2014年8月7日木曜日

越後平野行ったり来たり

米どころ酒どころ

 新潟といえば米どころ酒どころ、豊かな土地だと長年思っていた。上越新幹線が長岡を過ぎると一面に田園がひらけ、その後ろには弥彦がデンと鎮座ましましている。夏の新潟は限りなく光溢れて熱く、広々とした穀倉地帯は北海道にも引けを取らない。稲はもともと熱帯性の植物だから、とてつもなく熱い夏の新潟こそ米作りに最適な土地だというのも納得がいく。どんなに冬が雪深くとも。
 会津から只見線で小出に抜ける際にも、福島側がいかにも寒村風景なのに対して、新潟側は雪深い冬対策がしっかりなされた屋敷に変わり、豊かな新潟を実感できる。ブランド米は宝の山、農家の人が聞けば苦労を知らない都会人の戯言に聞こえるだろうが、これが車窓愛好家の素直な思いだった。しかし、今回の旅をとおして、それは上っ面しか見ていない狭い了見であることを痛感した。

新潟駅をめぐって

 弥彦線と越後線に乗れば、新潟乗り尽くしの旅は終わる。八月上旬の昼下がり、新潟駅に下り立った私は、今までとはひどく違った印象を抱いていた。最初のキッカケは越後線吉田行の列車の窓が余りにも汚いことだった。長年使い回した115系電車の窓には、赤茶けた鉄錆がビッシリと付着して、快適な車窓など望むべくもなかった。
 やれやれと思いつつも、電車が出発すれば車窓に釘付けになり、西に向けてしばらくの間新幹線と併走する。ところで新潟駅の構造は少し込み入っていて、なんと東京へ向かう新幹線と東京方面へ向かう在来線は正反対の方向に進んでいくのである。これは実にわかりにくい。さらに秋田・青森方面と在来線の東京方面が同じ方向だというのもわかりにくい。もともとは日本海と平行に配置された東西に伸びるのスイッチバックの駅だったと言えば、少しイメージできるだろうか。大河信濃川を避けて在来線は敷設されたので、東北方面からの列車も東京からの列車も大きく迂回しつつ新潟駅に進入するのに対して、長大鉄橋を厭わない新幹線は真っ直ぐ西側から進んできて新潟駅で鉢合わせすることになったのである。
  信濃川を渡る。なお写真はイメージ処
理を施し、鉄錆の影響をかなり軽減し
てある。                        
 さて、今乗っている越後線は越後線は越後平野を縦断するからどうしても信濃川を渡らなければならない。ただ新幹線とは違って控えめに渡河するので、橋梁は出来るだけ短く、工費を節約するコースとなっている。そのためすぐに新幹線とは別れ、川と直交するルートを取る。それでも単線ながら堂々とした長大橋である。渡りきったところが白山駅で、かつて新潟交通電電車線の始発駅があった県庁前に近く、いまでも県の施設が数多く集まっている。
 この先越後線はひたすら住宅街を走り、通勤用の郊外電車という風情である。単線ながら各駅に列車交換施設があるので結構列車本数は多く、関屋駅では新型のE127系電車とすれ違った。ただあちらは実用一点張りのロングシート車である。
 どうもJR東日本は、仙台と比べて新潟を軽んじている感じがする。田中角栄元首相の威光によって新幹線を通したところまでは良いが、多くの在来線は古いものを使い回している。新幹線も古い車両が使われ、先程通ってきた新潟駅だって、ようやく高架工事が始まったばかりで、完成まで一体何年かかるのだろう。新潟始発の在来線特急「いなほ」や「北越」は20世紀の花形485系だし。

吉田に集まる電車群

 新潟大学前駅は、交換施設なしの初めての駅だ。大学は一体どこにあるのだろう。レンガ色の大きな建物が見えるが、それはだいがくではなさそうだ。それにしても、このあたりは踏切が少ない。かといって道が立体化されているわけではなく、鉄道が街を分断してしまっている。地元の人はさぞ不便だろうなと思う。
 内野駅で列車交換、また古い115系だ。この辺りは新しい住宅が目立つが、空き地も多くなってくる。そろそろ市街地が終わろうとしている。内野西が丘で田園地帯になった。弥彦も見えてくるが、雲行きが怪しい。山頂には厚い雨雲が乗っかっている。越後曽根駅でまた115系と交換。この先とうとう新型車両と出会うことは一度もなかった。
 巻は鯛車の町だ。郷土玩具の鯛車は各地にあるようだが、今ここでは町おこしに活用されている。それにしてもどうして魚に車などをつけるのだろうか? 鳩車同様、郷土玩具は謎だらけだが、巻の場合は張り子の鯛の中にロウソクが灯されて美しいらしい。まちが真っ赤に染まる情景を復活させるのだというが、それならさぞかし美しいことだろう。
すべて115系 吉田にて
 そうこうするうちに吉田に到着する。ここはこの地区の交通の要衝であり、越後線と弥彦線が交差するところだ。駅構内にはいろいろなカラーリングの115系が集結している。いかにも寄せ集めなのだが、それはそれで見ていて楽しい。セミクロスシートの115系は、寒冷地・急勾配路線対応車両として旧国鉄が開発したもので、普通列車でありながら旅を楽しめる車両である。
115系 吉田にて
 湘南色の越後線からイエローと黄緑の帯の弥彦線に乗り換える。車内はガラガラでボックスシートを独り占めする。外は酷暑だが車内は人もまばらで冷房がよく効いていて快適だ。二両編成でワンマン運転。嬉しいことに窓が綺麗だ。弥彦神社参拝は気持ちよく出来そうだ。

弥彦神社

  吉田を出ると電車は大きく右にカーブして一路弥彦山麓を目指す。午前中までの晴天と打って変わって、雷雨にでもなりそうな雲行きである。終点弥彦に着いたらすぐに参拝して、できれば弥彦山にロープウェイで昇るつもりだ。
弥彦神社をイメージした弥彦駅舎
 さてこの弥彦駅、昨年リニューアルされたばかりの綺麗な駅舎だ。弥彦神社の本殿を模した木造の入母屋造だそうで、さすが越後 一の宮の玄関にふさわしい建物なのだが、折角のこの駅舎も毎日利用する乗降客は300人にも満たないのだという。鉄道が過去の遺物となってしまっている所は、特に地方に多い。モータリゼーションの波の前で鉄道の存在意義は、高校生と高齢者のためだけになってしまっている。
 駅が町の中心地から遠いのはよくあることだが、弥彦は山麓の町で、奥まった弥彦神社にいたる斜面に広がる町のため、平地にある駅から歩くのは一苦労である。これでは鉄道で訪れる人は少ないだろうなと改めて思う。夏休みとはいえ平日の午後4時過ぎ、駅前に人影はまったくない。むせ返るような湿気と熱気の上、今にも降り出しそうな曇天の中、道路を補修する作業員と時折通る車ぐらいしかいない寂しい町の坂道をひたすら歩く。弥彦温泉に浸かって夕食もここでと思って来たが、旅館はどこもそれ程大きくはなく、立ち寄り湯歓迎の看板も入りたくなるような食べ物屋も見つからないので、とにかくまずは参拝ということで弥彦神社に向かった。
神韻縹渺とした境内
 一の鳥居をくぐると、杜に囲まれた参道は静寂に包まれ、むせ返るようだった空気も急に冷えてきた。長い歴史に刻まれた越後国一の宮だけのことはある。低く垂れ込めたそらから神鳴りが落ちるのではないかと思えた。日頃の悪行の数々が思い起こされる。人影もまばらな日常の神の社には、初詣の賑わいでは決して味わうことの出来ない、凡人を神妙な気分にさせる何かがあると思う。これは出雲大社を訪れたときも、鹿島神宮を訪れたときも感じたことだ。きちんとお参りしようと思い、参道の端を歩く。手水舎でまず左手を清める。本殿では二礼二拍手一礼を心を込めて行う。正式な参拝にはなっていないが、自分としてはいつも以上にしっかりと行った。
 弥彦神社の御神体は後ろにどっしりと控える弥彦山そのものである。山頂は厚い雲に覆われて見えないが、雲の切れ目からは豆粒のようなロープウェイが降りてくる。まだ間に合うだろうか。境内の裏手に乗り場行きの無料バスが出ていることを知り、バス停に行くとちょうど森の中から無舗装の道をバスがやってくるところだった。乗っている人は誰もいない。年取った運転手が声をかけてくれた。
「今から行くの?ロープウェイの最終が17時だから山頂で20分位しかないよ」
「でも20分あるんですよね」
「それでいいならね。今日は雲が厚くてなにも見えないよ」
この運転手はロープウェイ関係者なのに、まるで商売っ気がない。こちらは鉄道乗り尽くしが第一の目的だから、こういうときは景色は二の次なのであるが、先方はそんなこちらの事情は勿論わかっていない。ロープウェイを鉄道に含めるか否かにはいろいろ議論はあるわけだが、その時は念のために乗っておこう位の曖昧な気持ちだった。
「ああ、だめだ。雨が降ってきちゃったよ。やめた方が良いよ」
そこまで言われればこちらとしては撤退せざるを得ない。もともと曖昧な決意しかないのだから。
「そうですよね。弥彦からの景色が見えなければ意味がないですね。今度また来ます」
「それがいいよ」
 バスは私を残したまま定刻通りロープウェイ乗り場に向けて発車していった。いい人だ。弥彦は俗人の心を清めてくれる有り難く気高い町である。

直流電化のローカル線


架線に注目!
 一時間に一本しか走らない弥彦線だが、それでも立派に電化されているのには何か訳でもあるのだろうか。八高線の高麗川・高崎間よりも少ない運転本数にしては厚遇されている。有力な政治家がいた場所は随分と扱いが違うのだなあということくらいしか思い浮かばないが、人気のない車内の運転席から前方車窓を眺めていて気付いたことがある。なんと架線がトロリー線一本しか張られていないのだ。これではまるで路面電車ではないか。
 多くの鉄道はパンタグラフに電気を供給するために、まず一本の吊架線(ちょうかせん)と呼ばれ電線を吊(つ)る。電柱と電柱の間をつるので、電線は垂れ下がる。このままでは走行中パンタグラフが上下してしまうので具合が悪い。そこで吊架線からハンガー線と呼ばれる電線を垂らし、その長さを調整することでトロリー線を地面と平行に保つ。これをシンプルカテナリー方式と呼ぶ。ところがここの架線には吊架線もハンガー線もないのだ。これを直接吊架式という。かつて同じものを銚子電鉄でも見たことがあるが、国有鉄道が敷設した鉄道で見るのは初めてである。そうかあ、やはりちゃんと節約しているのだなあと感じ入る。

吉田駅に進入する場面
右から合流するのは柏崎からの越後
線。吉田駅にはホームが3本あり、
5番線まで擁する堂々とした駅だが
弥彦線と越後線がクロスする際、一
瞬だが単線となる。それがネックに
ならない程度の閑散路線なのだ。 
 架線構造は鉄道にとって高速化のカギである。東北新幹線の八戸以北や北陸新幹線は、在来線と同じ新幹線としては節約型のシンプルカテナリー方式を採るために最高時速は260キロ止まりとなっている。弥彦線は85キロ制限なのだという。越後線にも一部この直接吊架式が使われているというが、交通の要衝である吉田駅付近はどこもシンプルカテナリー式になったいた。
 弥彦線のほとんどは弥彦・吉田間、吉田・東三条間で折り返し運転をしている。終点東三条を目指すために吉田からはまた窓の汚い115系のお世話になった。
 電車が吉田の町を抜け、再び田園風景が戻ってくると架線も直接吊架線の戻っていた。沿線で有名な町は燕だ。燕と言えば洋食器、洋食器と言えば燕というくらいに世界中で有名な町だと思っていたら、車窓からはその賑わいは少しも感じ取ることが出来なかった。洋食器に限らず金属加工製品を得意とする中小企業が集まっている燕では、新興国との価格競争に喘いでいるのだという。おまけに人口減少や商店街の衰退というように、厳しい現実がこの地方を襲っている。3キロ先には新幹線の燕三条駅があるのだが、その効果はいかがなものなのだろうか。
 賑わいを感じさせないのは、終点の東三条も同様であった。信濃川の鉄橋を渡ると、電車はそのまま高架線のまま東三条に向かうのだが、高い位置から町並みを俯瞰すると、こちらもあまり元気がない。それならば新幹線の燕三条はどうか。駅前は地方の新幹線停車駅と変らない無個性な風景が広がっている。歩いて5分くらいのところに大手のショッピングモールが進出し、いくつかのビジネスホテルが建っている。そのうちの一つは、昔からある建物の隣に新しい建物が並んで建っていた。ほんの少し離れれば田圃が広がっている。
 上越新幹線が出来て32年、人でいえば一世代の年月が過ぎた。その間にバブルが弾け、リーマンショックが日本を襲い、地方都市は世界経済のうねりの中で翻弄され続けたといえる。30年といえば、建物のリニューアル・建て替えも考えなければならない年月である。新幹線があってもそれだけで活性化されるわけではないことを教えてくれているような気がする。頑張れ、燕。頑張れ、三条。
(2014/8/6乗車)

三度目の吉田通過

燕三条付近は通常の
架線が張られている
 翌早朝、燕三条から乗り尽くしの旅を再開する。弥彦線ホームは巨大な新幹線駅舎の片隅にひっそりと設けられている。地方ローカル線と新幹線が接続する駅は、本当にその落差が大きいのだ。釜石線と東北新幹線の接続駅、新花巻もそうだった。改札口を出て在来線のホームに続く歩廊の途中に改札はない。在来線は無人駅なのである。味気ない高架下に単線片側ホームだけがあるのを想像して見て欲しい。長野新幹線佐久平の小海線ホームは、単線ながら新幹線の上を跨いでいるので開放的で明るいが、高架下はじめじめと薄暗く陰気で悲しくなる。
 無人のホームに、録音された女性の声で「弥彦行電車が参ります」とアナウンスがある。いつもの聞き慣れた声なのだが、妙に人工的な響きに感じるのはどうしてか。東京では慣れてしまって気にならないことが、どうしてここでは気になるのか。その時思ったのは、誰もいなくてもこの録音は流れるのだろうなと想像したからに違いない。都会のホームに人の絶えることはない。その人々に危険を知らせ、乗車の準備を促すアナウンスは必要なことだから疑問にも思わなかった。しかしここはどうだろう。今このホームには私しかいないのである。その私は明日はいない。人がいようがいまいが繰り返されるアナウンスが人工的でなくて何であろう。
 電車は窓の綺麗な501、昨日弥彦から乗車したのと同じ車両だった。燕では朝早くから高校生が十数人乗車してきた。全国のローカル線は高齢者と高校生に支えられている、というか彼らが居てくれるので廃止できないというべきか。徐々に雲が薄くなり、うっすらと弥彦山が見えてくる。田園の中をひたすら弥彦目指して走るのは気持ちよい。吉田に近づくと進路を90度西に変え、架線もにわかにシンプルカテナリーになる。

越後線で柏崎へ

 燕三条ばかりか、駅舎がしっかりしている吉田にもこの時間駅員はいなかった。改札はフリー状態だ。今回の旅は青春18切符を利用しているので、利用開始時には日付の入った改札印を押してもらう必要があるのだが、押印は柏崎までお預けとなる。無賃乗車防止よりも人件費抑制というところに、この鉄道経営の難しさが感じ取れる。
柏崎行が新潟方面からやってくる
 新潟発柏崎行がぐらぐらと車体を大きく揺らしてポイントを通過してやってきた。綺麗な窓の115系だった。吉田を出るとすぐに見事な穀倉地帯となる。一面のグリーンだが、稲穂はほんの少し黄色味がかっている。晴れ上がった空のもと、弥彦の山が綺麗に横たわっている。今から行けば、あのバス運転手さんも歓迎してくれるだろうけれど、時間がない。
さらば弥彦
晴れ渡った空の下、穀倉地帯が
広がる           
 電車は寺泊、出雲崎と良寛さんで有名な所を通るのだが、ここでも駅が町から離れているために、何の変哲もない田舎駅にしか見えないのが残念だ。越後線は海から離れた内陸を走っている。それにしてもよく揺れる。あまりの乗り心地の悪さに胃の中のものが出てきそうだ。
 思えばこれがかつての客車列車の旅は皆こうだった。夜汽車のボックスシートで寝て、起きると頭はガンガン痛く、首も寝違えて痛く、駅売りの飲み物は限られていて、いつも缶コーヒーの飲み過ぎで胃は荒れて散々だった。長い間日本では水はタダと思われており、売られていないものは買えない道理というものだ。今は水が買えるようになって、皮肉なことに大変便利になった。なんだかそう考えるとこの酷い乗り心地も懐かしい。
 西山で5分停車し、がら空きの2両、吉田行きと交換する。その次は刈羽である。巨大な赤白の高圧鉄塔が現れ、電線が森の向こうに消えていく。柏崎刈羽原発が近いのだろう。整然とした人工林による森の深さが、よけいその先に普段隠された世界があることを暗示している。それはいつまでも隔絶されたもののままであるはずだったのに、東日本大震災が根底から覆した。森に近い刈羽駅からも高校生が多数乗車してくる。一様に明るい表情の彼ら達が辛い思いをしないで済む時代がくると良いのだが。
 次の荒浜からは何もなかったように普通の田舎の景色に戻る。いざとなればここも帰宅困難地域となるだろう。特別な区域に指定されている地区はあまりにも狭いのである。車窓に清掃工場が見えてくる。都会では清掃工場ひとつ作るのにも大騒ぎだが、こうしてみると実にかわいいものだ。ここでの炎は人が制御できる普通の炎だ。しかし原子の火は神の炎と同じで人智を超える。あの場所は近寄りがたい神域と同じではないか。
 東柏崎で高校生はみな下車してしまった。左側から信越本線が迫り、巨大な文化会館を右に見ながら電車は終点柏崎に到着した。ようやく有人駅に着いたので、改札印を押してもらえる。事情を話して押してもらおう。それからは無賃乗車ではなくなるのだ。
 (2014/8/7乗車)

2014年6月4日水曜日

気動車王国、常磐路①

アカデミック常磐線

 上野東京ラインの開業が迫っている。東北本線と東海道本線の直通運転は、上野・秋葉原間に代表される混雑解消や品川車両区の土地有効利用という、まさにJR東日本にとって夢のようなプロジェクトだ。もちろん沿線自治体も大きな期待を寄せている。なかでも上野周辺では、横浜方面からの客が望めることから、新宿や池袋における副都心線効果の再来を期待しているようである。
 心中穏やかでないのが常磐線沿線自治体だろう。当初の発表では、特急ひたちの東京駅乗り入れこそアナウンスされたものの、普通電車の乗り入れまでは触れられていなかった。黙っていないのは茨城県で、全列車を横浜まで直行させるよう要求していると、先日のニュースで流された。東北・高崎線方面と横浜とは既に湘南新宿ラインで結ばれているのだから、上野東京ラインは常磐線を優先すべきであるという主張は、実に理にも叶っている。
 しかしおそらく茨城県の主張は通らないだろう。それは常磐線が大切にされていないというような、優劣の問題では決してない。むしろ常磐線は首都圏の他の鉄道に比べて高価な車両を導入している特別な路線なのである(注)。利用者には何の恩恵もないが、製作費のかかる交直両用電車が導入されているために、常磐線電車は横浜へは行けるが、直流専用の東海道線電車は取手から先へは行くことができない。だから、横浜湘南方面に常磐線電車を直通させると茨城県に割ける電車の本数が減ってしまうために、JRは決して定期列車を東京駅より南には行かせないはずである。
 交直両用がどれほど高額かは、つくばエクスプレスの電車も2種類あり、安価な直流電車だけが秋葉原と守谷の間を往復していることからもわかる。

(注)首都圏で大切にされていないのは、むしろ意外にも中央線の方である。世間では中央線はオシャレでJR本社からも大切にされていると考えがちだが、必ずしもそうではない。三鷹・立川間の複々線化はおそらく永遠にないだろうし、未だに普通グリーン車はなく、逆に通勤電車のまま大月まで運転するありさまだ。駅周辺の施設が充実し華やかな反面、中央線で都心へ通う人たちの通勤地獄は解消されていない。今どき気軽にグリーン車が使えないのは首都圏五方面(東海道・中央・高崎宇都宮・常磐・総武)で中央線だけである。

 それにしても直流が中心の首都圏にどうして交流用の電車を走らせているのか。難しい話はわからないが、筑波山の麓に柿岡地磁気観測所があり、電流の流れが一方通行の直流大電流が近くを流れると観測に支障を来すからだそうだ。地磁気の観測? う~む、よくわからないが茨城県はアカデミックだなあ。研究学園都市もあるし、東海村の研究所もあるし(こちらは近年評判が悪いけれど)。とにもかくにも交流だと電気の流れが双方向なので影響がないのだという。だから、常磐線の取手以北、水戸線の小山以東、つくばエクスプレス線の守谷以北は交流電化になっている。オシャレで遊び上手な湘南ボーイのような向きには理解不能な土地、それが茨城県なのだ。

 長い前置きはそろそろ終わりにしよう。問題はJRやつくばエクスプレスのような資金力のある鉄道会社は高額な交流施設が持てるから良いが、ローカル私鉄はどうすればよいのか。御存じのように、地方のJRはほぼ交流で電化するものの、同じ地域を走っているローカル私鉄は大体が首都圏の大手私鉄電車のお古を使っている。ということは直流電車の中古品を使うのがローカル私鉄の大鉄則と言える。茨城県にもローカル私鉄はある。さて、どうする? 気象庁の施設のためなのだから国の補助金がたんまりと出て…などということは全くない。答えは電気を使わないことだった。ここに常磐路に気動車王国が誕生する最大の理由があった。


関東鉄道常総線

 常磐線は東京の日暮里を起点とし、江戸川を渡ると千葉県に、利根川を渡ると茨城県に入る。取手は利根川を渡った茨城県最初の町であり、常総線の起点となっている。常総線の名前の由来は、常陸と上総を結ぶ鉄道という意味である。取手が上総というのは少し違和感があるかもしれないが、そもそも利根川は江戸時代に開削された放水路なので、それ以前は更に北側を流れる小貝川あたりが国境になっていたようである。つまり、現在は茨城県でも当時は上総国だった。こんな歴史が線名に現れていて興味深い。
守谷・新守谷間
 ところで都会の鉄道を見慣れた人には、電化されていない複線の鉄道はなかなか想像できないかもしれない。朝晩のラッシュ時には2両編成で運行されて、最大4両編成で運転されることもある常総線は、実に堂々としたローカル私鉄である。鉄道発祥の国イギリスではごくごく当たり前で、目障りな架線がない分、すっきりとした風景が広がっている。日本では北海道の室蘭本線などで見られるが、なかなかいいものである。
 さて複線区間は取手から水海道までの17.5㎞区間であり、7時台には10本(往復で20本)もの列車が運行されている。つくばエクスプレスが開業してからは、取手から常磐線に乗り換える人が減り、乗降客が一番多いのは守谷駅に移った。日中は1時間あたり4本に減り、3本が水海道折り返し、1本だけが下館行となっていることが多い。守谷折り返しとなることもある。
水海道
 沿線は住宅と畑、雑木林が混在している。つくばエクスプレスが開通してからは、マンションも目立つようになったが、それ以前から新守谷駅付近には新しい住宅街が広がっていた。バブル期に土地の高い都心を嫌って、広々とした宅地を求めて移住してきた人も多い。かなり質の高い住宅街が広がっているのである。この辺りに住む人の中には、パークアンドライドの人や、奥さんに駅まで送り迎えして貰う人も多いと聞く。
水海道から先は単線
 水海道から先33.6㎞は単線となる。三妻では列車交換があり快速守谷行が通過していく。遠くに、宗教法人だろうか、立派な建物が見えるが、この先の石下には豪壮な天守閣があった。なんとも建物が個性的な土地柄である。筑波山が大きく見えるが、一向に近づかない。つまり遠巻きに走っているのだ。保線の具合が良く、空気バネの新型車両でもあるので、単線ながら快適な乗り心地だ。
筑波山
左のピークが男体山、右は女体山。
 下妻は大きな駅だ。いわゆる国鉄型のホーム配置となっていて、列車交換だけではなく、折り返しが出来るよう2面3線構造になっている。大宝を過ぎると起伏のある土地となり果樹園が広がってきた。難読駅の騰波ノ江(とばのえ)を過ぎると、男体山と女体山が重なってひとつとなり、妖艶な雰囲気が漂うと妄想しているのは自分だけかもしれない。黒子でまた交換。単線に単行の気動車が頻繁に走っているが、どれもガラガラである。
 筑波の左側に見えるのは加波山のようである。雑木林を越え、広々とした畑や植木屋が育てる芝の絨毯の脇を通って気動車はコスモスの花が中途半端に広がる大田郷に着いた。密集した農家の村である。余すところあと一駅、乗客4人、運転手1人、保線区員1人を乗せた列車は、右に大きくカーブを切りながらJR水戸線と併走し、終点下館に滑り込んだ。JRの向こう側には真岡鐵道のディーゼルカーが停まっている。このレポートはまたの機会に。
(2009/11/5乗車)


関東鉄道竜ヶ崎線

 常磐線取手を過ぎると藤代の手前で一瞬車内の灯りが消えたり空調が止まったりする。ここがデッドセクションと呼ばれる直流から交流に切り替わる所である。地磁気観測所が近づいたというわけだ。藤代を過ぎ、小貝川を渡ると佐貫に着く。佐貫はウナギで有名な牛久沼のほとりに開けた町である。
竜ヶ崎駅(左奥)

佐貫に向かって出発するキハ2000系
車庫内にキハ532も見える。在籍す
る列車の全てが写っている。    
 竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶわずか4.5㎞の非電化路線だ。途中駅はわずか入地駅のみ。しかも列車の交換施設はなく、1両が行ったり来たりしているだけのミニ路線となっている。佐貫駅も竜ヶ崎駅もすべてが1面1線の片側ホームであり、鉄道模型の入門セットのように素っ気ない。入地駅前後には田圃が広がっている。
 竜ヶ崎線の歴史は古く、明治33年には常磐線佐貫駅と共に開業している。龍ヶ崎の歴史は古く、江戸時代は仙台藩領として米の中継場所でもあり、江戸との繋がりも強かったようだ。竜ヶ崎線は常磐線と連絡することで、この町と東京を今でも結ぶ重要な生活路線となっている。
ジャッキ
 さて、本来なら電化されてもおかしくない路線だが、観測所があるために気動車が活躍している。しかもキハ2000系は1997年に新製されたもので、冷房装置も最初から完備されており、ローカル線らしさはどこにもない。駅改札口にはSuica対応の改札機もあって、常磐線からそのまま龍ヶ崎までやってくることが出来る。気動車が時代遅れだというのは全くの早計であり、学問に貢献するための対応なのだということが実感できる。
軽油スタンド
 竜ヶ崎駅に併設された車両基地には、少ない車両数ながらも整備に対応する様々な施設がある。その一つが、車両を持ち上げるジャッキだ。4つの大きな爪が車両を持ち上げて、床下機器を点検するためのものだ。ジャッキの一つには整備士たちのナッパ服が干してあり、ここが車両整備工場であることを実感する。
 また、気動車特有のものとしては、燃料関係施設がある。列車に燃料ホースとサービススタンドの取り合わせは、やはり珍しい。



(2009/11/5乗車)



気動車王国、常磐路②

今はなき筑波鉄道

筑波駅にて(1981.11.3撮影)

キハ811
 1987年4月1日に廃止された筑波鉄道は、その名の通りかつては筑波山には欠かせない鉄道だった。常磐線の土浦から筑波山麓を巡り、水戸線の岩瀬までの間40.1㎞を結ぶ単線非電化の路線で、全線のほぼ中間に位置する筑波駅から筑波神社前までのわずかな距離をバスが結んでいた。筑波神社の脇から山頂まではケーブルカーを使えば誰でも気軽に行けることもあって、全盛期には多くの観光客が上野からの直通列車でやって来た。手元にある時刻表1972年3月号によれば、快速列車「筑波」は休日のみの運行で上野を8時39分に出発し、途中、松戸・我孫子・取手・佐貫に停車し、土浦には9時55分に着いている。土浦から筑波までは非電化のため、「筑波」は客車列車で運行されていたから、おそらく土浦では機関車の付け替えがなされたのではないだろうか。終点筑波には10時49分着とある。筑波山を歩いて登山するには少々遅い時間のような気もするが、ケーブルを利用する一般の参拝者や観光客にはなかなか便利な列車であった。

DC202機関車(筑波駅にて)
 さて、筑波鉄道は関東鉄道常総線と同じように、常磐線と水戸線を結ぶローカル私鉄なのだが、常総線と比べて東京から遠いため通勤路線としての利用度が低く、また筑波観光自体にマイカーが利用されるようになって、利用客が大幅に減少してしまい、赤字経営が続いた。その結果、奇しくも国鉄解体と同じ日に廃線となってしまったのである。


キハ505
 私がここを訪れたのは廃線の6年前の文化の日、紅葉狩りをしようということでやって来た。東京の木々が色づくにはまだ早いが、同じ関東でも標高の高い筑波では紅葉が進んでいた。この頃すでに上野からの直通列車はなくなっていた。赤字が続いていたこともあって、鄙びたムード満載の鉄道であったという印象である。生憎の天候で、列車の写真写りはたいそう悪いが、無くなってしまった今にして思えば貴重な写真となった。現在廃線跡地はサイクリングロードになっているそうだ。
(1981/11/3乗車)


SLの里で活躍する緑の気動車

真岡駅

建物が蒸気機関車の形になっている。
SLに賭ける意気込みを感じさせる。  
 真岡鐡道に関するクイズを一つ。「真岡」は何とフリガナを振ったら良いのか。
  1)まおか
  2)もうか
  3)もおか
 結構迷われる方も多いのではないか。恥ずかしながら私などはワープロでかな漢字変換をする際に、一発で変換できたためしがない。

 答えは3の「もおか」である。「真」を「も」と読むのはなかなか難しい。しかも車内アナウンスは「もーか」に聞こえるので、ついつい「もうか」と打ってしまうのである。「大通」は「おおどうり」ではなく「おおどおり」。「胴体」は「どおたい」ではなく「どうたい」。「ー」を使わずに延ばす音を表記するのは難しい。なお「真」を「も」と読むのは、二重母音の関係だろう(注)
 (注)日本語は二重母音を嫌い、発音が変わる。アオはオーとなる。
    まおか maoka  → mooka もおか  
  なお、旧国鉄真岡線は「もうか」線と仮名を振った。ところが市名は
 「もおか」なので、それに合わせたという。地域密着型の鉄道会社なら
  ではの配慮である。

下館駅
 さて、真岡鐡道が正しく読み書きできるようになったところで本題に入ろう。今回の話題は人気のSLではなく、乗り尽くしである。水戸線経由でここまでやって来て、下館駅で真岡鐡道の気動車を初めて見た時は、正直びっくりした。なんとまあド派手なデザインなのだろう。一目で新造車両だとわかる列車の塗装は、他に類を見ない斬新なものだった。濃い緑と薄い緑の市松模様、こんな列車は世界中のどこにもない。さらに裾にはオレンジ色の帯が巻かれている。凄いとしか言いようがなかった。
 SLの運行で有名な真岡鐡道だが、普段はどのような列車が走っているかは不覚にも思いが及ばなかった。下館駅では複雑な思いでこの気動車に乗車したが、乗ってしまえば綺麗な車内は快適そのもの。この先の真岡・益子・茂木への旅が楽しみである。
 ところで真岡鐡道の起点下館は、いわゆる平成の大合併で誕生した筑西市の中心駅である。筑波山麓西側にあり、取手からの常総線と水戸線が合流する交通の要衝で、常磐路の西の外れに位置する。しかし真岡線沿線の大半(真岡・益子・茂木)はいずれも栃木県に属していて、厳密には常磐路の鉄道とは言い難いのだが、歴史的にはどうやら宇都宮との繋がりよりも筑西との繋がりが強かった土地のようである。旧国鉄時代に走っていた急行「つくばね」は、その名の通り、上野から常磐線・水戸線を通って下館から茂木へと結んでいた。真岡沿線と宇都宮の間には鬼怒川が流れ、鬼怒川は常総線に沿って南下し、守谷付近で利根川と合流している。つまり常総線と真岡鉄道は、常磐線と東北線ともに、放射状に首都圏と結んでいるのである。
下館行と交換
 列車が久下田に着いたとき、この列車の印象がガラッと変わった。すでに交換列車が待っていたのだが、その車両が周囲の風景にすっかり溶け込んでいるのである。緑豊かな木々の中にこの気動車を置いてみると、まるで迷彩色をまとったかのように、周囲と一体化する。緑のグラデーションの中に、「木々の葉」のような市松模様が散らされているのだから、何の不自然さもなかった。ただ車両が余りに風景に溶け込んでしまうと、接近しても見えづらく危険である。オレンジの帯は、遠くから視認でき、安全に役立っていた。つまり計算され尽くした車両だったのである。
 遠くに里山が低く連なり、田圃の中を列車は走っていく。益子では陶器を求める人々が数多く降りて行った。まばらになった車内では、携帯電話会社の調査員がしきりに電波状態を測定している。時々電波の途絶える場所があるようだ。自分の携帯を見てみると、電波は良好である。ここでも電話会社同士の熾烈な戦いがあるのだなと感じる。
茂木駅

左側に転車台が見える。蒸気機関車
はここで反転し、機回り線を使って、
これまで最後尾だった客車と連結す
る。見ているだけで楽しい場面だ。 
 小高い丘を越えて、一目で道の駅とわかる建物の脇を下ると、終点茂木である。観光で成り立つような町ではない。普通の、ごく普通の、田舎町。暮らしやすそうな町だなと思うと同時に、ここを去れば忘れてしまいそうな町でもある。ホンダのカーレース場「ツインリンクもてぎ」はここから4キロ程先だという。周囲にはゴルフ場もあるらしい。だからと言って、一般客が散策を楽しむような場所ではなく、ここは生活をする場所なのだ。
 ここでの用事はない。このまま帰ろうと思う。昼食は真岡で食べよう。再び真岡鐡道の乗客となって、益子を通り、真岡に着く。ここは鉄道の町である。駅舎だけでなく、真岡鐡道を有名にしているSLや今は使われなくなったディーゼルカーが展示されている。なかでもガラス越しに見える蒸気機関車は、ロッドや車輪が磨き上げられていて、この鉄道会社の心意気が窺えて快い。
C12は展示室を兼ねた車庫の中で
ピカピカに磨き上げられていた。 
 展示に満足しつつ、良い気分で町を少し歩く。お昼は何にしようかと適当な店を探していると、駅から程近いところに「みんみん」の看板が現れた。宇都宮餃子の有名店がここに進出している。餃子でビールも悪くないと思うと同時に、改めてここが栃木県であることと、地域の繋がりが鉄道から自動車に移っていることを実感した瞬間でもあった。
(2010/6/17乗車)



気動車王国 常磐路③

Mythical 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線
 
JR鹿島神宮駅で出発を待つ水戸行
 JR鹿島線の正式な終点は鹿島サッカースタジアムだが、同駅は試合開催日だけ営業する臨時駅のため、すべてのJR列車は一つ手前の鹿島神宮で運転が打ち切られる。そこを埋め合わせているのが鹿島サッカースタジアムと水戸を結ぶ鹿島臨海鉄道であり、2両編成のディーゼルカーが鹿島神宮まで足を延ばしてやってくる。試合のない日はスタジアム駅を通過してしまうので、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線はふだんは起点の駅が営業されていない一風変わった鉄道だ。
 臨海鉄道という名前が示すように、この鉄道はもともとは貨物輸送専用として建設された。大洗鹿島線以外に鹿島臨海線があり、こちらは現在でも貨物専用路線として臨海工業地帯の重要な輸送を担っている。ただ輸送の主役が鉄道からトラックに移った(注1)ために経営は決して楽ではないようだが、旅客の乗れない鉄道には残念ながら協力のしようがない。

 大洗鹿島線はもともと国鉄鹿島線として水戸と鹿島を結ぶ鉄道として計画され、鉄建公団によって建設された。深刻な赤字財政に喘いでいた国鉄は鹿島線の延長を拒んだため、行き場を失いかけたこの路線は第3セクターとして開業し、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線となった。霞ヶ浦の一部(注2)である北浦と鹿島灘の間を北上し、那珂川河口に位置する大洗で西に進路を変え水戸に至る、延長53キロの非電化単線路線である。

 さて厳かな雰囲気が漂う鹿島神宮の杜から少し下ったところにJR鹿島神宮駅がある。『常陸国風土記』にもみえる由緒ある神宮には武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ)が祭られ、古くから武神として尊崇を集めていた。参道にある駅前の広場には剣豪塚原卜伝の碑が建っていて、戦う人々の聖地といった感がある。
 この地に関係する戦いでも物騒でないのが、生き死にに関係のないサッカーJリーグの戦いであろう。鹿島アントラーズの本拠地、茨城県立カシマサッカースタジアムは、鹿島神宮から2~3キロのところにある。普段は列車の停まらない駅には、何本もの側線があって、サポーター達の輸送用に列車を留置しておく所と思いきや、実は臨海工業地帯からのコンテナ列車の留置線だそうだ。ホームとは比べものにならないほどの長い待避線が、貨物用であることを示している。
水田の向こうに見える北浦

丘陵地帯の麓に横に広がる水の帯が
北浦。南北に20数キロにわたって
細長く横たわる、ほぼ北限の風景。
 さて、大洗鹿島線は北浦と鹿島灘の間を通るといっても、残念ながら海や湖水が堪能できるわけではない。ハマナスの自生南限地に近い、その名も鹿島灘駅ですら海岸から1キロ以上隔たっている。海岸線をのんびりと行く普通のローカル線とは異なった雰囲気が漂っている。そもそもコンテナ貨物の輸送が可能なように鉄建公団が建設した路線だけあって、列車はひたすら真っ直ぐに林や畑の中を北に向けて走る。起伏に乏しい土地なので高架や盛り土区間はほとんどないが、それなのに踏切はなく、あまり車の通らないような道路までもが高架橋となっていて、まさに近代的なローカル線なのだ。

 集落の集まっている鉾田に近づいたところで、わずかに北浦が見える。湖畔に沿って走ってくれればいいのにとは思うが、産業効率優先の路線は旅の情趣には無頓着である。
涸沼(ひぬま)
 その後、どこで分水嶺を越えたか分からないうちに那珂川水系の涸沼がちらりと見える。こちらも北浦と同様に汽水湖なのだが、どんな湖かわかるほど近くには寄ってくれない。そうこうしているうちに、沿線最大の町大洗に着いた。側線には二両編成のディーゼルカーが停まっている。大洗・水戸間は列車本数がほぼ倍になり、日中は1時間に二本程度運転されているのだ。
単線高架
 那珂川流域は水田が広がり、人口も増えてくる。大洗を過ぎると列車は高架線の上を走るようになる。途中進行左側の丘の上に大仏が見えて来た。森の中に鎮座している。後に知ったことだが、それはホトケではなくヒトだった。『常陸国風土記』に出てくる伝説の巨人、ダイダラボウの像だったのである。丘の上に居ながら海岸に手が届いてハマグリをさらうことが出来、片足の痕跡はなんと偕楽園脇の千波湖となったという伝承が残っている。前者はこの地にある貝塚の由来を説明し、後者は湖の形の由来を解き明かしてくれる、伝承はまさに古代人の知恵であった訳だ。
大仏?
 列車は緩いカーブを切りながらトラス橋を渡って常磐線に寄り添いながら水戸に到着する。国鉄の路線として計画されただけあって、事実上の起点である鹿島神宮もこの水戸駅もJRと完全に一体化していて、一見地方鉄道であるようには見えない。水戸と鹿島臨海工業地帯を結ぶ貨物線に間借りするような旅客鉄道とでもいったらよいだろうか。ただ、この路線に乗って振り返ってみれば、常陸の国は紛れもない神話の国であるということだった。武甕槌大神に始まり巨人の足跡で終わるこの鉄道は、『古事記』や『風土記』という日本を代表する神話を身近に感じることが出来る、歴史探訪鉄道でもあった。
水戸駅で出発を待つ鹿島神宮行

(注1)近頃また風向きが変わってきた。人口の減少によって、トラック運転手不足が懸念されているそうである。味の素は2016年から500キロ以上の輸送をトラックから船舶・鉄道に切り替えると発表した(2014/5/28日経)。人口減少は鉄道会社にとっても頭の痛い問題だろうが、長距離鉄道貨物の回復が思わぬ救世主となるかもしれない。

(注2)霞ヶ浦は、西浦・北浦・外浪逆浦(そとなさかうら)・北利根川・鰐川・常陸川の各水域からなる総称だという。大きく二股に分かれた湖を指しているものだと不覚にも思っていたが、それは正式には西浦と呼ぶ。私のように思い込んでいる人も多いようで、西浦を狭義の霞ヶ浦と考える向きもあるらしい。


(2010/5/13乗車)



郷愁のひたちなか海浜鉄道湊線

阿字ケ浦
 終点の阿字ヶ浦は常磐線勝田から旧型気動車にゴトゴト揺られて8駅目、距離にして14.3キロの地点にある。駅から5〜6分歩けば阿字ケ浦海水浴場があり、花々が楽しめる国営ひたちなか海浜公園もさほど遠くない。しかしまず楽しめるのが終点阿字ケ浦駅そのものだ。味わいある終着駅としてはまさに一級品で、そのまま鉄道模型のジオラマにでもしたくなるような風景がある。町はずれの広い空、清潔だが古びた駅舎とレトロな気動車。長い年月、大切にされていたものが今も息づいている。
 
前照灯を挟む二つのタイフォン
 停車中の気動車は一見国鉄車両に見えるが、前照灯周りを見ると一風変わっていることに気づく。両側にタイフォン(警笛)が付いているこの車両は、1969年まで北海道の留萌鉄道で活躍していたキハ2005である。国鉄の普通列車キハ22と似た車両だが、タイフォンの位置と形状が個性的で、その上に国鉄の急行塗装を施すなど湊鉄道線はなかなか憎い演出をしている。
那珂湊駅にて
注目は車庫に停車中のキハ2004
国鉄準急色。手前は海浜鉄道に
よる新造車両キハ3710形。  
 留萌鉄道から移って来た同系気動車はもう一台あって、こちらは国鉄の準急塗装を施したキハ2004である。どちらも車歴がだいぶ古くなって来たので、いつまで運用されるか心配だが、昨今の地方鉄道が歴史的記念物として車両を大切に保存してくれるのは大変嬉しいことだ。鉄道会社の努力と沿線の牧歌的な風景が相俟って、私たちの心に郷愁を感じさせるのだが、ようやくこの日本にも英国の保存鉄道のような試みが始まっているのかもしれない。古いものを大切にしつつ実用に供する。そのために敢えて国鉄時代を彷彿とさせるようなカラーリングを施す。ひたちなか海浜鉄道の試みを今後も見守りたい。
那珂湊駅にて
キハ2005の後ろにキハ222
 ところで沿線で乗降客が一番多いのはもちろん那珂湊である。那珂川をはさんで大洗の対岸に位置する那珂湊には関東でも有数の漁港があり、駅から15分ほど歩いたところの那珂湊おさかな市場はいつも観光客で賑わっている。休日の駐車場は混雑するし、新鮮な魚を楽しみながら一杯やるのも悪くない。そんな時、やはり頼りになるのは湊鉄道線ではないだろうか。勝田までスーパーひたちでやって来て、海浜鉄道に乗り換え、おさかな市場で軽く一杯…こういう観光客が増えれば少しはローカル私鉄の赤字も解消するのだが。

那珂湊駅にて
改札口のある上りホームから下り
ホームまでは線路を横切っていく
必要がある。引っ切りなしに走る
都会の鉄道では見かけなくなった
 那珂湊の駅で帰りの列車を待っていると、キハ2005に連れられて、これまた珍しいキハ222がやって来た。この車両は1970年に北海道の羽幌炭礦鉄道から払い下げられたものである。羽幌は留萌よりも更に北にある最果ての地だ。この二両は炭鉱の閉山とともにこの地に移り、第二の人生を歩んでいる。
旋回窓の向こうには
田植えの終った水田
が広がっている。
 
 キハ222は極寒の地の鉄道らしく、ワイパーではなく旋回窓が使われている唯一の旅客車両だそうだ。冬の羽幌を訪れたことはないが、真夏にこの地方をドライブした際、日本海に沿ったオロロンラインに点在するシェルターには驚いた。本州では地吹雪を避けるために道路沿いにフェンスを張る地方があるが、最果て天塩地方ではもっと徹底して、かまぼこ型のドームで道を覆っているのだ。風が静まるのを待って次のシェルターまで車を走らせるのだろう。この旋回窓を見ていると、この車両がかつて厳しい北国にいたことを思い知らされる。

 さて、そろそろ気動車を乗り尽くす常磐路の旅も終わりが近づいた。常磐とは常陸と磐城の合成語だから、本来は福島県の気動車にも触れなければならないところだ。ただ、今回はローカル私鉄ばかりを取り上げているので、私鉄はすべて電車の福島県については触れないことにする。
 関東地方では茨城県以外に千葉県でも気動車が活躍している。こちらはそのうち房総横断鉄道として紹介してみたい。いつのことになるかはわからないけれど。
(2010/5/13乗車)
 




2014年4月1日火曜日

松本電気鉄道上高地線



3000系電車

JR松本車両センターの脇をかすめるようにして
ゆっくりと京王電鉄払い下げの電車がやってきた

松本駅7番線ホーム 新島々行

このホームの先6番線は、大糸線各駅停車専用ホーム
となっている。大糸線利用者は松本電鉄の前を通って
乗車する。JRとの間に改札はない。       

終点新島々まではおよそ30分

上高地の玄関口である。駅前にバスターミナルがあり
ここから上高地や乗鞍へはバスが接続している。乗車
した日は夕暮れ時で、西日に照らされた乗鞍岳が真っ
白に輝いていたが、逆光のため残念ながら撮影出来な
かった。                    
 
今はなき島々への鉄路

1983年台風で土砂崩れがあり、1.3キロが廃止
となってしまった。              

新島々から松本方面を眺める

渕東駅

新島々から一つ目の駅。エンドウと読む。ローカル
私鉄らしいいい雰囲気の駅だ。難読駅といえる。ち
なみに上高地線にはアニメのイメージキャラクター
がいて、その美少女の名前を渕東なぎさという。姓
も名もどちらも駅名である。ちなみに当管理人はそ
の方面には関心はないが参考までに。      


新村駅

全線ではやや松本よりにあるが、おおよそ中間点
で、列車交換が行われる。また、左側に上高地線
の車両基地が併設されている。        

交換列車 なぎさTRAIN


松本平と美ヶ原(正面の山)

なだらかな傾斜の中、ゆっくりと松本市街に向かって
下っていく。野麦街道に沿ってコトコト走るローカル
私鉄は、観光用というより沿線住民の足という性格が
強い。                     

(2014/4/1乗車)
















大糸線昼景色

変貌する糸魚川

 手元に二枚の古い写真がある。一枚はピンボケでブレた列車の写真、もう一枚は煤けた感じの煉瓦車庫の写真で、どちらも昭和38年(1963年)夏に北陸本線を写したものだ。
赤煉瓦車庫とC56(1963年撮影)

屋根上の煙突は蒸気機関車廃止後は
撤去された。C56は大糸線で活躍。
 ピンボケ列車の方は、糸魚川駅の隣にある梶屋敷駅ホームを、当時珍しかったデーゼル特急白鳥が通過するシーンである。目にも止まらぬようなスピードで疾走していく最新式の特急列車は実に格好良かった。まだ電化されていなかった北陸本線は蒸気機関車牽引の薄汚い客車列車が中心で、綺麗なデーゼル特急は皆の憧れであった。その軽快で優雅な走行は「白鳥」という名前にぴったりであり、終生このシーンは忘れられそうにない。
赤煉瓦車庫とキハ52(2010年撮影)

取り壊し直前の赤煉瓦車庫。北陸新
幹線の橋脚は直前まで迫っていた。
またキハ52も3ヶ月後に大糸線から
消えていった。         
 赤煉瓦車庫の方は糸魚川駅構内にあったものだが、こちらは記憶に全く残っていない。古いものがありふれていた時代にあっては、この赤煉瓦車庫がまさか存続運動まで起こるほどの貴重なものだとは誰も思わなかった。
 あれから半世紀が過ぎ、ディーゼル特急よりも蒸気機関車牽引の客車や煉瓦車庫の方が格段に注目を集めるようになった。時はものの価値を変えていく。かつて単線で海岸沿いを走っていた北陸本線直江津・糸魚川間が、複線電化と長大トンネルでスピードアップし、優雅な「白鳥」は今では青森よりも南下することもなくなった。そして煉瓦機関庫は北陸新幹線工事によって、惜しまれつつも3億円の移築費が捻出できず、永久に消え去ってしまったである。


大糸線の思い出


姫川
 糸魚川は翡翠の町だ。翡翠はフォッサマグナの激しい造山運動によって生み出された宝玉であり、活断層の巣である糸魚川静岡構造線に沿って流れる姫川流域に眠っている。翡翠を生み出すほどの激しい自然を流れる姫川だが、古くから交通の要衝でもあった。上杉謙信が宿敵武田信玄に塩を送り、「敵に塩を送る」の言葉となって今も有名な塩の道、千国街道は、この急流姫川に沿って松本やはるかかなたの甲府まで続いている。大糸線はこの姫川を遡り、北アルプスや仁科三湖などの景勝地を結んで松本に至るが、現在は残念ながら全線走破する列車がない。すべては途中の南小谷で折り返している。それはJR西日本管轄の南小谷以北が非電化だからだが、そもそも国鉄時代も直通列車は稀だった。
 その珍しかった直通列車に乗ったことがある。昭和44年(1969年)夏のことだ。糸魚川発新宿行の急行アルプス5号は列車番号が1414D、末尾にDが付くディーゼル急行だった。当時既に南小谷までは電化されていたので、新宿発着のアルプスはこの列車以外はすべて電車だったから当時としても珍しい存在である。糸魚川を8時12分に出発、新宿には15時49分に着くという7時間半のロングランだった。記憶に残っているのは、仁科三湖と荻窪付近の高架化工事くらいだが、今にして思うと日本列島を横断した貴重な経験と言える。北アルプスの記憶が残っていないのは、水蒸気が多い夏場は山が見えにくいという事情があったのだろう。大糸線にはこの時以外にも乗る機会があったが、どうも車窓風景の記憶が曖昧である。一度じっくり味わいたいと思っていた。 


糸魚川・南小谷間


大糸線切欠き4番ホーム

左ホームが1番線。通過列車用の

線路を挟んで大糸線列車の左側線
路の先に2番線ホームがある。列
車の右側が3番線。そして大糸線
は4番線となる。ホーム中程で下
車した人には4番線が見えない。
 大糸線の列車は、糸魚川駅の片隅から出発する。特急列車の停まる糸魚川駅には普通列車を追い越せるような堂々としたホームがあるが、その端は、線路方向にホームを半分切り取って線路を敷き、編成の短い列車が停車出来るようにしてある。これを切欠きホームと呼ぶが、この形式は、需要の少ないローカル線のために新たにホームを増設する必要がないところから時々目にすることがある。
 片隅にひっそりと列車が待つところが、いかにもローカル色豊かで良い雰囲気なのだが、問題もなくはない。初めて訪れる旅人には、ホームが見つけにくいのである。列車が遅れて乗り換えを急がなくてはならないような場合、ホームは番号順にあるものだと思い込んでいるととんでもないことになる。おまけのホームだから、番号が飛んでいるのだ。本数が少ないローカル線だけに、駅の放送にしっかり耳を傾けて、間違いなく乗り換えを急がなくてはならない。
 さて北陸新幹線の開業を前にして大きく様変わりした糸魚川駅であるが、大糸線の列車も随分と新しく可愛らしい車両となった。鈍重な印象のキハ52に替わって、軽快なキハ120となり、さらに御当地ゆるキャラのラッピングカーまで投入された。地域の活性化に役立つことだろう。
 もっともこの日に乗車したのはラッピングされていない列車で、出発ホームも本線2番ホームからだった。知ったかぶりをして大糸線ホームで待っていたら、乗車口に行くまでに少々出遅れてしまった。キハ120は通常の車両より短い16m車だから乗車定員が少ない。進行右側の座席をどうしても確保したかったが、結構多くの人が乗り込み始めていた。これはまずいなと思っていると、幸いなことに左側から埋まっていく。日差しが強かったこの日、地元の人は日陰側の席を求めていたのだった。この先列車は姫川を右手に見ながら進んでいくのでありがたい。


小滝・平岩駅間

国道の上には崩落した土砂と残雪
がある。 
 糸魚川から南小谷までの35.3㎞は糸魚川ジオパークの旅でもある。世界で100カ所ほど認定されているジオパークの定義は少々わかりにくいが、世界自然遺産とは異なり、地質学的に珍しいばかりでなく、その自然が生態系や人間の営みと密接に絡み合った地域が認定されるようだ。日本ジオパークネットワークによれば「ジオ(地球)に親しみ、ジオを学ぶ旅、ジオツーリズムを楽しむ場所がジオパーク」であるという。親しんで、学び、楽しむ所と言われても… まあ、余り難しいことは考えないようにしよう。少なくともこれから大糸線を楽しむのだから。
 この姫川沿いの大糸線の景色は半端ではない。糸魚川から海抜516mの南小谷まで、姫川の急流は大地を深く刻み込み、険しい渓谷を形作っていて、人が住めるようなところはほとんどなく、冬は豪雪が見舞うような厳しい場所でもある。
小滝・平岩駅間

国道は護岸された堤防からはみ出す
ように設置され、大糸線は頑丈な鉄
骨で守られている。
 そのような場所でありながら昔から塩の道として人々の生活を支える道が通っていた。現在は国道148号線となって、主に川の西側を通っている。落雪の危険を避けるために、全線ほとんどがスノーシェッドで覆われた無骨な国道である。頑丈なコンクリート製の雪除けトンネルが延々と続くのである。眼下を雪解け水の濁流が流れている。護岸のために無骨なコンクリート壁が川岸を固めてあり、自然から生活を守るための奮闘の跡が見て取れる。
もともと土地のないところだから、鉄道路線と道路は併走できず対岸に建設せざるを得ない。険しい渓谷の、限られた川岸に線路を敷き、どうしても敷けない場所は山岳トンネルをぶち抜いたため、大糸線はスノーシェッドとトンネルの連続である。鉄骨で守られた雪除けトンネルから眺める姫川と国道の景色が、この路線の最大の見せ場である。こんなところに国道や鉄道を造っているのだという驚きは、まさに自然と人の営みをテーマとしたジオパークの楽しみ方そのものを体現しているではなかろうか。
南小谷駅

後ろの白銀、左側は大渚
山か。        



 鉄道愛好家としては自動車道路には余り触れたくないのだが、この148号線のドライブについては少し触れておきたい。外からは窺い知れないが、このスノーシェッドの中をトラックやタンクローリーを始めとする大型車が爆走しているのだ。松本から富山方面を目指す際、高速道路を利用すると長野や妙高・上越市と大きく迂回しなければならない。だから多くの車はこの国道148号線に流れてくるので、昼夜を問わず人々の生活を支える重要路線として機能している。交通量が多く閉鎖的な空間だから、ドライブを気楽に楽しめるような場所ではないのだが、外は見所ある渓谷が広がっている。おちおち景色など楽しんでいられないが、一度通ると忘れられない不思議な道なのである。
 ということで、ここはやはり鉄道の旅が一番だなあと思っているうちに、あっという間に1時間が過ぎて南小谷に到着する。ここで乗り換えだ。





南小谷・松本間

 大糸線の名称は信濃大町と糸魚川を結ぶことに由来する。全線開通前の昭和12年には、信濃大町・松本間の信濃鉄道が国有化されて組み込まれたために、松本・糸魚川間となった歴史を持つ。鉄道の近代化として松本から伸びてきた鉄道の電化はここ南小谷までとなっていて、この先糸魚川までは伸びなかった。これは松本平から続く平坦な土地が、南小谷のすぐ上にある栂池高原・コルチナスキー場で尽きるのと同じで、ここまでが人々の多く集まる地域であり、この先は先程通ってきた渓谷となる。ここから大糸線は人里を走ることになる。
南小谷駅

左からE257系、キハ120、E127系
南小谷に現れる定期列車の揃い踏
みとなった。         
 新宿行あずさ26号に乗り換える。昼景色を楽しむ旅としては各駅停車に拘りたいところだが、スケジュールの都合上どうしても松本まではこの列車に乗らなくてはならなかった。車窓の旅記録も駆け足でいこう。





 晴天に恵まれ北アルプスの山々を堪能できる日和だった。ただ午後の日差しは逆光のためにどうも写真写りが悪い。それでも雨男の私にとっては滅多に見ることの出来ない北アルプスではあった。

白馬駅付近から眺める白馬三山

左から白馬鑓ヶ岳、山頂が平らな杓子岳、右が白馬岳

 白馬には何度も訪れているが、いつも厚い水蒸気の幕に阻まれてなかなか山容を拝めることが出来なかった。今回は久々のヒットだが、惜しむらくは順光の午前中に訪れられなかったことである。また来ようといつものように思う。

神城駅付近から八方尾根を振り返る

なだらかで雄大な斜面は白馬のシンボルとも言える。
後方中央に白馬岳が控えている。         
 
 白馬の山々が後ろに遠離っていく。そろそろ分水嶺が近づき、神城辺りは姫川の源流のある場所だ。その昔、姫川は青木湖を源流としていたらしいが、土石の崩落によって分水嶺が変わったという。現在の分水嶺、佐野坂峠を越えると白馬とはお別れで、風光明媚な仁科三湖に辿り着く。こちらは信濃川水系で、まずは青木湖。以前にオートキャンプで訪れたこともあるが、水の綺麗な静かな湖だ。

青木湖

対岸の閑静な山腹にホテルやキャンプ場のリゾート地
がある。                    

 青木湖を過ぎるとすぐに中綱湖が現れる。三湖のなかでは一番小さく、地味で、集落にも近く生活感のある湖だ。

中綱湖

小さな湖の回りには田圃や集落が広がる。


 そして最後が木崎湖。写真からは窺い知れないが、夏にはレジャーボートもたくさん浮かぶ行楽の湖である。

木崎湖

三湖の中でもっとも拓けたリゾート地だが、たまたま
写真に収まった木崎湖はもっとも神秘な佇まいを見せ
ている。                    

 ところで、駆け足で車窓を紹介してきたが、実は最後に苦労話を書かなくてはならない。こんなに素晴らしい景色が続く大糸線であるが、車窓から写真に収められる場所がほとんどないのだ。その原因は電線である。電線に慣れっ子の日本人には、普通に車窓を眺めている分にはさほど気にならないものだが、いざ写真を撮ろうとなるとそうはいかない。気がついてみると、南小谷から信濃大町までの間、私は殆どカメラのファインダーを通して景色を眺めていた。電線が途切れる瞬間を待つためである。それでも中綱湖の場合、電線が途切れることはついになかった。
 車窓から写真を撮るなどいうのは本来邪道であるに違いない。しかし、私は車窓ファン、しかも全国全線走破のために途中下車するゆとりはあまりない。観光立国を標榜し、しかもこれだけの絶景路線なのだから、電線の地下埋設に対してもっと積極的になっても良いのではないかと思う。
(2014/4/1乗車)