2017年7月1日土曜日

北海道の産業遺産①


冬の救世主キマロキ

 北海道の鉄道が輝いていた頃を偲べる博物館がふたつある。
 その一つめは名寄駅から徒歩20分ほどの小高い丘にある北国博物館だ。その見どころはキマロキと呼ばれる重厚長大な除雪のための蒸気機関で、宗谷本線の車窓からも眺めることができる。


 先頭から順に、9600型蒸気機関車(かんしゃ)・ックレー車・ータリー車・D51型蒸気機関車()。更に写真の編成は、最後尾に除雪にあたる監督員や作業補助員が添乗する緩急車(車掌車)が連結された全長75㍍の堂々としたものだ。
 鉄道の除雪と言えばラッセル車がなじみ深いが、この編成には連結されていない。そもそも雪深い鉄路をラッセル車なしにどうやって蒸気機関車が前進できるのか、私は長い間疑問に思っていた。
 もちろん北海道では数多くのラッセル車が活躍していた。ただ極寒の北海道ではラッセル車だけでは太刀打ちできない事態がやって来る、ということをこの博物館にやって来て知った。
 ラッセルによって確かに線路上の雪は取り除くことが出来る。ところが繰り返し線路脇に押しのけているうちに、やがて雪の壁が出来上がり、力では押しのけられない時がやってくる。ラッセル車が身動きできない時がやってくるのだ。そこに救世主として現れるのがキマロキというわけだ。キマロキの要はマックレー車とロータリー車のペアである。

 マックレー車とは、かき寄せ式雪かき車のこと。線路脇の雪の壁を崩す役割がある。カナダ人マックレーが考案したものを国鉄苗穂工場が製作した。進行方向に向けて「ハの字」型に羽根が開く構造となっており、うずたかく溜まった雪を再び線路上にかき寄せる働きを持つ。車室の下に大きなタンクが見えるが、ここに圧縮空気をためてそれを動力として羽根の開閉を行ったものと思われる。自走能力がないために、先頭の機関車で牽引した。

 その後ろに控えるのは赤い羽根が特徴的なロータリー車である。大きな羽根で雪を遠くまで吹き飛ばす。マックレー車が幅広く掻き集めた雪を効率良く飛ばすことができた。ロータリー車の後ろには炭水車が連結されている。というのも、ロータリーは蒸気機関で回転しているからである。しかし、自走能力はない。そのため後ろから蒸気機関車に押して貰う必要があった。こうして長大なキマロキ編成が誕生した。

 まだ道路が完備されていない時代、鉄道は1年を通して人と物資を安全に運ぶことの出来る唯一の交通機関だった。極寒の北海道にあっては、人がいる限り、鉄道が長期にわたって不通になることは許されなかった。鉄道は生命線。だからキマロキは最強の救世主であり、人々を守る鉄道員の誇りでもあった。

 鉄道車両の野外展示の多くは、長い間の風雪に痛めつけられ、見るも無惨に錆び朽ち果てているものが多い。しかし名寄のキマロキは保存会の人々によって定期的に塗装され、冬には雪囲いされて守られてきたため、とても美しい状態で展示されている。訪れた日もちょうど2年に1度の塗装作業の真っ最中だった。頭の下がる思いがした。
(2017/6/28訪問)
*キマロキは廃線となった旧名寄本線上に展示されている。

北海道の産業遺産②


蒸気機関車を支えた技術

 北海道の鉄道が輝いていた頃を偲べる博物館、その二つめは小樽市総合博物館だ。総合博物館とはいうもののほぼ鉄道博物館であり、しかも日本有数の施設だろう。それもそのはず、ここはかつて北海道開拓の要となった幌内鉄道の起点、旧手宮駅の鉄道施設なのだ。それがそのまま博物館となったもので、機関車庫三号(明治18年竣工)のように重要文化財まである。
 
 さて、ここではあまり他に類を見ない展示施設を紹介しよう。それは蒸気機関車資料館だ。

 蒸気機関車は数千点の鉄・銅・鉛の金属部品などからできていて、日本を代表するD51型蒸気機関車の場合、約123トンの重さがあり、同程度の大きさの電気機関車の1.4倍もの重量がある金属の塊だ。その塊を動かすためには、部品一つ一つが高熱高圧蒸気の力によって機械的動作を繰り返すしかない。そのため部品は摩耗し、腐食するので、その整備の苦労は計り知れなかった。

 ねじやボルトなどの小物から動輪や主連棒などの大型部品に至るまで、分解、補修、組み立ての繰り返し。その際に必要になるのが、様々なゲージだった。例えば車輪の摩耗や軸のゆがみはそのまま大事故に繋がる。それを防ぎ、効率の良い整備をするために、現場では様々なゲージや工具が開発されていた。それらが資料館には所狭しと展示されている。

これらの展示を見ていると、当時の技術者が如何に創造的な仕事をしていたかということを思い知る。東海道新幹線を作ることに尽力した島秀夫は、もともとは蒸気機関車の設計を行っていた。コンピュータもない時代、製図板と向き合いながら、効率の良い蒸気機関を追究し、自分の頭の中で空間的なイメージを二次元に落とし込んでいく。蒸気機関車は現代人にとってはノスタルジックな鉄道遺産に過ぎないが、当時の人々にとっては、時代の最先端を行く交通機関であり、それに従事する鉄道員は最高の頭脳の持ち主だったということだ。ここにあるもの、それを生み出した技術者がどれほど優れていたかを改めて思い知る場として、ぜひ注目したい展示だと感じる。

 今日、日本各地で蒸気機関車の復活運転が行われているが、その準備と維持には莫大な時間と労力が払われていると聞く。もの作りが得意だと言われている日本にとって、蒸気機関車の再生・維持は、それを証明する必要条件のように思える。
(2017/7/1訪問)

北海道の産業遺産③


小樽市総合博物館の特徴ある展示物

1980(明治13〜)年代
しづか号【鉄道記念物】
米国ポーター社製

官営幌内鉄道6番目の蒸気機関車。1号の義経号は現在京都鉄道博物館に、2号の辨慶号は大宮の鉄道博物館に所蔵されている。牽引する客車は幌内鉄道の貴賓車い1号。特徴は、最前部に障害排除のための木製カウキャッチャー、大型の前照灯、火の粉を軽減する煙突ダイアモンドスタック、ボイラー上の鐘など、西部劇に登場するアメリカンテイスト満載の外観。



1895(明治28)年
大勝号【鉄道記念物】
現存する国産最古の蒸気機関車 手宮工場製

1889(明治22)年幌内鉄道は財政基盤が脆弱なままに、北海道炭礦鉄道に譲渡された私鉄。1905(明治38)年に鉄道国有法により国鉄となる。1895年3月の日清戦争勝利にちなんで命名された。国産蒸気機関車としては、2例目となる。ポーター社製の蒸気機関車のほぼコピーだが、設計図から製作に至るまで、すべて日本人が行ったという点で極めて意義深い。











1909(明治42)年
アイアンホース号
ポーター社製

1993年に米国から購入された機関車で、日本鉄道史とは直接関係ないものの、幌内鉄道で用いられた蒸気機関車と同じポーター社製であり、今も園内で訪れた人々を運ぶ動態保存機。燃料は重油を用いていて、煙突もダイアモンドスタックとはなっていない。
小樽市総合博物館は、蒸気機関車に関する膨大な史料と同時に実際に機関車を整備し運転するノウハウを持っている点で、他を寄せ付けない施設と言える。









1944(昭和19)年
キ270
ラッセル車 苗穂工場製



基本形のラッセル車。前面で線路上の雪をかき分け、更に屋根上のタンクに詰められた圧搾空気の力によって両翼が開いて、線路脇に雪を押しやる。雪を両側に掻き分ける単線用のタイプ。自走能力はなく、蒸気機関車が後押しした。





1944(昭和19)年
キ718
ジョルダン車 苗穂工場製


圧搾空気の力で両脇に広く広がる羽根を持つ。ラッセル車で押しのけられた雪を更に外側に掻き出すことができたが、雪の抵抗が大きいところでは使えず、主に駅構内・操車場で利用された。






1944(昭和19)年
キ752
ジョルダン車 苗穂工場製


キ718と同時期に作製され、後年圧搾空気から油圧に変更されたタイプ。











1956(昭和31)年
キハ031【準鉄道記念物】
レールバス 東急車輌製

稚内で10年間活躍したもの。利用客の少ない地方にはどのような車両を走らせたらよいかという問題は、いつの世も難しかったようだ。寒冷地用に運転台下にはスノープラウが付き、客室の窓は二重窓となっている。全長10㍍、車輪は二軸。バス用のディーゼルエンジン搭載。乗り心地に難があり、2両連結の場合運転手も二人必要だった。


1976(昭和51)年
DD14 323
ディーゼル機関車 川崎重工製

キマロキ(産業遺産①参照)の能力を1台に集約した除雪車。つまり雪を掻き寄せ、遠くに飛ばしながら自走することができた。除雪装置を取り外すことが出来たので、冬以外にも構内作業に利用できるはずだったが、片運転台としたため、後方視界が悪く、ほぼ除雪用として用いられた。




その他


木製の除雪機。詳細未調査。











冷房はグリーン車だけ。

 広々とした敷地内には、昭和に北海道で活躍した急行車両などが展示されている。屋外展示のため保存には相当苦労しているようで、痛みも激しいのが気がかりだ。訪れた日も修復作業が行われていたが、数が多いだけになかなか手が回らないようである。
 もともと国鉄の施設だったものが、今は小樽市が管理運営することになった。JR各社の中で、JR北海道とJR四国がなかなか本格的な鉄道博物館を持てないでいる。それを補う小樽総合博物館の努力は賞賛されて良い。


左の建物は、旧日本郵船(株)
小樽支店(裏手)。     
 小樽市がこの鉄道施設に力を入れるのには訳がある。小樽観光で欠かすことが出来ないものに小樽運河があるが、それと並ぶ観光スポットが、小樽市総合博物館から歴史建造物が多く残る寿司屋通りまでのおよそ1.5㎞続く、旧国鉄手宮線の遊歩道である。旧色内駅から旧手宮駅の一区間が、そのまま残されている。幌内鉄道に始まる北海道の開拓史の中で、小樽が果たした役割は大きい。それを感じさせてくれる鉄道関連施設であるだけに、大切に保存されているのだ。
(2017/7/1訪問)

2017年6月30日金曜日

湿原をゆく列車


釧路湿原

 本来このような場所に線路が敷かれていること自体が驚くべきことだ。
 湿原を走る鉄道。重たい車両が軟弱な地盤の上を走る困難さについて言いたいのではない。ここはラムサール条約で保護された区域、釧路湿原国立公園の真っ直中。そこに釧網本線は通っている。敢えて喩えてみれば、尾瀬の中に線路があるようなもので、奇跡としか言いようがない。
シラルトル湖とコッタロ原野
(茅沼・塘路間)

 それを可能としたのは、それこそ時代といえる。ここに線路が敷かれたのは1927(昭和2)年のこと。北海道では鉄道の多くが網走に流された囚人達(多くは政治犯だったという)による過酷な労働によって造られた。それが今に残る貴重な路線となっている。
 世の中が豊かになって自然保護運動が盛んになり、ラムサール条約が発行されるのが1975(昭和50)年、国立公園となるのが1987(昭和62)年。どちらもずうっと後のことなのである。今という時代には決して造られることのない鉄道といえる。

 私が初めてここを訪れたのは1972(昭和47)年のことだ。無知をさらけだすようで恥ずかしいが釧路湿原のことなど何も知らなかった高校二年生の私は、C58蒸気機関車に牽かれた列車の中で、ウトウトと碌に景色も見ずに居眠りをしていた。ガクンと機関車に引っ張られる衝撃で目を覚ました時に目に飛び込んできたのが、夕陽に照らされた大湿原だった。なんで尾瀬のようなところを汽車が走っているのだろうと一瞬目を疑った。あちらこちらに湿原特有の沼沢が広がる風景は今も変わらない。
釧路川に沿って(塘路・細岡間)

 単線非電化が素晴らしいのは、線路が周囲の風景の中に完全に溶け込んでいるところだ。時の移り変わりとともに赤茶けた路盤は、自動車道のようにずかずかと自然を侵襲することもなく、言うなれば登山道に敷かれた木道のようなものだ。道幅は狭く、控えめで、違和感がない。同じ鉄道であっても、電化路線は見苦しい架線があっていただけない。
 釧路湿原を車で訪れるために砂利道なども整備されているが、たとえ未舗装であっても灰色の砂利は色彩的に浮いているし、自動車道は思いの外道幅が広いものだ。かつて宮脇俊三は『夢の山岳鉄道』の中で、自然保護の観点から上高地や富士山五合目などへは自動車道を廃止して、すべて登山鉄道にすべきだと述べた。これを単なる鉄道ファンの思い付きとしてではなく、自然保護の観点から見直すための良い例がここにある。
 日本最大の湿原を一望に見渡すなら、釧路湿原駅で下車し、細岡展望台まで20分ほど歩いて行くことをお薦めする。眼下に蛇行する釧路川の眺めと遙か地平線まで続く釧路大湿原を満喫することが出来る。それでも、間近に眺めるならカヌーか釧網本線だろう。釧路から釧路湿原ノロッコ号で出掛けて、カヌーで下り、再びノロッコ号で戻ってくるというツアーもあるようだ。この奇跡の車窓を多くの人々に知って貰いたいと思う。なお、釧路湿原を有名にした丹頂鶴にも、車窓を注意して見ていれば出会うことができる。

別寒辺牛湿原

 釧路湿原のように有名ではないが、奇観ともいうべき美しい風景が、牡蠣で有名な厚岸にある。クリーミーで滋味あふれる厚岸牡蠣のことはさておき、釧路から花咲線(根室本線釧路・根室間の愛称)に乗って50分もすると、列車は太平洋に出る。そこは厚岸湾で、ここまで来ると工場地帯もなく海は青々と広がっている。湾の奥まったところに厚岸の町があり、そこから対岸の小高い丘に向かって架けられた赤いトラス橋が、北海道で最初の海上橋、厚岸大橋である。ここを渡ると霧多布に行ける。
別寒辺牛川河口付近
(厚岸・糸魚沢間)

 列車は厚岸大橋を右に見ながら再び水辺に出るが、ここはすでに厚岸湾ではなく、厚岸湖である。塩分濃度が高く、波も穏やかなため、牡蠣の生育にもってこいの場所だ。まるで海のように広い湖が、車窓一杯に広がる。線路の脇がすぐ湖岸なので、まるで海の上を列車が走っているかのような錯覚に陥る。
 そのうちに奇妙な風景になってくる。水面に小さな平たい、草で覆われた島がいくつも現れてくるのだ。島というにはあまりにも小さいものだが、ヨシやスゲが生えた低層湿原なのだそうだ。何だろうと見とれているうちに、いつの間にか対岸が近づき、間に川が現れてくる。つまり別寒辺牛川の河口にある低層湿原の中を列車は走っていたのだった。
 別寒辺牛は「べかんべうし」とよむ。有名でないのも当たり前で、この湿原は1993(平成5)年にラムサール条約に登録される際に命名されたものだという。それまでは名もなく、ただ荒涼とした土地として誰からも注目されることなく、ひっそりと佇んでいたに過ぎない。近年は価値を認められて、すこしずつ知れ渡るようになった。
やや上流地点(厚岸・糸魚沢間)

 この地を訪れるのは3回目となるが、40年前に訪れた際は霧に覆われて何も見えなかった。5年前に訪れた際は、車で霧多布に直行してしまった。今回初めて好天に恵まれた中、この奇観に出会えたのである。

 古い鉄路は、護岸工事も一切なされずに、自然のままの湿原の上に敷かれている。そこを行き来するのは、1日わずか6往復の1両編成ディーゼルカーのみ。鉄道写真家の人々は、ここの風景の素晴らしさをかなり前から知っていたようで、確かにこの地を走る列車の傑作写真を目にしたことはしばしばあった。ただ、如何せん名もない土地であったために、長い間私が気付かなかっただけのこと。今回の旅では、まさに衝撃の風景であった。

 鉄道愛好家が述べれば贔屓の引き倒しになりかねないが、やはり敢えて触れておきたい。環境保護と鉄道は相性がいいのだと。この先たとえ自動車がEVになっても、アスファルト道路はいただけない。もっとも自動制御で道幅も狭くというなら、それはすでにレールを走る鉄道と同じだろう。でも、護岸工事はいけませんよ。
(2017/6/30乗車)

2017年6月28日水曜日

最果ての駅 北海道編

 「最果て」ということばにはメランコリックな響きがある。どうして自分はこんな憂鬱な響きに心を奪われてしまうのだろう。たとえ人からは根暗と思われようが、憧れにも似た思いで心が騒ぐのはとめようがない。それこそなんの用もないが、ただそれを確かめるためだけに出掛けてしまうのだ。

北の果て

稚内駅は函館駅同様に大きな
ガラス越しに到着した列車を
眺めることが出来る。   

 北の最果て、稚内を訪れるのは4度目になる。今回は宗谷岬にもノシャップ岬にも礼文利尻にも足を伸ばすつもりはない。ただ車止めが新しくなったのを確認するためだけに、夕方着いて翌朝早くここを立つ。
 特急サロベツを降り、1番線しかなくなってしまったホームを歩いていくと、真新しくなった4代目の駅舎が迎えてくれる。改札を抜ければ、最果てとは思えないほどの綺麗なロビーからは日本最北端の線路を見渡すことが出来るようになっていた。列車から降りた観光客が一斉にカメラを向ける。「ついにここまでやってきたのだなあ」という思いを多くの人が実感した瞬間だろう。
 宗谷本線(と言っても今では支線ひとつないが、宗谷線では気分が出ないのか、時刻表にもそう記されている)は、旭川・稚内間259.4㎞、特急で約3時間40分の距離。平成27年にJR北海道が発表した「当社単独では維持することが困難な線区について」では、名寄以北がそれに該当すると指摘され、将来が危ぶまれる線区であり、まさにメランコリックな鉄道なのだが、それだけに旅人には趣深い素晴らしい路線だ。特に音威子府(おといねっぷ)以北の130㎞区間は、悠久の時を刻みながら流れる天塩川に寄り添って進み、その先は寒々としたサロベツ原野を突っ切り、最後は天気に恵まれれば日本海に浮かぶ利尻富士が堪能できるという絶景路線だ。今日は生憎の天候で利尻富士は拝めず、稚内手前の、背の高い木すら生えていない荒涼とした北の大地は寒々としていた。
 一つしかないホームの柱には、主だったところへの営業キロが掲げてある。札幌駅より396.2㎞、函館駅より703.3㎞、東京駅より1,547.9㎞、西大山駅より3,068.4㎞、枕崎駅より3,099.5㎞。道内だけでも700㎞、これは東京駅から岡山県の和気駅にほぼ相当する。西大山駅とは鉄道好きなら誰もが知る「JRで最南端」に位置する鹿児島県の駅である。沖縄にゆいレールが開業してからJRという条件付きの最南端となった。ゆいレール開業当初、「日本最南端」という表記を返上しなかったため、「沖縄は日本ではないのか」と険悪な雰囲気が流れた。ゆいレールはモノレールなので、鹿児島県では気にしなかったのかもしれない。勿論この乗り尽くしの旅でもモノレールは歴とした鉄道であるから「JR最南端」が正しい。それでも同じJRとしてこだわりがあるのだろう、「最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。」と西大山駅を持ち上げた掲示が車止めにあり、またホームには「北と南の始発・終着駅」として稚内と枕崎が友好都市締結をおこなったことが記されていた。最果て同士の友好で、少しでも盛り上がりたいということだろうか。
車止めが粋なモニュメント。
それにしても道の駅は駅だった!
建物左の横断幕にも注目。   

 稚内にはここ以外にも最果てのシンボル、車止めがある。平成23年に現在の位置に新駅舎が移った際、駅前広場を整備するために若干南に移動した。そこでかつての終着点にモニュメントとして車止めを市が設置したのである。それは現在の線路を真っ直ぐ延長したところにあり、ご丁寧にもロビーの床にもかつて線路があった部分が分かるようになっている。昔を知るものにとっては、市の粋な計らいが嬉しくなる。ただ、こちらまで見学に来る人はだれもいなかった。
土木遺産・北海道遺産に選定
されている北防波堤ドーム 

 樺太が日本領だった戦前までは、稚泊航路という鉄道連絡船が就航したために線路は更に北数百㍍に位置する北防波堤ドームまで延びていた。そこには車止めが残されているわけではないが、古代ギリシャのエンタシスを彷彿とさせる柱に支えられた見事な防波堤が残っていて、稚内の観光スポットの一つとして人気がある。
(2017/6/28)

東の果て

 日本最東端の駅は、終点根室の一つ手前の無人駅「東根室」である。ぜひここに降りてみたかったので、通過してしまう快速ノサップで一旦終点の根室まで行き、折り返しの各駅停車で戻ってくることにした。
釧路方面は上り6本すべてが
停車する。       

 通過の際、列車の後方窓から見てみると、鉄道ファンが一人ホームで写真を撮っている。10数分後に戻ったときは私と入れ違いに釧路に向かうのかなと思ったが、いざ降りてみるとその姿はなかった。そのかわりにヘルメットを被ったライダーがカメラを向けて去って行った。
 「みんな好きだなあ」と自分のことは棚に上げて思う。常に自分だけは例外なのだから我ながら勝手である。列車から降りるとすぐにホームの端に寄り、写真を撮る。カーブの途中にある駅なので、列車は内側に傾いていて、ホームも弓なりになっている。あたりは閑散としているが根室市郊外の住宅地である。
草の向こうに  
住宅街(?)がある。

 根室市中心街は太平洋側ではなく北側の根室湾沿いに位置している。ひたすら東を目指す根室本線は、根室市の南側から台地の上を地形に逆らうことなく回り込んで終点根室に到着するため、路線が東側に膨らんでおり、そのちょうど東のピークに位置するためにここが最東端の駅となった。ものの本によってはアジア最東端の駅と記したものすらある。なるほど、我が日ノ本は日出づる国であるから当然のことのことだ。
 それにしてもタイトルがなければだれも注目することのない無人駅だ。終点までわずか1.5㎞。列車本数は上りが6本、下りが5本。地元の人だって利用しているかどうか怪しい。ホームには質素な表示が立っているが、駅前には結構立派な碑が立っている。記念撮影に車で訪れる人のためと思われる。
この掲示は修正されることが
望ましい。        
ここからは徒歩で根室駅に戻る。

日本最東端のタイトルを奪われている根室駅にも意地があるのだろう。ホーム外れにある表示板に「日本最東端有人の駅」と書かれているのを見たときは、思わず笑ってしまった。右下に小さく最西端は佐世保駅と記されているが、これはJRに限ってのことで、いまだに国鉄時代の役人根性が抜けていないと思われる。ゆいレールの沖縄空港駅に対して失礼だし、旧国鉄の松浦線、現在の松浦鉄道たびら平戸口が本州最西端であり、なおかつ有人駅だ。
晴れた根室は初めてで、爽やかな
初夏の風が吹いていた。    

 根室駅としては、余程悔しいのだろう。駅入口には「朝日に一番近い街!」というコピーもあった。きちんと整備された綺麗で小さな駅舎は、昔ながらの北海道らしさを宿していて好感が持てる。
 それにしても終着駅である根室駅が最果ての駅であることには変わりはない。ホームの先100㍍の程のところには車止めが見える。機関車が客車を付け替えるための機回り線が延びているのだ。今では1両の気動車しかやって来ない根室駅だが、昔の賑わいが偲ばれる風景だ。
この看板に巡り会えて良かった。

その車止めまで行ってみる。
 こちらの看板に偽りはなかった。「根室本線終点」左へ行けばオホーツク海、右は太平洋。滝川駅から444k339m。1行あけて、札幌駅まで484k076m。東京駅まで1,607k576m。やたらと細かい数字はともかくも、ここでの「から」と「まで」は重要だ。根室本線は滝川を起点として終点が根室であるということ。1行あけてあるのは次の数字が参考の数値だからで、ここを起点とした札幌や東京までのものである。根室の人が抱く辺境の思いが伝わってくる。それにしても1,607㎞は、稚内よりもほぼ60㎞程東京が遠いということだ。まさに北の大地の最果ての駅は根室であった。コロボックルが棲むという蕗の葉っぱに囲まれて、正直な看板はひっそりと立っていた。
(2017/6/30)

 

2017年5月15日月曜日

近鉄物語② しまかぜ乗車記

 お出迎えのアテンダントに導かれ、そのままステップを上がって車内に入ると、総革張りシートの匂いがぷーんと漂い、私の鼻腔を充たした。おお、豪華列車だ! 綺麗に磨かれた大きな窓からは柔らかな光が差し込み、通路を挟んで左側2列シート、右側単独シートが前方に向かって並んでいる。その先には運転室越しに前方風景が広がっている。
展望車両


 ”最高のおもてなしで、伊勢志摩へ”をコンセプトに平成25年にデビューした観光特急しまかぜは、確かに乗車した瞬間から旅人の心を掴んでくる列車だった。先頭車両の3列目単独シートに腰を降ろすと、身体を包み込むようなプレミアムシートが快い。シートピッチは広く、ふくらはぎを支えるレッグレストや背もたれが電動で動くことは当然のこと、何と驚くべきことに背もたれにエアークッションが装備されていて、腰を揉みほぐしてくれる電動マッサージ付きなのだ。知り合いの新車に乗せて貰って、「ワー、凄いね!」とあれこれ触ってはしゃぎ回る感覚を、電車で味わうのは初めてだ。
 今年はJR東日本が TRAIN SUITE 四季島を、JR西日本がトワイライトエクスプレス瑞風をデビューさせ、すでに人気のJR九州のクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」とともに日本列島を豪華列車ブームが席巻する勢いだが、如何せん高倍率と高額運賃の二重苦によって、市井の鉄道愛好家には縁遠いものとなっている。だいいちこれらの列車は、市販の時刻表には掲載すらされいないのだから、お召し列車や団体列車と同じ特別な列車であり、一般人には無関係だ。
 その点しまかぜは、時刻表にもきちんと掲載され、料金も通常の近鉄特急に700円から1,000円のしまかぜ特別車両料金が加わるだけという実にリーズナブルな料金設定なのである。近鉄名古屋から賢島までを近鉄特急を利用して3,480円で行くか、それとも1,000円プラスして4,480円でしまかぜに乗るか。このプラスは絶対のお値打ちである。それだけに人気は高く、現在近鉄名古屋、京都、大阪難波から賢島まで、それぞれ1往復(水曜運休)ずつのため予約は早めにする必要がある。お金のことでいささか品のない話になってしまったが、要は庶民にも手が届く豪華列車だということを強調したかったのである。
 余談だが、JRはこの観光特急を相当意識したのではないかと、私は密かに睨んでいる。今年デビューの両列車の名前の最後の文字をつなぎ合わせてみよ。「島風=しまかぜ」になるではないか。私はこれが偶然だとは思わない。響きの良いことばは誰もが真似したくなるものだからだ。無論、近鉄特急の方は、志摩に吹く爽やかな風がコンセプトであり、オリジナルな命名と言える。JR東日本と西日本は、JR九州の成功を追いかけているので、ネーミングについては枕詞をつけるところから二番煎じを否めない。あまり批判が過ぎると、乗れない僻みだろうと思われそうなので、ここでやめておく。
大阪難波行しまかぜ
大和八木にて (5/13撮影)

 席に着いてしばらくすると,エプロン姿のアテンダントがおしぼりとメニューを持ってやって来た。お楽しみの時間の始まりだ。赤ワインと摘みになりそうなものが数多く詰まった特製幕の内弁当を注文する。
 しまかぜに限らず、線路幅が広い標準軌の近鉄はとにかく揺れが少なく乗り心地が良い。特に特急が頻繁に走る区間の保線状況は抜群で、おそらく日本随一だろうと思われる。その上更に、しまかぜには横揺れ防止装置が搭載され、不快な揺れを抑えている。こうしてワインを楽しみながら流れる風景を眺めるという上質な時間が過ぎていく。
御影石を敷き詰めた
エントランスの床 

 車窓の風景とは、乗る列車によって全く異なるものだ。普段乗り慣れている区間でも、通勤電車から見る景色と特急列車から見る景色とは違って見える。見る角度、見ている高さ、窓の大きさとその透明感、列車の揺れ方、それに同室している乗客達の様子。混んでるか空いてるかでも違ってくる。風景は目だけで見ていると思いがちだが、実は五感すべてを使って感じるものなのである。豪華列車が持て囃されるのも頷ける。

 そんなことを考えているうちに大和八木を過ぎ、両側からは新緑の山々が迫ってくる。長谷寺や室生口大野を過ぎれば、もう三重県に入っている。
展望車両通路からの眺め

 先頭の展望車両の良いところは、運転手気分で迫力の前方車窓が楽しめることだ。ただそれはあくまでも鉄道好きの言い分ではないかと思う。前方風景というのは案外に無個性なものだと、長年見続けて感じるようになった。線路や信号、標識。それにトンネルや鉄橋の形はよく分かるのだが、そればっかりが気に掛かって、どのような土地にどのような人が住み、どのような田畑があったのかなどということは全く印象に残らない。鉄道の施設はどこも似たようなものだから、結局何に乗っても同じということになる。それに対して、側面の車窓からは屋根瓦の違いや田畑の作物の種類や生育状況などその土地の人々の暮らしぶりが目に飛び込んでくる。遠くの山を眺めるのにも都合が良い。これが実に面白い。今回坐ったシートは、前方と側面の両方が見渡せるスペシャルシートだった。前方からは乗ってみたい近鉄特急が迫り、側面には新緑の伊勢地方が満喫出来るというわけだ。
しまかぜは6両編成。展望車に乗れ
なくても、カフェ車両(後方ブルー
の3号車)に行けばよい。    

 布引山地を青山トンネルで抜けると、川の流れが逆になって、長い下り坂を伊勢湾に向かって滑るように快走し始める。伊勢の神様にお仕えする斎宮が住まわれたところは、現在さいくう平安の森として整備されている。車内アナウンスで左側車窓にそれが現れると告げられた。鉄道の旅ばかりをしていると、観光がお留守になるので、行ってみたい場所ばかりが増え続ける。これが困りものではある。
賢島駅にて

 伊勢神宮を訪れる人達が、伊勢市や宇治山田で下車していく。神様には大変申し訳ないが、「えっ!降りちゃうの。勿体ないなあ」と心の中で思う。真珠や水族館で有名な鳥羽で降りる人もいる。「賢島まで乗っていればいいのに」とここでも思う。結局賢島まで通しで乗っていたのは半数に満たなかったが、そもそも彼らは列車の旅が目的ではないのだから当然のことだ。私とは目的が違うのである。旅先では私が異端者なのだ。それは充分分かっているのだが、それほど快適な移動を約束してくれるのが観光特急しまかぜだということは、ぜひ書き残しておきたい。
(2017/5/15乗車)

2017年5月13日土曜日

近鉄物語① 生駒を越える

ロープウェイは鉄道か

 総延長501.1㎞。近鉄の全営業キロ数は民鉄日本一を誇る。時に502.5㎞と示されることがあるのは、葛城ロープウェイ1.4㎞を加えるか否かで計算が異なるためである。
 ロープウェイは鉄道ではないでしょうと多くの人に言われてしまいそうだが、501.1㎞には生駒山と信貴山にあるケーブルカー3.3㎞分が含まれている。ケーブルカーも鉄道ではないとすれば、全営業キロ数は497.8㎞となり、数字的にはちょっと残念なことになる。だからと言って、(株)近畿日本鉄道が、景気付けのためにケーブルカーを無理やり鉄道に含めたのだという訳でもない注1
生駒ケーブルは二本のケーブルが
並行しているため、中間地点は複
々線。途中踏切まであり、道路に
切られた溝をケーブルが流れる。
右側の宝山寺2号線は普通の車両。

そもそもケーブルカーは2本のレールの上を走るのだから鉄道でいいじゃないかという「常識」を認めてしまうと、モノレールやリニア新幹線は鉄道ではなく、ジェットコースターの多くは鉄道になってしまう。遊園地の乗り物は私有地内だから除外し、自動車と違って軌道によって制約されるのが鉄道だとすれば、やはりロープウェイは鉄道に含めないといけなくなる。だんだん厄介なことになってきた。 日本全国の鉄道を乗り尽くそうという<高邁な?>目標に向かって生きる私にとって、ロープウェイの件は出来れば避けて通りたい問題である。というのも、それを含めるとハードルが一段と高くなるからだ。大抵のロープウェイは険しい山奥にあり、しかも数が多く、そこへは車を利用しなければ行けない。鉄路愛好家にとって、レールすらない乗り物に乗るために、わざわざ鉄道以外の乗り物で出掛けるというのも、決して愉快な話ではない注2
強烈なイメージの宝山寺1号線
  通称「ブル」の背後に踏切を横
断する人がいる。      

 ということで、ケーブルカーは「責任」をもって乗ることとするが、ロープウェイは勘弁して欲しいというのが、このブログでの鉄則にしたいのである。

 前置きが長くなった。とにかく近鉄は総延長501.1㎞の大鉄道会社であり、JR四国855.2㎞に次ぐ日本で7番目の鉄道会社なのだということを確認したかったのだ。それだけに乗り所満載であり、乗り尽くし旅では多くの発見もあった。今回は生駒山と近鉄の話。


注1)鉄道事業法が扱う事業は、鉄道事業と索道事業のふたつであり、ケーブルは鉄道、ロープウェイは索道に分類されている。だから、ロープウェイは鉄道事業ではないが、鉄道のようなものとは言えそうだ。
注2)私自身は手軽に絶景が楽しめるロープウェイそのものは大好きだし、車の運転も嫌いではない。ただし、鉄道らしくないものを、ただ制覇するためだけに車で出掛けるのは、鉄道愛好家としては望まない。


生駒山をめぐる(めぐらない)物語

 四方を山や丘で囲まれた奈良盆地は、古代の人々にとっては天然の要害に囲まれた心安らぐ土地であったに違いない。古代王朝が、美しい山に囲まれつつも猫の額ほどしかない飛鳥の地を抜けだし、唐の侵攻を恐れて近江の地に都を移したりしながら、その後も平城京に移った歴史を見ていると、何とも臆病な日本人の心性が透けて見えて、いとおしさすら感じるようになる。もともとそんな国民性なのである。
 さて「国のまほろば」である奈良へ大阪から向かうなら、近鉄奈良線が早くて便利だ。近年JRも頑張ってはいるが、近鉄には到底太刀打ちができない。それは、奈良街道の歴史と無関係ではなく、聖徳太子にも関わる歴史的経緯がある。
 大阪府と奈良県の間には、標高642㍍の生駒山を主峰に東西30㎞を越える生駒山地が連なっている。傾動地塊と呼ばれる地形は、断層面がむき出しになった大阪側は切り立った崖となって立ち塞がり、奈良側はなだらかな傾斜地である。どちらからにせよ生駒越えは楽ではない。
 楽をしたけりゃ、迂回すればよい。生駒山地の南外れを流れる大和川に沿って、竜田越えの奈良街道がある。それでも途中亀の瀬と呼ばれる渓谷を通らなければならず、古来地滑り地帯として悩まされているが、ここを通って難波津と行き来したのが聖徳太子だった。古代の貿易港である難波津付近に四天王寺を建立した聖徳太子は、のちに斑鳩の里に法隆寺を営む。関西に住まない私にはピンと来なかったが、どうして法隆寺が飛鳥や奈良市内から遠いところにあるのかが、漸く納得できた。斑鳩は大和の国にあって、外国に一番近い土地柄なのである。大和川沿いの奈良街道の先は難波津を経由して百済や唐に続いていた。
 行き来の盛んなこのルートに、大阪と奈良を結ぶ最初の鉄道が建設されるのは当然のことだった。それが現在のJR関西本線(大和路線)であり、開業は1892(明治25)年のことであり、日本の鉄道としても古い。その後、京都と奈良を結ぶ現在のJR奈良線が1896(明治29)年には開通し、翌々年には京橋と木津を結ぶ片町線(学研都市線)も通じて、生駒を避ける鉄道路線網が完成した。

 大阪と奈良を直線で結ぶにはどうしたらよいか。明治の人の答えは、立ち塞がる生駒を鋼索鉄道、つまりケーブルカーで克服することだった。ようやく近鉄の出番だ!
 1910(明治43)年9月設立の奈良軌道が10月に大阪電気軌道(以下、大軌)と名称を替え、それが今日の近鉄の前身となるが、それはさておき、土木工事がまだ未熟な時代のことであり、生駒山地のなかでも比較的標高の低い暗峠(くらがりとうげ)までケーブルカーで登ろうと考えたという。
 暗峠は生駒山に比べて190㍍ほど低い455㍍、現在は国道308号線が目立った九十九折りなどもなくほぼまっすぐに設置されている。そもそも自動車と鉄道とでは登坂能力が全く異なる。ざっと計算して、350㍍ほどの標高差を1.8㎞で登らなければならないから、194‰(パーミル、千分率のこと。19.4%と同じ)ほどの登りとなる。アプト式で有名な碓井峠のほぼ3倍であり、ケーブルカー以外の選択肢はない。車にとっても暗峠は難所で、車が通れる道としては現在日本で最も急な坂に認定されているのだそうだ。最大斜度37%というから気が遠くなる。ガードレールがないところもあるので運転初心者は絶対にやめた方がよいという。そう言われるとよけい行ってみたくなるが、今は鉄道の話。
 大阪と奈良を結びたいという願いは、風景を楽しむ旅人の為にあるわけではない。そこで莫大な工費が予想される生駒トンネルを掘ろうという英断が下され、1914(大正3)年に上本町と奈良が結ばれることになる。今でこそ生駒周辺は住宅街となり、その先の学園前は近鉄きっての高級住宅街が広がって、数多くの乗降客で賑わうが、建設当時に利用するのは生駒聖賢宝山寺の参拝客ぐらいで、雨天の日には閑古鳥が鳴いていたという。そのため、大軌は倒産寸前となり、トンネル施工会社の大林組も連鎖倒産寸前までいったようだ。今の繁栄をみると想像すらできないほどだが、結果としてこの路線の成功が今日の近鉄を作ったと言える。
 トンネル掘削技術が発達したとはいえ、近鉄は現在生駒に2本の複線トンネルをくり抜いている。関東の私鉄で長大トンネルを持つのは西武鉄道秩父線しかないが、それも単線である。近鉄がいかに大きな鉄道会社であるかを物語るエピソードだ。

大軌の始発駅だった上本町

 大軌の始発駅として誕生した上本町は、現在7つのホームが6本の線路を挟み込む形の終着駅で、その形状から7面6線の櫛形ホームと呼ばれている。地下には更に2面2線のホームがあって、そちらは難波・三ノ宮方面に繋がっている。
 東京人にとって関西私鉄の終着駅は憧れの的だ。広々かつ堂々としていて停車場にふさわしい華やぎある。欧米では当たり前の行き止まりとなった櫛形ホームが、鉄道を単なる移動手段ではなく、旅の始まりと終わりを演出する舞台装置として人々の心に旅情を醸し出してくれるのだ。改札口の向こうにずらりと並んだ列車を眺めていると、それぞれの行き先はどんな所なのかと想像力をかきたてられる。かつての上野がまさにそのような場だったが、今ではわずか3面5線と控えめになり、上野東京ラインが完成してからは、ますます高架線を通過する列車が多くなって、櫛形ホームは存在感が希薄になった。
 ここ上本町も1970(昭和45)年に難波線が開通し、近鉄の終点が大阪難波に移ってからは、上本町は大阪上本町と名前を変え、大部分の特急と奈良線電車が地下駅を通って大阪難波まで行くようになった。そのため当時の華やかさはなくなったというが、関東人から見れば驚くほど堂々としたターミナルだ。今でも伊勢志摩への特急の一部と大阪線の全列車はここが始発駅だ。ということで、生駒を「迂回する」列車の始発駅ということになる。

ミナミの地下駅、大阪難波

 一方で大阪ミナミの中心に位置する大阪難波駅は、千日通りの地下という限られた空間に位置するところから、わずか2面3線の手狭なターミナルだ。2009(平成21)年に阪神なんば線が相互乗り入れするようになってからは、神戸・大阪・奈良が結ばれて、電車が一日中目まぐるしく発着を繰り返す、さらに活気に満ちた駅になった。
 その一端を最も本数の多い平日の10時台に見てみよう。この時間帯は20本の列車が名古屋・伊勢志摩・奈良方面に発車していく。
 近鉄といえばまず特急。人気の高い豪華な観光特急しまかぜを含む4本が、専用の1番ホームから発車する。専用といっても特別なしつらえがあるわけではない。ホームは奈良方面に向かう2番線と共用なので、終日観光客と通勤・買い物客でごった返している。残りの16本は2番線からの発車だ。当駅始発は奈良行急行3本と大和西大寺行普通と区間準急が4本の計7本あって、残りの9本は阪神線からやってくる。中でも神戸三宮と奈良を結ぶ快速急行3本は、この路線の花形で、ほぼ特急と同じ時間で奈良まで行くことが出来るお値打ち電車。それに尼崎始発の普通電車6本が加わって、合計16本となる。
 これだけの数の列車をさばくには、当駅始発をホームで折り返させる訳にはいかない。乗務員の交代にも時間がかかるからである。そこで奈良方面からやってきた特急以外の電車は3番線に停車し、そのまますぐに神戸方面に向かってホームを出て行く。敷地が広ければ、その先に何本もの引上線が用意され、そこで支度を調えてから2番ホームにもどればスムースに事は運ぶはずだが、ここはミナミの繁華街の地下。隣には地下鉄千日線が並行して走っていて、引上線は1本しかない。そこで、一駅先の阪神電鉄桜川駅のそのまた先に近鉄用の引上線2本を設置して、ここで折り返しているのだ。
 実は鉄道ファンにとってはこれがたまらなく面白い。異なる会社間を列車が通過する際には境界駅で乗務員の交代が行われるのが通例だ。東海道・山陽新幹線では新大阪駅で乗務員の交代が行われる。もちろん列車が境界駅に停まらない場合にはこの限りではない。北陸新幹線の場合、JR東日本と西日本の境界駅は上越妙高だが、停車駅数の少ないかがやきは停車しないので乗務員の交代は長野駅で行われる。ところが近鉄と阪神の間では桜川駅で乗務員が交代するのだ。つまり近鉄の乗務員は阪神線内に踏み込みつつ、阪神の乗務員は自社の路線でありながら桜川・難波間の運転はしないということになる。こうすることで、近鉄電車は桜川の引上線でスムースに折り返し、パンク寸前の近鉄難波駅は始発駅としてうまく回っているのである。
 なお、大阪難波発の尼崎・神戸三宮方面の電車は早朝の1本のみ。この場合、わずか1駅区間を阪神・近鉄どちらの乗務員が運転するか、不覚ながら確認してはいない。ただ常識的に考えて、近鉄の方と考えるのが自然だろう。

生駒トンネルを目指す

 大阪難波を出発した難波線電車は、次の近鉄日本橋・大阪上本町までは千日通りの地下を走り、奈良線と名称を変えて鶴橋の手前で地上に出る。上本町からの大阪線と合流して鶴橋に到着。鶴橋はJR大阪環状線との乗換駅で賑わっている。焼肉の聖地と呼ばれるだけに風向きによっては高架下から食欲をそそる香りが漂ってくるというが、残念ながら風は吹いてなかった。ここから先は布施までの3駅が複々線区間となる。
 布施駅は大阪線と奈良線が分かれる大がかりな駅で、2階に大阪線、3階に奈良線となっていて、それぞれの上下線外側には通過用の線路が設置されている。つまり各階4線あるという贅沢な造りだ。ちなみに首都圏で方面別にホームが上下に分かれている駅は、京成の青砥駅(本線と押上線)と京浜急行電鉄の京急蒲田駅(本線と空港線)、京王の調布駅(本線と相模原線)の三つだが、どれも通過用線路はなく複線構造である。とにもかくにも、電車がスムーズに走れる工夫が随所にあって、大阪の私鉄はファンにはたまらないし、利用者本位なのだといえる。ただ一つ注意すべきことがある。布施駅は急行通過駅のため、大阪線と奈良線とを乗り換える場合、ここで乗り換えると急行に乗れず余計に時間が掛かってしまう場合があるのだ。その場合は、鶴橋まで行って戻ってきた方が良い。そうすれば急行から急行に乗り継ぐことが出来る。そのようなことわからないよという人は、スマホの乗り換え案内の指示に素直に従おう。
奈良方面への特急は、夕方から夜
にかけて運行される。生駒駅にて

 鶴橋から先、ビルや住宅が建ち並ぶ町並みの中を高架線を行く。布施で名古屋方面の大阪線が生駒を迂回するために右に分かれて行き、前方に横たわる生駒山系が奈良との間に大きく立ち塞がっている。高校ラグビーの聖地、花園ラグビー場がある東花園には、近鉄の東花園車庫があって日中ならば多くの近鉄電車が停まっている。それらを左に眺めながら行くと瓢箪山駅に着く。ひたすら東進するのもここまでで、ここからは北へ90度進路を変え、石切駅までの3㎞は36‰の急勾配で高度を稼ぎ、少しでも生駒トンネルを短くしようという涙ものの区間だ。鉄道を愛好する者は、こういう区間では目が離せない。見晴らしの良い絶景区間だからだ。大阪から奈良へ行く際には、是非進行左側の車窓に注目してほしい。
京阪奈線は架線のない第三軌条の
地下鉄仕様。生駒トンネルを抜け
て地下鉄中央線に乗り入れ、大阪港を目指す。      

 斜面に住宅が張り付き、大阪の街が広がる。どこからもすぐわかる「あべのハルカス」はここでも天王寺の街の方向を教えてくれる。眼下に見える高速道路は、生駒山を抜けて大阪城の脇までひたすら西進する阪神高速東大阪線だろう。実はここにはもう一つの近鉄線、けいはんな線が走っている。けいはんな線の生駒トンネルは、奈良線のものよりももっと長いが、それだけに車窓は面白くない。何本も生駒トンネルを掘ることが出来る近鉄の凄さだけを指摘しておく。
 石切駅まで来ると、生駒山系はすっくと立ち塞がっている。このままトンネルを抜ければそこはすでに奈良県生駒である。古都奈良はもう目と鼻の先だ。
(2017/5/13・5/15乗車)