2012年8月21日火曜日

東北本線昼景色 第4章 宮城


6.白石12:37 仙台13:26 445M クモハ719-19

 ようやくクロスシートの電車にお目にかかれた。これで気兼ねなく車窓が楽しめるし、食事やお酒もと嬉しくなるが、肝心の食べるものがない。仙台まで我慢しよう。
 白石は東京からちょうど300キロ地点、蔵王の麓に広がる城下町である。麓といっても蔵王と白石の間には1800メートル級の山が立ちはだかっているから蔵王自体は見えないようだが、それに連なる山が楽しめる。今日は天気がよいので、進行左側に見えるはずだが、あいにくそこにはあの手櫛男が座っている。なにやら山塊が見えるようだが、男は僕の視線を気にしていて、こちらも先程の非礼を申し訳なく思うので、観察はちょっとだけにしておく。
 途中から研修で熊本からやって来た大学生が横に座った。旅で出会った人と話すなんて面倒くさいからずうっと外を見ていると、大学生は人懐っこい性格のようで
「こちらの方ですか?」
と尋ねてくる。
「いや、東京です」
「有給休暇とって来ているんですか? 有給は働く者の権利ですよね。どんどんとればいいんです」
などと勝手に話を進めてくる。人の良さそうな顔して迷惑な奴だなあ、他人の迷惑も顧みず権利としての有給をとっている奴にこっちは困っているんだよ、頼むから黙っていてくれないかなあと思いながら、曖昧な顔で相手していると、とうとう仙台まで一緒になってしまった。下車するとき爽やかな顔と声で、
「お疲れさまあ。気をつけて!」
とにこにこ笑う。
 だから、いい人というのは困りものなのだ。
(走行距離45.0 49分 通算348.2㎞ 6時間37分経過)

7.仙台13:41 一ノ関15:22 クモハ721-41

 家族の者が2年間ほど仙台で暮らした縁で、この駅にも大分馴染んでいた。だから仙台で接続が15分あれば充分駅弁とビールが買える余裕はあるなと思っていたのが甘かった。隣のホームではすでに電車を待つ列が出来つつあった。何としても進行右側の席を確保したいし、しかも跨線橋を渡らなければならない。乗車記録写真も撮りたかった。
 今まで乗り継いできた電車よりも新しい外見がモダンな721系が入線してきた。ドアが一斉に開きクロスシートを目指すが、あいにく窓側には年老いた母親と付き添っている中年のご婦人が座っている。どちらも品の良い女性だ。通路側の席を確保し、デイパックからカメラを取り出し、記録撮影して戻ってくると、
「どうぞ、こちらを使って下さい」
と窓側の席を譲ってくれる。こちらが旅の途中と知って、中年の女性が席を替わってくれたのである。食事にはありつけなかったが、有り難い心をいただいた。
多少なりとも黒磯で蕎麦を食べたのは正解だった。この先、接続時間が充分あるのは八戸しかなく、しかも300㎞も先である。
 721系は新しい形式の車両で、しかもクロスシートが採用され車窓を楽しむには最適なのだが、惜しいことに座る部分の奥行きが足りず、太ももの尻に近い一番肉づきの良い所に座面の端が当たって長い間座るのには不都合だ。JR東日本としてはサービスとしてクロスシートを導入しつつ、シートピッチを詰めて定員増を図っているのだろう。こういうところがこの会社の「うまい」ところで、確かに優良企業かもしれないが、東京駅改築には多額の投資をするものの、岩泉線の復旧は遅々として進まず、震災でズタズタになった三陸各線への投資を渋る体質は、企業論理からは当然であっても、どこか非人情で顧客重視の姿勢が感じられない。
 多賀城着13:55、上野を発って7時間経過。これだけ乗っても全然飽きることはなく、疲れも感じない。
塩竃を過ぎ、松島に近づく。光の加減がよく、島が美しく見える。海も穏やかで、車窓から見る限りこの付近は復興した感じがする。
品川沼辺りからは穀倉地帯に入り、黄色く色づいた田圃の中を721系は疾走する。
 小牛田に着いた。上り方面のホームに石巻行のキハ48が停車している。古い気動車だが、綺麗に塗装し直されてピカピカ光っている。ここにも復興への努力が感じられ、この列車に乗って石巻を訪ねたくなる。
小牛田は交通の要衝で、列車が一ノ関へ向けて発車すると、まず石巻線が右に分かれて行き、続いて陸羽東線が左に分かれていく。とても広い構内に対して町がとても小さいことをかつて宮脇俊三が書いていたことを思い出し、
「まったくその通りだ」
と景色を見ながらひとりごつ。
 親切な女性二人は田尻で降りていった。向かい側の進行方向の席に移って、改めて車内を見渡すと人もだいぶまばらになっている。日が西に傾いてきて、初めて急行「十和田」で青森を目指し、小牛田に着いた時のことを思い出す。あの頃とは駅舎もプラットホームも異なり、何よりも今では客車編成の列車が絶滅してしまったが、この日差しだけは変わっていない。午後の黄金色の日差しは人を感傷的にするようである。
 同じ田園地帯でも東北もここまで北上して気がつくことは、景色の中から工場が確実に減っていることだ。農業一つになるため、風景が落ち着いてくる。瀬峰には407 1/2ポストがある。いつの間にか400㎞を越えていた。
 車内は人がまばらで、運転台脇に立っている人くらいしか目に入らない。実にローカルな感じだが、車内放送だけは少し興ざめだ。というのも、録音された声が東京でもお馴染みの女性の声であり、英語放送まで同じだから、目を閉じるとここが東北だとはとても思えない位だ。ただ、外の風景は確実に東京からの距離を感じさせてくれる。穀倉地帯を疾走する東北本線は、どこまでもまっすぐでどっしりして立派な路線だ。
 このところある同僚の結婚前の名字を思い出せなかったが、停車した駅名をみて思い出した。ここは新田。縁もゆかりもない駅だが、ふと「ありがとう」と口からこぼれた。
次に石越のプラットホームにある駅のベンチを見ていて気がついたのは、合板に熱を加えて成形したそれは、職場の講堂に据え付けてあるものと全く同じだということだった。日に焼けて色褪せたところまでそっくりである。肘掛けが付いている分、こちらの方が上等だが。
 なんだかんだ言いながら仕事が忘れられない自分にちょっと反省し、再び景色に集中する。田圃、森、それに牧草地まで出てきた。牧草を刈り、専用の車が刈り取った牧草の束を白いビニールで巻いていく。それが刈り取られた土地のあちこちに転がっている。あの白い包みの中で徐々に発酵して美味しい草になるのかなと想像してみる。
(走行距離93.3 1時間41分 通算441.5㎞ 8時間33分経過)




東北本線昼景色 第5章 岩手


8.一ノ関15:27 盛岡16:56 1543M クモハ701-1015

 一ノ関からは再びロングシートの通勤通学電車になってしまった。2両しか繋がっていない編成なのに、たくさんの人が座れるクロスシートにしないのは、よほどお客を立たせたいのだろうと、ここでもJR東日本を恨めしく思う。東北人や関東人は思っていることをむやみやたらに口にはしないという嗜みというか、我慢強さを持っている。一方それは、グローバル時代にはそぐわないかもしれないけれど、それ位のことは言わなくてもわかるでしょということでもある。もっと顧客を大切にしなさいよ、JR東日本さん!
 とはいえ、乗客はほとんど乗っておらず、ここまですいているとロングシートでも快適ではあった。それだけ人口が少ないとみえて、風景の中から家屋が少なくなる。何もないといってもいいくらいで、水沢に近づいた時はちょっとした町に着いた感じがした。高層ビルがあるわけではない。23階建ての地方銀行の建物や商店街があり、そこに民家が混じっていたりするような町である。ここに来るまで何もなかったから賑やかな感じがするといったらよいだろうか。
ただ水沢からは人が乗ってきて、あっという間にロングシートは埋まり、立ち席の人もいるほどになった。電車が出発すると、仙台以北では少なかった工場もちらほら見えて…と思っているうちに、あたりは再び穀倉地帯となった。
 金ヶ崎に着く。この地名には覚えがある。以前、東京の銀座に住むある方(東京の田舎者である僕は、銀座にも人が住んでいるんだと改めて思ったものである)から、お歳暮に「金ヶ崎金札米」を戴いたことがある。豪華絢爛、とんでもない名前だなあと思いつつ食してみると、これが滅法旨いご飯であった。以来この地名は忘れられない。なるほど、あたりは午後の日差しをうけて黄金色に輝く広大な穀倉地帯である。
 北上は新幹線停車駅。反対側のホームに北上線のキハ110が停まっている。この6月に乗る予定だったが、季節外れの台風で中止になった恨めしい路線だ。また近いうちに来ることもあるだろう。北上からは部活を終えた男子高校生がたくさん乗り込んでくる。先頭車両の運転席反対側のロングシートに席を占め、前方展望を楽しんでいたのだが、混雑のため見えにくくなってしまった。高校生達はみなゲームに興じている。全国どこへ行ってもゲームなんだなあと改めて思う。
 花巻からは女子高生が群れをなして乗ってきた。前方展望は完全に見えなくなった。時計を見ると16:42、もうすぐ10時間が経過しようとしている。これが飛行機だったら昨年行った米国のシアトルに着く頃である。遠くに来たものだなあ、盛岡とは、つまりそういう所なのだ、仙台とは意味が違うなどと取り留めもないことを考え、その考えに納得しながら感動を噛みしめる。車内は男子高校生と女子高校生の熱気でムンムンする。下校時間とぶつかるなんて、各駅停車の旅でなければ味わえないことだ。現地密着型電車の旅だから、僕だけが異邦人であり、ふたたび景色を見るためにキョロキョロするのが憚られるようになった。
 盛岡までは新幹線なら3時間、しかしこちらは10時間。これだけの時間距離があるから寝台特急で移動するのもいいなあと思う。かつて上野〜盛岡間には寝台特急「北星」が走っていたが、新幹線開通と共にその役割を終えている。30年近く前のことになる。
北上川の流れが近づいてきた。新幹線の橋脚もすぐに脇に迫っている。水沢とは比べようがないほど立派なビルも見えている。電車は入り組んだ複雑なポイントを通過するために徐行しながら盛岡駅にゆっくりと入っていく。定刻通り7番線に停車。
 さて、ここでJRの旅は一旦終了となる。東北本線の終点は盛岡? 新青森?
いずれにしても僕の心の東北本線はこの先青森まで続いている。さあ、これからIGRいわて銀河鉄道に乗り換えだ。
(走行距離90.2 1時間29分 通算531.7㎞ 10時間7分経過)

9.盛岡17:04 八戸18:51 IGRいわて銀河鉄道4539M  IGR7001-3

 盛岡からIGRに乗車するのは今回で2回目になる。ただJR在来線から乗り継ぐのは初めてであり、乗り換えてみて呆れたのは、JR改札からIGR改札までがやたらに遠いのだ。跨線橋をまたぐのだって利用者には不便きわまりないのに、延々と歩かされる。別会社だからといえばそれまでだが、もともとは同じ国鉄JRではないか、自分の都合で切り離しておいて、なおかつこの仕打ち。どう考えてもJR東日本は配慮が足りない。なんとかなりませんかねえ、この体質!
 結局トイレもいけず、IGRの車内は男女高校生で大盛況。その上この通学電車にトイレはなかった。もっとも水分もろくにとっていないし、その上皆汗になってしまうので、それほど行きたいわけでもなかったのが幸いだ。寒い時期でなくて良かった。
 盛岡といえば岩手山が有名だし、山裾に向かって描くその優雅な曲線は見ていて飽きず僕の大好きな山の一つだが、渋民や好摩から車窓右側に見える姫神山はなだらかなピラミッド、もっとわかりやすく言えば、慎ましやかな女性の乳房のようで、とても美しい。啄木も見惚れたというが、センチメンタルな彼のことだからそれもむべなるかなである。列車は河岸段丘のような高所を通り、民家は眼下に隠れ、あたりは豊かな森林が広がり、その向こうに姫神山が大きく裾野を広げて佇んでいる。
 好摩から先の風景はほとんど僕の記憶にはなかった。上野から在来線でここまで来る頃には日が沈んでしまうからである。今日はまだ陽が残っている。
 いわて沼宮内あたりからは土地が狭くなり山が迫ってくる。ここに来るまでに乗っていた人達の多くは降りてしまった。IGRの列車もその多くがここで折り返しとなる。
ここは新幹線との乗換駅でもあるが、架線を見てやはりここの新幹線軌道は260㎞対応なのだなと納得する。というのも架線の張り方がほぼ在来線と同じ簡略なものだからである。盛岡以南や東海道山陽新幹線などは、高速走行するパンタグラフからの衝撃を吸収するために、直接接触するトロリー線をもう1本の架線が支え、更にその上をもう1本が支えると言うように二重構造になっている。ところが建設費節約の北陸新幹線やこの辺りの東北新幹線は、トロリー線を支えるのは1本で済ませている。300㎞対応にしないと函館まで繋がったときにメリットが少ないのではないかなと心配になるが、そもそも新幹線はいらないよなあと、地方の人には申し訳ないが思ってしまう。
 空いた車内に巨大なオニヤンマが飛び込んできた。虫の苦手な僕としては、こっちに来ないでくれよと祈るばかりである。びくびくする姿を見せるわけもいかず、必死に泰然自若の体を装う。地元のお兄さんが逃がしてやろうとするけれど、開けた窓から強い風が吹き込んでなかなかうまくいかない。奥中山高原という、降りてみたくなうような駅で漸く捕まえ、外に放つことができた。オニヤンマもホットしただろうが、一番なのは僕に違いない。
 目時は何もない山間の駅でありIGRはここまでだが、岩手県は数百メートル手前で終わっていて、ここはすでに青い森鉄道最初の駅である。しかし、運転手の交替もなく、またこの先三戸で降りる人も結構いて、まだ岩手の圏内であるかのようだ。乗客の中には綺麗な女性もいて、見た目は東京人とまったくかわるところがないものの、外はもの凄い田舎である。携帯・スマホ・インターネットそしてコンビニの普及は、地方の開化を確実に推し進めたのではないだろうか。情報に差がなく、物は宅配を利用すれば確実に手に入る。どう見たって、おじさん姿の僕の方があるかにダサイ格好をしている。女子高生や男子高生、そして若いお嬢さんなど、地方と都会の差が想像以上に縮まっていることを痛感する。
 夜のとばりが降り始めた。人もほとんど降りてしまった。この分だと八戸に到着する頃には真っ暗になっていることだろう。
(走行距離107.9㎞ 1時間47分 通算639.6㎞ 12時間2分経過)




東北本線昼景色 終 章 青森


10.八戸19:17 青森20:48 青い森鉄道583M 青い森701-6

 闇の中を2両編成の電車が走る。ここでも主役は女子高生と男子高校生だ。すでに7時半を過ぎているというのに、部活を終えた遅帰りの高校生はすこぶる元気である。中にはカップルもいて、ちょっと周囲には得意顔で青春している感じもする。
 それにしてもこの青い森鉄道、またもやロングシートなのだ。701系だからJR時代のお古を、青く塗り直しただけなのだろうけれど。高校生だってカップルがいるわけだし、二人がけのクロスシートにしなさいよと思う。
八戸駅では接続に時間があったので駅弁とビールでも買って車内で一杯やろうと楽しみにしていたのだが、それは儚くも断念。八戸のホームでビールのロング缶片手に、陸奥湾自慢のホタテの貝柱燻製を肴に呑むだけで済ませた。これって、昼食? まさか夕食ではないでしょう?
 浅虫温泉は節電のためホームの灯りも薄暗く、とても鄙びて見えた。結局今回も青森県を走る東北本線の風景は充分に見ることはできなかったわけで、改めて青い森鉄道には乗りに来なければならないだろう。しかし、朝からここまで乗り通したという満足感がこみ上げてくる。周りは見えなくても、頭の地図の中で夏泊半島が思い浮かび、線路は大きく円弧を描いて北上をやめて既に南西に向けて下り始めている。ここで線路が右に曲がり、再び北に向かえば終点青森は近い。次第に住宅の灯りが増えてきた。
 青森駅はどん詰まりの駅である。東から東北本線、西から奥羽本線が向かい合い、それぞれ北にカーブを切って合流し行き止まる。それぞれの本線が絡み合う複雑なポイントをゆっくりと徐行しながら、青い森鉄道、否東北本線の旅は終わりとなる。
 2048分到着。走行距離735.6㎞。上野から13時間59分が経過していた。時間距離にすれば青森はニューヨークよりも遠かったことになる。
 人はそのような比較を無意味と思うかもしれない。でも僕はそうは思わない。飛行機や新幹線で省略する途中のあちこちも様々な出会いがある。それらは僕らの日常とつながっているものであり、まるでグラデーションのように刻々と姿を変えたものなのだ。
芭蕉が訪れたみちのくは、今日僕が訪れたみちのくよりも何百倍も何千倍もの出会いや経験に支えられたものだったはずだ。だから松島に辿り着く感慨も異なり、松島という言葉の持つ響きもまるで異なってくる。
今日一日の光景が一つ一つ蘇ってくる。雑踏の東京から輝いている福島へ、様々な人がいる仙台から穀倉地帯の岩手へ、そしてひとけのない青森で暮らす東京と変わらない若者たち。東北本線がグラデーションとなって上野と青森を結んでいる。700キロという距離には連続した営みがある。しかも限りなく遠い。
 何度も見慣れた青森駅前ではあるが、今夜の青森は今までとは違う青森に感じる。ニューヨークに降り立つ気分とそれほど違いはないと思いつつ、空いた腹に入れるものを求めるため、僕はシャッターの閉まった目抜き通りを歩き始めた。
(走行距96.0㎞ 1時間31分 通算735.6㎞ 13時間59分経過)




2012年5月16日水曜日

足尾銅山観光のトロッコ

ラックレール仕様のトロッコ列車

 日本における公害事件の嚆矢とも言える足尾鉱毒事件から100年余りの年月が経ち、足尾銅山そのものが閉山してからも40年近くが経過した。現在は足尾銅山観光として通洞抗跡をトロッコ列車で観光する施設になっている。
 足尾銅山といえば、田中正造の活躍によって、世間ではすっかり悪玉扱いであるが、勿論現地ではそのような負の遺産に触れることはなく、もっぱら近代日本を支えた産業遺産として展示されていて、400年間にわたる歴史と1234キロにも及ぶ坑道のスケールが強調されている。その展示観光場所に導くのが、トロッコ列車であり、この観光の大きな魅力となっている。
 通洞抗入り口へは、一旦急坂を下って行かなくてはならない。機関車が下側に付き、観光客を乗せるトロッコを数両連結している。左上の写真は、トロッコを先頭に列車が急坂を登って来たところである。
 レールの間には登山鉄道と同じように、滑落防止のためにラックレールが設置されている。日本ではラックレールといえば、かつて碓井峠で活躍し今も大井川鉄道で利用されているアプト式が有名だが、こちらのものは2枚の鉄板の間に円筒形のピンを挟み込んだ形式であり、アメリカのワシントン山にあるマーシュ式に近い感じである。ただ、マーシュ式自体は枕木に固定するためにL字型の鉄板を用いている。銅山観光では強度を増すためにコの字型の鉄板で挟み込むようになっているので、その点はスイスのリッゲンバッハ式に近い。リッゲンバッハ式は歯車との噛み合わせを確実にするためであろう、円筒形のピンは用いない。従って、ちょうど両者の中間的な形式といえるのではないだろうか。

詳しくは「講座 スイスの鉄道」 ※2017/8/31をもって閉鎖しました。
 http://home.att.ne.jp/red/swiss-rail/Contents/FrameSetswiss.html 

 ラックレールそのものは、急坂の部分だけに設置されている。銅山観光入り口にある駅、機関車付け替えの中間駅、通洞抗内の駅それぞれは水平であり、ラックは設置されていない。入り口駅の先から中間駅の手前までがラック区間である。その長さは数10㍍でさほど長いものではないが、ラックレールそのものが珍しい日本では、興味深いいくつかの点が観察できる。

 通常の区間からラック区間に進入する部分は、機関車の車輪に取り付けられた歯車をラックにかみ合わせねばならない重要な箇所である。歯車を確実に破損させることなく噛み合わせるのは容易ではないという。エントランス部分には、少しでも摩擦を減らすために大量のグリスが塗られており、しかもラック部分が上下に可動式になって車輪側の歯車を受け止めるようになっている。

 観光という遊戯施設ではあるが、中間駅では登坂用機関車を切り離し、通気の悪い坑道内でも安心なバッテリー式機関車に交換する。乗っている観光客は、トロッコ列車があっという間に終わってしまうので少々拍子抜けするようだが、山岳鉄道ファンには心憎いばかりの演出で思わずニンマリとしてしまうのである。


(2012/5乗車)

2011年8月29日月曜日

箱根登山鉄道の魅力 1/2

箱根登山鉄道と小田急

 箱根登山鉄道は東京からも近く、変化に富んだ車窓風景や珍しいスイッチバックがあることから、鉄道ファンばかりでなく多くの人々から愛されている鉄道である。かつて箱根登山鉄道の見どころ・楽しみ方をまとめたことがあるので、そちらも読んでいただければ幸いである。


※2017/8/31 閉幕しました。

 2006年までは、小田原・箱根湯本間に狭軌の小田急が乗り入れていたので、標準軌の箱根登山と軌間が異なるために珍しい三線区間となっていた。現在は路線としては箱根登山鉄道のままながら、営業運転はすべて小田急車両となってしまい、幅広い登山線用のレールのほとんどは撤去されてしまった。ただ箱根湯本の一つ手前の入生田に登山線の車両基地がある関係上、今でも入生田〜箱根湯本間は昔ながらの三線区間である。カーブにさしかかると脱線防止用の線路も加わるため、大変賑やかな線路模様となる。次の映像は、入生田手前のところから箱根湯本までの前方車窓である。カーブを曲がると電車車庫が現れ、三線区間が始まる。複雑なポイントなど見所は多い。
(2011/8/29撮影)

箱根登山鉄道の魅力 2/2

箱根登山鉄道前方車窓 
 
 強羅からの登山電車は、出山の信号所でスイッチバックするとすぐに80‰(80/1000、つまり1000㍍進むと80㍍の高度差がある坂)の下り坂で高度を下げながら二つのトンネルをくぐり、進路を180度反転して出山の鉄橋を渡る。更にトンネル内で再び下り坂となって、一路箱根湯本を目指すことになる。湯本には小田急のロマンスカーVSE新宿行が待っている。

出山信号所松山トンネル



松山トンネル早川橋梁(出山鉄橋)



箱根湯本駅到着

(2011/8/30撮影)

2011年1月6日木曜日

おろちループとスイッチバック


山岳鉄道の聖地 木次線を訪ねる
 山岳鉄道愛好家なら誰でも一度は訪ねてみたいと思う路線がある。島根県の宍道から広島県の東北部、備後落合に抜ける木次線だ。八岐大蛇で有名な斐伊川を遡り、松本清張の『砂の器』で複雑な謎解きの発端となる亀嵩(かめだけ)や日本を代表するソロバン生産地、雲州算盤の出雲横田を通って、奥出雲地方の最もはずれに位置する出雲坂根で、ついに立ち塞がる中国山地に行く手を阻まれるローカル線である。 出雲坂根から標高727㍍の分水嶺に近い三井野原までの間には161㍍の標高差がある。直線でわずか1.3㌔程の距離だからそのまままっすぐに結べば124‰(12.4%)の坂道になる。自動車道路でもふつうだったら造らない急坂であろう。ましてや坂に滅法弱い鉄道だから長いトンネルを遙か先の油木辺りまで掘り抜けばよいはずである。そうすれば終点備後落合も目前となる。ところが出雲横田から備後落合の間は一日にわずか3本、上下併せても6本の列車しか走らない超閑散路線ということもあって、採った方法は行きつ戻りつよじ登る三段式スイッチバックと6.4㌔に及ぶ大迂回路だったのである。山岳鉄道好きならば一度は訪れなければならない聖地と言える。

 余談ながらこのような超赤字路線が廃止の憂き目を免れたのは、ここに満足な自動車道路がなかったからである。そもそもこんな僻地だから多額の資金を投入するほどの需要もない。「どうだ、鉄道の有難味がわかったか」と自慢したくなるところだが、平成4年に「奥出雲おろちループ橋」が完成したのは地元の方々には慶賀なこととお喜び申し上げるものの、一介の愛好家としては実に無念ではある。しかも名前にもあるように山岳鉄道の華、ループで山を駆け上るとは実に怪しからん限りである。

 さて長年夢見ていたこの聖地を訪れるチャンスがついにやって来た。寝台列車愛好家でもある私にとって、東京駅からブルートレインが全滅したのは寂しさの極みだが、唯一残るサンライズ瀬戸・出雲号に乗って、新幹線では味わえない豪華でプライベートな旅をしてみようということになったのである。仕事の都合から現地で宿泊する時間はない。どうせなら瀬戸号で高松、あるいは出雲号で出雲市まで完全乗車するのが望ましく、両方利用して東京から往復すれば、出雲市・高松間に木次線も含められそうである。

 ということで時刻表を調べることとなった。一日3本の超ローカル線なので、接続にはかなりの制約がある。本来なら宍道から備後落合に向かって山を登りたいところだったが、サンライズ出雲を宍道で降りてしまうと宍道・出雲市間のわずか一駅間が未乗車区間になってしまう。宍道発は1121分なのでそのまま出雲市に958分に着いたあと折り返しも可能だったが、朝食はどうしようかと考えているうちに妙案が浮かんだ。

 サンライズ瀬戸で728分に高松に着き、1855分出雲市発のサンライズ出雲で東京に戻る。朝は高松で讃岐うどんに舌鼓を打ち、夜は出雲で割り子蕎麦をたぐりながら酒を飲む。我ながらいい企画だと思っているうちに、肝心の木次線は二の次になった。であるからに、木次線の旅は備後落合から中国山地の分水嶺に向かい、更に山を下って宍道へ行く行程となったのである。



芸備線で備後落合へ
 備中神代で電化された大動脈、伯備線に別れを告げた芸備線の気動車は、保守の行き届いていないレールの上を大きく車体を揺らせながらも快調に走っていく。中国山地と並行して走る中国自動車道と付かず離れず進む備後落合行は、キハ120型の新型ワンマンカーである。新見からは午前中で学校を終えた女子高生が多く乗り込み、各駅に停車するごとにすこしずつ降りていった。最初は女子高生ばかりかと思ってよく見ると同じ数ほど男子学生も混じっている。ここでも元気なのは女子高生ばかりだなとつい笑ってしまう。そろそろ元気のないダメな日本は、その改革を元気な女性に任せた方が良いのではないかと真剣に考えてしまう。一方で元気なのは高齢者である。私が座っているロングシートの対面では先ほどから70歳前後の男性が連れ人に大きな声で話をしている。「姥捨」だとか「立野」とかいう言葉が耳に飛び込んでくる。どうやら同好の士であるようだ。山岳鉄道の風光明媚な場所に行ったことがあるという自慢話なのだが、ああいう周囲の目を憚らぬ態度は鉄道愛好家としては失格である。その点私などは実に慎ましく外の風景を楽しんでいる。本当は運転台の横からカメラで前方に伸びる線路を狙いたかったのだが、高齢愛好家とはまったく別の男性が先程から運転台脇にかぶりついてビデオを回している。実に嫌な予感がしてきた。ひょっとしてみんな考えることは同じ? 真冬の木次線に乗りに来たのではないか。
 鉄道愛好家であることに気恥ずかしさが全くないかと問われれば、ないとは決して言い切れない。勿論好きなことをしてどこが悪いなどと居直る無骨な神経もない。人目を気にするシャイな愛好家だからこそ、鉄道の旅は一人旅と決めているのだ。
 ところでローカル線の列車が遅いのは何も馬力不足のためだけではないようである。中国自動車道と別れを告げて、中国山地の山懐に入っていくにつれて次第に線路は渓流の流れに沿って蛇行するようになる。いかにも落石の恐れや路盤の危なげな箇所を列車は進んでいる。線路脇の標識を見ると、30㌔制限の標識が至るところにある。中には制限15㌔の箇所まであるし、なんと「雨の日は更に5㌔マイナス」となっている。風で減速は聞いたことがあるが、雨で減速などというのは初めてである。それほど危うい路盤の上をそろそろと列車は進んでいく。それでも私が乗車しているキハ120型は軽量車両なので制限が緩いのだそうだ。標識にそう書いてある。一般企業JR西日本にしてみれば、金ばかりかかって儲けの少ないローカル線は一刻も早くなくしたいに違いない。おそらく最低限の保守に切り替えて経費を切り詰めているのだろう。
 その様なわけで、列車は恐々と悪路を徐行しながら進んでいく。雪も深くなってきた。なかなか進まない列車に油断したのか、先ほどから先頭でビデオを回していた愛好家が席に座ってしまった。チャンス到来という思いはおくびにも出さずに、シャイな私は少し間を置いてからゆっくりとカメラ片手に運転台脇の特等席に立つ。そして間もなく、雪間から備後落合が見えてきた。真っ白な世界に、雪で埋もれながらもかろうじて前に進んでいく2本のレール、その先に場内信号とホームと乗り継ぎの気動車が1台見えてくる。他はなにもない。わずかに人家があるはずだが、白い世界に埋もれてしまって、そこには備後落合駅だけがあった。いい駅だ。
 備後落合は芸備線の途中駅であると同時に木次線の終着駅でもある。途中駅といっても全線を直通する列車はなく、備後落合で乗り換えて次の乗換駅三次に向かうことになる。だから、一度に3列車がここに集結し、人を入れ替えて、また3方向に散っていく場所なのである。多くの同乗者はホーム向かい側に停車していた三次行に乗り換えた。鉄道愛好家達は雪に覆われた駅と気動車を物珍しげにカメラに納めている。先ほどの高齢愛好家は三次に向かうのだという。乗り合わせた乗客が皆、木次線に向かうのではと言う危惧は無用だった。こんな寒い時期に更に僻地へ向かう物好きなどそう多くはない。出雲横田行の気動車に乗車したのはわずか5名だった。

天孫降臨
 1425分、この日の2番列車が軽快なエンジン音を響かせながら備後落合を後にした。次は1750分の最終である。しばらく三次方面に続く芸備線と併行して走り、その後すぐ
に進路を北に向ける。いよいよ中国山地越えだ。備後落合は標高480㍍ほどだから、これから距離にして10数㌔を250㍍ほど上っていくことになる。人家のない谷間を往来もまれな道路と寄り添いながら進んでいく。この道を東城往来と呼ぶのだそうだ。備後と周辺諸国とを結ぶ四通八達した街道が昔からあり、ここはその一つ出雲と結ぶ道である。時折車も通るが、その数はきわめて少ない。雪が更に深くなる。
橋の向こうに雪よけトンネル
 分水嶺のある三井野原からがいよいよ木次線最大の見せ場、山岳鉄道愛好家の聖地である。ここは日本神話八岐大蛇の舞台でもある。ここから下った地が出雲であるから、三井野原は高天原に準えられる。これから天孫降臨のように豊葦原中つ国に降っていくかと思うとワクワクする。まず目の前に飛び込んでくるのが真っ赤なアーチ橋三井野大橋で、奥出雲おろちループ橋と一体になって東城往来を天上界から地上界へと結びつけている。我らがキハ120型は上空からゆっくりと見下ろしながら進んでいく。辺り一面は雪で埋まったモノトーンの世界である。吹き上げる寒風のため車窓が白く曇る。やがて奥出雲おろちループ橋の雄大な円弧が見えてくる。豊葦原中つ国へはつむじ風のようにして降りていかねばならないあちらと違って、我々はこれから大きく東に進路をとり、いくつかの隧道を抜けて再び進路を西に変えループ橋の向こう側まで行くことになるが、雪に埋もれて行く手は見えない。しばらく時間が経過し冬枯れの木立を抜けると目の前にコンクリートの柱、ループ橋の橋脚が見えてきた。だいぶ中つ国に近づいたようである。ループ橋の向こうには先程通過してきた高天原の雪よけトンネルが見える。鉄道愛好家は自分が通ってきた線路が見えるとなぜか心が熱くなるものである。そしてしばらく進むと今度は左側の眼下に線路が見えてどんどん迫ってくる。いよいよ三段スイッチバックの始まりだ。こみ上げる感動は更に頂点へと高まっていく。
 前方スイッチバックの分岐点は、ポイント凍結防止のために切妻屋根のついた木造小屋で覆われていた。雪の風情にぴったりである。小屋を抜けて列車はゆっくりと停車した。一段目が終わると、急ぐわけでもなく運転士はマスコンハンドルを抜き、後ろの運転台へと向かう。車内にいた他の乗客は午後の気怠い時間を朦朧と過ごしているが、私だけは興奮の中にあった。ここからわずかの間、列車は逆方向に進んで降りていく。さあ、また先頭で見るぞと思って愕然とした。運転台の前を除き、雪が付着した窓から前はよく見えなかったのである。ぼやけた小屋、うっすらとしか見えない分岐、いい写真が撮れないなと少し残念だったが、これが真冬の鉄路の旅なのである。
後ろにアーチ橋
 ゆるゆると進む列車の右側下から線路が近づき、ポイントどうしが交差して出雲坂根に到着した。これで二段目終了。ここには有名な延命水があるが、寒いし誰も降りないのでまたの時にしようと思う。一歩だけ外に出て駅の行き止まり前方を見上げると、先程見下ろしてきた三井野大橋の真っ赤なアーチが小さく見えた。161㍍の標高差を実感した瞬間であった。
宍道にて
 この先列車は再び反転して三段目の坂をゆっくりと豊葦原中つ国出雲へと向かっていく。宍道まではまだ遠いけれど、出雲に着けば蕎麦と酒が待っている。次第に暮れていく風景を見ながら、もう一度ここに来ようと思うのだった。(2011/1/6乗車)