2014年8月26日火曜日

北海道乗り尽くしの旅③


帯広から新得へ

早朝の帯広駅
 8月27日晴れ。今朝の帯広の気温は13度。肌がピンと張り詰めるような清涼感は格別だ。東京でいえば初冬の感じである。人通りの少ない早朝の街を駅まで歩く。駅前はホテルばかりでやや賑やかさに欠けるが、十勝地方の中核都市にふさわしくJRの駅舎はかなり立派な作りで、ショッピング街が東西に分かれ、どちらも小振りながらも地元の人や観光客が利用しやすいように整えられている。帯広名物の豚丼が食べられる店は、さすがにこの時間は閉まっているものの、昨晩は多くの人で賑わっていた。テイクアウトして食べてみたが、豚ロースの焼き肉とご飯に甘辛のタレがからまって、人気の秘密がよくわかった。店によって肉の部位にバリエーションがあるようなので、食べ比べが楽しそうだ。
よく見ると橋桁には十勝の風景が
描かれている。
        
 ところで帯広の駅のすぐ隣にはコンクリート製のなんとも存在感ある斜張橋がある。どうしてこんな大掛かりな?と思うが、それはホームに行くと納得する。幅の広い帯広の道路の上にホームに接した4本の線路を高架で渡すには、構造上橋桁を吊る必要があったのである。市街地のため騒音対策上コンクリート製の斜張橋を選んだのだろう。経年変化ですこし汚れてきたなと思ったら、それは橋桁に描かれた日高の山並みと森林だった。ちょっと申し訳ない気持ちになる。
ホームに接した斜張橋
列車は札幌行スーパーとかち
 池田からの滝川行普通列車が3両編成でやって来た。またもや高校生列車だ。キハ40は走り始めると排気ガスが車内にはいってきた。体には悪そうだけれど、ローカル線気分が盛り上がる。しばらく高架線が続いていて、帯広の街の広さが実感される。遠くにはこれから向かう日高山脈が連なっている。きょうの車窓風景は右が良いと予想したが、あきらかにこの時間は順光の左がいい。車内が混んできたので移動は諦めるしかない。芽室でまた沢山の高校生が乗り込んできて、私が座るボックス席にも2人の高1生が「空いてますか」と一声掛けてきて腰を下ろした。座ると一人は黙ってスマホをいじり始める。この光景は日本全国どこも変わらないが、驚いたことにもう一人はノートを開いて勉強を始めた。気がついてみるとあちこちで勉強している。感心、感心!
 車内の殆どの生徒は同じ学校と見えて似た制服を着ている。半袖シャツ姿、ネクタイ着用派、上着まで着用とてんでバラバラだが、明らかに同じ生地、同じ仕立ての制服である。ここの気候では柔軟性が必要と見える。大半は十勝清水で下車した。
 降りる際に「レナ、バイバイ」と言われた高校生は新得までの乗車。残った高校生たちの方は少し行儀が悪いが、先程の高校生が出来が良すぎたのだろう。
 新得で高校生が下車してしまうと、車内はガラガラになってしまった。狩勝峠を越えると生活圏が変わるので普通列車の需要は多くない。お約束の車両切り離しが行われ、この先は単行ワンマン運転になる。

日高山脈を越えて富良野へ
 たった乗客4名を乗せて列車は出発した。運転手が替わり、明るい真面目そうな人になった。指差喚呼も丁寧に行っている。こういう人にとって見れば、昨今のJR北海道の失態は辛いことだろうなと思う。
 新得は2年前に訪れて名物の蕎麦を食べたところだ。見覚えのある駅前風景が懐かしい。ここから落合までの狩勝峠越えは、運転台の後ろやドア窓など、あちらこちらに移動しながら存分に楽しむ。空いているので、人目も気にならない。


<狩勝峠越え>
切り離し作業を終えて引き上げる作業員 新得駅で


新得を出るとすぐにトンネル、入り登りとなる

農耕地の中を登っていく

風雪除けのフェンスがあちこちに

大きく迂回しながら登坂するのできつい坂ではない

十勝平野は広大だが、高度感は今ひとつ

駅間が長いためいくつも信号場がある

新狩勝トンネル新得側入り口

石勝線側出口からの光

落合側出口
 車窓からは十勝平野が見渡されるが、今ひとつ高度感が足りない。しかし日高山脈を越えていくための大迂回は見どころ十分だ。駅間が長いために随所に信号場があって列車交換が可能となっている。
幌舞は終着駅という設定だった。
 新狩勝トンネルは、トンネル内で石勝線と根室本線が合流する珍しい構造になっていて、石狩側には2カ所の出口がある面白いトンネルだ。運転台の後ろからこの構造をしっかり見させてもらった。石勝線側は出口こそ見えないが、外の光が壁を浮かび上がらせている。トンネル内に上落合信号場がある。この辺りの信号場には分岐器上に必ずスノーシェッドが設置されているので、保線の都合上トンネル内に信号場をつくるほうが効率的だったのだろう。
夕張山地の最高峰。綺麗な 鋭峰が
印象的。           
 落合の次、幾寅は映画『鉄道員(ぽっぽや)』のロケ地となったところである。映画は、架空の駅「幌舞」を舞台に、鉄道一筋に愚直に生きる高倉健が、仕事一筋ゆえに死に目に会えなかった娘の亡霊に慰められながら大往生を遂げる名作だ。それにしてもホロマイはいかにもありそうな名前だが、イクトラはいかがなものだろう。こちらの方があり得ない地名に思えてしまう。
 釣り人が楽しむ金山湖を過ぎ、富良野の盆地に入ると正面に見える尖った山は芦別岳で、ここでも車窓は左が美しい。
ようやく姿をあらわしたものの
山頂は雲の中。       

 右側に席をとったのは金山湖や十勝岳を楽しみたかったからだが、40年前に訪れた時に比べ木々が生い茂った金山湖はなかなか姿を見せず、十勝岳も手前の里山に阻まれてようやく姿を現したのは、最後の最後、富良野到着直前だった。次回乗るなら左だ。


根室本線(島ノ下→野花南13.9㎞)・・残りあと3路線

 根室本線には以前から未乗区間が残っていた。富良野の次、島ノ下・野花南間の13.9㎞である。ほぼ全線トンネル区間だ。1991年滝里ダム建設のため新ルートに切り替えになり、旧滝里駅は今湖底に沈んでいる。今回はこのトンネルをくぐりに来たというわけだ。トンネルでは景色も楽しめず、アホくさいと思いつつ、無事完乗! 
釧路行
 野花南(のかなん)駅で列車交換となる。やって来たのは同じキハ40だが、あちらはとても有名な列車だ。滝川発の各駅停車で、鈍行最長運転時間を誇る2429D釧路行である。滝川を9:37に出発し、釧路に17:39に着く、8時間2分の長旅だ。完乗の満足感よりも、珍しい列車に出会えたことの方がワクワクする。運転距離は308㎞。現在距離として最長鈍行は、岡山から新山口まで走る電車で、316㎞を5時間45分かけて走破する。釧路まで乗り尽くす人は一体何人乗っているだろう。もちろんそんな物好きはファン以外にありえない。
滝川にて
 芦別からは田園風景が一変して、稲作地帯に入る。滝川に近づくと、正面に暑寒別の山々が見えてくる。あの向こうは日本海だ。なだらかな丸加高原を過ぎ、列車は函館本線と合流してまもなく滝川駅1番線ホームに到着した。滝川は帯広とはうって変わって夏模様。からりと暑い。上空をグライダーが旋回していた。
(2014/8/27乗車)

北海道乗り尽くしの旅④

修行のような

 未乗区間はあと2つ、最後に残ったのは札幌の市電と地下鉄だ。地下鉄は3路線あるので正確には4路線なのだが、この際一括りで考える。正直言って乗りたくて乗るのとはちょっと違う。たいへんバカバカしい話だが、完乗のために乗らなくてはならないという、<悲壮感>あふれる話であり、まさに修行のようなものなのだ。

 まず、地下鉄から片づけよう。
 札幌の地下鉄は、南北線・東西線・東豊線の3路線が大通を乗換駅として6方面に広がっている。これが厄介で実に攻略しづらい。行って帰ってこなくてはならないから、結局すべて往復する必要がある。しかもほとんどが真っ暗なトンネルの中だ。乗る前からうんざりする。

南北線(さっぽろ→麻生-14.3km→真駒内→自衛隊前→すすきの)

緑豊かな真駒内
駅の前方にはシェルターが続く
 南北線はオリンピック開催時に開業した札幌で最初の地下鉄だ。その夏、真新しい地下鉄に乗って真駒内まで行ったことがある。
 その年の夏は、涼しいはずの北海道がとても暑く、ほとんどの鉄道には冷房がなかったので、気動車や蒸気機関車中心の旅は随分しんどかった。そのような中、札幌地下鉄の各車両には風鈴が吊り下げられていて、涼を呼んでいるのが爽やかで印象的だった。あのころの緑色の車両は既にみな廃車となったが、冷房が装備されていないのは今も同じだ。でも風鈴は吊されていない。大都市札幌の混雑状態から見れば、仕方のないことだろう。
 
自衛隊前にて
まず麻生(あさぶ)に行く。これで南北線はあっさりと制覇。一旦改札を出て地上まで階段を昇る。ランドマークになるようなものは
なく、店と住宅とバス通りのある平凡な風景である。すぐに戻って真駒内行に乗車する。大通公園を通過し40年ぶりに真駒内へ行く。未乗区間ではないが、札幌地下鉄唯一の地上区間だから、車窓が楽しめるので引き続き乗車する。地上区間の特徴は、冬の積雪から守るために高架部分がすべてシェルターになっていることだ。ここからは乗り心地が悪くなる。高架の構造がかなり柔構造になっているため、揺れが増幅するものと見える。タイヤ走行の札幌地下鉄は、やはり鉄道というよりは道路とバスのようだ。とにかくよく揺れる。

札幌市交通局路面電車(すすきの→ロープウェイ入口→西四丁目8.4㎞)・・残り2つ

すすきの停留所
 すすきのに戻って、市電に乗り換える。
 市電にはかつて乗ったことがあるような気もするが、記憶がはっきりとしない。観光客にとっては藻岩山へ行く際に利用する位しかないので、登ったことのない自分には利用した理由は見当たらないのである。この際だからついでに藻岩山にも登っておこう。少しはモチベーションを上げようという作戦だ。
 札幌の市電は始点と終点とがわずか400mしか離れていない。近い将来、かつてそうだったように、再び結ばれるという。そうなれば環状運転が可能となり、利便性が増すだろう。しかも低床式の新型車両も導入した。今なにかと話題の路面電車なのだ。
眼下に札幌の街が広がる
 すすきのから乗車し藻岩山に向かう。乗りながら、改めてこれには乗ったことがあるなと感じた。しかし、時期や目的は相変わらず不明である。すすきのにある東急インに泊まった際に違いない。記憶の奥底で繋がってきたが、目的が思い出せない。印象は希薄だ。一瞬だが、新型車両がすれ違う。いかにも路面電車である旧型とは著しい隔たりを感じる。オシャレで軽快。市民には朗報だろう。

藻岩山ロープウェイ・もーりすカー

もーりすカーは
ケーブルの一種
 ロープウェイ入口で下車。降りてすぐのところに無料シャトルバスの停留所がある。これは嬉しい。15分間隔で送迎がある。この先ロープウェイも15分間隔、もーりすカー(ケーブル式昇降機)も15分間隔。微妙な待ち時間があるので、往復には2時間ほどかかり、陽もだいぶ傾いてきた。ロープウェイ入口から西4丁目まで市電に乗って、市電制覇。
市電
 考えても見れば今日は朝から休みなく乗り通しで、昼食もとってなかった。歩いてすぐの大通公園でとうきびでも食べようと思う。甘辛のしょうゆだれを選んだのは、以前食べた時にそれほど甘くておいしいなとは思わなかったからだが、やはりこれくらいの味付けがあった方が食べやすいトウモロコシだった。腹の足しにはなるから、まあいっか。

東西線(大通→宮の沢-20.1㎞→新さっぽろ)

 地下鉄乗車を再開する。次に目指すは東西線の宮の沢である。3路線の中で最も長い東西線の走破がもっとも憂鬱だった。5時を過ぎ、ちょうど帰宅ラッシュが始まったところである。目の前に座ったのは、札幌の名門私立の中学生3人。なかなかしつけもよろしい感じで、スマホでゲームをする高校生とは明らかに違う。駅に停まるごとに別れを告げて行儀よく降りて行った。
 琴似を越えて終点は宮の沢。ここでも改札口を出て、動く歩道付きの長い地下道を通って、ようやく長いエスカレーターにたどり着き、地上に出る。そこは大きなビルの一階に設けられたバスターミナルだった。人々がここからバスに乗り継いでいく。札幌は大きな街なのだ。通勤通学も楽じゃない。
 また引き返して、新さっぽろ行に乗る。ガラガラだった車内も大通公園からは混雑してきた。それにしても、なかなか終点には着かない。飽きてきた。新さっぽろから大通に戻るのが苦痛になってきた。修行だと自分に言い聞かせても、我慢の限界である。片道だけなら我慢もする。往復はうんざりだ。その時、新さっぽろからはJRで札幌に戻り、そこから最後の東豊線に乗ればいいことに気付く。外は暗くても景色は見える。早速このアイディアに飛びついた。

JR(新さっぽろ→札幌)

 新さっぽろはすべての特急が停まる主要な駅である。ちょうど新千歳空港発旭川行の快速がやってきた。札幌からは特急スーパーカムイ37号になる列車なので、3扉車ではなく、2扉の特急電車車両である。途中駅には停まらない。混んではいたがデッキで過ごす。夜のとばりが降り始めた札幌の町を猛スピードで突っ走る。車端のため揺れもひどい。ふと保線状態は大丈夫かと頭をよぎる。無事札幌駅に到着する。

東豊線(さっぽろ→栄町-13.6km→福住→さっぽろ)・・ついに最後の1路線

福住駅にて
 いよいよラストの東豊線。札幌で一番新しい地下鉄だ。ただ東豊線の以後に東西・南北線車両は更新されたために、車体のデザインは同じでも車内のサインシステムは東豊線の方が古い。まずは栄町へ向かう。改札を出ると今日訪れた終点の駅では一番地味な感じの十字路が目の前にあった。ここからは丘珠空港が近いらしい。すぐに別の入り口から改札口へ向かい、福住行に乗る。ひどく疲れていた。ただ目で追っているのは駅名と路線図、「あとなん駅で終わる!」それだけを考えていた。
 そしてついに完乗の時は来た。電車が福住に到着し、重たい頭で特に感慨もないままにふらふらと改札口を出る。地上に続く通路を歩きながら、何となく色とりどりの壁を眺め、ふとその刺激の中でこれは何だろうと貼られたポスターのひとつに目が留まった。この地上に続く地下道はポスターや旗で飾られていたのである。それを見て、ここが日ハムファイターズとコンサドーレ札幌の本拠地、札幌ドームの最寄駅であることを初めて知った。試合のある日はファンやサポーターの熱気でいっぱいになるはずの連絡通路には、選手たちの写真がたくさん飾られている。エスカレーターに乗るとイトーヨーカドーの入り口があり、大きなショウウィンドウにはコンサドーレのユニフォーム、Tシャツやグッズが所狭しと展示され売られている。福住は祝祭の街であった。フィニッシュを迎えるのにこんなにふさわしい駅はない。色とりどりの飾りを眺めながら、じわじわと湧き起こる達成感に浸ることができた。
(2014/8/27乗車)


北海道乗り尽くしの旅・・終章

札幌をあとに


札幌JRタワー
 北海道を離れる時が来た。居酒屋に立ち寄り、日本最北端の酒・増毛の国稀と、日本最東端の酒・根室の北の勝で祝杯を挙げた後、青森行急行はまなすに乗るために札幌駅に向かう。北の玄関口札幌駅は見違えるように立派な駅になった。JR北海道の主要駅は近年立て替えが進んで意匠を凝らしたものが多く、利用者の目を楽しませてくれる。函館、旭川、岩見沢、そして今回訪れた帯広など、どの駅も個性的な街の顔となっている。札幌の顔は道都にふさわしい堂々とした風格と新しさとを兼ね備えている。ここから北海道の各地へ向けて列車が出発するだけでなく、遠く大阪や上野、青森とを結んでいるかと思うと、駅という存在の重みが改めて感じられてくる。
急行はまなす
 それにしても北海道を乗り尽くすまでには40年かかった。今回は15回目の北海道訪問となる。旅をマイカーに替えた30代から40代にかけての17年間は、私にとっては鉄道旅行空白時代であった。その間に全国の赤字ローカル線は次々と廃止になり、かつて乗車した天北線・興浜北線・興浜南線・渚滑線・標津線は今はもうない。JR北海道は当時から見ればスカスカの路線網しか擁さないが、それでも全線走破には時間がかかるものだ。
 これから乗ろうとする急行はまなすはおそらく来年の今頃はないだろう。北斗星もカシオペアもトワイライトエクスプレスも、みんな姿を消そうとしている。この日本から定期夜行寝台列車がなくなる日は近い。乗り尽くした北海道を離れるにあたって、その最後を寝台列車で締めくくることは、この旅を計画した当初から念頭にあった。朝目覚めた時には、北海道を離れている。悪くない帰り方だ。
DD51
 指定された寝台は1号車1番下段。一月前の10時ちょうどに予約したので一番だった。デッキに出ると、前方の窓には牽引する青いDD51が見える。北斗星塗装のディーゼル機関車である。北斗星とは違ってゆっくり走るので重連ではない。
 再び車内に戻って廊下に組み込まれた座席を下ろし、後ろに過ぎ去っていく札幌の街を眺める。余市のウイスキー竹鶴を口に含みながら、車輪がレールを刻む音を楽しむ。機関車が牽引する客車列車は、モーター音やエンジン音がしないだけに、タタタタンという音だけが心地よく響いてくる。寝台列車は遮音性にも優れているから尚更なのである。この雰囲気ともお別れだ。列車の揺れに合わせて酔いも回ってきた。寝台に潜り込もう、今晩は7時間睡眠できそうだ。

 青森に近づく車内アナウンスで目が覚めた。周りの人たちはもう下り支度を済ませている。途中一度も目を覚ますことなく朝を迎えた。函館でスイッチバックしているので、今1号車は最後尾になっている筈である。早速カメラ片手に行ってみると、デッキには誰もいなかった。急行はまなすは津軽半島の稲作地帯を疾走している。どんどん景色が後ろに飛び去って行く。北海道は遠くなったが、まだ余韻の中を列車は走っている。そんな旅が私は好きだ。
(2014/8/27〜28乗車)

2014年8月7日木曜日

越後平野行ったり来たり

米どころ酒どころ

 新潟といえば米どころ酒どころ、豊かな土地だと長年思っていた。上越新幹線が長岡を過ぎると一面に田園がひらけ、その後ろには弥彦がデンと鎮座ましましている。夏の新潟は限りなく光溢れて熱く、広々とした穀倉地帯は北海道にも引けを取らない。稲はもともと熱帯性の植物だから、とてつもなく熱い夏の新潟こそ米作りに最適な土地だというのも納得がいく。どんなに冬が雪深くとも。
 会津から只見線で小出に抜ける際にも、福島側がいかにも寒村風景なのに対して、新潟側は雪深い冬対策がしっかりなされた屋敷に変わり、豊かな新潟を実感できる。ブランド米は宝の山、農家の人が聞けば苦労を知らない都会人の戯言に聞こえるだろうが、これが車窓愛好家の素直な思いだった。しかし、今回の旅をとおして、それは上っ面しか見ていない狭い了見であることを痛感した。

新潟駅をめぐって

 弥彦線と越後線に乗れば、新潟乗り尽くしの旅は終わる。八月上旬の昼下がり、新潟駅に下り立った私は、今までとはひどく違った印象を抱いていた。最初のキッカケは越後線吉田行の列車の窓が余りにも汚いことだった。長年使い回した115系電車の窓には、赤茶けた鉄錆がビッシリと付着して、快適な車窓など望むべくもなかった。
 やれやれと思いつつも、電車が出発すれば車窓に釘付けになり、西に向けてしばらくの間新幹線と併走する。ところで新潟駅の構造は少し込み入っていて、なんと東京へ向かう新幹線と東京方面へ向かう在来線は正反対の方向に進んでいくのである。これは実にわかりにくい。さらに秋田・青森方面と在来線の東京方面が同じ方向だというのもわかりにくい。もともとは日本海と平行に配置された東西に伸びるのスイッチバックの駅だったと言えば、少しイメージできるだろうか。大河信濃川を避けて在来線は敷設されたので、東北方面からの列車も東京からの列車も大きく迂回しつつ新潟駅に進入するのに対して、長大鉄橋を厭わない新幹線は真っ直ぐ西側から進んできて新潟駅で鉢合わせすることになったのである。
  信濃川を渡る。なお写真はイメージ処
理を施し、鉄錆の影響をかなり軽減し
てある。                        
 さて、今乗っている越後線は越後線は越後平野を縦断するからどうしても信濃川を渡らなければならない。ただ新幹線とは違って控えめに渡河するので、橋梁は出来るだけ短く、工費を節約するコースとなっている。そのためすぐに新幹線とは別れ、川と直交するルートを取る。それでも単線ながら堂々とした長大橋である。渡りきったところが白山駅で、かつて新潟交通電電車線の始発駅があった県庁前に近く、いまでも県の施設が数多く集まっている。
 この先越後線はひたすら住宅街を走り、通勤用の郊外電車という風情である。単線ながら各駅に列車交換施設があるので結構列車本数は多く、関屋駅では新型のE127系電車とすれ違った。ただあちらは実用一点張りのロングシート車である。
 どうもJR東日本は、仙台と比べて新潟を軽んじている感じがする。田中角栄元首相の威光によって新幹線を通したところまでは良いが、多くの在来線は古いものを使い回している。新幹線も古い車両が使われ、先程通ってきた新潟駅だって、ようやく高架工事が始まったばかりで、完成まで一体何年かかるのだろう。新潟始発の在来線特急「いなほ」や「北越」は20世紀の花形485系だし。

吉田に集まる電車群

 新潟大学前駅は、交換施設なしの初めての駅だ。大学は一体どこにあるのだろう。レンガ色の大きな建物が見えるが、それはだいがくではなさそうだ。それにしても、このあたりは踏切が少ない。かといって道が立体化されているわけではなく、鉄道が街を分断してしまっている。地元の人はさぞ不便だろうなと思う。
 内野駅で列車交換、また古い115系だ。この辺りは新しい住宅が目立つが、空き地も多くなってくる。そろそろ市街地が終わろうとしている。内野西が丘で田園地帯になった。弥彦も見えてくるが、雲行きが怪しい。山頂には厚い雨雲が乗っかっている。越後曽根駅でまた115系と交換。この先とうとう新型車両と出会うことは一度もなかった。
 巻は鯛車の町だ。郷土玩具の鯛車は各地にあるようだが、今ここでは町おこしに活用されている。それにしてもどうして魚に車などをつけるのだろうか? 鳩車同様、郷土玩具は謎だらけだが、巻の場合は張り子の鯛の中にロウソクが灯されて美しいらしい。まちが真っ赤に染まる情景を復活させるのだというが、それならさぞかし美しいことだろう。
すべて115系 吉田にて
 そうこうするうちに吉田に到着する。ここはこの地区の交通の要衝であり、越後線と弥彦線が交差するところだ。駅構内にはいろいろなカラーリングの115系が集結している。いかにも寄せ集めなのだが、それはそれで見ていて楽しい。セミクロスシートの115系は、寒冷地・急勾配路線対応車両として旧国鉄が開発したもので、普通列車でありながら旅を楽しめる車両である。
115系 吉田にて
 湘南色の越後線からイエローと黄緑の帯の弥彦線に乗り換える。車内はガラガラでボックスシートを独り占めする。外は酷暑だが車内は人もまばらで冷房がよく効いていて快適だ。二両編成でワンマン運転。嬉しいことに窓が綺麗だ。弥彦神社参拝は気持ちよく出来そうだ。

弥彦神社

  吉田を出ると電車は大きく右にカーブして一路弥彦山麓を目指す。午前中までの晴天と打って変わって、雷雨にでもなりそうな雲行きである。終点弥彦に着いたらすぐに参拝して、できれば弥彦山にロープウェイで昇るつもりだ。
弥彦神社をイメージした弥彦駅舎
 さてこの弥彦駅、昨年リニューアルされたばかりの綺麗な駅舎だ。弥彦神社の本殿を模した木造の入母屋造だそうで、さすが越後 一の宮の玄関にふさわしい建物なのだが、折角のこの駅舎も毎日利用する乗降客は300人にも満たないのだという。鉄道が過去の遺物となってしまっている所は、特に地方に多い。モータリゼーションの波の前で鉄道の存在意義は、高校生と高齢者のためだけになってしまっている。
 駅が町の中心地から遠いのはよくあることだが、弥彦は山麓の町で、奥まった弥彦神社にいたる斜面に広がる町のため、平地にある駅から歩くのは一苦労である。これでは鉄道で訪れる人は少ないだろうなと改めて思う。夏休みとはいえ平日の午後4時過ぎ、駅前に人影はまったくない。むせ返るような湿気と熱気の上、今にも降り出しそうな曇天の中、道路を補修する作業員と時折通る車ぐらいしかいない寂しい町の坂道をひたすら歩く。弥彦温泉に浸かって夕食もここでと思って来たが、旅館はどこもそれ程大きくはなく、立ち寄り湯歓迎の看板も入りたくなるような食べ物屋も見つからないので、とにかくまずは参拝ということで弥彦神社に向かった。
神韻縹渺とした境内
 一の鳥居をくぐると、杜に囲まれた参道は静寂に包まれ、むせ返るようだった空気も急に冷えてきた。長い歴史に刻まれた越後国一の宮だけのことはある。低く垂れ込めたそらから神鳴りが落ちるのではないかと思えた。日頃の悪行の数々が思い起こされる。人影もまばらな日常の神の社には、初詣の賑わいでは決して味わうことの出来ない、凡人を神妙な気分にさせる何かがあると思う。これは出雲大社を訪れたときも、鹿島神宮を訪れたときも感じたことだ。きちんとお参りしようと思い、参道の端を歩く。手水舎でまず左手を清める。本殿では二礼二拍手一礼を心を込めて行う。正式な参拝にはなっていないが、自分としてはいつも以上にしっかりと行った。
 弥彦神社の御神体は後ろにどっしりと控える弥彦山そのものである。山頂は厚い雲に覆われて見えないが、雲の切れ目からは豆粒のようなロープウェイが降りてくる。まだ間に合うだろうか。境内の裏手に乗り場行きの無料バスが出ていることを知り、バス停に行くとちょうど森の中から無舗装の道をバスがやってくるところだった。乗っている人は誰もいない。年取った運転手が声をかけてくれた。
「今から行くの?ロープウェイの最終が17時だから山頂で20分位しかないよ」
「でも20分あるんですよね」
「それでいいならね。今日は雲が厚くてなにも見えないよ」
この運転手はロープウェイ関係者なのに、まるで商売っ気がない。こちらは鉄道乗り尽くしが第一の目的だから、こういうときは景色は二の次なのであるが、先方はそんなこちらの事情は勿論わかっていない。ロープウェイを鉄道に含めるか否かにはいろいろ議論はあるわけだが、その時は念のために乗っておこう位の曖昧な気持ちだった。
「ああ、だめだ。雨が降ってきちゃったよ。やめた方が良いよ」
そこまで言われればこちらとしては撤退せざるを得ない。もともと曖昧な決意しかないのだから。
「そうですよね。弥彦からの景色が見えなければ意味がないですね。今度また来ます」
「それがいいよ」
 バスは私を残したまま定刻通りロープウェイ乗り場に向けて発車していった。いい人だ。弥彦は俗人の心を清めてくれる有り難く気高い町である。

直流電化のローカル線


架線に注目!
 一時間に一本しか走らない弥彦線だが、それでも立派に電化されているのには何か訳でもあるのだろうか。八高線の高麗川・高崎間よりも少ない運転本数にしては厚遇されている。有力な政治家がいた場所は随分と扱いが違うのだなあということくらいしか思い浮かばないが、人気のない車内の運転席から前方車窓を眺めていて気付いたことがある。なんと架線がトロリー線一本しか張られていないのだ。これではまるで路面電車ではないか。
 多くの鉄道はパンタグラフに電気を供給するために、まず一本の吊架線(ちょうかせん)と呼ばれ電線を吊(つ)る。電柱と電柱の間をつるので、電線は垂れ下がる。このままでは走行中パンタグラフが上下してしまうので具合が悪い。そこで吊架線からハンガー線と呼ばれる電線を垂らし、その長さを調整することでトロリー線を地面と平行に保つ。これをシンプルカテナリー方式と呼ぶ。ところがここの架線には吊架線もハンガー線もないのだ。これを直接吊架式という。かつて同じものを銚子電鉄でも見たことがあるが、国有鉄道が敷設した鉄道で見るのは初めてである。そうかあ、やはりちゃんと節約しているのだなあと感じ入る。

吉田駅に進入する場面
右から合流するのは柏崎からの越後
線。吉田駅にはホームが3本あり、
5番線まで擁する堂々とした駅だが
弥彦線と越後線がクロスする際、一
瞬だが単線となる。それがネックに
ならない程度の閑散路線なのだ。 
 架線構造は鉄道にとって高速化のカギである。東北新幹線の八戸以北や北陸新幹線は、在来線と同じ新幹線としては節約型のシンプルカテナリー方式を採るために最高時速は260キロ止まりとなっている。弥彦線は85キロ制限なのだという。越後線にも一部この直接吊架式が使われているというが、交通の要衝である吉田駅付近はどこもシンプルカテナリー式になったいた。
 弥彦線のほとんどは弥彦・吉田間、吉田・東三条間で折り返し運転をしている。終点東三条を目指すために吉田からはまた窓の汚い115系のお世話になった。
 電車が吉田の町を抜け、再び田園風景が戻ってくると架線も直接吊架線の戻っていた。沿線で有名な町は燕だ。燕と言えば洋食器、洋食器と言えば燕というくらいに世界中で有名な町だと思っていたら、車窓からはその賑わいは少しも感じ取ることが出来なかった。洋食器に限らず金属加工製品を得意とする中小企業が集まっている燕では、新興国との価格競争に喘いでいるのだという。おまけに人口減少や商店街の衰退というように、厳しい現実がこの地方を襲っている。3キロ先には新幹線の燕三条駅があるのだが、その効果はいかがなものなのだろうか。
 賑わいを感じさせないのは、終点の東三条も同様であった。信濃川の鉄橋を渡ると、電車はそのまま高架線のまま東三条に向かうのだが、高い位置から町並みを俯瞰すると、こちらもあまり元気がない。それならば新幹線の燕三条はどうか。駅前は地方の新幹線停車駅と変らない無個性な風景が広がっている。歩いて5分くらいのところに大手のショッピングモールが進出し、いくつかのビジネスホテルが建っている。そのうちの一つは、昔からある建物の隣に新しい建物が並んで建っていた。ほんの少し離れれば田圃が広がっている。
 上越新幹線が出来て32年、人でいえば一世代の年月が過ぎた。その間にバブルが弾け、リーマンショックが日本を襲い、地方都市は世界経済のうねりの中で翻弄され続けたといえる。30年といえば、建物のリニューアル・建て替えも考えなければならない年月である。新幹線があってもそれだけで活性化されるわけではないことを教えてくれているような気がする。頑張れ、燕。頑張れ、三条。
(2014/8/6乗車)

三度目の吉田通過

燕三条付近は通常の
架線が張られている
 翌早朝、燕三条から乗り尽くしの旅を再開する。弥彦線ホームは巨大な新幹線駅舎の片隅にひっそりと設けられている。地方ローカル線と新幹線が接続する駅は、本当にその落差が大きいのだ。釜石線と東北新幹線の接続駅、新花巻もそうだった。改札口を出て在来線のホームに続く歩廊の途中に改札はない。在来線は無人駅なのである。味気ない高架下に単線片側ホームだけがあるのを想像して見て欲しい。長野新幹線佐久平の小海線ホームは、単線ながら新幹線の上を跨いでいるので開放的で明るいが、高架下はじめじめと薄暗く陰気で悲しくなる。
 無人のホームに、録音された女性の声で「弥彦行電車が参ります」とアナウンスがある。いつもの聞き慣れた声なのだが、妙に人工的な響きに感じるのはどうしてか。東京では慣れてしまって気にならないことが、どうしてここでは気になるのか。その時思ったのは、誰もいなくてもこの録音は流れるのだろうなと想像したからに違いない。都会のホームに人の絶えることはない。その人々に危険を知らせ、乗車の準備を促すアナウンスは必要なことだから疑問にも思わなかった。しかしここはどうだろう。今このホームには私しかいないのである。その私は明日はいない。人がいようがいまいが繰り返されるアナウンスが人工的でなくて何であろう。
 電車は窓の綺麗な501、昨日弥彦から乗車したのと同じ車両だった。燕では朝早くから高校生が十数人乗車してきた。全国のローカル線は高齢者と高校生に支えられている、というか彼らが居てくれるので廃止できないというべきか。徐々に雲が薄くなり、うっすらと弥彦山が見えてくる。田園の中をひたすら弥彦目指して走るのは気持ちよい。吉田に近づくと進路を90度西に変え、架線もにわかにシンプルカテナリーになる。

越後線で柏崎へ

 燕三条ばかりか、駅舎がしっかりしている吉田にもこの時間駅員はいなかった。改札はフリー状態だ。今回の旅は青春18切符を利用しているので、利用開始時には日付の入った改札印を押してもらう必要があるのだが、押印は柏崎までお預けとなる。無賃乗車防止よりも人件費抑制というところに、この鉄道経営の難しさが感じ取れる。
柏崎行が新潟方面からやってくる
 新潟発柏崎行がぐらぐらと車体を大きく揺らしてポイントを通過してやってきた。綺麗な窓の115系だった。吉田を出るとすぐに見事な穀倉地帯となる。一面のグリーンだが、稲穂はほんの少し黄色味がかっている。晴れ上がった空のもと、弥彦の山が綺麗に横たわっている。今から行けば、あのバス運転手さんも歓迎してくれるだろうけれど、時間がない。
さらば弥彦
晴れ渡った空の下、穀倉地帯が
広がる           
 電車は寺泊、出雲崎と良寛さんで有名な所を通るのだが、ここでも駅が町から離れているために、何の変哲もない田舎駅にしか見えないのが残念だ。越後線は海から離れた内陸を走っている。それにしてもよく揺れる。あまりの乗り心地の悪さに胃の中のものが出てきそうだ。
 思えばこれがかつての客車列車の旅は皆こうだった。夜汽車のボックスシートで寝て、起きると頭はガンガン痛く、首も寝違えて痛く、駅売りの飲み物は限られていて、いつも缶コーヒーの飲み過ぎで胃は荒れて散々だった。長い間日本では水はタダと思われており、売られていないものは買えない道理というものだ。今は水が買えるようになって、皮肉なことに大変便利になった。なんだかそう考えるとこの酷い乗り心地も懐かしい。
 西山で5分停車し、がら空きの2両、吉田行きと交換する。その次は刈羽である。巨大な赤白の高圧鉄塔が現れ、電線が森の向こうに消えていく。柏崎刈羽原発が近いのだろう。整然とした人工林による森の深さが、よけいその先に普段隠された世界があることを暗示している。それはいつまでも隔絶されたもののままであるはずだったのに、東日本大震災が根底から覆した。森に近い刈羽駅からも高校生が多数乗車してくる。一様に明るい表情の彼ら達が辛い思いをしないで済む時代がくると良いのだが。
 次の荒浜からは何もなかったように普通の田舎の景色に戻る。いざとなればここも帰宅困難地域となるだろう。特別な区域に指定されている地区はあまりにも狭いのである。車窓に清掃工場が見えてくる。都会では清掃工場ひとつ作るのにも大騒ぎだが、こうしてみると実にかわいいものだ。ここでの炎は人が制御できる普通の炎だ。しかし原子の火は神の炎と同じで人智を超える。あの場所は近寄りがたい神域と同じではないか。
 東柏崎で高校生はみな下車してしまった。左側から信越本線が迫り、巨大な文化会館を右に見ながら電車は終点柏崎に到着した。ようやく有人駅に着いたので、改札印を押してもらえる。事情を話して押してもらおう。それからは無賃乗車ではなくなるのだ。
 (2014/8/7乗車)

2014年6月4日水曜日

気動車王国、常磐路①

アカデミック常磐線

 上野東京ラインの開業が迫っている。東北本線と東海道本線の直通運転は、上野・秋葉原間に代表される混雑解消や品川車両区の土地有効利用という、まさにJR東日本にとって夢のようなプロジェクトだ。もちろん沿線自治体も大きな期待を寄せている。なかでも上野周辺では、横浜方面からの客が望めることから、新宿や池袋における副都心線効果の再来を期待しているようである。
 心中穏やかでないのが常磐線沿線自治体だろう。当初の発表では、特急ひたちの東京駅乗り入れこそアナウンスされたものの、普通電車の乗り入れまでは触れられていなかった。黙っていないのは茨城県で、全列車を横浜まで直行させるよう要求していると、先日のニュースで流された。東北・高崎線方面と横浜とは既に湘南新宿ラインで結ばれているのだから、上野東京ラインは常磐線を優先すべきであるという主張は、実に理にも叶っている。
 しかしおそらく茨城県の主張は通らないだろう。それは常磐線が大切にされていないというような、優劣の問題では決してない。むしろ常磐線は首都圏の他の鉄道に比べて高価な車両を導入している特別な路線なのである(注)。利用者には何の恩恵もないが、製作費のかかる交直両用電車が導入されているために、常磐線電車は横浜へは行けるが、直流専用の東海道線電車は取手から先へは行くことができない。だから、横浜湘南方面に常磐線電車を直通させると茨城県に割ける電車の本数が減ってしまうために、JRは決して定期列車を東京駅より南には行かせないはずである。
 交直両用がどれほど高額かは、つくばエクスプレスの電車も2種類あり、安価な直流電車だけが秋葉原と守谷の間を往復していることからもわかる。

(注)首都圏で大切にされていないのは、むしろ意外にも中央線の方である。世間では中央線はオシャレでJR本社からも大切にされていると考えがちだが、必ずしもそうではない。三鷹・立川間の複々線化はおそらく永遠にないだろうし、未だに普通グリーン車はなく、逆に通勤電車のまま大月まで運転するありさまだ。駅周辺の施設が充実し華やかな反面、中央線で都心へ通う人たちの通勤地獄は解消されていない。今どき気軽にグリーン車が使えないのは首都圏五方面(東海道・中央・高崎宇都宮・常磐・総武)で中央線だけである。

 それにしても直流が中心の首都圏にどうして交流用の電車を走らせているのか。難しい話はわからないが、筑波山の麓に柿岡地磁気観測所があり、電流の流れが一方通行の直流大電流が近くを流れると観測に支障を来すからだそうだ。地磁気の観測? う~む、よくわからないが茨城県はアカデミックだなあ。研究学園都市もあるし、東海村の研究所もあるし(こちらは近年評判が悪いけれど)。とにもかくにも交流だと電気の流れが双方向なので影響がないのだという。だから、常磐線の取手以北、水戸線の小山以東、つくばエクスプレス線の守谷以北は交流電化になっている。オシャレで遊び上手な湘南ボーイのような向きには理解不能な土地、それが茨城県なのだ。

 長い前置きはそろそろ終わりにしよう。問題はJRやつくばエクスプレスのような資金力のある鉄道会社は高額な交流施設が持てるから良いが、ローカル私鉄はどうすればよいのか。御存じのように、地方のJRはほぼ交流で電化するものの、同じ地域を走っているローカル私鉄は大体が首都圏の大手私鉄電車のお古を使っている。ということは直流電車の中古品を使うのがローカル私鉄の大鉄則と言える。茨城県にもローカル私鉄はある。さて、どうする? 気象庁の施設のためなのだから国の補助金がたんまりと出て…などということは全くない。答えは電気を使わないことだった。ここに常磐路に気動車王国が誕生する最大の理由があった。


関東鉄道常総線

 常磐線は東京の日暮里を起点とし、江戸川を渡ると千葉県に、利根川を渡ると茨城県に入る。取手は利根川を渡った茨城県最初の町であり、常総線の起点となっている。常総線の名前の由来は、常陸と上総を結ぶ鉄道という意味である。取手が上総というのは少し違和感があるかもしれないが、そもそも利根川は江戸時代に開削された放水路なので、それ以前は更に北側を流れる小貝川あたりが国境になっていたようである。つまり、現在は茨城県でも当時は上総国だった。こんな歴史が線名に現れていて興味深い。
守谷・新守谷間
 ところで都会の鉄道を見慣れた人には、電化されていない複線の鉄道はなかなか想像できないかもしれない。朝晩のラッシュ時には2両編成で運行されて、最大4両編成で運転されることもある常総線は、実に堂々としたローカル私鉄である。鉄道発祥の国イギリスではごくごく当たり前で、目障りな架線がない分、すっきりとした風景が広がっている。日本では北海道の室蘭本線などで見られるが、なかなかいいものである。
 さて複線区間は取手から水海道までの17.5㎞区間であり、7時台には10本(往復で20本)もの列車が運行されている。つくばエクスプレスが開業してからは、取手から常磐線に乗り換える人が減り、乗降客が一番多いのは守谷駅に移った。日中は1時間あたり4本に減り、3本が水海道折り返し、1本だけが下館行となっていることが多い。守谷折り返しとなることもある。
水海道
 沿線は住宅と畑、雑木林が混在している。つくばエクスプレスが開通してからは、マンションも目立つようになったが、それ以前から新守谷駅付近には新しい住宅街が広がっていた。バブル期に土地の高い都心を嫌って、広々とした宅地を求めて移住してきた人も多い。かなり質の高い住宅街が広がっているのである。この辺りに住む人の中には、パークアンドライドの人や、奥さんに駅まで送り迎えして貰う人も多いと聞く。
水海道から先は単線
 水海道から先33.6㎞は単線となる。三妻では列車交換があり快速守谷行が通過していく。遠くに、宗教法人だろうか、立派な建物が見えるが、この先の石下には豪壮な天守閣があった。なんとも建物が個性的な土地柄である。筑波山が大きく見えるが、一向に近づかない。つまり遠巻きに走っているのだ。保線の具合が良く、空気バネの新型車両でもあるので、単線ながら快適な乗り心地だ。
筑波山
左のピークが男体山、右は女体山。
 下妻は大きな駅だ。いわゆる国鉄型のホーム配置となっていて、列車交換だけではなく、折り返しが出来るよう2面3線構造になっている。大宝を過ぎると起伏のある土地となり果樹園が広がってきた。難読駅の騰波ノ江(とばのえ)を過ぎると、男体山と女体山が重なってひとつとなり、妖艶な雰囲気が漂うと妄想しているのは自分だけかもしれない。黒子でまた交換。単線に単行の気動車が頻繁に走っているが、どれもガラガラである。
 筑波の左側に見えるのは加波山のようである。雑木林を越え、広々とした畑や植木屋が育てる芝の絨毯の脇を通って気動車はコスモスの花が中途半端に広がる大田郷に着いた。密集した農家の村である。余すところあと一駅、乗客4人、運転手1人、保線区員1人を乗せた列車は、右に大きくカーブを切りながらJR水戸線と併走し、終点下館に滑り込んだ。JRの向こう側には真岡鐵道のディーゼルカーが停まっている。このレポートはまたの機会に。
(2009/11/5乗車)


関東鉄道竜ヶ崎線

 常磐線取手を過ぎると藤代の手前で一瞬車内の灯りが消えたり空調が止まったりする。ここがデッドセクションと呼ばれる直流から交流に切り替わる所である。地磁気観測所が近づいたというわけだ。藤代を過ぎ、小貝川を渡ると佐貫に着く。佐貫はウナギで有名な牛久沼のほとりに開けた町である。
竜ヶ崎駅(左奥)

佐貫に向かって出発するキハ2000系
車庫内にキハ532も見える。在籍す
る列車の全てが写っている。    
 竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶわずか4.5㎞の非電化路線だ。途中駅はわずか入地駅のみ。しかも列車の交換施設はなく、1両が行ったり来たりしているだけのミニ路線となっている。佐貫駅も竜ヶ崎駅もすべてが1面1線の片側ホームであり、鉄道模型の入門セットのように素っ気ない。入地駅前後には田圃が広がっている。
 竜ヶ崎線の歴史は古く、明治33年には常磐線佐貫駅と共に開業している。龍ヶ崎の歴史は古く、江戸時代は仙台藩領として米の中継場所でもあり、江戸との繋がりも強かったようだ。竜ヶ崎線は常磐線と連絡することで、この町と東京を今でも結ぶ重要な生活路線となっている。
ジャッキ
 さて、本来なら電化されてもおかしくない路線だが、観測所があるために気動車が活躍している。しかもキハ2000系は1997年に新製されたもので、冷房装置も最初から完備されており、ローカル線らしさはどこにもない。駅改札口にはSuica対応の改札機もあって、常磐線からそのまま龍ヶ崎までやってくることが出来る。気動車が時代遅れだというのは全くの早計であり、学問に貢献するための対応なのだということが実感できる。
軽油スタンド
 竜ヶ崎駅に併設された車両基地には、少ない車両数ながらも整備に対応する様々な施設がある。その一つが、車両を持ち上げるジャッキだ。4つの大きな爪が車両を持ち上げて、床下機器を点検するためのものだ。ジャッキの一つには整備士たちのナッパ服が干してあり、ここが車両整備工場であることを実感する。
 また、気動車特有のものとしては、燃料関係施設がある。列車に燃料ホースとサービススタンドの取り合わせは、やはり珍しい。



(2009/11/5乗車)



気動車王国、常磐路②

今はなき筑波鉄道

筑波駅にて(1981.11.3撮影)

キハ811
 1987年4月1日に廃止された筑波鉄道は、その名の通りかつては筑波山には欠かせない鉄道だった。常磐線の土浦から筑波山麓を巡り、水戸線の岩瀬までの間40.1㎞を結ぶ単線非電化の路線で、全線のほぼ中間に位置する筑波駅から筑波神社前までのわずかな距離をバスが結んでいた。筑波神社の脇から山頂まではケーブルカーを使えば誰でも気軽に行けることもあって、全盛期には多くの観光客が上野からの直通列車でやって来た。手元にある時刻表1972年3月号によれば、快速列車「筑波」は休日のみの運行で上野を8時39分に出発し、途中、松戸・我孫子・取手・佐貫に停車し、土浦には9時55分に着いている。土浦から筑波までは非電化のため、「筑波」は客車列車で運行されていたから、おそらく土浦では機関車の付け替えがなされたのではないだろうか。終点筑波には10時49分着とある。筑波山を歩いて登山するには少々遅い時間のような気もするが、ケーブルを利用する一般の参拝者や観光客にはなかなか便利な列車であった。

DC202機関車(筑波駅にて)
 さて、筑波鉄道は関東鉄道常総線と同じように、常磐線と水戸線を結ぶローカル私鉄なのだが、常総線と比べて東京から遠いため通勤路線としての利用度が低く、また筑波観光自体にマイカーが利用されるようになって、利用客が大幅に減少してしまい、赤字経営が続いた。その結果、奇しくも国鉄解体と同じ日に廃線となってしまったのである。


キハ505
 私がここを訪れたのは廃線の6年前の文化の日、紅葉狩りをしようということでやって来た。東京の木々が色づくにはまだ早いが、同じ関東でも標高の高い筑波では紅葉が進んでいた。この頃すでに上野からの直通列車はなくなっていた。赤字が続いていたこともあって、鄙びたムード満載の鉄道であったという印象である。生憎の天候で、列車の写真写りはたいそう悪いが、無くなってしまった今にして思えば貴重な写真となった。現在廃線跡地はサイクリングロードになっているそうだ。
(1981/11/3乗車)


SLの里で活躍する緑の気動車

真岡駅

建物が蒸気機関車の形になっている。
SLに賭ける意気込みを感じさせる。  
 真岡鐡道に関するクイズを一つ。「真岡」は何とフリガナを振ったら良いのか。
  1)まおか
  2)もうか
  3)もおか
 結構迷われる方も多いのではないか。恥ずかしながら私などはワープロでかな漢字変換をする際に、一発で変換できたためしがない。

 答えは3の「もおか」である。「真」を「も」と読むのはなかなか難しい。しかも車内アナウンスは「もーか」に聞こえるので、ついつい「もうか」と打ってしまうのである。「大通」は「おおどうり」ではなく「おおどおり」。「胴体」は「どおたい」ではなく「どうたい」。「ー」を使わずに延ばす音を表記するのは難しい。なお「真」を「も」と読むのは、二重母音の関係だろう(注)
 (注)日本語は二重母音を嫌い、発音が変わる。アオはオーとなる。
    まおか maoka  → mooka もおか  
  なお、旧国鉄真岡線は「もうか」線と仮名を振った。ところが市名は
 「もおか」なので、それに合わせたという。地域密着型の鉄道会社なら
  ではの配慮である。

下館駅
 さて、真岡鐡道が正しく読み書きできるようになったところで本題に入ろう。今回の話題は人気のSLではなく、乗り尽くしである。水戸線経由でここまでやって来て、下館駅で真岡鐡道の気動車を初めて見た時は、正直びっくりした。なんとまあド派手なデザインなのだろう。一目で新造車両だとわかる列車の塗装は、他に類を見ない斬新なものだった。濃い緑と薄い緑の市松模様、こんな列車は世界中のどこにもない。さらに裾にはオレンジ色の帯が巻かれている。凄いとしか言いようがなかった。
 SLの運行で有名な真岡鐡道だが、普段はどのような列車が走っているかは不覚にも思いが及ばなかった。下館駅では複雑な思いでこの気動車に乗車したが、乗ってしまえば綺麗な車内は快適そのもの。この先の真岡・益子・茂木への旅が楽しみである。
 ところで真岡鐡道の起点下館は、いわゆる平成の大合併で誕生した筑西市の中心駅である。筑波山麓西側にあり、取手からの常総線と水戸線が合流する交通の要衝で、常磐路の西の外れに位置する。しかし真岡線沿線の大半(真岡・益子・茂木)はいずれも栃木県に属していて、厳密には常磐路の鉄道とは言い難いのだが、歴史的にはどうやら宇都宮との繋がりよりも筑西との繋がりが強かった土地のようである。旧国鉄時代に走っていた急行「つくばね」は、その名の通り、上野から常磐線・水戸線を通って下館から茂木へと結んでいた。真岡沿線と宇都宮の間には鬼怒川が流れ、鬼怒川は常総線に沿って南下し、守谷付近で利根川と合流している。つまり常総線と真岡鉄道は、常磐線と東北線ともに、放射状に首都圏と結んでいるのである。
下館行と交換
 列車が久下田に着いたとき、この列車の印象がガラッと変わった。すでに交換列車が待っていたのだが、その車両が周囲の風景にすっかり溶け込んでいるのである。緑豊かな木々の中にこの気動車を置いてみると、まるで迷彩色をまとったかのように、周囲と一体化する。緑のグラデーションの中に、「木々の葉」のような市松模様が散らされているのだから、何の不自然さもなかった。ただ車両が余りに風景に溶け込んでしまうと、接近しても見えづらく危険である。オレンジの帯は、遠くから視認でき、安全に役立っていた。つまり計算され尽くした車両だったのである。
 遠くに里山が低く連なり、田圃の中を列車は走っていく。益子では陶器を求める人々が数多く降りて行った。まばらになった車内では、携帯電話会社の調査員がしきりに電波状態を測定している。時々電波の途絶える場所があるようだ。自分の携帯を見てみると、電波は良好である。ここでも電話会社同士の熾烈な戦いがあるのだなと感じる。
茂木駅

左側に転車台が見える。蒸気機関車
はここで反転し、機回り線を使って、
これまで最後尾だった客車と連結す
る。見ているだけで楽しい場面だ。 
 小高い丘を越えて、一目で道の駅とわかる建物の脇を下ると、終点茂木である。観光で成り立つような町ではない。普通の、ごく普通の、田舎町。暮らしやすそうな町だなと思うと同時に、ここを去れば忘れてしまいそうな町でもある。ホンダのカーレース場「ツインリンクもてぎ」はここから4キロ程先だという。周囲にはゴルフ場もあるらしい。だからと言って、一般客が散策を楽しむような場所ではなく、ここは生活をする場所なのだ。
 ここでの用事はない。このまま帰ろうと思う。昼食は真岡で食べよう。再び真岡鐡道の乗客となって、益子を通り、真岡に着く。ここは鉄道の町である。駅舎だけでなく、真岡鐡道を有名にしているSLや今は使われなくなったディーゼルカーが展示されている。なかでもガラス越しに見える蒸気機関車は、ロッドや車輪が磨き上げられていて、この鉄道会社の心意気が窺えて快い。
C12は展示室を兼ねた車庫の中で
ピカピカに磨き上げられていた。 
 展示に満足しつつ、良い気分で町を少し歩く。お昼は何にしようかと適当な店を探していると、駅から程近いところに「みんみん」の看板が現れた。宇都宮餃子の有名店がここに進出している。餃子でビールも悪くないと思うと同時に、改めてここが栃木県であることと、地域の繋がりが鉄道から自動車に移っていることを実感した瞬間でもあった。
(2010/6/17乗車)