2022年7月9日土曜日

ちょっと寄り道 大糸線の巻

大糸線のこと

白馬三山と道祖神
 阿佐海岸鉄道を堪能し、高松から寝台特急サンライズ瀬戸で東京に戻ったあと、そのまま新宿から「8時ちょうどのあずさ♫」に乗り、私は信濃路を抜けて富山を目指した。梅雨のさなかとはいえ、驚くほど天気に恵まれた。甲斐駒から北アルプスの山々まで、息を呑むほどの絶景が続く。車窓大好き人間にとっても、これほど経験はなかなかできるものではない。あずさ号からの一枚を載せておく。
 以前にも記したように、大糸線車窓の最大の問題は電線が絶えず邪魔することだ。残念ながらこの一枚にもしっかり映っている。日本が観光立国を標榜するなら、電線の地中化は避けて通れないだろう。美しい仁科三湖も、車窓からカメラを向けると必ず電線が写り込んでしまう。一つ救われるのは、車窓を楽しむ我々の目には、あまり電線が見えないことである。心のフィルターは、大自然の美しさに目を奪われて、醜い人工物は取り除いてくれるようだ。夢中で写した写真を後から楽しみに見ると随分ガッカリするが。
 
 余談になるが、どうして信濃大町と富山を結ぶ観光列車を運行しないのだろう。翡翠で有名な姫川にちなんで、私はネフライト・エクスプレスと勝手に名付けて、その運行を空想している。ネフライトとは翡翠のことだ。

 立山黒部アルペンルートは国内屈指の人気ルートだが、マイカー族には途中で引き返すか、あるいは自動車回送サービスを利用するか悩ましいところだ。仮に富山(立山)・信濃大町間に別ルートの観光資源があれば、車を駐車場に停めて、ぐるっと一周することが可能となる。鉄道好きなら誰もが知っているルートがある。大糸線の北半分がそれで、大町からは珠玉の仁科三湖、後立山連峰の険峻な峰々、白馬三山を眺めた後は急流姫川の渓谷美が続く。

 特に姫川は両岸に山塊が迫り、古来塩の道と呼ばれる交通の要衝でありながら、道の確保に難儀した場所だ。今も国道148号線はスノーシェッドと呼ばれる落雪・落石・落ち葉や風水害から守る覆いに包まれて、とても姫川の景観を楽しむことなど出来ないが、考えようによってはスリリングな国道ともいえる。対岸の山塊を大糸線が走っている。糸魚川・静岡構造線と呼ばれる地質学上珍しい地形だからこそ、自然災害も多く、同時に景観も優れているのだ。今JR西日本は、収益性に悪さから廃線にしたがっている区間である。

 廃線は実にもったいない。今回私がJR西日本に支払った南小谷・糸魚川間の運賃は、わずか680円。1時間ほどのところを、小振りのディーゼルカーが1両編成で7往復するに過ぎない。これでは採算もとれないだろう。起死回生の秘策はあるのか。

 一つある、と私は思う。それも始めはお金を掛けずに。

 えちごトキめき鉄道に大人気観光列車「雪月花」がある。スイスの登山鉄道を彷彿とさせる真っ赤なボディーは、天井付近まで視界が開け、食事を楽しみながら走る列車で、糸魚川まで運行されている。なかなか予約の取れない列車だが、実は土曜と休日のみの運行なのだ。これを試験的に平日だけ運行してみればよい。富山・市振間はあいの風とやま鉄道、糸魚川まではえちごトキめき鉄道、南小谷まではJR西日本、信濃大町まではJR東日本が担当する。時刻表も考えてあるので紹介すると…

 7時30分富山5番線発車。7時55分魚津で宇奈月温泉方面からの客が乗ってきたところで朝食サービスが始まる。メニューは、日本海御前または白エビ海鮮サラダの洋定食からのチョイス。次第に大きくなっていく立山連峰を眺めながらの一時だ。途中親不知子不知の伝説を聞きながら8時46分、糸魚川2番線到着。ここで折り返し49分、大糸線に入る。ネフライト・エクスプレスの名前の由来となった翡翠やフォッサマグナの説明を受けながら姫川の景観を堪能する1時間だ。南小谷からはJR東日本が担当。ここからは白馬三山や仁科三湖を愛でながらのティータイム。10時39分信濃大町1番線に到着。
 信濃大町に車を停めて、すでにアルペンルートを楽しんだ観光客は、ここから家路に向かう。富山に車を停めた場合は、ここからアルペンルートを楽しみつつ富山に向かうことになる。
 一方早朝に首都圏や名古屋圏を車で出発した場合は、そろそろ大町に着いている頃だろう。ネフライト・エクスプレスの信濃大町出発は11時16分である。11時42分白馬を出発したところでランチタイム。メニューは、信州蕎麦会席または安曇野の山葵を利かせた飛騨牛ステーキランチ。ドリンクは安曇野ワインか日本酒大雪渓を始めとしてソフトドリンクも。長時間の運転、ご苦労様。糸魚川13時19分着。食後のティータイムを楽しみながら14時36分富山駅4番線ホームに到着。

 いかがだろう。車で移動する観光客に受けると思うのだが。4社合同というところが難しいかもしれないが、どこも損をしないはずだ。儲かるとわかればすぐ飛びつくのがJR東日本。資金力があるので、特別車両を作ってしまうかも知れない。商売下手な(と私は思うのだが)JR西日本も新幹線客目当てに、糸魚川からの区間乗車をあてこんだツアー列車を作ってしまうかも知れない。ただいずれにせよ、車社会と食文化を取り入れた豪華列車がポイントだろう。片道通行が原則のアルペンルートでは、多くの観光客が鉄道ではなく観光バスで立山か信濃大町まで行き、快走されてきたバスで反対側から抜けていってしまう。鉄道愛好家には、絶景の大糸線をいかしきれていないことが悔しくてしょうがないのだ。

(2022/6/29乗車)
 
 
 
 
 


2022年7月8日金曜日

あと3路線、0.1㎞延びた富山港線の巻

 鉄軌道王国富山の本気度

旧富山駅北(停)付近
 富山地方鉄道富山港線は、JR西日本が手放したローカル線だった。鉄道紀行作家宮脇俊三が『時刻表二万キロ』の旅で最終列車を乗り逃し、再度訪問し直すような鄙びた線区だったのだが、地元財界と富山市が協力して第三セクターを設立、富山ライトレールと名称を改め、路線を開発途上の富山駅北口に新設し、車両もモダンなLRT(低床路面電車)にして大幅に運転本数を増やした優等生だ。

新幹線の下に新設された停留所
 それが2年前、最後の総仕上げとして0.1㎞ほど延長された。たかだか100㍍と思うなかれ。富山市を南北に分断する北陸新幹線富山駅の真下で、富山地方鉄道軌道線(市内電車)と結ばれたのである。富山ライトレールは、富山地方鉄道に発展吸収され、南北の相互乗り入れが始まった。つまり、南北の移動を活性化するという都市計画の一環として実現されたわけで、鉄道と言えば廃線ばかりが話題なる昨今、まさに快挙と言って良い。

 富山に続けとばかりに宇都宮でも来年LRTが開業する。広島でも広電がJR広島駅の構内に入るようだ。鉄道間のアクセス向上は、利用者にとって計り知れないほどの恩恵を与えてくれる。大都市での乗り換えによる時間と労力のロスは、ストレス以外の何物でもない。それが富山のような中規模の都市で、劇的に変わっているのは、驚きでもある。ヨーロッパ的な雰囲気の漂う富山市内電車の将来が楽しみだ。

洗練された富山駅
 富山駅を間に挟み、東西を数回乗車して行き来してみる。多くの人は富山で下車するが、乗り続ける人も決して少なくない。都市計画者のねらい通り、確実に南北の人流が生まれているのだろう。

 富山県は、鉄軌道王国を標榜している。鉄道王国とすれば良いところを敢えて鉄軌道という奇妙な言い回しにしたあたり、路面電車をはじめ観光資源としてのトロッコ電車など、軌道に期待を寄せる富山県の本気度が感じられる100㍍だった。これで残るのは九州の2路線、52.0㎞。新幹線でとんぼ返りする。

(2022/6/29乗車)

2022年7月7日木曜日

27292.3㎞の終着駅

後藤寺線で田川後藤寺へ

折り返し新飯塚行後藤寺線列車
 筑豊炭田の集積地、田川後藤寺のプラットホームに立つのは3度目だ。採炭が終わりを告げ、網の目のように張り巡らされた炭鉱鉄道の多くも廃線となり、ボタ山にも緑が生い茂って、かつての賑わいはどこにもない。残されているのは、今は使われなくなってしまった数多くの引き込み線と寂寥感あふれるだだっ広い構内、そして生まれ変わろうと呻吟する町の風情くらいだろう。花壇が置かれた駅構内は地元の人の優しさが感じられるが、それでもここが日本のラストベルト(Rust Belt:錆びた地帯)であることは否めない。駅舎も列車も至る所、錆が浮いている。

 昔から「乗り鉄」泣かせといわれた筑豊各線だが、ここ周辺ではJR日田彦山線と後藤寺線、それに平成筑豊鉄道だけとなってしまった。それでも接続の悪いローカル線を効率よく乗り尽くすのは結構難しく、結局後藤寺線と日田彦山線の南半分が未乗区間として残り、その接続駅である田川後藤寺駅へは3回目の訪問となった。

 駅は0番線と1番線が後藤寺線(一部日田彦山線)、跨線橋が伸びて中央2番線は平成筑豊鉄道糸田線、その先3番線と4番線が日田彦山線専用ホームという堂々とした設えだが、長大編成にも対応したホームの真ん中にちょこんと単編成のディーゼルカーが停車する、黄昏行くローカル線の風情そのものだ。鉄道愛好家にはたまらなく嬉しい風景だが、情緒だけでは鉄道は成り立たないと言った某JR社長のことばが胸に突き刺さる。

最後に選んだ日田彦山線

 


添田から先に鉄路はない
 日田彦山線は、2015年7月の九州北部豪雨で添田以南が不通となってしまい、代行バスが走るようになった。以後、復旧を待ったものの2020年、ついに不通路線のBRT(Bus Rapid Transit)化が決まってしまう。日田彦山線は、日田にも彦山にもディーゼルカーでは行けない路線になってしまったのである。乗車したディーゼルカーは添田まで。添田から先は次第に山が迫り峠越えとなる。だから、私にとって鉄道最後の終着駅は添田なのだが…制度上、代行バスは鉄道扱いなのだ。

 添田駅で停車した列車の先には、無情にも車止めが設置され、その先の線路はすでに剥がされて道床だけになっていた。

 日田彦山線の名前の由来となった彦山は、霊峰英彦山にちなんだものだ(英があってもなくても読み方は同じ)。英彦山神宮を模した駅舎のある彦山駅が沿線の主要駅であり、新幹線が博多に通じた1975(昭和50)年の時刻表3月号によれば、上下4本もの急行が停車する賑わいを見せていた。今では想像しがたいことだが、久大本線の鳥栖を通って日田や由布院へ向かうよりも1本多く、それほどこの地域の重要路線だったのである。

日田行代行バス

 しかし、今はその面影もなく、英彦山神宮へのアクセスはマイカーか添田町バスに限られる。そして日田を目指すものは、駅から100㍍ほど戻った所にあるバス停から、代行バスに乗り換えるのだ。乗客は2名だった。

 バスは30㎞ほどの距離を1時間ほどで駆け抜ける。ところどころで放置された日田彦山線の線路に沿いながら、途中つづら折りの峠越えを挟みつつ、列車の来ない駅に立ち寄っていく。彦山駅はすでに撤去され、小振りの瀟洒な停留所に生まれ変わっていた。BRT化の準備が進んでいるようだ。完成すれば峠越えも解消するだろう。

そしてゴールへ

 17年間の旅を終えるにあたり、最後に選んだのは久大本線と日田彦山線の接続駅「夜明」。コロナ禍にウクライナ侵攻、その上に老後の心配など、なにかと不穏な気配が漂う昨今、そんなときだからこそ希望をうしなってはいけないだろう。それを後押ししてくれるような素敵な駅名ではないか。
 代行バスを降り、階段を昇ると静かな無人駅舎があった。7月7日10時10分過ぎ、夜明駅のホームに立つ。ようやく乗り尽くしの旅の終着駅に到着した。しかし、旅の終わりは新たな旅の始まりでもある。次の駅は光岡(てるおか)、そしてその次は日田(ひた)。光は次第にあふれていく。前途洋々とした未来へ続いていく。


(2022/7/7乗車)

2019年9月10日火曜日

これも鉄道です

今更ながら鉄道とは

 「電車好きなんですね」とよく言われるが、「いいえ」と答えると不思議な顔をされる。世間の人にとって鉄道=電車なのだから仕方ないとは思いつつも、それをさらっと受け流せないのは、 通勤電車を始めとして、いわゆる都市近郊の電車に心ときめかない鉄道愛好家としてのささやかなこだわりなのだろう。
 実際乗って楽しいのは、機関車に牽引される客車列車であったり、電化されてない路線を走るディーゼルカーであったりする。楽しみを求め、更に日本の鉄道全線を乗り尽くそうとすると、こんな鉄道もあるのかと、驚くことも多々ある。

 身近なところから言えばモノレール。首都圏で暮らす人なら羽田空港を利用する際に乗る人も多いだろう。駅では「間もなく電車が参ります」とアナウンスするくらい、歴とした電車。二本の鉄路でなくても電気で走るから電車なのだという理屈なのだろうが、よくよく考えると、そもそもモノレールの走る道は鉄道なのかと突っ込みたくなる。あれはどう見てもコンクリート道だし。

 鉄道はrailway,railroadを訳したものだ。そもそもrailに鉄の意味など全くない。牧場の柵などの横棒であったり、カーテンレールであったり、長いガイドウェイのことである。だから線路の方が正確な翻訳に近いが、そこを敢えて鉄道とした先人の語感の鋭さには舌を巻く。馬車すらなく、ろくな道の無かった日本に、鉄製の道さえ敷けば、大量輸送機関が完成したのだから、その感動を名前に生かしたのだろう。舗装道路よりも先に鉄道が発達したために、ローカル線が今に残るわけだが、それはまた別の話。

 とにかく、鉄道は鉄の道である必要はない。線路さえあれば良いという話だ。

乗り尽くしの旅で出会った Railway達 
<トロリーバス>

トロリーバス時代の扇沢 2016年
最近めっきりみかけなくなったトロリーバス。見掛けは自動車そのものだが、架線から離れては動けないので鉄道だ。写真は立山黒部アルペンルートの関電トンネルのものだが、今年からはバッテリー駆動の電気自動車になり、扇沢で急速充電する時以外は、架線から解放された結果、鉄道ではなくなってしまった。つまり、鉄道愛好家からすれば廃線。私の乗車記録も6.1キロ減ってしまったことになる。
 従って現存するトロリーバスは、立山黒部貫光無軌条電車の3.7㎞のみとなった。どちらも本格的な鉄道を敷くには資金が掛かりすぎ、国立公園内では排気ガスを出したくないという事情で導入されたものだ。
1968年東京池袋・六又ロータリー
ポールを下げたトロリーバス  
 戦後には大都市でも、路面電車よりも建設資金が少なくて済むという理由から、トロリーバスが走っていたところがある。東京では明治通り沿いに、品川〜池袋〜亀戸間で運行されていた。たしか池袋を起点に運行系統が分かれていたと記憶している。池袋六又ロータリー付近に明治通りと山手貨物線の交叉する踏切があったため、電圧の違いから架線が張れず、ディーゼルエンジンで走行する区間があったのだ。渋谷方面のトロリーバスにはエンジンはなく、浅草方面のトロリーバスは踏切を通過する際ポールを下げ、渡りきったところでポールを架線に戻す作業を行っていた。運転台脇には、ディーゼルエンジンを収めた大きなドームがあった様に記憶している。


<ガイドウェイバス>

バスそのものだが…軌道の中を
走っている         
 名古屋ゆとりーとラインの車両は、まさにバスそのものである。専用軌道を走る際には、バスの車輪脇から小さなガイド車輪が現れて、ガイド用レールに沿って走る。だからハンドル操作はいらない。多くの鉄道ファンはこのシステムを見ても「萌えない」だろうが、鉄道の乗り尽くしを目指す者にとっては、実に物珍しく楽しい旅となる。なお、大曽根・小幡緑地間の都市部が専用軌道区間であり、その先の高蔵寺までの郊外区間はガイド車輪を引き込み、県道を普通の路線バスとして走る。
小さなガイド車輪が付いている

 マイカー王国の名古屋が生んだ、渋滞のない奇抜で画期的な鉄道といえる。正式名はガイドウェイバス志段味線というから、運行会社としてはバスだと考えているのだろうが、法律上は鉄道扱いという特殊なケースである。


<スカイレール>

 ところでロープウェイには rail がないので、鉄道とは言わず索道という。そのロープウェイに瓜二つの鉄道がある。広島のスカイレールサービスだ。

JR瀬野駅を降りると、急峻な崖に
何やら不思議なものが…    
 広島は周囲を山に囲まれた都会である。広島市の郊外、山陽本線の瀬野駅から山腹・山頂に掛けてお洒落な住宅街が広がっているが、そこにあるのがスカイレールである。
 瀬野といえば、瀬野八と呼ばれる山陽本線最大の難所・急勾配区間がある区間として有名だ。八本松までの区間を、現在は高性能な電車が軽快に行き来しているが、長大な貨物列車は今でも、補機を編成の後ろに付けて、プシュプル運転が行われている。それくらいの土地柄だから、山腹に広がる住宅地に行くのは容易ではない。
 広島にはアストラムラインと呼ばれる新交通システムもあるが、こちらは車輪がゴムタイヤだから急坂に強い。広島には登山できる鉄道が必要なのだ。

見た目はロープウェイのゴンドラ
そのもの みどり中央駅にて  
 さてこのスカイレール、瀬野駅に隣接したみどり口駅を出るといきなり急勾配を登り始める。途中に一駅を挟み、終点みどり中央駅まで1.3㎞。標高差160㍍で最大勾配は263‰もある。それだけに展望は抜群で、特にみどり中央駅から下る時がスリリングで面白い。眼下に住宅街と瀬野駅までモノレールのような軌道が続き、この鉄道の全貌が見渡せる。ちなみに車両そのものは自走式ではなく、駅間は軌道内に収められたワイヤーロープで駆動し、駅構内はリニアモーターだというから、ケーブルカーのような、モノレールのような、ロープウェイのような、時にリニアモーターカーのような、他に類を見ない新感覚の鉄道と言える。
眼下に広がる住宅街を囲い込む
ように瀬野駅まで下っていく 

(2019/9/10記)

2019年7月19日金曜日

日本で唯一、鉄道の走る遊園地

線路を走れば鉄道…というわけではない

 東京ディズニーランドのウエスタン・リバー鉄道は、本格的な蒸気機関車が魅力だが、いわゆる鉄道事業法に基づく鉄道ではなく、遊戯施設の一部と見なされている。一方で、東京ディズニーリゾートの各施設を結ぶディズニーリゾートラインは、れっきとした鉄道という位置付けだ。リゾートラインで移動してからTDLなりTDSなりに入場するわけだから、まあこれは納得できる。施設の内部か外部かで分けるというのが鉄道事業法の考え方なのだろう。 
 だから、北海道・丸瀬布森林公園いこいの森を走る森林鉄道も、静岡県修善寺・虹の郷を走るロムニー鉄道も、愛知県犬山市・明治村を走る蒸気機関車や京都市電も、すべてかつては実際に活躍した鉄道そのものだが、今はみな遊戯施設なり保存鉄道の扱いである。すべて施設内にあるからだ。 

 しかしどんなものにも例外はつきものだ。施設内にあって、入場料を払わないと乗れない鉄道が、日本全国に三カ所ある、と私は思う。いずれもケーブルカーだ。

 本州の北端、青森県竜飛岬にある青函トンネル記念館。冬の間は雪に閉ざされて閉館となるその施設には、海面下140㍍にある旧竜飛海底駅まで、250‰の勾配をケーブルカーが結んでいる。正式名称は青函トンネル竜飛斜坑線。世紀の大工事といわれた青函トンネル建設のために造られたものだから、当初は工事用のインクラインだったものと思われる。完成後は海底駅と地上とを結ぶものとして、一般客を運ぶようになった。現在はトンネル記念館による「体験坑道」のアトラクションとして活躍している。入館料400円、体験坑道乗車券1000円。 

 二つめは、京都北山の鞍馬寺。足の弱い人・高齢者の参拝のために造られたケーブルカーがある。山門で愛山費(拝観料)を納めてから入山し、ケーブル寄進200円を納めて乗車させて頂く。これについては「鉄道会社はお寺さん」でも触れたので繰り返さない。 

 最後が、大分県別府の遊園地ラクテンチのケーブルカーだ。

おじさん、一人で遊園地へ

乗客を残し列車を去る運転手
 私が訪れた日はあいにくの荒天だった。阿蘇から大分までの豊肥本線では列車に遅れが出るばかりでなく、乗っていた列車が途中大雨のために突然止まり、運転手が聞き取りにくい言葉で何やら言うとそのまま列車を降りてしまった。列車無線が通じないのか、携帯電話を持ち合わせていないのか、運転手は最寄りの駅まで歩いて行ってしまった。車内に取り残されたのはわずか三人。人家も比較的近く、路盤が崩れそうでもなかったので、恐怖感こそなかったものの、事情も分からず、なかなか戻らない運転手を待つ身としては心細くもあった。しばらくしてずぶ濡れのまま戻ってきた運転手は、またブツブツ言いながら低速で列車を走らせ始めた。ことばが聞き取れないので、結局真相は不明のままだ。
 このままでは豊後竹田からの連絡列車にも、また大分からの列車にも乗り遅れて、ラクテンチが閉園時間を迎えてしまう。そもそもこんな雨の中、遊園地などやっているのだろうかという不安も募ってくる。 
 付近一帯のすべての列車が遅れていたため、なんとか別府まではたどり着くことが出来た。時間も惜しい上に雨も降っていたので、ラクテンチまではタクシーを奮発する。
 それにしても、こんな雨降りの日に、おじさん一人が遊園地まで行くというのは、なんとも気恥ずかしい。こちらの気持ちを察したのかどうか、運転手さんが 
「ビジネスですか?」 
と尋ねてくる。
 おいおい、どう見たってリュックを背負ってカメラぶら下げた私服男がビジネスマンに見えますか。とはいえ、まさか、
「日本全国の鉄道に乗るのが趣味で、そのためにはこの遊園地のケーブルカーに乗らなければならないのです」
などどいえようか。そんなことを言ったら最後、
「なるほど! すべての鉄道に乗るためには、日本中の遊園地にを訪ね、すべての線路を踏破し、従ってジェットコースターやら、おとぎの電車やらに乗りまくるのですね。デパートの屋上のもですか…」
と矢継ぎ早に質問されてしまうに違いない。そうでないことを納得させる自信はなかった。人の良さそうな運転手さんには申し訳ないが、咄嗟に出たことばはこうだった。 
「はい。こんな雨降りですから、仕事でもなければ誰も行かないですよね」 
よくもまあ、スラスラと嘘がつけるものだと、半ばあきれているうちにラクテンチ入り口に着いた。
 来場者は私以外誰もいないが、土産物ショップの灯りが付いているし、入場券窓口のお姉さんもこちらを見ている。やった! 開いている。 
 お金を支払い、タクシーを降りる。そのまま入場券窓口に進む私の背中を、タクシー運転手は不思議な思いで見つめているだろうなあと感じながらも、ここで怯んではいけないと心を強く持って、その視線を振り払う。ここで逃したら、次は一体いつ来られることだろうか。 
おとぎの国の
ケーブルカー

 ケーブルカーに乗車したのは私ひとりだった。ガイド役の女性乗務員と二人っきり。ほぼ空箱のような車両が動き始める。 
「残念ながら今は、ワンちゃん・ネコちゃん姿ではなくなってしまったのですが」 
と申し訳なさそうに乗務員が説明する。先月までは、生駒ケーブルのように運転台が動物の顔になっていたのだ。よかった! それでなくとも恥ずかしい思いで一杯だったのだ。中間地点で擦れ違った車両には、女性乗務員以外は誰も乗っていなかった。彼女は、こちらに向かって思い切りの笑顔で手を振ってくれる。私はただ一人の来園者なのかもしれない。ああ! 注目されている。早く終点に着いてくれ。到底、手を振り返す勇気などなかった。
 山頂に着くと、ラクテンチの制服を着た係員が笑顔で、 
「ようこそ、ラクテンチへ」 
と明るく声を掛けてくれる。ここはまさに遊園地なのだ。ふと見ると、親子二人連れが動いていない観覧車の辺りに所在なく佇んでいた。まだ雨が少し残っている。山は厚い雨雲に閉ざされていた。 
 晴れていれば別府湾の絶景が楽しめそうな、谷をまたぐ吊り橋も、悪天候のため鎖が下ろされ通行止め。昔懐かしい回転木馬も、高低差があまりなく小さな子どもが楽しめるジェットコースターも、すべてが止まっている。わずかにひとけが感じられるのは、レストランと売店で、そこには手持ち無沙汰の従業員が、閉園時間をひたすら待っているのだった。客のいない遊園地で、ただうろうろ歩いているおじさんは迷惑者以外のなにものでもない。そうはいっても入園料だけは払ったのだからと、小雨に濡れながら一通り園内を歩いたあと、ケーブルに戻った。最終の1本前まで、まだ10分ほどある。再び外に出ると、ベランダが展望台になっていた。 
どこまでも真っ直ぐな
「流川通」


 ケーブル駅から見下ろす別府の街は、思いの外見応えがあった。下からは折り返しが登ってくる。まっすぐ下界まで続くケーブル路線の先は、これまた真っ直ぐに海まで続く道だった。灰色に煙る別府湾は空と見分けがつかない。高い場所から眺めているのに、目の錯覚だろうか、天に昇る道に見えた。まさにここは楽天地だ。

 
(2019/7/19乗車) 

2018年5月30日水曜日

高熱隧道を行く【序】黒部峡谷鉄道に乗って

発端

 黒部川の電源開発といえば、石原裕次郎・三船敏郎主演の映画『黒部の太陽』が有名だ。黒四ダム建設のために数多くの犠牲者を出したものの、不屈の努力によって北アルプスを掘り抜くという、戦後日本の高度経済成長を象徴する作品であり、そこには輝かしい将来に立ち向かう肯定的な人生観があった。
 一方で吉村昭の『高熱隧道』(新潮文庫)は、日中戦争が厳しさを増し太平洋に戦端が開かれつつあるきな臭い時代に、黒三ダム建設のために大自然と闘う男達の、健気だが無謀ともいえる執念が描かれる、そら恐ろしい記録文学である。どちらも、従事した人々がいてくれたからこそ、今日の我々の暮らしが支えられていることを教えてくれるのだが、吉村が描く世界は、否定的な要素を含めつつ、それだけでは済まされない複雑な問題を投げ掛ける。黒部の光と影。
 どうしても高熱隧道に行ってみたかった。

抽選

 現在、黒四ダムへは3つのルートがある。今更言うまでもないが、有名な立山黒部アルペンルートは、大町ルートと立山ルートを繋いだもので、長野県信濃大町から富山県富山市を結び、年間100万人の観光客が訪れる日本を代表する観光地である。三千㍍を越えるアルプスの絶景を堪能するために、二つのケーブルカー、二つのトロリーバス、高原バスやロープウェイなどを乗り継ぎ、そこに至るためにバスや電車まで含めると、総額で10,850円かかることでも有名だ。高額だと批判されることもあるけれど、スイスの登山鉄道の方がよほど高いと思うのだが、それはさておき、いつ訪れても人で溢れているので、乗り継ぎに時間が掛かることは覚悟した方がよい。
 さて、残りのもう一つがふつう観光客が立ち寄れない黒部ルートだ。ここに目指す高熱隧道がある。黒部川第三発電所・第四発電所のために造られたもので、関西電力関係者しか利用できないのだが、コネのない一般人でも方法が一つだけある。公募見学会に申し込むのである。
 見学会は、5月下旬から10月下旬にかけて34回実施され、黒四ダムと下流の欅平の2カ所から出発する。それぞれ定員30名だから、年間2000人余りの人が参加可能だ。自由に休暇の取れない会社勤めには厳しいかもしれない。ただし知る人ぞ知る(換言すれば、あまり知られていない)見学会なので、せっせと応募ハガキを出してみる価値はある。
 昨年は7月のとある回に当たった。あいにく集中豪雨で流れてしまったが。臥薪嘗胆の思いで、今年もハガキを出したところ、見事第2回に当選。梅雨の時期だが、トンネルに天気は無関係。心は舞い上がる。

集合

 当選通知と共に送られてきた〈見学会参加のしおり〉には、

   9時20分 黒部峡谷鉄道 欅平駅2階食堂集合

とある。その時間に間に合うためには、遅くとも富山地方鉄道・電鉄富山駅5時58分発普通宇奈月温泉行に乗り、黒部峡谷鉄道・宇奈月駅7時57分発の始発に乗り継ぐ必要があった。
 黒部峡谷鉄道に乗るのは、実に54年ぶり。その時は途中の鐘釣駅までの往復だった。まだ小学校の低学年だった私は、「命の保証はしません」という伝説のトロッコには、正直乗りたくないという不安な思いでいっぱいだったが、いったん乗ってしまえば、次々に現れる急流と巨大なダムに目を奪われ、今でも風景が頭に浮かぶほど夢中になった鉄道である。日本の鉄道にすべて乗り尽くそうという身にとっては、このアプローチも楽しみの一つだ。
 
電気機関車牽引であるからには、トロッコ列車と
呼ぶのがふさわしい。            

「トロッコ電車」の愛称で人気の高い黒部峡谷鉄道だが、鉄道愛好家としてはどうしてもこのネーミングに違和感を感じる。最近ではディーゼルカーのことも「このデンシャは○○行です」なんてアナウンスする鉄道員がいるくらいだから、電気で走るものを電車と呼ぶくらい我慢しなければいけないのかもしれない。だったらHVやEVも電車なんだなと突っ込みの一つでも入れたくなる。
 それはさておき、線路幅が762㎜しかないナローゲージのトロッコ列車は、遊園地の乗り物のような可愛らしさとは無縁の、実によい面構えの重厚な豆列車である。森林鉄道のような軽便鉄道とも異なり、英国のロムニー鉄道と同じ本格的なナローゲージといえる。電源開発という重厚長大なプロジェクトを支える鉄道だからである。今も定期の旅客列車が片道12本あるのに対し、関西電力専用列車は7本走っている。

 黒部ルート見学者には、公募見学委員会事務局の計らいによって、あらかじめリラックス車両が予約されている。客車は3等制で、壁も窓もないオープン型の普通客車、窓付きの特別客車、更に背もたれ付きのリラックス客車がある。トロッコというからには、オープン型がふさわしいだろうと、事前に連絡して、グレードダウンしておいた。ちなみに工事関係者は全員、リラックス客車に乗っていた。えっ?と一瞬思ったが、考えてみれば当たり前のことである。彼らは風景を楽しみに乗車しているわけではないのだから。
 指定された1号車に乗車したのは、私ひとりだった。ホームを歩く観光客は、皆もの珍しそうにニヤニヤ笑いながらオープン客車を眺め、後ろの方に繋がれたリラックス客車へと向かっていく。この季節、寒さに震えながら、雨が降ればずぶ濡れになる車両に、何を好き好んで乗るのだろうと思っているに違いない。少しばかり恥ずかしい。が、右も左もすべての風景独り占めだ!
 
ヨーロッパの古城を思わせる新柳河原発電所(黒一)
赤い綺麗な鉄橋が特徴の黒部川第二発電所、どちらに
も峡谷鉄道の引き込み線が繋がっている。             

 列車は定刻通り出発。最初のトンネルを抜けると緑深い谷に架かる真っ赤な新山彦橋をゆっくりと渡っていく。黒部の山は、思っていた以上に大きく険しい。このあたりは標高がそれほど高くなく樹木が鬱蒼と生い茂っているので、一見穏やかな風景に見えるが、見上げると覆い被さるように迫ってくる。橋を渡りきると、切り立った岩にくり抜かれたトンネルが待っている。
 宇奈月ダムや新柳河原発電所、うなづき湖の脇を列車は進む。対岸には宇奈月温泉へ温泉水を送る導水管が続いている。源泉は黒薙温泉なのだそうだ。人造湖が猿の生活圏を変えてしまわぬよう、猿専用の吊り橋まである。人間さま用と違って欄干がない。とても歩けるようなものには見えなかった。湖面はしだいに細くなって、黒部川らしい流れになってきた。水の色はコバルトブルーである。 
 宇奈月から25分、列車は黒部川からいったん離れ、支流の黒薙川に沿って進む。
 ところで黒部は渓谷ではなく峡谷である。それほど谷の両脇が切り立った壁となりV字谷を形作っているのだが、中でも黒薙川は最初に現れる峡谷といえる。この黒薙川に架かる橋が、ポスターでもお馴染みの後曳橋だ。高さ60㍍、長さ64㍍の水色の鉄橋が、一体どうやって掘りはじめたのかと思われるような足場のない岩壁に穿たれたトンネルへと続いている。
 黒薙川の上流には、秘境の一軒宿の黒薙温泉と黒薙発電所がある。発電所までは黒薙支線が続いているが、残念ながら旅客扱いはしていない。

絶壁に張り付いた黒薙駅(右)を出ると、列車は
すぐに後曳橋を渡り、トンネルに吸い込まれる。 

 トンネルを抜けると再び黒部川に戻り、川岸に大小様々な白く綺麗な岩が転がっているのが見える。川の水の色は、清流本来の色に加えて、太陽光が水中の岩に反射して混ざり合い、美しいコバルトブルーになるのだそうだ。
 宇奈月から黒部川右岸をずっと遡行してきたトロッコ列車の前方に、やがて寺の鐘のような巨大な山が二つ見えてくる。東鐘釣山と西鐘釣山である。渓流はその間を流れている。二つの山に穿たれたトンネルの間に鐘釣橋が架かり、ここからは左岸を遡って行く。辺り一帯は錦繍関と呼ばれ、紅葉の名所だという。高山に雪が降り、あたり一帯が紅葉に包まれる季節に再訪したいものだ。

鐘釣橋とスイッチバック式鐘釣駅

 鐘釣駅から先が未乗区間である。55年前の記憶があるのはここまでだ。新たに出来た新柳河原発電所は別にして、記憶に大きな違いがなかったのは驚きだった。思い出がごちゃ混ぜになっていたのは、二つの鐘釣山の間に後曳橋が架かっていると勘違いしていたこと。どちらも印象深い絶景ポイントなので、半世紀の間、トロッコ列車の象徴として記憶されていたのだろう。
 ただ一つ大きな変化があった。半世紀前は今ほど、雪除け・落石除けトンネルがなかったことだ。トンネルは、谷底側にH鋼で柱を建て上部を塞いだだけのもの。これがあるおかげで、冬期も落雪から線路を守り、架線や線路を取り外す区間を少なくすることが出来るようになったのだろう。それによって渓流の眺めが大きく損なわれるものではない。人の目が不思議なのは、隙間から眺める風景であっても、脳が上手に障害物を情報処理して、ちゃんと美しいと認識することだ。ただし、カメラはそうはいかず、いつまでも柱が写り込む。車窓からのシャッターチャンスは確実に難度が上がったと思う。

冬期歩道とその内部
黒部の冬は厳しく、深く積もる雪のために峡谷鉄道は
12月から4月までは運休となる。その間も電力関係者
は宇奈月・欅平間20.1㎞を通わなければならない。そ
のために用意されているのが冬期歩道。こんな狭い穴
蔵を6時間掛けて歩くのだという。        

 万年雪のある鐘釣から先、黒部川の川幅はますます狭まり、見上げれば首が痛くなるようなV字谷となる。第二発電所に送水するために造られた小屋平ダムの脇を通って、9時12分、終点欅平駅に着く。この先、峡谷は更に狭まり、うねるような急流となるため、もはや線路を敷くような場所はどこにもない。

黒部川第三発電所のすぐ上に造られた欅平駅。
土地が狭いため、二列車が縦に並ぶよう、長い
プラットフォームが設けられている。    
(2018/5/30乗車)



付録

54年前に乗車したトロッコ列車
平成6年まで使われていた。
(北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅前広場に展示)

黒部峡谷鉄道100周年記念レリーフ
新旧電気機関車・新柳河原発電所・後曳橋
(宇奈月駅改札口に展示)

高熱隧道を行く【破】センター・オブ・ジアース !?

準備

「リュックの中身が見えるよう、開いてそこに置き、その場に立って下さい」
と言って、やおら取り出したのは金属製の丸い輪っか、ハンディタイプの金属探知機である。なんだか物々しいぞ、と思う間もなく、あっという間にボディチェックにパスして、赤いシールと紙の帽子を手渡される。
「あなたは赤グループです。適当な所にお座り下さい」

 欅平駅二階のレストランに集まったのは、ほとんどが中高年で若者は数名しかいない。世の中、時間的富裕層は限られている。本人確認のために公的身分証明書を提示し、ボディーチェックを30名全員が終えるのに、さほど時間は要しなかった。
 物々しさとは裏腹に、人の良さそうな恰幅の良い男性が案内人である。彼による見学会の説明と注意が始まった。レストランの柱に飾ってあった欅平散策コースの美しい写真パネルが裏返される。現れたのは、これから訪れる黒部コースの解説図だ。随分と手回しが良い。見学コースのほぼすべてが地中であり、発電所関係者や作業員だけが行くところなので、見学者も紙の帽子を被ってヘルメット着用し、指示には従うよう念を押された。
「トンネルで一番怖いのは火災です。万が一発生した場合は、この防煙マスクを着用して下さい。使い方は、まずヘルメットを脱ぎ、このようにマスクを装着してベルトを締め、再びヘルメットを被って、身を低くして脱出します。乗車するトロッコやバスの座席の下に設置してあります」
 まるで離陸前の機内アナウンスのようだ。ところが大きく違っている点があった。
「このマスクで数分間呼吸が可能です。」
 はあ? 何㎞もあるトンネルなのに数分じゃ脱出できないじゃないかと不安が募る。ところが恰幅のよい案内人はニコニコと笑っている。
「もっとも今まで一度も使われたことがありません」
毎回こうやって脅かしているのだなと、見学者達も気づき、笑いが広がる。なかなか口の達者な人である。だんだんと期待が高まってくる。
 考えてみれば、これから見学する所は、社会インフラとして重要な発電所とその関連施設なのだ。主催者がテロを警戒するのも当然のことだった。

上昇

 トロッコ列車の終点から先は関西電力の専用軌道となる。トンネルを500㍍ほど進んだところで、列車はバックし始めた。竪坑エレベーターの乗り口はスイッチバックした所にあった。どうしてこんな厄介なことをするのか、その理由はトロッコだけを上に持ち上げるためだろう。スムーズに作業するためには、機関車が先頭でない方が良い。
下部駅は標高600㍍
宇奈月からの線路が続いている

 竪坑エレベーターと黒部上部専用鉄道(上部軌道)は、仙人谷ダム(黒部第三ダム)建設のために計画された。日中戦争が泥沼化した時代、化石燃料のいらない水力発電は、電力事情の逼迫する当時の日本に於いては国家要請であり、人跡未踏の山岳地帯にトンネルをぶち抜くという難工事が始まった。

 欅平から仙人谷までは距離にして6.1㎞、標高差が250㍍ある。欅平の黒部第三発電所にとっては都合の良い落差であっても、約41‰という勾配は作業用トロッコには厳しい。そこで竪坑で一気に200㍍昇り、残りの50㍍は6.1㎞かけてゆっくり登ろうと考えたのである。
上部駅ではゴミ積載トロッコ
がエレベータを待っていた 

 昭和12年に完成した竪坑エレベーターは、現在は二代目のものだ。箱の中もにも線路が設置され、トロッコがそのまま積み込めるようになっている。最大積載量は4.5トン、人なら36人まで乗れる大型のエレベーターだ。昇ったところに欅平上部駅がある。


展望

 上部駅に隣接する欅平竪穴展望台に立ち寄った。ここからは黒部の深い谷からは見ることの出来ない後立山連峰の山々を垣間見ることが出来る。あいにくの曇天だったが、ガスもかからず、緑の山の奥に雪を頂いたアルプスの山々が顔を覗かせている。
 穴蔵の中をぐるぐると巡ってきたので、一瞬方向感覚を失ったが、しばらくして自分が黒部川右岸にいて、東向き立っていることがわかってきた。見慣れた長野側の風景を逆に眺めているのだ。
一番奥の雪山、手前の緑の山
に隠れて分かりずらいが、左
から白馬鑓、やや高いのが天
狗の頭(クリックして拡大し
て下さい)        

 左(北)側から、白馬槍、天狗の頭。南に目を転ずると、鹿島槍と爺ヶ岳。いずれも後ろ姿である。黒部川は深い谷底でここからは見えないが、川底から700㍍ある絶壁、奥鐘山の大岸壁が見える。いまは国の天然記念物に指定されている景勝地も、仙人谷ダム建設時には悲劇が起こった場所だ。作業員宿舎が泡(ほう)雪崩と呼ばれる爆発的表層雪崩に吹き飛ばされ、一山越えて大岸壁に激突し、数十名の命が一瞬に奪われた。
中央下に奥鐘山の大岸壁。奥の雪
山は、左が鹿島槍、右が爺ヶ岳。

*竪穴展望台と更にその上のパノラマ展望台へは、富山県や地元市町村・関西電力などがタイアップして実施しているツアーで行くことが可能。6月から11月までの金〜月、宇奈月から往復する。料金6,000円

      http://kurobe-panorama.jp/ 

隧道

車両の床面は高いので、勢いを
つけ過ぎると頭をぶつける  

 展望台から戻って、いよいよ今回の旅のお目当て、黒部上部軌道に乗車する。黒部峡谷鉄道とは違って、こちらのトロッコは蓄電池駆動の機関車が牽引するミニ鉄道だ。電気ならいくらでも利用出来る黒部なのに、電気機関車を使わないのにはもちろんわけがある。温泉地帯を通過するために、硫黄で架線が腐食して使い物にならないからである。高熱のため、ディーゼル機関車も燃料が発火する危険性があった。
隧道は狭く、素掘り区間が多い
高熱区間はこの先約5㎞の地点
欅平上部駅から仙人谷駅までの間6.1㎞をおよそ30分掛けてゆっくりと進む。その間、すべてがトンネルであり、しかも車内は狭い。説明会で渡された赤いシールは、1号車に乗車する10名であることを示している。身を屈めないと車内に入ることも出来ず、ヘルメットを被った訳がよく分かる。立ち上がることも、身動きすることも出来ない30分だ。
 案内人が隧道建設の苦労を語ってくれる。ほぼ吉村昭の『高熱隧道』に沿った話だが、現場で聞くだけに、グッとこみ上げてくるものがある。ここで亡くなった人がたくさんいるのだ。

 軌道トンネルは三つの工区に分かれて建設が始まった。事件は仙人谷に近い第1工区で起こった。掘り進めるとすぐに、硫黄の匂いと岩肌からあつい湯気が湧き出したのである。担当の建設会社は工事放棄し、トンネル工事に定評のある第2工区の佐藤工業が引き継いだ。この時点で岩盤の温度は65度に達していた。火薬取締法によるダイナマイトの使用制限温度は40度、すでに限界を超えていた。
 黒部の冷たい水を掛けながら掘り進む。水を掛けても掛けてもたちどころに熱湯と化す中、遂に岩盤の表面温度は160度に達し、ダイナマイトの自然発火による暴発で数多くの人が命を落とした。それにしても、どうしてこうまでして掘り進むのか。ぜひ、一読をお勧めする。私がここを訪れたいと思ったのは、先にも述べたように、この小説に出会ったからだ。外が見えずとも、身動きできずとも、この30分が苦痛であるはずはなかった。
 乗車して20分、案内人の『高熱隧道』話は続く。

硫黄のにおいが
たちこめる
「そろそろかな」
と言って、案内人がドアを開ける。あっという間に眼鏡が曇った。カメラのレンズを拭きたいが、身動きできない。硫黄の匂いが立ちこめる。素掘りのトンネルはうっすらと黄色い。犠牲者のことが頭をよぎる。安らかに…と心の中で祈る。
「今でもこの付近は40度以上あります。今日はもう少し高いようですね。」
ドアを開けるまで熱気に気付かなかったのは、この車両が耐熱構造になっているからだった。
「今はこのトンネルに並行して導水管が走っているために、トンネル自体の温度も下がっています」
 黒部の水は一年を通してとても冷たい。この水のおかげで電気も生まれ、トンネルも冷やされている。

「いやあ、今日は良い話を聞きました。前回訪れた際は、案内の方があまりおはなしにならなかったので…」
と、一人の中年男性がいたく感心している。どうやら高熱隧道の話は知らないまま見学していたようである。釈然としないが、山が見たくて参加している人がほとんどのようだ。

ダム
上部軌道は定期列車が
毎日4往復運行


 高熱隧道区間はおよそ500㍍。そこを過ぎると、沿線唯一の地上区間である先人谷駅に到着し、休憩する。ここは黒部川に架かる鉄橋に頑丈な屋根を設けた駅だ。この屋根のおかげで、どんなに雪深くとも上部軌道は運行可能という。
1940年竣工の仙人谷
ダム(日本の近代土木
遺産に指定)    

 駅の目の前には、黒部峡谷に抱かれた仙人谷ダムが圧倒的な存在感で迫ってくる。残雪を頂いたガンドウ尾根の真下には雪渓があり、三段に分かれた滝となって水が流れ落ち、黒部川と合流している。この豊富な水を利用したくて、多くの犠牲を払いながらも、ダムを造りたかったのだなとしみじみ思う。

 ダムと反対側は、深くて白くなめらかな谷底と清流である。水の多くは導水管を通って欅平の発電所に送られているから水量は少ないが、それだけに川底が透けて、コバルトブルーが際立っている。ダムの脇の窪みからは、今もわずかながら湯煙が上がっていた。

 この上部軌道には、今も一般人が乗ることは出来ない。したがって黒部に魅せられた登山家達は、黒部川流域に造られた水平歩道を利用してここまでやってくる。軌道に乗れば6.1㎞の道のりも、絶壁に造られた幅数十センチの歩道は13.6㎞になるという。関電関係者を除けば、上級登山者だけが見ることの出来る風景を、この見学会は見させてくれるのだった。
(2018/5/30乗車)