2015年8月22日土曜日

ドイツの鉄道(ハノーファー編)

シュタッドバーン!
中央分離帯を走る5号線Stocken行

 速度制限のないアウトバーンを降り、緑に包まれた市街地に入ると、まず目に飛び込んできたのは、ゆったりとした中央分離帯を走る路面電車だった。その瞬間、「ああ、ヨーロッパの街に来たなあ」という思いがこみ上げてきた。欧州の街並みの中を軽快に走る路面電車は、お洒落でかわいらしい珠玉の風物詩である。
 
 北ドイツ平原を、ベルリンから3時間余りかけて高速バスが走っている間、そこには人の住めない土地など全くないのではないかと思えるくらい、肥沃な農耕地が広がっていた。畑の中には数多くの風力発電機がゆっくりと旋回し、豊かで先進的なドイツが、環境立国としても世界をリードしていることを感じずにはいられなかった。そして森と都市が共存することで有名なハノーファーには、50万人の人が暮らしている。日日の暮らしを支えるために、自動車社会のドイツであっても、ここでは鉄道は都市交通として重要な役割を負っているのだ。

 ハノーファーの鉄道案内図には、Regionalzug und S-Bahn 用と Stadtbahn 用との二種類があるが、どちらにもぴったりとした日本語がない。Reginalzug は「中距離電車」のことだから日本で言えばJRや私鉄各線の路線図のようなものに近い。ところが S-Bahn が Stadtbahn から生まれた名称で、どちらも「都市鉄道」を意味するところから、前者は後者を含むものと早合点すると間違ってしまう。この二つは明確に使い分けられているのだ。
 Stadtbahn には英語の Light Rail System というニュアンスが含まれている。直訳すれば「軽量軌道交通」、つまり市街地は路面電車として、郊外に出ればそのまま近郊鉄道として活躍するLRT(Light Rail Transit)  というわけだ。軌道やレールが軽量簡素なため Light  Rail と呼ばれるが、それならば S-Bahn は<重量鉄道による都市鉄道>という意味合いで使われているのであろう。一番馴染みの深い普通の鉄道だ。
 日本の大都市では S-Bahn が当たり前だが、最近は富山や福井、広島などで Stadtbahn が市民の足として大活躍するようになった。ところがこちらの Stadtbahn は、日本のものとはまたひと味違うのである。

地下に潜る路面電車


U-Bahn区間から地上に姿を現した
5号線Anderten行。       

 もともと路面電車だから石畳の上を走るし、交差点では自動車と一緒に十字路を曲がったりする。ところがなにぶん「新しい路面電車」なので、4両編成で走っていたりもする。さらに市の中心部では車や人通りを避けて地下にもぐってしまうのだ。こうなると道路面を走っていないので、路面電車とはいえなくなる。実際、この区間は U-Bahn と呼ばれ地下鉄扱いとなる。停留所の位置を示すマークも路面電車のときは<S>、地下にもぐれば<U>と表示される。実に変幻自在、柔軟性に富んだ鉄道なのである。
7号線Misburg行。クレプケの深
い地下ホームにて。     

 ハノーファー市の人口は仙台市の半分ほどだが、そこに4系統、枝線を含めれば11〜12の路線が、ハウプトバーンホフ(ドイツ鉄道の中央駅)、クレプケ(一番の繁華街)などを接続駅にして広がっている。なかでもクレプケは全ての路線が集散離合する拠点駅である。そこは地下に巨大な空間がぽっかりとあいていて、路線がクロスする大きな駅である。ここまでくるともはや路面電車の面影はなく、まるで秋葉原駅が地下にあるかのような、地震国日本では決して見ることの出来ない地下空間である。東京の地下鉄大手町駅も地下で複雑にクロスしているが、頑丈な構造物に囲まれていて他の路線を見渡すことができない点が大きく異なる。
5号線Anderten行。
Herrenhauser Gartenにて。

 都市の構造にフィットした Stadtbahn は、建設費や維持費の面でもかなり有利だろう。高架橋を造らず、道が広いため停留所にホームを設け、必要な場所しか地下化しない。しかもそこは耐震構造にする必要のない構造物。改めて人の住める土地が少なく、起伏に富んで地震の多い日本に鉄道を敷くことの難しさが思い遣られる。
 しかしながら、仙台市にようやく2本目の地下鉄が来年開業される現状を見てみると、都市における鉄道建設という点で、莫大な建設費を伴う地下鉄で良いのだろうかと思えてくる。U-Bahn と Stadtbahn の組み合わせは十分参考になるシステムに思える。

違いに戸惑う
9号線Fasanenkrug行。
Hauptbahnhofにて。

 海外では自動車と同じように鉄道が右側通行のため、ホームに立つとつい列車の来る方向を見誤り、突然予期せぬ方から現れてドキッとすることになる。日本で身についた感覚はなかなか抜けないので、ホームに立つたびにどちらから来るのか考えることになる。
 そのホームなのだが、改札口がない。車掌もいないし、運転手が切符を回収することもない。ただし無賃乗車が見つかると高額なペナルティーを科せられる。時々実施される車内検札で乗車券を持ち合わせていないと、1,000ユーロ(この時は約13万5千円相当!)の罰金を取られるはめになる。だからキセルはない! ということなのか、仮にあってもごくわずかなので、人件費・設備費節減に役立つと考えているのだろう。日本に比べて、混雑率が低いので可能であることは間違いがない。自己責任を重んじる国柄だから可能なのだという考えは早計であろう。
7号線Wettbergen行。
Spannhagengartenにて。

 それにしても技術大国ドイツだけあって、乗り心地も良く、綺麗でデザインも悪くない。しかもあまり待つことはなく頻繁にやってくる。もともと欧州の技術であるLRT(Light Rail Transit)の技術がふんだんに投入されて、小回りと快速性を兼ね備えた都市交通として活躍している。
(2015/8/21〜23 乗車)



ハノーファー中央駅にて
趣のあるDBのHannover Hbf。Hbf
は、ハウプトバーンホフで中央駅
の意味。駅前の道路にはよく見る
と軌道が敷かれている。 Stadtbahn 
10号線はナイトサービスとして夜
路面をる。        


 DBの略称は西ドイツ時代から続く伝統的なものだが、その頃はDeutsche Bundesbahn(ドイツ連邦鉄道)の略であり、1994年に旧東ドイツのDeutsche Reichsbahn(ドイツ国営鉄道)と合併し、民営化してからはDeutsche Bahn(ドイツ鉄道)となって、略称を引き継いだ。
 ハノーファー中央駅にはDBの列車がたくさんやってくる。改札口も何もないホームを行き来しながら、楽しく賑やかなドイツ鉄道を楽しんだ。
ユルツェン行メトロノーム号
客車側運転室。      

 まず最初が、ハノーファー発ユルツェン行のメトロノーム。その名の通り一定間隔で都市間を往復する列車である。経営改善を目的に地元企業のメトロノーム社に委託運営させているので、正式にはDBの車両ではない。定時に発着する優等列車は、最近の日本ではJR東海と北海道でしか呼ばれなくなったが、L特急のようなものだ。このメトロノームは5時台から0時台までの間、毎時40分にハノーファーを出発し、およそ85㎞のユルツェンまでを58分で駆け抜ける快速列車である。環境大国ドイツだけに自転車ごと乗車可能な2階建て車両で、機関車が推進したり牽引したりするプッシュ・プルタイプである。写真は推進運転のもので、客車に設置された運転台に機関士がいる。車両断面がかなり大きいので、近寄るとたいへん威圧感がある。
最後尾に連結された電気機関車。

 日本が電車王国となったのは、機関車牽引の場合終着駅で機関車を付け替えなければならず、手狭な駅にそのゆとりがなかったことと、機関車自体の加速性能が悪かったことからである。一方ドイツでは快速列車を中心に機関車を付け替えることなく、推進運転と牽引運転で行き来する列車がたくさん走っている。日本の常識では考えられないところだが、実際に乗ってみると加速性能は電車に引けを取らないし、発進時や減速時の衝撃も全くなく、客車にモーターが付いていない分、騒音も振動も極めて低く抑えられていて、実に快適である。おまけに駅には改札口すらないから、移動はスムーズで悪いところはどこにも見当たらない。
 それを可能としたのは、強力な電気機関車と緩衝装置付きで車両を密着させるねじ式連結器のおかげだろう。軌道がしっかりしているという利点もあるに違いない。走行音の静かな客車列車が日本から消えようとしている今、近郊の快速にまで客車列車を運行させているドイツ鉄道は羨ましい限りだ。

 一方、DBのプッシュプルとしてはREGIOと呼ばれる短距離旅客列車が数多く走っている。日本の快速(普通)列車である。中央駅に総二階建て客車6両を押して入線してきた姿は、実に壮観である。DBのシンボルカラーは赤なので、赤い客車が実に多い。それがまた格好いい。


 最後尾には同じ色で統一された電気機関車が控えている。停車中は鳴りを潜めている電気機関車であるが、発進直前には急にうなりを上げて力強く押し始める。この機関車は快速列車に多く用いられている最高速度160㎞の146型と思われる。

 REGIOと異なり、高速優等列車IC(インターシティ)は推進運転は行われない。一二等車や食堂車を連結した伝統的な電気機関車牽引の客車列車である。客車は白い車体に赤い帯を巻く。
ライプツィヒ行 IC2039

 この時入線してきたのは、インバータ制御を搭載し今では第一線から退いたと言われる120型電気機関車が牽引するインターシティである。ドイツの機関車の型式番号は必ずしも番号が若い方が古い訳でもなく、わかりずらい。ラインゴルト号で有名な日本でも人気のある103型電気機関車よりも101型の方が新しい。
ブレーメン行 ICE630

 さて、ドイツの高速鉄道といえばICEだが、全体が統一されたデザインで一見電車列車に見えるものの、その多くは先頭と最後尾に電気機関車を配した客車列車である。入線してきたのは、12両の客車と2両の電気機関車からなるICE1だった。最高速度250㎞。1両屋根の高い車両があるが、これは8号車の食堂車だ。レストランとビストロが厨房を挟んで設置されている豪華な列車である。



 日本の新幹線やフランスのTGVに比べると、少し地味な感じのするICEではある。また、1998年にエシェデで重大事故を起こしたことも記憶に残っている。時速200㎞で走行中に弾性車輪が破断して引き起こした事故だった。100名余りの人が亡くなったと聞くが、日本の新幹線だったら桁が違っていたなと思ったものだ。それでも技術立国の看板列車である。一度は乗ってみたい憧れの超特急だ。

(2015/8/22 見学)

2015年8月5日水曜日

福井の鉄道 これぞ日本の Stadtbahn だ!

 無節操で影響を受けやすい筆者は、この夏のドイツ旅行以来、すっかりあの国の鉄道にかぶれてしまった。なかでもドイツ語で Stadtbahn と呼ばれる LRT は、路面電車と近郊鉄道線を融合させた、経済的にも技術的にも優れたもので、その上地下鉄までもカバーする変幻自在の鉄道だった。
 そのドイツ旅行の2週間前に訪れた福井鉄道も、近年フクラムの愛称で親しまれる新型車両を51年ぶりに導入して話題となっている。地下鉄区間こそないものの、福井鉄道は Stadtbahn として見た場合、きわめて多くの共通点を持っている。富山の LRT とはひと味もふた味も違う、福井鉄道の魅力を紹介する。

越前武生駅 沿線随一の本格的
な駅舎とホームを備えている。
右は現在主力の一つ770形。左は
かつての花形急行用200形。  

 福井鉄道福武線は、越前武生と福井市を結ぶ全長21.4㎞の鉄道である。武生といえばかつて越前国の国府があった歴史ある町で、『源氏物語』の作者紫式部も受領の父親に連れられてここで少女時代を過ごしたことでも有名な土地だ。昭和20年に福武電気鉄道と鯖浦電気鉄道が合併して福井鉄道となったことから、本社は現在でも武生にある。つまり、武生から福井市に進出した鉄道なのである。一方の福井は一乗谷の朝倉氏が滅亡した後、柴田勝家が領有して以来の土地柄であり、幕末に俊才の誉れ高い松平春嶽を輩出したとはいえ、歴史では武生の後塵を拝するところと言える。
福井駅前から市役所前に進入する
急行越前武生行。この後一旦通り
過ぎてからスイッチバックして、
こちら側の線路に転線し、乗客を
乗せてから、左手前方に向かって
進んでいく。         

 それが影響しているわけでもないだろうが、面白いことに越前武生から赤十字前・木田四ツ辻間にある鉄軌道分界点までの18.1㎞は鉄道区間、その先の福井市街地区間3.3㎞は軌道区間つまり路面電車扱いとなっている。ここがまさに日本の Stadtbahn というべきところなのである。都市間を結ぶ近郊型の鉄道と市街地に適した路面電車との融合である。
 路面電車区間は市役所前で福井駅前方面と田原町方面に分岐するが、その分岐の仕方が若奇妙なのだ。常識的に考えると、福井駅前から武生を結び、途中から田原町方面に支線で分岐させるほうが運行しやすい筈だ。ところがここでは、そうなっていない。福井駅前を出た電車は市役所前で一旦停車し、一旦通り過ぎてスイッチバックしてから武生に向かうのである。いったいどうしてこんな面倒な配線にしたのだろうか。それは市役所前が福井駅前以上に重要であり、スイッチバックさせても経由する必要があったからだろう。電停レベルのホームでありながら、地下道で通じている位の主要駅である。
FUKURAMはFUKUIとTRAMの
合成語。福井駅前にて。左後方
に改築中のJR福井駅が見える。
将来はここまで延長される。 

 それに対して福井駅前は簡素なものだ。道幅が狭いこともあって、市役所前で分岐するとすぐに単線になってしまう。現在、JR福井駅が大改修中で、その完成にあわせて福井駅前も乗り換えやすいように移動することになっている。おそらく新駅には2本の電車が停まれるようになるだろうから、田原町でのえちぜん鉄道への乗り入れ工事が進んでいることも考え合わせると、今後はもっと賑やかな駅前となることだろう。そしてそこで大活躍するのはFUKURAMことF1000形超低床車であろう。現在2編成が活躍している。新しい車両は街並みにすっかり溶け込んでいる。3両編成で、全ての車両に台車が付いているので、間に吊られる形の付随車両を挟めばもっと定員が増えるはずだが、そこまでの需要はなかったのだろう。

普通の電車が道路との併用軌道を走
る。これが人気の秘密。     
市役所前にて。

 ところで福井鉄道が多くの人を惹きつけたのは、FUKURAM 同様に編成の長い本格的な電車が、51年も前から路面電車区間を走っていたからである。
 昭和35年に福武線の急行車両として登場した200形は、2両編成ながら本格的な電車列車であり、当時流行だった湘南電車と同じ風貌を身につけた格好良い電車であるばかりでなく、車輪に直接モーターを取り付けるのではなく、振動が伝わりにくいカルダン式という新しい技術で造られた電車であったことも人気の秘訣だった。しかも、小田急のロマンスカーにも採用された連接式車体といって、車体と車体の連結部に台車を配するという最先端の電車だった。この方式は、車体と車体が一体化しているので、振動が抑えられて乗り心地がよいという特徴がある。
連接車両の台車。コイルに挟まれ
たオイルダンパが揺れを更に低減
させる。地方私鉄とは思えない最
先端の技術が導入されていた。 

 鉄道部門は赤字を抱えて苦戦している福井鉄道だが、常に時代の最先端を導入するという点において、実に腹の据わった鉄道会社だということができよう。51年も走り続けて、もはや引退目前の200形だ。今回、福井に来てこの電車の走る姿に出会えたのは誠に幸福だった。
 現在数多く在籍する路面電車型の2両連結車両は、名古屋鉄道からのお下がりで、廃止となった岐阜市内線から回ってきたものだ。出入り口部分にステップがついた770形は、200形と同じように連接車である。製造後20年程度の比較的新しく状態の良い車両といえる。
 福井鉄道に限らず、豪雪地帯のこの地方では、単線区間から複線区間になる所、特に交換施設のある駅の両側の分岐器には、スノーシェッドが設置されている。分岐器は雪に弱いからだが、出来るだけ除雪に人の手を掛けたくないという、地方鉄道固有の事情もあるのだろう。JR北海道の閑散地域ではよく見掛けるが、本州では珍しいのではないだろうか。
 LRTが普及する北陸地方にあっても、その先見性という点で異彩を放つ福井鉄道。営業成績が良くない中で、奮闘する姿を見ていると、ぜひ応援したくなる。
(2015/8/5 乗車)

 【注】ドイツから帰国後にまとめたため、その経験が反映された内容となっている。


 

2015年8月4日火曜日

福井の鉄道 恐竜王国篇

Kingdom of the Dinosaurs FUKUI
えちぜん鉄道勝山行き車窓左手
5㎞遠方に、巨大な卵の形をし
た福井県立恐竜博物館がある。

 恐竜に特別な興味はないけれど、福井の鉄道には前から乗ってみたかった。そこで乗りに行ってみたら、行く先々で恐竜が待っていた。なんと福井駅のベンチには恐竜が座っていたりする。昔映画で観た(こちらは怪獣だが)モスラの卵のような巨大な建造物まである。福井の情熱は、同地が日本最大の恐竜化石の産出量を誇るところからくるらしい。日本の恐竜化石の8割は福井県で見つかるという。フクイサウルスという草食恐竜や映画『ジュラシックパーク』にも登場する肉食恐竜のラプトルの仲間、フクイラプトルなどと命名された怖ろしい恐竜も発見された。そんな王国の鉄道を紹介する。

えちぜん鉄道勝山永平寺線

 古くからの鉄道愛好家であれば京福電鉄越前本線と言った方がなじみがあるかもしれない。京福電鉄の名前は、今では京都嵐山や比叡山のケーブルカーなどでしか見ることができないが、出町柳と鞍馬や八瀬を結ぶ叡山電鉄もかつては京福電鉄だった。そもそも京都の鉄道会社と思われがちだが、その名前の通り京都と福井に鉄道を持つ会社だったのである。それが今では京都の片隅(いずれも名観光地だが)で細々と中小私鉄として営んでいるのは、この会社が悲劇に見舞われているからである。なかでも今回訪れた勝山永平寺線(当時の越前本線)で2000年と2001年のわずか半年間に二度起こった正面衝突事故では、国土交通省から運行停止命令を受けるという鉄道会社にとっては屈辱的な結果となってしまった。その結果、経営の危機となった京福電鉄は福井地区と叡山地区の路線を手放すことにしたのである。
 地域の足を確保するために、福井県では第三セクター方式の鉄道会社として存続させることを決め、福井市や勝山市が出資するえちぜん鉄道が2003年に開業した。ということで、えちぜん鉄道は古くて新しい鉄道である。どことなく都会的な外観の電車が、地域の足を支えている。京福電鉄時代には叶えられなかった車両の更新や保安施設の整備に相当資金が必要だったのだろう、運賃は決して安くはない。福井・勝山間のわずか27.8㌔で770円という運賃はJRの約1.5倍。このあとで乗車した福井・三国港間も同額だったため、この日の合計は3,080円の支出となった。
 お金のことなど無粋な話はすべきではないが、もしも今日が土日だったらフリー切符がなんと900円で買えたのである。これはいくら何でも安い! また切符売り場には夏休み親子企画として、大人一人と子ども一人のフリー切符が1,200円で販売されていた。「親子フリー切符は大人だけでも使えますか」と尋ねると、気の毒そうな顔をされて「使えません」という返答が返ってきた。それはそうだろう、乗りたくてやって来た客に割り引く必要はないし、二度と乗らない客に過剰なサービスは不要だ。ということで、図らずも今日の私は地域振興のために役立った筈である。
 電車は小高い山に囲まれた九頭竜川沿いの田園地帯をトコトコと進んでいく。途中永平寺口ではバスを利用して永平寺へ向かう人がかなり下車した。もともとはここから永平寺まで線路が敷かれていたが、これも衝突事故の後に廃線となってしまった。
 
 終点の勝山駅は国の登録有形文化財に指定されている由緒正しき駅である。そもそもこの鉄道が施設されたのは1914年のことで、当時は越前電気鉄道と呼ばれた。この時に造られた駅舎が今でも利用されている。勝山市の鉄道玄関口として大切に保存・修復がされていて、さながら生きた博物館のようだ。おしゃれなコーヒーショップも営業されていて、ここから恐竜博物館へ向かう人達の休み処にもなっているのだろう。
 勝山駅前
さすがに当時の車両は残っていないが、開業6年後に導入された電気機関車テキ6形が、構内の片隅に大切に保存されている。まるでちっぽけな豆電車のような形だが、この電気機関車の導入によって大幅に輸送力が向上したのだという。貨物輸送専用の電気機関車として活躍し、昭和55年までの60年間、地域の織物製品や木材を運び続けたのだそうだ。えちぜん鉄道から勝山市に寄贈されたもので、産業遺産として大切に保管されているのである。

越美北線(九頭竜湖線)


 一旦福井に戻って、次はJR線だ。岐阜県の美濃太田から北濃までを結ぶ国鉄越美南線が第3セクター化し長良川鉄道となった今でも、越美北線は旧国鉄を引き継いだJR西日本のローカル線として生き残っている。並行して走るえちぜん鉄道とは異なり、ここで使用されている車両は、通常よりも車長が2割ほど短いローカル線専用のワンマンディーゼルカーだ。このキハ120系はJR西日本の標準的なローカル車両である。

スタフは鉄道の通行手形。
信号機が発達した現在では
とても珍しい存在である。
改装された立派な福井駅の片隅の切り欠きホームから出発する。全線単線非電化。事実上越美南線がなくなり、北線だけとなってしまった越美線は九頭竜湖線という愛称で地域の足としての役割を担っている。福井平野をしばらく走り、山が両側から迫ってくると戦国の武将朝倉氏で有名な一乗谷に着く。国の特別史跡となっている一乗谷朝倉氏遺跡までは駅から1㎞半ほどだが、無人駅に史跡の地図が掲示してあるだけで、ここから歩く観光客は少なそうだ。里山の谷間をしばらく進めば、越前大野である。ここは列車交換できる最後の駅だ。
 この先九頭竜湖までの間に、信号機は一切なくなる。その代わりとして通行手形とも言えるスタフが手渡され、終点までは7駅あるものの、スタフを持つ1車両だけが往復できるという1日5往復の閑散路線となる。柿ヶ島の手前で九頭竜川を渡り、水力発電所があるような山の深い谷川となり、その先越美北線はトンネルが連続して、それほど景観を楽しめるわけではない。将来、長良鉄道越美南線と結ばれることは決してないだろうが、仮に結ばれたにしろ、あたりの深い山の様子から見て、トンネルだらけの路線となったはずである。いくら自分が鉄道好きだからといって、夏休み期間の旅行シーズンにも関わらず、これほどまでに乗客がまばらなこの路線を更に延長せよなどとは決して言えない。
終点の九頭竜湖駅からダムまでは直線距離でも3㎞ほどあって、残念ながら駅前から湖を眺めることは出来なかった。そのかわりここでも出迎えてくれるのは恐竜たちだった。マイカーで訪れる観光客の人々が、電動で動く恐竜たちを見て興じていた。


えちぜん鉄道三国芦原線

 越美北線を往復し、福井駅に戻ってくる頃には午後の日差しもだいぶ傾いて来た。次に目指すは三国港である。三国と言えばカニのブランド越前ガニのメッカだ。一匹一匹ごとに黄色いタグがつけられた越前ガニだが、なかでも三国港で水揚げされたものは皇室にも献上される最高峰の高級ガニで、三国出身の知人に言わせると、地元民も口にすることがないのだそうだ。地元民が口にするのは雌のセイコガニだそうだが、近年こちらの方も人気が急上昇している。いずれにせよ冬の味覚だから今回は食べられないものの、それはかえって良かったかもしれない。なまじシーズンにやって来たとしても、高級過ぎて鉄道のひとり旅のついでに食べるような御品ではない。
 ただしせっかく夕暮れ時に三国港まで行こうというのだから、早めの夕食に海鮮丼のようなものが食べたいなあと思いつつ、三国芦原線に乗車する。午前中に乗車した勝山永平寺線と同じデザインだが、こちらは利用者が多いのだろう、2両編成の電車である。福井口で勝山永平寺線と分かれると、えちぜん鉄道の車両基地を左に眺めつつ北陸線をまたぎ、福井鉄道との乗り換え駅田原町に着く。帰りはここから福井鉄道に乗り換えて福井駅に行く予定である。
 芦原温泉の最寄り駅、あわら湯のまち駅までは広い田園地帯をほぼ真っ直ぐに北上する。駅周辺にはホテルや旅館がたくさん集まっていて、美人の駅員さんが改札口でにこやかに迎えるこの鉄道の主要駅なのだが、芦原温泉駅を名乗らないのは、ここから4㌔も離れた所にJRの同名駅があるからだ。ただしJRで訪れる人はバスに乗り換えてここまでやって来なければならない。あくまでも本家はこちらである。
 さて、ここから終点の三国港は近い。進路を90度変え真西に向かい、九頭竜川の河口で日本海にぶつかる所に著名な港がある。私が訪れた時は夕方ということもあって、市場に人けはなく、ひっそりと静まりかえっていた。こうして、えちぜん鉄道全線を乗り終えることができたわけだが、祝杯をあげるべく下調べしていた店は臨時休業だった。夏の期間だけは昼ばかりでなく夕方も開店しているとネットには記されていたのに、残念である。これだけ閑散としているのだから、やはり臨時休業にしてしまったのだろう。少し歩き回って別の店を見つけ、そこで祝杯をあげた。

再び福井駅に戻って

福井駅に戻る頃にはすっかり暗くなっていた。現在駅前は改良工事中で、一足先に出来上がっているのが恐竜コーナーである。暗闇の中でライトアップされた恐竜が、鳴き声をあげながら口を開け、首を動かしている。道行く人達が興味深げに集まってくる。福井は本気で恐竜王国になろうとしているようだ。
(2015/8/4乗車)

2015年7月23日木曜日

餃子と試練と豊橋鉄道

出掛ける理由

 この夏には四国全線制覇という野望を抱いてたのに、急に仕事が入ってそれが流れてしまった。新幹線に比べてかなりお得な早割航空券はキャンセル料がバカにならないが、知り合いの旅行業者に言わせると、航空会社はキャンセル料で稼げるからこそ格安航空券を売ることが出来るのだそうだ。私のようなドタキャンを強いられる者は、格好なカモなのだろう。一方で予約したホテルのキャンセル料は免れたものの、ネット上で取り消す時の思いは実に切ないものだ。悔しくて、このままで済ますわけにはいかなかった。
 そこで、せめて一泊の急拵えの計画を立ててみた。こちらは別の日にもう一泊の旅行と併せて青春18切符を活用しようという作戦だ。乗り尽くしていない地域がだいぶ西国に偏ってきたために、日帰りでは難しくなってきたのである。
 ところがそれすらも前日になって仕事が飛び込んできた。日頃の行いが余程悪いのだろう。途方に暮れていた時、ふと浜松餃子が食べたくなった。年間餃子消費量が宇都宮を抜いて、ついに日本一の餃子消費地に昇格したと先日知ったのであるが、無類の餃子好きの私には、餃子がなかなか食べられない事情がある。細君が大のニンニク嫌いなのである。鋭い嗅覚を持つ彼女からは、外で餃子を食べないようきつく申し渡されている。その代わり家庭ではニンニク抜きの、それこそ絶品の餃子を作ってくれるのだが、やはり外で餃子を肴にビールが飲みたい。お昼に食べれば、多少は誤魔化せるに違いない。もはや浜松に行くしかなかった。
 浜松あたりは、各駅停車で往復するギリギリの地点である。ただし、浜松近郊で乗っていない鉄道は存在しない。もう少し足を伸ばして豊橋まで行けないだろうか。早朝4時台に家を出れば、豊橋鉄道に完乗できることがわかった。その分昼食が15時頃になってしまうが、帰宅時間も遅いので臭いの方も何とかなるだろう。ネット上には予約必須とあったので、すぐに目的の店に電話を掛けた。「その時間なら大丈夫です」と言われたとき、餃子ごときで本当に予約が必要なのかと高を括っていただけに、期待も大きく膨らんだ。

天が与えた試練?

 東京駅を5時46分に発てば、二度乗り換えで10時54分には豊橋に着く。東京駅で大人気の「駅弁屋祭」の開店が5時半だから、朝食も列車内で済ませられる。沼津まではグリーン車にも乗れるので快適な旅が始まるはずだった。雨が降っているのは我慢しよう。昨日まで晴天が続き、明日からも晴天が続いて、今日だけが雨模様と天気予報が告げても、所詮雨男の自分だから仕方がない。他の旅行者が「私は雨女じゃないのに」と恨めしそうに同行者に語っていたが、まさか「僕が筋金入りの雨男です」とも言えないので、心の中で「ゴメンね」と謝るだけにしておいた。それなのに、まさか乗っていた列車が熱海で運転打ち切りになるとは思わなかった。大磯を過ぎたあたりで車内放送が入り、「ただ今沼津駅構内の沿線で火災が発生し、東海道線は熱海・沼津間で運転を見合わせております」などとアナウンスしている。
 <天>は何故にこの私に対して、かくも辛く当たるのか。それとも厄災が待っているから、旅を思いとどめよという啓示なのだろうか。国府津では御殿場線の接続がいいが、豊橋到着が11時37分になってしまい、その先のスケジュールが回らなくなる。豊橋鉄道の路面電車を諦めるか、浜松餃子を諦めるか、どちらの決断も出来ない相談だ。それに御殿場線の終着駅は沼津だから、こちらも運転打ち切りの可能性がある。車内放送で「沼津より先にお越しの方は御殿場線をご利用下さい」などと言ってもくれないのは、情報がないのか、そもそも各駅停車ばかりを乗り継ぐ客などいないと思っているのか、JR東海のことなど関係がないとJR東日本の車掌が思っているのかの、いずれかか、すべてだろう。
 今日は諦めて帰ろうかと思った時、小田原を新幹線が通過していった。気が進まないけれど熱海から新幹線に乗ってみるか。ちょうど4分の接続で、こだまが来る。走らなければならないなあ。でも、どこまで? 出来るだけ節約したい! いくら掛かるのだろう。
 青春18切符の場合、一日あたり2,370円で乗り放題となる。乗れるのは快速までなので、新幹線に乗れば特急料金の他に運賃も必要となる。安くはないだろうから、チョイ乗りにしたい。しかしながら、次の三島は沼津の手前で論外、新富士は在来線の富士まで直線距離で1㌔半もある。路面電車と餃子のためには、選択肢は静岡しかなかった。
 熱海駅新幹線改札口脇の切符売り場には既に長蛇の列が出来ていた。途方に暮れている私に駅員が「自由席ならこの券を持って下車駅で清算して下さい」と告げて熱海駅乗車証明書をくれた。有り難い。ホームに駆け上がった時には既に新大阪行きの「こだま633号」はドアが開いて客がおりてくるところだった。車内は混雑したので、デッキで過ごすことにした。静岡までは38分も掛かる。三島駅で2本の「のぞみ」に抜かれ、新富士駅でも2本、合計4列車に抜かれるからである。「こだま」は割に合わないなあと改めて思う。それでいて静岡駅では3,050円も支払った。これは今日という日を無駄にしないための特別料金であると思うことにした。在来線で熱海から静岡までは1時間15分から20分掛かるが、わずかな時間短縮に特急料金1,730円は少々高すぎる。普段だったら決して選ばない選択肢だ。それでも多少の新幹線効果はあって、豊橋には予定より30分早い10時20分に到着した。

豊橋鉄道渥美線

 渥美線の終着駅、三河田原駅は安藤忠雄設計の洒落た駅舎だ。市制10周年を記念して建築されたという。駅前のロータリー、交番、公衆トイレすべてが楕円形をしていてトータルにデザインされている。周辺には住宅地だけが広がっていることもあって、すっきりとした素敵な環境だ。
 ここから渥美半島の突端、伊良湖岬まではバスが通じていて、フェリーに乗り継げば鳥羽に渡ることが出来る観光拠点なのだが、  ほとんどのバスは豊橋発なので、伊良湖観光のためにわざわざこの電車を利用する人はあまりいそうにない。もっぱら地元密着型の鉄道であって、新豊橋から乗車したたくさんの人もそのほとんどが途中の大清水までに降りてしまった。終点まで乗り通した人は5〜6人である。
 渥美線の歴史は、1924(大正13)年の渥美電鉄開業に遡る。渥美半島を縦断する鉄道として構想されたが、開業時は現在の高師から三河田原までの間で運行が始まった。その後、市街地の新豊橋まで進出したり、黒川原まで延長されたり、名古屋鉄道の傘下となったりした挙げ句、更に国鉄線になるはずでもあったが、結局戦争の悪化ですべてが泡と消え、三河田原・黒川原間は不要不急路線として休止となってしまった。そして1954(昭和29)年、新豊橋・三河田原間が豊橋鉄道に譲渡されて現在に至る。駅前広場の片隅には、歴史に翻弄された渥美線の様子が記されたプレートと当時の車止めが展示されている。土地の人達の渥美半島縦断鉄道への思いが伝わってくる。
 18㎞ほどの路線には16の駅があり、全線電化単線のために途中7箇所に交換設備がある。そのうちの5カ所で列車交換があったが、その列車がユニークなのだ。すべて異なるデザインが施され、違ったヘッドマークが備えられている。カラフルトレインと命名された可愛らしい車両は、もとは全て東急線で使われたものである。順に紹介しよう。

 まずは、「桜号」。この電車で新豊橋と三河田原を往復した。写真は三河田原駅にて。


 新豊橋に向けて出発すると最初の駅が神戸(かんべ)。ここでいきなり列車交換が行われる。「菊号」である。渥美半島は電照菊で有名なところであり、沿線にはは電照菊用と思われるハウスが沢山ある。電灯の光を当てて花の開花時期を遅らせる電照菊については、小学校の時社会科の時間に教育テレビの番組で教わった。ここはそのメッカなのだ。


 田原の市街地から遠ざかって、田畑が広がる郊外を進んでいくと杉山駅に着く。そこで待っていたのは「つつじ号」だ。豊橋市の花に指定されているのだそうだ。なお、ここの転轍機はスプリング式が採用されていて、「つつじ号」の方は無理矢理線路を押し開いてこちらにやって来る。


 大清水まででほぼ田園地帯は終わり、ここからは郊外住宅地となる。下り電車を待っているとやってきたのが「ばら号」である。田原町のバラ生産高は全国屈指なのだそうだ。


 芦原駅にやってきたのは「はまぼう号」。はまぼうは南国の花で、自生北限地が田原市堀切町にあることから、このカラフルトレインにも採用された。ちなみにこの自生地は愛知県天然記念物に指定されているそうだ。入り江に大群落をつくることが多いらしく、堀切町の自生地は、伊良湖岬の近くにある。
 

 正面に新幹線の高架が見える小池駅までやって来た。ここで交換するのが「菖蒲号」。豊橋市や田原市の公園にも梅雨の季節は菖蒲の花が咲く。


 新豊橋に到着するとそこで待っていたのは「菜の花号」である。田原市の花に指定されているそうだ。

 今回すれ違わなかった「しでこぶし号」「椿号」「ひまわり号」と併せて十色の花を身に纏った渥美線の電車を見ていると、払い下げられる前の東急電鉄に所属していた頃よりも、幸せに余生を送っている感じがする。社員の愛を感じる鉄道会社だ。

豊橋鉄道市内線

 最近では「ほっトラム」の愛称でLRV(超低床車両)が運行され、全国から注目を集めている路面電車が豊鉄市内線だ。路線は駅前から赤岩口への本線と井原・運動公園前の支線からなる。まずは電停の名称が豪快である。ズバリ「駅前」。この堂々たる普通名詞をなんのためらいもなく電停の名称にするところは他にはない。だからネットの路線探索で駅前と打てば、間違いなく豊鉄市内線の駅前が出てくる。これって、実に痛快ではないか。一方の「運動公園前」は青森県の弘南鉄道にも存在する。 
 豊橋の街は道幅が広く、路面電車と自動車が共存している。道の中央を車に邪魔されることなく走るので、時間も正確だ。日中は7分間隔で運行しているし一律150円という低運賃で頑張っている。町並みに溶け込む美しい電柱も必見だ。LRVが走るくらいだから、電停の嵩上げは出来ないかわりに、新しい車両にはすべて格納式のステップが付いていて、利用者に優しい構造となっている。
 市内線のほとんどは複線なのだが、終点に近い競輪場前からは単線となり、見どころが多くなる。電車が競輪場前に近づくと、一旦停止をして駅前行が発車するのを待つ。回りの車は動いていても、線路が合流する先の電停脇に表示された信号は、進入停止の×印が点灯している。よく見ると、合流した線路が電停の手前で左に分岐している。
 市内線の車庫は終点の赤岩口にあるのだが、実は競輪場脇にも2両分の引き込み線が敷かれているのである。ラッシュ時の増発用なのだそうだ。商店街の駐車場の脇に路面電車が車と並んで置かれている感じだ。
 競輪場前から一駅先の井原までの単線区間が、もっとも電車の混み合う場所である。井原から運動場前に支線が分かれるため、日中は14分間隔で交互にやって来る。しかも上下双方向だから3分30秒ごとに通過することになる。これだけで限界だからラッシュ時には引き込み線の2両が力を発揮するのも頷ける。
 さて、その井原であるが、ここがまた有名なスポットなのだ。日本の鉄道で最急カーブが存在する。なんと半径11㍍のカーブがあるのだ。「全日本鉄道路線ぐねぐねランキング」によれば、立山砂防工事専用軌道の半径7㍍が1番ということだが、普通に乗れる鉄道としてはここが一番である。路面電車は鉄道ではなく軌道だという議論はあるにしても。
 井原の交差点に立ってみると、まず余りの急カーブに驚かされる。そこを通過する電車はさぞや金属音を立てながら車輪を軋ませて進むのだろうな、と思いきや、最新式の台車を目一杯車体からはみ出させながら、難なく通過してしまった。拍子抜けするくらいスムースに。路面電車の技術は確実に高まっていると感じる一瞬だった。
 豊鉄はいいなあ、今日は無理してここまでやって来てよかったなあと思い始めたとき、ふとまだ肝心の電車に出会っていないことに気付いた。そろそろすれ違ってもいい頃ではないか。今話題のLVR「ほっトラム」である。ネーミングにも市民に親しまれたいと言う思いが感じられる。豊鉄では、納涼ビール電車や花電車はもちろんのこと、冬にうれしい「おでんしゃ」まである。暖まりそうだなとは思うが、今は心が温まる「ほっトラム」と出会いたい。しかしここまで出会うことはなかった。ということは終点の赤岩口にある車庫に停まっているはずである。
 井原から赤岩口まで歩き、そして車庫の奥底に停められている車両を恨めしく眺めることになった。ここからは全容を拝むことは出来ない。乗客の少ない日中は出番が少ないのだろう。結局、乗車はおろか対面すらもお預けとなった。しかし、嫌な気は全くしなかった。今日は十分に豊橋鉄道の魅力に触れることが出来たからだ。そのうち機会があったら、「おでんしゃ」にでも乗りに来よう。結局最後は食行動に走るのが私の最大の欠点であると苦笑せずにはいられなかった。

さて、餃子は…

 豊橋を後にして、新浜松から遠州鉄道に乗り継ぎ、目的地に着いたのは15時少し前。住宅地の真ん中に、長蛇の列もなく、何の飾り気もない店があった。ここが浜松餃子ランキング第2位を誇る「むつ菊」だった。のれんが掛かっていない! まずいなあと思って、引き戸を見ると「本日は予約の方以外の餃子は売り切れました」と書かれた紙が貼ってあった。良かった! このブログは鉄道の旅を記すためのものだから、餃子に関するコメントは控える。そのかわりに写真を掲載しておく。それを見るだけで、おそらく私が大満足でその店を後にしたことがおわかりになるに違いない。最後に情報を一つ、この店にはお酒以外には餃子しかありません。餃子だけを食べる店です。
(2015/7/23乗車)


2015年7月1日水曜日

被災地気仙沼線を訪ねて

仙石東北ラインで石巻へ

 今日から7月だというのに冷たい小糠雨が降る仙台駅4番線ホーム。そこに静かに滑り込んできた列車は、ふつうの新型電車となんら変わるところはなかった。しかし屋根にはパンタグラフが付いていない。最新型のハイブリッドトレインだ。
パンタグラフのない「電車」
 ディーゼル発電機で電気を生み出し、モーターを回して推進するばかりでなく、制動時にはモーターを発電機に変えて電気を蓄電池に溜めることのできる優れものだ。今回の旅の目的は、この列車で復旧された仙石線を通って石巻まで行き、南三陸の気仙沼線を見に行くことだ。
 ハイブリッドトレインHB-E210系は、全く音も立てず滑らかに走り出した。その感覚は電車そのものだが、しばらくするとお馴染みのディーゼルエンジンが唸り出し、ぐいぐいと速度を増していく。このあたりは自動車のハイブリッドカーと同じ感覚だ。しかし自動車と違って、鉄道は一定速度に達すると動力を切っても惰性で走り続けることができる。これを惰行というが、その間ディーゼルエンジンはアイドリングすらしないので、走行音だけが響く電車の静寂に戻り、なかなか快適な乗り心地だ。
 仙石東北ラインは塩釜までは東北本線を走り、その先で仙石線に乗り入れ、宮城県第二の都市石巻までを短時間で結ぶ、この5月に誕生したばかりの災害復興路線である。東北本線も仙石線も共に電化されているのに、それを結ぶ仙石東北ラインがハイブリッドを採用したのにはもちろん訳がある。交流電化された東北本線と直流電化の仙石線とを、そのまま繋げることはできない。長い間仙石線は孤立していたのである。そこで、東北本線と仙石線が併走する松島海岸付近に非電化の渡り線を新たに造り、そこを通過させるために、最新のディーゼルカーを導入したということだ。
 ここを通過するのを一目見ようと多くの人が運転台後ろの特等席に集まってきた。最近は女性の鉄道ファンも大分多くなった。ビデオ撮影する人や写真撮影する人など、皆思い思いに楽しんでいる。私は心に焼き付けるように、じっと運転台の向こうを眺め続ける。列車は速度を落として下り線から一旦上り線に移り、更に分岐して仙石線に近づいていく。東北本線を離れた所で一旦停止する。松島海岸・石巻間の仙石線は単線なので、高城町からやってくるあおば通行普通電車の通過を待つ。信号が青に変わって、仙石線への転線が完了する。渡り線を過ぎればすぐのところに高城町がある。
009・003・001
が出迎える石巻
 2013年に訪れた時はここが終点で、その先陸前小野までが震災による不通区間だった。この5月に完全復旧した。復旧にあたっては、津波の影響を受けにくい松島湾内の海岸線沿いは盛り土をして海面よりも高い所を走り、太平洋とそのまま繋がって津波に晒されやすい仙台湾に面した野蒜付近は、ルートそのものを高台に移すという大工事をしたのである。盛り土区間は奥松島がよりよく見渡せる景勝区間となったはずだが、本日はあいにくの雨模様で、あたりは出来の悪い水墨画の世界だ。海岸から離れて、丘陵地帯に入ると真新しい野蒜駅があった。駅周辺は造成だけが終わった未成の町で、今後多くの人が戻ってくるのを期待するばかりだ。そこを越えると、陸前小野までは長い高架区間となる。ここもガランとしている。特別快速列車は仙台からの途中、塩釜・高城町・矢本の3駅だけに停まって、あっという間にサイボーグ達が出迎える石巻に着いた。

復旧した石巻線・別の道を歩む気仙沼線

復旧した女川駅
 石巻から女川までの石巻線16.8㎞もこの5月に復旧している。ここで従来のディーゼルカーに乗り換える。雨は止みそうになく景色は期待できない。石巻を出るとすぐに旧北上川を渡り、更に進むとまるで湖のような万石浦を右に見つつ、トンネルを抜けれと終点の女川に着いてしまった。真新しいホームと駅舎、新しく山を削って造成された高台の区画。綺麗だけれど、生活感の乏しい風景なのは、この土地に戻って来た人が少ないからだろう。しかし、鉄道という生活基盤が復元され、石巻を通して仙台との繋がりも密になったのだから、今後の発展に期待したところだ。
気仙沼線0㌔ポスト 前谷地駅にて
 乗ってきた列車でそのまま戻り、石巻を越えて、その先の前谷地から気仙沼線に乗り継いだ。前谷地は気仙沼線の起点である。
 仙石線や石巻線と異なり、気仙沼線の将来は微妙だ。前谷地・気仙沼間72.8㎞のうち、鉄道が走っているのは柳津までのわずか17.5㎞に過ぎない。その先はBRT(Bus Rapid Transit)が気仙沼までを結んでいる。前谷地を出た列車(と言っても1両編成だが)は、三つ四つの無人駅に停車した後、素晴らしく立派な鉄橋で大河を渡る。北上川である。この地点で北上川は旧北上川と分かれて進路を東に変え、太平洋に直接流れていく。一方の旧北上川は先程通ってきた石巻に向かうのである。東北地方を代表する大河であるだけに、気仙沼線の鉄橋は実に堂々としている。そこを1両編成のディーゼルカーがトコトコと渡っていく。渡りきるとすぐ終点の柳津に着いた。
草に覆われた線路
 柳津駅の跨線橋からは、いつまでも赤く点灯したままの信号機と雑草に覆われて行き来のなくなった線路が見える。到着した列車は、すぐに前谷地に向けて出発してしまった。
 ここからはバスに乗り換えるのだが、このBRTは4日前の6月27日から前谷地を起点とするようになった。微妙だというのはまさにこのことで、おそらくJR東日本は将来、前谷地・柳津の列車運行を取りやめる積もりなのだろう。
専用道入口に設置され
た信号機。     
気仙沼駅にて
 ここのBRTの特徴は、出来るだけ気仙沼線の線路跡地を利用して、渋滞や信号待ちのないスピーディなバス運行を可能にしたことだ。ただ、まだ多くの場所では一般道を通行している。防災庁舎を残すことで決着した南三陸町のように、津波の被害が甚大だった地域は、線路そのものが押し流されて跡形もなくなってしまったからだ。山がちで津波の影響がなかった地域では、かつての単線鉄道区間が舗装道路にかわって、渋滞のない専用道をバスはスピーディに進んでいく。
BRTが接近すると感知
中のサインが表示され
る。この先BRTが走行
していなければ、信号
は青に変わる。   
 トンネル区間では、車体を擦るのではないかと心配になるほど、ハンドルさばきが難しそうだ。一般道に出入りするところには、遮断機とセンサー付きの信号機が設置されていて、これによって閉塞区間の制御をしていることがわかる。バスは鉄道と違ってすぐに停車することが可能だから、正面衝突の危険性は極めて少ないが、単線を利用した専用道だけに行き違いが出来ないので、閉塞区間をつくって区切り、バスの進入をコントロールする必要がある。そこで活躍するのが車両感応式信号機なのである。
保存が決まった防災庁舎

 さて、あの痛々しい姿の防災庁舎は、かつては多くの人々が暮らした志津川地区にあるが、周辺は現在急ピッチに復興工事が進んでいた。その一画にある「南三陸さんさん商店街」は出来て3年ほど経つ仮設商店街だ。現在32軒の事業者が店を営んでいるという。そこに併設されるようにBRTの志津川駅があって、何人かの人々が乗り降りした。地域の拠点であることがよくわかる。
破壊された橋梁の脇を通る
 バスは一般道と専用道を出たり入ったりとせわしない。それは多くの箇所で線路の基盤となる道床そのものが流されてしまったからだ。また橋脚そのものが破壊されてしまったところも多い。このような箇所は、再建はおろか撤去そのものが大変で後回しにされているのだろう。
単線区間でバスが交換する。
 2010年の時刻表によれば、柳津から気仙沼までは1時間22分掛かっていたが、震災後BRTに変わってからは同区間が1時間56分掛かるようになった。30分余計にかかるようにはなったものの、バスとしては十分健闘しているといえるだろう。今後も専用道区間の整備は進みそうなので、その差はより縮まると思われる。
ユニバーサルデザイン例。
鉄道とBRTが一体化している。
 震災直後は鉄道の復旧に拘っていた人達も、最近ではBRTに理解を示すようになってきたという。正確な運行、本数の増大、GPS等を利用した接近表示システム、地域に暮らす人々への説明努力等々がその大きな要因になっていると思われる。気仙沼駅などはホームの両側にBRTと鉄道を区別せず配置して、ユニバーサルな駅として新しい駅のあり方を提示している。こうしてみると、トロリーバスが鉄道扱いなのとそれほど違わない感じもしてくる。BRTに対する認識が大いに深まった旅となった。
(2015/7/1乗車)