冷静を装って話をすると
「この前の道をまっすぐ行くとバス通りにぶつかるから、そのT字路を左に行くと壮観というホテルがあるんだけど、その入り口の前が停留所になってるから、急いで」
と教えてくれた。
 日頃走ることなどないようなだらけた生活をしている上に、重いカメラ装備を抱えながらの時間との戦いはかなりしんどかった。T字路といっても、実際は人の歩ける道が向こう側に繋がっていて一見それとは見えなかったし、バス通りと行っても今バスが走っている訳ではないし、ほとんど勘を頼りに息を切らせながらホテルを探すと、ついに時間ギリギリのところで、ホテル入り口を発見した。ところが肝心の停留所がない。フェンスにピンクのリボンがぶら下がっているから、これが目印かなあと思案していると、先程通り過ぎた交差点の所に、脇道から出て来たバスが右折してこちらに向かって来ようとしている。「良かった!」と胸を撫で下ろしたところで信号が変わり、「代行バス」と表示されたバスがやって来る。
 しかし、そのバスは私のところで減速もせずに通り過ぎてしまった。ホテルの入り口にぽつんと立った私を置いてきぼりにして。やはりここは停留所ではなかったのだ。とすれば、ホテルの入り口はどこにあるのだろう。バスが現れた交差点の所まで戻ると、脇道の先に大きな立て看板があり、先程の入り口よりももっと立派なエントランスが見えた。あっちが正門か!と気付いたときはもう後の祭りだ。このままだと今日の予定はガタガタになる。こうなれば出費は覚悟でタクシーに頼るしかなかった。

タクシーで行く

 運転手さんは気さくな人だった。早速震災のことを尋ねてみる。というのも、意外なことに高城町周辺の民家は震災の影響をまったく受けていないように見えたからだ。
「このあたりは大丈夫だったのですか」
「松島の島々が守ってくれたんですよ。太平洋を津波は押し寄せたのですが、島々で勢いは弱まっていたんですね。ただこの先の地区はだいぶやられて、仙石線も被害を受けました。今急ピッチで工事をしているので、来年には復旧します。新しい仙石線は今までよりも嵩上げして線路が作られるから見晴らしが良くなりますよ。湾が一望できるようになります」
 明るい、前向きな運転手さんだった。有難い。苦しい話をする人には、どう慰めればよいのかわからないし、そもそも触れてはいけない話題なのかもしれないからだ。
 車窓からは仙石線の復旧の様子がよくわかる。陸前富山から陸前大塚のあたりは海岸沿いに線路が敷かれているために、堤防と路盤を嵩上げして、その上に線路を敷き直してある。復旧後は観光の目玉になりそうな所である。
「ところで運転手さんは震災時どこにいたのですか」
「家にいました。2階に逃げたんですよ」と笑顔で答える。
「庭にいたら、家の前の川にヘドロの様な水が逆流して来たんです。まさかここまでは来ないだろうと高を括っていたら、あっという間に隣の塀を越えて、腰の高さまで水がやって来たんです。家の中に逃げようにも水圧で窓は開かないので、上の小窓から家に潜り込み、2階に登って見ていたんです。津波は11回押し寄せたんですよ」と、恐怖の体験を笑顔で語る。きっとこの話をもう何百回と繰り返してきたのだろうなと、同情する。
「怖かったでしょう」
「そりゃ、生きた心地がしませんでした」
と話す間も笑顔を絶やさない。
「今この道路は高い所を通っているでしょう。これが堤防となって、右側はぜんぶやられたんです。左はなんともなかった」
 その話の通り、左側には年季の入った家が点在し、右側は新築ばかりだった。
「堤防は嵩上げされたのですか」
「いや、まだこれからです。じきに取りかかります」
ということは、今はまだ津波には無防備なままなのだ。にもかかわらず、生活のために家を建てている。そこには仮設住宅もある。
「震災後1〜2年目は、被災地見学の人も多かったのですがねえ。今は寂れる一方ですわ」
 仙石線は来年初夏に復旧する予定である。被災地見学も地元経済に貢献できるならまた訪れようと思う。

陸前小野から石巻へ


 陸前小野駅は新しく建て替えられた小さな駅だ。建物の中にはちゃんと売店もある。ただお酒は扱っていなかった。用意した牛タン弁当にはビールが合うと思っていただけに残念だ。気を取り直して駅のベンチに腰を下ろし、包み紙を解き、牛タンを頬張る。専門店で購入しテイクアウトしたものだけに、冷めても実に美味しい。
 予定の列車が来るまでにはには間があった。高城町同様この駅も代行バスの停留所からは遠く、乗り換え客は見当たらない。タクシーを利用したからこそ貴重な話も聞くことが出来て、かえって良かったと思いながら、列車の到着を待つ。ホームから高城町方面を見ると新しく敷き直された線路が続いている。今は錆びたレールも列車が走り始めれば再び光り輝くようになるだろう。あともうすぐだ。
 しばらくしてやって来たのは、電車ではなく気動車だった。陸羽東線・陸羽西線で使われているキハ110だ。奥の細道湯けむりラインとロゴのある車両である。震災で電車を失い、また電化施設も被害を受けただろうから、気動車が今までこの地域を支えてきたのだ。脳天気な旅人にとっても、クロスシートの列車が来て、かえって嬉しいくらいだ。その列車に乗車したのはたった二人だけだった。
 最初の駅である鹿妻の駅前にはブルーインパルスのジェット機が飾られている。ここには航空自衛隊の松島基地があり、自衛隊から東松島市に寄贈されたものだそうだ。その展示はちょうどプラモデルの戦闘機のように、まさに大空を飛翔し上昇する姿で台座に固定されているので、模型ではないかと思えてしまうくらいだが、実際にかつて練習機として活躍した本物のジェット機なのだという。確かに教官が同乗できる複座機であった。
 次の矢本からはたくさんの人が乗車してきた。先程松島海岸で降りた人達が混じっている。彼らはここまでただ乗り継いで来ただけだろうが、こちらは貴重な体験をしてきたのだぞと、ちょっぴり心の中で自慢をしてみる。
 石巻に着く。宮城県第二の人口を擁する都市なのに、仙台と直接結ぶ鉄路は閉ざされたままである。来年以降仙石線が復旧し、仙石・東北ラインが走り出したら必ず再訪しようと思う。しかし今日は小牛田経由で遠回りしつつ仙台に戻ろう。そのために古い気動車が待つ石巻線ホームに向かった。
(2014/10/2乗車)

2014年10月1日水曜日

鉄道王国の新世代路面電車

富山の鉄道

 富山は鉄道王国なのだそうだ。ところどころに貼られたポスターにそう書いてある。確かに黒部・立山と市内を結ぶ富山地方鉄道があり、その先には絶景路線で有名な黒部峡谷鉄道が控えている。おいそれと乗ることは出来ないが、鉄道ファン垂涎の立山砂防工事専用軌道という驚愕のトロッコまである。新幹線だってもうすぐ開業する。斜陽の鉄道界にとって、確かに富山は異彩を放っている。
 
宮脇俊三と富山港線

  鉄道の「時刻表」にも愛読者がいる。
 
で始まる名作『時刻表2万キロ』の第1章は富山が舞台だ。宮脇は時刻表の愛読者だから、絶妙な列車の乗り継ぎプランを考え、途中駅で分割併合を行う列車の運用を予想して、効率のよい汽車の旅を目論むが、時に予想が外れ、失敗することもある。そんな我が身を愚かしく思いつつ興じている姿に、大人の余裕を感じ憧れる読者が数多くいる。
 さて、神岡線の乗り継ぎに失敗し予定変更を余儀なくされた宮脇は、次の富山港線を乗り潰す方法として、タクシーを利用して終点から折り返す列車に飛び乗ろうと考えた。富山港線は富山と岩瀬浜との間を往復するだけの路線なので、富山で乗り遅れても岩瀬浜に先回りすれば完全乗車は可能だからだ。しかも その日は休日だから道も空いているだろうと高を括った。富山と岩瀬浜の間は、県道と富山港線が並んで走っている。列車で富山に着いた宮脇は、タクシー乗り場に急ぎ、すぐにタクシーで行ってしまった電車を追いかけたのだが、あいにくと信号が多く、しかも急いでいる時に限って赤信号につかまるということで、あと一駅の東岩瀬で諦めざるを得なかった。

  東岩瀬の改札口は岩瀬浜寄りにある。古さびた
 ホームの端に立って北へ伸びた単線の線路上を見
 すかすと、いましも岩瀬浜を発車したばかりの焦
 茶色の電車がこちらへ向かってくる。私はそれに
 乗って富山へ引き返した。東京か大阪で使い古し
 た国電の車両であった。

 たった一駅を残して撤退する宮脇。努力もむなしく、乗車距離は伸びたものの、いつか再びここへ来なければ完全乗車は達成できない。しかも使い古しの国電が走るような、面白くでもない路線である。それでも文句一つ言わないところが大人の嗜みであろう。宮脇は1年半後、四国からの帰りに東岩瀬・岩瀬浜間に乗車する。岩瀬浜の駅から先は貨物線が続いていて終着駅らしくなかったと記されている。

 このぱっとしない富山港線は大赤字だったので、JRは廃線にする予定だった。そこで立ち上がったのが富山県・富山市それに地元の企業である。富山港線をLRT(Light rail Transit=軽量軌道交通)化し、富山駅北側の道路に併用軌道を新設して、市街地の活性化に役立てようと計画する。そうして設立されたのが、第3セクター、富山ライトレール株式会社だ。

富山ライトレール

 富山ライトレールを走るLRV(Light Rail Vehicle=軽量軌道交通用車両)の愛称はポートラムという。ポート(港)とトラム(路面電車)を掛け合わせたもので、かつての冴えない富山港線とは一線を画すセンスの光るネーミングだ。
 富山駅は現在建て替え中で、構内は臨時の通路が入り組み、工事現場さながらの状態である。北口改札も仮の設備でなんの風情もないが、その駅前におしゃれなポートラムが停車して、回りには帰宅途中の人々で賑わっていた。
 2両連接車のポートラムは、万葉線のアイトラムそっくりだ。それもそのはずで、全国のLRVは新潟トランシスという会社が一手に製造を引き受けているからである。しかもすべてドイツ・ボンバルディア社からライセンスを受けてのことだから、日本の鉄道愛好家としては少し複雑な心境だ。
 万葉線と同じように、駅前の賑やかな道路部分はすべて単線である。旧富山港線から離れて路面電車としたところは今のところ単線なのであるが、今後道路の拡幅がなされるところには複線化の予定もあるという。
 路面を走るLRVの乗り心地はすこぶる良い。加速は滑らかだし音も静かなので、乗っていて疲れない。座席も工夫されていて、通路を挟んで2人掛けと1.5人掛けのクロスシートとなっている。この1.5人掛けが秀逸で、子供連れなら2人並んで座れるし、1人だったらゆったりと荷物も置ける。
 最初の停留所はインテック本社前、有力な出資企業に敬意を表して名付けられた名前かと思いきや、今はやりの命名権を1500万で購入したのだそうだ。考えてみれば当たり前だ。すぐ隣には同じ出資企業の北陸電力本店のビルもあるのだから、一社を優遇するはずがない。
 起点からの1㎞区間が新設された路面電車区間であり、奥田中学校前からが旧富山港線の線路を走る鉄道区間となる。ポートラムがいかにもLRTらしいのは、市街地は路面電車として、その先は郊外電車として、両方の役割を併せ持っているところである。だから鉄道区間では制限速度が20㎞/hアップし、60㎞/hで軽快に走行する。その効果は絶大で、富山港線時代よりも駅数が3つ、列車交換可能駅が1カ所から4カ所に増え、単線ながら日中15分間隔の高頻度運行を実施しながらも、所要時間がほとんど変わらずに済んだ。
 ただし窓に広がる風景はなんの変哲もない。工場、宅地、空き地、道路沿いの看板など、港が近いだけに住む人は多いのだろう、雑多な感じの風景だ。宮脇俊三が書いたように使い古した国電が走っていそうな場所である。そのような土地柄の中をポートラムは色鮮やかに疾走する。7編成在籍しているポートラムは七色の違った塗装が施されているのだ。
 終点の岩瀬浜は、周囲に店もない寂しいところだった。ただホームは綺麗に整備されていて、一つ屋根続きでバスに乗り換えられるように工夫されている。お客様視点で作られているところが、またポートラムの人気に繋がっているのだろう。
 宮脇俊三がこの地を訪れてから25年以上が経ち、だいぶ変わったところもある。今では岩瀬浜駅の外れに車止めが設置されて、ちゃんとした終着駅になっている。宮脇俊三は鉄道に乗るためだけに旅を続け、その点では自分も変わらないつもりなのだが、どうやら私の方が欲深いようで、少しだけ観光もしてみたくなる。知人から教わったことだが、ここには歴史的な町並みが残されているのである。
 
 岩瀬は北前船で栄えた所だ。船による交易は、倍々に儲かるので「バイ船」と土地では呼ぶのだそうだ。その廻船問屋が大町通りに残されている森家である。バイ船が扱う物資で巨万の富を得た森家は、贅を尽くした屋敷を建てた。それが国の重要文化財に指定されたのをきっかけに、周辺の歴史的景観を保全しようとしているのである。岩瀬浜から東岩瀬の間は1.5㎞ほどなので、ポートラムを2本遣り過ごす程度で散策が出来る。夕方になってすでに閉館の時間だろうけれども、せめて町並みの風情だけでも触れてみたかった。
 電柱や電線が埋設された大町通りには江戸時代の風情が漂っていた。森家の屋敷は明治11年の建築だというが、雰囲気を壊さぬよう近年の建物も昔の姿で建築されている。ここは商店街なので銀行も営業しているが、北陸銀行の建物も格子や木の看板を設えた昔風建築だ。北前船のモニュメントが飾られた広場には明治のガス灯風の灯りが光を放っている。岩瀬はポートラムで訪れることのできる歴史的散歩道だった。
 東岩瀬の駅まで歩いてきた。宮脇俊三が悔しい思いをした駅である。『時刻表2万キロ』で「岩瀬浜寄りにある」と書かれた改札口のある駅舎は、今は休息所としてのみ使われている。白熱球の灯った駅舎をよく見れば、入り口の柱やガラス窓が凝った作りになっている。それなのに「古びたホーム」としか書かれていないのはどうしてだろう。呆然と岩瀬浜から来る国電を眺めただけで気付かなかったのか、それとも後になって観光のため造り替えたのかはわからない。宮脇ファンとしては、呆然として気がつかなかったのだということにしておこう。
(2014/10/1乗車)