2016年8月6日土曜日

ハノーファーのシュタットバーン 後篇

旅の終わりは、旅の始まり

 長い間、私はこのことばを述べたのは安部公房とばかり思っていた。が、調べてみると、正確には「終わった所から始めた旅に終わりはない」(『終りし道の標べに』)であった。さすが公房先生、喪失感が人の心をむしばんでいくような、実存的不安をよく表現している。似たような状況を表現しながら、重みがまったく違う。

 それにしてもである、ハノーファーには実存的不安とは無縁だが、終わりのない鉄道が実在する。それは「まあるい緑の山手線、まん中通るは中央線」とは全く異なるものだ。前篇を読んで下さった方は、ハノーファーの路線図に環状線がなかったことを覚えているかもしれない。
 ふつう鉄道で終わりと言えば終着駅、始まりと言えば始発駅のこと。そこにドラマを感じる人は多く、そのどちらも明確でない山手線にはドラマ性が欠如している。ハノーファーの終りのない鉄道にはちょっとしたドラマがある。
木立を左回りに巡って戻ってくる。
郊外にあるファサネンブルグは、
プラットホームのない停留所。  

 ファサネンクルグFasanenkrugは旧市街地から直線距離で8㎞ほど離れた郊外の終着駅。森と牧草地と緑豊かな住宅地が広がる傍らを専用軌道で爽快に走り、アウトバーンの高架橋を抜けると到着だ。
 停留所はブルクヴェーデラー通りから少し引っ込んだところにあるので、プラットホームは設置されていない。あたりにはよく注意してみないと見落としてしまうようなレストランとバス停があるだけの閑静な場所だ。ドアが開きステップが下されて、乗客全員、といっても数名が石畳の上に降り立つと電車はそのまま前進して行ってしまった。引き込み線があるわけではない。林の中をぐるっとひと巡りして再びここにもどってくるため、運転手はそのまま運転し続けるという塩梅なのだ。遊園地のミニ列車でも見ているようで楽しくなる。広い土地さえ確保できれば、手間のかかるポイントを設置するより維持も楽だろう。行き止まりのない駅だから、終わりのない鉄道というわけだ。ぐるっと戻ってきた電車は行く先がエンペルデEmpeldeに替わっていた。さあ、終わった所から旅を始めよう。私はそのまま車上の人となった。
ミスブルグ駅 
屋根の上のUは地下鉄乗り入れ
の意味。          

 ところで、ハノーファーの街を北東から南西に貫くブルーラインは、3系統が集まった路線である。北東側にはファサネンクルグ以外にアルトヴァルムビューヘンAltwarmbüchenとミスブルグMisburgとがある。終点がループになっているのはファサネンクルグだけだ。
ミスブルグ駅とTW3000形

ミスブルグはちょっとした買い物には困らない店舗と落ち着いた住宅が建ち並ぶお洒落な街。その一画に瀟洒なプラットホームがあって端に車止のある終端駅だ。駅舎の上にはU-bahn(地下鉄)を意味するUマークが載っている。今回の旅でたいへんお世話になった美人先生が、長身のエリートビジネスマンのご主人と、赤ちゃんと共に暮らす町と聞いている。裕福な家庭が多いそうだ。モダンなデザインの最新型車両TW3000形電車がとても似合うと思う。
ポイントを少なくした
簡易型の引き上げ線。

 もう一つの終点アルトヴァルムビューヘンAltwarmbüchenは、いかにも新興の住宅街という感じで、郊外型の大型店舗や研究施設のような建物が途中に点在している。ホームの先には引き上げ線があり、雑草が生えていたりしてちょっと殺風景な終点である。第2世代のTW2000形愛称シルバーアローの無機質な感じが、あたりのぶっきらぼうな雰囲気と妙にマッチしている。


たかがつり革、されど吊り革
TW2000形の車内

 TW2000形が登場したのは1997年のことで、かれこれ20年近くが経つ。近未来的なデザインで、綺麗に磨き上げられた窓とコンパクトにまとめられたクロスシート、安全のための握り棒のカラーリングが洒落ている。こんなところは、とかくありきたりに規格化されがちな日本の鉄道にも見倣ってもらいたいところだ。なかでも一番感心したのは、吊り革である。
革製吊り手

 最近では「吊り手」と呼ぶようになった吊り革だが、それは日本から吊り革そのものが消えてしまったからだろう。牛革製の吊り手は強度に問題があり、殺人ラッシュが当たり前の東京の鉄道には不向きだった。昭和年代では見慣れた革製の吊り手は、長年の酷使によって痛み、ちぎれ、消えていった。その後塩ビや麻・綿を重ね合わせた耐久性の高いものに取り替えられたが、機能優先でなんの味わいもなくなってしまった。ここハノーファーでは、新しいデザインの吊り革が活躍している。天然素材の革製品は手にも馴染み、意匠性にも優れている。そんな逸品を普段使いにしている贅沢が羨ましい。

街の中心部へ
 
 アルトヴァルムビューヘンを起点とする3号線とミスブルグからの7号線がパラケルススウェグParacelsuswegで合流し、しばらくポトビールスキー通りを進んでいくと、道を挟んで街路樹の向こう側に旧市民病院が見えてくる。施設が古くなったので取り壊し、ショッピングモールとして再開発しようとした矢先に、欧州で難民問題が勃発し深刻化する。ハノーファーはドイツの中でも比較的裕福な、ドイツ的良心の息づく街である。市民の多くは難民の受け入れに積極的で、壊される筈の病院施設はすべて難民に開放されることになった。あたりは手入れの行き届いた庭が美しい閑静な土地で、厚遇された難民の多くは地域住民とトラブルを起こすことなく暮らしているという。ただしもの珍しいからといって、じっと見つめるなど誤解されやすい行為は慎まなくてはならないと、ここで暮らすドイツ人に念を押された。市はかなりの額の補助金で難民を支えているというから驚きだ。それが秩序をもたらしていることは間違いない。今年はドイツ各地でも難民をめぐるトラブルが生じている中、ここハノーファーでは、将来はともかくもまだ比較的平穏な日々が続いている。
Spannhagengarten付近

 電車はファサネンクルグFasanenkrugからの9号線と合流すると、ミッテルラント運河にまたがったノルテメイヤーブリュッケNoltemeyerbrückeに到着する。透明の樹脂で覆われたドーム型の屋根を持つ洒落た駅である。下を流れる川は、ライン川とエルベ川を結ぶ全長389㎞、世界第5位の大運河だ。この運河を利用した水運によってハノーファーは交通の要衝地となり、それによって殷賑を極めたのだが、見た目は都会を流れるふつうの川に過ぎない。近くにはブルーラインの車庫があり、ここから市街地に向けてもっとも頻繁に電車が行き来する区間となる。

 ハノーファーは森の街というくらい緑の豊かなところだ。ポドビールスキー通りの南側にはこの街で最大の森があり、市民の憩いの場となっている。沿線は4階建ての住宅が連なり、ギムナジウムや「森のレストラン」(ビアガーデン)が点在する。少し足を延ばすとクラインガルテンと呼ばれる、市によって貸し出される農地がある。農地といっても、小屋を建てることが許され、ほとんどの人はガーデニングを楽しんでいるので、日本人から見ると別荘そのものだ。都会の集合住宅に住む人々が、格安の別荘を利用しているという、なんとも羨ましい限りの施設だ。こんなところにも、緑豊かな都市を造ろうという努力の跡がある。
 中央駅Hauptbahnhofまであと二駅のところにあるリスタープラッツLister Platzから地下鉄区間となる。 

U-Bahn(地下鉄)

Hauptbahnhof

 ベルリンやケルンからの高速列車が行き来するドイツ鉄道中央駅Hauptbahnhofの地下2階には、ブルーラインとレッドラインが乗り入れる地下鉄ホームがあり、同一ホーム上で乗り換え可能な2面4線の便利な構造となっている。
切符の自動販売機

 ドイツでは改札口がないため、乗り降りは実にスムースだ。切符はホームに置かれた自動販売機で購入する。運賃はゾーン制が採用されているので、タッチパネル上に表示される路線図で確認しながらタッチして選ぶ。英語表示を選べるので、ゆっくり落ち着いて考えればなんとか購入できるが、使用人数や割引切符、使用日数など多種類の中から選択するので、最初は戸惑ってしまう。後ろに人が並んだりすると、プレッシャーでヒア汗の流れること請け合いだ。気の小さい私は、とてもこの駅では買うことが出来ず、わざわざ乗り降りの少ない駅で購入した。もちろんクレジットカードが使える。

クルプケKröpcke

ニキ・ド・サンファール・
プロムナード 正面奥は中央駅

 中央駅からクルプケにかけてはハノーファーで最も賑やかなショッピング街だ。路上では大道芸人が巧みなパステル画を描き、たくさんの風船を持った売り子が歩き回って、街に彩りを添えている。休日ともなると、結婚式を控えた男性が、仲間からボールを当てられたりしながら、羨望と嫉妬と揶揄が入り交じった<いじめ>にあう光景に出会う。もともとは幸福を分けてもらうイベントだったようだ。関係のない人も参加して、大いに盛り上がる。
 ショッピング街に沿って地下一階からの吹き抜けになった遊歩道がニキ・ド・サンファール・プロムナードだ。
王宮庭園の洞窟にて
ニキ・ド・サンファールはフランスに生まれスイスに帰化した女性芸術家であり、生命感・躍動感あふれる抽象化された女性像を得意とする。ハノーファーの王宮庭園ヘレンハウゼンには、洞窟と呼ばれる彼女の残した一大作品があって、この街と深い関わりを持つことから、敬意を表してプロムナードの名前に抜擢された。
 
 このプロムナードの先がハノーファー・シュタットバーンの中心駅クルプケKröpckeだ。エスカレーターで地下二階に降りるとブルーライン、さらに地下三階のコンコースを挟んで、更に地下四階に降りると、レッドラインとイエローラインのホームが現れる。一日中、人々の行き来が絶えない重要な駅だけに、利便性ばかりでなく、美しくデザインされた空間としても工夫された駅である。マッシモ・イオサ・ギニというイタリアの建築家・デザイナーによって、駅全体がガラス素材を用いたモザイクアートで美しくコーディネイトされている。エスカレーターや階段部分は極力壁を廃した吹き抜け構造となっていることもあって、駅全体が開放的で心地よい。地上に出れば重厚な建物があり、地下に潜れば近代的なデザインの駅がある。そのようなところに、ヨーロッパの街の懐の深さが感じられる。と同時に、必ずしもドイツ的であることに拘らない街づくりという点でも、我々日本人にとっては示唆に富んでいる。

再び地上へ
 
 ヴァッターローWaterlooは英語でウォータールー。フランス語でワーテルロー、ナポレオン1世がイギリス・オランダやプロイセン軍に敗れたベルギーの地名だ。ロンドンでは最も乗降客の多い駅であり、かつてはユーロスターの発着駅だった。ナポレオン好きのフランス人にとって、パリとロンドンを結ぶユーロスターがウォータールーに到着するのは面白いはずがない。駅名変更要求運動まで起こったというから、欧州の近所付き合いも厄介なものだ。その後発着駅がセント・パンクラスに替わったので問題は解消した。ハノーファーの場合、ヴァッターローはブルーラインが分岐する乗り換え駅に過ぎないから、フランス人も気に留めることはないだろう。
Bernhard-Caspar-Str.にて
市の南西側はホームが整備され
ていない。         

 終わりのないファサネンクルグFasanenkrugから出発した9号線は、地上に出ると道幅の狭いファルケン通りを車と共存しながら進む。一階が店、二階以上が集合住宅になっている市街地だ。ダヴェンシュテッター通りあたりからは次第に集合住宅もまばらになっていく。近くに子ども博物館があり、知育に最適な手作りオモチャが数多く展示され、実際にそれで遊ぶことができる。多くの人が住むこの辺りには、倉庫や工場も点在していてやや雑然とした街並みだ。Sバーンの駅からの引き込み線はおそらく貨物用だろう。観光で欧州を訪れる際にはあまり目にすることが少ない風景だろう。道幅が広く車も比較的少ないこのあたりでは、プラットホームのない停留所が続く。
 終点はエンペルデEmpelde。駅全体が大きなループとなっていて、真ん中にバスターミナルを配し、降車ホームと乗車ホームを平行に設置した、終わったらそのまま前進してぐるっと回り新たな運転が始まる駅である。ということで、9号線は終わりのない旅を続ける電車なのであった。
終点Empeldeの乗車側ホーム 
右側にバスターミナルがある。

 電車を降りると、乗車ホームの方から女性のわめく声が聞こえ、車両から数名の人が飛び出してきた。男性のわめく声も聞こえてくる。車内でカップルの口げんかが始まったのだ。何をわめいているのかはわからないが、周囲を憚ることなく、手振り身振りを交えた痴話げんかだ。電車やバスの運転手達が集まってきて、げんなりした顔で二人をなだめるが、どちらも聞く耳を持たない。叫んでいいる二人がいる限り発車もできない。この先この二人は一体どうなるのだろう。
 このふたりにとって、終わったところから始まった旅に終わりはない、などということがないよう祈るばかりだ。

タイムオーバー
Wettbergenは終端駅

 ヴァッターローまで戻り、ブルーラインのもう一つの終着駅ヴェットベルゲンWettbergenに足を伸ばした時点で、とても陽の明るいうちには全ての路線に乗り尽くせないことが明らかになってきた。中心街から一番近い終点は動物園なので、最後にそこに向かうことにする。クルプケでイエローラインに乗り換える。

名所を結ぶイエローライン

 イエローラインは観光巡りに最適な路線だ。まずそちらの紹介から始めよう。
ヘレンハウゼン王宮庭園

 イギリスのジョージ1世の妹、ハノーファー選帝侯妃ゾフィー(ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファ)は、夏の離宮を美しく造り替えた。それが名所ヘレンハウゼン王宮庭園である。幾何学模様で飾られた大庭園、王侯がアバンチュールを楽しんだ秘密の花園、ヨーロッパでも屈指の大噴水、意匠の凝った多段式の滝カスケード、野外演劇劇場等々、贅を尽くした庭園はいつまでも散策していたくなるような所だ。クルプケで紹介した、ニキ・ド・サンファールが造った洞窟が最新の見どころとなっているが、歴史好きには、新しい抽象芸術がヘレンハウゼンに調和していると思えるかどうかは微妙なところだ。でも、地元の人達は面白がっているところが興味深い。
 王宮庭園に隣接してハノーファー大学があり、こちらはかつての宮殿が今に残る歴史ある大学だ。微積分を考え出したライプニッツにちなんでライプニッツ大学ともいい、機械式計算機を発明した天才でもあることから、大学構内に博物館が設置されている。業績を眺めていると、ドイツのレオナルド・ダ・ビンチに思えてくるほどの多才ぶりだ。
Fahrschule行などない!

 これらの名所をめぐるにはクルプケからイエローラインに乗るのが一番便利で、中心街を地下鉄で北西方向に離れ、地上に出てすぐのところにある。
 ホームに立つと見慣れない表示のTW6000形がやって来た。Fahrschuleと書いてある。辞書で調べると自動車教習所という意味のようだ。しかし路線図をつぶさに調べても、そのような停留所はなかった。中央駅近くに自動車学校があるので、そこの停留所の別名なのかとも思うが、なんともしっくりいかない。だがschuleはどう見ても学校だ。行き先不明の電車は、どうにも気持ちが悪かった。
 帰国後、何度も写真を見ているうちに、あることに気がついた。運転手の横に白いYシャツ姿の人物が横向きで写っている。出入り口に背を向け、運転手と話しているのだろう。勿論、走行中に乗客が運転手に話し掛けるのは禁物だ。そこで気がついた。<車の学校>、ドイツでは車の練習をそう呼ぶのだろう。つまりこれは教習車、見習い運転手が練習中なのだ。白いYシャツ姿は教官に違いない。ちなみに日本では、回送とか試運転とか表示して走るのだろうなと思う。確信はないけれど。
Zooにて

 さて、今回の旅の終わりは動物園Zoo。ドイツ語ではツーと発音する。クルプケを出て地下鉄区間を抜け、ドイツ鉄道の車両基地を左に眺めつつ進んでいく。本線と分かれて、市立公園や国際会議場の前を通過すると、また線路のラウンドアバウトが現れたが、ほかからの合流がない。ただ路線に付属したループになっているだけで、終点はその先にある。いったい何のためのループなのだろうか。それは今も謎のままである。
 動物園は行き止まり式の普通の終着駅。鬱蒼とした木立に守られた静かな佇まいだった。
(2016/8/6乗車)

2016年8月3日水曜日

雨のケルン


ホーエンツォレルン橋周辺

 ケルン大聖堂のてっぺんまで登ると、ライン川に架かるホーエンツォレルン橋をひっきりなしに行き来するドイツ鉄道を眺めることができる。右から二階建ての快速列車レギオナル・エクスプレス(RE)。電気機関車に押されてこれから橋を渡ろうとしている。中央がドイツ新幹線。ICE1とICE2の混合編成がやってきた。左から2両目、窓がほとんど無いのは電気機関車で、編成の前後に電気機関車をつけた動力集中型のICE1。3両目は制御室付の客車でICE2、こちらも動力集中型だが機関車は橋に隠れて見えていない。左が普通列車レギオナル・バーン(RB)。
ドイツでもっとも鉄道が行き交う  
ホーエンツォレルン橋をケルン大聖堂
から眺めた風景。         
ホーエンツォレルン橋はケルン中央駅に接するように
あって、ホームから眺めると実に迫力がある。   

ICE

 鉄道先進国が集まる欧州では、在来線そのものが日本よりも高規格に出来上がっていたために、高速列車のためだけに別線を造る必要がなかったので、新幹線はどこの駅にでも自由に出入りができる。これは開発が進んだ大都市に新幹線を通すために新駅や新路線を造る必要がないだけに経済的なシステムである。シュタットバーンにせよICEにせよ、既存の社会インフラを最大限に活用できることは、地面の深く深くまで掘り抜いて新路線を造らなければならなかったり、完成までに何十年も掛けなければならなかったりする日本と比べて、圧倒的に有利と言える。
 地方路線についても同様のことが言える。長崎新幹線は、建設コストを下げるために線路幅の異なる在来線と新幹線をつなぎ合わせ、そこに車輪の幅が変更可能なフリーゲージトレインを走らせようとしているが、開発に手こずり実現が危ぶまれている。その点電化されている限りICEは原則としてどこへでも行くことが可能だ。最近では気動車仕様のICE-TDが登場し、非電化区間にも行けるようになった。その結果、ドイツの国土全体にICEネットワークが張り巡らされている。

フランクフルト行きのICE3。日本の新幹線と同じよう
に電気機関車を使わない電車タイプ。       

縦型のヘッドライトは九州新幹線に似ている。

5番線はICE3のフランクフルト行き。4番線ハノーファー
経由ベルリン行きはまだ到着していない。      

レギオナル・エクスプレス

 電気機関車が牽引と推進を兼ねるドイツの鉄道は、密着式の連結器の性能がよいこともあって、静かで揺れが少なく、実に乗り心地がよい。路盤の貧弱な日本では決して真似ができない。揺れという点では日本の新幹線は素晴らしいが、モーター音は何とかならないかと思う。鉄道やアウトバーンなどは、どうしてもドイツ贔屓になってしまう。

快速列車の入線。
快速列車の最後尾は、制御室付の客車。帰りは
ここに機関士が乗り、電気機関車に押されて戻
ってくる。                

電車型の快速列車

シュタットバーン

 切符は車内に設置された自動販売機で購入する。ところがあいにく販売機が故障中。運転席まで遠く、すぐに下車しなくてはならなかったので、コインを握りしめたまま降りてしまった。無賃乗車は高額の罰金を取られる。悪気はないものの、冷や汗ものの乗車であった。

(2016/8/3乗車)

2016年1月6日水曜日

100万都市の路面電車

 路面電車は自動車社会の嫌われものだ。加速はのろいし、急には止まれない。障害物を避けることもできない。おまけに乗り心地もけっして良くはない。車のドライバーからすれば、道路を右折する際、線路上に停まるわけにもいかず、対向車が見えづらくて厄介極まりないばかりか危険ですらある。
 だから断固廃止すべきである、ということで全国各地で活躍していた路面電車が、次々に廃止された。それはそれで理に叶ったことであろう。しかし…である。今なお元気に走り回っている路面電車がある。それが広島電鉄だ。
路線図
日本に12ある100万都市で、路面電車が走っているのは、今や札幌・東京・大阪・広島の4都市に限られる。しかも、市内を縦横無尽に走り回っているのは広島だけであり、他の都市は一部の地域に細々と残るにすぎない。最近、札幌の路面電車がすすきのの歓楽街で環状運転を開始したことで話題になっているが、市内交通の中心は地下鉄とバスであることに変わりない。そう考えると、広島の路面電車は格がまったく違うのである。ここでは市街地の主役と言ってよい。

格の違い①・・待たずに乗れる
グリーン・ムーバ-・マックス
広島電鉄・広島駅

 JR広島駅前の広場にある路面電車の広島駅には、新旧さまざまな電車が出入りして見飽きない。わずか3線分しかない手狭なホームに、平日の8時台には4方面に向かう34本もの電車がひしめき合う。路面電車の宿命として、ダイヤ通りには決して運行できないだろうから、折り返し作業を行いながら方面別に電車を捌くのは神業ではないかと思うのだが、そこには良くできた工夫あって、混乱することはない。

続行運転 猿猴橋停留所
手前は3000形連接車。後方は5100形
グリーン・ムーバー・マックス
【注】4系統ある路線のうち、1号線(紙屋町・市役所経由)広島港行・2号線宮島口行・6号線江波行の3系統は、いずれも市の中心街を通る利用客の多い路線で一括りにしてよい路線である。残る5号線(比治山経由)広島港行は四国へのフェリーが出る宇品港へ行く際に便利な路線だ。だから手狭な乗り場は、市中心部方面と宇品港方面の2つにまとめられている。
 広島駅に入ってきた電車は、一番奥の3線ある行き止まりまで行って乗客を降ろす。5号線の電車はJR側の行き止まりで乗客を降ろしたら、乗客を乗せて発車を待つ。それ以外の電車は道路側の2線のいずれかで乗客を降ろしたら、5号線の前に移動して乗客を乗せる。つまり、5号線とそれ以外を直列に並べて、手狭な場所だが方面別乗車を可能にしているのだ。徹底したフリークエント・サービスをによって、待たずに乗れる路面電車の運行が保たれている。

格の違い②・・不易流行
京都市電 横川線

 広島電鉄では現在も被爆電車が運行されているが、それ以外にも懐かしい電車がはしっている。大阪市電と京都市電だ。いずれも昔のままの塗装なので、さながら動態保存博物館のようだ。
 今から40年以上前のことになるが、高校の修学旅行で京都を訪れた際、七条大橋で撮った写真の片隅に京都市電が写っている。新幹線には興奮しても時代遅れの路面電車には全く興味がなかったので、乗ってみようなどとは思わなかった。残念なことをしたと思う。
大阪市電 横川停留所にて

 路面電車に関心を示さなかったのは、中学校時代に都電で通っていたということもある。余りにも日常的なことだからその大切さには気付かないものだ。大阪には行ったことがなかったので、大阪市電の記憶はない。

【注】後悔しているのは当時の定期券を処分してしまったことだ。定期券には路線図が記され、乗車区間を線で示すようになっていた。1968年〜1970年は廃止のピークを迎えた時で、毎月定期券からは路線が消えて、次第にまばらになっていた。残しておけば、貴重な資料となったはずである。当時の私には古いものが滅びていくことには全く関心がなかった。未来がバラ色に見えた頃の記憶である。

 鉄道遺産を大切にする一方で、積極的に先進的なLRVを数多く導入するのも、広電の大きな魅力の一つだ。
3900形は平成2年にデビューした
連接車。           
人口の多い広島市だけに、市民の足としての路面電車は、一度に大量の人を運ぶ必要がある。古くは昭和50年代に西鉄福岡市内線から譲渡された3000形が、3両編成で今も活躍している。その後も宮島線と市内線の直通運転のために導入された3900形など車種は数多くある。
 ヨーロッパで発達したLRVは、超低床構造で市内電車としてうってつけであるばかりでなく、高出力の電動機を搭載しているために郊外電車としても通用する優れもので、路面電車と宮島線を併せ持つ広島電鉄にぴったりの電車である。平成11年ドイツから空輸されたのが、グリーン・ムーバこと5000形電車である。シーメンス
5車体連接車の5000形
グリーン・ムーバー
が造った超低床車であり、路面電車開発では日本はヨーロッパに大きく遅れをとっていることを目の当たりにした出来事であった。
 その後、純国産LRVを目指して開発されたのが、5100形グリーン・ムーバー・マックスである。近畿車輛・三菱重工業・東洋電機製造の3社と広島電鉄が共同して開発し、平成17年にデビューした。現在広島電鉄では5000形が12編成、5100形が10編成運行されている。
国産の5100形
グリーン・ムーバー・マックス
マックスと謳っているのは、シートをロングシート主体とし、グリーン・マックスよりも定員を増やしているからである。ドイツ製の5100形は、クロスシート中心のため観光客の多い宮島線に投入され、マックスは市内線で活躍することが多い。いずれにせよ、広島電鉄ほど路面電車の可能性をつぶさに魅せてくれる鉄道は日本ではここを置いて他にない。

格の違い③・・二つの世界遺産を結んでいる
写真左側すぐの所に電停がある

 被爆地広島には日本人ばかりでなく数多くの外国人観光客が訪れる。ことばに不自由な彼らも、一日乗車券を購入すれば、路面電車を使って気軽に移動ができる。私が訪れた1月6日は、平和資料館の来館者のほとんどは海外からの訪問者であった。
 市内から安芸の宮島へは、広島電鉄圧倒的に便利である。スピードこそJRには叶わないが、繁華街や原爆ドームから乗ることができる利便性、そして本数の多さ、どれをとってもこちらを利用したくなる。
JRのフェリーから

 通勤通学客だけでなく観光客を取り込めるというのは、鉄道会社にとっては圧倒的な強みとなる。宮島口に着いた観光客は、そのままグループ会社の宮島松大汽船で厳島神社に渡っていく。実は並行して運行されるJR西日本のフェリーの方が、大鳥居の前を通るなどの演出があって面白いのだが、そのようなことは知らない観光客は一日乗車券を利用して松大汽船の乗客となる。
 
格の違い④・・マニアックな面白さ
架線に注目!
手前は例外的に直接吊架式だが、
そこ以外はすべてシンプルカテナ
リー方式。          

 通常、速度の遅い路面電車の架線は1本で済ませることが多い。費用も比較的安価で済むからである。これを直接吊架線方式(ちょくせつちょうかほうしき)という。法律上簡易鉄道の扱いの「軌道」では、どこもこの方式を採用している。JRでも新潟の弥彦線のようなローカル線でも採用されている。
 ところが広島電鉄の架線はシンプルカテナリー方式という本格的な架線方式をとっている。こちらは高速にも耐える構造だ。電鉄を名乗るだけあって鉄道会社の矜持を感じる。

 複雑な路線を持つだけあって、分岐や合流が多いのが広電の特徴である。果たしてポイントの制御はどうなっているのだろうか。そう思いつつ土橋停留所であたりを見回しているうちに、懐かしいものを見つけた。かつて東京にもたくさんあった路面電車のポイント切り替え施設である。交差点の片隅の高い位置から、やって来る電車の行き先を見ながらポイント操作をしていたものだ。今はカーテンが降ろされている。今時人件費のかかる係員など配置できる余裕はない。
 とすれば、ICT全盛の時代。フルオートのコンピュータ制御かと思えば、もっと手軽で安価な方法だった。これが面白いほど、単純で効率の良いシステム、否、仕組みだった。

 土橋停留所からは二方向に分かれ、江波行きは直進し、西広島・宮島口方面は右に分岐する。電停の路面には、手前に「江」、その先には「己」と記され、それぞれに白いラインが引かれている。ポイントはその先にある。これは行き先別に停車位置を変えているのだ。西広島は別名己斐(こい)という。

 架線に注目すると、パンタグラフが通過するとそれを感知するスイッチがいくつか付いている。つまり停車位置によって一定時間に叩くスイッチの数が異なり、1個だったら江波、2個だったら己斐と判定し、ポイントを切り替えているのである。なんとシンプルな、そして確実な運行制御だろう。アナログもまだまだ捨てたもんじゃない。

格の違い⑤・・おまけ

横川線横川駅

 路面電車の駅がお洒落になれば、街はもっと元気になれる。それを実現しているのが広電だ。JR横川駅は山陽本線と可部線の分岐駅であり、そこと直結している広電横川駅は市中心部へ向かうターミナル駅なのだが、そこが実に良い駅なのだ。若いカップルの待ち合わせにだって利用できる空間になっている。そこにレトロな市電がやって来る。
 松山と結ぶフェリー乗り場、宇品港にある広島港駅も瀟洒な雰囲気の路面電車離れした素敵なターミナルだ。ここもレトロな市電とのミスマッチがとても楽しい。
広島港駅で出発を待つ旧京都市電

 広島電鉄は、他の追随を許さない偉大な路面電車と言っても過言ではない。実に面白いのである。

(2016/1/6乗車) 

 

2016年1月5日火曜日

中国山地の「癒され列車」

中国縦断鉄道に乗りに行く

 姫路から広島まで行くには、瀬戸内海に沿って山陽本線や山陽新幹線を利用するルート以外にもう一つの方法がある。姫新線と芸備線を乗り継いで山懐深く入り、中国山地に沿って縦断するルートである。距離にして323.6㎞、海沿いコースよりも70㎞ほど遠回りの、のんびりしたローカル線の旅となる。以前からこの「中国縦貫鉄道」に乗りたいと思っていたが、ようやくその機会がおとづれた。
最後の定期寝台特急列車、サンライ
ズ瀬戸・サンライズ出雲。    

 今年は1月4日が月曜日ということもあって、正月を故郷で過ごした人々による帰京ラッシュが例年より早めに終わり、世間もだいぶ落ち着きを取り戻しつつあった。姫路からは優等列車など走っていないので、一日がかりの旅となる。暗くなる前に広島に着くためには、姫路6時55分発の列車に乗る必要があった。このような場合に重宝なのが寝台列車だ。新幹線や飛行機はどんなに速くてもこの時間に東京から姫路に着くことは不可能である。旅の初日を朝早くから動こうとする時、夜行列車は実に便利な移動手段だったのだが、今は絶滅危惧種となってしまった。が、姫路までは奇跡的にうってつけの列車がある。
シングルの部屋。左は扉側から見た
様子。右は扉側を見た様子。   

 4日の晩、私は東京駅9番線ホームに立った。夜汽車(蒸気機関車が引っ張る夜行列車)はもちろんのこと夜行列車ということばが死語となり、夜中の長距離移動の中心が高速バスに移ってしまって久しい。この日の東京駅からの夜行列車は22時発のサンライズ瀬戸・サンライズ出雲の二本だが、岡山までは連結されて運転されるので、実質一本に過ぎない。岡山までなら20時30分発のぞみ133号に乗ればその日のうちに到着するし、姫路にいたっては20時50分発のぞみ135号があって、サンライズ号よりわずか1時間15分前に出発すればその日のうちに目的地についてしまうのだから、確かに夜行寝台特急の役割は終わっているといえるのだが、よく考えればそれはその土地に住んでいる人が利用する場合のことではないか。旅行客にとって見れば、深夜に現地に着いても仕方がないだろう。しかもサンライズには個室が揃っている。国際線のファーストクラスだって及ばない快適な移動が楽しめる。
 とはいえ、その夜私は一晩中大地震に逃げ惑う夢を見続けた。揺れる列車で見るものとしては、実にわかりやすい夢といえるが、夜行列車愛好家の私とっては実に不本意極まりない。どうやらこのところ続いている仕事上のトラブルが影響しているらしい。なんとも夢見心地の悪い旅立ちとなってしまった。

姫新線を乗り継ぐ
佐用まではキハ127系が運行。通勤通
学用だが、片側一人の3列のクロスシ
ートで快適に車窓が楽しめる。     
播磨新宮駅にて

 5時25分、真っ暗で底冷えのする姫路駅に降り立つ。駅前通りの先には微かに白鷺城の黒いシルエットが見える。ここから158.1㎞先の新見までを結ぶのが姫新線である。全線単線非電化のローカル線で、直通列車は運転されていない。乗り通す酔狂な人などいないに違いない。3回乗り換えてまずは新見を目指すつもりである。
佐用からは過疎路線用キハ120系。
左は智頭急行普通列車。

 播磨新宮までは姫路への通勤通学路線であり、日中でも2~3本運転されているが、その先はぐっと減ってしまい2時間に1本程度の過疎路線となってしまう。しかし沿線の人口は少なすぎるわけではなく、人里をコトコトと走るような風景が続き、特別風光明媚な訳でもないので次第に眠くなってくる。この地方の人はもっぱら自家用車を利用しているのだろう。乗り降りするのはお年寄りばかりである。智頭急行との接続駅佐用で2回目の乗り継ぎをする。佐用の次、上月の先で岡山県に入る。列車は中国自動車道と並行して走り続けるが、到底自動車に太刀打ちできるはずもない。取り立てて目を瞠る風景もなから、地元民からも観光客からも見放されているようで、この姫新線が段々可愛そうになってきた。およそ2時間半が経過して津山に着いた。ここで3回目の乗り継ぎとなる。

金髪の少年
昭和の風情が残る津山駅

「おじちゃぁん! カメラのキャップ、落ちたで」
良い席を取ろうとそればかりを気にして新見行列車に乗り込もうとした私に、後ろから声を掛けてきたのは、ジャージ姿の金髪高校生だった。カメラがドアにぶつかり、その拍子にキャップを落としたらしい。教えてくれたのは有り難いが、どうも苦手なタイプの若者だ。「あっ、どうも」とまともなお礼も述べずに、取り敢えず席を確保してからキャップを探すためにホームに降りたが見つからない。するとその金髪ジャージも降りてきた。
「ほら、あそこに落ちてるやろ」
と言って、線路を指さす。レンズキャップはホームと列車の間に落ちていた。運転室の下だから手が届きそうだが、線路に降りるわけにもいかない。
「ん〜む。困ったなあ。どうもありがとう。諦めるかなあ」
困るには困るものの、それほど高価なものではないし、人目が気になることもあって、さっさとお仕舞いにしたかった私に対して、その少年は思ってもみなかったことを口にした。
「駅員に言ってやろうか。ちょっと待ってて」
金髪少年はそのままホームの反対側で車両の分割作業をしていた鉄道員に駆け寄り、何やら話し掛けている。緑と赤の旗を持った鉄道員は、分割された二本の列車を発車させ終わると、こちらにやってきた。
「列車を移動させるわけにはいかないなあ。駅員を呼んでくるわ」
そう言って掛けていく頃には、列車の運転手を始め、あたりにいた鉄道員が3〜4名集まってきた。発車まで5分ほどしかなく、車内の乗客も何事かと見ている。段々大事になってきた。たかが数百円のキャップで列車が遅れたらどうしようと、気の小さい私は居ても立ってもいられなくなってきた。こういうときに限って、事態はなかなか進展しない。
 駅員はいつ来るのだろう。しかし、運転手を始めとして鉄道員達はのんびりした顔つきである。冷や汗かきつつ顔が赤くなっているのは私一人だ。
 発車間際になって、ようやく駅員がマジックハンドを持って駆けつけてくれた。呆気ないほど簡単にレンズキャップが戻ってくる。列車の発車にも間に合い、ほっとした私は、そこに居合わせた鉄道マン達に鄭重にお礼を述べ、更にその少年に向かって言った。
「有難うございます。とても助かりました」
思いがけない親切な行為に対して、いつの間にか少年に対しても丁寧な言葉遣いになっていた。
「よかったな。それがないとレンズ、傷ついちゃうもんな」
金髪少年はちょっと笑いながら言った。まさかそんな優しい言葉を掛けてくれるとは思ってもみなかった。
 列車が発車すると、通路を挟んだ反対側の座席に少年は行儀悪く足を投げ出して坐っている。いつもならやれやれと思う私だが、この時ばかりは違っていた。人は本当に見かけに依らないものだし、見かけだけで判断した自分が実に詰まらない人間だと思えてくる。ただ嬉しかった。その先、中国縦断鉄道の車窓に広がる風景は、どこにでもあるあるような取り留めもない田舎の景色だったが、人の親切に触れたあとだっただけに、なんとも心温まる列車の旅となった。新見を越えて芸備線を乗り継ぎ、広島まで辿り着いた時、あたりはすっかり暗くなっていた。
(2016/1/5乗車)

 


 

2015年8月27日木曜日

ドイツの鉄道(ベルリン・ポツダム編)

Straßenbahn (Berlin)

Straßenbahn とは市街電車のこと。いわゆる市電である。
ベルリン市電は歴史が古く、現在でも延長191.6㎞の路線
がある。主に旧東ドイツ地域を走っている。アレキサン
ダー広場を抜けて走る Riesaer Straße M6系統。   

M6系統。多くはLRVが使用されている。Alexander-platz
駅前。                      


Stadtbahn (Potsdam)

ポツダム市電の歴史は馬車鉄道に遡り、1880年開業。
総延長28.9㎞とさほど長くはないものの、主な市内観
光名所であるプロイセン王国のフリードリッヒ大王が
過ごしたサンスーシ宮殿・庭園やポツダム会議が開か
れたツェツィーリエンホーフ宮殿を訪ねるにはちょう
どいい。                    

ポツダム市電の路線の多くは終点にループがあって、
電車は折り返すことなく運行が出来る。運転手にとっ
ても都合が良いだろう。デルタ線で折り返す所もある
ようだ。だから上下線いずれもパンタグラフが進行方
向に対して一定だ。               

Nauener Tor ナウエン門は、1755年に造られた。ポツダ
ム市に残る3つの門の一つで、市電もここを潜って入っ
てくる。この辺りはカフェなども並ぶ人通りの多いとこ
ろ。右側の煉瓦造りの建物はオランダ人街と呼ばれ、祖
国を追われたユグノー派の人々が住んだ所。     


U-Bahn (Berlin)

ベルリンには10系統の地下鉄が走っている。色はどれ
もが黄色で、銀座線を思い出させるためだろうか、ど
こか親しみがわいてくる。窓にはブランデンブルク門
のイラストがたくさん描かれている。傷をつけるいた
ずら防止だろうか。そのため地上区間を走る場合の見
晴らしは良くない。第3軌条から750Vの直流電流を集
電しているため、架線はなく天井が低い。     

ヴィッテンベルグ駅の夜景。西ベルリン時代の中心地
クーダム地区にある。老舗デパートのカーデーヴェー
を始めとした繁華街だ。重厚な建物ゆえ、地下鉄の入
口にはとても見えない。             

ベルリンの地下鉄は1902年開業。東西分断という厳し
い時代を経験している。地下鉄の中には東側にはみ出
している路線もあり、東ベルリンの駅は閉鎖され全列
車通過扱いとなった。現在工事中のフリードリッヒ通
り駅は、東側で唯一Sバーン(これも東にはみ出した路
線)との乗り換え駅として検問所が設けられて、西側
の住民に利用された。ウンター・デン・リンデンに近
いこの辺りは現在再開発の真っ最中。       

DB (Berlin unt Potsdam)

かつて国電といえば東京都内を走る国鉄の通勤電車
のことだった。国鉄がJRとなって、その名称をどう
するかが話し合われ、一旦はE電となったが、そん
な奇妙な名称は誰も使わない。結局、JR各線とかよ
くわからない言い方が続いている。ドイツでは都市の
通勤通学用電車はすべてSバーンだ。ベルリンのS
バーンは地下鉄でもないのに第3軌条方式で集電して
いる。                    

重厚な機関車が動物園駅に入ってきた。窓下にES64U2
と記されている。ESはシーメンス社製のユーロ・スプリ
ンター、64は出力6400kw、Uは汎用(貨客両用)、2は
2電源対応という意味だ。シーメンス社がヨーロッパ各
国に納めている電気機関車だ。後ろの車両はDBのもの
で、寝台列車のように思えるが不明。        


ベルリン動物園駅に進入するICEハンブルグ行。東西
分裂時代、西ベルリンの中心クーダム地区に位置する
この駅は、西側からの長距離列車の終点だった。今で
は、その位置をベルリン中央駅に譲ったため、特急列
車は全て通過する。               


442形電車はドイツ国鉄の最新型近郊形電車である。
カナダ企業のボンバルディア社製。日本にいるとわか
りにくいが、鉄道車両の国際入札は当たり前なのだろ
う。REGIOの表示があり、地域の快速列車である。 

442形の先頭車両台車。ボルスタアンカ(台車と車体を
繋ぐ横棒に似た装置)付きの重厚な台車。なお、442形
は車両間に台車を置く連接車方式の電車である。   

分割併合を頻繁に行えるよう連結器も自動化されている。

電気機関車牽引のREGIOがオラニエンブルク駅に到着。
客車は2階建てで、自転車持ち込み可能である。   


ベルリンの北約30㎞にあるオラニエンブルク駅は、S
バーンの始発駅でもある。この電車はS1系統で、フリ
ードリッヒ通りやポツダム広場を地下鉄 (U-bahn では
ない)として通過し、ポツダムの手前ヴァンゼーまで行
く。                        

ポツダム広場、ソニーセンター脇に
あるドイツ鉄道本社ビル。    

(2015/8/24〜27 見学・乗車)